はてなキーワード: レヴィ=ストロースとは
増田の方です。なかなか分かりづらい文章だと我ながら思ったけど、読んでくれてありがとう。
そして元増田もこんな俺に付き合ってくれて嬉しいなと思っている。
これは、近代的自我やモダニズム、私小説の問題だと考えたんだけど、違うか?
・元増田:私小説家的な立場。近代的自我やモダニズムに自明さを持てない。ゆえに自分や日本に拠り所となるかっこよさを探すのを止められない(無いのは知っているが)
・増田:モダニスト。哲学や科学など、広く使われる手続きにのっとって、我々の限界を探求しつつ知を構造化するしかない。(拠り所の無さを受け入れて)
って感じで対立している感じ。
対立構造という程のものではないけど、元増田と増田(俺)の立ち位置はご指摘の通りだと思う。
ただ、強いていうなら俺もまた元増田と同じ事を考えていたし、その色々と調べるうちに
昔とは違う立ち位置にたどり着いてしまったと思っていて、だからこの辺の文献を読んでは
どうかという主旨の発言をしているつもり。あえていやらしい言い方をすると、先輩ぶっている。
俺は、元増田の立場に近いところにいると感じる。一方、その立場が無理なのは理解している。なれるなら増田の立場に移行するのが理想だ。
だから、増田がなぜモダニストの立場に立てるのかを聞きたい。言い換えると、音楽において自分の基盤を探りたい欲求を止め、なぜ哲学や科学の方法で済ませられるのか、を知りたい。
日本にいると、幼い頃から身近に学者や官僚、芸術家がいないと、モダニズムを自明なものとみなすのはまだ難しいと考えている。でも、意思の力でそれを引き受けられる人がいたなら、その意見が聞きたいのだ。
それについては明確に違うので俺の言い分を書いておきたい。
俺は日本人だが、やはり当事者自身が日本文化を取り扱う事は大変に難易度が高いと思っていて、
研究に目を通す事は多々あるけれども発信はしていない。日本文化について言及する事を意図的に避けている。
レヴィ=ストロースのいう所のメタ視点は自分自身とほぼ接点のない文化に対しては適用できても、
自らに適用する事はそう簡単ではない。だからはっきり言ってしまえばポピュラー音楽研究界隈が
あえて日本文化に切り込んでいくのを、民族音楽学者は指を咥えて見ているという状況が続いて久しい。
元増田が挙げる輪島さんにしても、増田さんにしても、二人ともポピュラー音楽研究界隈の人だ。
彼らは大衆の流行や、何となくの時代の雰囲気を分析する事に特化しているので遠慮なく物申せる部分がある。
だが民族音楽学者は違う。人間社会の織りなす文化はどれも等しく価値あるよねという大前提に立っている。
要はいいところ探しに特化しているので、雑な意見に反論はしても発信自体にとても慎重だ。
これではいかんと重い腰をあげる動きもあるのだが、全体的にフットワークは正直軽くなく、
その点についての批判は真摯に受け止めなくてはならない、という程度の後ろめたさはある。
自分の手持ち武器は当該社会に深刻なダメージを与えるかもしれない、そんな畏れが心の底にある。
ただ、だからこそプロパガンダ的な、意図的に文化志向を捻じ曲げて指針を示すような言説にはとても厳しい。
日本には侘び寂びの文化があるとか、礼儀作法を大切にするとか、伝統を重んじるとか、
何言ってんだこの野郎と率直に感じる。ごく一部の慣習を民族全体の伝統に置き換えるのはあまりに乱暴すぎるのではないか?
もっと雑多でぐちゃぐちゃで日和見主義で、醜い部分から目をそらす事も多々あるだろと。
どんな事から目を逸らしたいのか、何を受け入れたくないと感じる美意識や規範、無言の空気があるのか。
そんな部分も含めて全てを率直に受け入れつつ、肯定的に評価していきたいというのが
自らのフィールドワークの体験からメタ視点については理解した。
でもそれを自らに適用する事はこの上なく恐ろしい事だ。
とはいっても正直なところ、西洋音楽を基にした音楽を、日本的なものとして認めたくないという気持ちもある。
日本の長い歴史から見れば、西洋音楽が入ってきたのはつい最近のことだし、つい最近入ってきただけの音楽的価値観が社会的に支配的になってしまうのは、なんかおかしい。
「西洋音楽を取り入れた日本音楽」であれば、それは過去からの発展とみなすことができるけど、
https://anond.hatelabo.jp/20180708114227
いや、僕は個人的には、演歌は日本の伝統ではないと思ってるんですけど、それは個人の主観的価値観なんですよ。
僕はナショナリストなので、日本の伝統はかっこいいものであってほしいし、個人的に演歌がかっこいい音楽だとは思えないので、演歌は日本の伝統ではないとみなしたい、という「個人の感想」です。
https://anond.hatelabo.jp/20180714150641
というレスが、目をひいた。
これは、近代的自我やモダニズム、私小説の問題だと考えたんだけど、違うか?
・元増田:私小説家的な立場。近代的自我やモダニズムに自明さを持てない。ゆえに自分や日本に拠り所となるかっこよさを探すのを止められない(無いのは知っているが)
・増田:モダニスト。哲学や科学など、広く使われる手続きにのっとって、我々の限界を探求しつつ知を構造化するしかない。(拠り所の無さを受け入れて)
って感じで対立している感じ。
見当違いのことを言っていたら、以下スルーしてくれ。
俺は、元増田の立場に近いところにいると感じる。一方、その立場が無理なのは理解している。なれるなら増田の立場に移行するのが理想だ。
だから、増田がなぜモダニストの立場に立てるのかを聞きたい。言い換えると、音楽において自分の基盤を探りたい欲求を止め、なぜ哲学や科学の方法で済ませられるのか、を知りたい。
日本にいると、幼い頃から身近に学者や官僚、芸術家がいないと、モダニズムを自明なものとみなすのはまだ難しいと考えている。でも、意思の力でそれを引き受けられる人がいたなら、その意見が聞きたいのだ。
「日本的なかっこよさを探してしまう感じ」は、「幽霊に取り憑かれている」や「神経症」と言ってもいいかもしれない。
レヴィ=ストロースは、未開社会にもそれぞれ高度な構造を持った文明があるとしたが、日本が開国前に持っていた構造の中にあった、かっこよさの幽霊がまだ潜んでいて、日本人の頭の中に巣食っていると言っても良い。そして幽霊が復活する期待を捨てられない(あるいは、幽霊が復活する可能性に賭け、下部構造を変えようとイデオロギー工作を頑張る)
あそこらへんの研究室とか学会の音楽学は、西洋音楽がすべての基盤にあるけどそれを意識していないから、西洋音楽系の研究なら良いけどそれ以外は中途半端な手の出し方になって言ってはなんだけど価値のない研究しか生まれない。
だからさ、ちょっと乱暴すぎない?東洋音楽学会系列のアプローチと音楽社会学のアプローチがそもそも違うのにその切り口は雑でしょ。今のそっち系のスタンダードは定量的研究って無理じゃんという所から出発していて、音楽を通して社会や社会通念を記述することが目的では?テクスト至上の時代はレヴィ=ストロースを機に終わったけど、あえて今テクスト論を扱う事を音楽の記述と言ってしまっていいものかどうか?
結局、集団の利益(=婚姻外交)より個人の利益(=近親相姦)を優先する奴がリーダーになって、かつ近親相姦を禁止することによってそれを防げる状況って、かなり少ないと思うんだよね。
それだけでは、普遍的なルールとして人類社会に定着するには弱いんじゃないか、という印象を受ける。
というか議論してて思ったけど、近親婚の禁止あるいは推奨によって血縁関係をコントロールして集団に利益をもたらすことと、倫理道徳としての近親相姦の禁止は、やはり別の問題ではないかと。
レヴィ=ストロースは前者の禁止パターンを上手く説明しているけど、でも後者の理由を考えたときには「近親相姦したら障害児が生まれた神の怒りじゃー」とか、もっと素朴に「息子/娘に妻/夫を奪られたくねえ」みたいな感情を原因としたほうが、どうにも納得はしやすいよなー。
世間一般様から「読書家」とひとくりりにされ、一束十円のブックオフ価格で流通している今日このごろの読書ファッションクソ野郎どもであるけれど、その内実はピンキリで、とりあえずジャンルや内容や分量に関わらず月に三冊以上読んでいれば全国平均的に照らして「かなり読んでいる」ほうの部類に入る。
数を誇りがちなのは男だ。
数をこなしたからといって偉いわけではないと口ではうそぶきつつ、「いやあ、今年は千冊も読めなかったよ」だとか「一日頑張れば十冊は行けるね」だとか「○○の必読本リストは○冊しか読めてないな」だとかなんでもかんでも数字に還元する。
別に速読はクソだとか熟読こそ至高だとかいう議論をしたいわけじゃない。ヴォルター・ベンヤミンは生涯で1700冊しか本を読まず、一方でレヴィ=ストロースは一冊書くために7000冊を読み、イケダハヤトは年速500冊を読破し、ボルヘスは「1000冊も読める人間など存在しない」と主張した。この四人の言う「読む」はおそらくそれぞれ意味が大いに異なる。だが今はそんなことは関係ない。「本を読む、とはどういうことか」じゃない。傾向の話だ。重要なのはベンヤミンもレヴィ=ストロースもイケダハヤトもボルヘスも松岡正剛も佐藤優もそのへんのラノベ評論家もブログやってるビジネスマンもみな男だという事実だ。
男は自分についてであれ他人についてであれ、読書について言及するときに数の話をしたがる傾向にある。
数が多い方が偉くて強い。そういう世界は微笑ましい。人によっては浅薄で醜いと断じるかもしれない。けれど、浅い分理解しやすくはある。
そこに現れているのは一種体育会系的な価値観だ。どんなメガネモヤシとて鬱屈したヲタとて、オスである以上は筋肉量に憧れるのだ。私の読書冊数は十三万です。
強い。わかりやすい。
読書メーターが珍重される理由もそこに関係している。RPGみたいに、読書家のステータスを可視化してくれるのだ。今までの読書冊数がHPなら、月あたりの読書冊数がすばやさ、コメントがパワー。
既読冊数も数なら、読んだ本の内容も数だ。実のところ「読んだ本の数より、どれだけ内容を理解しているかのほうが重要だろ」と、男が言うときに使う「理解」という単語はそのまま「記憶」に置き換えうる。つまり、本の筋や要点をどれだけ他人の前でそのまま垂れ流せるか、どれだけ脳にストックしてある別の本と(それぞれの文脈を無視した上で)リンクさせられるかが男の言うところの「理解」となる。ぷよぷよとかミスタードリラーとか、そのへんの連鎖パズルゲームをやってるのとあまりかわらない。
ひるがえって、女は数の話をしない。そもそも数えない。目の前を流れてゆく本にただ好きか嫌いかのスタンプを流れ作業で押していく。
小説についての話をすると、まず自分がある登場人物をいか好きか/嫌いかを述べだす。本気で。ぼんくら男子同士が「ビッチ」だと「処女」だのとぼんくら慣れ合いのための属性を貼り付けて表面的に消費するのとわけが違う。彼女らは本気でキャラを憎み、愛している。
そして、いきなり自分語りを始める。マミさんによく似たバイト先の先輩の話を始める。そんな先輩がいらっしゃるならぜひ紹介していただきたい、というこちらの懇願を無視して、いかにその先輩とそりがあわないか、先輩がクズかをとうとうと語り、最終的にバイト先がかつてマルクスの予言し憂慮した末期資本主義的状況下にあり私はとてもつらいんです大変なんです疎外されてるんですだからマミさんは最低な女だと思います、という実に革命前夜なティロ・フィナーレに行き着く。
よくわからない。よくわからないと言えないまま、また別の本と別の現実の話題にうつる。
マミさんが嫌いな女子とは別の知り合いで、村上春樹を嫌いな女子がいる。その子は村上春樹がそりゃあもう大っ嫌いだ。春樹に関係するものすべてを憎悪していて、村上春樹本人も嫌いなら、ファンも勿論大嫌いで、村上春樹フェアをやってる書店も嫌いで、『色彩を持たない多崎つくる』が大ヒットしている現代日本社会も嫌っている。読まず嫌いというわけでなく少なくとも数冊は読んでいるはずのその子が本質的に村上の何が嫌いかはよくわからなくて、理由を訊いても「キザっぽくて嫌だ」とか「セックスだけじゃん」とか、いまいち要領をえない。だって、おまえ、バタイユとかサドとかロブ=グリエとか喜々として読んでるじゃん。
男子にも村上春樹とそのファンとその社会を嫌うやつはそれなりにいて、でもそういうやつらはなぜか「『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』だけは好きだね」などと妙に言い訳地味た予防線を忘れない。続いて、聞いてもないのに春樹論について語りだす。「俺は基本的に春樹嫌いだけど、文学性や価値は理解できるし、いいところがあれば認める度量もあるよ」と言いたいわけだ。春樹以外の気に食わない作家陣に対しても似たような態度しかとれない。嫌うのに社会的にコレクトな理屈を探そうとする。それを見つけたあとでも、けなしはしても全面的な攻撃はしかけない。そんな度胸はないんだよ。俺もお前も。
女は退かない、媚びない、顧みない。嫌った相手には容赦しない。同時に自分の正当性や正義も疑わない。よって言い訳をしない。理屈を探さない。よその基準など関係ない。私の人生が伊坂はクソだと告げている。
虚構と現実の境界線をきちんと引き、作品世界をきっちり読み込み把握したうえで、手前の価値観の物差しのみを武器に全身全霊をもって襲い掛かってくる。彼女たちは数を数えない。だから、物差しで切り捨てた数もおぼえていない。
あなたがもし男であるならば、女と本についてトークするのはオススメしない。なぜなら、あなたは弱い。あなたはその本について、内容を記憶しているだけで実は何も独自の見解を有していない。その場でとっさにひねりだした解釈に、あなたは確信を持てない。それでは耐えられない。あなたは読書を通じてコミュニケートする、ということがどんなに恐ろしいことか、リアルにオリジナルな見解を持っている人間の狂気がどんなに鋭利か、わかっていない。年間三千百冊を読了できたとしても、それらの内容を一字一句違わず暗誦できたとしても、絶対に辿りつけない彼岸がこの世界には存在するのだ。そこでは数や引用など意味を持たない。愛情と感情がすべてだ。あなたは死ぬ。死にたくないなら他人と金輪際本の話をするな。外に出ろ。ゲーセンにいけ。三鷹駅裏のゲーセンではまだ『ぷよぷよ通』が現役で稼働している。あなたの居場所はまだそこに残されている。生きて欲しい。生き延びてほしい。