はてなキーワード: 読了とは
感無量。
久しぶりにこの言葉使う。
読んでる途中から思ってたけど、これ今のところパトレイバーより上だわ。
NeverEndで終わったのもすごくよかった。
たづなちゃんは結局あのバンドマンとは何もなかったのかw
まあしゃーねーな・・・あんなやつにたづなちゃんがとられなくてよかったわ。
ひづめちゃんはOLかwww
しかしDQNネームだよなあ・・・わかりやすいっちゃわかりやすいんだけど・・・
久世家の子どもに対して性的な欲求を抱かなかったのもすごい驚き。
こんだけ感情移入させるってすげえ。
いっこだけ気になったのは、最終回のスタッフ紹介のところで、テクニカルアドバイザー、なし!(泣)になってたところ。
普通こういうやつだと監修まではいかずともそういう位置の人間をつけるよなあ・・・
タイトルと絵柄だけでこれまでずっと手に取らなかったのを後悔してるわ。
ダンまち最大の問題は、アニメがめっちゃくちゃ面白いんで、原作擁護に傾いちゃうことなんだよなぁ。
指輪物語とか、風と共に去りぬとかジュラシックパークなど、ほぼ学者の訳者による和訳古典なんかも結構よんだけど、文章は丁寧で正確無比でも絶対的に文字数が多く読みづらいし、雰囲気も逐一細かく描写しているけどその描写に一ページをまるまる使ってたりと読み解くのに5分から10分から時間がかかりすぎて、文章から脳内にイメージが浮かぶ前に次の文章を読み解く方向に思考が使われちゃって、せっかく構築したイメージは霧散する状態になってしまい、つまらないことこの上なかった。
原作が面白いと再認識したのは、映画を見て世間一般で使われる共通イメージを自分の中に身につけて定着してからの、再度読破に挑戦して読了してからだねwww
すべてが頭の中に湧いてでてきて、なおかつひととおり消費するまで映像と音声が残ってる、安くて美味くて速い感覚。
加えてストーリーはアンチが突っ込めない程度のつじつまが合ってキャラクターがアニメセオリーどおりなら言うことないわ。
ただこれだといわゆるケータイ小説も肯定せねばなくなってしまう。
ぐぬぬ。
はてブホットエントリーの30選(http://gathery.recruit-lifestyle.co.jp/article/1141321068543131601)がイマイチ感性に響かなかった(普段読書しない人向けか?)ので、俺選してみる。
【反省会】
火花が芥川賞を取った
お笑い芸人の本だ。一時間で読了したがたいした感想もなかった。芸人をささえる風俗嬢なんて滑稽すぎて反吐がでそうだった。純文学と評されているようだが文体を借りただけで内容はけっして純文学ではない。むしろ現代社会に毒されている記述が多々見受けられた
そんなことはどうでもいい。読み物としてはどこにでもある、いわゆるひまつぶし程度の物で嫌いではない。が芥川賞を取るべきかと言われれば断じてNOだ。
AKBも音楽という服を着ているだけで形骸だ。すこし前にKAGEROUがどっかの本屋大賞をとったがただのダジャレ小説には評するところはひとつもなかった。火花は読み物としてまだ一定の価値があるのだが
音楽や小説など村上の言葉を借りるなら常に卵の側に立つべき存在の文化が資本の側にたってしまっている
文明は進歩していかなければいけない。ITや技術革新など進めば進むだけ是とされるが文化というのはすこし違う。文化は過去に根差している部分が多い、文明は資本主義で発達していくことができるが文化は資本には殺される、文化は精神的な部分に佐座しているので文明とは距離を取って語られなければいけない。
※冒頭のお詫びとお断り:検索対策のために、略字を多用することになりました。読みづらくて申し訳ありません。
お勧めいただいた『R』、読了しました。小説を読むこと自体が、わたしには滅多にないことなので、読み出し当初は困惑しつつも、広大な小説世界に潜り浸るという新鮮な体験を楽しむことができました。作者NAの文体も、読み慣れてチューニングが合うようになると、とても心地よく感じました。そんな読書の幸いを少しだけ、感謝を込めて共有させていただけたらと、拙い感想をお届けいたします。ご笑覧いただければ嬉しいです。(わたしには本当に文才がないので、つぶやきの投稿のように、思いついた順番で書き散らかしまうことを、どうかご容赦ください。いわゆる「感想文」を期待されませんように…。)
『R』のなかに見出した、タイトルとなった人物RRと、修史を完成させたSS、そしておそらく、作者であるNAの、幾重にも折り重なった宿命との葛藤が、深く胸に響きました。読書中は熱い臨場感をもって読み進めていたのが、いま、こうして彼らについて語ろうとすると、静かに冷たく研ぎ澄まされた気持ちになるのは、なぜだかわかりません。書きながら、自分の感情を文字にして確認してみたいと思います。
RRが、内に抱えた矛盾を少しずつ自覚し、揺れていく様は、わたし自身も覚えがあり、とても身につまされました。B帝に誤解され、国に残した愛する老母も妻も子供も弟も、みな殺されてしまう。RRは、大いに怒り、忠誠を誓ったはずの国とのつながりを見失う。思い返せば、これまでR家の忠誠に国は報いてくれたことがあったかと疑い、むしろ辱しめを受けただけだと失望する。そして、首を取って戻るという目的を喪失したものの、よく似た身の上で、誰にも認められなくとも、国への愛情と忠誠を抱き続けたSBに、尊敬の念と敗北感を抱く…。
家族を殺された怒りの大きさのあまり、B帝に誤解させたであろう同姓のR将軍の「存在」を怒りの矛先として、即座に彼を殺害したRR。けれど、B帝の誤解の原因が本当にそうであるか、定かでないはず。B帝と同様に、RR自らの誤解の可能性が、R将軍の命を奪い、彼を愛した皇太后を悲しませたかもしれないことに思いは至らなかった。ただ怒りに身を震わせて、衝動的に行動してしまった。おそらくは、B帝がRRの裏切りだと誤解して、衝動的に一族皆殺しを命じたように。
たしかに、身分の違いによる命の重さの違いを当然とする価値観が、受け入れられていた時代だったかもしれません。それゆえ、別の場面では、砂漠の中、戦局が厳しく、少しでも確実に部隊を生き延びさせるために、RR自ら、部隊に男装して混じっていた妻たちを殺害する命令を、冷静に下したこともあった。同様に、愛する妻を殺された部下は、敵に寝返って、RRの部隊の勝機を完全に奪った…。
RRは、自分がされて苦しんだことを、他人に対して無自覚にしてきたということ。それゆえ、RRが直面した苦しみの本質は、因果応報で自業自得というメカニズム、…などでは「決して」ないと、わたしは思います。そもそも、RRの行動は、彼なりに状況に応じて最善と思われる選択をした結果でした。作者も、そんなRRを「悪」として描いてはいません(むしろ、宿命との格闘を活き活きと描写する姿勢には、愛情を感じます)。状況に追い立てられ、もがきながら生き延びてきた選択の愚かさを、もしも誰かが(分析好きのわたし自身が)指摘するなら、それは一生懸命さに対する揚げ足取りにすぎず、そもそも人間はそういう愚かな存在だし、渦中にあったら、わたしもそうしたはずだと(ましてや、さらに低きに流れていた可能性のほうが大きいと)、反論せずにはいられません。
SBと邂逅後のRRは、自らの抱える矛盾や二面性に気がついて、苦しみを深めます。B帝の死後、かつて望んだように、国から彼が認められ招聘が掛かるのですが、それを断る弱々しい(元気のない)声のRRが印象的です。RRは、ここでもまた無自覚で、言葉を結んでいないものの、自らを通じて、人間存在の内にある矛盾や二面性に、また国(人間社会)の内にある矛盾や二面性に直面して、途方に暮れているのではないかと、わたしには感じられました。さらにいえば、SBのように国への想いを貫ける強さも持ち合わせず、そのSBを羨望する弱い自分を恥ずかしく思うRRは、それゆえ人間の矛盾と二面性を丸ごと生きているのでしょう。RRの覚悟が悲壮であるとすれば、そのような自分に気づきつつも、両極に引き裂かれてどちらへも動けない苦しさゆえと感じました。正しい道はあまりに険しくて進めず、かといって居直ってダークサイドに落ちることもできないと自覚した以上、どっちつかずのまま生きながらえます(B帝の死後、7年目に没)。おそらくはRRも、自殺による幕引きを自らに封じた一人でした(文中では、現地での恩義や家族などのつながりをRRはあげていますが、対して、RRの祖父は、親のいない孫を残して、義憤から自死を選んでいます)。
ところで、RRは、自らとSBとを「隔てる根本的なもの」に直面し、自らへの「暗い懐疑」を自覚するに至るのですが、SSとの関係もまた非常に興味深いです。
SSは、RRの名誉を守ろうとしてB帝らに反駁し、結果、死よりも恥ずかしむべき宮刑を受けます。ところが、このことを伝え聞いたRRは、自らの沈む絶望が深く、SSに対して何の特別な感情も抱きません(し、そのようなクールなRRの反応を、SSは伝聞することもありません:そこに作者NAの優しさを感じます)。対してRRは、B帝のため国のために信義を尽くそうとするも、相手から誤解され、罰せられて一族が殺されたことを知り、大いに絶望して反転します。しかし、自らが、為を思って働いた相手に無碍にされることが、どれほど当人を傷つけうるかに、思い至りません(し、それも尤もだと説明を書き添える作者NAには、RRへの深い愛情を感じます)。
そんなSSですが、42歳にしてようやく父の遺言を継ぎ、修史の編纂に取り組むことが叶います。現代の人々に知らせるために記録するにとどまらず、人間の叡智として後世へ伝え残すための歴史、なにより自分自身が書き残したい歴史には、「人間についての探求」が不可欠だと考え、「述べる」と「作る」との違いを熟考する。しかし、真摯に取り組めば取り組むほど、歴史上の人物と自分自身とが渾然一体となるような文章、まるで描き出す歴史上の人物の中に自分が生きているような表現、憑依し憑依される活き活きとした文体が流れ出る。そうした箇所を削除すれば、たちまち修史はいくつもの死人に関する記録に成り下がる。削った字句を戻して、ようやく歴史上の人物たちが「安心してそれぞれの場所に」落ち着くように思われる。
このSSの創作風景に、作者NA自身の創作風景を重ねて見るのは、自然でしょう。わたしは、NAについてほとんど何も知らないけれど、この『R』やその他の彼の短編小説なども、歴史書を下敷きにして創作されたと(文庫巻末の解説に)目にしました。憑依し憑依される関係性のなかで、自らの書く小説の中に(のみ)活き活きとした自由を感じられたのは、SSだけでなく、NAもそうであったと想像します。
先を急ぐ前に、もうひとつSSについて。時代的・文化的な特徴と思われますが、宮刑を受けて「男」でなくなった自分の身体は、「完全な悪」に落ちたと苦しみます。心の傷は癒えても、醜悪な身体は、死ぬまで自分を苦しめる。それは、自分という存在そのものが、悪である証しであり、生きる限り続く恥辱だ、と。これが、「盲目的な獣」としての苦しみの段階です。(が、作者NAの有名な短編『S』では、狼へと変身して初めて思い至った気づきを、数日で通り過ぎてしまうあたり、作者NAが、SSに託した気持ちの大きさを思います。)
その後、SSは、我が身に降りかかった苦悩・人生への懐疑とは別の、意義を疑えない「畢生の事業」である修史に「無意識の関心」が向いており、それゆえ自ら死を選ぶことができないでいるとハッキリと自覚します。ここから、「より意識的な・人間」としての苦しみが始まります。この、獣から人間への飛躍が、とても深いことに感嘆しました!
「獣」と書いていますが、つまりは世俗の社会的価値観のなかで「盲目的に」生きている段階のことです。ここでは、「身体=身」と「心」という対比が支配しています(「身/心」という二元論で捉えられています)。舞台となった漢の時代的・文化的な特徴として、名誉や忠誠といった「心」を守り通すためには、人々は死を恐れず、むしろ喜んで「身体」を自ら差し出します。SSも、死刑を恐れてはいませんでした。しかし、醜悪な「身体」となったSSは、その恥辱から「心」を解放すべく死を願うも、それを押しとどめるものの存在を予感します。自宅に戻ると、それは父に託された修史編纂の完成であることを理解します。自らに刻み込まれた「宿命的な因縁」として、「肉体的な」仕事とのつながりを放棄できないことに改めて気づかされます。ここから、「より意識的な・人間の苦しみ」へと飛躍するわけです。
ところで、世俗の社会的価値観(=知覚や意識)は、SSの「心」=「我」と、「身体=身」とを形成してきたものです。しかし、託された使命への自覚は、既存の価値観にとって、おめおめと生き恥をさらすような人生を続けることを求めます。SSの抱く既存の価値観(=知覚や意識)にとっては、耐え難く、非情な要請です。そのため、「知覚も意識も」持たない、修史編纂のための「機械」に過ぎないと、(既存の価値観=知覚や意識で)自分を定義しなければ、自らに言い聞かせなければ、生き続けられなかったのだろうと思います。SSがSSであるという意識の土台となる「心」=「我」も、そのために捧げる「身体=身」も、当時の社会的解釈の上に成立してきました。この解釈にいつまでも安住できたら、まだSSの苦悩は浅かったかもしれません。「宿命的な因縁」、すなわち、いにしえから脈々と受け継がれて自分に生命(魂)を与えた血統のように、時代を超越した「肉体的な」つながり=使命(魂)への自覚は、SSに当然視してきた当時の社会的解釈に安住し続けることからの飛躍を求めたわけですから。「心/身」という二元論を越えて、使命を抱く「魂=肉体」として自らの存在そのものを捉え直すことは、当時の社会的解釈から、漢の時代的・文化的制約から、身を引き剥がすことでもあります。それは、昭和の時代から当時を見つめる、超越的な作者NAの視点でもあります。
ここで描かれたSSの姿は、作者NAの解釈したSSの苦悩であり、おそらくは、昭和の現実を生きて苦悩したNA自身の苦悩の姿であるのかと思います。作者NAもまた、病床のなか不遇のなかで「心」も「身体」も傷つきつつ、作家として生きる使命によって、自らの小説の中に「魂=肉体」を解き放したのかなと思いました。(ちなみに、「魂」という単語は、作者NAは使っていません。でも、明らかに、「身体」=「身」と、「肉体」というのを使い分けています。その差を強調するために、わたしが勝手に補ってみました。)
そういうわけで、困難な戦場を生き延び、また自らに暗く懐疑するRRも、自らの信じる正義を貫き、恥辱に苦悩しながら使命に生きるSSも、その抱えた宿命の重さにも関わらず、活き活きと自由に躍動する姿には、作者NAが重ねられているのだと思います。NAにとって、小説を書くことというのは、憑依し憑依されてその世界を生きることなのだろうと感じました。事実、『R』のなかで、RRとSSの二人について「だけ」、歴史上の人物としての事実の描写だけでなく、その場にあって思い感じたこと、彼らの知覚と意識まで作者は思い描き、詳細に語っています。(わたしは、新潮文庫を購入したのですが、その文末の解説に、『R』はRRとSSとSBの三人の物語だと紹介されていて、そりゃちょっと違くないか?と違和感を覚えました。それもあって、今回の読書では、基本的に予備知識なく、勝手に読んでいます。)
だからこそ、冒頭に書いたような「静かに冷たく研ぎ澄まされた気持ち」を抱いてしまうのかなと思います。RRやSSが抱えた宿命の重さも悲壮な覚悟も、作り物としてのフィクションではなく、また単に歴史を題材にした半分史実・半分フィクションといったものでもなく、作者NAが抱えたであろう実体験を(ノンフィクション、と片仮名で書くには軽すぎる経験を)、わたしはそこに感じたからだと思います。
作品は、読者の能力に応じて・読者がそこから読み取れるものしか、読むことができないのだろうと思います。(それゆえ、例えば同じ聖書であっても、子供が、若者が、大人が、死を前にした老人が、それぞれが自分に必要なものを、そこから読み取ることができるのだと思います。) だから、わたしが読むことができた『R』は、私の興味・関心に限定された、豊穣な作品全体のごくごく小さな断片に過ぎないと自覚しています。きっと、H.H.さんからしてみれば、幼い読み方だと笑ってしまわれるような感想だったかもしれません。それでも、この作品に出会えて、とても嬉しいです。作品を作ることに込める覚悟のようなものを、改めて考えるキッカケをもらえました。ありがとうございます。
最後に、『R』を読みながら、H.H.さんがそこに読み取ったであろう痕跡をいくつか感じました(例えば、存在することが悪であること、それでも書写機械として生きる覚悟をしたSSの中に)。そんな大切な小説を、紹介してくださって、本当にありがとうございます。とても光栄です。でも、もしかしたら上述した私の感想は、そんなH.H.さんの想いを、まるで現国の試験問題に答えるかのように切り刻み、分析し、曲解した失礼なものと映ったかもしれません。もし、不快な気持ちにさせてしまいましたら、本当に申し訳ありません。(あなたの真摯さに敬服するファンとしては、自分の正直で素直な感想を真摯に伝えるべきで、あなたのご機嫌を取るために媚びを売るような接し方こそ失礼なのでは、と勝手に考えてしまいました。決して、あなたを否定するものではありませんこと、ご理解ください。)
自分について思索する道を、Kさん=H.H.さんに教え導いてもらえたように感じています。あなたの魂=肉体の存在に、感謝します。(勝手なファンの願いであり、余計なお世話かと思いますが、だからこそ、どうかご無理をされず、くれぐれも心と身体を大切にしてください。) あなたの幸いを心からお祈りしています。
h_s
最近、職場の同期でも後輩にも、いわゆる「意識高い系」が増えてきた印象があります。
彼ら意識高い系は、距離をとって見ている分には楽しいのですが、少し仕事で関わるとクソのように使えず、
その割に「高尚な」ことばかりほざくので、最近ではイライラすることも増えてきました。
ですので、自分のため、そして同じような目にあっている皆様に、
意識高い系に対する理解を深め、彼らを見た時に感じるモヤモヤ感の払拭と、彼らの取り扱い方法の理解を目的とし、私見を申し上げたいと思います。
■意識高い系とは
エベレストのように高い理想と、マリアナ海溝のように低い実力を持った人がかかる、
■意識高い系の特徴
意識高い系と聞くと、何人かパッと頭に浮かびませんか。
彼らを観察していると、面白い程高い確率で似通った性質を示します。
個人的な経験からですが、大きく下記のような特徴があるので、照らし合わせてみてください。
1 理想は高いが実力が無い
公私共に、彼らは何の成果も生み出しません。生み出しても、一般人のそれより遥かに低いです。
逆に、成果を生み出している人は「意識高い系」ではなく「意識が高い」人ですので、今回の話の対象にはなりません。
「意識高い系」は、口だけは素晴らしいことを言います。多くは社交的でフレンドリーで饒舌なので、一見して凄そうな人に見えます。
ところが、実際に仕事で接すると、あるいは私用で軽いイベントの運営でもすると、実行力が全くなく、途端に尻尾を現します。
受け答えがイマイチ(言いたいことだけ言う)、成果物の品質が低い、納期に間に合わない、集合時間に遅れる、ドタキャンを多発する、等、
最初は、初対面の好印象もあり「ん?」と違和感を覚えるだけなのですが、それが恒常的なものだとしたら、意識高い系確定です。
2 実力が無いことに気付いていない
意識高い系はビジネス書や起業家が書いた本が大好きで、それらに惜しみなく投資(と思っていることを)します。
そしてビジネス書を多読する人が高確率でそうなるように、本を読んだだけで仕事ができるようになった気になり、自己認識と実際の実力に大きな乖離が発生します。
そのため多くの「意識高い系」は、頻繁に「最近調子がイマイチだなー」みたいなことを言いますが、
何のことはなく、本人が気付いていないだけでそれが単に彼らの実力なんです。
彼らを見ていると、「じつりょく」というものが、ドラクエの「ちから」のように、自身の中にパラメータとして存在し、
本を読んだりセミナーに行くと、その「じつりょく」が ◯ポイントあがった!みたいな認識があるようなのですが、
現実の世界ではその人が出した具体的な結果でしか評価をできないし、評価もされません。
彼らはそこに気がつかず、延々と平積みのビジネス書について「〜読了!」と呟いたり、
セミナーに頻繁に参加して、「アウトプットが大事だからブログにまとめました」といって単なる議事録を書いていたりするのです。
3 SNS
よく指摘されていますが、マグロが時速80kmで泳がないと呼吸ができないように、彼らは毎日高頻度でFacebookやTwitterのようなSNSをチェックしないと、死にます。
さらに、FBの「いいね!」は、彼らに取っては元気玉の元気であり、「もっとオラに、オラに元気を!!」という勢いで「いいね!」を欲します。
個人的に、親指を数mm動かすだけの評価をいくら集めても何の価値にもならない気がするのですが、
「この記事を読んで参考になったら、「いいね!」を押してくださいね」と言わないと、多分人質に取られている娘が何かされちゃうんでしょう。
ちなみに、LINEとかでも無意識に「いいね!」と言ったりするんで、要チェックです。
市場というのはよくできているもので、今まで接して来た色々な会社の人達を見ても、その人の労働価値と密接にリンクしています(大企業のおじさん達は年功序列ポイントの下駄付きですが)。
そのため、実力がなく、それに気付かず適切な努力をせず、大口を叩いているだけの「意識高い系」は、転職等で不思議な程年収を下げて行きます。
多くは今流行りのスタートアップ系やNPO系に行きますが、「やりがい」を餌に買いた叩かれているケースが多く、
転職後の業務実態は、単なるサイト運営や社内事務スタッフ等、やはり金額に見合った仕事しかしていない印象です。
5頭が良いと本気で思っている
彼らは、少し会話すると気付くのですが、本で読んだ内容や、偉い人の発言を、そのまま自分の意見として堂々と発言します。
その場その場で話の内容に沿って考えている訳では決してなく、議論のテーマに沿った中で、最も有用と思われる過去に仕入れた情報を反射的に発言しているだけなのです。
ですので、たまに「あ、あの本のここに書いてあった内容だ」とこちらが気付く場合さえあり、聞いている方が恥ずかしくなることさえあります。
また、現状の社会的、組織的な不満点を指摘し、「日本のココがダメ」「IT化したら省力化できるのに」みたいなことを頻繁に言うのですが、
どうやら彼らの中での「ゼロベース思考」なり「問題発見能力」という能力として評価できる発言のようです。(「ママーあの人また大企業の悪口言ってるー」「しっ!見ちゃダメ」)
また、最終形態に近づくに連れて、何故か名前をカタカナで表記することが増えてきます。(深い思索に耽る余り、非効率な漢字という表現方法を忘れてしまったのかもしれません)
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と、元々の構想の約半分まで書いたのですが、思ったより長くなってしまったので、一回切ります。
気が向いたらまた後半書きます。
部長、早く帰らせてくれませんか。定時に。18時に。
うちの部署にはあなたが「帰りましょうか」と言うまで帰られないという暗黙の了解がありますよね。その声が放たれるのは基本的に20時から20時半の間ですから、僕達は毎日2時間も余計に、しかも残業代が支払われないのにも関わらず働いています。
こちらとしては、退勤時間が20時であろうとも定時である18時にキリ良くその日の仕事を終えるように段取りをしているんです。終えなければならない仕事を終えていないとかであれば、それは自分の責任ですので泊まり込んででも必ず終わらせますよ。ですので、そうでない場合は18時にお疲れさまでした~と、気持ちよく帰らせていただけませんか。
他の部署はもっと遅くまで残ってるから...とか言う理由で、合わせてうちの部署まで残る必要はないと思うんです。そもそも、何故部署内全員が同じタイミングで帰る必要があるんですか?あなたが口酸っぱく言う効率という言葉に、時間の概念は含まれてないのでしょうか!?
何でそんなに早く帰りたいの、とか野暮なこと聞かないでくださいよ。2時間もあれば音楽アルバム2枚を、映画であれば1本を丸ごと視聴できますし、おかず3品の調理から食事・片付けに加えて明日のお弁当の準備をしてもまだ十分にお釣りがきます。定時に帰れるってだけで、帰ってご飯食べて風呂入って寝るだけの日々に弾力が生まれるんです。
それこそ、部長にとってもたくさんメリットがあるでしょうに!あなたの好きそうな胡散臭い啓発本であればその2時間で十分に読了できますし、愛する奥さんとベッドルームでインサイド・アウトはたまたアウトサイド・インして存分にアウトプットするオポチュニティだって増えると思いますよ。
これこそあなたが理想としているウィンウィンの状態じゃないですか。え、道具は使う派じゃない?何を仰ってるんですか。とにかく、仕事が終わってるのであれば定時に帰ってもいいよと言ってくださいよ。あ~帰りたい帰りたい帰りたい
二次創作の同人誌作家に、ものすごく好きな方が居る。
先ほど読了した作品も素晴らしく、心の震えが止まらない。
感動を持て余し過ぎてつらい程だ。
そう、つらいのだ。その二次創作物が好き過ぎて。
その作品のどこがどう素晴らしいのか、事細かに語りたくてたまらないし、
その素晴らしさを誰かと共感したくてたまらない。
ここで重要なのは、語ったり共感したい対象が、二次創作の原作にあたる作品やキャラクターなのではなく、
その二次創作物の作風に該当するという点だ。
原作やキャラクターが好きな人は、各SNSなどのプロフィール情報や投稿内容から捜索し易いが、
今まで経験したジャンルでは、それらと同じノリで二次創作同人作家のファンであることが大っぴらにされている様を見たことがない。
いやまぁpixivで二次創作物の投稿を公開ブックマークしている人なら大勢居るし、
同人誌即売会に行けば自分以外の購入者も勿論居るのだが、
そもそも同人作家のファン同士で交流するという発想や欲求が無いかもしれない相手に声をかけるのはハードルが高い。
そしてできれば心酔対象である同人作家本人の目につかないところで仲間をつくり、感想を語り合いたい。
「同人でも、作品を楽しめたのなら作者に感想を送ってあげて欲しい」的な意見をまま見かけるが、
その行為では一つめの欲求を慰めることはできても、二つめの欲求は満たし難い。
それに誤解を恐れずに言うなら、本尊とファンの間にある一線を維持し難いのが、『二次創作』同人の特徴だと感じている。
原作を愛するという名のもと、みな平等かつ対等であるというスタンスが善だとされているように思うからだ。
そのスタンスを善とすることに異論は無いのだが、今は愛情の先が同人作品に向いている。
だからむしろ対等な関係など不要で、自分の発言なんて何の影響も及ぼさないという、自由な発言を許容してしまえるシェルターこそを望んでいる。
作家間の人間関係や派閥などの話題もよく耳にするし、作家本人の迷惑にならないところで、ひっそりと、ファンで楽しみたいだけなのだ。
なんか良い方法ないかなあ?
よくいままで生き延びてこられたな、としか申し上げられません。
ここをどこだとお考えです? いったいあなたは今まで‥…いえ、すいません。
言っておきますが。
リスティングとは、彼らの生理的な嫌悪を解消するプロセスにおける初歩的な段階の反応行動でしかありません。
なぜあなたは「彼ら」と御自分が「対等」に扱われるべきとお考えなのですか?
はてな村でもサークルでもいい、あなたはあるジャンル・ある傾向の本を読みたい・語りたい・学びたいと思ってそこにいらした。
場に集うのは当該分野のプロフェッショナルです。
鼻持ちならない教養主義者ではあるかもしれません。しかし、あなたよりはその分野に詳しい猛者揃い。
なぜそこであなたは彼らと「対等に話せる」などと錯覚するのですか?
なぜそこで話されている言語を自分も共有できるなどと勘違いするのですか?
思い上がりも甚だしい。
正規の医者が大学入りたての医大生と医療について対等な話ができるわけがない。
そりゃあ、『ブラックジャック』や『ブラックジャックによろしく』を読んだ程度の知識はあるかもしれません、
しかし、それは医師たる資質を得るための知識としてはクズ同然です。
そんな貧相な知識に基づいて、いくらあなたが高邁な御意見を述べようと、その見解もまた漏れ無くクズだ。
もうおわかりでしょう。
すなわち、豊富な知識とそれを正しく運用するための教養、この二つはすぐに手に入るものではない。
市民から尊敬される専門読書人になるためには、長く辛い修練が必要なのです。
その高みにたどり着くまで、あなたは何者でもありません。
二級村民ですらありません。
無に等しい何かです。
もしくは、スタンプラリーのようにリストに則って粛々と読了スタンプを押す機械です。
本とは偉大なものです。いかなる分野のものであれ、傑出した本であれば相応のオーラを放ちます。
そのオーラが人間未満の状態の何かの脳を刺激して、なにごとかを口走らせることもあるでしょう。
野蛮とはそういうものです。
はてな村とはそういう場所だ。サークルとやらもまあ、似たようなもんだ。日常も同程度に地獄と似ている。
誰か生きた人間だと考えるか。
いつか、いや、すぐにでも死ぬぞ。
かつての俺のIDのように。
http://anond.hatelabo.jp/20140604175240
http://anond.hatelabo.jp/20140605021604
正直野球とか詳しくないので適当だけど.打線の並びは最初の増田に依拠.
筒井康隆がやっつけ仕事で手を染めた学園タイムリープSF芸を完成させた名作.
ファミ通文庫の可愛らしい理系少女萌えイラストからの猛烈なアーサー・C・クラークリスペクトが熱い.ハヤカワ文庫での復刊時の謳い文句に草不可避.
読了後時系列を表に起こしてようやく理解できた.『タイム・リープ』と並ぶ学園タイムリープものの金字塔.
みんな大好き言語SF.感染モノと組み合わせてこんな風に料理するセンス・オブ・ワンダーの凄さ.
まあ,やっぱりこれでしょう.ラノベとしてもSFとしても完成されていて隙がない.
テスタメントの続きが出ていないことが最大の難点.はよ書け.
文字数オーバーになってしまった前回(http://anond.hatelabo.jp/20131229045340)の続きである。
『ロジック・ロック・フェスティバル』において、警察に通報すべきだと意見するのは、ヒロイン(鋸りり子)である。
りり子は穏やかな声音で言葉を重ねた。もっともその中には、最後の審判を告げるガブリエルのごとき決然さをも含んでいたが。
「先ほども申しましたが、会長の心境には私自身強い同情を感じています。ただ……人が一人死んでいるという状況、命を落としたという事実に対して応じることは、やはり何にも増して優先されるべきだと思います。どんな信念、心情を差し置いても、です」
これに会長が返答をする前にある人物によって言葉が差し挟まれた。
「そ、その通りです……!」
金牛事務員だった。彼は周りを窺いながらもごもごと続ける。
「……会長さん、でしたっけ? お気持ちは分からないでもないですが、これはやっぱり一刻も早く警察を呼ぶべきです。議論をしている間にも、ほら、時間経過と共に重要な手掛かりが失われているかもしれないですし……」
『天帝のはしたなき果実』において、警察に通報すべきだと意見するのは、志度一馬である。
(中略)
「アタシの臓腑(はらわた)は今煮えくりかえってるわ。だからこそ、一刻も早く腐れ下手人が死刑になればいいと思ってる。そのためには通報すべきよ。それに、ひとの生き死に以上の優先事はないわ。たとえ音楽だろうと」
人の死は何事にも優先されるという理由が一致している。
『ロジック・ロック・フェスティバル』において、多数決で決めるとの宣言はなされない。生徒会長(衿井雪)とヒロイン(鋸りり子)の意見に続く形で、副会長(成宮鳴海)が会長の意見を支持したことにより、多数決の流れが自然にできる。
「一時沈黙、に一票ということです。鋸さんとも対立することになってしまいますね。しかしここはどうか目を瞑っていただきたい」
多数決の結果が決まった後に、多数決という方法で決めたのが正しかったのか山手線太郎が意見する場面がある。
「そんな取り違えはしてないよ。ただ行動の選択に時間を取られていてはいつまでたっても行動自体を起こせない。今は総意をある程度一致させてとにかく動き出すべきだと思う」
『天帝のはしたなき果実』において、部長(柏木照穂)が多数決で決めることを宣言する。
「決を採る。それには全員従うこと(この面子だと――)」と柏木。
「多数決で決めていいことなの? 瀆魂(とくこん)じゃない?」詩織さんが遺体を見遣った。
「どっちの意見を容れても、すぐ行動しなきゃいけない。みっちり討議してる暇がない」と柏木。
多数決で通報するか否かを決める理由を、すぐに行動しなければならないからとするのが共通点である。
『ロジック・ロック・フェスティバル』において、「警察に通報しないことを、倫理的に糾弾する」のは山手線太郎である。
「――いいえ、速やかに通報するべきですよ」
そう言い切って、副会長の前に颯爽と立ちはだかったのは線太郎だった。一瞬、二人の男の正義がぶつかり合う音が聞こえた気がした。
「会長の鷹松祭への熱意も、それを慮る副会長の誠意も、最大限に斟酌したいと思います。でもやはりそれとこれとは別問題と言わざるを得ない。通報を保留し、再度この部屋に鍵を掛けて、知らぬ存ぜぬでさあ鷹松祭ですか? 死者を前に失礼ですが、僕は生前、灘瀬先生のことをあまり快く思ってはいませんでした。そんな僕でもこんな所業はあんまりだと思います」
『天帝のはしたなき果実』において、「警察に通報しないことを、倫理的に糾弾する」のは切間玄である。
「敢えていうけど(デンク・マール・ナッハ)」と切間。「奥平事件なんてあれだけ先陣争いみたいな捜査して、あれだけ関係のない可能性の高い生徒、総ざらえで調べたんやで。それでも解決してへん。まして発見者が協力せえへんかったら」
上記引用した「糾弾」がはたして「倫理的」なものかどうかは私には判断できなかったが、該当する部分が他になかったので上記部分を引用した。
『ロジック・ロック・フェスティバル』において、沈黙派が3人(衿井雪、成宮鳴海、万亀千鶴)、通報派が3人(鋸りり子、金丸遥、山手線太郎)で同数となる。最後に主人公(中村あき)が沈黙に一票を入れ、通報しないことが決まる。
なんてったってこれで三対三、通報か否かを巡る決議はもつれにもつれていた。本来、人様の死に対し、こんなやり方で接することなんて許されない。そんなのは分かっている――分かりきっているけれど、今はそんな採決の図式を思い描かないわけにはいかなかった。
事実、僕以外の全員の目がこちらに向けられている。
「僕は――」集まる注目の中、僕はおもむろに口を開いた。「沈黙を支持します」
『天帝のはしたなき果実』において、沈黙派が3人(志度一馬、修野まり、切間玄)、通報派が3人(古野まほろ、穴井戸栄子、上巣由香里)、棄権が1人(峰葉詩織)で同数となる。最後に部長(柏木一馬)が沈黙に一票を入れ、通報しないことが決まる。
「棄権する」
「はい?」柏木が、いや一同が眉を寄せる。「棄権は想定してないんだけど」
「どちらを選ぶにしても、失われるものが多すぎますわ。あたしには決められない」
「珍しいな、瞬殺(ブリッシュラーク)の詩織さんがよう決められへんなんて、理由訊いてええか?」
「黙秘権を行使します。それに理由を説明したところで、そしてみんなが納得しなかったところで、あたしの意見は変わりません。以上」彼女は以降の意思疎通を拒否した。
「最後は僕か」部長はため息を8拍ほど延ばした。「通報はしない」
『ロジック・ロック・フェスティバル』において、実況見分をしようと提案するのは会長(衿井雪)である。「15. 現場検証」をまるまる使って実況見分する様が描かれる。
「ではまず、手早く研究室内の様相を検めようか。その後、施錠したら私たちも粛々とここを立ち去るべきだ。いまでさえグレーだというのにここで長居していたら、余計に捜査が入った時に疑われる」
『天帝のはしたなき果実』において、実況見分をしようと提案するのは修野まりである。
「なら」由香里ちゃんがいった。「ここは撤収すべきですね、粛々と、急いで」
「もちろん」修野嬢がいった。「この部屋に何がどのように配置されているのか、確認してからだけど」
「どうして?」栄子さんが訊いた。「当面の間、知らぬ存ぜぬを通すんでしょう?」
「まり、『犯人』よ。『容疑者』でもいいけど」詩織さんが微苦笑した。その声は何か哀しかった。
「――犯人による現場改変に対処するため。いまひとつは犯人を特定するためよ。ただし前者については」修野嬢は呼吸をずらした。「瀬尾先生がいまカードキィをお持ちなら成り立たない理由だけど」
『ロジック・ロック・フェスティバル』において、現場から移動するように提案するのは生徒会長(衿井雪)だ(上記引用部分参照)。その理由は「余計に捜査が入った時に疑われる」との判断だからだ。移動先に音楽室を挙げるのは副会長(成宮鳴海)である。
「音楽室はどうでしょう?」と副会長。「今は誰もいないはずです」
音楽室は鷹松学園の新館でも旧館でもない、別館にあった。吹奏楽班や合唱班には別に練習室が設けられている関係上、入っていくのを見られたら何をしに行くのかと怪しまれるかもしれないものの、それさえ注意すれば後夜祭以後のイベントの間、ほぼ百パーセント誰も入ってこないような場所である。
こうして音楽室で落ち合うことに満場一致で決まり、すぐにそれぞれの組で行動を開始した。
『天帝のはしたなき果実』において、現場から移動するように提案するのは上巣由香里だ(上記引用部分参照)。移動先に第4会議室を挙げるのは部長(柏木照穂)である。その理由は相互監視をするためだ。会話文内にある括弧は柏木の心の声である。主人公(古野まほろ)は柏木の心の声を聴くことができるという設定がある。
「一馬」部長がいった。「一馬、美術得意だったよね。まほと見取図を作ってくれ。切間と僕で先生の遺体を改める。女性陣は第4会議室に先行して」
「柏木、きみは」僕は口を挟んだ。「僕らのなかに、教師殺しがいると?」
「(そのとおり)その議論は引っ越ししてからだ。誰も来ないとは思うけど、急ごう」
古野まほろ(作者)は「現場に留まるのは危険、との判断から」を「同一性」としているが、『ロジック・ロック・フェスティバル』においては捜査が行われたときに疑われるからであり、『天帝のはしたなき果実』においては相互監視をするためなので「同一性」とは言いがたい。
また「無人の部屋」とあるが、『ロジック・ロック・フェスティバル』における音楽室は無人の部屋だが、『天帝のはしたなき果実』における第4会議室は無人ではない。アンサンブル・コンテンストの運営を手伝っている勁草館高校の生徒の控室であり、実際に訪れた際にも内田という生徒が中にいる。
「あ、柏木先輩。例のおつかい終わりました」内田が焼きそば(大盛)を啜りながらいった。
「ここの部屋は」でんでんでん、と軍人のごとく爆進(ばくしん)しながら柏木が訊いた。「勁草館(うち)の人間以外は来ないんだね?」
古野まほろ(作者)側の主張に沿って見れば、勁草館生徒は事件関係者であり「(事件関係者以外は)無人の部屋」と無理矢理解釈することもできなくはないが、普通に考えれば第4会議室は「無人の部屋」ではなく、こちらも「同一性」とは言いがたい。
『ロジック・ロック・フェスティバル』と『天帝のはしたなき果実』を両方読了した印象としては、影響を受けているのは間違いないと感じた。今回検証した被害者のキャラクター造形と警察に通報しないことを多数決で決めるシーンは明らかに参考にしている。とはいえ文節単位の剽窃はなく、仮に裁判になったとしても著作権侵害との判断が下されるかどうかは微妙なところだ。
上記のように細部を比較すると必ずしも「同一性」と呼べない部分もある。箇条書きマジックを演出するために無理矢理同一だと主張した部分もあったのではないだろうか。とはいえ私が参照したのは旧訳であり、新訳では同一なのかもしれない。
中村あきの星海社FICTIONS新人賞を受賞したデビュー作『ロジック・ロック・フェスティバル』が、古野まほろのメフィスト賞を受賞したデビュー作『天帝のはしたなき果実』と類似していると指摘され一部で話題になっている。『ロジック・ロック・フェスティバル』に続いて『天帝のはしたなき果実』を読了したので、前回(http://anond.hatelabo.jp/20131221141558)に続いて比較検証していきたいと思う。ちなみに私が読んだのは講談社ノベルス版(通称「旧訳」)である。古野まほろとしては全面改稿した幻冬舎文庫版(通称「新訳」)を決定稿としたいようだが、諸事情から旧訳を参考とした。以下の比較検証において新訳では違ってくる部分があることをあらかじめ了承いただきたい。
12月7日にTwitterに於いて古野まほろが「関係性の説明」をした。それは大きく分けて【学校の設定】【死体発見時の言動等】【推理合戦】の3点である。今回はその中から【死体発見時の言動等】について検証していきたい。古野まほろが挙げた「同一性」は以下の通りである。
・警察への通報を拒否する理由は、高校生として「重要なイベント」のためである
・結果、その場にいる生徒による、多数決が行われる
・最後の一票により、イベントを優先して通報しないことが決まる
1つ1つの要素の問題ではありません(要素で見ても厳しいかな、とは思いますが・・・)。私が問題にしているのは、これらすべての要素の「組合せ」です。このような「組合せ」が、まったく別個の作家により、偶然に案出される可能性は、ゼロです。死体発見時の言動等もまた「同一性」の問題です。
古野まほろ(作者)は「死体発見時の言動等」と銘打っているが、前半は被害者の特徴についてである。『ロジック・ロック・フェスティバル』において、メインとなる密室殺人事件の被害者となるのは「灘瀬朝臣(なだせあそん)」である。灘瀬について記述してある部分を引用したい。
ねちねちとした口調、ねめつけるような視線、四十代半ばにして既に注意信号の頭髪、加えて誰が言い出したかセクハラ疑惑まで併せ持った社会科担当の教諭、灘瀬――なんとか。失礼、フルネームは存じ上げない。専門も世界史だったか倫理だったか。
灘瀬朝臣は社会科担当教諭であり、専門が世界史なのか倫理なのかは本文中で特定されていない。高校で世界史を教えるのに必要なのは「高等学校教諭一種免許状(地理歴史)」であり、倫理を教えるのに必要なのは「高等学校教諭一種免許状(公民)」だ。それぞれ別ではあるが、実際は両方を取得しどちらも教えるというケースが多い。
『天帝のはしたなき果実』において殺人事件は何度か起こるが、メインとなる首無し殺人事件の被害者となったのは「瀬尾兵太(せおひょうた)」である。瀬尾兵太は世界史担当教諭である。本文中に世界史以外の社会科科目を教えているとの記述はない。
黄昏の音楽室に入ってきたのは、我が県立勁草館高等学校で世界史の教師を勤めるとともに、同校吹奏楽部の顧問に任じる瀬尾兵太だ。
「要素」で判断する限りは「社会科担当教諭(専門は世界史か倫理か不明)」と「世界史担当教諭」を「同一性」と表現するのは厳密な意味においては正確ではない。だが、少なくとも数学と英語のように全く関係がない教科ではなく、非常に類似している「要素」であるといえる。
『ロジック・ロック・フェスティバル』において、被害者(灘瀬朝臣)の特徴が「理不尽な質問と悪態」であることは、さきほど引用した文のすぐ後に書かれている。特筆すべきなのは、実際に灘瀬朝臣が生徒に理不尽な質問をしたり、答えられない生徒に悪態をつくような場面が一切登場しないことだ。設定として生徒に恨まれる理由があることを示す以上のものはない。
根も葉もない噂には同情を禁じ得ないけれど、彼を生理的に受け付けない生徒は多そうだ。授業も理不尽な質問を当てるし、答えられない生徒には悪態もつく。
『天帝のはしたなき果実』において、被害者(瀬尾兵太)の特徴が「理不尽な質問と悪態」と断言していいものかは迷う。『ロジック・ロック・フェスティバル』の灘瀬朝臣がただの記号として描かれているのに対し、瀬尾兵太ははるかに血の通ったキャラクターで、特徴として挙げるべき点が複数あるからだ。主人公たちの所属する吹奏楽部のOBであるとか、東京帝大法学部出身であるとか、胸に大きな緑色の宝石を付けているとか、語学の達人であるとか……。
そこで、まずは「理不尽な質問と悪態」に該当しそうな部分を探してみることにする。第一章から瀬尾兵太が生徒に質問するシーンを抜粋したのが以下だ。
「p、って何だ」
「阿呆(ドゥラーク)かお前! 確かにfは『強く』でもいいが、pは『静かに』。(後略)
「あと峰葉、お前は腕立て二セット追加だ――理由は?」
「唇に歌口(マッピ)の跡が付きすぎて興を削ぐな。何でそうなるんだ?」
「それは何でだ?」
(前略)音がボケてる。どうしてだ?」
「舌遣い(タンギング)が柔かすぎたからでしょうか(はふう、想定の範囲内)」
瀬尾兵太が吹奏楽部の録音を聴いて指導する場面である。「理不尽」かどうかは判断が分かれるところだが、「質問」をすることによって生徒にどこがよくなかったのか自ら考えさせるのが瀬尾兵太のやり方のようだ。そして適切な答えを返せなかった生徒には、「阿呆かお前!」と悪態をついている。「悪態」については具体的にその言葉が出てくる箇所がある。
「まずは誰も口論の当事者だって名乗りでてこないからです。瀬尾先生の悪態というか音楽に関しての辛辣かつストレートな要求は今に始まったことじゃありません。誰だって何度もボコボコにされてます」
この発言をした登場人物は瀬尾の言動は「悪態」そのものではなく、「悪態」と表現してもいいような「音楽に関しての辛辣かつストレートな要求」と認識しているようだ。
これまでに記述したとおりメインとなる殺人事件を比較した場合、『ロジック・ロック・フェスティバル』も『天帝のはしたなき果実』も「被害者は、成年男性1人」で間違いない。しかし『ロジック・ロック・フェスティバル』は日常の謎を解く場面がいくつかあったのち、メインとなる密室殺人事件が描かれるのに対し、『天帝のはしたなき果実』は連続殺人事件を扱っている。その被害者は男子生徒、女子生徒、教師(これが「成年男性1人」に当たる)である。つまり、メインとなる事件だけを比較対象にした場合「同一性」に該当するが、比較対象を物語全体に敷衍した場合「同一性」には該当しないことになる。
「クローズドな施設」という表現が、含みを持たせている。ミステリーにおいては「密室」と「クローズド・サークル」というふたつの閉鎖状況がある。『ロジック・ロック・フェスティバル』において描かれるのは密室殺人事件だ。文化祭開催期間中に、密室となった社会科研究室で死体が発見される。
「……密室」
僕らが入ってきたドアは確かに鍵が掛かっていた。もう一方のドアは元よりガムテープでがちがちに封鎖されて閉め切りになっており、出入り口としての役目を完全に放棄させられている。四つある窓全てにしっかり施錠されているのが確認できるし、廊下側の壁の上部・下部にそれぞれ設けられた換気用の小窓もご丁寧に施錠がなされていた。
高校の敷地や建物は文化祭期間中で一般にも広く開放されているので「クローズド・サークル」ではない。しかし、社会科研究室を含む四階は、唯一の階段がふたりのバスケットボール部員によって監視されている。
「はい、そうみたいでした。なのであたし、立ち聞きする気はなかったんですが、会話の内容が耳に入ってしまったんです。彼女たちはこう言ってましたよね、『私たちがいる間にここを通ったのは、会長と副会長、あと実行補佐の四人で全部です』って」
『天帝のはしたなき果実』において、メインとなる首無し殺人事件が起こるのは、アンサンブルコンテスト県大会が行われている姫山市文化会館の第7楽屋である。この第7楽屋には死体発見時に鍵が掛けられていたが、オートロック式で関係者が鍵を持っていたこともあり「密室」とは呼べない。
ここの楽屋はオートロック式で、カードキィを持っていなければ開かない代わりに、内側からは鍵もチェーンも掛けられない珍しい扉になっています(朝のミーティングのとき瀬尾がいいましたね)。
姫山市文化会館は一般に広く開放されている公共施設であるので「クローズド・サークル」ではない。しかし、楽屋を含むエリアは関係者以外立ち入り禁止となっている。
「非公開区域にはリボンないと入れへんし、第7楽屋のドアは専用のカードキィないと入れへんで、念のため。借りたら記録残るし」
鷹松学園も姫山市文化会館も一般に広く開放されている。しかし「クローズドな施設」という含みを持った表現をすれば、どちらの作品も外部との出入りが制限される場所で死体が発見されており、当てはまることになる。
ここから死体発見時の状況になる。『ロジック・ロック・フェスティバル』において、被害者(灘瀬朝臣)の死体を発見するのは、主人公(中村あき)、山手線太郎、鋸りりこ、万亀千鶴、生徒会長(衿井雪)、副会長(成宮鳴海)の6人である。
四階に辿り着くと、そこにはなんと会長までもが参席していた。
「鍵、持ってきてくれたか! 早く、嫌な予感がする」
既に事態も把握しているようだ。
走り寄って僕がポケットから鍵を取り出すと、会長が引っつかむようにしてさっさと鍵穴へ差し込んだ。
かちり、と確かに鍵の外れる音。
社会科研究室の扉が開くと、中から冷気が溢れ出した。エアコンがかけっ放しらしい。何か異様な雰囲気と共に、確かな臭気がその中に感じ取れた。
「うっ……なに、この臭い」
千鶴が鼻を押さえる。
呼び掛けながら室内に足を踏み入れる会長。僕がその後に続いた。
研究室の入り口付近は左手にすぐ壁、そして右手に本棚といった配置である。そのため本棚が途切れたところで、ようやく部屋の全容が見渡せた。
目に飛び込んでくるのは痛いほど鮮かで、残酷な色彩。
一面の赤色。
血の海。
赤の海。
そこに沈む、ぐにゃりとした男の体。
深紅に溺れる、こと切れた灘瀬がそこにいた。
『天帝のはしたなき果実』において、被害者(瀬尾兵太)の死体を発見するのは、主人公(古野まほろ)、峰葉詩織の2人である。
うひゃあ! 前を歩いていた瓶緑色(ボトルグリーン)のブレザー着た集団も飛び上がった。彼女はず、ずいと第7楽屋の前に立つ。「キィは?」
「こちらです」
ピ、と脳天気な電子音とともに若草色(リーフグリーン)のランプが灯る。彼女は目を伏せがちにいった。
「こんどは檸檬、買ってくるのよ。古野君の勝――」
次いで教科書どおりの、深々とした、背筋の伸びた息継ぎ(ブレス)。
「僕の、か?」
彼女の凍てついた顔を、僕は忘れない。陸奥(みちのく)の安達ケ原の姫山に、鬼籠もれりというは真実(まこと)か――
そこには、嵌め殺しの机にもたれ、ドアに背を向ける形で、瀬尾だった物体があった。
肩からうえには、首がなく。
それは、避けられない宿業のようだった。
上記に引用したとおり、『ロジック・ロック・フェスティバル』も『天帝のはしたなき果実』も「発見者が生徒である」ことは間違いない。付け加えるならどちらの作品も「死体の発見者が主人公を含む集団である」と言っていいだろう。また主人公自身が鍵を開けるのではなく、別の人物に促されて主人公が鍵を渡す点も共通点と言える。
ここからは、死体を発見したものの警察へ通報しないという判断をするシーンである。上記ふたつについて引用部分が同じなので同時に検証する。『ロジック・ロック・フェスティバル』において、通報を拒否する生徒は生徒会長(衿井雪)である。その理由は自身が実行委員長として力を注いできた文化祭を最後まで終わらせたいというものである。
その時だった。
会長がすっとみんなを置き去りにするように入り口の方に向かった。そして直後、社会科研究室の扉がぴしゃりと閉じられる音が響いたのだ。
「会長……?」
不審に思い、僕も一度灘瀬の遺体から離れ、一同の輪の方へ戻ることにする。
そこから入り口を見ると、なんと会長は信じられないことに扉を背にしてその場で膝を折り、こちらに向かって土下座をしていたのだ。
それだけではない。とんでもない発議がその口からなされた。
それは誰もが理解に時間を要するほどの突飛な提案だった。
「な、何を言って……」
ようやくどうにかして言葉を発した副会長を遮って、会長は哀願するように続けた。
「分かっているんだ、これは普通の思考じゃない……異常だ、狂ってる……そんな風に思うかもしれない……それでも! それでも私は自らの全てを鷹松祭に注ぎ込んできた……実行委員長として私にはこの祭を完成させる義務がある。それだけは誰にも邪魔させない。じきに一般公開も終わる。そこから簡単な片付けがあって後夜祭、ファイアーストーム、そしてグランドフィナーレ――鷹松祭が終了を迎えるまで残り約三時間、あとたったそれだけなんだ!」会長は喘ぐように息を継いだ。「――今一度、三顧の礼を尽くして懇望する。鷹松祭の終了まで示し合わせて黙っていてはくれないだろうか」
『天帝のはしたなき果実』において、最初に通報を拒否する生徒は主人公(古野まほろ)である。その理由はすでに演奏が終わったアンサンブル・コンテスト県大会の結果が聞きたいというものである。
「差し当たり重要なことは」一馬が厳かに口火を切った。「ひとつしかないわ。通報か沈黙か。それが設問よ(ザットイズザクエスチョン)」
「僕は沈黙派だよ」と僕。
(中略)
「今通報すれば、会場は大混乱、大会どころじゃなくなる。あれだけの演奏ができたのは瀬尾のお陰だし、客観的にもその評価を得るのが供養だと思う」
世間一般様から「読書家」とひとくりりにされ、一束十円のブックオフ価格で流通している今日このごろの読書ファッションクソ野郎どもであるけれど、その内実はピンキリで、とりあえずジャンルや内容や分量に関わらず月に三冊以上読んでいれば全国平均的に照らして「かなり読んでいる」ほうの部類に入る。
数を誇りがちなのは男だ。
数をこなしたからといって偉いわけではないと口ではうそぶきつつ、「いやあ、今年は千冊も読めなかったよ」だとか「一日頑張れば十冊は行けるね」だとか「○○の必読本リストは○冊しか読めてないな」だとかなんでもかんでも数字に還元する。
別に速読はクソだとか熟読こそ至高だとかいう議論をしたいわけじゃない。ヴォルター・ベンヤミンは生涯で1700冊しか本を読まず、一方でレヴィ=ストロースは一冊書くために7000冊を読み、イケダハヤトは年速500冊を読破し、ボルヘスは「1000冊も読める人間など存在しない」と主張した。この四人の言う「読む」はおそらくそれぞれ意味が大いに異なる。だが今はそんなことは関係ない。「本を読む、とはどういうことか」じゃない。傾向の話だ。重要なのはベンヤミンもレヴィ=ストロースもイケダハヤトもボルヘスも松岡正剛も佐藤優もそのへんのラノベ評論家もブログやってるビジネスマンもみな男だという事実だ。
男は自分についてであれ他人についてであれ、読書について言及するときに数の話をしたがる傾向にある。
数が多い方が偉くて強い。そういう世界は微笑ましい。人によっては浅薄で醜いと断じるかもしれない。けれど、浅い分理解しやすくはある。
そこに現れているのは一種体育会系的な価値観だ。どんなメガネモヤシとて鬱屈したヲタとて、オスである以上は筋肉量に憧れるのだ。私の読書冊数は十三万です。
強い。わかりやすい。
読書メーターが珍重される理由もそこに関係している。RPGみたいに、読書家のステータスを可視化してくれるのだ。今までの読書冊数がHPなら、月あたりの読書冊数がすばやさ、コメントがパワー。
既読冊数も数なら、読んだ本の内容も数だ。実のところ「読んだ本の数より、どれだけ内容を理解しているかのほうが重要だろ」と、男が言うときに使う「理解」という単語はそのまま「記憶」に置き換えうる。つまり、本の筋や要点をどれだけ他人の前でそのまま垂れ流せるか、どれだけ脳にストックしてある別の本と(それぞれの文脈を無視した上で)リンクさせられるかが男の言うところの「理解」となる。ぷよぷよとかミスタードリラーとか、そのへんの連鎖パズルゲームをやってるのとあまりかわらない。
ひるがえって、女は数の話をしない。そもそも数えない。目の前を流れてゆく本にただ好きか嫌いかのスタンプを流れ作業で押していく。
小説についての話をすると、まず自分がある登場人物をいか好きか/嫌いかを述べだす。本気で。ぼんくら男子同士が「ビッチ」だと「処女」だのとぼんくら慣れ合いのための属性を貼り付けて表面的に消費するのとわけが違う。彼女らは本気でキャラを憎み、愛している。
そして、いきなり自分語りを始める。マミさんによく似たバイト先の先輩の話を始める。そんな先輩がいらっしゃるならぜひ紹介していただきたい、というこちらの懇願を無視して、いかにその先輩とそりがあわないか、先輩がクズかをとうとうと語り、最終的にバイト先がかつてマルクスの予言し憂慮した末期資本主義的状況下にあり私はとてもつらいんです大変なんです疎外されてるんですだからマミさんは最低な女だと思います、という実に革命前夜なティロ・フィナーレに行き着く。
よくわからない。よくわからないと言えないまま、また別の本と別の現実の話題にうつる。
マミさんが嫌いな女子とは別の知り合いで、村上春樹を嫌いな女子がいる。その子は村上春樹がそりゃあもう大っ嫌いだ。春樹に関係するものすべてを憎悪していて、村上春樹本人も嫌いなら、ファンも勿論大嫌いで、村上春樹フェアをやってる書店も嫌いで、『色彩を持たない多崎つくる』が大ヒットしている現代日本社会も嫌っている。読まず嫌いというわけでなく少なくとも数冊は読んでいるはずのその子が本質的に村上の何が嫌いかはよくわからなくて、理由を訊いても「キザっぽくて嫌だ」とか「セックスだけじゃん」とか、いまいち要領をえない。だって、おまえ、バタイユとかサドとかロブ=グリエとか喜々として読んでるじゃん。
男子にも村上春樹とそのファンとその社会を嫌うやつはそれなりにいて、でもそういうやつらはなぜか「『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』だけは好きだね」などと妙に言い訳地味た予防線を忘れない。続いて、聞いてもないのに春樹論について語りだす。「俺は基本的に春樹嫌いだけど、文学性や価値は理解できるし、いいところがあれば認める度量もあるよ」と言いたいわけだ。春樹以外の気に食わない作家陣に対しても似たような態度しかとれない。嫌うのに社会的にコレクトな理屈を探そうとする。それを見つけたあとでも、けなしはしても全面的な攻撃はしかけない。そんな度胸はないんだよ。俺もお前も。
女は退かない、媚びない、顧みない。嫌った相手には容赦しない。同時に自分の正当性や正義も疑わない。よって言い訳をしない。理屈を探さない。よその基準など関係ない。私の人生が伊坂はクソだと告げている。
虚構と現実の境界線をきちんと引き、作品世界をきっちり読み込み把握したうえで、手前の価値観の物差しのみを武器に全身全霊をもって襲い掛かってくる。彼女たちは数を数えない。だから、物差しで切り捨てた数もおぼえていない。
あなたがもし男であるならば、女と本についてトークするのはオススメしない。なぜなら、あなたは弱い。あなたはその本について、内容を記憶しているだけで実は何も独自の見解を有していない。その場でとっさにひねりだした解釈に、あなたは確信を持てない。それでは耐えられない。あなたは読書を通じてコミュニケートする、ということがどんなに恐ろしいことか、リアルにオリジナルな見解を持っている人間の狂気がどんなに鋭利か、わかっていない。年間三千百冊を読了できたとしても、それらの内容を一字一句違わず暗誦できたとしても、絶対に辿りつけない彼岸がこの世界には存在するのだ。そこでは数や引用など意味を持たない。愛情と感情がすべてだ。あなたは死ぬ。死にたくないなら他人と金輪際本の話をするな。外に出ろ。ゲーセンにいけ。三鷹駅裏のゲーセンではまだ『ぷよぷよ通』が現役で稼働している。あなたの居場所はまだそこに残されている。生きて欲しい。生き延びてほしい。
堀田善衞の小説『路上の人』( asin:4198618230 ) を読んだ。
13世紀のヨーロッパが舞台で、カタリ派と呼ばれるキリスト教の異端教派の十字軍による征伐を背景に、路上を放浪する中年の男ヨナがキリスト教世界を放浪する物語である。
読了後に知ったのだが、最近ジブリの森美術館で、もし映画化するとしたらという前提のもと宮崎吾朗氏が作成した絵コンテやポスターが展示されていたらしい。来年夏公開予定の新作がこの『路上の人』なのではという噂が流れているが、私はそれは到底できないと思う。もし映画化するとしたら、ジブリは子供向けアニメを届けるスタジオというイメージを完全に捨て去ることになるだろうなと思う。
『路上の人』というタイトルはキリスト教世界において安住する場所の無い東洋人である堀田善衞自身を指している。堀田の分身であるヨナの目線で、当時のカトリック僧院の生活をかいま見て、そこで当たり前のように行われている不正や腐敗を描き出す。そして、カトリック教会とは異なる教義を持ち、慎ましく暮らすカタリ派の信者が異端審問にかけられ、虐殺されていく様を描く。これは書籍に挟み込まれた堀田と誰かの対談において、堀田自身が述べているのだが、『路上の人』は「ヨーロッパへの異議申し立て」なのである。
ここで題材となっているカタリ派について、あまり作中では詳しく語られていないので、簡単な副読本として『カタリ派 ーー中世ヨーロッパ最大の異端』( asin:4422212206 )を読んでみた。これによると、カタリ派とは現世は悪によって生み出された地獄そのものであり、この世には一切の価値がないと考え、ただただ世界の終わりに神によって救済されることだけを願って一生を生きるという教義を持つ教派であるらしい。現世に生まれることは地獄に居ることと同じなので、生殖を目的とする性交を禁じている(ただしそれ以外の性交は禁じていないというところがユニーク)。カタリ派にとって死ぬことととは救済であるが、自殺は禁じられているので、信者はただ死が訪れることを希望として生きる。カトリック教会が特に問題視したのはキリストの人性を否定したこと、洗礼などのサクラメントの必要性を否定したことにあるようだ。
異端という考えは正統があるからこそ生まれる。宗教の正統性は日本人にはピンと来ない問題だからこそ、『路上の人』で描写される凄惨な異端審問の様子にやるせない気持ちが生まれる。
http://yuma-z.com/blog/2013/05/student_books/ という人のエントリを見て、自分も(学生じゃないけど、)読んで楽しかった本をまとめてみたくなった。
この長い本の紹介を読んで、読んでくれる人や、ほかにおもしろい本を紹介してくれる人が続いてくれたら自分はうれしい。まだ微修正中で、加筆・修正するかもです。
これから紹介する本の順序について、あまり意識していないけれど、なんとなく読んでいる人が多そうな順。下に行くにつれて、読んでいる人が少なくなっていくと(書いている自分は)予測してます。
このエントリで紹介するのは以下の本です。つづきは http://anond.hatelabo.jp/20130530045256 で。
宮部みゆきさんの小説。一人の女性が婚約後にいなくなってしまう。主人公はその女性の捜索を頼まれて、懸命に消息を追う。そして、調べていくうちに、現代資本主義社会の底しれぬ闇が見える――。
とても有名な作品で少し前にテレビドラマにもなったようだ。物語の始まりが冬の寒い時期のせいだろうか、自分は冬の時期に読みたくなる。三日間くらいで読了できるとおもしろさが持続すると思う。
読まれる方は、Wikipediaのあらすじにネタバレの要素があるので注意されたい。Amazonの書評にも、ややバレる要素があるかな。この小説についてはあまり詳細について語ると魅力が半減してしまう気がする。読まれる方はできる限り事前の情報収集を避けて読んでください。
1995年にそれまで350年にわたり証明されなかったフェルマー予想が証明された。そのフェルマー予想をテーマにしたノンフィクション。著者はサイモン・シンさん。翻訳は青木薫さん。
著者のサイモン・シンさんはこの後紹介する「ビッグバン宇宙論」においてもそうだが、説明がとても丁寧だ。わからないことを教えてもらおうとして、わかっている人に聞いたときに下手な比喩でたとえられて、全くわからないという経験をした人は自分以外にも大勢いるだろう。サイモン・シンさんの比喩はわからないという気にならない。なぜなのだろうか。
数学をテーマにした本なので、数学が嫌いな人は手に取ることもないかもしれない。しかし、そういう人もぜひ読んでみてほしい。というのも、この本は数学の「問題そのものを解く」ということが主題ではないから。むしろ数学の問題はどのように生まれるのか、それを解こうとして350年にわたり数学者たちがどのような試行錯誤を続けていったのか、そのもがき苦しんだ歴史の本だからだ。
海外の本はしばしば翻訳調とでもいうべきか、文が堅く読みにくい感じがすることもあるけれど、この本はとても翻訳が丁寧で読みやすい。青木薫さんのすばらしい仕事だ。
自分は単行本(ハードカバー)で読んだ。文庫版だと新しい翻訳者のあとがきなどがついているかもしれない。
ジョージ・オーウェルが書いた小説。ユートピア(物質的・精神的に豊かになる、健康で長生きできるといったような人間の社会が幸せで良い方向に向かう社会)小説の反対、ディストピアを描いた小説。
ここまで暗く描かれるとむしろ読む方の気分は明るくなるような、そんな気にすらさせてくれる小説。ただし、それは読後の感想であって、読んでいる最中は暗いままだけれど。
村上春樹さんの1Q84はもしかしたらこの小説に関連があるのかもしれない。今ググったら、どうやらそうらしい。自分は村上さんの方は読んでいないので何も言えません。(すみません)
この小説が書かれた時期も意味があるし、この小説の中で登場するニュースピークという言語体系の設定は、そもそも言葉とは何なのかを考えるきっかけにもなるだろう。
火車と同じくWikipediaはあまり見ないで読み始めた方がよいだろう。
大崎善生さんの小説。純粋な小説というよりも何割かはノンフィクションかな。
自分は将棋のことは駒の動き方くらいしか知らないのだが、羽生善治さんやほかにも何人かくらいは将棋指し(棋士)の名前を知っている。この棋士の方々は、奨励会という将棋のプロを養成する機関の中で勝ち上がってきた人たちだ。勝ち上がってきた人は晴れて棋士になるわけだが、では、「敗れ去った人たち」はどうしているのだろうか。その人たちをテーマに据えた小説だ。
この小説はけっこうずしりとくる。最初に挙げた宮部みゆきさんの「火車」は小説の範疇ということもあるせいか、なんとなく怖さを感じることはあるが、現実的な切実さ、哀しさまでは感じないかもしれない。この「将棋の子」は、何かを一生懸命やってうまくいかなかった人の哀しさがよくわかるし、そういう体験をしてきた人(あるいは今そういう一生懸命何かに取り組んでいる最中の人)にはこたえるものがある。
ファインマンというアメリカの物理学者の自伝的エッセイ集。著者はリチャード P. ファインマンさん。翻訳は大貫昌子さん。この本もすばらしい翻訳だ。
エッセイ集ということもあって、好きなタイトルから読み始めることができる。エッセイ集なんてつまらんだろう、などと思っている人は読んでみてほしい。物理学者とは思えない言動の数々と、物理学者だからこその言動が少々。そして、その間に驚かされるような洞察が垣間見えるのだ。場合によっては論語みたいな読み方もできるかもしれない。
全般に明るく楽しく描かれているけれど、これは意図的なものだろう。第二次世界大戦のロスアラモス時代には、自分の心にとどめるだけの悲しい出来事も数多くあったのではないか、と自分は想像している。
最後の「カーゴ・カルト・サイエンス」の節はできれば最後に読んでほしい。この節だけは特別だ。物理学がわかれば、もっとファインマンさんのことをよく知ることができるのだろう。それができないのは残念だ。
「プー横丁にたった家」は「くまのプーさん」の続編だ。「くまのプーさん」というと、単なるハチミツが大好きな黄色っぽいクマだと自分は思っていた。そうではなかった。
この本は子供向けの童話だと思われるかもしれないが、読んだことのない大人の方も読んでみてほしい。自分も大人になってから読んだ。著者はA.A. Milne。翻訳は(童話のジャンルでは高名な)石井桃子さん。
プーさんはもともと、著者が自分の息子に聞かせるためのお話だったようだ。こんな話を子供時代に聞かせられたらすごいことだ。
ところどころでプーさんが代弁する著者の考え方は、Amazonのレビューにもかかれているけれど中国の思想家のような、どこか超然としたところがある。このクマがほかの動物たち(と一人の子ども)に向かって話しかける姿が良い。それとプーさんと行動をともにするコブタ(ピグレット)が健気だ。自分は大人になってから読んだせいか、出てくる動物たちの役割に目が向いた。すなわち、物語の筋よりもおのおののキャラクターが人間のどういう面を強調したものなのかを考えてしまいがちだった。子供の頃に読んだならば、もっと無邪気な読み方ができただろうと思う。
サイモン・シン氏の2作目の紹介になる。翻訳も前に紹介した「フェルマーの最終定理」と同じ青木薫さん。(本自体は「フェルマーの最終定理」→「暗号解読」→「代替医療のトリック」(共著)→「ビッグバン宇宙論」、で四冊目だ)
大人になるにつれて、子供の頃に「なぜだろう」「どうしてだろう」と単純に不思議に思えたことへの興味がだんだん薄れていくと思う。すくなくとも自分はそうだった。どうして鳥は飛べるのに人間は飛べないのだろう、なんでお風呂に入ると指がフニャフニュになってしまうのだろう、どうしてテレビは音が聞こえたり絵が見えるのだろう、泥だんごはうまく丸くなってかちかちに固くなることもあるけど、そうでないこともあるのはなぜだろう、カブトムシはかっこいいけど、クモはすこし気味が悪いのはなんでだろう…、などなど。
そういう疑問の中で、人間がずっと追いかけて考えてきた疑問の一つが「この人間が生きている空間はどういうものなのか」だろう。その考え方の歴史をまとめたものがこの本だ。この本をひもとくと、この百年の間に予想もし得ないことが次々に見つかったことがわかる。ビッグバンという言葉はほとんどの人が知っていて、宇宙は一つの点から始まったと言うことは知っているだろう。意外に思えるけれど、今から百年もさかのぼれば、ビッグバンという言葉すらなく、そう考えている人も科学の世界において異端扱いされていた。
宇宙論という非常に大きなテーマを扱っているため、「フェルマーの最終定理」よりも分量があって読むのが大変かもしれない。ただ、自分が読んだ単行本(ハードカバー)には各章にまとめがついていて、おおまかな筋はそこを読めば追えるように配慮されていた(これはうれしい配慮だ。)文庫版のタイトルは「宇宙創成」のようだ。
読み終わったら、ぜひ上巻のカバーと下巻のカバーのそれぞれの色に着目してほしい。
今まで見てきた本を読むとわかるかもしれないが、あまり自分は昔の小説を読むことがなかった。一つには風俗や文化が違いすぎて、いまいちぴんとこないからだろうか。そう思って昔の小説を読むことがほとんど無かったけれど、このモンテクリスト伯はおもしろかった。著者は三銃士でおなじみのアレクサンドル・デュマ。翻訳は竹村猛さん。自分は上に挙げた岩波少年文庫版を読んだ。
復讐劇の代表的な作品だそうだ。「それってネタバレでは?」と思う方もいるかもしれない。そうと知っていてもやっぱり楽しい。引き込まれるようなおもしろさがある。
少し前に「レ・ミゼラブル」が映画になって、そちらの原作も良かった。境遇は何となく似ているのだけれど、「レ・ミゼラブル」が愛の物語なのに対して、モンテ・クリスト伯は純粋に復讐劇だ。その痛快さ。モンテ・クリスト伯の超人的な活躍が楽しい。
自分はまだ一回しか読んでいないせいか、下巻の最後の方のあらすじはうろおぼえになってしまった。もう一度読む楽しみが増えた。今度は岩波文庫版で読もうかな。
森博嗣さんの小説。もともと「まどろみ消去」という短篇集の中に「キシマ先生の静かな生活」という短編があって、それを長編ににしたものだ。
(科学系の)研究者の世界とはどういうものなのかを丹念に追った小説であり、若干の事実が含まれているのかな?と思っている。森博嗣さんは某大学の研究者であった(今では退職されたようだ)人で、その知見がなければ書けない小説だろう。
今Amazonのレビューを見たら、「自分には残酷な小説だった」というレビュー内容もあった。自分は、心情、お察しします、という気持ちだ。ただ、主人公は喜嶋先生と出会えたことは僥倖だったに違いない。この小説の中で登場する喜嶋先生の名言は、本家よりもむしろ心に残る。
北村薫さんが選ぶミステリーを中心とした選集。あるテーマを設定して、そのテーマの中で北村さんが編集者と対談形式でさまざまな物語を紹介していく形式だ。テーマは「リドルストーリー」であったり、「中国の故事」であったり、「賭け事」であったりと様々だ。
編集者との対談は実際の編集者ではなくて、北村さんが頭の中で生み出した架空の「編集者」であるけれど、この対談がとても読んでいて楽しい気持ちにさせてくれる。いろいろな本が紹介されて読みたくなる。そういう罪深い(?)本だ。これを元に幾冊か叢書が組まれた。
その叢書の中で、自分が気に入ったのは「私のノアの箱舟」と「なにもない猫」だ。このシリーズはまだ全部読んでない。だから、気に入ったものは変わるかもしれないし、増えていくだろう。
自分は中国の故事や旧仮名遣いの本は読みづらく感じてしまうので、「真田風雲録」は読めないかもしれないなあ。
海外の人を中心にした伝記シリーズ。主に子供を対象としているためだろうか、シリーズ全体として、文は平易で図や写真を多用している。そう書くとありきたりな伝記に思われるかもしれないが、装丁、ページの中の文と写真の配置の良さが際立つ伝記集だと思う。
全体として、割とマイナーな人も取り上げていたりするし、平和に貢献した人たちを取り上げている点も特徴だろう。気になった人がいたら、その人を読んでみてほしい。
星新一は、多くの人がショートショートと呼ばれる一連の作品群で読んだことのある作家だろう。その人の評伝だ。著者は最相葉月さん。
星新一さんはその作品を読むとところどころに冷徹さが垣間見える。その冷徹さがどこから生まれたのかがわかるだろう。もともと幸せな境遇に生まれ育ったが、途中からどうしようもない災厄に見舞われるからだ。それだけが冷徹さの理由ではないだろう、ほかにもこの本を読めば思い当たる点がいくつかある。それらも書くと紹介としてはやや度が過ぎるのでやめておく。
最後の方で著者は有名な芸能人にもインタビューする機会を得て、実際に星新一さんについて尋ねる。そこも印象に残る。その芸能人はちょうど星新一さんの逆の人生をたどるような状況になっている。
自分はこの評伝を読んで、がぜんショートショートに興味を持つようになった。
SF小説はあまり読んだことがないのだけれど、この小説は良かった。著者はケン・グリムウッドさん。翻訳は杉山高之さん。
SFのよくある設定として、「もし過去に帰ることができるとすれば、その人の人生はどう変化するのだろうか」というものがある。その王道設定を利用して、すばらしい小説になっている。
この小説が書かれた時代は1988年なので、やや風俗や文化の描写が21世紀の現代と比べて現実離れしている点があるけれど、それを差し引いてもすばらしい小説だ。
あまりあらすじをかかない方がよいだろう。http://anond.hatelabo.jp/20130530045256 で紹介する「心地よく秘密めいたところ」と全然違う話なのだけれど、自分には似たものを感じる。
この本は近年読んだ中で最も良かった。
自由への長い道は南アフリカ共和国でアパルトヘイト(人種隔離政策)が撤廃されるまで闘った人々のノンフィクションだ。著者はネルソン・マンデラさん。翻訳は東江一紀さん。
アパルトヘイトという言葉とその意味は何となく知っているけれど、それが具体的にどんなものかを説明できる人は日本の中で多くないのではないかと思う。ネルソン・マンデラさんとその仲間たちは、それをなくそうと政治活動を繰り返す。そしてその度に時の政府の激しい妨害に遭い、その結果そういったグループを作ること自体が違法になり、グループの首謀者たちは収監されてしまう。そこからが圧巻だ。
いかにしてそういう逆境の中で自分の政治信条を保ち続けるか。自分たちの仲間を増やして支持を広げていくか。そして時の権力機構に対して、アパルトヘイトの「非道さ」をアピールし、撤廃にこぎつけるか――。
仲間の反乱分子やスパイへの対処、国際社会へのアピールなど、常人には思いもよらない方法でアパルトヘイト撤廃に向け前進してゆく。ところが、前進したと思ったら後退したりすることが何度も繰り返されるのだ。
この本はネルソン・マンデラさんがアパルトヘイト撤廃後の大統領に選出された直後に出版された本なので、結末に近づくにつれてかなり筆が鈍って、慎重な言い回しが増えていく。現在進行形のことを縷々書くと信用問題になるからだろう。それでもこの本は読んでいて楽しい。
この本を読んだ人は「ネルソン・マンデラ 私自身との対話」もぜひ読んでほしい。自分もまだ途中までしか読んでいないが、より素直なネルソン・マンデラさんの言葉と考え方がわかると思う。(「自由への長い道」についての言及もある。)
ほかにも映画「インビクタス」や、「マンデラとデクラーク」など、映像作品もある。後者の「マンデラとデクラーク」は「自由への長い道」と同じテーマだ。ついでに、youtubeにあった国連の広報映像(日本語訳付き)もリンクしておく。
悲鳴伝もそこそこつらかったが、ますますつらくなってもうまともに読むにたえない。
半分過ぎたあたりから会話の部分だけを拾って読んでいったけどそれでも物語は十分に追える。
キャラ萌えもないし、主人公の思考も本当に駄々漏れという感じで読んでて全然おもしろくない。
悲鳴伝はまだ割りと話の盛り上がりとかがあったけど、今回は完全に行き当たりばったりで抑揚がまったくないお経を聞いてるような気分になる。
おまけにこんだけ長文に付きあわせて最後は未完とかほんとに時間の無駄だった。
才能が枯渇した中で一生懸命にひりだして薄めて薄めてといった感がアリアリ。
物語シリーズの偽物語以降のgdgdっぷりを見ても戯言シリーズからのいちファンだった自分としては残念だ。
いったん充電期間置いたほうがいいと思う。
このままうっすい本を出し続けても見限られるだけだと思う。
最初に西尾維新を見出した太田あたりは今の西尾維新についてどう思ってるのかねー。
メフィスト賞かなんかの酷評が定期的に話題になるけど、今の西尾維新の本を別名で応募したら同じように酷評されるレベルまで落ちぶれてると思う。
あー。。。でも物語シリーズ第二シーズンアニメ化も控えてるし、またそれの書きおろし短編とか書いたりするんだろうなー。。。
もう見てられないよ。。。
なんだかんだで出たら読むとは思うけどさ。。。
もういい休めのAAをぜひ贈りたい。
「本読もう!」
2.すげーっ本っておもしれーー
3.「海辺のカフカ」すげーー!こういう考えがあるんだ!!
4.(その後、「IQ84」、「色彩を持たない多崎つくると、 彼の巡礼の年」読み、ハルキストとして思想を享受し、神格化する)
6.「限りなく透明に近いブルー」読了。えぇと、ふーん。
7.「トパーズ」ああ、えぇと、ふーん。
8.「五分後の世界」おぉおおおおお!すげーー!
9.(あ、でも、暴力とか薬とか、ちょっとついていけんわ・・・)
11.「オーデュボンの祈り」読了。なんか春樹っぽいかも!おもしれー!
13.(その後、「アヒルと鴨のコインロッカー」、「ゴールデンスランバー」読み、映画もことごとく制覇していく)
15.「辻村深月」って話題だな、読もう! ※平積みされている=話題
16.「冷たい校舎の時は止まる」ふーん
18.「スロウハイツの神様」へー。
19.「V.T.R.」うわー!あのチヨダコーキだ!!これってぜってー春樹じゃね?!マジ最高!
21.「森見登美彦」ってツウが読んでるっぽいぞ、よし!
22.「太陽の塔」やべー・・・俺のこと書かれてるみたいだ・・・
23.「夜は短し歩けよ乙女」ふーん
24.(とりあえず読んだ!)
25.「万城目学」って話題なんだ、これも読もう! ※平積みされている=話題
27.「かのこちゃんとマドレーヌ夫人」ふふん。こういうのが良いんだよ。分かってないな、みんな。
28.ったく、、、知らなかったぜ、こんなに本が面白いなんて。
秘密のブックマーク、略して「秘ブ」というソーシャルブックマークサービスを作ってみました。
今は風俗嬢やってるんですが、(悲しいことに)時間があったっていうのと、
秘ブ.jp
(アダルト専用のソーシャルブックマークサービス)
http://anond.hatelabo.jp/20101203150748
・Rails3 と jQuery で、真面目にオシャレなエロサイトをつくってみました
私は、早く自立できるようにと高専を出て、田舎から東京に移り住み、事務として働いていた。
この時点ではエクセルとかワードとかは使える、マクロもちょっと組める程度のレベル。
自立したかったのは父親が生活費をパチンコとか女に溶かすような輩だったため。
私が自立したあと、両親は無事離婚。激務で薄給、母親と離れて暮らして寂しくても頑張っていた。
鬱病はつらい。何が辛いって、本人も辛いんだろうけど、荒んだ部屋の中で横になって息を潜めている母親の姿を見るのがきつい。
いつでも母親の側に駆けつけることができるように、お金と時間に余裕が欲しかった。
でもねー、全く稼げないwww 笑っちゃうくらい。
大衆店にいるんだけど、女の子もお店も多くて、私より若くて可愛い子がわんさかいる。
お客さんがつかないと収入0なんだよね。
店長やお店のお姉さんがマットや椅子を覚えな、ってアドバイスはくれるんだけど、
その頃教えてくれる先生がたまたまいなかった。(今は別の店に修行にいったからバッチリできるけど)
仕方ないからようつべとか動画サイトでソープのお仕事系の作品を見まくったわけ。
(余談ですがマ◯ティ夫人ってお店のマット技一覧のページはすごいよ!)
お客さんつかないから時間がすんごいあって、待機室でずーっと見てた。
で、マットの動画とか、ボディ洗いの動画探すんだけど、なかなか見つからない。
で、そんなことをしてるうちに思ったんだけど、エロサイトやエロ動画、
果てはマニアックな趣味の情報を共有できるサイトがあったら便利じゃないかな?と。
数少なく接客したお客さんで、わざわざブーツ持参で、顔面を踏みつけてくれ、って人がいたんだけど、
でも日本中を探したら、同じ趣味や、近い嗜好の人がいるんじゃないかな?って。
時間は私自身が病むほどあるし、そんなわけで制作に取り組みました、秘密のソーシャルブックマーク、
略して「秘ブ」(「秘部」とかけてあったり)
吉原の泡姫たちは、タクシー通勤する人が多いんだけど、私は三ノ輪の駅から歩いて通ってた。
元彼に借りたプログラムの本などどっさり持って。めっちゃ重いw
待機室でひたすら落ち込みながら金勘定するより、母親の心配をするより、何か生産的なことを考えていたかったんだよね。
この一年でかなり勉強して、ようやく公開できるレベルに達したかなとおもいます。
みんなが来てくれるかはわかんないけど、まあ来てほしいなと思う。
さて、湿っぽい話はここらへんにして、どうやって作っていったかを話しましょう。
・Semantic Scuttle
http://semanticscuttle.sourceforge.net/
・HeartRails Capture
http://capture.heartrails.com/
・Twitter Bootstrap
http://twitter.github.com/bootstrap/
・Bootswatch
サイトの構成なんかも書こうと思ったけど、セキュリティ的に良くないって聞いたし、
はてな民のみなさんに突っつかれるのが怖いので少しだけ(^_^;)
まあ違う意味で突っつかれるのは慣れてるんだけどw
簡単に書いとくと、HTML、CSS、PHP、MySql、javascriptくらい…なのかな?
Semantic Scuttleが裏でやってることはあまり詳しく分からないです。
どうやらまずはHTMLとCSSをやれということらしいので、そこから始めた。
使ったのはこれ。
メモ帳で簡単なWebページを作りながらだと結構スッと頭に入ってくる。
逆に言うと、読んでるだけだと全然あとで思い出せない。
「Ctrl+U」でページのソースを一発で見れることを知り、参考のために色んなサイトのソースを見まくった。
全部頭に入ったわけじゃないけど、ここまでで最低限、検索ワードが思いつくぐらいにはなる。
ここまでで大体一ヶ月くらい。
もちろんHTMLとCSSだけではてブ的なものが作れるわけはない。
っていうかほぼ路頭に迷った感じで「はてブ的なものを作る方法」をググりまくった。
結果「Semantic Scuttle」なるものでそれに近いサービスを作れることが判明。
「Semantic Scuttle」を調べてみると、どうやらPHPとMySQLで動いているらしい。
でもダウンロードしてみて中身を覗いてみても何が何やらさっぱり。
とりあえず2つ一緒に覚えられそうだと思って元彼にこの本を借りてきた。
XAMPPのインストールをして、PHP書いて、MySQLと接続して…
ふむふむ、書いてあるとおりに作ったのは作ったけど、あんまりわからん。というのが感想。
ちなみにPHPを書き始めるのにあたって、eclipseという統合開発環境(意味がいまいちわかってないけど)を紹介され、インストール。
コード書きやすすぎ、色分け便利すぎワロタwwwと思ったのを覚えている。
設定はめんどくさかったけどね。
eclipseについて詳しくは→http://www.javadrive.jp/eclipse3/
しかたない、まずはPHPだけでも頑張るかと思い、次に借りたのがこの本。
ひと通りサーッと読んで大体どんなことが書いてあるのかを頭に入れてから、
必要そうなところを詳しく読んで作ってみてっていうやり方をした。
MySQLのことにも触れてあるので、そっちの復習もできた。
クラスについても薄らぼんやりわかってきて、動くものを作れるレベルには上達。
この辺りは、サボったり迷ったり環境整えたりで2ヶ月くらいかかったかな。
さて、これでいけるだろうと意気込んで長らく保存しておいたSemantic Scuttleのソースコードを見る。
…わからん。
挫折。。
どうすればいいのってことで、元彼にヘルプ。
「MVCってのがあって、モデルとビューとコントロールってのが多分…」
「とりあえずindex.phpから見て行ったらいいんじゃないかな?」
ふーん。今でもMVCとかってのはほとんど理解してないけど、最後のは役に立った。
ファイル名やら関数名でプロジェクト内を検索しまくって、大体の構造を把握。
と簡単に書いてみたものの、この作業には2ヶ月ほど費やした。
構造はなんとなくわかったものの、実際触ってみると動かなくなるケースが多数。
ひと通りの勉強は一応したけど、実地のカスタマイズは非常に難しい。
他に使ってる人おらんのかなと思い探してみるとこんなものが。
・ソーシャルブックマークソフトScuttleの強化版Semantic Scuttleを導入してみる
http://tukaikta.blog135.fc2.com/blog-entry-70.html
ありがたくカスタマイズに利用させてもらう。ホント感謝しまくりです。
でも上のURLに書いてあること以外にもカスタマイズしたいところがあった。
1.ブクマ数を記録したい
1はだいぶ考えたんだけど、DBをちょっといじくって、フィールドを追加してそこに記録することにした。
2はPHPとDBをあれこれして、ド汚いコードながらも根性で実装。
3で再びの挫折。なぜならjavascriptを使わなければならないことが判明したから。
まだ勉強しなきゃいけないのか…とは思ったが、初心を思い出し、頑張ることを決意。
おらあああ!なんかjavascriptの本貸せやぁああああ!と丁寧に元彼に頼んでみたところこの本が手に入った。
JavaScript 第5版
うん、馬鹿じゃないの。こんなん理解できないよ。こっちは時間がないんだよ!
もう一冊なんか初心者向けを貸せ!
マンガでわかるJavaScript
読了したあと、ネットと前者の書籍で必要なところだけ調べることにした。
で、調べていったところ、4については
scriptタグでtypeを"text/javascript"にしてもPHPを読み込めるということがわかり、PHPで強引に表示させることにした。
3はもともとSemantic Scuttleにあったブックマークレットをちょこっと編集して解決。
これで大体1ヶ月半くらい。
一応CSSは勉強したけど、美術的センスのない事どこかのはいだしょうこお姉さんレベル。
でもデフォルトのデザインがダサいってことくらいは、かろうじてわかる。
あらん限りの人脈を使ってデザイナーさんを探したところ、やっとのことで0人見つかった。
どうも調べたところ、TwitterのBootStrapってのがいいらしい。
CSSを見てみるが、長い! 「Bootstrap 使い方」でググる。
よくわからないながらも↓とか見ながら手探りでコードを書いていく。
Twitter Bootstrapの使い方
http://greenapple-room.com/conc/user/TwitterBootstrap/bootstrap.html
これでとりあえず基本的なことがひと通りわかり、ちょっとだけよくなった。
だいぶ前にやったCSSを思い出すのが大変だった。
でもタイトル周りとかが全然ダサイまま。普通に自分で見てて萎えるので、さらに調べる。
見つかったのが↓
Bootswatch
あ、なんかこれいいなと思って「Slate」っていうテーマをいじくりいじくり、色々試しながらタイトル周りとかを整理。
まあこんな感じで大体できましたー!
全部で約8ヶ月…長かった…。憑かれたぜパトラッシュ…
・ググる ググる ググる!とりあえずなんでもググってみることが一番大事だとわかった。
誰かが同じようなことをしてることも多々あるし、少なくともヒントくらいは見つけられる。
・助けてくれる人がいるとかなり楽
ググっても出てこない情報は厳然としてある。そういう時は、経験者にアドバイスをいただく。
Yahoo知恵袋でもいいし、知人でもなんでも。ネットの優しい人達に感謝するようになった。
お店の掲示板では叩かれっぱなしだけどw
・プログラマーすごい
今まで何気なく見てたホームページだけど、膨大な技術の結晶なんだなと思った。
その端っこに触れただけの私のようなものでもそう感じるんだから、それはそれは深遠な世界なのでしょう。
せっかく作ったので、使ってやって下さい。
詳しくは↓をご覧あれ。
http://hibu.jp/bookmarkbutton.php
このサービスは一応「秘密の」もんなので、普段使ってるSNSのユーザー名とか使わないほうがいいんではないかと思います。
ブラウザに直接入力でも簡単にいけるようにドメインはまんま「hibu.jp」にしておいたので、
ブラウザにブクマするのもはばかられる方はダイレクトに飛んできて下さい。
スマホ版作りたいなぁ…
ちなみに、勉強したおかげか今現在はそこそこ本職のほうで稼げてはいます。
もし万が一このサイトが成功したりしたら風俗あがることも考えられるのかなぁ…
でも吉原にも遊びに来てくれると嬉しいな。
怖いところじゃないから、気軽にね。
児玉聡『功利主義入門―はじめての倫理学』読了。読みやすく、しかも、勉強になった。私は今年度初めに、「意味の分からない本は読まない」と決めたため、哲学系の本は一切読まなくなったのだけど、本書は、功利主義を理解するための知識がきちんとまとめられているにもかかわらず、倫理学の素人である私にも意味の分かる本であった。
とりわけ私にとって重要だったのは、功利主義に対する批判者の多くが、「行為功利主義」と「直接功利主義」を念頭に置いたワラ人形攻撃をしている、という話(p.83)。ちまたでは功利主義批判をしばしば目にするけれど、そこで批判されているのがワラ人形でないかどうか、考えるための一つの目安を手に入れることができた。
逆に言えば、本書では、ベンサム説やJ.S.ミル説がそのまま示されるだけではなく(当たり前か)、それらへの批判を経てより洗練された形の功利主義が紹介され、擁護され、さらには今後の課題が提示されている。単に昔の人の思想を勉強するのでなく、論争(と現実的事例への適用)を通じて倫理学に触れられる本書には、「はじめての倫理学」という副題がよく似合うと思う。
功利主義(と功利主義批判)そのものの解説以外にも、公衆衛生に関する政策、幸福論、心理学や脳神経科学による研究、ビルゲイツの寄付先の決め方など、色々と興味深い話題が盛り込まれ、また、倫理学を武道になぞらえた説明にも色々な点でとても納得できた(日常会話で友人の意見を批判するのは、通行人に大外刈をかけるのと同様に危険!)。J美の出番がもっと多ければより楽しい本になっていたと思うが、それを望むのは欲張りだろう。
以下、思ったことのメモ。
p.20)食事のときに音をたててよい文化のルールが、「食べるさいには周りの人を嫌な気分にさせるべきではない」という(より深い)ルールに基づくものと理解できる、というのがどういう解釈なのかよく分からない。音をたてることを禁止したがる人は周りの人を嫌な気分にさせるから、音をたててよいというルールがあるんだということ?
pp.154-155)選好充足と幸福のつながりを疑うための2つの思考実験から、「すべての選好を充足させることが幸福につながるわけではな」いということになりそう、という結論が導かれている。つまりここでは、「選好充足しても幸福にならない」感じのするケースが挙げられているわけだ。しかし、これら2つのケースで想定されている選好充足は、選好充足とは思えない。例えば、ある学者が「ノーベル賞をほしい」と思っていて、その後に政治的理由で「ノーベル賞なんか欲しくない」と思い直して、その直後にノーベル賞受賞発表があった場合、それは明らかに(かつての彼の選好に合致するものではあるが)彼の選好充足にはならないだろう。それと同様で、1つ目のケースでは、現在の妻の選好はかつての彼女の選好とは異なるし、2つ目のケースでは、受賞者発表の時点でカナダ人研究者は(死んでいたので)ノーベル賞受賞を選好しておらず、受賞発表は選好を満たさない。したがって、これらは「選好充足しても幸福にならない」ケースではないのではないか。…と書いてる途中で、「じゃあたった今の選好しかその人の選好として認めないの? それ色々まずくね」という批判が浮かんだ。まあだから、どちらにしても、幸福につながる選好の定義は難しい、ということなんだろう。
p.204)「カントの引用は…」。どこに引用されてるのか、本気で見つからない。
p.219)「同時に日常底に用いたりするのでなければ」。「日常的」の誤植?…と思ったら、仏教用語で「日常底」という言葉がある模様。あとで調べる。
以上。
ところで、最近私が(本書とは無関係に)手に取ったいくつかの本によれば、功利主義者は必ず利己主義的傾向を持っていて、極端な場合、世界は亡びても自分だけ助かればいいというところまで至る(*1)、のであり、また、ベンタムの思想は、ヨーロッパの恥ずべき日々に確立された「快楽と苦痛に関する皮肉な簿記学」であり(*2)、もはや、日本の精神界では「浅薄」なものとしてあまり顧みられず英国でもムーアによる批判以来(理論的倫理学説としては)過去の思想となっている(*3)、のであった。そんな中で、私が本書によって功利主義に入門できたのは、幸運だったと言えるだろう。
==========
(*1)井上哲次郎「日本魂と米・英の功利主義」、『日本公論』1943年8月号所収、p.6。なお井上によれば、ベンタム・J.S.ミル・シジウィク・墨子・荀子・荻生徂徠・太宰春台などが功利主義者である。
(*2)アンドレ・ブルトン(澁澤龍彦訳)「ルイス・キャロル」、『澁澤龍彦翻訳全集12』所収、1997年(仏語底本は1950年)、pp.313-314。ベンタムへの言及は、ルイ・アラゴンの言葉としてブルトンが引用しているもの。