大きめのバット3つ分のティラミス作ったんだけどバット1つ目で疲れた。
なんていうか、飽きるのは当然なんだけどこう、疲れるんだよな。
そう簡単に腐るものではないので3日くらいかけて食うことにするけど。
http://anond.hatelabo.jp/20150504214206
ローションをたっぷり塗ったのでチンコはそれほどでもなかったのですが、右手首を痛めてしまいました。
次に挑戦したときは左手でやったのですが、左手首も痛め、サポーターを買いました。
V for Vendettaという死ぬほど有名なアメコミ作品がある。
で、最近V for Vendettaの映画版をみて思ったんだけど復讐心が原動力の人って復讐をし終わったら人生の目標を失うんじゃないかな。
筒井康隆の小説で「我が良き狼」という超絶名作があって、これは文字通りの好敵手、なんていうかアンパンマンとバイキンマンみたいな感じでお互いで存在意義を維持しているみたいな関係の小説があって、マジで泣けるんだけど、これを読んでも思ったことでもある。
「我が良き狼」の場合は別に敵として描かれる狼の方がそんなに極悪非道じゃないからこそ感情移入できちゃうからちょっと話がぶれるんだけど、V for Vendettaみたいない復讐する相手が極悪非道の度合いが高ければ高いほどその復讐を終えた後の虚無感というか、生きる意味の喪失ってのがすさまじいのではないかな。
それってでもお前を殺して俺も死ぬ的な相打ちを前提にしているのかもしれないんだけど人って目標がなくなったくらいで死なねえだろうなと思う。
なんとなく、もぬけのから状態で半分呆けた状態でなんとなく生きてしまうのかな。
そこで思ったのは、復讐心を原動力として生きてる人って、復讐した瞬間に死ぬべきで、もしもそこで死ねないのならまた復讐心を生み出すために自分から沼に飛び込むしかないのではないかな。
なんか、悲しいなと思う。
俺の乳をkカップにしてください
早く願いを言え
「這い出た」うんぬんって、ニーターパンが完全に黙殺されるようになってこれにする事にしたんだろうか?
http://anond.hatelabo.jp/20150504230308
地の底かなんかから這い出して来てるのか?
PCで見ていて、全画面表示にしたらなぜか、動画のコントローラー(ポーズとか再生とかボリュームを操作するボタン)が画面から消えなくて字幕と重なって最悪だったわ。
吹き替え版を見るつもりが、うっかり字幕版を選択して「まあいいか」って感じで見始めたら、字幕が見にくい状態でイライラした。
前の日に暴飲暴食する。二日酔いならなおさら良い。そしてオムツを履いていつもの出勤の様に駅に行くのだ。
便意を催しても、どれだけお腹が痛くても駅のトイレをわざと通り過ぎてホームに行く
生まれてきて、大人になって、暮らしを営んでいることに幸あれと本当に思う。碌でもない出来事が日々石ころのように転がっていて、それを道から除けるか、避けて通るか、人それぞれなんだけど、なんというかその、道があることが愛おしい。僕らはみんな生きている。生きているからすごいんだ。
世を苦行だと捉えるのが一般的な仏教の根本原理だ。聖なき衆生が業のもとに救いなく永久に続く苦行を生きる煩悩の有様を目に見える世界だとする。解脱とはメタ世界への移行でその業の世界からの脱出を意味してそれを神聖視するわけだけど、そもそもの動機は業からの逃避な訳で。ものを食って、うんこしてる身で。要は、苦行してるお坊さん方は、世の中から逃げたくて逃げたくて仕方がなかった。だから糞下流には混じり合わず、己の世界の内でしんどいことをやり続ければ報われる、というのが原始仏教。こいつらくだらねぇな、つきあってられねぇな、なんて、分かりやすいエリート意識。
しかし、苦しい世だからこそ、そこに生きることが尊いのではないか。そこで泥水をすすり、愛欲に溺れ、駆け引きを駆使しながら己と子を護り、肉を喰らって、眠りと朝日を保障する。おい、ねえ、すごくない?俺できないし。というのを愚直に見つめた男がいる。それが親鸞だ。
教義としてのオリジナリティは法然にあるのかもしれないが、親鸞は事実、泥水をすすりセックスをし、酒を飲み肉を喰らいながら、そんな俺が信じてるよ、と阿弥陀の救いを説いた。私が知る、あなたたちをこそ救わずして、何が仏か、と。
ここからは俺の独自の解釈。かつて僧という「形」のために頭を剃った愚行を「愚禿」と表わし、今現に業を一身に背負うこと=菩薩行を積んでいる目の前の人々をこそ、哀れまず慈しまず尊んで、己より行を達した者とし、敢えて同じことをした。世は、かき集めた金をつぎ込んで寺を建て、加持祈祷をさせれば徳=得の時代。そのような儀式、「計らい」は要はショートカットであり邪であるとし、業に直面しながら苦しみ生きることこそ解脱の道であり尊い行いだと、己の身をそこに投じた上で彼は知って、そして説いた。
生きよ、生きよ、生きよ。あなたたちは尊い。何が何でも生きて生き抜く中で、だからこそ届く念がある=救いがある。「南無阿弥陀仏」とは、何者をも超越した阿弥陀仏に帰依いたします、という意味だけど、きっと多分なんでもよくて、怒られるかもだけどアーメンでもきっと全然良かった。念仏なんて要するにお題目でしかない。生きよ、あなたたちは間違っていないと、そのためになんか支えが要るならとりあえず南無阿弥陀仏っていっとけ、それを親鸞は言いたかったのだと俺は思う。
結果いろいろあったんだけどね。親鸞だって所詮エリートだ。パンピーとは頭の出来が違うし、思想の落としどころも多分違う。阿弥陀の前に人は平等まではいいけど、衆を集めて暴力的人権運動が起こせまでは多分思ってなかったろうし。いやまあ、どうなんだろうそこのところはまだ腑に落ちてないんだけれども。
ああ、酔っぱらって書いてるから面倒くさくなってきた。誰か、増田にも真宗の門徒いんだろ。西でも東でもいいや、門外漢のお説に捕捉してくれ。
いや、たまにはまともな時もあるってぐらいで結構アレだよ?