はてなキーワード: ラ・ヨダソウ・スティアーナとは
ンマー結局顔見知りとの付き合いなんて気を使って面倒くさいだけだからね。解消されない限り日本で血縁は減っていくでしょうね。それが日本人の選択か。ラ・ヨダソウ・スティアーナ
『それが世界の選択か』も、ラ・ヨダソウ・スティアーナよりエル・プサイ・コングルゥの方が有名になっちゃったんじゃないの
ストーリーについて語りたがる人ほどストーリーが何かを考えようとしない。
ギャグ漫画やバラエティをストーリーがないものの例として挙げる人がいるのは、感覚的にわかりやすいからなのかも知れない。
演出はストーリーという方向性なしにはできない。逆に、演出されたものにはストーリーがあると考えた方がわかりやすい。
それほどシンプルでわかりやすい定義で、検索でもすればすぐにわかることだ。
世間一般がストーリーという言葉に対してイメージするような大層な意味合いは本来ない。
道徳やメッセージを語り、複雑な展開を重ねてどんでん返しをすることが本質ではないのだ。
こういうことを知らない人はストーリーという単語を調べたことさえないのだろうけど、そんな人がやれストーリーは死んだだの昔から死んでいただのと知ったかぶりしている光景は、大変に痛痒い。
ではなぜ、こんな簡単な定義のものが死んだ死んでないで何度も取り沙汰されるかと言えば、そういう人はストーリーを語りたいのではなく、結局はそれをだしに自分語りをしたいからだ。
増田も要は「僕の考えた最強のストーリー」を求めない世間が悪い論で、「そう思うんならそうなんだろうお前の中ではな」としか言いようがない、時代に置いて行かれた人らしい痛痒い自意識が垂れ流されている。
最後の「まだ未知である」などは、思わず「ラ・ヨダソウ・スティアーナ」と書き加えたくなる味わいだ。
同じ人間が繰り返し同じような増田を書いていると見る人もいるが、ネットでストーリーとはなんぞやと語りたがる人間は増田と大差なく、知ったかぶりで謎のマウントをかまそうとする人がほとんどだ。
はてブにもそういう人がいるのが微笑ましい。
もしかしたら記事自体は同じ増田が何度も投稿しているのかも知れないが、「ストーリーが必要とされていない」系の主張をする人間は星の数ほどいて、珍妙な演説をしているのはよくある光景だ。
それがさらに再生産されてストーリーの死を嘆く人が増えていたりもするのかも知れないが、そんなに語りたい題材ならば、まず単語の意味くらいは調べようね、と思う。