はてなキーワード: 包含とは
・えっちな同人誌とかのなかでは比較的大きなジャンルで少なくとも全く異端ではない
・俺自身は好みじゃないけど全然よさも想像できると思うしグロいとは感じない
・自分を投影するのかどうかは多分ひとによる というのも他にも、たとえば 女性優位のシチュエーションを自然に作る設定としてのよさ、非対称性 はじめての体験という構図、性の目覚め的な背徳感 男性性を淡白にしながら含められること 幼少期のちょっと年上のお姉さんへの憧れみたいなのへの郷愁 おねえさんのほうがショタに教える体裁についてはこっちが性欲をぶつけるんじゃない中で話がすすむこと などなどこのジャンルに包含されるツボが色々あるのだ
事象は別の側面から見た時に違った景色を映し出すが、具体性を有する場合において顕著であり、高度に抽象化された事象においては、発生しにくいように思える。
例として、「人類」と「増田さん」を比較した場合、「増田さん」の方が様々な見え方をする。親友や職場の同僚は「増田さん」のあらゆる側面を見せられているが、「人類」にはそこまでの幅がない。
なぜなら、増田さん自身も人類を包含しているためと言える。人類になくて増田さんにはあるものが多数存在する。
これは現地現物の重要性を示唆している。その場で得られる情報と経験こそ尊い。抽象化された事象での議論は一般論的になりがちであり、ここに高度成長期と現代日本の違いがあるかもしれない。
戦後の高度成長期においては、管理職であっても現場だった。いや、今ほどに机上ではなかったという方が正しい。現場に赴き、見て聞いて感じていた。それらの一部がグレーな接待と言われ、糾弾された。
今はマネージャーという言葉がひとり歩きし、机の上で管理することが正しいことのように扱われる。机上で何が見えるのか?一般論を求めるなら生成系AIが勝る。
きっとあらゆる組織で、あらゆる立場の人が目の前の景色を語っている。具体性のない議論から、無味無臭の産物が生まれ、負けていく。
世の中には自殺、つまり自分の意志によって自分を殺すこと、なんて有り得なくて、そう思われているのは「社会による殺人」つまり他殺なんじゃないだろうか。
自殺するような状態に追い込まれている人なんて、精神的にしろ肉体的にしろ健康的な環境に居るわけないんだから、少なくとも意志って意味では通常の状態ではないし、尊重っていうか、そのままにしておいていいもんじゃないと思う。
尊重されるべき意志って、完全にそれが独立していて、十分な情報とか栄養素が与えられている環境にあって初めて成立を認めていいものだろ。尊重なんて立派そうに言うけど、要するに遠くにおいて見守って手出ししないってことで、そうされても大丈夫な環境に居るやつにしかやっちゃいけないことじゃん。
そんな恵まれた環境に置かれていない、傷だらけでそこらにボロくずみたいに転がって朽ちかけている人の意志を、『個人の自由だから』って言って、尊重って名目で元気な人の精神と同列に置いてほっぽっておくのは、それはもはや殺人だろ、文字通りただの見殺しじゃん。だからその人は自分の意思で死んだんじゃなくて、社会に殺されてる。
自己責任論は「厳しい、しかし受け入れなければいけない現実」かのように語られるが、現実に起きていることを精緻に、細かく追って見れば見るほど、自己責任論は欺瞞で、単に現実の複雑さを考えるのが面倒で力の足りていない存在が、単純化された(そして誤った)図式で納得しているだけということが分かる。モデルをモデルとして理解して使いこなす分には有用だが、それを真理だと思うことは害悪しかもたらさない。
悲しいのは、それは自殺じゃなくて他殺なのに、自殺だと勘違いしてあたかも自分の意志で死んだと勘違いしたまま死んでいった人たちが居ることだ。
彼らは被害者なのに、時折「愚かな選択をした加害者」のようにピックアップされる。それは彼らが選択肢の余地がなかった存在であるにも関わらず、あたかもそれを主体的に選択した人のように見做されているからだ。
彼らがどこまで「もう耐えかねたので自分の意志で世界から去ることを決めた」「肉体は支配されても精神は支配されない」と訴えていたとしても、彼らの意志を尊重という名のもとに放ってほくことを良しとはしたくない。
もしかすると彼らは「助けてほしいとなど言っていない」と言うかもしれない。助けることで彼らの精神が傷つくかもしれない。でも助けたい。心肺蘇生のためには、肋骨を折れてしまうことを恐れてはいけない。
加害者が居て被害者がいる、という旧来の責任所在のわかりやすい殺人事件の関係性が変化して、加害者の責任が分散され希薄化され社会にまぶされ均された、「なめらかな殺人」が横行するようになっているだけなんじゃないか。技術者や思想家が必死こいて社会に実装しようとしている社会の形が、殺人の形式でこれ以上ないというほど完璧に実現されている。そんなの悲しすぎる。
一方で自殺が存在しないというのは、つまり、自分の意志でコントロールして回避するなんてことができないということだ。それは突然降りかかる通り魔のようなものなのだろう。
自殺しようと悩んでいても結局死を選ばなかった人たちというのは、偶然その人の経験が、自分を死に追いやるような本当に破滅的な悲劇の閾値を超えなかっただけで、「選ばなかった自分」がいる、というのは単なる生存バイアスに過ぎないんじゃないか。
車に轢かれ掛けたけど死ななかったのは、その人の意思が強かったからではない。ただ物理運動の連鎖が幸運に働いたからにすぎない。するとやはり我々は社会として殺されることを自分ごととして怯え、備え、防がなくてはならない。
我々は安全運転に努めるのと同じように、殺されないように世界に気を配り、殺されかけている人たちを助けなくてはならない。車を運転する人が事故りたいと思わないのと同じように、やはり生きている人は殺されたいとは思わないのだ。
人と家畜のように非対称性を作って殺されない方の立場にいくことを目指すのではなく、人同士が殺し合わない世界を、共犯者にならない世界を、一体人類史で何万回目の試みになるかわからないが、それでも目指す必要があるのだ。そしてそれは、自殺は自殺ではないというように捉え直すところから始められるのではないかと思っている。
自殺が殺人であるとすれば、世界には老衰にしろ事故死にしろ病死にしろ殺人にしろ、自分の意に反した死しかない、ということになる。自殺はある意味、現代の倫理における特異点だ。それをどのように考え、善悪を判断するか社会は悩み続けている。
(もし自殺の意志が尊重されるべきだとして、全ての準備を整えて「自分の意志」で飛び降りて、地面にあと10センチまで迫った時にその人の胸中に切実に去来する「死にたくない! 生きたい!」という願いを、一体誰が尊重してくれるのか? という問いは長年個人的な関心だった。この問いがあるため、俺は「自殺は死の自己決定権の問題である」という議論に全く乗れなかった)
しかし自殺は存在せず他殺の特殊な形態の一つであると考えれば、特異点の発生を回避することができ、他の死の征圧の過程と同じような手続きでそれを回避していくことができるようになるのではないか、そんな期待もある。
人は自分がいつか死ぬと知っている、ほぼ唯一の動物だという。何もせずとも人は死ぬ。しかもこの世界の物理的な規定に殺される。それだけは宿命で、今のところ回避の手立てはない。しかし、同胞を殺したくはない。
動物を殺し植物を食らい、資源を食い荒らしてきたこの世界で、それでも同胞を殺すことだけナイーブに人は避けてきた。そして人の倫理の歴史は、同胞の範囲を家、村、町、国、人種、人類全体、さらにその先へと、広げていく過程であった。
今、殺人の概念を拡張し自殺を包含することで、新たな倫理とそれに基づく制度を作れるのではないか。何も思いついていないけれど、そう思っている。
個人の尊厳というのはなんですか、アメリカ憲法の最後の結論っていうかそういうものなわけですよね、だから、先に人権があって、それが公共の福祉という概念で制限され終わって出てくるのが
個人の尊厳というものなわけですね。だから、個人がおごそかに生きているというのが最後のものなんですよね。
ここで個人がおごそかに生きているというのは、本当に厳かに生きてないとだめで、こうなんか静穏妨害犯をみたら、うるさいとしか言わないし、カーテンをシャッと閉めるゴミのようなものは包含
しないわけです
もともと古代社会では個人の人権は無制約であるというかなんでも出来て当たり前だろというのが先にあったのですが、東大の、長谷部恭男先生が、憲法は社会共同生活の決まりなので
人権無制約説はそれ自体があるわけがない、人権には限界が内在しているというのが、一元的内在制約説で、通説なのですね
憲法は法律ではなく価値体系なので、公共の福祉といったときにそれがなんなのか、人権と人権が衝突するものではなくて、電波の混線防止とか、結果的に幸福追求権を阻害することになる
ものというよく分からないグレーゾーンが公益と呼ばれてそれも入ってくるわけですが、一般に公の利益になるものも制約事由にはいってくるというものなわけですね
この他大量にあったものの、増田の仕様にひっかかりそうなのでここまでとする
もう誰かWikiでも作っておけよ
例:「犬ははたして哺乳類か」という議論をしている場合、あなたが
「犬は哺乳類としての条件を満たしている」と言ったのに対して否定論者が…
「犬は子供を産むが、もし卵を生む犬がいたらどうだろうか?」
「何年か後、犬に羽が生えないという保証は誰にもできない」
「生物業界に言っても犬が哺乳類だなんて誰も認めるわけがない」
「カモノハシが卵を産むのは知っているか?」
「それは、犬を哺乳類と認めると都合の良い西洋のご都合主義だ」
「犬が哺乳類なんて言う奴は、社会に出てない証拠。現実をみてみろよ」
「結局、犬が卵を産めるようになれば良いって事だよね」
「ところで、犬がどうやったら哺乳類の条件をみたすんだ?」
「犬が哺乳類だという論はすでに何年も前に論破されてる事なのだが」
「犬って言っても大型犬から小型犬までいる。もっと勉強しろよ」
ここまでが詭弁の特徴15条
------------------------------------------------------------------------------------
「さっきも言ったように犬は他の哺乳類とは性質もDNA的にも明らかに何もかも違うが?ここから考えても犬は哺乳類ではない。」
「哺乳類ではない生物としてワニがいるがこれは犬と同じ“4本足の生物”である。それでなんで犬が哺乳類なんだ?」
「犬は基本は哺乳類という見方もあるかもしれないが、明らかに哺乳類ではない犬も存在する事に間違いはない。」
「犬がおまえと同じ哺乳類というのなら、お前は4本足で歩き、吠えたりするのか。」
「全ての犬が哺乳類としての条件を満たしているか検証するのは不可能だ(だから、哺乳類としての条件を満たしているとはいえない)」
「犬が哺乳類としての条件をいくつか満たしているかもしれないが、全てを満たせているか知るには地球上の全動物学者が一致団結して研究しないと分からんよな。」
「ではこれら犬のような生き物は全て哺乳類の可能性があるのだろうか?」
「現在問題なのは広義の哺乳類の定義であり、一例としての犬が哺乳類といえるかどうかは問題ではない。話をそらすな。」
「ネタかな?」
「犬が哺乳類だという論で言ったら、恐竜も哺乳類って事になってしまう」
「周りの何人かは犬は哺乳類ではないと言っていた。やはり犬は哺乳類ではない派が圧倒的である」
「犬は哺乳類だという人たちが登場した時期と、生物学の進歩が停滞した時期が一致するが?」
「哺乳類とは手を使える種族の事を一般的には指すので犬は哺乳類ではない」
「今まで犬は哺乳類では無いとされてきたのでこれからもそう考えるべき」
「何度も言うが犬が哺乳類ではない科学的な根拠はちゃんとあるんだっての。ここで騒いでないで自分で調べろよ。」
「ウィキペディアで卵の項目を読んで来い」
「あなた個人が犬は哺乳類ではないと考えているならそれはそれでも良いんじゃないか。」
「犬が哺乳類ではないという意見も認められるべきというのが多様性だろ。」
「」
「犬が哺乳類ではないという考えは歴史が長くずっとあったものだが犬が哺乳類だというのはここ最近登場した思想だろう。犬が哺乳類だという考えが果たして正しいのか?」
※15の反対なので、議論中にそちらと同時に登場すると矛盾する。
「新たな概念を主張しながらも問題だった例がいくらでもある。それなのに犬が哺乳類だという考えを採用できるか?これまで間違い例があったのに?」
「生物学者に聞いたアンケートというのはそもそも犬は哺乳類だと主張する学者だけに質問しているものであり信頼性がない」
「あなたはアメリカンピットブルテリアの例を挙げているが、あれは各国で規制されているような犬だぞ。今の議論で出してくる話じゃないだろ。」
(1)ルールを決めることで社会を安定させたいと思ったことがある者。 多分いないのではないかと思う。
(2)長谷川、森脇 実際の役職は刑務官だが、看守なので、ほとんど警察官である。
(3)北予備の高橋虎雄 亡くなったと言われているが警察官のようなオヤジだった。
(5)群馬県警本部長 小笠原和美 千代延晃平 野村朋美 これらの警察官に昭和の善良なものなど包含されているとはとうてい解されない。
このような解釈を前提にして、その者が何を考えているのか順次判断する。
(1)確かに昭和の警察官は善良で、それを体現するような焼き肉店やスーパーを作った偉人であったことは間違いない。しかしそんなものは生きていなく存在していない。
(2)目黒区駒場には、きうちまんがいたときに、もっくもっくと、宮崎県から来ていた老夫婦がする料理屋があった。しかし現在では存在せず、それを見ることは不可能である。
(3)きうちまんから、もっくもっくの店主がどうなったかを聞き出すテクニックは存在しない。
(4)宮崎県の北部に行くと昭和天皇が作ったラーメン店や、食堂があるが、現在の宮崎県民のような者が、それらについてどう考えているのかを見ることは困難である。
宮崎県民に悪人しかいないと仮定すると、 その悪人がこれらのものを食べていることとは、背理である(Contradiction)
(5)延岡市おおぬきには、オムライスなどのような創作料理屋や、とんこつラーメン店がある。しかし、これらの物が存在し利用されているとすれば延岡市の犯罪性が高いはずがないので
やはり背理。 オムライスやとんこつラーメンを食べている者が中傷や犯罪に走るとは思えない。
(6) 佐藤は実際には太ることを恐れているため、ガパオライスや、赤門ラーメンを食べたことはない。太るのが嫌だからである。
2023 年 5 月 25 日午後 6 時 46 分 EDT
ノースハリウッドの保護者ら、学区で予定されているプライド集会をボイコット「子供たちを家に留めておけ」
サティコイ小学校の保護者がプライド集会に反対するインスタグラムアカウントを作成
ジョシュア・Q・ネルソン ジョシュア・Q・ネルソン| 著 フォックス・ニュース
サティコイ小学校保護者という名のインスタグラムアカウントは月曜日、「保守的な価値観を共有し」、「この教材が子供たちに教えるのに適切だとは思わない」保護者たちが6月に子供たちを学校から帰宅させることを計画していると「激怒」したと投稿した。 2日は、LGBTQ+プライド月間を祝うために計画された学校集会のためです。
「注意:抗議活動は6月2日です!助けが必要です!サインが必要です!全員が来てください!」サティコイ小学校の保護者はインスタグラムの投稿のキャプションにこう書いた。
ロサンゼルス統一学区は、生徒たちにLGBTQ+コミュニティについて教えるために幼稚園から12年生までの学校集会がサティコイ小学校で開催されると発表した。
同団体は、生徒たちが「ママが2人いる子もいれば、パパが2人いる子もいる」というビデオを見ることになると主張している。
Los Angeles Unifiedは、私たちが奉仕するコミュニティの多様性を包含する安全で包括的な学習環境を作成することに取り組んでいます。 地区は、私たちの学生が彼らの最大の可能性を達成するために権限を与えることができるように、敬意、優しさ、思いやりでお互いを扱うために私たちの学校のコミュニティ内のすべての人を奨励し、"地区は声明で述べています。 「学校コミュニティとの関わりの一環として、私たちの学校は、私たちが奉仕する家族の多様性とインクルージョンの重要性について定期的に議論しています。 学校コミュニティとの関わりの一環として、私たちの学校は、私たちが奉仕する家族の多様性とインクルージョンの重要性について定期的に議論しています。 これは私たちの学校のコミュニティとの積極的な議論のままであり、私たちはこの重要なトピックについて家族と関わり続けることにコミットし 家族は常に子供たちと重要なトピックについて話し合うことが奨励されており、家族は学校のプログラムや活動の詳細については学校に連絡することもできます。"
つまり、科学が今後発展するに従って、全ての宗教的奇跡は「この奇跡は、○○(関係者)によるこの行動が、
○○現象(科学現象)をひきおこすことで達成されたものです。なので、この奇跡は本当の奇跡なのではなく、
単なる科学的帰結です」といった説明がなされるようになるのだと、個人的には信じている。
いや、それは宗教や宗教的儀式を信じているということではない。
例えば、宗教的儀式で病気が治った、みたいな典型的な奇跡は、宗教的儀式によって治ったのではなく、
儀式と関係ない誰かの病人に対するひょんな行動がその治癒につながった、と科学的に解釈される日が来ると思っているのだ。
つまり、宗教的奇跡には、宗教的儀式とは関係ない行動があり、それが奇跡とされる行動に繋がったのだと、科学的に説明される日が来ると信じているのだ。
すなわち、全ての宗教的奇跡は、非宗教者から嘘扱いされて全否定されるのではなく、
科学的視点から「科学的現象であって、奇跡ではない」と分析され、理解される日が来るのだと思っている。
科学は、宗教的奇跡を科学的現象と変化させ、それらを包含するものなのだ。
だからもうちょっと一般化した表現にすれば、どういう規則性というか基準でどの世界の分岐先に各「私」が振り分けられてるんだろうってことよ。もっと便宜上「私n」として、今お前が相手してるのが「私1」だとしたら、その「私1」を含めた「私n」がどういう基準で観測後として考えられる各世界に振り分けられる、対応付けされるのかなあと
重ね合わせとしてのあらゆる可能性を包含という意味での私を軸に考えれば確率論だが、そのうちのたとえば死んだ猫を見た「私」につながっているのはそうなることが観測前から決定づけられてる「私」として取り出されるのかなって。
つまり事後的にでしかないが、たとえば死んだ猫を観測した時、「私は死んだ猫を観測する世界に振り分けられることが決定づけられてたんだな」と認識すべき原理なのかなあと。
例:「犬ははたして哺乳類か」という議論をしている場合、あなたが
「犬は哺乳類としての条件を満たしている」と言ったのに対して否定論者が…
「犬は子供を産むが、もし卵を生む犬がいたらどうだろうか?」
「何年か後、犬に羽が生えないという保証は誰にもできない」
「生物業界に言っても犬が哺乳類だなんて誰も認めるわけがない」
「カモノハシが卵を産むのは知っているか?」
「それは、犬を哺乳類と認めると都合の良い西洋のご都合主義だ」
「犬が哺乳類なんて言う奴は、社会に出てない証拠。現実をみてみろよ」
「結局、犬が卵を産めるようになれば良いって事だよね」
「ところで、犬がどうやったら哺乳類の条件をみたすんだ?」
「犬が哺乳類だという論はすでに何年も前に論破されてる事なのだが」
「犬って言っても大型犬から小型犬までいる。もっと勉強しろよ」
ここまでが詭弁の特徴15条
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「さっきも言ったように犬は他の哺乳類とは性質もDNA的にも明らかに何もかも違うが?ここから考えても犬は哺乳類ではない。」
「哺乳類ではない生物としてワニがいるがこれは犬と同じ“4本足の生物”である。それでなんで犬が哺乳類なんだ?」
「犬は基本は哺乳類という見方もあるかもしれないが、明らかに哺乳類ではない犬も存在する事に間違いはない。」
「犬がおまえと同じ哺乳類というのなら、お前は4本足で歩き、吠えたりするのか。」
「全ての犬が哺乳類としての条件を満たしているか検証するのは不可能だ(だから、哺乳類としての条件を満たしているとはいえない)」
「犬が哺乳類としての条件をいくつか満たしているかもしれないが、全てを満たせているか知るには地球上の全動物学者が一致団結して研究しないと分からんよな。」
「ではこれら犬のような生き物は全て哺乳類の可能性があるのだろうか?」
「現在問題なのは広義の哺乳類の定義であり、一例としての犬が哺乳類といえるかどうかは問題ではない。話をそらすな。」
「ネタかな?」
「犬が哺乳類だという論で言ったら、恐竜も哺乳類って事になってしまう」
「周りの何人かは犬は哺乳類ではないと言っていた。やはり犬は哺乳類ではない派が圧倒的である」
「犬は哺乳類だという人たちが登場した時期と、生物学の進歩が停滞した時期が一致するが?」
「哺乳類とは手を使える種族の事を一般的には指すので犬は哺乳類ではない」
「今まで犬は哺乳類では無いとされてきたのでこれからもそう考えるべき」
「何度も言うが犬が哺乳類ではない科学的な根拠はちゃんとあるんだっての。ここで騒いでないで自分で調べろよ。」
「あなた個人が犬は哺乳類ではないと考えているならそれはそれでも良いんじゃないか。」
「犬が哺乳類ではないという意見も認められるべきというのが多様性だろ。」
「犬が哺乳類ではないという考えは歴史が長くずっとあったものだが犬が哺乳類だというのはここ最近登場した思想だろう。犬が哺乳類だという考えが果たして正しいのか?」
※15の反対なので、議論中にそちらと同時に登場すると矛盾する。
「新たな概念を主張しながらも問題だった例がいくらでもある。それなのに犬が哺乳類だという考えを採用できるか?これまで間違い例があったのに?」
「生物学者に聞いたアンケートというのはそもそも犬は哺乳類だと主張する学者だけに質問しているものであり信頼性がない」
「あなたはアメリカンピットブルテリアの例を挙げているが、あれは各国で規制されているような犬だぞ。今の議論で出してくる話じゃないだろ。」
アニミズム的に考えると、「午後の紅茶」にも人間のように、人格のようなものが存在すると想定してもおかしくはない。
そうだとすれば、「午後の紅茶」も人間のような考え方をしたりするはずで、
例えば、自己実現への意志、つまりは自己顕示欲みたいなものがあったとしても、おかしくはないと思う。
それならば、「午後の紅茶」は自身をもっと目立たせたいと思うはずだ。自己拡張を目指すはずだ。
もっと言うなら、「午後の紅茶」は、より上位の概念に成り代わろうとすることもあるはずなのだ。
包含関係を考慮すれば、それはきっと、単なる「紅茶」であろう。
つまり、「午後の紅茶」は、現在知られている「紅茶」という存在に成り代わって、新たな「紅茶」という存在になれたのなら、
「午後の紅茶」は今よりも、より広い概念を包含することができ、自己拡張は果たされることとなる。
それは、名称の差分が示す通り、午後にだけ飲まれるか否かということである。
それならば、「午後の紅茶」は人間のような自己顕示の一環として、午後以外の時間にも飲まれるよう努力するのではないか。
つまり、午前の時間帯にも飲まれるよう、その香り、その風味、その色合いを変容させうるのではないか。
だから、人々が「午後の紅茶」を午前に飲むという行為は、人々の意志だけで行われるものではなく、「午後の紅茶」自身の努力の賜物だとも言えるのだ!
ここを見落としているから、「『午後の紅茶』を午前に飲む奴はおかしい」なんていう勘違いを起こしてしまうのだ。
人々が「午後の紅茶」を午前に飲んでしまうのは、単に、その人々が「午後の」という形容詞を無視しているからではない。
それはむしろ、「午後の紅茶」自身が自己拡張を目指し、自己変革を遂げた結果である。
その努力により、人々はそういう行動を取っているというだけで、だから、そういう人々には「おかしい」と責められるいわれは無いはずなのだ。
つまり、人々の意志というより、「午後の紅茶」の意志こそが、そういう行動を実現させているのだ。
それゆえ私は、そうした人々を「おかしい」などと糾弾するつもりはなく、むしろ、「午後の紅茶」の努力の結果が実を結んだことを寿ぐべきと思う。
「午後の紅茶」が、上位概念である「紅茶」に近づいたことに、私たちは喜びをもって、その新たな美味しさを心地よく飲み干すべきではないのか。
まあ、なんにしても、「午後の紅茶」は美味しいだろう。私はやはりミルクティーが好きだ。
それを午前に飲みたくなる魅力が「午後の紅茶」に備わったとして、何の問題も無いだろう。