はてなキーワード: マールとは
とりあえずまあ、まず、産んでみたい。
「子どもがいたら」ってのはもう私の子宮にいる時点である意味叶ってると思うので、まずはちゃんと産んでみたい。
近々二人目を産む友達が、「またあれをやると思うと怖いけど」と話していた。そのくらいには怖いことなんだと思う。でも、それでもいいからエイヤと産んでみたい。
だってそれが、子どもと出会える最初の瞬間なんでしょ?おまたからでもおなかからでもいいから、会ってみたいなあ。まずは。
あと、今の彼氏とさんにんで、たくさんお出かけしたい。ポニーショーとか見たいなあ。動物園に友だちとその子どもとかと行くと、ふれあいコーナーとかですごく表情がキラキラしてるの。私もふれあいコーナーとか行くの大好きなんだけど、自分の子どもと行けたらより楽しいだろうな。
言葉とか教えるのも楽しそうだよね。
「わんわんだねー」とか言うのだろうか。私は絵本を読むのが大好きなので、絵本をたくさん読んであげたいな。どてっ!ってやってくれたら多分悶絶しちゃう。私はダルマといえばかこさとし派なのだけど、新しい絵本も、ベストセラーな名作も、私も読みたいものをたくさん一緒に読みたい。
絵を描くのもいいなあ。新幹線を見に行くのもいいなあ。ディズニーは疲れちゃうから、まずは小さな遊園地から行こうね。
お洋服を買うのも楽しそう。モイモルンというブランドのものが好きで、お友達とかにあげたりしてたけど、自分の子どもに着せてあげたい。ユニクロの絵本シリーズもかわいいよね。マールマールみたいなかわいいのもいい。西松屋で探すのも楽しそう。
親戚の子どもには服をときどきあげるんだけど、とっても喜んでくれる。すごくあったかい気持ちになる。自分の子どもだともっとあったかくなれるだろうな。まあ、我が子となれば自由に買いまくることはできないんだろうけどねえ。ときどき、遊びでジャアンみたいなコーディネートさせたい。
絵本を読むのは楽しいだろうなあ。私が。本を読むのが好きな子ならいいんだけど。絵本に興味がなくて外で戦いごっこがやりたいタイプなら、彼氏に全部任せよう。
あ、そうだ忘れてた。手もつなぎたい。手を繋いで歩きたい。ちょうど昨日、親戚の子どもの手を繋いだばかりだ。あったかくてずっと汗ばんでんの。エスカレーターのぼるときに、えいっ!って言ってぎゅっと握るのがかわいい。
つないでる小さい手が少しずつ大きくなるのは、きっとかけがえのない思い出になるだろうな。
手をつなげるようになるまでは、体力がないのでおんぶは避けて、なるべくベビーカーに乗せて、いろーんな景色を見せてあげたい。おんぶは彼氏に任せよう。彼も子どもが好きだし力持ちなので、多分率先してくれるはずだ。
キョロキョロと景色を見る姿を眺めるのは愛しいだろうな。なんだこれは!?これがきになるのですが!?なぜ右に進んでくれないんですか!?右の景色が気になるんですが!?みたいな表情を見ながら、街を歩くのは大変でもあるだろうけど、かけがえのない思い出になりそうだ。
子どもがいたら何がやりたいって、
結局、やっぱり、「育てたい」んだな。
私の彼氏は抗がん剤治療をしたことがあるので、子どもはもう多分つくれない。多分とつけてみたけれど、周りのみんなよりよっぽど叶わない。夢のまた…だからときどき、こうやって、誰にも見つからない場所でたられば日記を書くのだ。
現実では「いなけりゃいないでしょうがないからね」って顔で生きてるし、その気持ちも嘘じゃない。でも、つい鼻がツンとしてしまう。
私と彼にこどもがいたら、どんな子なんだろうなあ。
オーストラリア・シドニー出身のティム・シャドックさん(51歳)は、1人で船に乗って旅をしている途中、メキシコで犬と出会った。
ベラと名付けられたそのメス犬は、シャドックさんから離れようとしなかったという。ベラに家族を見つけようとしたシャドックさんだが、ベラは彼が船に乗るたびについてくる。
そこで彼はそのままベラを乗せ、4月にメキシコのラパスを出航し、5000km以上離れたフランス領ポリネシアに到達しようとしていた。
ところが、航海開始から数週間後、嵐に見舞われ、船が座礁した。
電子機器と通信システムが損傷したため、シャドックさんは助けを求める連絡をすることができず、ベラと共に太平洋を漂流していた。
それから2か月後の7月12日、メキシコを出航してから実に3か月後に、奇跡が起こった。
メキシコのマグロ船「マーシャ・デリア」を監視していたヘリコプターが、シャドックさんとベラが乗っている船を発見したのだ。
ついに、漁船団グルポマールの社員たちに救助されたシャドックさんは、痩せ細って髭が伸びていたが、船の上で立ち上がることもでき、救助隊の質問に答える気力はまだ残されていた。
しかし、食糧も不足していて危険な状態にあったため、メキシコのマナジージョ市に搬送される前に、乗組員が食事と水分補給、そして治療を提供した。
太平洋の大海原で犬と漂い続けていたシャドックさんは、生魚を食べ、雨水を飲み、小さな船の天蓋の下で太陽を避けて、これまで生き延びてきたという。
釣り道具やサバイバル用品を船に積んでいたことが、命を繋ぐ結果になったと思われる。
海洋サバイバルの専門家マイク・ティプトンさんは、このように話している。
シャドックさんの持久力は運とサバイバル技術の組み合わせによるものです。
また、彼は日中の暑い時には自分の身を守る必要があることも知っています。なぜなら、脱水症状の危険にさらされているときに一番避けたいのは、発汗することだからです。
シャドックさんは、気候と立地のおかげで新鮮な水の供給を確保できたのでしょう。
このような長い航海は、歴史を振り返ると暖かい環境の太平洋で行われることが多いです。万が一座礁した場合、寒い環境だと生き延びる確率はより低くなるからです。
とはいえ、シャドックさんが助かったのは奇跡で、「干し草の山の中の針」を見つけたようなものです。
人々はこの船がいかに小さいか、そして太平洋がいかに広大であるかを理解する必要があります。 遭難者が見つかる可能性は、かなり低いです。
さらに、窮地をシェアするベラがいたことが、違いをもたらしたかもしれません。
座礁となると、その日その日を懸命に生きる必要があり、試練を乗り越え、諦めないためには、非常に前向きな精神的態度を持たなければなりません。夜の海の暗さを想像してみてください。
友人の話によると、シドニーのIT業界で働いていたシャドックさんは、その後退職し、新たな挑戦を探していたそうだ。
大腸がんを克服したこともあり、旅に出て航海を決意したのだろう。旅の途中のメキシコで出会ったベラは、シャドックさんのよき仲間となっていたようだ。
太平洋で漂流していた数か月の間も、ベラはシャドックさんの大きな励みになっていたことで、生き延びる気持ちを持つことができたのかもしれない。
後のメディア取材で、シャドックさんはベラの存在にとても救われたと語っている。・ベラとの別れを余儀なくされる
しかし救助後、シャドックさんとベラは別れることを余儀なくされた。
健康状態を完全に回復させるために、シャドックさんは家族の待つオーストラリアへ帰ることになったのだ。
私は、ベラとメキシコで出会ったとき、ベラのために飼い主を見つけようとしました。でも、ベラは何度も私の側を離れることを拒否しました。
私を飼い主に選んでくれたベラに応じて、一緒に旅を続けようと思いました。(シャドックさん)
漁船の乗組員が救助に近付いたときも、ベラはボートから離れようとしなかったそうだ。
ともに窮地を乗り越えた仲間であるにもかかわらず、ベラと離れ離れになってしまうことはシャドックさんにとってもベラにとっても辛い。
だが、国外のペットをオーストラリアに持ち込むために必要な手続きは複雑かつ厳格で、かなりの費用がかかる。シャドックさんはベラと別れる決断を強いられたのだろう。
犬は「承認国」からの入国を完全に許可される前に、ワクチン接種やマイクロチップの装着、検疫での隔離期間を受けなければならない。
残念ながら、メキシコはオーストラリアへのペット輸入が承認されている国のリストに載っていないため、ベラを連れて行くのはより一層の困難を伴うことになるのだ。・ベラはすぐにメキシコの漁船乗組員に引き取られる
結果、ベラはメキシコに戻ったマグロ漁船の乗組員ヘナロ・ロザレスさんに引き取られたという。
シャドックさんはベラを大切にしてくれることを条件に、ロザレスさんに引き渡したようだ。
ボート乗組員たちは、すぐにベラを気に入り、「素晴らしい」と評した。また、口々に「この犬は私よりもずっと勇敢だ、それは確かだ」とベラを称賛した。
シャドックさんは、疲れた表情だったが、救助されたことに大きな感謝の言葉を口にし、このように語った。
ベラは美しく、特別な犬です。ベラが生きていることにただ感謝しています。
私を救助してくれた船長や漁業会社の人たちには、感謝してもしきれません。私は今生きていますが、本当に生き延びることができるとは思っていませんでした。
しばらくの間、健康状態がかなり悪かったので辛かったです。 かなり空腹だったし、嵐を乗り越えられるとは思いませんでした。
漂流中は、何かを修理して時間を過ごし、「ただ水の中を楽しむ」ために海に入って前向きに過ごしました。
海にいるのは本当に楽しかったし、外にいるのも楽しかった。だが、状況が厳しいときはただ生き残ることだけを考えなければならない。
シャドックさんを診断した医師によると、厳しい試練の中にいたにもかかわらず、彼の健康状態は良好だそうだ。
とはいえ、究極の状況にあったシャドックさんは、ゆっくりと正常な状態に戻る必要があり、数か月は経過観察をしながら、必要に応じてさらなる治療を受ける予定だということだ。
ちなみに、シャドックさんを発見した漁業会社でグルポマー社のアントニオ・スアレス社長は、同社での船団を近代化していて、同船は最小で50年以上経過しているため、これがマリア・デリア号の最後の航海になる可能性があると述べた。
もしそうなら、それは「人命を救った船としての、素晴らしいお別れになるだろう」と、スアレス氏は語っている。
【7月24日 AFP】太平洋で遭難し海上を約2か月漂流した末、メキシコのマグロ漁船に救助されたオーストラリア人の男性が、一緒に船に乗っていた犬のベラをメキシコに残して帰国することが分かった。ベラはマグロ漁船の船員が引き取った。
ティム・シャドックさん(54)は4月、ベラと共にメキシコ沿岸のラパス(La Paz)を双胴船で出発。フランス領ポリネシアを目指し、約6000キロを航海する予定だったが荒波で船が損壊、電子機器も故障し、広大な太平洋に取り残された。約2か月間の漂流の末、マグロ漁船に救助された。
マンサニジョ(Manzanillo)港に到着したシャドックさんは、やせ細り、ひげは伸びていた。乱れた髪を束ね、その上にシャドックさんとベラを救助した漁船を所有する水産会社のロゴ入りの赤い帽子をかぶっていた。
シャドックさんは、野良犬だったベラと、出発直前にメキシコで出会った。何度か飼ってくれる人を探したがうまくいかず、ベラが海の上までついて来たという。
シャドックさんらを救助した漁船を所有する水産会社グルポマール(Grupomar)のアントニオ・グエラ(Antonio Guerra)社長は19日、地元メディアに対し、ベラが漁船の船員に引き取られたと語った。
シャドックさんは18日の会見で「ベラはすばらしい。他の犬とは違う」「ベラが生きていることにただただ感謝する。ベラは私よりもずっと勇敢だった」と述べていた。https://news.yahoo.co.jp/articles/184a3b54464c29974da151091dc8cf223d37e32b
海外だと現地に残した方が犬のためだ、みたいな考えなのかな?
「世の中は常住なるものか。無常なるものか。世界に果てがあるのかないのか。霊魂と肉体は同一か別なのか。死後の世界は存在するのかしないのか。」との問題に悩みお釈迦様に解答を迫ったマールンクヤは、この答えを知りたくてたまりませんでした。 しかしお釈迦様は、それらの問いに一切答えられず、問いかけてもいつも黙したままでありました。
そこでお釈迦様は、ある喩えをもってマールンクヤにお説きになりました。「ある人が毒矢に射られたとする。すぐに治療しなければならないであろう。ところが矢を抜く前に、一体この毒矢を射たのは誰か。弓はどのようなものであるのか。 どんな鏃やじりがついていて、弦つるは何でできているのか。矢羽はどんな鳥の羽であるのかが分からないうちは、矢を抜くことはならぬと言っていたら死んでしまうであろう。必要なのは、まず毒矢を抜き、応急の手当てをすることである。」
お釈迦様は静かに続けられました。「生があり、老いがあり、死があり、憂い、苦痛、嘆き、悩み、悶え等、人生の苦しみを解決する道があるから私は説いている。毒の矢を抜き去るように苦を速やかに抜き去ることが、いちばん大事なことではないのか。
今だ梅雨入りせず近所のお寺の紫陽花は咲いているのかしら否か?
よく分からないんだけど、
梅雨入りイコール紫陽花の花を見に行きたくなっちゃうんだけど、
概念としての梅雨入りは何となくしている気もしないでもないけどね。
やっぱり紫陽花と雨はセットじゃないと似合わないわって思うわ。
昨年とかはもうゴールデンウィーク明けまくった途端に、
昨晩なんて肌寒くて麦茶が冷蔵庫に入れてなくても冷えるぐらいの温度計をみたら14℃をしめしているじゃない。
そりゃー
実際わさびをサメ肌のあのわさびおろし器でおろしたら美味しいのかしら?って気もするし、
小さく「わさび」「わさび」「わさび」って文字がぎっしりみっちみちにあって、
あのわさびのも時の良い具合で下ろせるのかしら?って
小さな文字で「しょうが」「しょうが」「しょうが」って文字が書いてあって、
じゃ大根だって「だいこん」でいいと思ったら荒く下ろせる鬼おろしって言うのがあるから、
なんでもかんでも文字のかたちのおろし器を作れば良いって訳ではなさそうね。
沢のわさびの清流に流れている清らかなお水は美味しそうな印象を与えるとともに、
そう言えばアメリカーナなお刺身を新鮮なものを提供するレストランだってあると思うの。
ああいうお刺身にはわさびちゃんと乗ってるのかしら?って思うし、
でもさ、
わさびと言えば、
私もうわさびで悩まないことにしたんだ!
お蕎麦のお猪口の上にお皿で載ってくる薬味とわさびが載ったのがあるじゃない。
わさびはどうやって使って良いのかが正解が分からなくてスーパーヒトシ君状態ボッシュートだったけど、
だからあれは実は私が開発したと言っても言い過ぎになるから言わないんだけど、
お蕎麦の麺にダイレクトにわさびを載せるって方法が一番わさびとお蕎麦を美味しく味わえる作戦として
たぶん
私は違うんだからっ!って
ここでキリッとさせておくわ。
でもでも、
おかげで、
その技を使えるようになってわさびの技で美味しくさらにお蕎麦が食べられるようになったからいろいろと捗るのよ!
いまなら椀子そばもたくさん食べれそうな勢いよ!
あれはわさび味あるのかは私知らないけど、
雰囲気と流れと勢いで
さすがにさ、
マーケットでいいわさびを売ってるのを見たことが今まで一度も無いから、
いいわさびの調達方法をエスビー以外の方法でおろしていないワサビに憧れが募るわ。
1回やったらすぐに飽きちゃいそうだけどね!
そう思い出したら製麺機ももう随分1回しか使ってないことを今忘れたふりをしていたけど思いだしたわ。
製麺機も元気と余裕と時間があるときにじっくり使ってみたいパスタモーレなんだけどね。
あれもあれで
その時はまた麺部の部活が再開されるわね。
うふふ。
麦ご飯にお味噌汁に目玉焼きってちゃんとなんか朝ご飯作っちゃいました!ってーか
寒くて肌寒くて目覚めて寝付けなくて
2つの目玉焼きはボリューミーでハムエッグにしたらさらにボリューム満点栄養満点!
焼きは3分味一流!ね
忙しいときにはもってこいよ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
ふりーむは2000年から現在まで続く老舗のフリーゲーム公開サイトで、今も1万本以上のフリーゲームを遊ぶことができる。
そんなサイトの歴史が1人のVtuberの気まぐれで崩されてしまった。
今日の週間ランキングを見てみると、1位が某Vの作ったゲーム(週4800プレイ)、2位がそのゲームのブラウザ版(4000プレイ)、3位のゲームが860プレイ程なのに対して明らかに頭1つ2つも抜きん出てる。
累計では2017に公開され話題になった「影廊」をたった2ヶ月で抜き上位9位に入るなど、凄まじい躍進ぶりを見せている。
某Vの信者たちは概ね「ふりーむとか懐かしすぎる」や「あえてふりーむ使って昔のネタかする感じ好き」と言った感じだったが、厄介フリゲ作者から言わせてもらえばいい迷惑だとしか思えない。
企業の名前を使ってフリーゲームを出すならアツマールなどもっと適したサイトがあったと思う。
ふりーむはアマチュアとプロで露骨に差が出ないようにサムネイルもかならずゲームのスクリーンショットから選択する必要がある(加工が禁じられている)ほか、ユーザーによる評価制度(☆5段階評価など)がないなど、プレイヤーより作者側を優遇したプラットフォームになっている印象があった。
中学生の頃、母親への鬱憤がたまっていたもののそれを表に出せなかった。母は子供が反抗的な態度を取るのを許さない人だった。
そんなとき、ゲームキューブのどうぶつの森+にハマり、最初は順当に楽しんでいたのだが、いつしかゲーム内の手紙を出す機能で住人たちに母親の愚痴をしたためるようになった。
毎日毎日、お気に入りの住人であるマールさんに母への怨嗟を打ち明ける手紙を送り続けた。
友達が来た時に自分の村を訪問されると、愚痴の書かれた手紙を住人が見せびらかすことがありヒヤヒヤした。
実家にまだゲームキューブやメモリーカードが置いてあるが、もし起動したら恥ずかしい手紙の数々を見ることになるのであまり触れたくない。
ダニーの精神描写や一人で強がってしまうところ、めっちゃ分かる。
ペレは、100%の善意で友人をホルガに差し出せるってほんとヤベェやつ。洗脳って怖い。
恋人のコニーと婚約してて、普通にいい人そうなサイモンが「血のワシ」で処刑されたのは可哀想と思った。アッティストパン?(72歳のじじばば飛び降り)儀式のことも、サイモンたちを連れてきたイングマールやホルガ側が説明してなかったのだからパニックになって当然でしょう。
ホルガの民たちにとっては、当たり前の光景だけど、ホルガから一歩外に出たらそれは異常なんだってば!
サイモンが儀式の最中に儀式に参列する人々に対して、「狂ってる!」と訴え、いままさに覚悟を決めてじじが飛び降りるって時も「訳がわからない!狂ってる!助けないと!」(うろ覚えセリフ) などなど半狂乱で言ったから、狂ってる殺され方したの?
血のワシ サイモン、肺が動いてるけど、あんなのにされて息できるの?死んでるの?生きてるの…?いっそジョシュみたいに殴って一発KOな殺され方の方が楽やんな…
狂ってる!と言ったサイモン→狂った殺され方
殺され方みると、ホルガの人々が「ホルガを汚された、貶された」感じた度合い応じて、殺す時の残虐さに変化があるように感じた。
アホなマークも映画中に描写はないけど、生きたまま皮剥ぎされてそうだしな…
ま、彼ら外部の人間は来訪者で生贄。殺して神殿に突っ込んで火で燃やせればどんな殺し方でもよかったんとでしょう。それとも、生贄といえど、一つずつ儀式的な意味がある殺し方が必要だったのだろうか?
ペレ以外のアメリカの3人組男たち、ジョシュは一見、論文に熱心な真面目な学生かなと思ったが、ホルガに着けば「撮ったらダメだ」と強く言われたものを深夜にカメラでぱしゃぱしゃ撮っちゃうようなヤツだし、マークはいかにも考えが希薄で終始ダニーを快く思ってない。そんな友人たちと付き合うクリスチャンも「類は友を呼ぶ」な優柔不断なクズ男。
ダニー、男選び下手かよ…と思うよ。
ペレは善人の皮被ったホルガカルトに染まりきった人間だったし。
ダニーがはやめにクリスチャンから離れて、別れていたら、ダニーはメイクイーンにならなくてすんだのに。
でもダニー、周囲の人にうまく助けてもらうの苦手だものなぁ…。アメリカの医療費高いって聞くけど、両親と妹が死んだ後は精神科のストレスケア病棟などへの入院でストレスを専門家にケアしてもらうことはできなかったんだろうか。
それはそれでクリスチャンが見舞いに来て、関係続けそうだなぁ…。入院中にクリスチャンが別れを切り出してさよならしたら、たとえダニーが入院延長なってでもダニーを救えたと思うなぁ。
クリスチャンという依存先が、ホルガというコミュニティへの依存に変わっただけ。
そしてきっとこの先のダニーは世間一般的な死を迎えることはできず、ホルガの人々に殺されて生涯を終える。
その原因を作ったのは、間違いなくクリスチャン。
(CNN) 26日に行われた東京オリンピック(五輪)の女子フェンシングの試合で、アルゼンチンの選手が敗戦後にコーチからプロポーズされる一幕があった。
マリアベレン・ペレスマウリセさん(36)は、コーチ兼パートナーのルーカス・ギレルモ・サウセドさんからのサプライズプロポーズを受け入れ、指輪とともに大会を後にすることになった。
ペレスマウリセさんはこの日、女子サーブル個人でハンガリーのアンナ・マールトン選手に12対15で敗戦。試合後にインタビューを受けていたところ、サウセドさんがスペイン語で「私と結婚してください」と手書きした大きな紙を持って現れた。
インターネット上で共有された動画には、ペレスマウリセさんが振り向いてメッセージを目にし、声を上げて即座にプロポーズを受け入れる様子が映っている。17年来のパートナーであるサウセドさんは片ひざをついていた。その後、2人は抱擁してキスを交わした。
ペレスマウリセさんは「メディアから振り向いてと言われたら、彼が手紙を持っていた。頭が真っ白になった」と報道陣に語った。
ペレスマウリセさんは2014年のパンアメリカン競技大会で金メダルを獲得し、12年のロンドン五輪や16年のリオデジャネイロ五輪にも出場した。婚約祝いにはブエノスアイレスで大々的にバーベキューをするつもりだ。
半年ほど前にニコニコのゲームアツマールやふりーむ!で公開された本作。
当初から「感動できるゲーム」として紹介されていることに違和感があったのだが、最近になり有名VTuberなどによる実況動画が話題になったりと、看過し難い存在になってきたので思っていることを書こうと思う。
尚、内容のネタバレを含むのでご了承願う。
ふりーむ!では「12歳以上」とされているが、ゲームアツマールではR-18以外の表示制限がないため、実質全年齢向けとなっている。
8歳の女の子に体罰での「おしおき」ができるゲームであること。
いわゆる「ソフトリョナ」である、という部分が見えにくくなっている。
しかし、普段その嗜好がない人たちにも発見されやすく、「感動できる作品」として広められていることに危機感がある。
まず、体罰はデコピン程度であっても暴力・虐待であり、禁止されるべき行為である、ということをプレイヤーが分かっているのだろうか、という疑問がある。
例えばFPSゲームのプレイヤーが現実で殺人を行うかといえばそうではないが、それは「殺人は禁止されている行為である」という前提知識と倫理観があるからだ。
親や教師などの指導者から体罰を受けて育った人というのは残念ながら少なくない。法律で禁止されるようになったのも最近のことだ。
ましてや、一生治らない傷を負わせる暴力を振るわれる環境から、愛情のあるしつけをされる環境に移り変わるという点で、プレイヤーが暴力を振るうことに対する罪の意識を軽くし、むしろいいことであるかのように描かれている。
そのいびつさが本作の魅力でもあるのだが、「子育てをする人はプレイしたほうがいい」「(母親のような)児童虐待は絶対に許せない。幸せになってくれてよかった」等の感想を見ていると、どうも皮肉さが伝わっていないのではないかと思えて仕方がない。
そして、冒頭でも述べた対象年齢。
単純に「おしおき」を行った、という事実があるだけならばまだマシなのだが、「おしおき」を実行しようとするとデコピンのミニゲームが入るようになっている。
女の子の顔の前で指を構え、ゲージが溜まったタイミングでデコピンを行う。溜まりきっていない場合は不発となる。
当たった箇所は赤い傷ができ、女の子は涙を浮かべて怯える。理由なくおしおきをした場合は、翌日怯えた状態から始まる。
また、ルート分岐によるが、女の子に主人公が殺されるというエンドもある。
このように、暴力の描写が細かい作品が子供の目に触れることは非常に望ましくないと考えている。
ゲームアツマールでは全年齢で公開されていることから、「女の子と同じくらいの年齢の子にプレイさせて反応を見たい」という感想を見かけた。
これは言語道断、絶対にあってはならないことだが、実際今の子供は簡単にネット・YouTubeにアクセスできてしまうため、この作品を見つけてしまう可能性は十分にある。
「エルサゲート」と呼ばれる動画や、「ママがおばけになっちゃった!」で子供がトラウマを発症してしまうという話題は記憶に新しい。
作者は「えっちなゲームではないので未成年の方もぜひ」と言っているが、創作物の世界と現実世界の区別がしっかりとつけられ、尚且つ倫理観も十分に成熟した年齢になって初めて適正な年齢になると言えると思っている。
ふりーむ!で設定されている12歳という年齢が適切かどうかは議論が別れると思うが、少なくとも、全年齢か18禁でしか差のつけられないゲームアツマールのような場においては、18禁のほうに合わせるのが適当ではないかと思う。
この作品を広める際には「トゥルーエンドでも虐待は虐待である」という自覚を持ってほしい。
子供には勧めないでほしい。
以上。
前回のリストhttps://anond.hatelabo.jp/20210707223409が字数制限に達したようなので、書ききれなかった分はここに付け足します。前回はたくさんのブックマーク、コメントありがとうございました。https://anond.hatelabo.jp/20210715114737も参照ください
孫権は自ら軍を率いて曹操軍の籠城する合肥城を攻める。しかし、張陵の奮戦に苦しめられた挙げ句、疫病の発生により撤退を余儀なくされた。更に張陵に追討ちをかけられ、命からがら逃亡した。
・沙苑の戦い
西魏軍は葦原に身を隠し、東魏軍の列が乱れたところを一斉攻撃する戦法で勝利した。東魏軍は6000名が捕らえられ、7万人が捕虜となった。
・パリ包囲戦
885~886年 ★西フランク王国200vsヴァイキング3万~4万
西フランク王国の首都パリをヴァイキングの大軍が包囲。フランク人達は1年にもわたる激しい抵抗を繰り広げ、やがてカール3世率いる援軍が到着したため、ヴァイキングは撤退した
1336年 南北朝・建武の乱 ★足利軍1000vs菊池軍1万
博多へ侵攻する菊池軍と足利尊氏が遭遇。菊池軍に離反者が相次ぎ、敗北した。
・ベオグラード包囲戦
オスマン帝国はハンガリー王位を巡る内戦に乗じてセルビアへ侵攻、ベオグラードを包囲した。ハンガリー軍は5ヶ月に渡って抵抗し、これを退けた。
・クルヤ包囲戦
1450年 オスマン・アルバニア戦争 ★アルバニア軍8000vsオスマン軍10万
スカンデリベグ率いるアルバニア軍がオスマン帝国に包囲された。アルバニア軍は敵軍の補給を断ち、士気の低下と病気の流行に苦しめられたトルコ軍は撤退した。
・ベオグラード包囲戦
1456年 ★ハンガリー軍4000vsオスマン軍3万~40万
コンスタンティノープルを陥落させたトルコ軍は勢いに乗じて、ハンガリーへ侵攻するが、ベオグラードで英雄フニャディ・ヤノーシュの活躍の前に敗れ去る。
・ヘミングステットの戦い
1500年 ★ディットマルシェーン500~1000vsデンマーク軍1万2000
ディットマルシェーンの農民達がカルマル同盟に対して反乱を起こす。農民達はバリケードを築き、土地を氾濫させたため、デンマーク軍は数的優位を活かせなかった上、大勢が溺死したため、撤退した。
・ロドス包囲戦
1522年 聖ヨハネ騎士団6700vs★オスマン帝国8万~12万
ロドス島を支配する聖ヨハネ騎士団をオスマン帝国が包囲。半年にも及ぶ激戦の末に騎士団は降伏。シチリア島へ移った。トルコ軍にも2000~5万の死傷者が出た
・クーセグ包囲戦
1532年 ハンガリー軍700~800vsオスマン軍12万~20万
ウィーン遠征へ向かうトルコ軍がハンガリーの小さな町クーセグを包囲。貧弱な装備ながらも守備隊は25日間抵抗し続け、ハプスブルクの援軍を恐れたスレイマン1世は撤退した。ハンガリー軍は最後まで降伏しなかったという説と降伏を受け入れたが少数のトルコ人しか砦に入れなかったという説がある。
現モンテネグロの町カステルヌーヴォをバルバロス率いるトルコ軍が完全包囲。スペイン軍は降伏勧告を無視し、1ヶ月にも及ぶ激戦の末に100名を除いて全滅したが、トルコ軍も8000人から2万人が戦死した。
・アンドリエンの戦い
1550年 アラウコ戦争 ★スペイン・ピウンチェ連合軍500vsマプーチェ族2万人
マプーチェ族はスペイン軍に夜襲を仕掛けるが、スペイン軍は警戒を怠らなかったため、返り討ちにされ、3000人が戦死した。
・エゲル包囲戦
1552年 ★ハンガリー軍2000vsオスマン軍3万5000~4万
イシドヴァーン・ドヴォ率いるハンガリー軍がトルコ軍に包囲されるも、厚い防壁、イシドヴァーンのリーダーシップ、トルコ軍の内部対立に助けられ、防衛に成功した。
・マラッカ包囲戦
アチェ王国はポルトガルからマラッカを奪還しようと大軍を派遣し包囲するが、3000人以上の犠牲者を出して敗北した。
・ファマグスタの戦い
1570年~1571年 オスマン・ヴェネツィア戦争 ヴェネツィア8500vs★オスマン軍10万~12万
キプロスのクリスチャン最後の砦ファマグスタが1年近く激しい抵抗を繰り広げた後に降伏した。ヴェネツィア軍は7600人が戦死し、トルコ軍は1万~2万人が死傷した。当初トルコ軍は砦内のクリスチャンの安全を保証するもその約束を反故にし、ヴェネツィア人たちを虐殺し、指揮官のブラガディンは耳と鼻を削がれた上、皮剥の刑に処された。
・英賀合戦
1577年 戦国時代・中国攻め ★小寺軍500vs毛利軍5000
織田寄りの小寺氏を討伐するため、毛利は大軍を派遣する。しかし、小寺軍は敵が上陸した直後を奇襲した。更に農民達に旗を挙げさせ、それを敵の援軍と勘違いした毛利は兵を引いた。
・クヴォダンスコの戦い
1577年~1578年 クロアチア軍300vs★オスマン軍5000~1万
クロアチアの都市クヴォダンスコをトルコ軍が包囲した。防衛軍は3ヶ月に渡って籠城し、3度の大規模な攻撃を退けた。守備隊が全員餓死若しくは凍死した後にトルコ軍は砦を占拠し、敵兵の遺体を手厚く葬った
伊東軍が建設した石城を島津軍が包囲する。しかし、石城は三方を急流、背後を険しい崖に覆われた天然の要塞であったため、島津は一度撤退した。伊東軍の死者10人に対し、島津軍は500人が死亡し、大将の島津忠長も重傷を負った。2ヶ月後島津軍は1万人の大軍を派遣して城を堕とした。
・ナジカニジャ包囲戦
1601年 ★オスマン軍9000vsハプスブルク6万5000~10万
現ハンガリーの都市ナジカニジャをハプスブルクの大軍が包囲。オスマン軍は潤沢な物資があるように見せかけながら防衛戦を繰り広げ、73日目に奇襲攻撃を仕掛けた。これを敵の援軍と勘違いしたハプスブルクは軍を撤退させた。
マラータ王国の台頭を警戒したビジャープル王国は討伐のために軍を派遣する。マラター軍はビジャープル軍の追撃から国王シヴァージーを逃がすため、狭い砦で命がけの戦いに挑んだ。この戦いで両軍とも兵力の半分を失ったが、シヴァージーは逃亡に成功した。
・ハドウの戦い
1694年 ポーランド・オスマン戦争 ★ポーランド軍400vsクリミア・ハン軍4万
ポーランド領ポジーリャに侵入したタタール軍とポーランド軍が激突した。ポーランド軍は木製の柵で守りを固め、弾薬が尽きれば、モンゴル軍の矢を打ち返すなど奮戦し、撃退した。ポーランド軍の損害は100名足らずに対して、タタール軍は1万人以上であった。
・アナントプルの戦い
シク教の台頭を恐れたムガル帝国は討伐軍を派遣する。しかし、グル・ゴービンド率いるシク教徒たちに敗れる。
・ナフプリオ包囲戦
現ギリシアの町ナフプリオをヴェネツィアはトルコから奪還することに成功し、更にパラミディ要塞を建設し、防衛強化に努めた。しかし、トルコの大軍に包囲され、1週間ほどで陥落し、住民達は虐殺されるか囚人として連行された。しかし、この戦いでトルコ軍も8000人以上が戦死した。
・ガングワナの戦い
1741年 マールワール軍1000vs★アンベール・ムガル・バラトプールなど連合軍1万~4万
マルワール王国はアンベール王国の戦争に敗れ賠償金と土地を要求されるが、国民が怒ったため、報復戦争を開始する。マールワール軍の騎兵ははアンベール軍を強襲し、蹴散らすものの、ムガル軍の砲撃によって敗北した。マールワール軍は全員が戦死するか負傷したが、連合軍は12000人が負傷した。
・レイバー橋の戦い
1855年 第二次フランス・トラルザ戦争 ★フランス軍14vsトラルザ軍1000人
セネガルとセントルイスを繋ぐレイバー橋をトラルザ軍が襲撃するも、14名の守備隊に撃退された。フランス軍は3名が負傷しただけであったが、トラルザ軍は127名が死傷した。
江戸幕府は将軍徳川家茂自ら軍を率いて長州討伐に出征する。しかし、西洋化が進められた長州の装備に苦しめられた挙げ句、家茂が病死したため、撤退した。
1879年 第二次アフガン戦争 イギリス軍75vs★アフガン軍2000
カブールの英国居住地に居たピエール・カヴァナリ郷をアフガン人が襲撃した。護衛達は奮戦し、600人死傷させたが、2名を除いて戦死した。
・マイワンドの戦い
1880年 第二次アフガン戦争 イギリス軍2500vs★アフガン軍2万5000
アフガン人とイギリス軍が激突、数で勝るアフガン人が勝利を収めた。しかし、イギリス軍の死者1000人に対し、アフガン軍の死傷者は1万人以上と勝者の払った犠牲も大きかった。
・シャンガニ・パトロール
1893年 第一次マタベレ戦争 イギリス南アフリカ会社37vs★マタベレ軍3000
イギリス南アフリカ会社は現ジンバブエのマタベレ王ロベングラの逮捕のために軍を派遣するが、待ち伏せに遭い3名を除いて全滅した。しかし、マタベレも400~500名が戦死した。
1896年 フィリピン革命 ★スペイン軍100vsカティプナン800~1000
マニラの東サンフアンでフィリピン独立を求める秘密結社カティプナンが武装蜂起を起こすが、スペイン軍に敗れ撤退した。この戦いがフィリピン独立戦争の始まりとなった。
・カカロン・デ・シリの戦い
1897年 フィリピン革命 ★スペイン軍600vsフィリピン6000
ブラカンでフィリピン人がカカロン共和国の設立を宣言し、砦を築いた。スペイン軍は討伐軍を派遣し、砦を攻略した。反乱軍の残党達はスペインに対してゲリラで抵抗を続けることとなる。
・サラガリの戦い
1897年 ティラ作戦 イギリス領インド帝国軍21vs★パシトゥーン人1万人
ティラ地方のアフガン人がイギリスに対して反乱を起こし、サラガリに駐在していたイギリス軍を襲った。イギリス軍は全滅したものの、アフガン人も450名が死傷した。
・サンタ・クルス包囲戦
1898年 フィリピン革命 スペイン軍700vs★フィリピン軍1万
ラグナのスペイン軍最後の拠点サンタ・クルスをホセ・リサールの兄パシアノ・リサールが包囲した。スペイン軍は2ヶ月に及ぶ抵抗でフィリピン軍に大損害を与えたが、降伏した。
・ベーラー包囲戦
1898~1899年 フィリピン革命 スペイン軍50vs★フィリピン軍800
教会に立て籠もったスペイン軍をフィリピン人達が1年にわたって包囲する。スペイン軍はフィリピン軍が700名の兵力を失う程激しく抵抗し続けたが、スペイン本国が敗れたことを知り投降した
1939年 第二次世界大戦・ポーランド侵攻 ポーランド軍1200vs★ドイツ軍1万7000
ドイツ軍がポーランド軍の防衛するウェンギエルスカ・グルカ村を通過する際にポーランド軍と2日間交戦する。ドイツ軍は勝利したものの、多大な犠牲を強いられ、ポーランド軍の戦死者は7~20名、7名が処刑された。
・ヴェステルプラッッテの戦い
1939年 第二次世界大戦・ポーランド侵攻 ポーランド軍205vs★ドイツ軍2600
ドイツ軍が自由都市ダンツィヒのヴェステルプラッテ半島を攻撃。ポーランド軍は1週間に及ぶ激戦の末に降伏。ポーランド軍の死傷者67名に対し、ドイツ軍の死傷者は300~400名であった。
・ウィズナの戦い
1939年 第二次世界大戦・ポーランド侵攻 ポーランド軍350~700vs★ドイツ軍4万2000
ドイツ軍がウィズナ村を通過した際にポーランド軍の激しい抵抗に苦しめられた。3日間の死闘でポーランド軍は壊滅したが、ドイツ軍も1400名の死傷者を出した。
・ミルの戦い
1940年 第二次世界大戦 オランダ侵攻 オランダ軍2000vs★ドイツ軍3万
ドイツ軍がミル村を通過する際にオランダ軍の激しい抵抗に遭った。ドイツ軍は勝利したが、500人以上が死傷し、オランダ軍は80人が死傷した。
・ソーミュールの戦い
1940年 第二次世界大戦 フランス侵攻 フランス軍2500vs★ドイツ軍4万
フランス軍の訓練生達がドイツ軍の攻略に2日間抵抗した。フランス軍の死傷者250に対し、ドイツ軍の死傷者は400名で戦車も7両破壊された。訓練生達の勇気はドイツ軍指揮官クルト・フェルトですら賞賛した。この戦いはペタン元帥の停戦呼びかけの後に行われたため、最初のレジスタンスであるとされる。
・ニリムの戦い
1948年 パレスチナ戦争 ★イスラエル軍39~45(内12人女性)vsエジプト軍500~800
イスラエルのキブツ(共同体)ニリムをエジプト軍が包囲した。エジプト軍は装甲車、航空機などの支援を受けて攻撃したが、イスラエル軍の防御を突破できず撤退した。
・3234高地の戦い
1988年 ソ連のアフガン侵攻 ★ソ連軍39vsムジャヒディーン、パキスタン軍450~650
3234高地に配備されたソ連空挺隊がムジャヒディーンの襲撃を受けた。ソ連軍は34名の死傷者を出しながらも200名以上を殺害し、撃退した。
・ヴコヴァルの戦い
1991年 クロアチア紛争・ユーゴスラヴィア紛争 クロアチア軍1800vs★ユーゴスラヴィア・SAO36000
クロアチア東部の都市ヴコヴァルをユーゴスラヴィア軍が87日間にわたって包囲した。クロアチア軍は大半が死傷し、多くの民間人も虐殺・追放されたが、ユーゴスラヴィア軍も3600人が死傷し、戦車と武装車両1100両以上と航空機3機が破壊された。