はてなキーワード: 冊書とは
お金稼いで, そのお金で, ヨーロッパ行きたい, 南米行きたいと答えます.
そう答えます.
今はね, こんな状況ですけどね, Googleストリートビュウ見ますとね, ヨーロッパの美しい街が見られるんです, これで我慢です, でも次には実際に見てみたいです, 答えます.
世界の広いを見て, それで満足したら, しないかもしれないですが, そしたらそれで本を一冊書きたいです. 旅行記です.
これが答えです. 真実じゃなくてもいいです. そう答えると大体納得します. ハンガリーとか, モラビア行きたいと述べると, 日本人は大体よく知らないんだから, それ以上会話続きません.
もっと聞かれたら, 実は何があるか知らないんです, ノイマンの故郷ですとか, メンデルの故郷ですとか言いますね. 何があるかは, 行って見てくればいいんですから, 知らないです, でも興味がありますと答えるとフムフムとなってOKです.
物づくりをする人の中には、アーティストタイプの人とクリエイタータイプの人がいる。
アーティストタイプは「表現すること」自体に重きを置いていて、
クリエイタータイプは「表現したものを通して人の心を動かすこと、表現のその先」を目指している。
アーティストタイプの人は自己表現が目的だから、評価どころか、誰かに見てもらえなくてもいい、見せるために作っているわけではないという人もたくさんいる。「作ること」それ自体が喜びであり、楽しいのだ。
逆にクリエイタータイプは、他人に見てもらってリアクションを得ることが前提にある。広告やweb、装丁など「デザイン」と分類されるものに携わる人はこっちだ。顧客の求めるものに応え、見る人がどういう気持ちになってほしいかを重視して、ものを作る。書籍として販売されている商業作家もほとんどはこっちだろう。(一人でひっそりと作り続けたものがたまたま誰かの目に留まって商品化されるケースもあるので「ほとんど」と書いた。)
私は根っからのクリエイタータイプで、物心ついた頃から絵は描いていたけれど、ただの絵ではなく「紙芝居」や「絵本」や「着せ替え人形」や「塗り絵」を手作りして他人に楽しんでもらうという、ちょっと珍しい遊び方を幼稚園児時代からしていた。絵を描くこと自体ももちろん好きだけれど、それを見た人が喜ぶ顔を見るのが何より好きだった。
同人誌ではよく、「感想をもらって嬉しいか否か」「いつもどれくらい感想を貰うか」のような、感想についての議論が時折取り沙汰される。
人の目に触れる形で世に出した以上、多少のリアクションは欲しいという人が大多数だが、感想はいらない派も少なからず絶対数存在する。これは前述した二つのタイプがあるからだ。
どっちが良いとか悪いとかの問題ではなく、表現のベクトルが違うのだ。
アーティストタイプの人の中には、他者から(たとえ肯定の言葉であろうと)何かを言われた瞬間に物づくりをやめてしまうという人も稀にいる。自分が一人で作り上げた小さな世界に、知らない人が土足で上がり込んできたような、そんな気持ちなのだろう。感想を送ったらブロックされた、お気持ちツイートを書かれた、という人もたまに見かける。
こうやって作り手にもタイプが混在していて、かつ「ネット」というそれが表出しにくい状況だと、読み専で感想を送る側のオタクにとっては、送った方がいいのか悩むのももっともだろう。一度送ったら筆を折られたなんて経験があれば、二の足を踏んでしまうのは当然だ。
ここの見極めは大変難しいのだが──反応がいらないという人は、自分の作品の宣伝や告知をほとんどしなかったり、「感想いらないです」と明言したりしていることも多いので、そこで見分けていくしかない。
ただ、製本やグッズ化などなんらかの形にして即売会で頒布している作家に関しては「見てほしい、リアクションがほしい」人が大多数ではあるので、臆することなく感想は送ったほうがいい、と、私は思う。
私は同人では二次創作BL界隈に身を置く腐女子だが、関東のイベントだとだいたい安定して誕生日席、インテだと繰り上がって壁配置になる程度の中堅サークルで活動している。いつも通販・イベント・再販合わせて一作品500〜1000部くらいの部数を頒布しているが、貰える感想は10以下。内容によっては1つしか来なかったときもある。
来ないのだ、意外と。
本を出すときは「受け入れてもらえるだろうか、楽しんでもらえるだろうか」と不安で仕方ないので、最初の一つが来ると心から安堵する。一つ貰えるだけで飛び上がって喜んでしまう。十通も来たら「今日が命日…」なんて思う。描いてよかった、と自分を肯定できる。
私が送らなくてももうたくさん貰っているだろう、なんて思う必要は全くない。貰ってない。感想を送れ。
また、一度送ったからもういいだろう、みたいなことも思わなくていい。好きだと思ったらその度に伝えていい。
貰う数が少ないから、作家側は何度も感想をくれる人を次第に把握する。HNを書かなくても文体でわかったり、「以前〜というような感想を送った者です」とだけ書いてもすぐに思い出せる。
何度もくれる人にはそれだけ愛着というか、親しみのようなものが湧く。この人のためだけに一冊書き上げたい、何かお礼をしたい、スケブを描きたいから一度顔を出して会いにきてよ、と思うことすらある。
この人だけは絶対にリアクションをくれる、という安心感が生まれる。そうすればそれだけ、作り手は本を出し続ける。
感想を送れ。
…とまぁ、送るか否かで悩んでいいのはあくまで趣味の同人界隈の話で、商業作品に関しては100%感想を送っていい。作家に直接送れないときは、amazonや楽天ブックスなど媒介業者のレビュー欄に書くといい。レビューを読んで購入するかどうかの指針にする人もいるからだ。本が売れないと商業作家は死ぬ。感想を送れ。
感想問題が話題になるたびいつも思う、同人作家かつ商業作家かつ商業クリエイターの三足の草鞋を履いているオタクの独り言でした。
ずっと「どうにかしなくては」と思っていた現実だけど、サカナクションのサブスク収入に関する記事を読んで、自分も思いきって書いてみようと思う。
自分は執筆業をやっている人間で、キャリアとしてはもうすぐ10年を超える。雑誌に連載を持ち、本を出版して生活している。あまり詳しく書くと特定されてしまいそうなので(それだけ狭い業界なのだ)、かなりぼやかして書くことを許してほしい。
この仕事を始めてからずっと綱渡り状態なのだが、ずっとどうやってみんな綱から落ちていないのか不思議に思っていた。
本は音楽業界のように不明瞭なことが少なくて、本を刷ったらその定価の10%が必ず入ってくる。1万部刷ってだいたい100万円が著者に入ってくる(実売じゃないところがCDとの違いかな……? 実売のところもあるけれど)。
けれども、知られているように今では本が売れなくなり、1万部刷ったらヒット、3万部刷ったら大ヒットといった状況である。たいていの本はそこまで行かず、数千部止まりである。本屋に行けば帯に「話題作」と書かれてはいるが、部数は書いていない本がいっぱいある。実はそれらの本もほとんど1万部もいっていない。「3刷突破!」とかの帯も苦肉の策で、3刷はしているが1万部はいっていないのだ(いってたらその数字を出さないはずがない)。
私は本を出すと5000部以上1万部未満の部数を刷ってもらえる。あいだをとって7500部にしようか。そうすると、自分の手元に75万円入ってくる。
雑誌連載されたものだと、掲載時に原稿料が入ってくる。それがだいたい合計50万円か。1冊分の労働をしてだいたい125万が入ってくる。
このほかに雑誌やWebに寄稿していて、この原稿料が1本数万円。これが積もり積もると、1年にだいたい100万ぐらいになる。
ほかに付随する仕事(登壇やメディアミックスなど)をしていて、やっと年商が300万~500万になる。しかし、今年は300万を切るだろう。
はっきり言って、出版業界のなかでは、著者として自分はわりと大事にされているほうだ。企画が通らないことはないし、接待のようなことをされるし、特別扱いしてもらえていることはひしひしと感じる(けれども、私よりも編集者の方が年収は高い)。しかし、そんな自分でも「これはキツいな」と思っている。
このままじゃ子どもを作るなんてできないよな、と痛感しているし、旅行や海外移住なんて夢のまた夢だ。
しかし、雑誌で連載を持てている私はまだマシなほうで、どこにも掲載せずに書き下ろしでやらなきゃいけない作家がいっぱいいる。むしろ、そちらのほうが大多数だ。
彼らは原稿料をもらえないので、収入は印税のみになる。そうなると、1冊5000部刷る作家だとしたら、1冊分書いて50万円。そうなると、普通に生活するのには1年に8冊作らなくてはいけない。しかし、本を1冊作るにはどんなに早くても最低3ヶ月はかかる。こうなると1年に4冊しか出せないことになる。もはやこの時点で計算があっていない。そのうえ、最近は文庫書き下ろし(ライト文芸と呼ばれる)のものが多く、文庫だと1冊で入る印税がざっくり半額になる。そうなると、年に16冊書かなきゃいけなくなるが、そんな作家はいない。
周りの作家仲間では、専業だったけれど兼業に戻ったという人もけっこういるし、最近デビューする後輩はみんな兼業をつづけようと考えている人ばかりだ。
このままじゃ新人が育たないと思うし、夢がないと思われては目指す人がいなくなってしまう(夢がないことを書いておいて申し訳ないが)。自分も隣接する業界に転職しようかと何度となく思っている。
昨今話題になっているオンラインサロンに手を出せば収益が上がるかもしれないが、羞恥心が邪魔をしてやはりどうしてもできない。それに会員との日々のコミュニケーションがメイン業務だと考えると、それは作家業とは別の業態だろうと思う。YouTubeを始めてみている作家もけっこういるが、収益になるほどの人は皆無だ。電子書籍は半年に一回、数万円入ってくるぐらいでほとんど収益にならない。これは音楽業界のサブスクと似たようなものだと思う。
サカナクションの人はいったい年収いくらなのだろうか? CD印税が3%と知って、驚愕してしまった。出版よりもはるかに低い。音楽業界はライブ収入や、事務所からの固定給もあると聞くから、執筆業よりはマシなのだろうか。あれだけ名前が知られていて年収300万台だとしたら恐ろしいことだ。
これを読んで「自分はもっとうまくやっているよ」という人がいたら、その方法をこっそりと教えてほしい。弱気になっているけれど、なんとかしてこの仕事を続けたいとは思っているのだよ。
人文学と社会科学か。社会科学のほうが科学なのに怪しさが入り込む余地がある気がしてしまうのも奇妙だが、哲学とかだと論理的な議論はあっても「正しさ」を決めることはできないからかな。
なんとなく「人文学」と書いたけど,「人文科学」と呼ぶこともある.私個人としては別にどっちでもいいかと思うけど.人文系と社会科学系と呼んだりもする(総称は「人文社会系」とか「人文社会科学」とか).「社会科学」は略せないんだよな,「社会学」とかぶっちゃうから.このへんは前増田で参考文献として挙げた隠岐さんの著作が面白かったから読んでほしい.オススメ.
理系でも教授の贔屓やコネはないわけじゃないけど論文数(あるいは引用数)で無能認定する仕組みは馬鹿の排除には有効なんだよ(捏造の動機にもなるけど)。
論文数で無能認定は文系でもよくあることです(ただ,論文をあまり書いていないだけで該博な知識を有してる人なんかは尊敬される.周りは「もっと論文書いて! 読みたい!」って思ってるけどw そういう人がポストを得られていなかったりして業績少ないから仕方ないと思う反面すごいもったいないなと思ったり).ただこれも分野によっては1年に1本書いてりゃまあ標準的,というところもあれば1年に2・3本書くのが当然だろ? という分野もありで,その上分野によっては査読の有無での格付けとかもあまりしないので(そりゃ学振の申請書では査読つきとなしを分けて書くけどね),安易に異分野の人が自分野の基準で無能判定するのは本当に良くないからやらない方がいいと思う.今年は著書1冊書いてるけど論文は書きませんでした,を理系基準で業績ゼロって判定されたら暴動起きますよ.
あと歴史学や文学だと,いちばん大事な仕事は論文執筆じゃなくて史料校訂だ,という感覚もあったりして,そのへんがきちんと評価されるのが望ましいよなぁと.ある平安貴族について論文書いても分析視角がニッチならあまり引用されないかもしれないけど,どこぞのお寺なり旧家なりにしまわれてたその貴族の日記を活字に起こして誤字脱字を訂正して単語の意味を解説して背景情報を補足して(日記って本人にとって当たり前のことは書かれないけど,1,000年経ったらそんなことわからないので),っていう作業をしたらその後平安時代の歴史や文学をやる人に参照されまくる基礎文献になったりする.こういう地道なレファレンス作りや史料校訂がきちんと評価される仕組みであってほしい……
これは技術的問題.色んな言語で発表される紙の本での引用数,どうやって数えたらいいの……? ってやつ.異国の本屋さんで面白そうな学術書があったから手に取ってみたら私の論文が引用されてたとか,異国で買った本をパラパラ読んでたら知り合いの英語論文が引用されてたけどその知り合いはその異国語を読めないから多分存在を知らないだろうなとか,そういうの割とあるあるなので,人文系じゃ誰も被引用数なんて気にしてない.ぶっちゃけ無理ゲーだと思う.
あと,英語の本で引用されて,そのあとその英書が10か国語に翻訳出版されました,という場合は,何回引用されたと数えるべきだと思う? 1回? 11回?
そもそも優れた先行研究を褒めるのにもダメな先行研究をけなすのにも引用をするわけで,ある論文の中でむっちゃ参考にされた文献とけちょんけちょんにされた文献の2つがどちらも引用1回ってことにされちゃうの不公平すぎない? って思うんだけど.それに,自分の専門分野についてあまりにひどい俗説が広く出回ってるときは学術文献じゃなくても引用して批判することがあるので,たとえば日本近代史の人が小林よしのりの『戦争論』を名指しで批判するとかよくある.純粋に引用された数で勝負したら小林よしのりに惨敗するマトモな研究者って大勢いると思うんだよね.
というか,文系だと「他人の書いた文章を研究対象にする」というのがあるので,村上春樹の研究なら当然村上春樹を引用するわけで.さらに学問分野によっては,「文献リストに先行研究と研究対象を一緒くたに並べる」慣行を持つところもあり(これはその分野なら英語圏の査読誌でもそうなってる),たとえば樋口直人『日本型排外主義』という日本の極右を研究した本の文献リストには,日本や欧米の社会学者が書いた真面目な研究文献と桜井誠や櫻井よしこや西尾幹二の本がABC順でごちゃ混ぜに配列されていて,両者は引用の形式面からはまったく判別できない.本文を読めば前者を参考にして後者を分析したり批判したりしてるのがわかるんだけど,機械的に区別することは不可能.なので在特会に関する研究が進めば「桜井誠に引用数で負ける研究者」がたくさん出てくると思うけど(というか現時点での私が負けてる疑惑),この基準どう考えてもおかしいでしょ.文系の業績を考える上で被引用数はマジで無意味だと思う.
id:q-Anomaly 面白かった。一般文芸と一緒になっているから大変なのかな?理系だとわざわざトンデモさんに言及したりしないしね。間違いを指摘するときは論文ではなくて直接メール、もしくは研究会で議論かな。
もちろん文系でも別に公な場で晒し上げるほどじゃない間違いだったら直接本人に言うとかあるのでそのへんは批判する人の性格とか人間関係にも拠るところはあり,一方で理系でもSTAP細胞のときはさんざん批判論文出てたように思うので公開の場で批判する文化は当然あると思うのだけれど,間違いの指摘を必ず公開の場でやるわけじゃないとか言われるとじゃあこれまで理系には透明性のある評価基準があるけど文系にはそれがないからダメとか言ってたのはいったい何だったんだよ……って思うわ.あなたが言ってきたわけじゃないからあなたに言うのは不当なのかもしれないけれど.
id:hogefugapiyox 増田 理系(理論)でも独創的な論文で高く評価されるけど問題自体が超ニッチで引用は増えないことはありうる。そこで論文誌や国際学会のランクが役立つことはある。正しくてもレベルがそぐわないものは査読で落とされるので
これは文系でもあるある.メジャーなテーマを研究していてもつまらん論文しか書いてなければ意味はないしマイナーなテーマでも面白い論文が書ければ就職が決まる.
id:death6coin 参考にしたのと批判したのは別にリストアップする形式がいまから生まれ得るかというと・・・難しそうですね。批判にも論外から一部の点で疑問があるまで程度があるだろうし。
「この論文はこんな資料を発掘してくれたので重要だ.でも発掘した資料の解釈に疑問がある」とか,どっちにリストアップすればいいんだよという話で.
でもって,リストアップの形式については出典をどう示すかという形式が大きく絡んでくるんですわ.たとえば,歴史学なんかだと先行研究と研究対象は別々にリストアップするけど(それでも流石に優れた先行研究とダメダメな先行研究は分けないよな),それは社会学とは違うやり方で出典を表記しているからそういうことが可能なんだという事情もあって,まあこのへんは自分で学術書やら論文やらを読んで出典チェックしたことがないとわかりづらいかもねえ.社会学とか一部の分野で全部ごちゃ混ぜにした文献リストを作るのにも合理的理由があるんですわ.
id:hisawooo 増田に言うんじゃないんだけども、トンデモ論文への直接的な批判するなら一番マトモで普通な手段は編集者宛のレター(つまりは読者からのお便り欄)じゃないかね(理系の話をしてますよ
なるほど,そういう慣習があるのね.言われてみれば文系でletter欄って見ないな.
で,文系の論文だと本論に入る前に「先行研究の整理」ってやるんですわ.「先行研究Aは基本的に妥当だがこの部分の解釈に問題があり,先行研究Bは古いため近年発見された資料を使っておらず,先行研究Cは優れた研究だがちょっと私のやりたいことについてあまり触れられてなくて,先行研究Dは論外」みたいに整理した上で,じゃあ先行研究A~Cの成果を踏まえて先行研究Cが見落としている角度から先行研究Bが使ってない新資料を使って先行研究Aとは違う解釈します,みたいに自分の論文の意義や新規性をアピールするわけ.なので純粋な参考文献だけの抽出とか無理ゲー.
id:enemyoffreedom 引用数の正しいカウントがやりづらいのは、さすがにその分野の引用慣習に問題ありな気も。他分野や門外漢から見た透明性の確保も今後は必要になっていきそう。まぁそれだけが業績評価を左右するようだと不健全だが
たくさん引用されたから価値がある研究! とかいうローカル基準に基づいてヨソの分野の引用慣習をまるごとdisるならこっちもお前らのそれってPV数狙いのSEO対策でクソ記事垂れ流す互助会みたいなクソ慣習だなって言っていい? つーか文系は査読なしで論文のチェックをしない! 不健全! と文系は批判対象も引用に含めている! 不健全! ってマジどうやれば同じ口で言えるんだよって感じ.クソ論文をきっちり論文中で批判してるから正しいカウントが難しいって話に正しいカウントがやりづらいから問題とか言われるのマジ批判のための批判じゃん.全部ごちゃ混ぜで引用するのにも合理性はあるんですよ.そんなのはその分野の論文なり著書なりを読んで出典チェックしてみればわかりますよ.何度も言うけど英語圏でもこういうやり方なの.本当にこの慣習を是正したかったら理系の皆さんが大好きな英語で全世界に普遍的な問題提起をなさってくださいよろしくお願いしますクソが.
面白いと言ってくれるのはありがたいんだけど,あなた一連の増田をちゃんと読んでる? このトラバツリーの中で,私は何度も自分がオタクだって言ってるよね? だからhttp://b.hatena.ne.jp/entry/372509722/comment/rciみたいな雑括りされても本当に困るんだけど.まあ記事の隅っこで書いてるから気付かなくても仕方ないところはあるけど,そうやって文系とオタクを対立構造にされて困るのは私みたいな文系オタクなんだよ.ほんと勘弁して.
正直私はキズナアイについては興味ないし,どうせならシロちゃんにやらせればよかったんじゃ,とか思うけど,同時にあのくらいの服装が叩かれるとかおかしいよな,とも思うよ.なぜか服装に関してはゴリゴリの保守派になる連中が多くて目眩がしてるよ.色んな変わった服装を好む人への抑圧だろ.ぜんぜんNHKに出ていいよ.それが多様な社会であり自由な社会だよ.
とにかく私は両側にもうウンザリ.ろくに事実関係を調べもせずVTuberについて基本的なことを知りもせずキズナアイを叩く連中にも,ろくに文系について知りもせずどんな研究をしているか理解もしないできないのにクソバイスを垂れ流す連中にもウンザリです.オタク叩きも文系叩きもクソくらえ.どっちも私の敵.ただもう本当にこれ以上関わり合いになりたくないのでここ数日の荒みきった心を『ヤマノススメ』の録画を見ることで癒やしてきます.一連のレイニーブルー展開を鑑みると絶対ここなちゃんはひなたをあおいから寝取ろうとしてるしかすみさんはあおいをひなたから寝取ろうとしてると思うんだよね.
これ面白い。「実際は擁護・反発ツィートが多かった」オタがヒステリックにわめいていたことが可視化されました。千田さん、池内さん、森次さん、宇野ゆうかさんあたりはネットリンチの被害者といっていいよなあ
理不尽な言いがかりに反発したら「ヒステリックにわめいた」ことになるんだ.そんなの私が書いた増田を「なんで発狂してるの」とか「文系は理系と違って感情的」とか言ってきたクソ野郎どもと同じじゃん.
キズナアイ叩きについてはオタクとして腹が立つし社会学叩きについては文系として腹が立つし,とにかくこの騒動に関わった連中全員不快だとしか思わないよ私は.つーか公共放送でへそ出しノースリーブの服着て解説して何が悪いんだか.
あー、この内容の本だから表現の自由戦士に粗さがしされて叩かれた、ってことなのね(今やっと理解)。回収にならなかったら読みたかったのに。
あなたが文系の学問に敬意なんてさらさら持ってないことはよくわかりました.あなたみたいな人は文系叩きに加わってた方がお似合いですよ.
一章まるまる他人の論なのを擁護するつもりはないけど、なぜ編集も見落としてしまったこの件がいま見つかって話題になったんだろう?っていう話。で、地味な本書がじっくり読まれたのはそのテーマのせいだよね?
勁草書房みたいな文系学術出版では名の知れたところから,現代社会と密接にリンクした論争的なテーマの本を,学術書としてはお手頃な価格で販売しておいて「地味」はねーわ.あれは当初から論争的な書籍として出版されたものでしょ.そういうのを出したら一般読者からも読まれるに決まってる(だからあの価格でも売れたんだよね).
で,それが日本語で学術出版する意義だって私はこの一連の増田で主張してきたわけだけども.日本語で学術論文や学術書を執筆することは研究成果を広く私たちの社会に届けることと同義であり,文系にとってはそれが重要な社会貢献なんだという話を私はしてきたのだけれど,私の増田を「面白い」と言ってた人がそれを真っ向から否定するのには困惑しかないっすわ.あなた,いったいどこを読んでいたの?
ファンタジーに興味のある一般人が中世ヨーロッパについての学術書を読む,小説好きの一般人が文学の研究書を読む,古代文明にロマンを感じる人が考古学の書物に手を伸ばす,そういった行為の延長として「表現の自由に関心を持つ人が表現規制を主張する著書を読む」という行為があるのであって,それは学術書をじっくり読む動機としては極めて真っ当としか言いようがないです.文系の出版を,学問をバカにしないでください.
たいして深く考えずに、売れたら勝ち!とばかりに安易に企画を立ててバンバン刊行して、揉めたら、あーもー、めんどくせーなー反省してまーす、といって打ち切って終わる
ちょっとでも不安材料が出たときに、出版社は一ミリたりとも作者を守らない
今回だって、テニプリ作者に許可を得てから続けよう、と判断することもなく、めんどくさいし揉めたくないから終わらせよう、で終了
ラノベのシリーズだって、ちょっとでも売り上げが悪いと、はい、次は出せない、打ち切り打ち切り、って奴
もうちょっと頑張って出してみよう、絶対これは面白いから、と言える編集がいない
作家は必死で描いているのに、一冊書き上げるまでに脳みそと時間をすり減らして頑張って作り出しているのに、編集側はそれに対して敬意を払うこともない
出版社に体力がないから、と言ってしまえばそれまでだが、こんなことしてるから、作家が同人やなろうに流れるんじゃないか
海賊版のせいで出版社瀕死、とか言ってるけど、こんな業界いっそ潰れた方がいいんじゃないの
潰れないとかわらないよ
これすごくよくわかるんだけど、俺はこれちょっと前の過去の話になっていることに気づいた。
インターネットが助長している節はあると思うけど、人類の叡智の蓄積を享受してきた人間(例えば、図書館に通う人)は昔から誰でも至った境地であり、つまり程度問題であり、そしてコミュニティに発散しないで世代に収束する一過性の問題、いわば中年病なんじゃないかな。
元増田はしんどいだろうけど、俺はこの気持ちを止めないでもっともっとこじらせた先にあるものを見に行く方が良いと思うよ。
人類の叡智の大部分ってさ、「〇〇しちゃいけない」っていう禁止事項だと思うのね。
でもこれってポジショントークも多くて、その辺考えないでフラットに取り込むと、自分は何にもなっちゃいけない、何もできない巨大なものになるわけ。
そして同時に、これって絶対的な真理というよりは、提唱した人の趣味の問題だったりするわけ。
趣味みたいな話に圧倒されて自分が押し殺されるなんてばかばかしくない?
情報量に圧倒されるのに慣れたら、それぞれの情報の重みを観察してみるとおもしろいよ。
川でたとえるなら、流れには強いところ弱いところのムラがあるんだ。
強さと弱さをどのように選ぶか、その選択に自分の個性が端的に現れるんだよ。
あと人間って、残念ながら現時点では蓄積された叡智にいつでも誰でもアクセスできるわけじゃないのね。
たとえ過去に誰かが発した冴えたアイディアであっても、大した理由もなく埋没して、運が悪ければこの世から消えてしまう。
本屋に行くとそれがよくわかる。できれば自分の書いた本が並んでいる方が実感しやすいんだけど、どれか1冊を自分が書いたと仮定してネット上の体験記から執筆〜出版の間の具体的な苦労を想像するんでもいいかな。
自分が1冊書くんでもそうとうな思い入れと苦労があったのに、そういう本が本棚に数百倍、数千倍並んでいて、それでいて絶望的なのは本棚に並んでる本の大部分は自分には興味が無いものなんだよ!
自分の本はすごく価値があると思うのに、なんかくだらない理由とかで埋没して人類には届かないかもしれない。クッソーくやしいな〜。
っていうことはさ、他に並んでる本ももしかしてそうなのかも、良い内容であってもみんなが絶対知ってるなんてことはなくて、折々拾い上げないと行く行くは人類の損失になるのかもしれないよね。
メタ的に情報を俯瞰できる人は、その構造を知ってアクセスできる権利を与えられた人なんだと思うよ。他人のフンドシな情報でまったくけっこう、自分をただのメディアとして情報を厳選し再発信するだけでも自己が投影されるよ。あなたが良いと思えた言葉を、メッセージボトルに入れてあてもなく流すのを趣味的にやってみたらどうかな。
今日たまたま『嵐にしやがれ』という番組を見てて、又吉と一緒に出版プロデューサーという肩書きの人が出てた。
その人が出版業界の話をしてたんだけど、「女性作家には必ずイケメンがつく。何故なら他の出版社の担当がイケメンならそちらの方が原稿を早く仕上がるから。イケメン合戦になる。」「女性作家が少しファスナー下ろした状態で「○○くん(担当者の名前)お願い」と言われたら皆さんはどうしますか?もしここでファスナーをあげてしまったら鞄を持って帰りなさいとなる。ここでファスナーをあげずに下げた人はその作家に3冊書いてもらった。」という話をしてて、嵐の人たちも困惑してた。
笑い話で済ましてたけど、これは本当に酷い話だと思った。もしこれが男女逆の話なら絶対にテレビで流さないだろうし、出版プロデューサーとやらもテレビで話さないだろう。
「聞いたことある話で〜」と前置きしてたけど、この話は全ての女性作家の男性担当者と女性作家の名誉が傷つけられるものだと思う。これから女性作家についている男性編集者は枕営業しているんだなーという目で見られる可能性高くなるし、男性の担当者がついている女性作家は担当者を食ってるんだろうなという目で見られる可能性が高くなる。
後輩の中にも退職してしまって働いていなそうな奴らは居るけど、そいつらはまぁしょうがないなぁと微笑ましく思えるが
都会で某TVコメンテーターの自宅に住み込み書生のような生活をしていたが、三行半を下されて来月から住むところにも窮しているという相談だった
(地方の山奥に昔の実家で今は空き家になっている物件を所有しているので以前、空き家だから住んでくれても良いよと言ったのを覚えていてそれに期待しているらしい)
某TVコメンテーターからは小説を書いて持ち込みをしてみては?とか有名国立大卒博士号取得の肩書で塾講師ならできるのでは?というアドバイスを最後にもらったそうだが
塾講師は最近の受験事情を全く知らないから勉強しないといけないので難しそうという言い訳
この辺までは黙って話を聞いていたのだけど、私はゲームソフトウェア開発会社のプログラマーとして働いているので小説に関しては一寸言いたくなってしまった
(博士号は持っていないけど、エンターテイメントの世界でなら彼より先輩だと思ってしまった)
小説については書生時代に7冊書いてブルーバックスから出版したことがある(科学のふしぎみたいな本)のでいけるのでは?と私も思ったのですが未だ書き上げていない。
どのくらいの時間をかけているかは聞かなかったけど、結末まで考えているプロットが頭の中にあって、いくつか書いてみたいエピソードがあり、その間をうまく繋ぐことができないという言い訳
自分が読んでみたいと思えないとダメじゃん?なんて言うが、書いてみたいエピソード間をうまく繋ぐことができるならそれはもう立派なプロの小説家であって
まだ持ち込みすらしていない素人なのだからとにかく完結まで書いてみろと言ってしまった。
きっと持ち込みをされた編集者の中にはそのうまいつなぎ方のアドバイスとか、膨らませた方が良いエピソードとかそういったそれこそプロとしてのアドバイスをしてくれる筈だとも言ってみた。
一人きりで作品を完成パッケージまで仕上げるには強靭な精神力が必要だし、その例として新海誠を挙げたら知らないといわれたのでほしのこえの成り立ちから説明する羽目になったので
エンターテイメントには全く興味が無かった様子。
彼曰く、ラノベ文庫本1冊は大体12万字なので大体その文字数を目指して執筆していて8割は書きあがっているというのであと少しで終わりなのになぜ書き上げないのか?とか
そもそも字数を目標にしている時点でやっぱりずれていてモヤモヤとした気持ちになった。
出来上がった小説を読ませてもらう事と、空き家を貸す件については年限を設けて書面できちんと契約しようという事を決めて話は終わりになった。
生活全般についてルーズというか危機感が薄い人だという印象を持ってしまったので家を貸すことによって家賃未納等で
今までの友人関係がこれで終わってしまうかもと思ったり、家を貸すことについて両親から反対意見が出たりしたら本当に路頭に迷ってしまうので彼の生殺与奪権を握ってしまった様で
今とても気が重い。
http://anond.hatelabo.jp/20170214114736
1.権威を使う
2.ハードウェアに喩える
車は完璧に近いように作られているが、整備なしに数年後きちんと動いているかどうかは保証できない
3.ユーザーを絡める
ユーザーの行動を全て網羅することはできない
プログラミングという道具を使っているが
我々が完璧に仕事をこなしても、道具がミスを起こす可能性はある
5.量を説明する
たとえば小説一冊を1文字の誤字もなく書き上げることはプロでも難しい
6.難しさの質を説明する
小説を1冊書き上げることはできるが、全て矛盾なく仕上げるのは非常に難しい
プログラムも同じだ
8.プログラムとはどこまでか
9.掃除に喩える
個人的には1が好き
考える必要がない
マジで杉山登志郎先生 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E7%99%BB%E5%BF%97%E9%83%8E のところとかで脳の画像診断とかしてもらった方がいいと思う。
あと東田直樹さんの本 自閉症の僕が跳びはねる理由 asin:4900851388 も読んでみるといいと思う。
東田直樹さんは割と重めの自閉症で発話も困難なんだけど、実際には本が一冊書けるくらい高機能で、文字盤を一文字ずつ指でさすというやり方で会話できてる。
夏休みは最悪だった。
行動すれば何か変わると思ってた。人生が好転する出来事に出会えるんじゃないかと思った。漫画的なドラマチックな幸運が訪れるんじゃないかと思っていた。
ベリーハードの人生を生きているキモイ顔と肌の恋愛負け組灰色の青春無気力アトピーゾンビに転機が訪れることはなかった。
海に行った。
半袖半ズボンで行った。水着はアトピーゾンビウイルスの汚さがさらされるのでやめた。
恵まれた健常者たちが楽しそうに人生を楽しんでいた。容姿に優れた女のほうが露出が多いのが面白かった。
アトピーゾンビウイルスの汚い肌に潮風が染みて痛かった。同い年くらいの健常者男女が楽しそうに砂浜を歩いていた。
ギャル男みたいな人たちから嘲笑を受けた。二十代女たちの笑いの対象にされた。
アトピーゾンビは友達も恋人もいたことがない。海で対称的な人生を見せられた。行かなきゃよかった。
プールに行った。
友達や家族や恋人と一緒の人が多かった。アトピーゾンビは汚い容姿と肌なので服を着て徘徊した。
アトピーゾンビの人生がいかに悲惨で不幸でつまらないでごみなのか再認識できた。よかったよかtった。
一人でプールに行っても何もいいことない。ナンパできるほど容姿に優れていれば違ったのだろうが。結局容姿がすべてなんだなと思った。
あーいやなこと思い出した。アトピーゾンビウイルス治療の影響で眉毛がなくなったんだけど、それを恵まれた他人の健常者中学生が馬鹿にしてきたのだ。まゆげねーwwwwうけるwwwwゲラゲラって感じだ。まあいいや。行かなきゃよかった。いやな思いでが増えただけだった。
夏祭りに行った。
浴衣姿の女の子が沢山いた。一生こういう女の子たちと関われることはないんだろうなだってキモイアトピーゾンビだから。と思った。
カップルも多かった。一緒にたこ焼き食べてたり祭りの外で雑談してた。楽しそうだった。アトピーゾンビの人生には一生ないイベントなんだろうなと思った。
同い年くらいの男女六人組が楽しそうにしてた。見下されそうでびくびくして下を見て早足で横を通り過ぎてすぐ祭り会場の隅っこに隠れた。
アトピーゾンビの人生には起きないイベントを当たり前のようにこなしてていいなーと思った。
あのなかで片思いや両想いの人がいるんだろうな。ドキドキして楽しいんだろうな。
青春を謳歌しているな。あのグループは容姿に優れたひとばかりだから人生楽しくて仕方ないんだろうな。
アトピーゾンビも容姿に優れていたらあの輪の中に入れたんだろうな。
その思い出が生きる活力になるんだろうな。アトピーゾンビの人生つまんないな。
生まれてきたのが間違いだったな。虐待もいじめもアトピーゾンビウイルスもなければ楽しい人生だったんだろうな。
健常者のサンドバックとして生まれてきたんだろうな。日本で一番不幸なアトピーゾンビにはいつになったら楽しいイベントが起きるんだろうな。と思った。
花火を見た
糞田舎の花火を見た。糞田舎らしく、何の感動もないつまらない花火だった。
ぼーっと何も考えずに眺めていた。周りの健常者は楽しそうにしていた。
どんな花火でもまともな家族や容姿の優れた友達や恋人とみれば美しい思い出になるのだろう。
ただつまらない思い出が増えただけだった。みなきゃよかった。
ギターを買ってみた
ギター教室に行くという選択肢も脳内にあったが、キモイ肌とでかい頭と一重と腫れぼったい唇とでかい鼻と、がさついてる顔のアトピーゾンビがギター教室に行っても、「その顔でギターwww鏡見ろよ不細工wwなんか肌キモイしwww近づくなよばい菌ww」と講師や生徒に笑われるだけだろうから辞めた。
教則本についてきたDVDをみた。顔は隠れていたが、容姿が優れてそうな人がギターを弾いていた。
二週間くらい毎日練習していたが、何が楽しいのが全く分からなかったからギターを投げ捨てた。
そもそも音楽の素養がゼロで音楽に全く興味がないことに気付いた。バンドの仕組みのことも何も知らない。有名なバンドもギタリストも知らない。
容姿が優れていて虐待もいじめもなければ友達とバンドを組んで楽しい時間を過ごせていたのだろう。
友達ができたことがないから音楽の知識がない。友達と好きな音楽の話をするような時間を持ったことがないから、人生が貧困である。
ギターなんて買わなきゃよかった。金と時間をどぶに捨てた。最悪である。
ボカロ曲を作る
初音ミクでボーカロイド曲を作って愚民どもにちやほやされようと思った。適当に既存の曲を歌わせてみた。パラメーターをいじってみた。飽きた。
そもそもオリジナル曲を作れるだけの能力がなかった。曲を作る熱意もなかった。
音楽の素養がはぐくまれる恵まれた家庭環境に生まれてきたかった。
アトピーゾンビの家にはCDが一枚もない。あるのはテレビだけ。漫画も本も雑誌もない。
そんな家のアトピーゾンビであり、人生経験に乏しい灰色の青春持ち恋愛負け組不細工愛着障害のゾンビがいい曲を作れるわけないのであった。
いい曲を作るには豊富な人生経験が必要だ。アトピーゾンビにはそれがない。
ペンタブを買って絵を描いた
ペンタブと一緒に入門書を買って数週間練習した。けど、絵を描くことの何が楽しいのかわからなかった。
今まで生きてきてまともに絵を描いたことなどなかった。一緒に画力を高めあう友達がいたこともないし、イラストレーターの名前も全く知らない。絵に興味を持ったことがない。賞をもらったこともなかった。
そして、アトピーゾンビは絵を描きたいのではなく、他人からちやほやされて承認欲求を満たしたいだけだと気付いた。
ペンタブがごみになった。買わなきゃよかった。金と時間を無駄にした。最悪である。
小説を書いた
漫画を描きたかったが、絵が描けないから漫画かけないし、しかたないから文字だけで自己表現できる小説を書くことにした。
ラノベのようなご都合主義ハーレムストーリーを書いたり、鬱屈した性格がねじ曲がった少年の孤独なニヒルストーリを書いたり、異世界物を書いたりした。全部短編だ。
しかし、どんな小説を書いても現実は何も変わらないことに気付いた。文章力がないし、ストーリ構成も稚拙でつまらない。やはり才能がないのだろう。
売れれば億万長者になれるようだが、本を一冊書くだけの能力も熱量も持ち合わせていないから無理だ。
梅原のような格ゲーのプロになれば億万長者だし、人から尊敬もされるしで最高の職業だと思った。
遊びが仕事になるとか最高だなと思った。ネットで格ゲーがうまい人が集まっているゲーセンに行った。
後ろからこっそりうまい人のプレイを見ていた。アトピーゾンビでも出来るんじゃね?と思った。
所詮ゲームだし、こいつらよりアトピーゾンビのほうが若いから技術の習得も早いだろうと思った。
なんで、対人プレイはまだ早いと思いCPUと戦った。操作方法がよくわからなかったから、適当にガチャガチャやったら負けた。次に操作を覚えながら戦ったら負けた。まったく歯が立たなかった。後ろから笑い声や嘲笑が聞こえた。
まるでアトピーゾンビの人生みたいだなと思った。負けに負けて何も得られない。嫌な思い出が脳に積み込まれていくだけ。
思えば、小学生の時、友達のふりをしたいじめ加害者の家で対戦ゲームをやらされたとき、いつも負けていたのを思い出した。
お前w何にもできないんだなw笑えるwと言われたのを思い出した。
ゲームの才能が皆無だということを思い出した。そもそもゲーム自体ほとんどやってこなかったからおそらく好きじゃないのだろう。好きではないものを仕事にするのは人生の浪費だ。やーめた。時間と金の無駄だった。
ライブを見に行った
CDで聞くよりもドラムやベースが目立ってて音がでかくてかっこよかった。
ライブに出る人は容姿に優れている人が多かった。とくにボーカルは。汚い顔と肌のアトピーゾンビがライブに出たら歓声ではなく悲鳴が聞こえるだろうなと思った。
観客は健常者がほとんどだった。健常者同士で楽しそうにライブに参加していた。カップルも多かった。
グルグル回るやつとかモッシュとかやってみたいと思ったが、きもいアトピーゾンビが健常者の近くにいると気持ち悪がられるので後ろのほうで一人で遠くから見ていた。
アトピーゾンビが健常者だったらなーと思いながら指をくわえながら観客を見ていた。
タイに行った
日本より閉塞感が無くて良かった。容姿に優れた人が少なかったので気が楽だった。町の人も緩い感じというかいい意味での適当さがあって居心地がよかった。でも、一人で行っても楽しくなかった。
容姿に優れた友達や恋人と一緒に行かないと海外旅行はつまらないなと思った。
あと、タイにも美醜格差があって、容姿の優れたもののほうが楽しそうに生きていた。
健常者ランドという名の惑星地球では美醜によって幸福度が変わるということを確信した旅行だった。
秋葉原に行った
もっと萌え萌えしてる場所だと思っていたけど、思ったより電気街っぽかった。
容姿に優れた女が容姿に優れた健常者が店員の店のチラシを配っていた。容姿に優れた男がナンパをしていた。ナンパは容姿に優れたものしかできない。キモイ顔でキモイ肌の非健常者で虐待といじめを十数年受け続けた精神疾患障害アトピーゾンビにはできないことだ。死ぬまで一生。
アキバには友達や恋人と一緒の人がたくさんいていやな気持ちになった。電車男のようなイベントはなかった。
メイド喫茶に行こうとしたが、
行かなきゃよかった。
田舎に行った
田舎の夏にあこがれがあった。沢山の緑と青い空。美しい蝉の声。白いワンピースに麦わら帽をかぶった少女。
古びた駅。川遊び。虫取り。そんな美しいものを沢山思い描いて田舎に行った。
現実では、じじばばばっかりで若い人が全然いないし、白ワンピの少女はいないし、蝉の声はうるせーし、川ねーし、駅は薄汚れてて汚いし、日陰がぜんぜんないから暑いし、なんにも娯楽施設がないからつまんねーし、自販機すらまともに無いから喉が渇くし、最悪であった。
虫取りしてみれば、蚊が沢山飛んでるし、蜘蛛の巣には引っかかるし、カブトムシはいないしで最悪であった。
カラオケに行った
ヒトカラをした。友達や恋人とワイワイやったら楽しいんだろうなと思った。もう行かない。
瞑想をした
アトピーゾンビウイルスの痒みでまともに瞑想ができた気がしないが一応手順どおりにやった。
瞑想中は虐待や虐めの記憶や、一生完治することがないアトピーゾンビの醜く赤黒い顔やカサカサの気持ち悪い肌が映像として出てきたり、灰色の青春持ちであるキモイごみアトピーゾンビとは対照的な明るく楽しい学生生活の映像が出てきた。
友達がいていじめも虐待もなくて容姿が優れていて彼女がいて勉強や運動するときにアトピーゾンビウイルスに邪魔されないで楽しく取り組める人生が映像として流れてきた。
一週間ほど続けたが、ただ苦痛なだけで何がいいのかわからなかった。やらなきゃよかった。
筋トレをした
これは今でも続けている。なぜなら自殺して死体になったときに体が軽いほうが運ぶ人の負担が少なくて済むからだ。筋肉がついてなんか変わったかというと特に変わらん。まぁそんなもんだろうな。
結局どこに行っても容姿に優れた美男美女が人生を楽しんでいる姿を見せられただけだった。
結局、容姿に優れている健常者のための世界なんだなここはと思った。
やらずに後悔よりやって後悔という言葉は恵まれた健常者なんだなと思った。
非健常者であるアトピーゾンビは行動なんてしなければよかった。苦しい記憶が増えただけだった。身の程をわきまえるべきだった。分相応の生活というのをすべきだった。
恵まれた健常者学生は夏休みには二度と戻ってこない青春時間を目いっぱい楽しんでいるのだろう。
それが生きる活力になるのだろう。そして成人しても仕事もうまくいって老人になっても穏やかでいられるのだろう。
一方、非健常者であるアトピーゾンビは両親からの虐待と同級生からのいじめを数十年受け続け、何もいいことがないから人生に。だから無気力になる。灰色の青春持ちで、仕事もやる気が出ず、首になる。
そして、人生に恵まれてきた健常者が言葉の金属バットでアトピーゾンビをぼこぼこにたたく。
健常者恵まれた人は甘えだの努力が足りないだの言ってくる。健常者より努力してるっつーの。やってらんね。くだらない人生が確定してる。健常者に負ける人生が確定してる。アトピーゾンビウイルス治療の努力は報われない。評価もされない。スキルもたまらない。生きてるのがばかばかしい。
推敲しないで書きなぐったからおかしいところたくさんあると思う。まぁいいや。
何も得られるものがなかったいろいろ行動したけど。無駄な時間と金を使った。
とにかく最悪な夏休みだった。
終わり!!!
多分もっと稼いでるような気がする。
この人の話を聞くと「もしかしたら金持ちの道が開けるんじゃ」と思えてしまう。
この人ほど「天才」を「天才」としてキャラクターに昇華してる人も居ないと思う。
この人は、片手間で書いた小説で15億稼いで、小説より庭園鉄道の製作に励んでいる。
(しかも工学博士を名乗るだけあって、本格的過ぎる。森博嗣 庭園 でググったら初めて見た人はビビるだろう)
それは研究者として10時間ほど研究していたから、本業が小説家じゃ無かったときだ。
しかしこの人のペースはとにかく早い。1時間に6000字を書く。20年で280冊以上出している。
どうやらそのペースで一週間あれば文庫1冊書けるらしい。怖い。
研究職を疎かにしていたようにも見えない。修士中に賞をとり、たくさん論文をかき、それでまた賞もとっている。
別にコネも無いはずなのに30歳で旧帝大助教授(名古屋大学。ノーベル賞だしたとこ)。
学者はお金を貰えないと思い込むが、一応名大准教授なのでそこそこ貰ってたはずだ。
コミケ主催をしてたという異色の経歴もある。意味が分からないよ。
すべてがFになるの原作の問が、名大入試に使われたとかなんとか。そりゃあ本も考えないとついていけない。
もう趣味で小説書いてるらしい……なのに2016年は5本。文庫化合わせると11冊…。
この人の凄いところは、新刊を買うと次に発売する予定タイトルが何作も書かれていることだ…。
そういえば森先生は天才なので、20年前に出した作品やエッセイで言われた架空の未来が、実現してたりする。
「無重力状態で紙飛行機の挙動」を予測し毛利衛が実験し的中とか、NASAの問題解いてるので、その辺書いてもちんぷんかんぷんなのだが、
増田だったり、Twitterだったりも約20年前の森博嗣の予言(予測)のうちだ。
怖い怖い。書かれたのインターネット元年くらいだよ。
だから今更すべてがFになるを映像化しても、逆に新鮮に思えたりするのだ。
http://www.lifehacker.jp/2016/02/160219speed_reading.html
森先生は「小説家という職業」という本で速読を否定していた。大体上記記事に書いてある理由と同じ理由で、だ。
ああ、もう怖い。
この人の予言でそろそろ来そうなのは、出版社が消えることかな。
森先生に「予言凄いですね」って言うと「何でもは知らないよ。知っていることだけ」って言いそうだよね。あれ羽川翼(物語シリーズ@西尾維新)の決め台詞だけど、もともと国枝桃子(S&Mシリーズ)の名言だからね……。
森先生に一つお願いしたいことがある。一回本気で書いてみてくれ。
本気出さないと勝負にならない、とかいう馬鹿なことは言わない。ただ天才の本気を見てみたいだけだ。
でも無理なんだろうな……。
これ以上お金がかかる趣味を見つけない限り、執筆に時間をかけることは無いと言っているし。
この組み合わせで仕事として本をまるごと一冊書いている人間としての感想。
iPad mini 4 16GB + Magic Keyboardの組み合わせでMacbook Air最安モデルの約半額で、macの快適なキーボードを使って高速で仕事ができ、電源がない場所でも一日中問題ない。
iPadは消費電力がPCより少ないので、スマホ用のモバイルバッテリを持ち歩けば、24時間電源なしでいける。
実感として、iOSが仕事に使えないというのは、すでに過去の話になっている。(追記:ものを書くという仕事に関して使える/使えないを議論している旨をタイトルで表明している。他の業種については論じていない)
勤務先の事情によりつねにフルWindowsを使わなければならないという制限が外せる人は、重いノートpcとACアダプタをバタバタ持ち歩いたり、最近たくさん出始めている格安windows10タブレットにキーボードカバーやらをつけて、安っぽいキーボードの打ちにくさを我慢しながら使う必要はもはやないと思う。
現在の組み合わせにたどり着く前に、Macbook Air、Windowsノート、Windowsタブレット、Androidタブレット、Chromebook、Pomera DM100を買って使ってみたが、常に以下のいずれかの点で問題があった。
・携帯性と重さ
・キーボードの快適さ
・オフライン環境での使用(Chromebookは速くて快適だが、オフライン環境で起動するとログインすらできない)
・原稿へのスタイル適用(章タイトル・見出しのフォント変更、ルビ振り、レイアウト指定等)
特にキーボードの選択は、一日8時間以上タイピングを続ける人間にとっては致命的であった。現在出回っているMicrosoftのモバイルキーボードはAmazon等での評価が高かったので全種類試してみたが、打鍵の快適さはMagic Keyboardに比べると、どれも3万円前後の格安Windowsタブレットについてくるキーボードと変わりない。
携帯性と重さという点では、最初のうちはMacbook Airに満足していたが、やはりこの機械の独特のゴツゴツ感と肌触りの冷たさには最後まで抵抗があった。また、あのアダプタをつねに持ち歩くと、けっこうかさばるのである(あのアダプタの華奢な感じが携帯時に与える不安は、Macbook Airをずっと持ち歩いている人ならわかってくれるだろう)。
iPad miniの分解できるアダプタ&ケーブルは、カバンに入れるときに大きな安心感を与える。また、旅行中以外はそれすら持ち歩く必要がないことにあとで気づいた。
iPad mini 4 16GB + Magic Keyboardで約530g、好みのケースを付けて600 - 650g 、
テキスト入力メインでの動作時間が体感で約8〜9時間といったところだ。
一方、最近話題になったキングジムの小さなpcポータブック XMC10は、本体重量が約830g、
動作時間は約5時間。本日付での価格.comの最安値は約9万円。
Surfaceをはじめとして、携帯性を重視したWindows機を最近各社がこぞって出しているが、サクサク動くスペックにして15 - 20万の価格帯を考えるとどれもライトユーザーにとっては高嶺の花だという感じがする。フルwindowsで1kg以下というのは、現時点でそんなに高い付加価値なのだろうか。
追記:
そういう評判をネットで読んでChromebookを購入して使ってましたが、オフライン環境で電源OFFから立ち上げるとゲストユーザーとしてしか使えず、いろいろ制限が多すぎて面倒なので結局売ってしまいました。(再追記:映像ありがとうございます。去年秋頃までAsus C200MAを使っていて、何回やってもオフライン環境では自分のアカウントでログインできなかったんですが、その後アップデートで改善されたという理解でよいのでしょうか。ちなみに、このエントリの著者です→http://anond.hatelabo.jp/20150927211800)
Google日本語入力はとてもよいと思いますが、問題は別の言語(欧文)との入力を組み合わせる場合です。Android端末と共通の問題ですが、特定言語(欧文)に特有でしかも頻繁に使う引用記号などがChromebookでは瞬時に打てません。OS全体の言語設定を変えても無理でした。多言語処理が一番まともにできるのがmacとiOSという消極的な理由で現在の選択肢に落ち着いています。
iPad miniのバッテリ残量:38%
自分の場合は、特定の仕事に必要な条件を列挙していって、あとのことには目をつぶったら消去法でこの組み合わせになった。最初はiPad miniなんて割高な情弱向けの端末だと思って、見向きもしなかったが、いろいろ試してみて結局現時点でこれが残った感じか。
出先であれもこれもやる必要がありそうだと考えて、「全部入り」を選択するとフルwindowsのノートになるんじゃないか。
その場合でも、価格/重量/バッテリー持続時間/キーボードやタッチバッドの使いやすさ等で、トレードオフがある。
あらゆるシーンでフルwindowsが必要だという考え方は、仕事に必要なものの明確化ができていないか、心配事が多くて、バッグにいろいろ詰め込みすぎて重くなってしまう事態に似ていると思う。
文章を書く時は横置き。iPad miniだと、縦置きでPagesを使うと字が小さすぎる。Wordのドラフト表示みたいなのができて、プレーンテキストだけじゃなくて、傍線を引いたりスタイル設定できるアプリがあったらそっちに乗り換えて縦置きで書くかも。
Thinkpadのキーボードの使い心地、自分も大好きだけど、やっぱり重量が問題。
歩き回って考える→カフェや図書館で座って書く→歩き回って考える
の繰り返しで書いていくので、バックパックに重いノートpc一式を入れて1日それをやると、背負い紐が肩に食い込んで痛くなってくる。
テーブルが高すぎる施設もけっこうあるので、キーボードだけを膝に置いて打てるのは便利。
タブレットホルダーやらをいちいち立ててセッティングするのが面倒ではある。
帰宅してから古くて大きい方のiPad + Microsoft Universal Mobile Keyboardでこれを書いてみたが、やっぱりこのキーボードは長時間執筆には向いていないと感じる。ちなみにこれは、最近話題だったASUS Transbook T90 CHI のキーボードによく似ていると思うのは自分だけ? まったく使えないほどひどくはないが、どこかおもちゃっぽい。
iPadの日本語入力が完全ではないというのはまったく同意します。ただ、使い続けているとなんとかなってきます。いまのところATOKは買わずに、もともとの日本語入力だけで毎日原稿用紙10枚分書いています。他の人が言われてるほどこの日本語入力は苦痛ではないです。
なぜキーボードにそんなにこだわるのかというと、腱鞘炎が再発しないように気をつけているから。
エディタは無料のPages。UIの好き嫌いで選んでますが、結果的にアイディア出しをやりながら草稿を貯めていく作業にけっこう向いているようです。起動すると文書がカード形式で並び、それまで自分が考えてきたことがおよそ俯瞰できます。Command + Spaceキーでスポットライト機能を出して検索するとpagesファイルは全文検索がかかるので、ipadに入れてある他の資料、複数の草稿の間を行き来しながら納品原稿を仕上げていくイメージです。縦書き状態のチェック等は最後にdocx形式にエクスポートしてノートpcでやります。pagesファイルとdocxファイルの互換性、見た目の再現性等については、校正が入るので基本的には問題になりません。
なぜ電源のない環境にこだわるかというと、自分の場合、歩いて体を動かしているといちばん考えがまとまるので、ある程度まとまって座ったところに電源があるかないかを気にして行動を制限したくないからです。
「多言語処理」で意味するところは、複数の言語に特有な記号や文字組みを同一の文書内で適切に混在させるという程度のことです。
日本語入力を切って半角入力にしただけでは入力しにくい欧文の記号はたくさんあります(アクセント記号、"と違うかたちの引用符、改行できないスペース記号等)。日本語と英語だけを混在させる分にはこれは問題になりませんが、他の欧文を表示させる段階になると問題になってきて、Androidはこういった処理がひどく弱いので実用に耐えませんでした。Windows + Wordで文書を書いている分にはこの問題はクリアされていますが、日本語版のwindowsにたとえばフランスで作られた辞書アプリをインストールすると、文字化けします。OS全体の言語設定をフランス語に変更しても解消されません。一方、同じアプリのmac版は、OSの言語設定に関係なく適切に表示されます。こうした処理をユーザーの側がいちいち気にしないレベルで解決されているのがmacとiOSという消極的な理由で、少々高くてもしょうがなく使うわけです。Androidのキーボード周りがもう少し洗練されてきたら乗り換える可能性もあります。
昨日の記事で伝わり難かったようなので補足しとくん。
商業的な視点で二次創作をした場合、別に二次創作だから楽だっていうことはないんだよ。ある作家が、オリジナルの作品で漫画を一冊描く小説を一冊書くにくらべて、(オリジナル展開の)コミカライズ、ノベライズをしたほうが楽かって言うと、別にそんなことはない。
展開がオリジナルである以上、借りてこれるのは世界観やキャラくらいであって、エピソードや物語そのものを作る手間は変わらないし、実際それを組み立ててまとめる手間も変わらないんだよ。キャラや世界観を借りれるから楽になるアドバンテージだって、その世界やキャラを読み込んで把握し、原作サイドに許可を得たり監修受けたりする手間と相殺だ(人によっては、二次のほうが大変だと思う。自分がそうだ。ノベライズは相手によってすごく大変)。
「読者は世界観やキャラを知っているので説明しなくていい」っていうのは、書き手の誠実さの問題であって、一冊の商品として考えた時、二次だろうがスピンオフだろうが、前提知識なしで楽しめたほうがいいのに越したことはない。多くの商業二次は、そういう工夫をした形跡があると思う。「二次創作だから説明しなくていい」なんてルールはないんだ。それはただ単にそのコミュニティ(いまの同人)の常識であって「二次創作のルール」ではない。
その証拠に、単巻で成立するような誠実な小説同人を書く人は存在するし(多分漫画同人でもそういう人はいる)、前回の記事は「そういう視線の人にとって二次創作は別にそんなに大きなアドバンテージじゃないよ」って言う指摘だったんだよ。
じゃあ、なんで二次創作は敷居が低い、という話になっているのかって言うと、二次創作と、同人作品(原作者に監修を受けていない)と、断片作品(それ単体では成立してなくて、ある情景や関係を切り出して作品化してみたもの)と、コミュニティチケット(作品を書くことそのものではなく作品ファンのコミュニティ参加が目的である作品)みたいないくつかの動機や作品を、ざっくり「二次創作」というキーワードで並列に話そうとしているせい。
「二次創作」そのものには、創作を楽にするような要素なんて、特にない。
どちらかというと「今のファンコミュニティでは、単体成立していない情景や関係性に絞ったような掌編作品も大いに許容されていて、そういう文化は敷居が低い」ってのが正確だと思うんだよ。
そして、それ自体はすごくいいことだと思う。参加して初めて実感できるお祭りの良さってあるもんね。それで褒められたら欲が出て「いつかは単巻で成立する作品を!」って思うかもしれないし!