はてなキーワード: アーキテクチャとは
Uber に関しては
自分たちが扱う規模のデータを捌ききれないという問題を、その原因が利用者(Uber)側ではなくデータ永続化におけるPostgreSQLのアーキテクチャが原因だと思われるということをきちんと測定して結論してるからかな?
さらにUberはそのことを安易に「PostgreSQLを使うと会社が潰れる」とか煽り口調で一般化せずに自社ブログに載せているため議論の土台が開けていることが重要だと思う。
今回の問題の記事はRLSとID採番というデータベースの根幹機能ではない付加機能で自分たちのプロダクトとミスマッチしているだけで一般化して罵ってるのが悪質だと思うの
以下の記事、内容がひどくて空いた口が塞がらなかったのだが、
(はてブで)ブックマークして下手にホッテントリにでもなったら嫌だなと思いそっとブラウザのタブ閉じた。
が、しばらくすると残念ながらホッテントリ入りしてしまったので、はてブにコメントを軽く書こうとしたが100文字に収まらなかったので増田にした。
技術選定の失敗 2年間を振り返る TypeScript,Hono,Nest.js,React,GraphQL
まず、「特定条件下では MySQL は我々のプロダクトには不向き」を「MySQLを使うと会社は潰れる」なんて表現するのおかしいでしょ。
以下の記事からの引用だが Uber のエンジニアは「PostgreSQLではアーキテクチャに制限がありすぎてUberのシステムを支えきれない、MySQL+InnoDBに変えたら全部解決した」と主張している。
UberエンジニアがブログでPostgreSQLにダメ出し、PostgreSQLコミッター石井達夫氏に反論を聞く
RDMS(に限らずライブラリやミドルウェア一般)の評価は採用する開発プロダクトの要件とユースケース次第。
Not for me/us. を「これを使うと会社が潰れる」って……MySQL開発チームから名誉毀損で訴えられろと思う次第。
(サーバサイド開発の言語は)TypeScriptでいい。と言いつつ、結論はこれ
| TypeScriptで書いたサーバーサイドのコードの半分ぐらいも属人化している。なぜかメンバーのキャッチアップが進まない。
ん????
こんな評価眼で開発力で文章力の人を「厭味が無くて楽しめた」だの「公開してくれてありがとうございます」とか言うブクマカにもそれにスターをつける人にも衝撃だよ。
ちゃんと読んでくれよ。それから、ブックマークするか判断してほしい。あーあ
---
| 逆に、Uberエンジニアに対して、PostgreSQL開発チームから名誉毀損で訴えられろと思わないのは何故?
という言及への返信。
Uber に関しては。
自分たちが扱う規模のデータを捌ききれないという問題を、その原因が利用者(Uber)側ではなくデータ永続化におけるPostgreSQLのアーキテクチャが原因だと思われるということをきちんと測定して結論してるからかな?
さらにUberはそのことを安易に「PostgreSQLを使うと会社が潰れる」というような煽り口調の一般化をせずに自社には不向きだったということをブログに載せているため議論の土台が開けていることが重要だと思う。
今回の問題の記事はRLSとID採番というデータベースの根幹機能ではない付加機能で自分たちのプロダクトとミスマッチしているだけで一般化して罵ってるのが悪質だと思うんよなぁ
単体テストというのは、画面を手動で操作してスクリーンショットを撮る仕事だった。エクセルで仕様書を書き、レビューをしていたが、レビューアーはテストケースよりも、枠線の整え方に気を配っていた。
誰かが自動テストを導入しようと言い出した。「再現性がある」「保守性が高まる」「もっと良くなる」と口々に言われていた。
でも、テストコードを開発する工数はどうするのか、開発コードが増えればさらに大変になるのではないかと不安があった。
それでも、これが実現すれば、何かが大きく変わる予感がした。
アプリケーションフレームワークはStrutsだった。フォームをポストする瞬間にカオスが生じ、50行の無駄なコードを書き、100行の読みにくいコードを理解することが技術者の条件だった。
ある人が「レイヤリング」という概念を持ち出し、別の誰かが「DI」と言い出した。アプリケーションアーキテクチャという言葉も登場し、ファウラーという人物の名前も聞こえるようになった。
新しい構造が提案され、それに影響を受けながら、「いつかは美しいアプリケーション構造が生まれるのかもしれない」と夢を抱いていた。
当時、PerlでCGIを作っていたが、PHPやRubyが登場した時は、正直Web"サイト"を作るためのものだと侮っていた。
しかし、次々と洗練されたWebアプリケーションフレームワークが生まれ、StrutsやJavaEEよりもはるかに使いやすくなっていった。
数多くのWebフレームワークの中で、どれを選ぶべきか悩みながら、「いつか完璧なWebフレームワークが現れるかもしれない」と期待していた。
サーバーは冗長化され、ReversProxyを使い、セキュリティのために構成を変更してきた。そしてクラウドが登場し、Dockerなんて本番で使えないと言っていた時代から、
気がつけばどこに存在するのかもわからないクラスターの中で、コンテナアプリが動いている時代になった痛快だ。
かつてLinuxマシン一台を「鯖」と呼んでいた時代から、世界は目まぐるしく変化し続けるとかと思っていた。
誰かがAjaxと言い出し、別の誰かがReactと言い出した。「こんな方法でHTMLを作って良いのだろうか?」と疑問に思いつつも、「Webはアプリケーションだ」という感覚が強まっていた。Webアプリケーションがどう進化していくのか、未来を感じることができた
私たちは、ソフトウェアを開発すること自体に大変さを感じていた。新しい技術やフレームワークが次々と登場し、その都度課題が解決される一方で、新たな課題が生まれる。これほど面白いことはなかった。そしてエンジニアたちには一体感があり、誰もが自分なりの方法で課題を解決し、そのフィードバックループが世界を動かしていた。だからこそ、今は少しつまらない。変化は穏やかになり、「お金を稼ぐ」という目標だけが共通となり、課題は個々の事象に閉じ込められている。しかし、それが悪いことではない。ただ、私たちの時代が変わったのだ。
かつては、私たちの目の前には普遍的な課題があり、それぞれがそれぞれの場所で課題を解決し、そのフィードバックループが世界を動かしていた。
生成AIで例えると、それをどう使うかではなく、エンジニアが一丸となって生成AIをチューニングしていた。世界情勢で例えると、世の中の飢餓を全世界の人がアイディア出して、解決しようとしてたいた。
今でも、普遍的な課題は世界中に転がっているが、それらは高度で、私たちには手が届かないものが増えてしまった。
ITは面白かった。プログラミングが分かるだけで、世界の課題を一緒に解決できる時代だった。それぞれが自分の場所で働くだけで、世界を動かしていた。そんな時代が終わってしまったと感じる。
老害といえば昔話だろ!
この人が感じてる「つまんなさ」って、ITに対してじゃなく「プログラミングできる俺かっけー」が出来なくなってきたことに対して感じてるつまらなさなんじゃないの?
わかるよわかる、プログラミングかっこいいよね。中学英語では出て来ないようなfunctionとかfloatみたいな英単語使いこなしてコード書くのかっこいいよね。うんうん。k8sとかDockerとかDDDとか名前がかっこいいよね。そういうの使いこなせる魔法使いみたいな俺様かっけーよな。
それがLLMの時代になって、急に自然言語でプロンプトを書くことになったわけよ。
まるで下請けSEに指示するような口調で「●●について調べて下さい」とか「××のプログラムを書いて下さい」とか書くの、ダサいことこの上ないよね。わかりますよ。俺様が憧れてたカッコイイプログラミング言語やアーキテクチャ用語はどこ行ったんだって言いたいわけよな。
要するにお前さんの厨二病プログラマー時代は終わりを告げ、これからは自然言語が支配する大人の時代がやってきた、ということだと思います。さよなら厨二病。
ITつまんなくなってきた。に近いけど40代エンジニアって日々の不安どうしてる?
上手くやってPM以上の管理職になって技術よりマネジメントとかアーキテクチャメインになった人は不安はないんだろうけど、自分も含めたなれなかった人ってどうしてるのか気になる
自分はとにかく強みを作ろうとトレンド追いつつ基礎も固めてるけど日に日にトレンドは移り変わった挙げ句に今じゃJSやTypeScriptがあれば残りは部品集めりゃどうにかなったり、ノーコードツールで複雑な処理や分析も出来るようになって例えが酷いがITパスポートレベルで済む感じになった
もちろんバリバリ開発してるとこもあるが今度は求められるレベルが高くなっていてそれ以外は一昔前のSES並みの低賃金自己責任世界
フロントもバックもって人材より分かりにくいPowerAutomateとカスみたいなSharePointが評価される時代とか来るんだな。もっとJavaScriptやっときゃ良かった。PythonとかPHPとかLinuxだのフレームワーク分かっても意味無いし求められる数少ない牌は天才で埋まっててもう終わりですわ
なんか前は黎明期のやつ「あああれね」って感じだったんだけど最近のまじでわからん
https://www.publickey1.jp/blog/24/2024web3nftaiai.html
People-Centric
振る舞いのインターネット
汎用人工知能
エンボディドAI
量子機械学習
商用核融合炉
ChatGPT-4o
AIが検索結果を生成し、より関連性の高い情報を提示する技術。
嬉しい点: 精度の高い情報をすぐに得られる。
企業や組織が持続可能な運営を実現するための支援ツールやシステム。
3. People-Centric
人間中心のアプローチで、個人のニーズや体験を重視する技術やビジネス戦略。
5. 振る舞いのインターネット
不明。
都市部での空飛ぶ車やドローンによる移動手段の実現を目指す技術。
AIやIoT技術を活用して、都市全体を効率的に運営する未来の都市モデル。
多数の小型衛星を連携させ、地球全体に通信や観測サービスを提供する技術。
AIを用いてサイバー攻撃を検知し、即座に対応する自動防御システム。
不明。
不明。
13. 汎用人工知能
バーチャル空間で活動する、リアルな人間に似たキャラクターやアバター。
嬉しい点: 新たなコミュニケーションの形が広がる。
大規模言語モデル(LLM)を使ったサービス提供プラットフォーム。
嬉しい点: 高度な自然言語処理が容易に利用できる。
16. 月データセンター
月に設置されるデータセンターで、宇宙規模でのデータ処理を行う施設。
18. ヒューマノイド
Claude3
以下、各技術の説明と、それぞれのメリットを簡潔に記載します:
People-Centric:
メリット:より使いやすく、ユーザーニーズに合った製品やサービスの創出。
振る舞いのインターネット:
汎用人工知能:
月データセンター:
エンボディドAI:
量子機械学習:
商用核融合炉:
東は2018年12月18日にツイッターでゲンロン解散を発表するが、上田洋子らに説得されて、解散は思いとどまる。東は21日付で代表辞任し、上田が代表に就任する。「ゲンロンに搾取されているという不満」(「ゲンロン戦記」、212頁)を抱いたそうである。ゲンロンの代表として会社のために苦労しているにもかかわらず、社員は楽しくやっているように見えるのが不満だったそうだ。理解しにくいところであるが、こういう理由から自分と同じくらいの貢献を社員に求めることになるようである。「ゲンロン戦記」のこの個所は異彩を放っていて、他は笑えるエピソードなのであろうが、ここは笑えないところであろう。代表辞任という重大な局面なので書かざるを得なかったのだろうか。
上田洋子の人生がゲンロンで好転したことは疑いない。博士号取得後燻ぶっていたが、チェルノブイリツアーの通訳を引き受けたところ、東に気に入られ、ゲンロンの副代表に就任し、それだけでも出世であろうが、東の代表辞任に伴い、代表の座に就くに至った。代表は女性ということでフェミの批判をかわせる部分もあるようである。2023年度日本ロシア文学会大賞を受賞している。東を諫めるべき立場ではあるが、そういうものとしては機能せず、東の発言をひたすら支持している。
2020年に新型コロナウイルス(COVID-19)が世界に蔓延する。東は断固としてコロナはただの風邪という立場に立った(小林よしのり×三浦瑠麗×東浩紀「コロナはしょぼいウイルス。世界中で騒いでるのが一番の問題。」【ゲンロン200328】)。田中康夫が切り抜き動画を作っていたのであるが、消されてしまっているようである。アガンベンも生権力批判の観点からコロナ対応に批判的であったが、コロナは致死率こそそれほど高くないものの、後遺症がひどいので「しょぼいウイルス」とは言えないであろう。
2020年7月に黒瀬陽平のセクハラが発覚する。東は黒瀬との関係を断つが、これはこの時世であるから仕方ないところであろう。黒瀬は「思想地図vol.1」(2008年)でデビューしており、ゲンロンではカオス*ラウンジ新芸術校などもやっていた。
2020年10月19日にシラスがオープンする。ユーチューブとどう違うのかとも思われるが、その理念は「ゲンロン戦記」第6章第2節で語られている。
2021年はキャンセルカルチャーが吹き荒れた年であったが、東京オリンピックでの小山田圭吾の炎上が最も目立つ事例であろう。音楽家の不祥事が新聞の一面トップを飾ったのは小室哲哉の逮捕以来ではないだろうか。この件で宮台真司は小山田に対して批判的であったが、これに東は反発して、関係を断つ。九〇年代に宮台も露悪系でやっていたのだから、小山田の側に立つべきだったというのであるが(「東浩紀無料突発 またどうせ消す」)、これはまっとうな批判であろう。一晩で数百万もの売り上げのあるイベントの相手をこのくらいの理由で切れるのだから、東の行動原理は損得にはないということは認めていいのであろう。
2021年4月4日、オープンレター「女性差別的な文化を脱するために 研究・教育・言論・メディアにかかわるすべての人へ」が公開されたが、これはキャンセルカルチャーの烽火といっていいものであろう。日文研助教(当時)呉座勇一が武蔵大学准教授(当時)北村紗衣を鍵垢で揶揄していたことを非難するものである。東北学院大学准教授の小宮友根が書いたらしい。呉座は日文研から准教授への内定を取り消される。同じ年に、立憲民主党の衆議院議員・本多平直が辞任に追い込まれたりもしており、リベラルが連携して動いていることは明らかであろう。キャンセルカルチャーの年表としては、「桐野夏生『日没』と2020年代の「大衆的検閲」」がある。
2021年9月29日、呉座は日文研を提訴したが、これに加えて、2022年2月27日、オープンレターの差出人に対して、オープンレターの削除と損害賠償を求める書面を送付し、同年2月25日、オープンレターの差出人らが呉座に債務不存在確認訴訟を提訴している。2021年12月に、草津町町長が女性町議から強制わいせつ容疑で告訴されたのに対して、名誉棄損と虚偽告訴の容疑で女性町議を逆に告訴したりもしていたが、キャンセルカルチャーに対して反撃が始まったという印象である。ツイッターでアンフェが気焔を上げていたのであるが、オープンレターは、署名していない人が署名したことになっていたり、差出人に加わることに合意していないのに差出人にされていたり、差出人が五十音順で並べられていなかったりして、杜撰なところが多く、そこを突かれていた。いわゆる法クラの弁護士が加勢したのも大きいのであろう。キャンセルカルチャーの本邦第一号としてモデルケースにするはずだったものと思われるが、躓いてしまった。
この呉座が、シラスにチャンネルを開設すると発表される。キャンセルカルチャーの犠牲者に助け舟を出したかたちであるが、ここからが問題であった。2022年6月、呉座が春木晶子を姫と言ったところ、辻田が咎めたが、呉座は姫の初出は東であると反論する。後日、春木は呉座に指摘を感謝し、東にこそ問題があると批判する(5ちゃんねる、東浩紀671の12)。このような経緯で呉座のチャンネルは、契約は未了であったものの、開設されないことになってしまった。また春木のチャンネルも契約更新を拒まれる。こちらはアップルパイを番組で焼いていたことも問題視された。このことからアップルパイ事件とか五反田ベース事件などと呼ばれることもある。呉座と春木はユーチューブに「春木で呉座います。」というチャンネルを開設した。
悪いことは続くものであるが、今や東のトレードマークともなった「とんこれ」発言が飛び出す。衆議院選投票日を二日後に控える2022年7月8日、元総理大臣の安倍晋三が統一教会に家庭を破壊された過去を持つ山上徹也によって射殺される。7月10日、ニコニコ生放送で「【参院選2022】開票特番|三浦瑠麗、東浩紀、石戸諭、夏野剛と見守ろう」が放送されるが、中継で社民党の福島瑞穂が「それで現在はまだ詳細がわかっておりませんが、統一教会との関係などとも言われております。ですから詳細が明らかになると同時に、もし自民党を統一教会が応援していることが問題とされたのであれば、まさに自民党が統一教会によって大きく影響を受けているということも日本の政治の中で問題になりうると思ってるんですね」などと発言した。中継終了後、東は「あの、これさ……自民党は統一教会と関係しているからこのようなテロを招いたということを言った?もしかしたら」と述べ、一連のやり取りの中で「これとんでもない話だなぁこれ」との印象深いフレーズが口にされる。福島に安倍への銃撃を容認する意図はないと思われるが、そのように曲解したのであろう。しかし、この発言がネタになったのは、味わい深いものがあったからであろう。「五反田式人文パフォーマンスは①唐突で②滑稽で③絶妙にピントが外れていないといけない。極めるのは大変ですよ」(5ちゃんねる、東浩紀スレ817の622)。狙ってやれるものではないように思われる。
2022年10月頃、暇空茜が一般社団法人Colaboの杜撰な会計を追求しはじめる。これは2021年後半から始まったキャンセルカルチャーへの反撃のうちで最大のものであった。暇空の活動は、表現を燃やすものを燃やすことでキャンセルカルチャーを終わらせることを目的にしているが、そのために情報公開請求や住民監査請求などの合法的手段を用いている(一部デマもあるようだが)。青識亜論のような従来の「表現の自由戦士」は原理を唱えるだけであったが、行動に移したかたちである。東は暇空についてほとんど言及していないが、暇空を支持している宇佐美展也と「都知事選は本当にこれでよかったのか!?」(2024年7月7日)で共演している。
「とんこれ」発言で東の評判はずいぶん落ちたため、それからは安全運転を心がけているようである。しかし、安倍が死んだこともあり、検察が息を吹き返した。東京五輪の汚職で株式会社KADOKAWA会長の角川歴彦は逮捕・起訴され、「とんこれ」発言に同席していた夏野剛が棚ぼたで取締役・代表執行役社長兼CEOに就任した。同じく「とんこれ」発言に同席していた三浦瑠璃にはそういうラッキーはなかった。夫(当時)の三浦清志は、建設の見込みがないのに太陽光発電の出資を受けたとして、詐欺容疑で告発されていたが、2023年3月7日、業務上横領罪で逮捕されたのである(同月27日に起訴)。三浦瑠璃はしばらく活動を休止していたが、2024年4月26日、夫との離婚を発表し、活動を再開した。
辻田真佐憲は、「訂正可能性の哲学」の副読本「訂正する力」(2023年10月)の聞き手・構成を担当するなど、東の最側近になっていたが、2024年5月31日の「東浩紀突発#136 ただなんとなく雑談」で批判される。「みんな格好つけたいんだろ?俺、自分が格好つけるとか考えない。ゲンロンとシラスのためにめっちゃやってるから!俺シラスを盛り上げようと思ったんだよ。シラサーと一緒に。やってくんないよ!みんな自分のチャンネルのことばっか考えてるじゃん!」などの発言があったそうである(5ちゃんねる、東浩紀スレ酒849の290)。「石戸諭×桂大介×東浩紀 ネットで(ついに)社会が変わるのか?」(同年7月18日)でも辻田は批判される。辻田が論壇フェスというイベントに出るのが気に食わないようである。辻田は「【雑談配信】東京都知事選後日談、中間の重要性、論壇フェスほか」(同年7月19日)で反論した。しかし、辻田は売り上げトップであるだけに東も軟化し、辻田がシラスを止めることは今のところないようである。
現在に追いついた。これまでのあらすじをまとめると、東は郵便本で確立した視座でずっとやってきたといえるのであろうが、ゼロ年代はネット草創期のコミュニケーションの変容をアーキテクチャ論から考えていて、この頃がいちばんよかった。個々人は社会から下りていても、社会は回っていくというような夢が語られた。このような夢まで否定されるいわれはないだろう。テン年代になると、SNSによってネットが政治的なもので満たされるようになり、東はそこから距離を置こうとしてゲンロンに立てこもるようになった。ゼロ年代はネットの勢いに乗っており、その可能性を引き出すべく理論化に励んでいたが、テン年代はネットの動向に批判的になり、アーキテクチャ論も捨ててしまい、時代を作るような存在ではなくなっていった。
時代を作っているのは、左派ウォーキズムであろう。東に近かった人でも、津田や藤田はこちらに付いていったのであるが、ゼロ年代の東は、環境を変化させることで行動を変える環境管理型権力がこれからの権力であり、内面に介入する規律訓練型権力は過去のものになりつつあるとしていた。しかし、左派ウォーキズムは明らかに内心に介入しており、先祖返りしている印象である。外山恒一はキャンセルカルチャーについて「云ってることは新左翼だが、やってることがイジメ」(情況 2022年春号)と言っているが、これにならえば、左派ウォーキズムは、云ってることはフーコーだが、やってることがキリスト教といったところであろうか。しかし、左派ウォーキズムは収まりそうになく、これに対する抗議運動も続くであろう。
展望も記しておくべきなのであろうか。宮台真司は東に健康診断を受けるように勧めていたが、宮台はステージ0のすい臓がんを発見しており、しっかりと健康診断を受けているのだろう。東はアル中ではないということらしいが、酒の飲みすぎであることは疑いない。しかし、健康さえ保てれば、今の地位は揺らぎそうもない。思想的な伸びしろは乏しいのかもしれないが、依然としてアイデアマンではあり、あと十数年は売れる本を出せるであろうし、ゲンロンも続けようと思えば続くであろう。
これでこの伝記は終わりであるが、記憶に頼って書いたところも少なくなく、誤りもあるかもしれない。東の埋蔵量は油田のようであり、書き終えられるか不安になったこともあるが、何とか書き終えることができた。これを読んだ人にネット草創期の興奮が少しでも伝われば幸いである。
非モテ論壇は、小谷野敦の「もてない男」 (1999年)に始まり、本田透に引き継がれるが、ものすごく盛り上がっているというほどでもなかった。本田は消息が分からなくなり、小谷野も2017年頃から売れなくなった。ツイッターでは雁琳のような第三波フェミニズムに応対できる論者が主流となっているが、そういうのの影に隠れたかたちであろう。大場博幸「非モテ独身男性をめぐる言説史とその社会的包摂」(2021年、教育學雑誌 (57) 31-43)というレビュー論文がある。ロスジェネ論壇も盛り上がった印象はない。氷河期世代はそれどころではなかったのだろうか。雑誌「ロスジェネ」は迷走してしまい、第3号は「エロスジェネ」で、第4号で終刊した。
東のゼロ年代はゼロアカ道場で幕を閉じる。東チルドレンを競わせるという企画であり、ゼロアカとは「アカデミズムがゼロになる」という意味らしい(「現代日本の批評2001-2016」、講談社、101頁)。彼らは東浩紀しか参照していないので、アカデミズムとしてはゼロなのかもしれない。ここで台頭したのが藤田直哉であり、ザクティ革命と称して、飲み会動画を無編集でアップした。ゲンロンのプロトタイプかもしれない。藤田はwokeしたが、東チルドレンでそちらに行ったのは彼くらいではないか。
3 ゲンロン
ニコニコ動画に「動ポノムコウ」(2020)というMADがあるが、ゼロ年代の東は輝いていたものの、震災後は落ちぶれてしまったという史観で編集されていた。落ちぶれたかどうかはともかく、震災前後に断絶があることは疑いない。東は移動を躊躇わないところがあり、90年代末に批評空間を離れたように、震災後に自らが立ち上げた動ポモ論壇からも離れてしまう。
ゲンロンの前身である合同会社コンテクチュアズは2010年4月6日に創業された。2009年の秋の飲み会でアイデアが出たそうである。宇野常寛、濱野智史、浅子佳英(建築家)、李明喜(空間デザイナー)との飲み会であった。「ゲンロン戦記」(2020年)では李はXとされているが、ウィキペディアには実名で出てきている。李はコンテクチュアズの代表に就任したものの、使い込みを起こして、2011年1月末日付で解任されている。代わって東が代表に就任し、李から使い込んだ金を回収した。ちょうど震災前のことで、震災後だと回収は難しかったかもしれないらしい(「ゲンロン戦記」、42頁)。この頃には、宇野や濱野は去っており、浅子が右腕だったが、その浅子も2012年には退任する。
「一般意志2.0」は震災前に雑誌「本」に連載されていた。2009年12月号から2011年4月号まで連載されていて、4月号は3月頭に出るものなので、ちょうど震災が起こる直前に終わったことになる。「ゲンロン戦記」には「その原稿は2010年代に書かれたのですが、出版は震災後の2011年11月になりました」(22頁)とあるが、ゼロ年代に連載が始まっているし、出版されたのも2010年代なので、おかしな文である。「震災前に書かれた」と直すべきところであろう。「一般意志2.0」はゼロ年代のパラダイムに属している。デジタル民主主義の本であるが、ちょっとひねって、ニコニコ動画のようなもので民意をくみ上げようというものである。ゲンロンもニコニコ動画でやられているので、その所信表明でもあるのであろう。ゼロ年代とゲンロンをつなぐ蝶番的な書物ではあった。
「サイバースペース」「情報自由論」は一冊の本として刊行されることはなかったのであるが、「一般意志2.0」は刊行された。すっきりとした構想だったからだろうか。東はネット草創期のアングラさのようなものを後光にして輝いていたのであるが、この本を最後に、アーキテクチャを本格的に論じることを止める。ニコニコ動画は2ちゃんねるの動画版のようなところがあったが、ツイッターをはじめとするSNSにネットの中心が移り、ネットはもはや2ちゃん的ではなくなり、東の想定していたアーキテクチャではなくなってきたのかもしれない。東はツイッターも使いこなしているが、かつてほどの存在感はない。
「一般意志2.0」の次の主著は「観光客の哲学」(2017年)であるが、サブカルチャーを批評することで「ひとり勝ち」した東が観光客を論じるのは意外性がある。娘が生まれてから、アニメやゲームに関心を失い、その代わり観光が好きになったとのことで、東の関心の移動を反映しているようである。「観光客の哲学 増補版」第2章によると、観光客は二次創作するオタクに似ている。二次創作するオタクは原作の好きなところだけつまみ食いするように、観光客も住民の暮らしなどお構いなしに無責任に観光地をつまみ食いしていく。このように観光客は現実を二次創作しているそうである。
「福島第一原発観光地化計画(思想地図β vol.4-2)」(2013年)は、一万部も売れなかったそうである。ふざけていると思われたのだろうか。観光に関心を持っていたところに、福島第一原発で事故があり、ダークツーリズムの対象にできないかと閃いたのであろう。もともと観光に関心がなければ、なかなか出てこないアイデアではないかと思われる。東によると、ダークツーリズムは二次創作への抵抗である(「観光客の哲学 増補版」第2章)。それなりの歴史のある土地であっても、しょせんは無名なので、原発事故のような惨事が起こると、そのイメージだけで覆い尽くされることになる(二次創作)。しかし、そういう土地に観光に出かけると、普通の場所であることが分かり、にもかかわらず起こった突然の惨事について思いをはせる機会にもなるそうである(二次創作への抵抗)。
社会学者の開沼博は福島第一原発観光地化計画に参加して、前掲書に寄稿しているのにもかかわらず、これに抗議した。東と開沼は毎日新聞のウェブ版で往復書簡を交わしているが、開沼の主張は「福島イコール原発事故のイメージを強化する試みはやめろ」というものであった(「観光客の哲学 増補版」第2章)。原発事故を語りにくくすることで忘却を促すというのが政府の戦略のようであるが、これは成功した。開沼は2021年に東京大学大学院情報学環准教授に就任している。原発事故への応答としては、佐藤嘉幸・田口卓臣「脱原発の哲学」(2016年)もあるが、こちらはほとんど読まれなかった。ジュディス・バトラーは佐藤の博論(「権力と抵抗」)の審査委員の一人であり、佐藤はバトラーに近い(竹村和子亡き後、バトラーの著作の邦訳を担っている)。「脱原発の哲学」にもそれっぽい論法が出てくるのが、こちらは功を奏しなかった。資本主義と真っ向から対立するような場面では効かないのだろう。ちなみに佐藤の博論には東も登場しており、バトラーも東の名前は知っているものと思われる。
「観光客の哲学」はネグリ・ハート「帝国」を下敷きにしているが、そこでのマルチチュードは、共通性がなくても集まればいいという発想で集められているものであり、否定神学的であるとして、郵便的マルチチュードとしての観光客を対置する。東は原発事故後の市民運動に対して否定的であり、SEALDsなどを毛嫌いしていた。第二次安倍政権は次々と「戦後レジーム」を否定する法案を提出しており、それに対抗する市民運動は盛り上がっていたが、負け続けていた。しかし、Me too運動が始まってからというもの、リベラルはマイノリティ運動に乗り換え、勝ち続けるようになる。「観光客の哲学」は市民運動が負け続ける状況に応答しているが、「訂正可能性の哲学」(2023年)はマイノリティ運動が勝ち続ける状況に応答している。小熊英二やこたつぬこ(木下ちがや)はSEALDsの同伴者であったが、マイノリティ運動に与した共産党には批判的である。小熊の「1968」(2009年)は絓秀実「革命的なあまりに革命的な」(2003年)のマイノリティ運動に対する評価をひっくり返したものなので、こういう対応は分からなくはない。東も「革あ革」を評価していない。「絓さんの本は、ぼくにはよくわからなかった。六八年の革命は失敗ではなく成功だというのだけれど、その理由が明確に示されないまま細かい話が続いていく。どうして六八年革命が成功していることになるのか」(「現代日本の批評2001-2016」、講談社、71頁)。論旨そのものは分かりやすい本なので、かなりの無理解であろう。
東はアベノミクスには何も言っていない。政治には入れ込んでいるが、経済は分からないので口を出さないという姿勢である。経済について分かっていないのに口を出そうとしてリフレ派に行ってしまった人は多い。宮﨑哲弥が典型であろうが、北田もそうである。ブレイディみかこ・松尾匡と「そろそろ左派は<経済>を語ろう――レフト3.0の政治経済学」(2018年)という対談本を出している。リベラルが負け続けているのは、文化左翼路線だけでは大衆に支持されることはなく、経済についても考える必要があるという主張であるが、リベラルがマイノリティ運動で勝ちだしてからはこういうことは言わなくなった。北田は2023年から刊行されている「岩波講座 社会学」の編集委員の代表を務めている。
「観光客の哲学」の次の主著は「訂正可能性の哲学」である。こちらも郵便本の続編といっていいのであろうが、そこに出てきた訂正可能性(コレクタビリティ)という概念がフィーチャーされている。政治的な正しさ(ポリティカル・コレクトネス)を奉じている者がそうしているように、理想を固定したものとして考えるのではなく、誤りをコレクトするという姿勢が大事であるということらしい。駄洒落のようであると言われることもある。森脇によると、東は状況に合わせてありきたりの概念の意味を変えるという「再発明」の戦略を採っているが、この「再発明」の戦略を言い換えたものが訂正可能性なのだという(森脇「東浩紀の批評的アクティヴィズムについて」)。そうだとすると、訂正可能性は郵便本では脇役であったが、これが四半世紀後に主役になることには必然性があったということであろうか。
こうして現在(2024年7月)まで辿りついたのであるが、東は多くの人と関係を断ってきたため、周りに人がいなくなっている。東も自身の気質を自覚している。「ぼくはいつも自分で始めた仕事を自分で壊してしまう。親しい友人も自罰的に切ってしまう。「自己解体と境界侵犯の欲望」が制御できなくなってしまう。だからぼくには五年以上付き合っている友人がいない。本当にいないのだ」(東浩紀・桜坂洋「キャラクターズ」、2008年、73頁)。一人称小説の語り手の言葉であるものの、現実の東と遠からぬものと見ていいであろう。ここからは東の決裂を振り返る。
宇野常寛は東を批判して「ゼロ年代の想像力」(2008年)でデビューしたのであるが、東に接近してきた。ゲンロンは宇野のような東に近い若手論客が結集する場として企画されたそうである。東によると、宇野を切ったのは、映画「AZM48」の権利を宇野が要求してきたかららしい。「東浩紀氏の告白・・・AZM48をめぐるトラブルの裏側」というtogetterに東のツイートが集められている。2011年3月10日から11日を跨ぐ時間帯に投稿されたものであり、まさに震災直前である。「AZM48」は「コンテクチュアズ友の会」の会報「しそちず!」に宇野が連載した小説である(映画の原作なのだろう)が、宇野のウィキペディアには書かれていない(2024年7月27日閲覧)。円堂都司昭は「ゼロ年代の論点」(2011年)の終章で「AZM48」を論じようと企画していたが、止めておいたそうである。「ゼロ年代の批評をふり返った本の終章なのだから、2010年代を多少なりとも展望してみましょうというパートなわけだ。批評家たちのホモパロディを熱く語ってどうする。そこに未来はあるのか?」(「『ゼロ年代の論点』に書かなかった幻の「AZM48」論」)。
濱野智史は「アーキテクチャの生態系」(2008年)でデビューしているが、アーキテクチャ論こそ「「ゼロ年代批評」の可能性の中心」(森脇、前掲論文)であった。東の右腕的存在だったこともあり、「ised:情報社会の倫理と設計」を東と共編している。濱野は東と決裂したというより、壊れてしまった。その頃、AKB48などのアイドルが流行りつつあり、宇野は、東をレイプファンタジーなどと批判していたのにもかかわらず、アイドル評論を始めたのであるが、濱野もそちらに付いていってしまった。「前田敦子はキリストを超えた 宗教としてのAKB48」(2012年)を刊行する。これだけならよかったものの、アーキテクチャ論を実践すべく、2014年、アイドルグループPlatonics Idol Platform (PIP)をプロデュースするも大失敗してしまい、精神を病んでしまった。行方が分からなくなっていたが、「『豪の部屋』濱野智史(社会学者)が経験したアイドルプロデュースの真相」(2022年)に出演して、東に「ぐうパワハラされた」ことを明かした。
千葉雅也の博論本「動きすぎてはいけない」(2013年)には、浅田彰と東浩紀が帯を書いていて、「構造と力」や「存在論的、郵便的」を承継する構えを見せていた。郵便本をきちんと咀嚼した希な例ということらしい。東がイベントで千葉はゲイであることをアウティングしたのであるが、その場では千葉は黙っていたものの、「怒っている。」などとツイートする(2019年3月7日、「男性性に疲れた東浩紀と何をいまさらと怒る千葉雅也」)。これに反応して、東は「千葉との本は出さないことにした。仕事も二度としない。彼は僕の人生を全否定した」などと生放送で二時間ほど怒涛の千葉批判を行った。こうして縁が切れたわけであるが、千葉くらいは残しておいても良かったのではないかと思われる。國分は数年に一度ゲンロンに登壇するようであるが、このくらいの関係でないと続かないということだろうか。
大澤聡も切ったらしいのであるが、「東浩紀突発#110 大澤聡さんが5年ぶりにキタ!」(2023年10月16日)で再会している。どうして切ったのかはもはやよく分からないが、それほどの遺恨はなかったのだろう。
福嶋亮大は向こうから去って行ったらしい。鼎談「現代日本の批評」の第1回、第2回に参加しながら、第3回に参加することを拒んだらしい。東も理由はよく分からないようである。珍しいケースといえよう。
津田大介とは「あずまんのつだっち大好き・2018年猛暑の巻」(2018年8月17日)というイベントが開催されるほど仲が良かった。津田は2017年7月17日にアイチトリエンナーレ2019の芸術監督に就任し、東は2017年10月、企画アドバイザーに就任する。しかし、企画展「表現の不自由展・その後」に政治的圧力が加えられ、2019年8月14日、東は企画アドバイザーを辞任する。この辞任はリベラルからも顰蹙を買い、東はますますリベラル嫌いになっていく。批評家は大衆に寄り添わざるを得ないので、こういう判断もあり得るのだろうか。
東浩紀の伝記を書く。ゼロ年代に二十代を過ごした私たちにとって、東浩紀は特別の存在であった。これは今の若い人には分からないであろう。経験していないとネット草創期の興奮はおそらく分からないからである。たしかにその頃は就職状況が悪かったのであるが、それはまた別に、インターネットは楽しかったのであり、インターネットが全てを変えていくだろうという夢があった。ゼロ年代を代表する人物を3人挙げるとすれば、東浩紀、堀江貴文(ホリエモン)、西村博之(ひろゆき)ということになりそうであるが、彼らはネット草創期に大暴れした面々である。今の若い人たちはデジタルネイティブであり、それこそ赤ちゃんの頃からスマホを触っているそうであるが、我々の小さい頃にはスマホはおろか携帯電話すらなかったのである。ファミコンはあったが。今の若い人たちにはネットがない状況など想像もできないだろう。
私は東浩紀の主著は読んでいるものの、書いたものを網羅的に読んでいるというほどではなく、酔っ払い配信もほとんど見ていない。しかし、2ちゃんねる(5ちゃんねる)の東浩紀スレの古参ではあり、ゴシップ的なことはよく知っているつもりである。そういう立場から彼の伝記を書いていきたいと思う。
東浩紀は71年5月9日生まれである。「動ポモ」でも援用されている見田宗介の時代区分だと、虚構の時代のちょうど入り口で生を享けたことになる。國分功一郎は74年、千葉雅也は78年生まれである。國分とはたった3歳しか離れていないが、東が早々にデビューしたために、彼らとはもっと年が離れていると錯覚してしまう。
東は中流家庭に生まれたらしい。三鷹市から横浜市に引っ越した。東には妹がおり、医療従事者らしい(医者ではない)。父親は金沢の出身で、金沢二水高校を出ているそうである(【政治番組】東浩紀×津田大介×夏野剛×三浦瑠麗が「内閣改造」について大盛り上がり!「今の左翼は新左翼。左翼よりバカ!」【真実と幻想と】)。
東は日能研でさっそく頭角を現す。模試で全国一桁にいきなり入った(らしい)。特別栄冠を得た(らしい)。これに比べたら、大学予備校の模試でどうとかいうのは、どうでもいいことであろう。
筑駒(筑波大学附属駒場中学校)に進学する。筑駒在学中の特筆すべきエピソードとしては、おニャン子クラブの高井麻巳子の福井県の実家を訪問したことであろうか。秋元康が結婚したのは高井であり、東の目の高さが分かるであろう。また、東は中学生時代にうる星やつらのファンクラブを立ち上げたが、舐められるのがイヤで年を誤魔化していたところ、それを言い出せずに逃げ出したらしい(5ちゃんねる、東浩紀スレ722の555)。
もう一つエピソードがあって、昭和天皇が死んだときに、記帳に訪れたらしい。
東は東大文一に入学する。文三ではないことに注意されたい。そこで柄谷行人の講演を聞きに行って何か質問をしたところ、後で会おうと言われ、「批評空間」に弱冠21歳でデビューする。「ソルジェニーツィン試論」(1993年4月)である。ソルジェニーツィンなどよく読んでいたなと思うが、新潮文庫のノーベル賞作家を潰していくという読書計画だったらしい。また、残虐記のようなのがけっこう好きで、よく読んでいたというのもある。三里塚闘争についても関心があったようだ。「ハンスが殺されたことが悲劇なのではない。むしろハンスでも誰でもよかったこと、つまりハンスが殺されなかったかも知れないことこそが悲劇なのだ」(「存在論的、郵便的」)という問題意識で書かれている。ルーマン用語でいえば、偶発性(別様であり得ること)の問題であろうか。
東は、教養課程では、佐藤誠三郎のゼミに所属していた。佐藤は村上泰亮、公文俊平とともに「文明としてのイエ社会」(1979年)を出している。共著者のうち公文俊平だけは現在(2024年7月)も存命であるが、ゼロ年代に東は公文とグロコムで同僚となる。「文明としてのイエ社会」は「思想地図」第1号で言及されており、浩瀚な本なので本当に読んだのだろうかと思ったものであるが、佐藤のゼミに所属していたことから、学部時代に読んだのだろう。
東は94年3月に東京大学教養学部教養学科科学史・科学哲学分科を卒業し、同4月に東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻に進学する。修士論文はバフチンで書いたらしい。博士論文ではデリダを扱っている。批評空間に94年から97年にかけて連載したものをまとめたものである。私たちの世代は三読くらいしたものである。博論本「存在論的、郵便的」は98年に出た。浅田彰が「東浩紀との出会いは新鮮な驚きだった。(・・・)その驚きとともに私は『構造と力』がとうとう完全に過去のものとなったことを認めたのである」という帯文を書いていた。
郵便本の内容はウィキペディアの要約が分かりやすく、ツイッターで清水高志が褒めていた。「25年後の東浩紀」(2024年)という本が出て、この本の第3部に、森脇透青と小川歩人による90ページにわたる要約が付いている。森脇は東の後継者と一部で目されている。
東の若いころの友達に阿部和重がいる。阿部はゲンロンの当初からの会員だったらしい。妻の川上未映子は「ゲンロン15」(2023年)に「春に思っていたこと」というエッセイを寄稿している。川上は早稲田文学の市川真人によって見出されたらしく、市川は渡辺直己の直弟子である。市川は鼎談「現代日本の批評」にも参加している。
東は、翻訳家・小鷹信光の娘で、作家のほしおさなえ(1964年生まれ)と結婚した。7歳年上である。不倫だったらしい。98年2月には同棲していたとウィキペディアには書かれていたのであるが、いつのまにか98年に学生結婚と書かれていた。辻田真佐憲によるインタビュー「東浩紀「批評家が中小企業を経営するということ」 アップリンク問題はなぜ起きたか」(2020年)で「それは結婚の年でもあります」と言っており、そこが根拠かもしれないが、明示されているわけではない。
そして娘の汐音ちゃんが生まれる。汐音ちゃんは2005年の6月6日生まれである。ウィキペディアには午後1時半ごろと、生まれた時間まで書かれている。名前はクラナドの「汐」と胎児用聴診器「心音ちゃん」から取ったらしい。ツイッターのアイコンに汐音ちゃんの写真を使っていたものの、フェミに叩かれ、自分の写真に代えた。汐音ちゃんは「よいこのための吾妻ひでお」 (2012年)のカバーを飾っている。「日本科学未来館「世界の終わりのものがたり」展に潜入 "The End of the World - 73 Questions We Must Answer"」(2012年6月9日)では7歳になったばかりの汐音ちゃんが見られる。
96年、コロンビア大学の大学院入試に、柄谷の推薦状があったのにもかかわらず落ちている。フラタニティ的な評価によるものではないかと、どこかで東は推測していた。入試について東はこう言っている。「入試が残酷なのは、それが受験生を合格と不合格に振り分けるからなのではない。ほんとうに残酷なのは、それが、数年にわたって、受験生や家族に対し「おまえの未来は合格か不合格かどちらかだ」と単純な対立を押しつけてくることにあるのだ」(「選択肢は無限である」、「ゆるく考える」所収)。いかにも東らしい発想といえよう。
2 ゼロ年代
東の次の主著は「動物化するポストモダン」で、これは2001年に刊行される。98年から01年という3年の間に、急旋回を遂げたことになる。「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」はその間の論考である。
東はエヴァに嵌っており、「庵野秀明はいかにして八〇年代日本アニメを終わらせたか」(1996年)などのエヴァ論も書いている。その頃に書いたエッセイは「郵便的不安たち」(1999年)に収められた。エヴァ本をデビュー作にすることも考えたらしいが、浅田彰に止められたらしい。だから、サブカル本を出すというのは、最初から頭の中にあったのだろう。
「いま批評の場所はどこにあるのか」(批評空間第Ⅱ期第21号、1999年3月)というシンポジウムを経て、東は批評空間と決裂するが、それについて25年後に次のように総括している。「ぼくが考える哲学が『批評空間』にはないと思ってしまった。でも感情的には移転があるから、「お前はバカだ」と非難されるような状態にならないと関係が切れない」(「25年後の東浩紀」、224-5頁)。
動ポモは10万部くらい売れたらしいが、まさに時代を切り拓く書物であった。10万部というのは大した部数ではないようにも思われるかもしれないが、ここから「動ポモ論壇」が立ち上がったのであり、観客の数としては10万もいれば十分なのであろう。動ポモはフェミニストには評判が悪いようである。北村紗衣も東のことが嫌いらしい。動ポモは英訳されている(Otaku: Japan's Database Animals, Univ Of Minnesota Press. 2009)。「一般意志2.0」「観光客の哲学」も英訳されているが、アマゾンのglobal ratingsの数は動ポモが60、「一般意志2.0」が4つ、「観光客の哲学」が3つと動ポモが圧倒的である(2024年8月3日閲覧)。動ポモは海外の論文でもよく引用されているらしい。
次の主著である「ゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2」までは6年空き、2007年に出た。この間、東は「情報自由論」も書いていたが、監視を否定する立場から肯定する立場へと、途中で考えが変わったこともあり、単著としては出さず、「サイバースペース」と抱き合わせで、同じく2007年に発売される(「情報環境論集―東浩紀コレクションS」)。「サイバースペース」は「東浩紀アーカイブス2」(2011年)として文庫化されるが、「情報自由論」はここでしか読めない。「サイバースペース」と「情報自由論」はどちらも評価が高く、この頃の東は多作であった。
この頃は北田暁大と仲が良かった。北田は東と同じく1971年生まれである。東と北田は、2008年から2010年にかけて「思想地図」を共編でNHK出版から出すが、3号あたりで方針が合わなくなり、5号で終わる。北田は「思想地図β」1号(2010年)の鼎談には出てきたものの、今はもう交流はないようである。北田はかつてツイッターで活発に活動していたが、今はやっていない。ユミソンという人(本名らしい)からセクハラを告発されたこともあるが、不発に終わったようである。結婚して子供もできて幸せらしい。
その頃は2ちゃんねるがネットの中心であったが、北田は「嗤う日本の「ナショナリズム」」(2006年)で2ちゃんを俎上に載せている。北田は「広告都市・東京」(2002年)で「つながりの社会性」という概念を出していたが、コミュニケーションの中身よりも、コミュニケーションが接続していくことに意味があるというような事態を表していた。この概念を応用し、2ちゃんでは際どいことが言われているが、それはネタなので心配しなくていいというようなことが書かれていた。2ちゃん分析の古典ではある。
東は宮台真司や大澤真幸とも付き合っているが、彼らは北田のように鋭くゼロ年代を観察したというわけではなく、先行文献の著者である。宮台は98年にフィールドワークを止めてからは、研究者というよりは評論家になってしまった。大澤は日本のジジェクと称されるが、何を論じても同じなのもジジェクと同様である。動ポモは彼らの議論を整理して更新しているのであるが、動ポモも「ゲーム的リアリズムの誕生」も、実際に下敷きになっているのは大塚英志であろう。
宮台や大澤や北田はいずれもルーマン派であるが、ルーマンっぽいことを言っているだけという印象で、東とルーマンも似ているところもあるというくらいだろう。しかし、ルーマン研究者の馬場靖雄(2021年に逝去)は批評空間に連載されていた頃から「存在論的、郵便的」に注目しており、早くも論文「正義の門前」(1996)で言及していた。最初期の言及ではないだろうか。主著「ルーマンの社会理論」(2001)には東は出てこないが、主著と同年刊の編著「反=理論のアクチュアリティー」(2001)所収の「二つの批評、二つの「社会」」ではルーマンと東が並べて論じられている。
佐々木敦「ニッポンの思想」(2009年)によると、ゼロ年代の思想は東の「ひとり勝ち」であった。額縁批評などと揶揄される佐々木ではあるが、堅実にまとまっている。類書としては、仲正昌樹「集中講義!日本の現代思想 ポストモダンとは何だったのか」 (2006)や本上まもる「 “ポストモダン”とは何だったのか―1983‐2007」 (2007)があったが、仲正は今でも読まれているようである。本上は忘れられているのではないか。この手の本はこれ以後出ていない。需要がないのだろうか。
佐々木の「ひとり勝ち」判定であるが、そもそもゼロ年代の思想の土俵を作ったのは動ポモであり、そこで東が勝つというのは当たり前のことであった。いわゆる東チルドレンは東の手のひらで踊っていただけなのかもしれない。懐かしい人たちではある。
北田によると、東の「情報技術と公共性をめぐる近年の議論」は、「批評が、社会科学的な知――局所から全体を推測する手続きを重視する言説群――を媒介せずに、技術、工学的知と直結した形で存在する可能性の模索である」(「社会の批評Introduction」、「思想地図vol.5」、81-2頁)ということであるが、ゼロ年代の東はこういう道を歩んでいた。キットラーに似ており、東チルドレンでは濱野智史がこの道を歩んだのであるが、東チルドレンが全てそうだったわけでもなく、社会学でサブカルを語るというような緩い営みに終始していた。宇野常寛などはまさにこれであろう。
佐々木「ニッポンの思想」と同じ2009年7月に、毛利嘉孝「ストリートの思想」が出ている。文化左翼の歴史をたどっているのであるが、この頃はまだ大人しかった。ポスコロ・カルスタなどと揶揄されていた。しかし、テン年代(佐々木の命名)から勢いが増していき、今や大学、メディア、大企業、裁判所を押さえるに至っている。しかし、ゼロ年代において、動ポモ論壇と比較できるのは、非モテ論壇やロスジェネ論壇であろう。
非モテ論壇は、小谷野敦の「もてない男」 (1999年)に始まり、本田透に引き継がれるが、ものすごく盛り上がっているというほどでもなかった。本田は消息が分からなくなり、小谷野も2017年頃から売れなくなった。ツイッターでは雁琳のような第三波フェミニズムに応対できる論者が主流となっているが、そういうのの影に隠れたかたちであろう。大場博幸「非モテ独身男性をめぐる言説史とその社会的包摂」(2021年、教育學 Permalink | 記事への反応(13) | 17:44
AIが高品質の絵描けます!楽曲作れます!って最初は「スゲー」って思ってたけど、使ってみると検索ワード入れて虹エロ絵ググって漁ってる感覚と同じなんだよ。いい加減飽きた。
それよかさっさとクラウドアーキテクチャ管理とかアプリケーションのテスト管理とかできるようにして楽させてよ。Copilotにコード貼り付けてプロンプト生成すんのめんどくせーんだよ。
つまんなくなったなと決定的に感じたのは、今年の頭に行ったデブサミ。
似たり寄ったりな生成AIの活用話ばっかり。過去一つまんなかった。いつもは面白くて夢中で聞いてたんだけど、今年は途中で帰った。本当につまらなかった。
なんていうか、生成AIのプロンプトエンジニアリングとかの話って、人材マネジメント的な話と根本はおんなじ感じがするんだよな。いかにて優秀な新人AI君を働かせるか?的な。
でも、ビジネス上のそういう対人コミュニケーションすら避けたくて避けたくてITに辿り着いたんだよなー。賃金と待遇すら諦めてそっちに来たのにこの始末って酷くないかね。
なんていうか、求められる人材像が経営者一択になってきてる気がするんだよな。「プログラムを書きたい」じゃなくて「プログラムで○○がしたい」っていう、明確に目標ある奴。
「アーキテクチャがー」とか「保守性がー」とかエンジニアが心配しても、マークザッカーバーグの「動くからリリースしようぜ」の画像貼ってデスマ作り出すタイプの奴。でもそんな胡散臭い奴がビジネスモデルを引っ提げてさっさとAI活用で何とかしちゃう。
googleとかAmazon、Microsoft、Alibaba製のAIさえそろえばあとはマッシュアップして需要に対してサービス作って終わり。
全社会人総社長。社会の需要について目を向けられる奴、そういうヒアリング等の営業活動が出来る奴。それ以外いらん。
例えアホでも、マネーの虎みたいな番組でアホみたいなビジネスプラン披露できるような奴以外いらん。
ビジネス出来ない奴はいらん。もうそういう時代なんじゃねーかな。
「粗悪乱造アカンよね。」っていうエンジニアリング思考にすごく共感してたし、そのためのDevSecOps、アーキテクチャ採用、ミドルウェア選定だったりにすごく感銘を受けた。
k8sやらAWS初めて触ったときは感動した。TypeScriptでクソアプリ作るのが好きだった。IoTデバイスやラズパイで自室が少しずつハイテクになるのが好きだった。Google colabでサンプルソースのAIの作るのが好きだった。でもそういうのダサい時代なんだよな。
結局ビジネスサイドには目を向けられ無さそうなんでもうそろそろ引退かな。趣味でプログラム書きながら適当に派遣でもやって生きたいけど、33歳は他業種厳しいかなー。ていうかIT以外のどの仕事もアホらしくて就きたくねー。
なんだなんだ、先月末書いた記事に今更ワラワラと。盆も終わったんだしさ、エンジニア()にクソみてーな誇り持つんなら帰りのNAS位てめーで設定してサッサとあの世に帰ってくれよな。
どうやって金もらってんだよ。
テメーらが「びじねす思い付いたけどプログラム書けまちぇーん時間ありまちぇーん」とか情けねぇ事ほざいてっから手伝ってやってたんだろボケ。
資本主義?知るか。おめーのアホみてーな妄言と社会貢献(爆笑)に付き合ってやったんだから金よこせ。てめーがやりもしねーこと手伝ってやってんだよ、履き違えんな。
AIに仕事奪われる底辺の泣き言?ああそうだなw。じゃあ俺の何百倍の労力でアホの妄言実現する仕事してくれよスーパーエンジニアさんよ。出来んだろ?C言語出来るスーパーエンジニアさんならよ?
まぁ分かるよwどうせ大したことないんだろ?匿名でくらいイキりたいよな?すげーエンジニアさんよ。
この程度でエンジニア名乗るな?やだよーんw
俺みたいな底辺でお前ら誇り高きエンジニアの積み重ねたものをぶっ壊してやる。お前の会社も、プロダクトも、SNSも、検索結果も、底辺ITワナビの💩まみれにしてやる。モラルのかけらもないユーザーで埋め尽くしてやる。ポリコレとかツイフェミみたいな話通じないクソカスで埋め尽くしてやる。
とある企業の面談で、「reactは運用コスト高いと思うんですけどなんで選定したんですか?」って聞かれてめちゃくちゃ困った話→Web開発の運用コストに関する様々な意見が集まる
https://togetter.com/li/2407336
ここでReactが運用コストが高くないって言ってる人は恐らくプロジェクト経験が少ないか運用経験がないかのどちらかだ
WebサービスというのはフロントエンドのJavascriptフレームワークが必須というわけではない
そのため一定のシステムの規模まではバニラのJavascriptやjQueryと比べてReactは明らかに運用コストが高い
バニラやjQueryでは作れないというのであればそれを説明しろというのがこの面接官の質問の趣旨だろう
色々なプロジェクトを経験しているとReactなんて確実に必要ないようなショボいサイトやレガシーなシステムはよく見る
逆にシステムが完成して運用が始まった事でプロジェクトが解散してフロントエンドエンジニアがいなくなり画面の小さな変更やバグを修正する為にフロントエンドエンジニアを探さないといけなくなっているシステムもそれなりに見たことがある
この質問はフリーランスでスポットで仕事を受けてるようなフロントエンドエンジニアやアーキテクチャ選定に関われないような作業者としてのフロントエンドエンジニアなのか、もっとシステムに深く関わってるエンジニアかを確認するためにはいい質問だと思う
いやぁ〜、テキストエディタの世界、めっちゃディープでんねん!聞いてくださいよ〜。
まず、テキストエディタの心臓部、バッファ管理システムについてや。これ、単なるテキスト保持やないんですわ。例えば、Emacsのガベージコレクション機構。マーク&スイープ方式採用してて、バッファ内のLispオブジェクトを効率的に管理してんねん。これがあるから、長時間の編集作業でもメモリリークせーへんのや。
次に、レンダリングエンジン。これが曲者でんねん。Unicode標準のUAX #9に準拠した双方向アルゴリズム実装せなアカン。さらに、合字処理のためにOpenTypeのGSUB/GPOSテーブル解析も必要や。Harfbuzzライブラリ使うんやけど、カスタムシェーピングエンジン組み込んで、特殊な文字体系にも対応せなアカンのや。
構文解析エンジンも侮れまへんで。LR(1)パーサーじゃ複雑な言語構文に対応でけへんから、GLR(Generalized LR)パーサー実装するんや。これで曖昧な文法も扱えるようになるんですわ。Treesitterライブラリ使うと、インクリメンタルな構文解析ができて、巨大ファイルでもリアルタイムにハイライティングできるんや。
差分アルゴリズムも奥が深いんですわ。Myers差分アルゴリズムだけやなくて、Histogram差分アルゴリズムも実装せなアカン。大規模リファクタリングの差分表示に効くねん。さらに、セマンティック差分アルゴリズムも組み込んで、構造的な変更も検出できるようにするんや。
非同期処理システムもめっちゃ重要や。単なるPromiseやasync/awaitやのうて、Reactive Extensionsベースのストリーム処理実装するんや。これで、複雑なイベントシーケンスも扱えるようになるんですわ。さらに、アクターモデルベースの並行処理システム組み込んで、マルチコア活用した並列処理も可能にするんや。
最新トレンドもめっちゃアツいんですわ。例えば、Language Server Protocolの拡張や。単なる静的解析やのうて、シンボリックAI使うた意味解析まで可能にしてるんや。これで、コードの意図を理解して、より高度なリファクタリング提案ができるようになるんですわ。
WebAssembly統合も進化してるんや。Single Instruction, Multiple Data (SIMD)命令セットサポートで、テキスト処理のパフォーマンスが爆上がりしてんねん。さらに、WebAssembly System Interface (WASI)採用で、ファイルシステムアクセスも可能になってるんや。
AI支援機能も侮れまへんで。単なる補完やのうて、プログラム合成(Program Synthesis)技術導入してるんや。部分的な仕様から完全なコードを生成できるようになってんねん。さらに、説明生成AI組み込んで、生成されたコードの詳細な解説までしてくれるんですわ。
リアルタイムコラボレーションも進化してるんや。Conflict-free Replicated Data Type (CRDT)のカスタム実装で、ネットワーク遅延があっても一貫性保てるようになってんねん。さらに、意図ベースの競合解決アルゴリズム導入して、複雑な編集操作の衝突も自動解決できるようになってるんや。
拡張性アーキテクチャもすごいんですわ。WebAssemblyベースのプラグインシステム採用して、言語に依存せんプラグイン開発可能になってんねん。さらに、サンドボックス化されたランタイム環境提供して、セキュアなプラグイン実行も実現してるんや。
性能評価も厳しくなってるんですわ。起動時間は、コールドスタートだけやのうて、ホットスタートも測定せなアカン。メモリ使用量も、物理メモリだけやなくて、仮想メモリの使用状況も追跡するんや。CPU使用率は、マイクロアーキテクチャレベルの最適化まで求められるようになってんねん。レンダリング性能は、GPUアクセラレーションの効率も評価せなアカンのや。応答性は、入力レイテンシだけやのうて、知覚的な応答性(Perceived Responsiveness)も測定するんですわ。
いや〜、テキストエディタの世界、マジでディープすぎて、もう頭おかしなるで〜!こんな感じで、テキストエディタの最深部まで潜ってみましたけど、いかがでしたか?テキストエディタ、侮れまへんで〜。ホンマに。
両義的資源(善悪両用可能な要素)の文明発展への影響を分析するにあたり、以下の経済学的概念を中心に議論を展開します:
a) 内生的成長理論(Romer, 1990; Aghion & Howitt, 1992)
b) 制度経済学(North, 1990; Acemoglu et al., 2005)
c) 情報の経済学(Stiglitz, 2000; Akerlof, 1970)
d) 行動経済学(Kahneman & Tversky, 1979; Thaler & Sunstein, 2008)
Romerの内生的成長モデルを拡張し、両義的資源(R)を組み込んだ生産関数を以下のように定式化します:
Y = A * K^α * L^β * R^γ
ここで、Y は総生産、A は技術水準、K は資本、L は労働、α, β, γ はそれぞれの生産弾力性です。
dA/dR = f(I, S)
ここで、I は制度の質、S は社会的規範です。f(I, S) > 0 の場合、R は善として機能し、f(I, S) < 0 の場合、R は悪として機能します。
Acemoglu et al. の制度経済学モデルを応用し、以下の制度の質関数を定義します:
I = g(P, E, C)
ここで、P は政治的制度、E は経済的制度、C は文化的要因です。
制度の質 I が高いほど、両義的資源 R が善として機能する確率が高まります:
ここで、h'(I) > 0 です。
Stiglitzの情報の経済学に基づき、両義的資源の利用に関する情報の非対称性を以下のように定式化します:
ここで、SW は社会的厚生、PB は私的便益、PC は私的費用、SC は社会的費用、θ は情報の完全性を表す指標(0 ≤ θ ≤ 1)です。
Kahneman & Tverskyのプロスペクト理論を拡張し、両義的資源の利用に関する意思決定を以下の効用関数で表現します:
U(x) = x^α for x ≥ 0
U(x) = -λ(-x)^β for x < 0
ここで、α, β は感応度パラメータ、λ は損失回避度です。
Thaler & Sunsteinのナッジ理論を適用し、両義的資源の善用を促進するための選択アーキテクチャを以下のように定式化します:
Pr(Good use of R) = j(N, I, θ)
ここで、N はナッジの強度を表し、∂j/∂N > 0, ∂j/∂I > 0, ∂j/∂θ > 0 です。
上記の要素を統合した動学的一般均衡モデルを以下のように定式化します:
max Σ(t=0 to ∞) β^t U(C_t)
制約条件:
K_(t+1) = (1-δ)K_t + I_t
Y_t = A_t * K_t^α * L_t^β * R_t^γ
A_(t+1) = A_t + f(I_t, S_t) * R_t
I_t = g(P_t, E_t, C_t)
この分析から、両義的資源が善または悪として機能するかは、以下の要因に大きく依存することが示されました:
1. 制度の質(I)
2. 情報の完全性(θ)
4. ナッジの強度(N)
5. 行動バイアス(α, β, λ)
これらの要因を最適化することで、両義的資源の正の影響を最大化し、負の影響を最小化することが可能となります。具体的には:
この分析は、両義的資源の管理と活用に関する政策立案に重要な示唆を与えるものであり、持続可能な文明の発展に寄与する可能性があります。
政策立案者は、これらの要因を考慮しつつ、両義的資源の善用を促進し、悪用を抑制するための包括的な戦略を策定する必要があります。
過激なファンアートを「検索避け(伏せ字などを含む)」と呼ばれる手法で公開するケースがある。しかし、この方法は本当に効果的なのだろうか?
本記事では、検索エンジンの仕組みと「検索避け」の限界について解説し、情報公開における倫理的な問題について考察する。
想像してみてください。あなたが重要な機密文書を持っており、ファイル名と文書内の固有名詞を少し変えてインターネットにアップロードしたとします。
ファイル名と固有名詞が少し変わっても、内容が変わらなければ、文書は依然として機密文書のままです。
インターネットは、世界中の情報が集まる巨大な図書館と見なすことができ、検索エンジンはその図書館の賢い司書のような役割を果たします。
この「司書」は、本のタイトルだけでなく、内容や文脈を理解し、関連する情報を結びつけて、私たちが探しているものを見つけ出します。
したがって、名前を変更するだけでは検索エンジンを欺くことはできません。
検索エンジンはキーワード検索を超え、画像認識や文脈理解などの技術を活用して、関連する情報をつなぎ合わせて、目的の情報を見つけ出します。
情報を守りたい場合は、名前を変更するだけでなく、アクセス制限などの強固な保護策を講じる必要があります。
また、Twitterのような公開プラットフォームに隠したい情報をアップロードすることは、矛盾した行為です。
一般的に、公開プラットフォームにおいては、特定のコンテンツを検索エンジンから隠すための直接的な手段は限られています。
例えば、Twitterのようなプラットフォームでは、個々のユーザーがrobots.txtの設定やnoindexタグを利用してコンテンツのクローリングを制御することはできません。
公開プラットフォーム上のコンテンツは、基本的に検索エンジンによってインデックスされ、公開情報として扱われます。
近年、画像認識とAI検索技術は飛躍的に進化しており、「検索避け」の効果はさらに限定的になっています。
特に、CNNを用いた画像検索技術は、深層学習を活用して、画像内の細かな特徴まで識別することが可能です。
これにより、画像内のオブジェクトやシーンの認識、さらにはテキストの読み取りまで行えるため、
作品名やキャラクター名、一部デザインを変更したとしても、関連する過激なファンアートが検索結果に表示されることがあります。
一方で、AI検索では、Transformerアーキテクチャが主流となっており、文章全体を一度に処理することで、文脈を高度に理解することができます。
GoogleのBERTやMicrosoftのTuringモデルなどの進化したAI検索モデルは、単なるキーワード検索を超え、単語の組み合わせが表す複雑な概念や文章全体の意味を把握し、
その結果、過激なファンアートを投稿する際に、意図的に作品名やキャラクター名を避けたとしても、これらのAI検索技術により作品が特定されやすくなっています。
上記のように、現代の検索エンジンは高度な技術を駆使して情報を収集・分析しており、「検索避け」のような単純な対策では効果が期待できません。
現代の検索エンジンは、過激なファンアートを検出する一方で、高度なコンテンツフィルターを備えており、
社会倫理に反する画像を検出し、検索結果から除外する能力も持っています。
多くの公開プラットフォームでは、シャドウバンという手法を用いて特定のコンテンツの露出を抑制し、
過激なファンアートが一般ユーザーに表示されないよう努めています。
しかし、これらの技術が存在するからといって、過激なファンアートを無対策で公開することが許容されるわけではありません。
コンテンツフィルターやシャドウバンは完璧ではなく、不適切なコンテンツを完全にブロックすることはできません。
公開されるコンテンツが法的な規制や社会的な倫理に適合しているかどうかが重要であり、著作権侵害、名誉毀損、不快感を与える可能性のあるコンテンツは、
情報公開を行う際には、その影響を常に意識し、責任ある行動を取ることが求められます。
「検索避け」のような限定的な対策やコンテンツフィルターに依存するのではなく、倫理的な問題と情報管理の重要性を理解した上で、適切な判断を行うことが不可欠です。
例えば、過激なファンアートを公開する際には、その作品が特定のコミュニティ内でのみ共有されるようにクローズプラットフォームを利用する、
またはアクセスを制限するなどの措置を講じることが考えられます。
適切な情報管理とセキュリティ対策を施し、インターネット上での安全なコンテンツ共有に努めることが重要です。
Q.
1つのCPUコアでの逐次処理を高速化することには限界があるため、コア数を増やし並列化させることで性能を向上させる必要がある、という考え方について、市販のサーバコンピュータとスーパーコンピュータで違いはありますか?
A.
この考え方に関して、市販のサーバコンピュータとスーパーコンピュータの間には基本的な違いはありません。両者とも、シングルコアの性能向上に限界がある中で、並列化によって全体的な処理能力を高めるという方向性を共有しています。しかし、その実現方法や規模には大きな違いがあります。 サーバコンピュータとスーパーコンピュータの並列化アプローチの比較 1. 並列化の規模 サーバコンピュータ: 数個から数百個のコアを使用 スーパーコンピュータ: 数万から数百万個のコアを使用 2. 並列化の方法 サーバコンピュータ: 主にSMP(対称型マルチプロセッシング)やNUMA(非一様メモリアクセス)アーキテクチャを採用 比較的少数のプロセッサを密結合 スーパーコンピュータ: 大規模な分散メモリシステムを採用 多数のノードを高速ネットワークで接続 3. 相互接続技術 サーバコンピュータ: 一般的なネットワーク技術(イーサネットなど)を使用 スーパーコンピュータ: 専用の高速相互接続技術(InfiniBand、Tofu Interconnectなど)を使用 4. ソフトウェアとプログラミングモデル サーバコンピュータ: OpenMPやpthreadsなど、比較的シンプルな並列プログラミングモデルを使用 スーパーコンピュータ: MPIなどの複雑な分散メモリプログラミングモデルを使用 ハイブリッド並列化(MPI+OpenMP)などの高度な技術も適用 5. スケーラビリティ サーバコンピュータ: 中規模までの並列化に適しているが、大規模になるとスケーラビリティに課題 スーパーコンピュータ: 極めて大規模な並列化に対応できるよう設計されている 6. 用途 サーバコンピュータ: ウェブサービス、データベース、ビジネスアプリケーションなど、比較的汎用的な用途 スーパーコンピュータ: 気象予報、宇宙物理学シミュレーション、分子動力学計算など、極めて計算負荷の高い科学技術計算
当初はGPUとして開発され、事実上開発の失敗からオマケ程度までスケールダウンされたPS3のSPEは今のNVIDIA製GPUの原始的な形そのものだし、
当時すでにGPUは存在したし、GPUを他の目的に使用する行為(GPGPU)も行われていた。機械学習に使われ始めたのは2010年くらいからだと思うけど。
ちなみに、SPEはGPUをスケールダウンしたものではなく、計算に特化したCPUを複数載せようという設計思想なので、今の膨大なコアで行列演算をぶん回す戦場では勝てない。メニーコアCPUはそれはそれで発展する余地はあったと思うけどね。
「ベクトル型とスカラー型のハイブリッド」とはGPUを複数機搭載したサーバーそのもの。つまりきわめて大ざっぱに言えば基本設計は十年以上先のトレンドを正しく捉えている。が、どちらも実際の開発や予算の都合に失敗しているし、NECのベクトル型スパコンなど需要はゼロだった。
日本がハードウェア部門で存在感を示すには、GPUの開発に研究費をぶっ込む必要があったわけだが、GPUのような不真面目な分野には研究費が出なかっただろうな(偏見)
結局のところ2003年から2011年頃までいちばん延べ計算量が必要だったのはリアルタイムの3Dグラフィックスのレンダリングだったんだ。そこではNVIDIAって会社がPCゲームのプラットフォームを握ってしまっていてそこで技術開発をめっちゃ進めてしまったんだ。
結果的にPlayStation2までは純日本設計だったグラフィックチップが、PlayStation3ではNVIDIAのGPUになってしまったんだ。そこで負けが確定してしまった感じだ。PlayStation3のCPU、CELLに内蔵されているSPUは、世代をどんどん進めていったら最終的にレンダリングもできるグラフィックチップに進化する可能性があったのかもしれないけど次世代が出せなかったのでそこで終わりになってしまった。
NVIDIAは先端を走っているユーザーが何を求めているかをめちゃくちゃちゃんと調査して、彼らがちゃんと新しいことを効率よくできるようなチップを開発してくるんだ。だからハードウェアTLが必要になってきたときにGeForceを出してきたし、その後ポリゴンへの複雑なマッピングを駆使してリアルなグラフィックスを構築しだしたらシェーダアーキテクチャを提案してきて、そのシェーダプログラミングでレイマーチングを遊びでみんながやりだしたらリアルタイムレイトレをハードウェアでサポートしたRTXをリリースしてきたしAIもそうだ。いまコンピュータを使っているユーザがどのようなことをやって、次に何が求められているのかを見極めるのが上手なんだと思う。
京の事業仕訳けの議事録を再度読み返したけど、確かにそこにはスーパーコンピュータのユーザーを見ておらず「国民に夢を与える、あるいは世界一を取ることによって夢を与えることが、実は非常に大きなこのプロジェクトの1つの目 的 」などとボケたことを言っている説明者たちと、いやいや実際のユーザはそんなのを求めてるわけないだろという金田先生の議論がつづいていて、そのへんが日本が負けた原因なんじゃないかなあーって思うんだよ。
ただ運も味方していて、NVIDIAが計算能力をバカみたいに使うグラフィックスを提案して微妙な感じになってたところに、ビットコインのマイニング需要があって、そのあとにAIが盛り上がった。計算能力をうまく価値にしてくれる応用がいい感じに出てきていまに至ってるんで、とりあえずやってみて一位とってみろよ、みたいな話が必ず悪いわけではないかもしれない。
Intelは偉くて、GPUでNVIDIAやATI(現AMD)に完全に負けていて後塵を拝していたにもかかわらず、じわじわとCPU内蔵のグラフィックチップの性能を上げていきディスクリートGPUも作るようになり、昨年ちゃんとその成果が世界2位のAuroraスーパーコンピュータとして実稼働を始めてたのですごいなと思ったよ。そのAuroraはGPUもCPUもIntel製で2位、1位のFrontierはGPUもCPUもAMDなんだけどね。結局のところ一般用途で台数が出てない状態ではスパコンを作れるような技術も養成できないってことだったんだろうと思う。
当時の日本では携帯電話向けのプロセッサしか数が出るものがなかったから、そこに全力投球して、でもガラケーではグローバルに売れないからPDAに販路を広げてiPhoneやAndroidに採用してもらう、みたいな流れができれば最高だっただろう。でもそんな戦略を説明して実行に移せるトップが日本の家電メーカーのトップには居なかったんだ。だってあいつらテレビやブルーレイをどう売るかしか考えてなかったんだもん。PocketPCに載ってたIntelのXScaleが没落したときを狙ってちゃんとチップを出せてればチャンスがあった。でもそこに載ったのはSamsungやTI、そしてQualcommのチップだった。TIは撤退してしまったけどSamsungはまだプロセッサを作り続けている(これはGalaxyという大きな需要があるからできているのだと思う)。
議事録 https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9283589/www.cao.go.jp/sasshin/oshirase/h-kekka/3kekka.html 長いのでNotebookLMを使って要約してみました。
理化学研究所は、10ペタフロップスのスーパーコンピュータを開発する計画を進めています。 この計画は、2005年に開始され、これまでに545億円の国費が投入されています。 しかし、2010年度予算案の事業仕分けにおいて、この計画の本格的な着手の是非が議論されました。
事業仕分けの結果は、「凍結」でした。つまり、計画は一旦停止し、見直しが行われることになりました。
なお、この事業仕分けでは、スーパーコンピュータ開発の技術的な側面についても議論がありました。例えば、ベクトル型とスカラ型のどちらのアーキテクチャを採用すべきか、ソフトウェアの開発をどのように進めるかといった点です。 これらの点については、専門家の間でも意見が分かれており、事業仕分けの場では明確な結論は出ていません。
まず、文部科学省は次世代スーパーコンピュータ開発の意義について、世界最高性能のものを開発することで、日本が様々な競争分野で優位に立てるという点を強調しました。 例えば、10ペタクラスのシミュレーションは従来のものから質的に変わるため、日本が先行して利用できる状況を作ることで、ソフトウェア開発や産業利用の面で競争力を持ちたいと主張しました。
これに対し、蓮舫議員は、企業がスーパーコンピュータを利用する際に、本当に1位のものしか使わないのか、2位のものを使って安価で分かりやすい応用技術を提供することも考えられるのではないかと疑問を呈しました。
しかし、文部科学省側は、10ペタクラスの開発を急ぐ理由として、いち早く到達することで日本のアイデアを世界に先行して発揮できる状況を作りたいという点を繰り返し強調しました。 つまり、「世界一」であること自体に重点を置いていたことがうかがえます。
過激なファンアートを「検索避け(伏せ字などを含む)」と呼ばれる手法で公開するケースがある。しかし、この方法は本当に効果的なのだろうか?
本記事では、検索エンジンの仕組みと「検索避け」の限界について解説し、情報公開における倫理的な問題について考察する。
想像してみてください。あなたが重要な機密文書を持っており、ファイル名と文書内の固有名詞を少し変えてインターネットにアップロードしたとします。
ファイル名と固有名詞が少し変わっても、内容が変わらなければ、文書は依然として機密文書のままです。
インターネットは、世界中の情報が集まる巨大な図書館と見なすことができ、検索エンジンはその図書館の賢い司書のような役割を果たします。
この「司書」は、本のタイトルだけでなく、内容や文脈を理解し、関連する情報を結びつけて、私たちが探しているものを見つけ出します。
したがって、名前を変更するだけでは検索エンジンを欺くことはできません。
検索エンジンはキーワード検索を超え、画像認識や文脈理解などの技術を活用して、関連する情報をつなぎ合わせて、目的の情報を見つけ出します。
情報を守りたい場合は、名前を変更するだけでなく、アクセス制限などの強固な保護策を講じる必要があります。
また、Twitterのような公開プラットフォームに隠したい情報をアップロードすることは、矛盾した行為です。
一般的に、公開プラットフォームにおいては、特定のコンテンツを検索エンジンから隠すための直接的な手段は限られています。
例えば、Twitterのようなプラットフォームでは、個々のユーザーがrobots.txtの設定やnoindexタグを利用してコンテンツのクローリングを制御することはできません。
公開プラットフォーム上のコンテンツは、基本的に検索エンジンによってインデックスされ、公開情報として扱われます。
近年、画像認識とAI検索技術は飛躍的に進化しており、「検索避け」の効果はさらに限定的になっています。
特に、CNNを用いた画像検索技術は、深層学習を活用して、画像内の細かな特徴まで識別することが可能です。
これにより、画像内のオブジェクトやシーンの認識、さらにはテキストの読み取りまで行えるため、
作品名やキャラクター名、一部デザインを変更したとしても、関連する過激なファンアートが検索結果に表示されることがあります。
一方で、AI検索では、Transformerアーキテクチャが主流となっており、文章全体を一度に処理することで、文脈を高度に理解することができます。
GoogleのBERTやMicrosoftのTuringモデルなどの進化したAI検索モデルは、単なるキーワード検索を超え、単語の組み合わせが表す複雑な概念や文章全体の意味を把握し、
その結果、過激なファンアートを投稿する際に、意図的に作品名やキャラクター名を避けたとしても、これらのAI検索技術により作品が特定されやすくなっています。
上記のように、現代の検索エンジンは高度な技術を駆使して情報を収集・分析しており、「検索避け」のような単純な対策では効果が期待できません。
現代の検索エンジンは、過激なファンアートを検出する一方で、高度なコンテンツフィルターを備えており、
社会倫理に反する画像を検出し、検索結果から除外する能力も持っています。
多くの公開プラットフォームでは、シャドウバンという手法を用いて特定のコンテンツの露出を抑制し、
過激なファンアートが一般ユーザーに表示されないよう努めています。
しかし、これらの技術が存在するからといって、過激なファンアートを無対策で公開することが許容されるわけではありません。
コンテンツフィルターやシャドウバンは完璧ではなく、不適切なコンテンツを完全にブロックすることはできません。
公開されるコンテンツが法的な規制や社会的な倫理に適合しているかどうかが重要であり、著作権侵害、名誉毀損、不快感を与える可能性のあるコンテンツは、
情報公開を行う際には、その影響を常に意識し、責任ある行動を取ることが求められます。
「検索避け」のような限定的な対策やコンテンツフィルターに依存するのではなく、倫理的な問題と情報管理の重要性を理解した上で、適切な判断を行うことが不可欠です。
例えば、過激なファンアートを公開する際には、その作品が特定のコミュニティ内でのみ共有されるようにクローズプラットフォームを利用する、
またはアクセスを制限するなどの措置を講じることが考えられます。
適切な情報管理とセキュリティ対策を施し、インターネット上での安全なコンテンツ共有に努めることが重要です。
情報公開の際には、法的な規制や社会的な倫理を尊重し、責任ある行動を取ることが求められます。
倫理的な問題と情報管理の重要性を理解し、適切な判断を行うことが、情報公開の倫理と責任ある行動の核心です。
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