はてなキーワード: インビクタスとは
僕みたいなコミュ障の陰キャの運動音痴には、サッカーがよくわからない。
友人宅に集まってワールドカップなど観戦してみても、何かついていけない・・・けどとりあえずウェーイ・・・という経験はコミュ障の定番と思うが、これは何も友人たちとノリが合わないということではなくて、サッカーという競技そのもののポイントを押さえられていないのだと思う。
だってサッカーって、パスをうろうろ回して、ちょっと走ってみたりして、ディフェンスに阻まれてすごすごパックパスして、またうろうろ回して、あわよくばポーンと蹴ってガーッと行ってゴチャゴチャッとしてシュートでゴール!ってなんだかよくわからんうちに点が入ってたりする。
とにかくボールがゴールに入ったらとりあえず喜んどけばいい、くらいのことは陰キャのコミュ障でも学習した。そこはちゃんとできる。
しかし、そこに至る中盤でのボールの動きが、コミュ障からしたら「何がやりたいんだろう?」という感じなのだ。つまり、「空気が読めない」。
ちらちらと動いてみせ、押したり引いたりして相手の出方を伺って、ここぞという時に切り込む。若い頃にサッカーをやっていた父は、そのことをして「剣道みたいなもん」と評しており、それはそれで言い得て妙かもしれないが、これって実はコミュニケーション全般において当たり前に起こっていることなのだ。そして、そこんとこの機微を読む能力が著しく欠如している人間がコミュ障と呼ばれる。
コミュ障からすれば、ボール回してんなあ。行ったり来たりしてんなあ。あ、取られた。あ、行けた。ウェーイ。その表層の背後にプレーのニュアンスを察しろというのは、酷な話なのです。
そんなコミュ障で陰キャでチームプレー経験のないヒョロガリ運動音痴でも、意外と観戦を楽しめるスポーツがある。ラグビーだ。特にワールドカップが日本で開催されて以降、触れる機会も増えたのではないだろうか。でも何となくサッカーより近寄りがたい印象があるとすれば、それはルールがちょっと多い、面倒くさい、わかりづらいという点にあると思う。
しかし、陰キャ持ち前の粘り強さでそこをクリアすれば、ラグビーは存外「わかりやすい」。
ラグビーのルールの多くは、「ラグビーかくあるべし」という理念に基づいて設定されている。何せ、ボールを抱えて走っていいし、体ごとぶつかっていい、ほっといたらただの喧嘩のようなボールの奪い合いになってしまうスポーツだ。その分ルールによって、ラグビーの迫力を保ちつつもゲームが適切に展開するようにできている。ラグビーはボールを挟んだ陣取り合戦だから、ボールを前に投げたり落としたりしてはいけない(蹴ってもいいけど)、とか。あるいは、プレーが止まるのは良くないから、タックルされたらボールをすぐ離さなければいけないし、タックルしたらすぐにどかなければいけない、とか。そこに垣間見える、激しいぶつかり合いと隣り合わせの冷静さも、ラグビーの魅力だ。
で、この「すぐ」ってなんだよ、何秒だよ、と言いたくもなるのだが、それを判断するのがレフリーだ。レフリーには反則の有無やトライの成功を審判するだけでなく、ゲームを円滑に展開させるという任務がある。だから例えば、いきなりファウルを取るのではなくその兆候が見えた段階で警告するなど、プレーヤーとコミュニケーションをとりながらゲームを進める。観戦にあたってはそれも状況把握のための重要な要素なので、テレビではレフリーの声を聞くことができる。
また、ゲーム中で行われる様々なプレーもこまごまと規定されており、それはプレーが選択肢として整理されているとも言える。即ち、ボールを持ったチームは、走る、パスを回す、ラックを作る、モールを組む、キックする、トライする。ファウルを得た場合は、その内容によってスクラム、スローイン、ペナルティキック。これらをある程度理解しておけば、彼らが「何をやりたいか」が何となく見えてくる。足の速さで切り込むのか。パスで惑わせるのか。力で押すのか。キックで稼ぐのか。急ぐのか。緩めるのか。これはもはや筋肉のチェスだ。
2015年のワールドカップで、日本代表が南アフリカを破るというジャイアントキリングがあった。南アフリカといえば、映画『インビクタス』のスプリングボックスである。深夜の生放送、ノーサイドの笛が鳴った時の興奮、というよりは呆然としたのをよく覚えている。
あの試合、「何がしたいか」がとてもはっきりしていて、それが勝利に結びついた。リスクの高いトライにこだわるよりも得点の少ないキックで点数を稼ぐという戦略。一方後半ロスタイム、3点ビハインドの状況で得たファウルでは、引き分けに持ち込むキックではなく高リスクのスクラムを選択した。「勝つ」ためだ。そして、それは実現された。
理性的な意思決定と、フィジカルとテクニック。ラグビーって面白いよなあ。毎度「負けられない試合」と言いながら、うじうじとボールを蹴り合って結局負けるサッカー(と昔は思っていた)とは大違い・・・とまでは言いませんが。
以上はもちろん傾向にすぎない。サッカーにも明確な戦略の構築はあるに決まってるし、ラグビーもラックのボールをいつどこに出すかとなれば一瞬の間合いの駆け引きだろう。しかし総じて、コミュ障はサッカーよりラグビーを観とけ。あれは俺たちにも「わかる」。
https://www.google.com/search?q=こち亀 不良
ときどき見かける「イケメン/美少女に勝手に惚れられる主人公のマンガ/ライトノベル作品が都合よすぎなのでキモイ」論、共感したことなかったんだけど、ようやくその気持ちがちょっとわかったわ
ディズニー映画やその亜流などに顕著だが「偽りの勝利」→「どん底/敗北/最大のピンチというクライマックス」というパターンを踏む作品が多いのは周知の事実で、本作でも「麻薬の運び屋になる」→「大金を手にする」「最初はおそろしかったヤベー奴らに一目おかれるようになる」→「ヤベー奴らが代替わりしてもっとヤベー奴に締められる」「家族との亀裂深まる」「順風満帆に見えた犯罪稼業もDEAに嗅ぎつけられいつ逮捕されるかわからない」という風に展開していく。
その展開は「間違った価値観に基づく悩み(疑似問題)」→(最大のピンチ)→「真の問題に気づくことと、問題解決のセット」というプロセスによって挟まれていることが多い。(ファインディングニモ然り、シュガーラッシュ然り、インクレディブルファミリー2然り…)
『アメリカン・スナイパー』『15時17分、パリ行き』『ハドソン川の奇跡』『インビクタス』あるいは別監督の同年作品『グリーンブック』みたいな、実話に強く寄せた話ではない(一応、実在の事件にインスパイアされてはいるが、左記作品群のようには実名を使用していない)。
花卉栽培に熱中し、実益があるもんだから家族を顧みず全米を飛び回る。ところがインターネットの発達により実益が消滅、畑は差し押さえになる。みんな金がないのが悪いんや…から始まる物語。
ハッピーエンドというと、多くは「生きるか死ぬかの賭けに勝つ」「優勝してチャンピオンになる」「絶体絶命のピンチに遭遇し知恵と勇気で切り抜ける」「悪者をやっつける」「宝石を手に入れる」「一か八かの挑戦をして成功する」「追手から逃げ切る」といったものになり、「死ぬ」「負ける」「やっつけられる」「大金を手に入れられない」「失敗」「捕まる」で終わるものは通常バッドエンドとみなされることになる。
ところが『グラン・トリノ』は最後に主人公クリントイーストウッドが撃たれて死ぬが、ハッピーエンドなのである。これは「生命を失わない」ことより高い価値を持つものを主人公クリントイーストウッドが手に入れたというによって達成される。すなわち「他者との精神的つながり」が、生き長らえる、物質的な豊かさを超える至上の価値としてアピールされているのだ。(もっとも一般的なのは童話の昔から定番の男女間のカップル成立だが、『グラン・トリノ』の場合はアジア人の少年とのつながりを得ることができれば死んでもいいという価値観)
本作では、「間違った価値観に基づく目標と偽りの勝利」は「(悪いことをして)カネを稼ぐ」「それによって、家族ではなく、在郷軍人仲間(ベトナム戦争に参加していたという設定)や園芸職人仲間から称賛される」「モテる」で、成功=偽りの勝利シーンに”ああ、こいつ(クリントイーストウッド)あかんやつや”という通奏低音がいやというほど鳴り響いている。
ところが、このじじいがいろんなところで調子よすぎるのである。
前述の「ヤベー奴らに脅されたりスマホ(SMS)も使えなくてバカにされたりもしたが、持ち前の気骨ある行動とイケメンぶりで一目置かれるようになる」もそうだが、
家族とのディスコミュニケーションがマイナス要因で「妻からは冷たくあしらわれ、娘からは12年間口をきいてもらえず、家族の中では唯一孫娘だけが味方」
からの「妻が病気で倒れたと孫から連絡を受けるも、コカイン運搬中であり、どうしても駆けつけられないし事情も説明できない。そのためついに孫娘からも敵に回る宣言を受ける」という最大のピンチの後には、
「どうにか一仕事終えて家に駆け付けたら死にかけた妻に”あなたはひどい夫だったけど、最後そばにきてくれて看取ってくれるなんて超最高よ愛してるわ”と言われる」のだ。
妻の葬式、娘とも和解。葬式優先したために、グレードアップ後の、一目置いてくれていたやつらよりさらにワルいやつらに殴られる。(唯一のダメージらしいダメージはここだ)
そして逮捕。
裁判では無罪を勝ち取ろうとする弁護士を制して「わしゃ有罪じゃ」
最後は、刑務所の中で再び大好きな花育てを行うクリントイーストウッド。
引いて、終わり(ゲットワイルドは流れない)
っていやいやいやいや。違うでしょ。
何(1)妻が死んだ(2)ちょっと殴られた だけのダメージで 幸せいっぱいに園芸やって終わってんだよ。(服役中だけど)
娘もなんで最後にちょっとふらっと現れて口先で謝っただけで受け入れてんの?
涙まで流して「なるべく面会に行くわ」「(犯罪で稼いだお金で)取り戻したお父さんの大事な畑は私が守るわ」と抱きしめてたの?
「わしゃ有罪じゃ」宣言、そりゃ万ドル単位で犯罪マネーを蕩尽しといて当然でしょ。
前半にはアジア人を差別するクソ白人至上主義野郎だった『グラン・トリノ』の主人公が、見終わったらいい奴だったと心に残るのは、撃たれて死んだから。
(自分が東欧系移民でややカースト低め、非WASP白人だったということもある)
最初の話に戻ると、「空から美少女が降ってきて惚れられるし俺はTUEEE」な話を叩く人は、等価交換を重視してるのかもしれないと思ったよ。
年間200本の映画を観るぼくがオススメする7つの映画と7人の映画監督 - 私を構成する映画監督 - - Hikikomotrip
信頼できる映画評を各人間を見分けるにはコツがいる。見ればわかる程度のアレもいるが。
一番わかり易い見分け方は、まずライムスター宇多丸のラジオ映画評番組(正しくは番組内の一コーナー)「ムービー・ウォッチメン」を聞くことだ。
信頼出来ないやつはそこで述べられた評言をまんまパクる。咀嚼せずにパクる。宇多丸はラッパーだけあってキャッチーでクリティカルなフレーズを次々と考案してくれるので、使い勝手が良い。
そういうのをアホは何も考えずに右から左で流すだけだから、「それってどういう意味なんですか?」と聞かれたときにうまく対応できない。
感想や評論のパクりが悪ってわけじゃない。むしろ、それが有用だと思えばどんどんパクるべきだ。
しかし、それにはあくまで自分の感性や理性というフィルターを通して自分なりに噛み砕いたうえで、自分の言葉として精製する過程が必要だ。
それがアホにはできない。
たとえば、コレ。
この人がぼくに与えてくれたのは「ヒップホップ」。彼の映画の作り方はとってもヒップホップの思想に近いと思うんですね。サンプリングやオマージュを多用するパッチワーク的方法論はまさにヒップホップそのもの。ぼくがラップが好きなのは彼の映画が好きだからなのかもしれません。
じゃあお前、ウンコとオシッコは似たようなプロセスを経て製造されるけど、オシッコほど喜んでウンコまるのみできる自信あんの???
こういうのは圧倒的リファレンスを有し、かつ日本ヒップホップ界のレジェンドである宇多丸が言うから重みがある(別にタランティーノを形容してヒップホップ的と評したのは彼が初めてではないし最後でもない)のであって、そのへんのやつが言うと「え? 具体的にどういうこと?」と疑問が湧いてしまう。タランティーノ映画観てて「あ、このBGM、『アラモ』だな」とか「あ、このシーン、『修羅雪姫』だな」とか思うか?本当にタランティーノにヒップホップ魂を感じているのか?ちなみにタランティーノ映画で流れるヒップホップってせいぜいウータン・クランくらい(っていうかRZA)だぞ。
いやいやタランティーノは我々の知らない引用ネタをさも知っているものかのように見せるのが巧くて……と言うのだったら、手法として最もヒップホップ(=引用のパッチワーク)的な『ジャッキー・ブラウン』が肌にあわないってどういうわけ?
結局、ヤクザか狂人が出てきて人が無残に殺される映画が好きなだけってなら最初からそう言えば?
そもそも宇多丸リスペクトしてんなら『ハート・ロッカー』以外の気に入った映画も劇場で複数回観ろや!
こういう何も考えずに宇多丸にフリーライドして周囲の評判を稼ごうとする人を業界では「紫の服の人」と言います。
用例:
映画会社社員A「このまえ公開された◯◯なんですけど〜ネットにひどいこと書かれてて〜見て下さいよこのブログ〜」
広告会社社員B「ん〜???ああ、このブログね。これは「紫の服の人」だから気にしなくていいよ」
というところで、本日の増田、お開きです。最後に増田がおすすめする本当にキモチいい七人の監督の七作を紹介してお別れです。
周防正行:『舞妓はレディ』と『終の信託』以外全部。入門編は「シコふんじゃった。」。シコったあとで『Shall We Dance?』を見ればこの監督独特のリズムに慣らされる。
キャスリン・ビグロー:『ハート・ブルー』と『ゼロ・ダーク・サーティ』。最初に観るなら『ハート・ブルー』。それを最後にしてもいい。
北野武:ヤクザ映画全部観た後でまだ北野武を知りたいと思う余力が残っていれば『みんな〜やってるか?』あたりも。『アウトレイジ』は単発として間口は広くても北野映画の入り口にはならないと思うので『BROTHER』あたりで覚悟をきめておこう。
タランティーノ:一通り全作観終わった最後に『デス・プルーフ』。この監督はフィルモグラフィー順に観るのが良い。よって入門編は「レザボアドッグス」
ポン・ジュノ:全部。入り口としてなら『グエムル』。度胸と覚悟と自らのゲスさに自信があるなら『殺人の追憶』から入ってもいい。
園子温:ない。七人のなかで一番優先順位が低い。強いて挙げるなら『地獄でなぜ悪い』(スラップスティック好きなら)と『冷たい熱帯魚』(とにかくエグい救いのない話が好きなら)。
クリント・イーストウッド:全部。ただ順番があって、西部劇諸作飛ばしていきなり『許されざる者』を、『許されざる者』や『ダーティ・ハリー』飛ばしていきなり『グラン・トリノ』観ても感動はしてもよく飲み込めないと思う。気軽に楽しみたいなら『インビクタス』や『ジャージー・ボーイズ』あたり。
勝利が決まった瞬間とかじゃない。
ボカが終盤、トライではなくキックで手堅く得点に行って、ブーイングの中で得点したのに、格下の日本が、最終盤の似た場面でキックで同点ではなくてあくまでもトライを取りに行く姿勢に泣いた。
ドライビングモールでボカの選手達を押し込みながら、それでもグランディングさせてもらえずに、キックに逃げてもいい場面でも押し込み続けて、最後にトライを取ったシーンはテレビを見ながら久しぶりに吠えてしまった。
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95年のワールドカップの時は、僕はまだ小学生でラグビーなんてろくに知りもしなかった。まさか将来、自分がプレイヤーになるなんて考えもしなかった。
僕と同世代のその南ア人は当時、やはり10歳くらいで、当時のことを決して忘れないと言っていた。
南アフリカ優勝劇の裏では、政変が起こったばかりで、白人の彼は黒人から家族ごと虐殺されると怯えていたそうだ。
この辺は、スプリングボクスとマンデラ大統領を描いた映画『インビクタス』を見て欲しいのだけど、そんな中で白人を中心とした選手でワールドカップを制したボカは本当に民族融和のシンボルだったそうだ。
友人は、酒を飲んでるときでも当時の選手を控えまで暗唱できた。
そして、当時をリアルタイムで知る、僕らより年上のチームメイト達と熱く語り合っていた。
決勝のオールブラックス戦、その前にオールブラックスに史上最高得点を許し蹴散らされたのが日本だった。
むかし、スポーツコメンテーターが日本ラグビー人気凋落の原因を作ったと表した大敗だ。
言葉には出さないが、親友同士だった僕と彼の間でさえ、南アはラグビーの一流国で有り、日本は明確に下だとの共通認識があった。おそらく、ほとんどのラグビーを知る日本人と南ア人の中にあったように。
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今回の勝利、南アにすれば敗北をきっと彼も見ただろう。
いつか彼に再会すれば、今回の試合を一緒に語り合いたい。
http://yuma-z.com/blog/2013/05/student_books/ という人のエントリを見て、自分も(学生じゃないけど、)読んで楽しかった本をまとめてみたくなった。
この長い本の紹介を読んで、読んでくれる人や、ほかにおもしろい本を紹介してくれる人が続いてくれたら自分はうれしい。まだ微修正中で、加筆・修正するかもです。
これから紹介する本の順序について、あまり意識していないけれど、なんとなく読んでいる人が多そうな順。下に行くにつれて、読んでいる人が少なくなっていくと(書いている自分は)予測してます。
このエントリで紹介するのは以下の本です。つづきは http://anond.hatelabo.jp/20130530045256 で。
宮部みゆきさんの小説。一人の女性が婚約後にいなくなってしまう。主人公はその女性の捜索を頼まれて、懸命に消息を追う。そして、調べていくうちに、現代資本主義社会の底しれぬ闇が見える――。
とても有名な作品で少し前にテレビドラマにもなったようだ。物語の始まりが冬の寒い時期のせいだろうか、自分は冬の時期に読みたくなる。三日間くらいで読了できるとおもしろさが持続すると思う。
読まれる方は、Wikipediaのあらすじにネタバレの要素があるので注意されたい。Amazonの書評にも、ややバレる要素があるかな。この小説についてはあまり詳細について語ると魅力が半減してしまう気がする。読まれる方はできる限り事前の情報収集を避けて読んでください。
1995年にそれまで350年にわたり証明されなかったフェルマー予想が証明された。そのフェルマー予想をテーマにしたノンフィクション。著者はサイモン・シンさん。翻訳は青木薫さん。
著者のサイモン・シンさんはこの後紹介する「ビッグバン宇宙論」においてもそうだが、説明がとても丁寧だ。わからないことを教えてもらおうとして、わかっている人に聞いたときに下手な比喩でたとえられて、全くわからないという経験をした人は自分以外にも大勢いるだろう。サイモン・シンさんの比喩はわからないという気にならない。なぜなのだろうか。
数学をテーマにした本なので、数学が嫌いな人は手に取ることもないかもしれない。しかし、そういう人もぜひ読んでみてほしい。というのも、この本は数学の「問題そのものを解く」ということが主題ではないから。むしろ数学の問題はどのように生まれるのか、それを解こうとして350年にわたり数学者たちがどのような試行錯誤を続けていったのか、そのもがき苦しんだ歴史の本だからだ。
海外の本はしばしば翻訳調とでもいうべきか、文が堅く読みにくい感じがすることもあるけれど、この本はとても翻訳が丁寧で読みやすい。青木薫さんのすばらしい仕事だ。
自分は単行本(ハードカバー)で読んだ。文庫版だと新しい翻訳者のあとがきなどがついているかもしれない。
ジョージ・オーウェルが書いた小説。ユートピア(物質的・精神的に豊かになる、健康で長生きできるといったような人間の社会が幸せで良い方向に向かう社会)小説の反対、ディストピアを描いた小説。
ここまで暗く描かれるとむしろ読む方の気分は明るくなるような、そんな気にすらさせてくれる小説。ただし、それは読後の感想であって、読んでいる最中は暗いままだけれど。
村上春樹さんの1Q84はもしかしたらこの小説に関連があるのかもしれない。今ググったら、どうやらそうらしい。自分は村上さんの方は読んでいないので何も言えません。(すみません)
この小説が書かれた時期も意味があるし、この小説の中で登場するニュースピークという言語体系の設定は、そもそも言葉とは何なのかを考えるきっかけにもなるだろう。
火車と同じくWikipediaはあまり見ないで読み始めた方がよいだろう。
大崎善生さんの小説。純粋な小説というよりも何割かはノンフィクションかな。
自分は将棋のことは駒の動き方くらいしか知らないのだが、羽生善治さんやほかにも何人かくらいは将棋指し(棋士)の名前を知っている。この棋士の方々は、奨励会という将棋のプロを養成する機関の中で勝ち上がってきた人たちだ。勝ち上がってきた人は晴れて棋士になるわけだが、では、「敗れ去った人たち」はどうしているのだろうか。その人たちをテーマに据えた小説だ。
この小説はけっこうずしりとくる。最初に挙げた宮部みゆきさんの「火車」は小説の範疇ということもあるせいか、なんとなく怖さを感じることはあるが、現実的な切実さ、哀しさまでは感じないかもしれない。この「将棋の子」は、何かを一生懸命やってうまくいかなかった人の哀しさがよくわかるし、そういう体験をしてきた人(あるいは今そういう一生懸命何かに取り組んでいる最中の人)にはこたえるものがある。
ファインマンというアメリカの物理学者の自伝的エッセイ集。著者はリチャード P. ファインマンさん。翻訳は大貫昌子さん。この本もすばらしい翻訳だ。
エッセイ集ということもあって、好きなタイトルから読み始めることができる。エッセイ集なんてつまらんだろう、などと思っている人は読んでみてほしい。物理学者とは思えない言動の数々と、物理学者だからこその言動が少々。そして、その間に驚かされるような洞察が垣間見えるのだ。場合によっては論語みたいな読み方もできるかもしれない。
全般に明るく楽しく描かれているけれど、これは意図的なものだろう。第二次世界大戦のロスアラモス時代には、自分の心にとどめるだけの悲しい出来事も数多くあったのではないか、と自分は想像している。
最後の「カーゴ・カルト・サイエンス」の節はできれば最後に読んでほしい。この節だけは特別だ。物理学がわかれば、もっとファインマンさんのことをよく知ることができるのだろう。それができないのは残念だ。
「プー横丁にたった家」は「くまのプーさん」の続編だ。「くまのプーさん」というと、単なるハチミツが大好きな黄色っぽいクマだと自分は思っていた。そうではなかった。
この本は子供向けの童話だと思われるかもしれないが、読んだことのない大人の方も読んでみてほしい。自分も大人になってから読んだ。著者はA.A. Milne。翻訳は(童話のジャンルでは高名な)石井桃子さん。
プーさんはもともと、著者が自分の息子に聞かせるためのお話だったようだ。こんな話を子供時代に聞かせられたらすごいことだ。
ところどころでプーさんが代弁する著者の考え方は、Amazonのレビューにもかかれているけれど中国の思想家のような、どこか超然としたところがある。このクマがほかの動物たち(と一人の子ども)に向かって話しかける姿が良い。それとプーさんと行動をともにするコブタ(ピグレット)が健気だ。自分は大人になってから読んだせいか、出てくる動物たちの役割に目が向いた。すなわち、物語の筋よりもおのおののキャラクターが人間のどういう面を強調したものなのかを考えてしまいがちだった。子供の頃に読んだならば、もっと無邪気な読み方ができただろうと思う。
サイモン・シン氏の2作目の紹介になる。翻訳も前に紹介した「フェルマーの最終定理」と同じ青木薫さん。(本自体は「フェルマーの最終定理」→「暗号解読」→「代替医療のトリック」(共著)→「ビッグバン宇宙論」、で四冊目だ)
大人になるにつれて、子供の頃に「なぜだろう」「どうしてだろう」と単純に不思議に思えたことへの興味がだんだん薄れていくと思う。すくなくとも自分はそうだった。どうして鳥は飛べるのに人間は飛べないのだろう、なんでお風呂に入ると指がフニャフニュになってしまうのだろう、どうしてテレビは音が聞こえたり絵が見えるのだろう、泥だんごはうまく丸くなってかちかちに固くなることもあるけど、そうでないこともあるのはなぜだろう、カブトムシはかっこいいけど、クモはすこし気味が悪いのはなんでだろう…、などなど。
そういう疑問の中で、人間がずっと追いかけて考えてきた疑問の一つが「この人間が生きている空間はどういうものなのか」だろう。その考え方の歴史をまとめたものがこの本だ。この本をひもとくと、この百年の間に予想もし得ないことが次々に見つかったことがわかる。ビッグバンという言葉はほとんどの人が知っていて、宇宙は一つの点から始まったと言うことは知っているだろう。意外に思えるけれど、今から百年もさかのぼれば、ビッグバンという言葉すらなく、そう考えている人も科学の世界において異端扱いされていた。
宇宙論という非常に大きなテーマを扱っているため、「フェルマーの最終定理」よりも分量があって読むのが大変かもしれない。ただ、自分が読んだ単行本(ハードカバー)には各章にまとめがついていて、おおまかな筋はそこを読めば追えるように配慮されていた(これはうれしい配慮だ。)文庫版のタイトルは「宇宙創成」のようだ。
読み終わったら、ぜひ上巻のカバーと下巻のカバーのそれぞれの色に着目してほしい。
今まで見てきた本を読むとわかるかもしれないが、あまり自分は昔の小説を読むことがなかった。一つには風俗や文化が違いすぎて、いまいちぴんとこないからだろうか。そう思って昔の小説を読むことがほとんど無かったけれど、このモンテクリスト伯はおもしろかった。著者は三銃士でおなじみのアレクサンドル・デュマ。翻訳は竹村猛さん。自分は上に挙げた岩波少年文庫版を読んだ。
復讐劇の代表的な作品だそうだ。「それってネタバレでは?」と思う方もいるかもしれない。そうと知っていてもやっぱり楽しい。引き込まれるようなおもしろさがある。
少し前に「レ・ミゼラブル」が映画になって、そちらの原作も良かった。境遇は何となく似ているのだけれど、「レ・ミゼラブル」が愛の物語なのに対して、モンテ・クリスト伯は純粋に復讐劇だ。その痛快さ。モンテ・クリスト伯の超人的な活躍が楽しい。
自分はまだ一回しか読んでいないせいか、下巻の最後の方のあらすじはうろおぼえになってしまった。もう一度読む楽しみが増えた。今度は岩波文庫版で読もうかな。
森博嗣さんの小説。もともと「まどろみ消去」という短篇集の中に「キシマ先生の静かな生活」という短編があって、それを長編ににしたものだ。
(科学系の)研究者の世界とはどういうものなのかを丹念に追った小説であり、若干の事実が含まれているのかな?と思っている。森博嗣さんは某大学の研究者であった(今では退職されたようだ)人で、その知見がなければ書けない小説だろう。
今Amazonのレビューを見たら、「自分には残酷な小説だった」というレビュー内容もあった。自分は、心情、お察しします、という気持ちだ。ただ、主人公は喜嶋先生と出会えたことは僥倖だったに違いない。この小説の中で登場する喜嶋先生の名言は、本家よりもむしろ心に残る。
北村薫さんが選ぶミステリーを中心とした選集。あるテーマを設定して、そのテーマの中で北村さんが編集者と対談形式でさまざまな物語を紹介していく形式だ。テーマは「リドルストーリー」であったり、「中国の故事」であったり、「賭け事」であったりと様々だ。
編集者との対談は実際の編集者ではなくて、北村さんが頭の中で生み出した架空の「編集者」であるけれど、この対談がとても読んでいて楽しい気持ちにさせてくれる。いろいろな本が紹介されて読みたくなる。そういう罪深い(?)本だ。これを元に幾冊か叢書が組まれた。
その叢書の中で、自分が気に入ったのは「私のノアの箱舟」と「なにもない猫」だ。このシリーズはまだ全部読んでない。だから、気に入ったものは変わるかもしれないし、増えていくだろう。
自分は中国の故事や旧仮名遣いの本は読みづらく感じてしまうので、「真田風雲録」は読めないかもしれないなあ。
海外の人を中心にした伝記シリーズ。主に子供を対象としているためだろうか、シリーズ全体として、文は平易で図や写真を多用している。そう書くとありきたりな伝記に思われるかもしれないが、装丁、ページの中の文と写真の配置の良さが際立つ伝記集だと思う。
全体として、割とマイナーな人も取り上げていたりするし、平和に貢献した人たちを取り上げている点も特徴だろう。気になった人がいたら、その人を読んでみてほしい。
星新一は、多くの人がショートショートと呼ばれる一連の作品群で読んだことのある作家だろう。その人の評伝だ。著者は最相葉月さん。
星新一さんはその作品を読むとところどころに冷徹さが垣間見える。その冷徹さがどこから生まれたのかがわかるだろう。もともと幸せな境遇に生まれ育ったが、途中からどうしようもない災厄に見舞われるからだ。それだけが冷徹さの理由ではないだろう、ほかにもこの本を読めば思い当たる点がいくつかある。それらも書くと紹介としてはやや度が過ぎるのでやめておく。
最後の方で著者は有名な芸能人にもインタビューする機会を得て、実際に星新一さんについて尋ねる。そこも印象に残る。その芸能人はちょうど星新一さんの逆の人生をたどるような状況になっている。
自分はこの評伝を読んで、がぜんショートショートに興味を持つようになった。
SF小説はあまり読んだことがないのだけれど、この小説は良かった。著者はケン・グリムウッドさん。翻訳は杉山高之さん。
SFのよくある設定として、「もし過去に帰ることができるとすれば、その人の人生はどう変化するのだろうか」というものがある。その王道設定を利用して、すばらしい小説になっている。
この小説が書かれた時代は1988年なので、やや風俗や文化の描写が21世紀の現代と比べて現実離れしている点があるけれど、それを差し引いてもすばらしい小説だ。
あまりあらすじをかかない方がよいだろう。http://anond.hatelabo.jp/20130530045256 で紹介する「心地よく秘密めいたところ」と全然違う話なのだけれど、自分には似たものを感じる。
この本は近年読んだ中で最も良かった。
自由への長い道は南アフリカ共和国でアパルトヘイト(人種隔離政策)が撤廃されるまで闘った人々のノンフィクションだ。著者はネルソン・マンデラさん。翻訳は東江一紀さん。
アパルトヘイトという言葉とその意味は何となく知っているけれど、それが具体的にどんなものかを説明できる人は日本の中で多くないのではないかと思う。ネルソン・マンデラさんとその仲間たちは、それをなくそうと政治活動を繰り返す。そしてその度に時の政府の激しい妨害に遭い、その結果そういったグループを作ること自体が違法になり、グループの首謀者たちは収監されてしまう。そこからが圧巻だ。
いかにしてそういう逆境の中で自分の政治信条を保ち続けるか。自分たちの仲間を増やして支持を広げていくか。そして時の権力機構に対して、アパルトヘイトの「非道さ」をアピールし、撤廃にこぎつけるか――。
仲間の反乱分子やスパイへの対処、国際社会へのアピールなど、常人には思いもよらない方法でアパルトヘイト撤廃に向け前進してゆく。ところが、前進したと思ったら後退したりすることが何度も繰り返されるのだ。
この本はネルソン・マンデラさんがアパルトヘイト撤廃後の大統領に選出された直後に出版された本なので、結末に近づくにつれてかなり筆が鈍って、慎重な言い回しが増えていく。現在進行形のことを縷々書くと信用問題になるからだろう。それでもこの本は読んでいて楽しい。
この本を読んだ人は「ネルソン・マンデラ 私自身との対話」もぜひ読んでほしい。自分もまだ途中までしか読んでいないが、より素直なネルソン・マンデラさんの言葉と考え方がわかると思う。(「自由への長い道」についての言及もある。)
ほかにも映画「インビクタス」や、「マンデラとデクラーク」など、映像作品もある。後者の「マンデラとデクラーク」は「自由への長い道」と同じテーマだ。ついでに、youtubeにあった国連の広報映像(日本語訳付き)もリンクしておく。