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2023-09-08

ジャニーズ事務所所属タレントたちが11日、同事務所ジャニー喜多川社長が9日に87歳で亡くなったことについてファクスコメントを寄せた。

 KinKi Kids堂本剛

ジャニーさんへ この世の中にある すべての言葉と想いで綴っても 僕の胸の中は伝えることが出来ないよ あなたが命尽きるまでの 最後最後までの時間を使って 

出逢ったすべての人へと宛てた 無垢な愛に胸が熱くなったよ これからは 住む世界が変わってしまうけれど あなたが想えば… 僕が想えば… いつだって繋がれるよ 

あなたが その命の色彩を惜しみなく 捧げてくれたことを いつまでも抱き締めて生きていくよ 涙は流さずにこの体と心へと彩って あなたを愛しているという 

変わらない毎日を大切に生きていくよ 愛しているよ ありがとう 宇宙一 大好きだよ」

スポーツ報知

2023-07-27

すべての人へ積極的接種呼びかけは不要”釜萢常任理事

ワクチン接種後に体調を崩した人への対応が非常に重要だ。審査が遅れているのではないかという指摘もあり、医師会としても力を尽くしたい

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230726/k10014143221000.html

反ワクの完全勝利ですね

2022-02-19

スラングから無罪フィクションから無罪

若者言葉スラングなので、本気で言っていないからセーフ。

…受け取る側が傷ついたか問題なのであって、そんな理屈は成り立たない、というのなら、

同様に、フィクションからセーフも成り立たない。

架空物語に作者の悪意を読み取って読者が傷ついたなら、作者のスポンサーたる出版社は顧客保護すべく作者をパージして、謝罪することになる。

「当社はいかなる差別的表現も決して容認すべきでないと考えており、すべての人へ多様性を大切にします」

から特定属性人権がない世界観は、もう描けない。

例えば、巨乳が虐げられる世界とか。

戦士だけビキニアーマーを着なくちゃならない世界とか。

2021-10-20

anond:20211020174751

上位ブコメ

moo13 これはすごい。ほんとにすべての人へメッセージがある。私のためのメッセージがあった。誰かが私のために政策を考えてくれている。それだけで将来への不安が少し解消されたような気がする。

2021/10/14 blueredgreengreengreenyellow225yellow

inet_malic あなたはとても頑張っている、自己責任なんかじゃない、これは政治の責任です。って言われて嬉しかった。 政治

2021/10/14 redgreengreenyellow209yellow

hapworth 自分はこの中に該当しないだろうと思っていたら、3つ該当していた。聞いてみたら、納得のいく内容でした。当たり前のことだけど、ありがたいと思う。

2021/10/14 greenyellow138yellow

anti_happiness 様々な考え方の人々がこの国に暮らしている前提から出発して、そのあらゆる人々に対して向けられたメッセージ。少なくとも私は忘れられてないんだなと思った。

2021/10/14 greenyellow71yellow

2021-08-26

夜に出歩くすべての人へ

私は先ほど日課ウォーキングを済ませてきた。

夕飯を食べた後、少し休憩して時間は7時ごろ。

すっかり日は落ちて暗くなっている。

しかし私の日課時間で全て決めているので、暗かろうが明るかろうがウォーキングに出かけるのであった。

暗がりというものは、事件を起こすのだ。

私は暗い季節には必ず白いTシャツに反射たすき、懐中電灯を手にして行く。

これは自分のためであり、すれ違うすべての人のためだと思っているかである

まぁそれも、暗がりから現れた人には関係がないようだ。

?「なにすんだ!」

私「こっちのせりふじゃぼけぇ!」

人とぶつかった。

ぶつかった瞬間に何かが地面に当たる音がした。

わず大きな声が出てしまった。

そんな気はなかったのだが相手を委縮させてしまったようだ。

地面には落下したのは画面の付いたスマートフォン

もちろん私のものではない。

相手はそのままスマホを拾って走って逃げていった。

その後ろ姿を懐中電灯を当てながら観察する。

上下黒い服、反射材なんてどこにもついてない。

良く焦げた両腕もまた闇に溶けている。

懐中電灯ヘッドライトなんてものももちろんない。

スマホで明かりを取っていたわけでもない。

まりは、暗がりから足音立てずに出てきたのである

忍びか。

今日に限ってはこれだけではない。

これまた上下黒の男性が黒いわんちゃんを連れて散歩している。

その向こう側からランニングしている男女が来た。

すれ違う寸前にわんちゃんが吠えた。

女性が驚いてよろけて地面に倒れ込んでしまった。

わんちゃんの飼い主は何も言わずにその場を去った。

この人も、スマホを見ていた。

犬はなおも吠えている。

女性の方など一切見ない。

周りは一切見えていないのである

この場を借りてお願いしたい。

夜に歩くのであれば、明るい服を着てくれ。

着ることの出来ない事情があるなら反射たすきやベルトを付けてくれ。

自分のためにも懐中電灯を持ってくれ。

けっしてスマホを持つな。

自分身体のためにもつながると思うのだ。

そして前を向いて歩いて欲しい。

下ばかり見ていてもあるのは自分の脚だけだ。

自分以外の人間がこの世にいることを忘れないで欲しい。

以上

言いたいことまだくあるが、今はここまで。

皆、安全健康習慣を。

2021-04-04

中傷差別的発言」とは何か

研究教育言論メディアにかかわるすべての人へオープンレター女性差別的な文化を脱するために

https://sites.google.com/view/againstm/home

要旨としては、

「公正で冷静な学術議論・論争を実現するために、中傷差別的発言アカデミズムから撲滅しよう」

で、その通りだと思う。

ただし、だとすればなぜ、このような曖昧な書き方をするのか。

また私たちは、中傷差別的発言とそうでない発言との境界が時に明瞭ではないことも理解しています

しかし、事実として両者のあいだに明確な線が引けない場合があることは、その概念区別を求めることが無意味であることを意味しません。

明瞭な線引きが難しいにせよ、「何が中傷差別的発言に当たるか」が最大の論点であることは、論を待たない。

一方で「概念区別を求める」と言いながら、

「何が中傷差別的発言に当たるか」についての基準を明確にせぬまま「私たちの思う中傷差別的発言」を列挙するフェミニズムの不誠実なやり方を、今まで何度となく見てきた。

お気持ち揶揄するな」と言うが、そのように揶揄される原因は、毎度毎度、フェミニズム側の論理に内在している。

今回の件については、呉座氏の発言の中に、はっきりと中傷差別的発言が含まれていたから、多くの人が声を上げたのだという以外にはない。

何が中傷差別的発言に当たるかについて、定義することは不可能ではない。

例えば中傷については、

根拠なく、人格批判すること。

差別的発言については、

本人の選択不能属性などを理由に、批判を加えること。

のように、不完全であっても、文言に起こすことの意味は少なくない。

これらは、発言主体が誰であれ、許されざることなのだ

フェミニズムの側は、今までそうした振る舞いと無縁だっただろうか?

差別的表現でないもの、例えばただ性的表現について、根拠なく「差別的表現だ」と呼んで糾弾する行為は、誹謗中傷に相当する。

小宮先生風に言うならば「相当する可能性がある」でもいい。)

そうしたダブルスタンダードを自らに許している間は、運動として全面的に支持を集めることはないだろう。

2020-03-30

夫と、夫を飲み会に誘うすべての人へ

夫に飲み会に行ってほしくない。


今が堪え時だと、多くの人が言っている。

会いたい人と会うことを避け、行きたいところへ行くのをやめ、耐えている人たちがいる。

少しでも感染の勢いをおさえようとする人たちが、最前線で命をつなごうと、ギリギリの中で奮闘している人たちがいる。

から飲み会を、お願いだから、この時期だけでも、辞めてほしい。


私は知っている。

夫が仲間たちと酒を飲み議論を交わし、夜中まで何度も話し合い肩を組んで逆境を乗り越え、ここまできたことを知っている。その時間があったおかげで夫にとって大切な仲間ができたことを知っている。

そして今、なんとか動かないと自分所属している会社が大変なことになるかもしれないと思っていることも、「こういうときこそチャンスだ」と前向きな努力をしようとしていることも、知っている。

子どもたちを養うために一生懸命働いているのも知っている。

あなたのおかげで私たち生活ができているし、楽しい生活を送ることができている。美味しいごはんが食べられる。本当にありがとう


けれど、今は飲み会をやめてほしい。

夫を飲み会に誘う人がいる。本当に、今はやめてほしい。週に1回でも、やめてほしい。少人数で、個室だとしても、やめてほしい。

仕事なのはわかってる。ただのお楽しみの親睦会とかではなく、未来につながるチャンスだったり、今繋がなければいけない物事があることをわかってる。この先会社が打撃を受ける。今何か考えて、みんなで話して、手を打たなければいけない。わかる。

けれどそれは、飲み会である必要はありますか?

会議室マスクをして話すのではできませんか?

飲み会仕事のうち」だとしても、この流れが落ち着いてからはいけませんか?

本当に、お酒の力がないと、腹を割って話せませんか?

飲んで絆を深めるのはこの騒ぎが落ち着いてからでは、だめだろうか。

お酒の席は楽しかろうけれど、マスクを外し、酔って自制がきかなくなり、気は大きくなり、唾は飛び、いろいろな人や物との接触は増えるだろう。

仮に今腹を割って話さなければいけないことがあったとしても、

「じゃあ今から飲みに行って話そうか」

という流れのほうが、怖くないだろうか。こんな時に飲み会に行く文化がある会社、辞めたほうがよくない?ってならないだろうか。

ならないのか。だとしたらなんて恐ろしいんだろう。


私も、全てにおいて最前を尽くせているのかと聞かれたら、分からない。

から迷惑をかけているのはお互い様かもしれない。私だって突っ込まれたら言い返せないところがあると思う。私だけが一方的にせめる権利はないのかもしれない。


けれどこれは、私の夫ひとりの問題ではない。

私は夫を説得しつづけるけれど、それだけでは解決しない。

現に夫に会食の連絡を入れる人がいるのだ。

大事な話だ、飲みに行こう」という人がいるのだ。

彼らの家族はどうしているんだろう。そこを知っても仕方ないのだけど。

彼らの家族が皆「しょうがいね仕事もの」と言ったのだとしても、私は夫に「なるべく行かないでほしい」と言い続ける。

いつまでこんな状況なのか分からない。飲み会の席でいろいろ積み上げてきた人たちは辛かろう。いつになったら大手を振って飲みにいけるかわからない。

でも、「この数週間が勝負」と言われていて、飲みに行く、出かける人が増えてしまったら、「この数週間」が「この数ヶ月」「この一年」と一気に増えしまってもおかしくない。

そういう状況に、私たちは置かれている。

夫は「自分みたいな考え方のほうがおかしいのはわかってる」という。自分イレギュラーなのだと言う。でも、だからなんだというんだろう。夫がイレギュラーかどうかは、我が家には関係ない。夫は一人しかいないんだから。どうしても、ここだけは夫婦の考え方が相入れない。


夫がいくら飲み会に行かなくなっても、在宅ワークにできたとしても、どこからともなく感染する可能性はある。買い出しに出た私が感染することだってある。どうしようもなく誰かが感染してしまうこともあるかもしれない。

夫は飲み会ものすごく減らしているようだけれど、できればリスクもっとおさえたい。もっともっと

飲み会だけ目くじらたてすぎでは」と自分でも思う。けれど、どこの誰ともしらない人たちが集まるところで(仮に会社にいるより少人数規模だとしても)、ちょっと離れた席で知らない人たちが同じように酔っぱらい、注意が散漫になる環境にいてほしくない。怖すぎる。どうしたら伝わるだろう。

私たちの子どもが感染したら、どうなるだろう。

彼らはまだ子どもなのに、一緒にいてもあげられず、知らない大人たちに囲まれて、苦しみの中独り闘うのだろうか。そう文字にするだけでもう泣けてくる。どうか彼らが健やかでい続けられますように。笑顔で、家族みんなで一緒にこれからも過ごせますように。


夫を飲み会に誘うすべての人へ

届かないかもしれないけれど、私は本当に飲み会を今はやめてほしいです。仕事に行かなきゃいけない人たちがいることはわかります。出勤もできればやめてほしいけれど、それじゃ仕事にならないだろうから祈りながら毎日見送っています。いつも本当におつかれさまです。

大切な話が今こそ出てしまうこともわかります会社が潰れれば多くの人が大変なことになります。それこそ、病に命を奪われてしまう前に、生活ができなくて命が危なくなることもあるでしょう。

それは避けなければいけない。本当にみんなにとって難しい局面なのだと思います。私には、想像することしかできません。その想像陳腐で、まったく理解が及んでいないとは思いますすみません

けれど、できれば、会議室マスクをして、落ち着いて話をしてほしいです。

「今はこんな時期だから、乗り越えてまた美味い酒を飲もう」

と言い合ってほしいです。会社外の人とも、会社内の人とも。

「妻なのだから自分でしっかり夫を説得しなさい」

わかります努力不足で、本当にすみません。これからも私は夫に気持ちを伝え、できる限り信頼性の高い情報を選び取り、それを見せつつ説得していきます。人様にお願いする立場にないことを少しは理解しているつもりです。本当にごめんなさい。

それでも、お願いです。

夫を飲み会に誘わないでください。誰も飲み会に連れて行かないでください。みんな、行かないで。

鬼嫁いるかダメだな」と言ってもいいです。鬼嫁です。夫の苦労や家族のための努力をそっちのけに、我儘を言っているところもとてもあります

ヒステリックかもしれません。それでもいい。飲み会をやめてください。お願いです、もう少し、もう少しだけ、「飲みの席でないと」という気持ちを堪えてください。

今はただ、必要以上の外出をしないでほしい。

移動すればするほど、リスク高まるのではないでしょうか。会社必要取引先と、家の移動だけにできないでしょうか。

それぞれに大切な人たちがいるはずです。大切な人を守るために、「移らないように」ではなく「移さないように」、できる限りの行動を皆でしていきたいです。

そうして落ち着いて、

「ああ、本当にたいへんだったね」

と笑ってみんなで言い合える日を、気持ちよく夫を外へ送り出せる日がくることを願っています

妻として本当に情けないです。説得を続けます。1日も早く夫が協力してくれるよう全力を尽くします。

似たような境遇の人が、家族いるかもしれません。

みんなで説得しましょう。おおげさだと笑われてもいいから、なんとか説得をしつづけましょう。諦めずに。

家族家族を説得し、協力し、引き止めていくことで少しでも抑えられると思います。私も頑張ります

2019-12-11

いじめ経験があるすべての人へ

思い出してみてください。いじめていたときのこと。いじめていた対象の顔。

思い出せましたか? そして、思い出して、今どんな気分ですか?

「そんなこともあったっけなあ」くらいじゃないでしょうか。

断言しますが、いじめられていた側はあなたがたの顔を、行為を一生忘れません。

いじめられたことを引きずって、人生に苦しみしか見いだせない人はもちろんのこと、

いじめをなんとか乗り越えて、今、一見順風満帆な人でも。

物理的に暴行傷害を加えると、仮にその傷が癒えるものだとしても主体刑法犯として処罰されるのに、

いじめによって一生消えない傷を負わせる行為処罰されないなんて、なんとも不公平です。

なので、いじめ経験があるすべての人で、この記事に偶然たどり着いた幸運な人にお伝えしておきます

おまえのこと、絶対忘れないから。

そして、絶対不幸にしてやるから

毎秒あいつにそう思われてる、と意識して

どうぞお気楽毎日をお過ごしください。

2019-10-29

ポスターのやつ、いろいろな記事を読みつつ、自分の考えを整理するために書き出していたら、結構な量になってしまった。論点が多くてあまりまとまっていないが、せっかくなのでここに置いておく。少しずつメモ帳に書いてたら気がついたらめちゃくちゃ長文になっていてビビったというか、途中で切らられちゃうので分割するはめになった・・・・。

ポジショニングを先に述べておくと、私は男で、オタク、宇崎ちゃんポスターはギリセーフかな?ぐらいの認識だ。

ポスター擁護派の反発の強さ

いきなりだが、ポスター擁護側の反応が過剰である、という意見がある。これは、ポスター擁護側の危機感の強さに由来するものと考えている。「彼らが最初共産主義者攻撃したとき」という有名な言葉があるが、ポスター擁護派にとって、オタク表現に対する段階的な譲歩は、最終的にはすべてのオタク表現が認めらない未来につながる、という危機意識があるのではないだろうか。この危機意識を補強する要素として、これまでの事例(NHKにおけるキズナアイ人工知能学会の表紙など)も存在する。一方で、ポスター批判派にとっては、あくまでも自分の信じる妥当な指摘をしているし、これまでの個別の事例は必ずしも自らによるものでないので、ここまで反発を受ける理由が分かりづらいのかもしれない。

ここで問題となるのが、ポスター批判派と擁護派の間に信頼関係が無いことであるポスター擁護派にとって、ポスター批判派とは、個々人の「常識」に基づいて、それぞれ微妙に異なる理由ポスター問題点を指摘する存在に見えている。特に共有されたガイドラインがない状況でこうなってしまうと、ポスター擁護派は最終的にどこまで譲歩すればいいのかわからない以上、一歩たりとも引くことができなくなってしまう。ポスター擁護派が「お気持ち案件」と言うのはこういう理由からであろう。両陣営の間に紳士協定存在しない以上、お互いに譲歩は難しい。

個々人の嗜好や常識が異なる以上、必要となるのは各陣営同意が得られたガイドラインになるであろう。現時点で即効性があるガイドラインは恐らく法律のみであり、法律に基づくのであれば、法的な「わいせつ物」でなければ問題ない、ということになる。もちろん、「TPOマナーをわきまえろ」という意見もあるだろうが、TPOマナーへの遵守はベストエフォートであり、必ずしも守る必要がない。法律のみを基準として考えた場合、件のポスターが「わいせつ物」とは言えない以上、それ以上の規制を求めることは「過剰な要求」と映ることもあるだろう。ポスター擁護派には、恐らく規制派の意見法律を超えた「過剰な要求」に映っている。

では、みんなが納得するようなガイドラインを、批判派と擁護派が一緒になって作ることは可能だろうか。残念だが、私の印象としては、そのようなことは難しいように感じられる。各人それぞれ譲れない線があるらしく、すり合わせは容易ではない。しかし、後述するが、私はそのようなガイドラインは「表現する側」が作れば良いと考えている。

ポスター取り下げの圧力はやりすぎなのではないか

安易ポスターの取り下げ要求は、表現への萎縮につながるという説もある。これは一理あると同時に、必要行為でもある。私自身は、自由はなるべく保証されているべきだと考えているので、ポスターへの批判Twitter上で放言することは、それがどのような理由に基づくとしても、認められるべきだと考えている。たとえそれが、個人的な心情に基づいたものだとしてもだ。また、赤十字に対して直接的に取り下げを求める行為についても、特に問題はないと考えている。なぜなら、圧力、あるいはロビイングは、自分の信じる世界を作るための戦術の一つであると考えているからだ。批判派も擁護派も、お互いにやればいい。

さて、赤十字にも、表現自由がある。赤十字公的団体私的団体かに関わらず、赤十字にはどのような表現を行うかを自発的に決める権利がある。もし、赤十字が、批判に対して「なるほどそういう考え方もあるのか」と考えてポスターを取り下げるのであれば、それは赤十字自由だ。一方で、批判を受けた上でポスターを取り下げないのも、赤十字自由だ。赤十字インターネット上でどちらの意見が多いかを見定めで、それに基づいて判断を下したとしても(統計的な正確性の問題を別として)、問題ないだろう。決めるのは赤十字である

前述のとおり、私は、批判派と擁護派が意見をすり合わせて統一ガイドラインに至ることは難しいと考えている。となれば、最終的には、どのような表現が認められるかどうかは、その表現の発信者が決めるしかない(この場合赤十字だ)。この前提に立つ場合、両陣営は、発信者を説得するために最善を尽くすのがミッションとなる。つまりロビイング合戦だ。実際のところ、自治体はもちろん出版業界放送業界などを始めとして、様々な企業業界には、表現者として独自ガイドラインがある。これらは過去ロビイングによって少しずつ構築されてきたものであり、それぞれの価値観をすり合わせた結果とも言える。そして、このような自主規制ルールを作る上では、表現自由関係が無い。

強引なロビイングの是非

ところで、何人たりともリソース限界というものがある。特に赤十字にとっては両陣営から意見を受け付けて適切に判断を下す、という非常にリソースを消費する作業が求められる。結果的に、赤十字は、問題が起こりにくい表現のみを使うようになる、つまり表現の萎縮が起こるという懸念が残る。しかし、究極的に言えば、私はこれは問題が無いと考えている。ポスターなどの表現は結局はコストパフォーマンス問題であり、クレーム対応へのコストと得られる利益(この場合血液量だろうか)のバランスを鑑みて、最終的には収束するであろう。コスト削減のために無難表現を選ぶ、というのも戦略の一つであるし、多少苦情が来るのを受け入れつつ、血液を大量に集められる方向に舵を切るのも赤十字判断だ。赤十字には自由がある。

しかし、ここで注意しなければいけないのは、必要リソース量には非対称性があるということだ。たとえば、赤十字に対して長時間苦情の電話をかけ続けるといった手法は、ロビイング方法としては好ましくないと、私は考えている。表現者のリソースを飽和させることによって、半ば強引に要求を飲ませる手法は、私の目には品が良く映らない。人によっては、この手法自体を、不当な手段による「表現抑制」と見なすこともあるであろう。意見の伝達は、なるべく相手リソースを消費しないように心がけたい。もちろん、あなたがどうしても相手に飲ませたい要求であれば、多少強引な手法を取ることは(法律禁止されていない範囲で)可能でもある。しかしその場合、まさにその行為自体非難対象となり、結果的に周囲から理解も得られない結果になることもあるだろう。私自身は、Twitter上で意見つぶやくぐらいが、相手にとって負担の少ない範囲だと考えている。

ロビイングが下手な方が負けるのはいいのか

ロビイング合戦となると、「声が大きいほうが勝つのかよ」という非難もあるかもしれない。そうなのだ、声が大きいほうが勝つのだ。こればっかりは民主主義必要コストなのか、いわゆる自由のための「不断努力」というものなのか、各人が自分の信じる事を唱え続け、みんなを説得するしか無い。しんどいが、そういうものみたいだ。もちろん、弊害もある。「米国NRAロビイングを続けているせいで、いつまで経っても銃乱射事件が無くならない」という人もいるだろう。しかし、ではNRA発言権強制的に奪うことができるかというと、そうはならない。あなたにできるのは、あなた意見で周りを説得して、支持者を増やすことだけだ。でも、しんどい。できれば相手に静かにしておいて欲しい。きっとお互いに「またかよ」と思うこともあるだろう。不毛に見えることもあるかもしれないが、自由とはそういうものなのだろう。

表現の萎縮と緩和の難しさ

さて、表現の萎縮を懸念する材料として、一度決まったルール安易に緩和されないという指摘も考慮する必要がある。

たとえば、知っている人にとっては「定番の話」であり、それ以外の人には「なんでそんなことに」と思われがちな自主規制として、「4本指のイラスト禁止」という決まりがある。これは、自主規制ルールとしてそれなりに広く運用されているはずのルールだ。このルール部落開放同盟から意見が由来らしいのだが、私自身(関東出身)は最初に聞いたときは「なんじゃそりゃ」と感じた。今現在も、「そろそろ無くしてもいいんじゃないの」と思っている。

一般に、規制というものは強くなる方向に圧力がかかる。形骸化したルールが、それを理由に削除されることは、傾向としては少ない。そのため、理由はどうであれ、細かいルールを積み重ねていくと、最終的には非常に厳しい規制が完成する。この傾向は、表現自由度を求める陣営にとっては脅威である。一度決まりができてしまうと、それを覆すのは難しい。もちろん、ロビイング社会の変化によって緩和が行われることもあるだろうが、できるならば規制が生まれる事自体を避けたい。この非対称性考慮した場合ポスター擁護派が過敏に反応することは、ある程度理解できる。譲歩の積み重ねが厳しい規制につながることを懸念するのであれば、今がまさに踏ん張りどころだと言える。

定義エリア問題公的機関責任

日本赤十字は半ば公的機関であるので、より安全ルール運用するべきではないのか、という指摘は、私自身は一理あると考えている。赤十字公的機関と見なすかどうかについてはここでは議論しないが、公的機関がなるべく安全表現を使う、というのは、すべての人へサービス提供する以上必要なことである。たとえば、政府セクハラを是とした表現を行うことは望ましくない。なぜならば、セクハラは良くない行為であるという、社会通念上の合意が得られているし、法律という形で明文化もされている。あるいは、政府が過度に性的表現を行うのもまた、望ましくないであろう。これは、公の場では性的ものを隠すという社会通念上の認識が共有されているからだ。

では、どのような表現が「望ましくない」ものとして社会で共有されているか、となると、全くもって難しい問題である。法的に認められていない行為は当然「望ましくない」し、差別助長するような表現も、おそらくは「望ましくない」。しかし、社会の大部分は実際のところ未定義エリアとなっており、個別案件ごとに勘案することになる。すでに広く指摘されている通り、たとえどのような表現でも人を傷つけることは往々にしてある。その前提に立つ場合、単純に「私(や私の周りの人々が)が傷ついたから」という理由だけで「望ましい」かどうかを定義することはできない。たとえば、単に子供掲載されているポスターがあるとして、どうしても子供を授かることができない夫婦が傷つくからといって、そのポスターを取り下げるべきだろうか。この例に対する答えはない。もし、そのような人が日本で大多数を占める状況であれば、きっと日本政府はそのポスターを取り下げるべきであろうし、あるいは、その傷つき方が非常に強いものであれば、少数のために取り下げることもありえるだろう。(なお、この例示自体が、そのような人を傷つけているだろうという指摘も当然ある)

今回のポスターは、擁護派にとっては、このような未定義エリア問題であり、どちらかといえば問題がないものとして想定されている。一方で、批判派は「望ましくない」ことが確定したもの、具体的には性差別問題として認識している。この前提が異なる以上、公的機関が今回のポスター掲示することの是非について議論するのは、あまり意味がないように考えられる。極端な話、件のポスターポルノであれば、赤十字掲示するのは不適切であろう。しかし、そもそもポルノかどうかという点が両陣営の間で確定していない状態では、それ以上の話はしようがないのである

ところで、公的機関にとっての表現コストパフォーマンスとは何だろうか。恐らくは、どれだけ全体を幸福を最大化できるか、という観点になるだろう。そして、なるべく多くの人が傷つかない、ある意味では無難表現を用いるという戦略は、単純にコストパフォーマンスに優れるであろう。そういう意味では、公的機関特別視するというよりも、彼らは単にコスパがいいか無難表現を好む、と考えるのが妥当なのかもしれない。

崇高な目的のためであれば、小さな犠牲は許されるべきか

献血を推進するためであれば、ポスターが引き起こす問題無視されても構わない、という考え方が観測される。これは是でもあり非でもあるだろう。

ここで重要となるのが、ポスターが引き起こす問題とは何なのか、である。仮に、その問題差別問題である判断される場合、たとえ献血目的であろうとも、その表現は認められないと考えられる。例えば、「白人は慈愛に満ちているので、どんどん献血に行こう」と書かれたポスターは、現在社会通念上認められないだろう。一方で、「差別とまではいかないけれど、傷つく人もいる」表現場合献血重要性を理由に、多少の問題無視されることもあるだろう。先程の例を再び使うのであれば、献血ポスター子供掲載することは、おそらく現在日本では問題となることはない。

さて、ここまで来るとまた同じ話になるのであるが、今回の文脈において、ポスター擁護派は今回の問題差別問題である認識していない。一方で、批判派は、これは性差別問題である認識している。そのため、両者の話は噛み合わなくなる。結局の所、この論点もあまり意味がない。件のポスターポルノであれば、それを公の場に掲示するのは、女性差別になるであろうから献血のためとはいえ認められないであろう。一方で、ポスターポルノでない場合献血のためであれば、多少のことは無視される可能性はある。

続くよ

https://anond.hatelabo.jp/20191029132732

2019-08-07

anond:20190807125137

いや、すべての人への慈愛に満ちているというわけでもない

慈愛を示さな対象が何かというところから推測すれば、おそらく日本人という属性を持つ人から抑圧された経験があると考えられる

ブクマカの民は人と接したことがないのかな

LGBTは異常」の‘“増田さんを見てすごい共感したんだよね。

僕も小中のころは結構韓国の人が多いエリアに住んでたこともあって、韓国ルーツの人に虐められてたわけよ。

そういう経験ちゃうと、いくらサンプル数が一桁だからと言って、韓国人に出くわすと虐げられるっていう打率スーパーハイアベレージなんだ。

そうなると、韓国人というアイコンに対して憎しみを抱かざるを得ないよね。

だって自分危害を加えられてるんだもの

韓国人と仲良くしようと言われたって、PTSDみたいなもので僕にはとても無理。

で、翻ってブクマカの民は、すべての人への慈愛に満ちた立派なコメントを各記事に残して承認欲求を得ているけど、みんな誰かに抑圧された経験って無いのかな?

普通に人と接してたらどうしたってそういう経験をしていて、それが元で特定属性への嫌悪を抱かざるを得ないと思うんだけど。

やっぱり象牙の塔の住人なのか、AIの戯れなのかなブクマカの民は。

2018-06-19

乗り物に乗るすべての人へ

自転車から自動車まで車と名前のつく乗り物を運転する人は、

自分行為で人が怪我だけでなく、死亡する可能性があると認識してほしい。

スマホ見て音楽聞きながらの自転車

やたらと騒音撒き散らしてスピードを上げるバイク

右折左折中にスマホに夢中になる自動車

あなたたちの不注意で怪我をしてしまう人がいます

俺は大丈夫、私は大丈夫という人、その慢心が自分どん底に落とします。

乗り物を運転するのなら、その乗り物は人の命を奪う可能性もあると認識し、節度ある運転を心がけてほしい。

私は車の事故に遭遇して寝たきりになりました。

リハビリをして、今は回復しましたがそれでも半身にしびれが残っていて、時々動かしづらくなります

細かな作業をすると手が震えてうまく行きません。

事故の原因は余所見運転による不注意でした。

事故を起こした方は、最初のうちは反省していませんでしたが10:0という結果で罰則が入った後、後悔をしていました。

これが不注意で事故を起こした挙げ句の自らで自らを陥れた結果です。

近所の方は、スマホを見ながら音楽を聞いていて後ろから衝突され、今は杖をついています

スマホを見ながら音楽を聞いていたのは社会人でした。いい歳しているのに、この有様です。

はいえ、老若男女関係ありませんが、それでも社会人になってもこのような不始末を起こすというのは

やはり子供と比べれば、当然強い批判を受けます

それはともかくとして、乗り物を運転する人は気をつけてください。

相手を傷つけるだけでなく、自分立ち位置すら危うくなります

普段から注意しておけば、他人を守るだけでなく自分も守れてしまうのでお得です。

もちろん事故を受けてしまった側も普段から気をつけるようにしないといけません。

お互いで注意していって事故を少なくできる世の中になればいいですね。

2018-04-26

差別と戦うすべての人へ

ここでは差別区別を論じ、そして問いたい。

まずは、差別区別の違いは合理性の有無、もしくは合理性包含量にあるという仮の出発点から話を始めたい。

アメリカ黒人公然差別されていた頃、差別をしていた白人はそれを差別だと思っていたのだろうか。

否、全く合理的区別だと思っていたのである

あるいは江戸時代、えた・ひにんへの迫害や、癩病患者への扱いは、支配層にとってば全く合理的区別だと捉えられていたのである

現代では上記の例のいずれも、謂れなき差別と捉えられている。

ここで鑑みるべきは、人の合理性認識時代場所によって劇的に変化しうるということであり、先述の例はその証左に他ならない。

さて、問おう。

あなたは全くどんな人をも「区別」しないのか?

区別はするとしたら、それはなぜ「実は差別」ではないと言い切れるのだろうか?

あるいは、自分合理性を感じられるもの区別で、そうでないもの差別なのだろうか?

それならば、あなたのその主観正当性はどのように担保されるのだろうか?

それとも差別区別の違いは合理性ではないのだろうか?

それならば、その2つの違いはどんなもので、その違いによってなぜ差別は批難され区別は許容されるのだろうか?

もしかして差別区別には違いはないのだろうか?

もしそうなら、そしてあなたが何らかの人的区別をしているのなら、それはどのように正当化されているのだろうか?

からない。私にはまったく分からない。

山月記に出てくる李徴氏のように、理由も分からないまま、ただ「差別ダメ。でも区別はあり」という世界に生きている。

諸兄の忌憚なき意見を聞きたい。

2015-03-15

すべての人へ配慮があることをすべての作品に求めるよりもゾーニングで見たくない人には見えないようにするほうがいいとおもう

そういう誰にでも安心して見せられる作品を作ることは素晴らしいことだし、問題提起必要だとはおもうけれども

2010-09-20

http://anond.hatelabo.jp/20100920132305

本気で言ってる?

その島国根性日本人の悪いところ。

汝の隣人を愛せよと言うように、すべての人への博愛精神が必要だし、人権国籍で変わりはしない。

人権格差をつける思考でぞっとする。あなたのような人が南京大虐殺を平気で起こすんでしょうね。

2009-04-19

http://anond.hatelabo.jp/20090419004239

君の発想は、生存競争という形で闘争を前提にしているわけだが。

それはひとつの思想なんであって、当然視されるべき自然感覚ではないよ。

たとえばキリスト教は汝の隣人を愛せと説くのだが、この隣人愛は同じ家族民族の人、という意味ではなく、広く自分と接するすべての人への愛を持てということだ。

あらかじめ個人間家族間、民族間の対立を当然視して、その競争のために団結を説くのとは根本的に違う。

別にキリスト教が正しいといってるわけじゃないけど、考え方はいろいろあるからね。君が身体化しているものをあまり一般的にそうだと思わないほうがいい。

 
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