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はてなキーワード: サイレンとは

2020-05-21

都心 救急車の往来が減っているけど

東京の大動脈的な道路の近くに住んでいる


数日前まで救急車サイレンが1日中鳴り響いていたけど、


ここ数日明らかに減っている


これは病人が減ったからなのか、それとも救急を受け付ける量を減らしたのか、

何も情報が無い



正確な情報がまるで入ってこないから、不安にさせられる

2020-05-20

ED治療薬服用日記

今朝久しぶりにED治療日記を投げる。これまでも定期的に服用してたし、妻との夜の営みもしていた。しかし昨晩は凄い面白いことがあったので投げさせてほしい。お薬の服用は夜8時前。晩ご飯はすぐに始まったが酒やみそ汁を飲んで時間稼ぎ。半時間くらい経過するのを待った。子どもの寝かしつけは10時前に終了。そのあとテレビを一緒に見た。11時半くらいかな?寝室に入って妻の体を触り始めた。両手で秘所を刺激続けてたら妻が良い感じに仕上がったってきた。ちゃんと硬くなったイチモツを刺し、クリっを触ったら、ケイレンした。ピーポー言うのはサイレンだけど、こちらはガクンガクンとなってケイレン。挿入直後にケイレンさせるのが好きだ。ケイレン動画を見ることがあったが、そこでもピーク時には指を助成金差し込んでいた。女にはなったことがないが、おそらくケイレン時指よりも太いものが刺さってる方が快感倍増するはずだ。快感オーバーシュートだ!!

2020-05-14

どこももう終わったことみたいに言ってるけど

自分都内病院の側に住んでて今も鳴り止まない救急車サイレンをずっと聞いてるから

罹患しても十分な医療が受けられるとは限らない苦しい状況が変わらないことは想像させられるし

まだ終わりじゃないって感覚は今もあるんだよな

からといっていつまでも厳戒態勢を続けるのが合理的ではないことは理性ではわかっていて

人間も実感に振り回される生き物なんだよなと思う

2020-05-13

今日10人?!

ほんとか??今日だけで近所は4回の救急車サイレン。この数は、多いほうだともう。

飲み屋酔っ払いが無いなら尚更不自然

自殺者?別の病気

今日10人?!

ほんとか??今日だけで近所は4回の救急車サイレン。この数は、多いほうだともう。

飲み屋酔っ払いが無いなら尚更不自然

自殺者?別の病気

anond:20200513063138

なるほどなあ。

やっぱり商品券みたいなのは、ここまで切迫してるものだと難しいのか。

まぁ、期限付きのほうがいいとは思うのは継続して主張するが。

ちなみに、

一昨日、昨日、やたら救急車サイレン増えてたけれど、コロナ感染者数はさほど増えてない。ということで、そろそろ自殺者が増えてきてるのかも、と思った。

2020-05-08

犬や猫を可愛いと思ったことがない

犬や猫に近づくにつれ頭の中のサイレンが大きくなる。僕は今まで一度も犬や猫を可愛いと思ったことがない。そもそも可愛いかどうかを考えたことがなかった。理由は単純で、人間じゃないから。見れば見る程、人間じゃない。「耳そこにあんの?」「顔面毛だらけじゃん」と、一度考え始めると止まらない。僕の基準では人間フォルムが最も美しいものであり、それから少しでも外れたら、例えゴキブリであってもカラスであってもみな等しく、対象外になる。測定不能可愛いかどうかを考える発想すら出てこない。そもそも言葉を喋れる動物人間だけって言うのがおかしい。人間でも、ずっと黙ったままで何を考えてるか分からない人は不気味なのに、人間以外の生き物がそんな真似をしたら、もうこっちは距離を取るしかない。尻尾感情表現するんだよと言われても、知らない。「喋れよ」って思う。全国の飼い主達に、本当に自分の飼ってる犬や猫の気持ちが分かるんですかと問いたい。もしかしたらエサを与えてる時も、心の中では「地べたに食いもん置いてんじゃねえよ汚えな」とか、「なんで俺が食うと"餌"で、お前らが食うと"飯"なんだよおかしいだろ」とか思ってるかもしれない。動物と心が通じ合える人は、アニメの中だけの話だし、もしリアルで会ったら、それはちょっとした宗教だと思う。死人に口無しと同じで、ただ単に自分の都合の良い解釈をしているだけなんじゃないかと思う。僕の考えでは、犬や猫を可愛いと言って首元をワシャワシャ出来る人は、余裕があるから出来るんだと思う。余裕があるからナチュラルに犬や猫は自分より下の生き物だと自覚しているから、首元をワシャワシャ出来るのだと。強者の余裕。絶対ペットとご主人様の立場が逆転しないという余裕。だからあんなに近い距離で触れ合えるんだと思う。僕は、映画猿の惑星」を見た後に猿の赤ん坊を見ても素直に「可愛い」と言えない。犬や猫も一緒で、人間と違う生き物はみな平等に生きているんだなと思うし、野良猫を見かけた時は「頑張れ」と思う。「可愛い」なんて思ってしまったら、死ぬまで面倒を見なきゃいけないんじゃないかという義務感におそわれる。人間じゃないからこそ、見て見ぬ振りが出来る。僕が優しくするのは人間までだ。犬や猫は、結局、犬や猫だ。

2020-05-03

あーあ、コロナ変異原性が高かったらな

致死率はもっと低い代わりに感染性と薬剤耐性が今以上に強力

そんな感じのウイルスだったらなー

二歩くらい間違ったヒロアカや、サイレンSIRENでもPSYRENでも)の世界みたいな

異形が跋扈する世界になっていたかもしれないのになー

そっちの世界の方が面白そうなんだよなー

2020-05-01

今日、入水自殺対応をした話

今日、入水自殺をしたひとへの対応をしたときのことを記す。主に自分気持ち落ち着けるためだ。

できごと

・もろもろ所用を済ませて17時過ぎに家に帰る。かなりよいことがあったのでうきうきの気分だった。

・ふだんradikoを聞いてるのでこのときも聞いてた。

・前を歩いてた人が橋の途中で何度も下を見るので「なんか珍しい鳥でもいるか、話好きのひとか?」と思ってイヤフォンを外して話しかけると下に人がいるという。

・プカプカ浮いている男性がいる。手足は動いている。なんかダイバー仕事かな?と思いつつ、大きな声で大丈夫ですか!って聞く。返事があるけど聞き取れない。

・前を歩いてた人がやばそうな顔をしてたので110番する、…体感時間で1分ほど話したが119に誘導されて電話する。

・この時点で自殺をしようとしたひとの顔が水面から見えたり、見えなくなったりする。

・私は水泳経験があるので助けられると思ったが、119のひとに止められる。

・思ったよりすぐ救急車消防車がく、る、ような気がしたけどサイレンの音はすれども遅く感じる。

・もう顔は水面から見えない。

消防隊到着、水面から見えなくなってから時間を伝えるとわかりましたと返答。

警察官に連絡先や状況を伝える。ちょっと待っててと言われる。職業を聞かれるのがすこし不愉快

自殺をしようとしてたひとが引き上げられる。

警察に帰っていいか聞いていいよと言われる。

・入水自殺したひとがいたと教えてくれたひとにお礼とこれがベストだったのではないかと話し込む。

かえる。やたらと酒と金目鯛の刺身無駄にかって帰る。

・以上

わかったこと。

意外と冷静に対応できない。

思ったこと。

あのひとは本当に死にたかったんだろうか。すこしプカプカ浮いてたのは死ぬことを後悔したのではないだろうか、と考えてる。

コロナの影響か救急車サイレン聞く頻度激増した。でも、パトカーサイレンを聞く頻度も激増したのは解せない。

そしてそのパトカーサイレンは突然ウオ~ンって鳴ってスピーカーの呼びかけを伴い10秒そこらで鳴り止む類のやつ。

なんでコロナで取り締まり増えてんの?

2020-04-29

anond:20200429185635

実際のところは知らない。耳で聞くだけの台数

最初自分も違うと思ったけれど、新規感染者数とサイレンの数が比例してると思っただけ。

専用の救急車なのかもしれないけれど、三台同時に鳴ってたのは、これまで無かった。

救急車の出動回数

東京某区、200人近い感染者数を出した日は、一日中サイレンが鳴っていたけれど、ココ数日新感染者数が100以下に鳴ってからは、1日に数回程度に落ち着き始めた。

本当に数が落ち始めてるのかもしれないし、きちんと企業が出社禁止にし始めた効果かもしれないし、高齢者に影響力ある死人が出たか高齢者が外出しなくなったのかもしれない(周辺では高齢者の出歩き率が半分近かった)。

新規感染者数が0になって二週間続けば 、その地域からは居なくなったと言えるからゴールデンウィーク頑張って0になれば、宣言解除の動きも現実的になってくるんじゃないかな。

2020-04-22

anond:20200422074139

コロナ以降で増えた気がする

この間、三台サイレン重なって、ウンザリ倍増

2020-04-19

医療崩壊は防げたのか

政府がよくやってるとは思わない。

豪華客船への対応、お肉券にお魚券に旅行券、突然の休校要請、かと思いきやなかなか出さな緊急事態宣言10万円配る配らないのゴタゴタ、そして虫入りマスク

政府がよくやってるとは全く思わない。

しかしそれを一旦於いてみたとしても、果たしてこの何ヶ月かで医療崩壊は防げたのか?

そもそもの、5年計画の病床削減。

足掛け5年という長期計画で病床を削って来たという時点で、今回医療崩壊することはもはや避けがたかったのでは?

高齢化を見据えてカネのかかる高度急性期及び急性期病棟を削り、ついでに療養病棟も絞って医療費削減を、というのがコロナ前までの地域医療構想であり、病床再編計画だった。合理的妥当性があると判断された方針だった。

誰もこんなことになると思っていなかった。

いや、たぶん専門家は「こうなったらどうする」という警鐘を鳴らし続けていたはずだが、それを聞いた上で、「そうなったらその時だ」式に、目の前の高齢化に備える選択を取ってきたのだ。

まり普通に賭けに出て、負けた。それだけだ。

東京都23区内某所在住だが、ここのところ毎日救急車サイレンを聞いている。

毎日必ず最低1回。朝も昼も夜も聞く日もある。早朝、深夜、関係なしに。

現に今も鳴っている。

たらい回しの立ち往生なんだろうなあ、と思う。

せめて医療マスクとか感染制御アイテムはさっさと増産したれや、と強く思う。

あと肉の壁になってる方々、マジで逃げた方がいいよって言いたいけど、もう今更逃げ場もないだろって言われたらそうかもねとしか返せないので言えない。

頑張れる範囲で、頑張ってください。

元肉の壁より。

2020-03-26

「ああ、上京したんだな」と一番実感したこと

上京してから毎日消防車救急車パトカーのどれかを見かけたとき

実家は超田舎だったから、月に1回どれかのサイレンを聞くかどうか。

あほどんど救急車高齢者が多いからね。

子供ときサイレンが聞こえたら車両が見えるかも!って2階の窓からギリギリ見える国道を眺めてた。

2020-03-24

お金:平均年収よりはなんとか多い程度に稼いでるから大丈夫だよ

子供:居てもいいけど居なくても別にいいよ

家事自分で全部できるよ

料理:むしろ得意だよ

話し相手:週1で友達と会ったり通話したりしてるし大丈夫だよ


現状これなんだけど、こうなって来ると彼女が欲しい理由が「彼女という肩書人間を持つことで他の人間マウント取りたい」「ヤリたい」以外思いつかない

でもこれ言うとミソジニー警察ミソジニーだあああああってジャッジメントしてくるし、なんなら上に上げたやつもわりかし警察サイレン鳴らして飛んでくるよね

世のカップルはどんな高尚な理由ミソジニーミサンドリー警察が納得する恋愛をしてるのだろう

2020-03-18

こわい

さっきからずっと消防車サイレン凄い。いつまでたっても遠くならない。多分数ブロック先。

ベランダに出て見てみるのも怖い

2020-03-17

サイレンシアより有能な耳栓ある?

moldexは今度試してみようと思ってる。

上階の騒音睡眠不足だったけど今のところ効果あり。

2020-02-25

翳(原民喜

センター試験話題になったけど、全文読めるところが見つからなかったので)

底本:原民喜戦後小説 下(講談社文芸文庫1995年8月10日第1刷発行

     I

 私が魯迅の「孤独者」を読んだのは、一九三六年の夏のことであったが、あのなかの葬いの場面が不思議に心を離れなかった。不思議だといえば、あの本——岩波文庫魯迅選集——に掲載してある作者の肖像が、まだ強く心に蟠(わだかま)るのであった。何ともいい知れぬ暗黒を予想さす年ではあったが、どこからともなく惻々として心に迫るものがあった。その夏がほぼ終ろうとする頃、残暑の火照りが漸く降りはじめた雨でかき消されてゆく、とある夜明け、私は茫とした状態で蚊帳のなかで目が覚めた。茫と目が覚めている私は、その時とらえどころのない、しかし、かなり烈しい自責を感じた。泳ぐような身振りで蚊帳の裾をくぐると、足許に匐っている薄暗い空気を手探りながら、向側に吊してある蚊帳の方へ、何か絶望的な、愬(うった)えごとをもって、私はふらふらと近づいて行った。すると、向側の蚊帳の中には、誰だか、はっきりしない人物が深い沈黙に鎖されたまま横わっている。その誰だか、はっきりしない黒い影は、夢が覚めてから後、私の老い母親のように思えたり、魯迅の姿のように想えたりするのだった。この夢をみた翌日、私の郷里からハハキトクの電報が来た。それから魯迅の死を新聞で知ったのは恰度亡母の四十九忌の頃であった。

 その頃から私はひどく意気銷沈して、落日の巷を行くの概(おもむき)があったし、ふと己の胸中に「孤独者」の嘲笑を見出すこともあったが、激変してゆく周囲のどこかにもっと切実な「孤独者」が潜んでいはすまいかと、窃(ひそ)かに考えるようになった。私に最初孤独者」の話をしかけたのは、岩井繁雄であった。もしかすると、彼もやはり「孤独者」であったのかもしれない。

 彼と最初に出逢ったのは、その前の年の秋で、ある文学研究会の席上はじめてSから紹介されたのである。その夜の研究会は、古びたビルの一室で、しめやかに行われたのだが、まことにそこの空気に応(ふさ)わしいような、それでいて、いかにも研究会などにはあきあきしているような、独特の顔つきの痩形長身青年が、はじめから終りまで、何度も席を離れたり戻って来たりするのであった。それが主催者の長広幸人であるらしいことは、はじめから想像できたが、会が終るとSも岩井繁雄も、その男に対って何か二こと三こと挨拶して引上げて行くのであった。さて、長広幸人の重々しい印象にひきかえて、岩井繁雄はいかにも伸々した、明快卒直な青年であった。長い間、未決にいて漸く執行猶予最近釈放された彼は、娑婆に出て来たことが、何よりもまず愉快でたまらないらしく、それに文学上の抱負も、これから展望されようとする青春とともに大きかった。

 岩井繁雄と私とは年齢は十歳も隔たってはいたが、折からパラつく時雨をついて、自動車を駆り、遅くまでSと三人で巷を呑み歩いたものであった。彼はSと私の両方に、絶えず文学の話を話掛けた。極く初歩的な問題から再出発する気組で——文章が粗雑だと、ある女流作家から注意されたので——今は志賀直哉のものノートし、まず文体研究をしているのだと、そういうことまで卒直に打明けるのであった。その夜の岩井繁雄はとにかく愉快そうな存在だったが、帰りの自動車の中で彼は私の方へ身を屈めながら、魯迅の「孤独者」を読んでいるかと訊ねた。私がまだ読んでいないと答えると話はそれきりになったが、ふとその時「孤独者」という題名で私は何となくその夜はじめて見た長広幸人のことが頭に閃いたのだった。

 それから夜更の客も既に杜絶えたおでん屋の片隅で、あまり酒の飲めない彼は、ただその場の空気に酔っぱらったような、何か溢れるような顔つきで、——やはり何が一番愉しかったといっても、高校時代ほど生き甲斐のあったことはない、と、ひどく感慨にふけりだした。

 私が二度目の岩井繁雄と逢ったのは一九三七年の春で、その時私と私の妻は上京して暫く友人の家に滞在していたが、やはりSを通じて二三度彼と出逢ったのである。彼はその時、新聞記者になったばかりであった。が、相変らず溢れるばかりのもの顔面に湛えて、すくすくと伸び上って行こうとする姿勢で、社会部入社したばかりの岩井繁雄はすっかりその職業が気に入っているらしかった。恰度その頃紙面を賑わした、結婚直前に轢死(れきし)を遂げた花婿の事件があったが、それについて、岩井繁雄は、「あの主人公は実はそのアルマンスだよ」と語り、「それに面白いのは花婿の写真がどうしても手に入らないのだ」と、今もまだその写真を追求しているような顔つきであった。そうして、話の途中で手帳を繰り予定を書込んだり、何か行動に急きたてられているようなところがあった。かと思うと、私の妻に「一たい今頃所帯を持つとしたら、どれ位費用がかかるものでしょうか」と質問し、愛人が出来たことを愉しげに告白するのであった。いや、そればかりではない、もしかすると、その愛人同棲した暁には、染料の会社設立し、重役になるかもしれないと、とりとめもない抱負も語るのであった。二三度逢ったばかりで、私の妻が岩井繁雄の頼もしい人柄に惹きつけられたことは云うまでもない。私の妻はしばしば彼のことを口にし、たとえば、混みあうバスの乗降りにしても、岩井繁雄なら器用に婦人を助けることができるなどというのであった。私もまた時折彼の噂は聞いた。が、私たちはその後岩井繁雄とは遂に逢うことがなかったのである

 日華事変が勃発すると、まず岩井繁雄は巣鴨駅の構内で、筆舌に絶する光景を目撃したという、そんな断片的な噂が私のところにも聞えてきて、それから間もなく彼は召集されたのである。既にその頃、愛人と同居していた岩井繁雄は補充兵として留守隊で訓練されていたが、やがて除隊になると再び愛人の許に戻って来た。ところが、翌年また召集がかかり、その儘前線派遣されたのであった。ある日、私がSの許に立寄ると、Sは新聞第一面、つまり雑誌新刊書の広告が一杯掲載してある面だけを集めて、それを岩井繁雄の処へ送るのだと云って、「家内に何度依頼しても送ってくれないそうだから僕が引うけたのだ」とSは説明した。その説明は何か、しかし、暗然たるものを含んでいた。岩井繁雄が巣鴨駅で目撃した言語に絶する光景とはどんなことなのか私には詳しくは判らなかったが、とにかく、ぞっとするようなものがいたるところに感じられる時節であった。ある日、私の妻は小学校の講堂で傷病兵慰問の会を見に行って来ると、頻りに面白そうに余興のことなど語っていたが、その晩、わあわあと泣きだした。昼間は笑いながら見ものが、夢のなかでは堪らなく悲しいのだという。ある朝も、——それは青葉と雨の鬱陶しい空気が家のうちまで重苦しく立籠っている頃であったが——まだ目の覚めきらない顔にぞっとしたものを浮べて、「岩井さんが還って来た夢をみた。痩せて今にも斃れそうな真青な姿でした」と語る。妻はなおその夢の行衛を追うが如く、脅えた目を見すえていたが、「もしかすると、岩井さんはほんとに死ぬるのではないかしら」と嘆息をついた。それは私の妻が発病する前のことで、病的に鋭敏になった神経の前触れでもあったが、しかしこの夢は正夢であった。それから二三ヵ月して、岩井繁雄の死を私はSからきいた。戦地にやられると間もなく、彼は肺を犯され、一兵卒にすぎない彼は野戦病院殆ど碌に看護も受けないで死に晒されたのであった。

 岩井繁雄の内縁の妻は彼が戦地へ行った頃から新しい愛人をつくっていたそうだが、やがて恩賜金を受取るとさっさと老母を見捨てて岩井のところを立去ったのである。その後、岩井繁雄の知人の間では遺稿集——書簡は非常に面白いそうだ——を出す計画もあった。彼の文章が粗雑だと指摘した女流作家に、岩井繁雄は最初結婚を申込んだことがある。——そういうことも後になって誰かからきかされた。

 たった一度見たばかりの長広幸人の風貌が、何か私に重々しい印象を与えていたことは既に述べた。一九三五年の秋以後、遂に私は彼を見る機会がなかった。が、時に雑誌掲載される短かいものを読んだこともあるし、彼に対するそれとない関心は持続されていた。岩井繁雄が最初召集を受けると、長広幸人は倉皇と満洲へ赴いた。当時は満洲へ行って官吏になりさえすれば、召集免除になるということであった。それから間もなく、長広幸人は新京文化方面役人になっているということをきいた。あの沈鬱なポーズ役人の服を着ても身に着くだろうと私は想像していた。それから暫く彼の消息はきかなかったが、岩井繁雄が戦病死した頃、長広幸人は結婚をしたということであった。それからまた暫く彼の消息はきかなかったが、長広幸人は北支で転地療法をしているということであった。そして、一九四二年、長広幸人は死んだ。

 既に内地にいた頃から長広幸人は呼吸器を犯されていたらしかったが、病気の身で結婚生活飛込んだのだった。ところが、その相手資産目あての結婚であったため、死後彼のものは洗い浚(ざら)い里方に持って行かれたという。一身上のことは努めて隠蔽する癖のある、長広幸人について、私はこれだけしか知らないのである

     II

 私は一九四四年の秋に妻を喪ったが、ごく少数の知己へ送った死亡通知のほかに満洲にいる魚芳へも端書を差出しておいた。妻を喪った私は悔み状が来るたびに、丁寧に読み返し仏壇ほとりに供えておいた。紋切型の悔み状であっても、それにはそれでまた喪にいるものの心を鎮めてくれるものがあった。本土空襲も漸く切迫しかかった頃のことで、出した死亡通知に何の返事も来ないものもあった。出した筈の通知にまだ返信が来ないという些細なことも、私にとっては時折気に掛るのであったが、妻の死を知って、ほんとうに悲しみを頒ってくれるだろうとおもえた川瀬成吉からもどうしたものか、何の返事もなかった。

 私は妻の遺骨を郷里墓地に納めると、再び棲みなれた千葉借家に立帰り、そこで四十九日を迎えた。輸送船の船長をしていた妻の義兄が台湾沖で沈んだということをきいたのもその頃であるサイレンはもう頻々と鳴り唸っていた。そうした、暗い、望みのない明け暮れにも、私は凝と蹲ったまま、妻と一緒にすごした月日を回想することが多かった。その年も暮れようとする、底冷えの重苦しい、曇った朝、一通の封書が私のところに舞込んだ。差出人は新潟県××郡××村×川瀬丈吉となっている。一目見て、魚芳の父親らしいことが分ったが、何気なく封を切ると、内味まで父親の筆跡で、息子の死を通知して来たものであった。私が満洲にいるとばかり思っていた川瀬成吉は、私の妻より五ヵ月前に既にこの世を去っていたのである

 私がはじめて魚芳を見たのは十二年前のことで、私達が千葉借家へ移った時のことである私たちがそこへ越した、その日、彼は早速顔をのぞけ、それから殆ど毎日註文を取りに立寄った。大概朝のうち註文を取ってまわり、夕方自転車で魚を配達するのであったが、どうかすると何かの都合で、日に二三度顔を現わすこともあった。そういう時も彼は気軽に一里あまりの路を自転車で何度も往復した。私の妻は毎日顔を逢わせているので、時々、彼のことを私に語るのであったが、まだ私は何の興味も関心も持たなかったし、殆ど碌に顔も知っていなかった。

 私がほんとうに魚芳の小僧を見たのは、それから一年後のことと云っていい。ある日、私達は隣家の細君と一緒にブラブラ千葉海岸の方へ散歩していた。すると、向の青々とした草原の径をゴム長靴をひきずり、自転車を脇に押しやりながら、ぶらぶらやって来る青年があった。私達の姿を認めると、いかにも懐しげに帽子をとって、挨拶をした。

「魚芳さんはこの辺までやって来るの」と隣家の細君は訊ねた。

「ハア」と彼はこの一寸した逢遭を、いかにも愉しげにニコニコしているのであった。やがて、彼の姿が遠ざかって行くと、隣家の細君は、

「ほんとに、あの人は顔だけ見たら、まるで良家のお坊ちゃんのようですね」と嘆じた。その頃から私はかすかに魚芳に興味を持つようになっていた。

 その頃——と云っても隣家の細君が魚芳をほめた時から、もう一年は隔っていたが、——私の家に宿なし犬が居ついて、表の露次でいつも寝そべっていた。褐色の毛並をした、その懶惰な雌犬は魚芳のゴム靴の音をきくと、のそのそと立上って、鼻さきを持上げながら自転車の後について歩く。何となく魚芳はその犬に対しても愛嬌を示すような身振であった。彼がやって来ると、この露次は急に賑やかになり、細君や子供たちが一頻り陽気に騒ぐのであったが、ふと、その騒ぎも少し鎮まった頃、窓の方から向を見ると、魚芳は木箱の中から魚の頭を取出して犬に与えているのであった。そこへ、もう一人雑魚(ざこ)売りの爺さんが天秤棒を担いでやって来る。魚芳のおとなしい物腰に対して、この爺さんの方は威勢のいい商人であった。そうするとまた露次は賑やかになり、爺さんの忙しげな庖丁の音や、魚芳の滑らかな声が暫くつづくのであった。——こうした、のんびりした情景はほとんど毎日繰返されていたし、ずっと続いてゆくもののようにおもわれた。だが、日華事変の頃から少しずつ変って行くのであった。

 私の家は露次の方から三尺幅の空地を廻ると、台所に行かれるようになっていたが、そして、台所の前にもやはり三尺幅の空地があったが、そこへ毎日八百屋、魚芳をはじめ、いろんな御用聞がやって来る。台所の障子一重を隔てた六畳が私の書斎になっていたので、御用聞と妻との話すことは手にとるように聞える。私はぼんやりと彼等の会話に耳をかたむけることがあった。ある日も、それは南風が吹き荒んでものを考えるには明るすぎる、散漫な午後であったが、米屋小僧と魚芳と妻との三人が台所で賑やかに談笑していた。そのうちに彼等の話題は教練のことに移って行った。二人とも青年訓練所へ通っているらしく、その台所前の狭い空地で、魚芳たちは「になえつつ」の姿勢を実演して興じ合っているのであった。二人とも来年入営する筈であったので、兵隊姿勢を身につけようとして陽気に騒ぎ合っているのだ。その恰好おかしいので私の妻は笑いこけていた。だが、何か笑いきれないものが、目に見えないところに残されているようでもあった。台所へ姿を現していた御用聞のうちでは、八百屋がまず召集され、つづいて雑貨屋小僧が、これは海軍志願兵になって行ってしまった。それから豆腐屋の若衆がある日、赤襷をして、台所に立寄り忙しげに別れを告げて行った。

 目に見えない憂鬱の影はだんだん濃くなっていたようだ。が、魚芳は相変らず元気で小豆(こまめ)に立働いた。妻が私の着古しのシャツなどを与えると、大喜びで彼はそんなものも早速身に着けるのであった。朝は暗いうちから市場へ行き、夜は皆が寝静まる時まで板場で働く、そんな内幕も妻に語るようになった。料理の骨(こつ)が憶えたくて堪らないので、教えを乞うと、親方は庖丁を使いながら彼の方を見やり、「黙って見ていろ」と、ただ、そう呟くのだそうだ。鞠躬如(きっきゅうじょ)として勤勉に立働く魚芳は、もしかすると、そこの家の養子にされるのではあるまいか、と私の妻は臆測もした。ある時も魚芳は私の妻に、——あなたそっくり写真がありますよ。それが主人のかみさんの妹なのですが、と大発見をしたように告げるのであった。

 冬になると、魚芳は鵯(ひよどり)を持って来て呉れた。彼の店の裏に畑があって、そこへ毎朝沢山小鳥が集まるので、釣針に蚯蚓(みみず)を附けたものを木の枝に吊しておくと、小鳥簡単に獲れる。餌は前の晩しつらえておくと、霜の朝、小鳥は木の枝に動かなくなっている——この手柄話を妻はひどく面白がったし、私も好きな小鳥が食べられるので喜んだ。すると、魚芳は殆ど毎日小鳥を獲ってはせっせと私のところへ持って来る。夕方になると台所に彼の弾んだ声がきこえるのだった。——この頃が彼にとっては一番愉しかった時代かもしれない。その後戦地へ赴いた彼に妻が思い出を書いてやると、「帰って来たら又幾羽でも鵯鳥を獲って差上げます」と何かまだ弾む気持をつたえるような返事であった。

 翌年春、魚芳は入営し、やがて満洲の方から便りを寄越すようになった。その年の秋から私の妻は発病し療養生活を送るようになったが、妻は枕頭で女中を指図して慰問の小包を作らせ魚芳に送ったりした。温かそうな毛の帽子を着た軍服姿の写真満洲から送って来た。きっと魚芳はみんなに可愛がられているに違いない。炊事も出来るし、あの気性では誰からも重宝がられるだろう、と妻は時折噂をした。妻の病気は二年三年と長びいていたが、そのうちに、魚芳は北支から便りを寄越すようになった。もう程なく除隊になるから帰ったらよろしくお願いする、とあった。魚芳はまた帰って来て魚屋が出来ると思っているのかしら……と病妻は心細げに嘆息した。一しきり台所を賑わしていた御用聞きたちの和やかな声ももう聞かれなかったし、世の中はいよいよ兇悪な貌を露出している頃であった。千葉名産の蛤の缶詰を送ってやると、大喜びで、千葉へ帰って来る日をたのしみにしている礼状が来た。年の暮、新潟の方から梨の箱が届いた。差出人は川瀬成吉とあった。それから間もなく除隊になった挨拶状が届いた。魚芳が千葉へ訪れて来たのは、その翌年であった。

 その頃女中を傭えなかったので、妻は寝たり起きたりの身体台所をやっていたが、ある日、台所の裏口へ軍服姿の川瀬成吉がふらりと現れたのだった。彼はきちんと立ったまま、ニコニコしていた。久振りではあるし、私も頻りに上ってゆっくりして行けとすすめたのだが、彼はかしこまったまま、台所のところの閾から一歩も内へ這入ろうとしないのであった。「何になったの」と、軍隊のことはよく分らない私達が訊ねると、「兵長になりました」と嬉しげに応え、これからまだ魚芳へ行くのだからと、倉皇として立去ったのである

 そして、それきり彼は訪ねて来なかった。あれほど千葉へ帰る日をたのしみにしていた彼はそれから間もなく満洲の方へ行ってしまった。だが、私は彼が千葉を立去る前に街の歯医者でちらとその姿を見たのであった。恰度私がそこで順番を待っていると、後から入って来た軍服青年歯医者挨拶をした。「ほう、立派になったね」と老人の医者は懐しげに肯いた。やがて、私が治療室の方へ行きそこの椅子に腰を下すと、間もなく、後からやって来たその青年助手の方の椅子に腰を下した。「これは仮りにこうしておきますから、また郷里の方でゆっくりお治しなさい」その青年の手当はすぐ終ったらしく、助手は「川瀬成吉さんでしたね」と、机のところのカードに彼の名を記入する様子であった。それまで何となく重苦しい気分に沈んでいた私はその名をきいて、はっとしたが、その時にはもう彼は階段を降りてゆくところだった。

 それから二三ヵ月して、新京の方から便りが来た。川瀬成吉は満洲吏員就職したらしかった。あれほど内地を恋しがっていた魚芳も、一度帰ってみて、すっかり失望してしまったのであろう。私の妻は日々に募ってゆく生活難を書いてやった。すると満洲から返事が来た。「大根一本が五十銭、内地の暮しは何のことやらわかりません。おそろしいことですね」——こんな一節があった。しかしこれが最後消息であった。その後私の妻の病気悪化し、もう手紙を認(したた)めることも出来なかったが、満洲の方からも音沙汰なかった。

 その文面によれば、彼は死ぬる一週間前に郷里に辿りついているのである。「兼て彼の地に於て病を得、五月一日帰郷、五月八日、永眠仕候」と、その手紙は悲痛を押つぶすような調子ではあるが、それだけに、佗しいものの姿が、一そう大きく浮び上って来る。

 あんな気性では皆から可愛がられるだろうと、よく妻は云っていたが、善良なだけに、彼は周囲から過重な仕事を押つけられ、悪い環境機構の中を堪え忍んで行ったのではあるまいか親方から庖丁の使い方は教えて貰えなくても、辛棒した魚芳、久振りに訪ねて来ても、台所の閾から奥へは遠慮して這入ろうともしない魚芳。郷里から軍服を着て千葉を訪れ、晴れがましく顧客歯医者で手当してもらう青年。そして、遂に病躯をかかえ、とぼとぼと遠国から帰って来る男。……ぎりぎりのところまで堪えて、郷里に死にに還った男。私は何となしに、また魯迅作品の暗い翳を思い浮べるのであった。

 終戦後、私は郷里にただ死にに帰って行くらしい疲れはてた青年の姿を再三、汽車の中で見かけることがあった。……

2020-02-23

anond:20200223173650

国立私立に関わらず、女子工学部進むのは、生理以前にトイレとか、大変そう。

この間バイトした私立大学では、女子トイレ女子更衣室前にサイレンがあった。防犯用でしょうね。古い国立大だと、10年前までは、男の人が女子トイレ掃除をしていて、教授秘書さんがメッチャ愚痴をいってた。「私立ではありえない」って。更に、保守的だと、男子トイレの中にある大便用の個室の上に金網があって、それが女子用になっていた。

(また、LGBT女性(?)とか、もっと悲惨だろうなぁと。。)

  

就職先を見据えて、SPIなのか、面接対策なのか分からないが、がんばって下さいとしか言えない。

2020-02-19

2013年8月26日日記

なんだか眠れないから昔の日記を書く。

2013年8月26日

当時私は派遣仕事をしてて、毎日いろんな勤務地に行ってた

朝は千葉、夜は横浜みたいな日もあるのに、移動時間は時給が出なくてキツかった

でも凄くやりがいを感じていて、辛かったけど毎日しかったしその仕事が本当に大好きだった

振り返れば完全に洗脳されてたけど、その時のことはみんないい思い出だと今でも思う

その日の勤務地は山梨で泊まりだと前の週に言われた

さすがに驚いたけど洗脳されてるから「仕方ないな」って遠方手当ての1000円握り締めて長距離バスに乗った

したことない先輩と2人で

夕方遅く駅に着いたらなんだか駅前は混雑していた

勤務地までは車で20分くらいのところで、交通手段が他にないのでタクシーを使っていいと事務所から言われていた

これは滅多にないこと

先輩とタクシーに乗り込み場所を伝えると

「あ〜、そこには行けないな、今日祭りから道路が塞がってる」といわれた

今思えばよくわからないけど、

とにかく車ではそこにいけないと言われた

えー、どうするんだろ、とか他人事みたいに先輩と運転手のやりとりを聞いていたら、先輩がこちらを向いて

「仕方ないから走りますよ、時間がないから早く」

と言った

私も洗脳されてるから「ですね」とすぐ車を出た

駅の近くに凄く長い坂道があって、その両脇に出店が並んでる

ここが件の通れない道路らしい

道路の真ん中に点々とキャンプファイアーみたいな火がともってて、

褌の男の人たちがなにやら騒いでた

浴衣女の子や楽しそうな親子連れ太鼓の音と燃える火が幻想的だった

その長い坂道を人の隙間を縫って全力で走った、スーツパンプス

辛かった…

私たちなにやってんだろ!?」って一瞬洗脳が解けた先輩が笑い出して、2人で笑いながら走った

祭りを抜けて、更に随分歩いてほとんど森みたいなところに入る

それより先はGoogleマップにもちゃん表記されなくて、私たち迷子になった

事務所と現地に何度も電話をかけて進むうちに圏外になった

もう陽も落ちて暗い中を延々歩いた

サイレンみたいな古い民家が点々とあって怖かった

でも私たちは「入り時間をとっくに過ぎてしまった」ということで頭がいっぱいだった

8月なのに涼しかった

どうやって着いたかはもう覚えてないけど、なんとか現地に着いた

担当の人はすごく優しくしてくれて、仕事もつつがなく終わった

出してくれた夕食を食べて用意された部屋に布団を敷いた

携帯はずっと圏外のまま、こんなに圏外の場所にいるのは初めて

でも私の携帯は滅多に鳴らないし、今日が終わったことの安心感携帯を見ようとも思わずすぐ眠りについた

朝、担当の人に挨拶をして勤務地を出た

昨日はサイレンみたいだと思ったけど、森の朝の空気気持ち良くて、すごく清々しかった

大変だったけどいい日だったな〜って先輩と歩いた

タクシー使えばいいのに、その案すら出なかった

森を出たところで先輩が「主人から電話きてたの出れなくて不安にさせちゃったっぽい」と携帯みて笑った

「あ、ここもう電波入るんですね」といって私も携帯を見た

びっっくりした

着信がもう、何十件も入ってて、見たことないくらメールが来てた

ほとんどが同じ親友から

足が止まった

少し怖くなった

声をかける先輩に「いや…なんかたくさん着信きてて…」と返した

先輩が「だよね〜、圏外なんて思わなかった。そうとわかってれば先に…」

とか言ってたけど、途中から自然フェードアウトしていった

気づいたらしゃがみこんで動けなくなってた

しゃがんだとも思ってなかった

「え!どうしたの?」と駆け寄ってくれた優しい先輩

私は人に自分趣味とか、個人的な話をするのが苦手で、聞かれるといつも「特に」とか「別に」とか言ってしまタイプ

でもその時はもう口からスルスルって、そんなのいわれてもしょうがないってわかってるのに言葉が出てた

「なんか…大好きなバンドボーカルが死んじゃったっぽいです…」って

すぐ何件も何件も私に着信してくれた友達電話をした

の子といつも2人でライブを見た

10年、ずっと

朝早くなのに1コール電話に出た

「なんで!?なんで電話でないの!?

こんな時になんで電話でないの!!

電話出ないし鳶死んじゃったしどうしようなんでって眠れなかった。

なんで電話出ないの、

鳶死んじゃったんだよ…」

ってどんどん泣いちゃって、わたしも泣いた

ここがどこでなにをしていたかも忘れて

電話を切ったあとも涙が止まらなかった

先輩は駅までずっとそのバンドの話を聞いてくれた

のどかな道、どんな景色だったかすぐ思い出せる

誰1人ともすれ違わなかった気すらする

先輩は、そのあとすぐ辞めてしまったけど、顔もフルネームも、旦那さんの仕事のこともすべて覚えてる

ほんとに優しい人だった

先輩ありがとう

帰りのバスに乗ったら「窓際座りなよ」って言ってくれた

音楽聴きなよ」って

帰りのバスでずっとそのバンドの曲聞いた、2時間

みんなほんとにいい曲だった

この日のこと一生忘れないなって思った

結局、そんなことがあったのに洗脳は解けなくて、そのあとも4年くらい勤めてた

私がその町に行ったのも、圏外になる場所に泊まったのも、それが最初最後

よりによってなんでこの日にって本当に思う

そのバンドのこと、ボーカルのこと、言葉にしたいけど、その日あったことだけ思い出して書いた

辛かったけど、忘れられない

オチとかないし長くなっちゃったけど、それだけ

2019-12-27

今、桃栗みかん先生の『群青にサイレン』が好き。

桃栗みかん先生とは

いちご100%』の河下水希先生と同一人物代表作は他に『りりむキッス』『初恋限定。』など。むちむちして可愛らしい女の子が沢山登場する漫画を描く人。素晴らしい絵柄につい目がいくけど繊細な心理描写も秀逸である

『群青にサイレン』とは

高校野球を題材にした漫画で、桃栗先生にしては女子ほとんど出てこない、男だらけの漫画。頑張って甲子園を目指すぞー!というポジティブストーリーではなく、根暗主人公とその周辺人物達が思い悩みながら精神的に成長したり悶々としたりする話。

あらすじ

主人公吉沢修二は高校一年生。小学生時代野球チームのエースだったが、従弟の空に対する嫉妬を拗らせてやらかし、チームに居づらくなって野球を辞めてしまう。ところが同じ高校に空が入学してきたことによって嫉妬心をぶり返してしまう。空への対抗心からつい野球部に入部してしまい……。

『群青にサイレン』の見所

その他

諸般の事情から今は少年ジャンプ+で連載されているのだが、少女漫画レーベルマーガレットコミックス)で出版されている、という点がまた良い。

女子でもこういう本格派な野球漫画を読めるのだ。ベルばらBANANAFISHくらいの少女革命っぷり(結局ジャンプに移ったけど)

とにかく面白いから読んでね!

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