著者→照井留美子
ページの四隅に描いてある挿絵を瞬間に覚えて
出されてそれに正解すれば次に行けるっていう
対角線にある2つだけ覚えることにすれば
正解し続けられることに気づいた40男な俺。
借りてきた。
まともな本を執筆することになんらの
正の相関がないってことを証明した本だよね。
話。
関連する本だけでは不十分で、高い金を払って
講習会を受けなければならない。
自律訓練法っていう副交感神経優位にするための
副交感神経優位にするだけなら星状神経節あたりに
お灸据える(星状神経節ブロックに相当?)か、
いいだけってわかった瞬間、自律訓練法どうでも
よくなった。
ことやったら、少しは速読できるようになるとか( ^ω^)・・・?
Hypothesisに過ぎないけど。
おいちは主人公。家族構成は、父親お医者さん。義姉というのがいる。死に別れた
医者の妻の姉だろう。
医者は優秀だったようだ。若いころはお抱え医者に推挙されたこともあった。でも
ならなかった。その理由は見つけられなかった。単行本「1」には載っておらず
「2」を参照しなければならないのか?文庫本は「2」の内容までカバーしてあって
その理由が書いてあるのか?とはいえ「2」を借りて読む気にはなれない。
おいち不思議がたり 桜舞う
https://plaza.rakuten.co.jp/katagami/diary/201204120000/
おそらく第2弾を読まないとならないのか?
ううダルイカンジ
十斗は松庵が病の母を見捨て、身分の高い姫の診療に行ったために母が亡くなり、
そのショックで父は自害、妊娠していた母が産むはずだった弟か妹も一緒に死んだと
松庵のことを恨んでいた。
自分の罪だと松庵はうなだれるが、見捨てた訳ではなく彼の母の病状が急変したのは、急に産気づき、
出産に耐えられなかったために亡くなったからだと、そして死産だったと
おいちの伯母・おうたが明かす。
おカヨは、直介や直右衛門に「自分は高貴の身、おたくらのような下賤な者とは違う」
といった。女中のお梅に毒を盛ろうとした?
「「きゃお化け」と、おいちが驚いたのはお姉さんのおうた。気絶から目が覚めて
化粧の濃い姉さんが大写しに眼前にあったのでお化けと勘違いしたらしい。
以上、主人公の父親(医者)の過去についてわからず、もどかしさが( ^ω^)・・・
著者→岩瀬大輔
好きな人、気の合う人を営業とかパーティーとか積極的にやることにより見つけ、それを起点に人脈を広げる。
相手を好きになることで自分を好きになってもらう。直接会いに行くようにする
共通項を見つける。質問しながら相手の思っていることを聞き出す。自分のことを話す。
4つと書かれているが、3つしか書いてない。
家族の方が大事。重要なことという質問事項が分からない。プライベート人間関係を充実というかうまくしておくことが重要とは書いてある。
仕事に行き詰まったらうまくいってない時はどっしりと構えろという金言を思い起こす。
困ったときは神頼み。
単純作業でも楽しめるような方法論を思いつく。気分転換のために単純作業にのめりこむ。
『路上の人』つながりでキリスト教関係の書を読んでいる。今回取り上げるのは『人と思想 パウロ』(八木誠一・著 asin:4389410636 )。キリスト教を現在につながるものに体系化した人物であるパウロがどのような人生を歩んで、どのような思想を持つようになったのかが解説されている。
パウロを通して語られるキリスト教の「赦し」や「愛」の観念の解説が新鮮だった。キリスト教というと、同性愛の禁止といった聖書の教えを忠実に守ろうとする人びとの宗教というイメージが勝手に合ったのだけれども、そういう教えを厳格に守ることを重視するのはユダヤ教的発想で、そういう態度への批判から生まれたのがキリスト教であるとしている。
なぜ教えを守ることにこだわることが問題なのだろうか。
ユダヤ教では旧約聖書にある様々な律法を守ることで神に救われると信じる。そこでは律法を守ったか否かが重要だ。しかし、自身も厳格なユダヤ教信者であったパウロはそれを否定した。律法を完璧に守ることができる人間はごく少数であり、たいていは律法を守ることができず、絶望に陥る。または律法を守り切ったことの優越感が、やがては本来の神への信仰を忘れさせてしまい、そのことを自覚した時そこでも絶望に陥る。つまるところユダヤ教の律法主義は必然的に絶望へと至ってしまうのだとパウロは考えた。
そこでパウロは、イエスを神の子と信じる原始キリスト教に意義を見出す。すなわち、人間の罪はイエスの十字架によってすべて赦された。だから人はただ神を信仰することに集中しさえすれば救われるという理屈を展開したのである。パウロはユダヤ教の持つ厳格な律法を踏襲しつつ、それを守りきれない人間の心も考慮に入れて、堕落も絶望もしない状況に人を導くように教義を設計したのだ。
以上がパウロのキリスト教の教義への貢献であり、それがゆえにキリスト教の教義を学ぶうえで重要な人物足りうるのだという。まあキリスト教についてまともに学ぶ人からすれば当たり前なのだろうけれども、無学な自分にはパウロに対する自分の偏見が訂正されたので面白かった。
堀田善衞の小説『路上の人』( asin:4198618230 ) を読んだ。
13世紀のヨーロッパが舞台で、カタリ派と呼ばれるキリスト教の異端教派の十字軍による征伐を背景に、路上を放浪する中年の男ヨナがキリスト教世界を放浪する物語である。
読了後に知ったのだが、最近ジブリの森美術館で、もし映画化するとしたらという前提のもと宮崎吾朗氏が作成した絵コンテやポスターが展示されていたらしい。来年夏公開予定の新作がこの『路上の人』なのではという噂が流れているが、私はそれは到底できないと思う。もし映画化するとしたら、ジブリは子供向けアニメを届けるスタジオというイメージを完全に捨て去ることになるだろうなと思う。
『路上の人』というタイトルはキリスト教世界において安住する場所の無い東洋人である堀田善衞自身を指している。堀田の分身であるヨナの目線で、当時のカトリック僧院の生活をかいま見て、そこで当たり前のように行われている不正や腐敗を描き出す。そして、カトリック教会とは異なる教義を持ち、慎ましく暮らすカタリ派の信者が異端審問にかけられ、虐殺されていく様を描く。これは書籍に挟み込まれた堀田と誰かの対談において、堀田自身が述べているのだが、『路上の人』は「ヨーロッパへの異議申し立て」なのである。
ここで題材となっているカタリ派について、あまり作中では詳しく語られていないので、簡単な副読本として『カタリ派 ーー中世ヨーロッパ最大の異端』( asin:4422212206 )を読んでみた。これによると、カタリ派とは現世は悪によって生み出された地獄そのものであり、この世には一切の価値がないと考え、ただただ世界の終わりに神によって救済されることだけを願って一生を生きるという教義を持つ教派であるらしい。現世に生まれることは地獄に居ることと同じなので、生殖を目的とする性交を禁じている(ただしそれ以外の性交は禁じていないというところがユニーク)。カタリ派にとって死ぬことととは救済であるが、自殺は禁じられているので、信者はただ死が訪れることを希望として生きる。カトリック教会が特に問題視したのはキリストの人性を否定したこと、洗礼などのサクラメントの必要性を否定したことにあるようだ。
異端という考えは正統があるからこそ生まれる。宗教の正統性は日本人にはピンと来ない問題だからこそ、『路上の人』で描写される凄惨な異端審問の様子にやるせない気持ちが生まれる。