はてなキーワード: すい臓がんとは
東は2018年12月18日にツイッターでゲンロン解散を発表するが、上田洋子らに説得されて、解散は思いとどまる。東は21日付で代表辞任し、上田が代表に就任する。「ゲンロンに搾取されているという不満」(「ゲンロン戦記」、212頁)を抱いたそうである。ゲンロンの代表として会社のために苦労しているにもかかわらず、社員は楽しくやっているように見えるのが不満だったそうだ。理解しにくいところであるが、こういう理由から自分と同じくらいの貢献を社員に求めることになるようである。「ゲンロン戦記」のこの個所は異彩を放っていて、他は笑えるエピソードなのであろうが、ここは笑えないところであろう。代表辞任という重大な局面なので書かざるを得なかったのだろうか。
上田洋子の人生がゲンロンで好転したことは疑いない。博士号取得後燻ぶっていたが、チェルノブイリツアーの通訳を引き受けたところ、東に気に入られ、ゲンロンの副代表に就任し、それだけでも出世であろうが、東の代表辞任に伴い、代表の座に就くに至った。代表は女性ということでフェミの批判をかわせる部分もあるようである。2023年度日本ロシア文学会大賞を受賞している。東を諫めるべき立場ではあるが、そういうものとしては機能せず、東の発言をひたすら支持している。
2020年に新型コロナウイルス(COVID-19)が世界に蔓延する。東は断固としてコロナはただの風邪という立場に立った(小林よしのり×三浦瑠麗×東浩紀「コロナはしょぼいウイルス。世界中で騒いでるのが一番の問題。」【ゲンロン200328】)。田中康夫が切り抜き動画を作っていたのであるが、消されてしまっているようである。アガンベンも生権力批判の観点からコロナ対応に批判的であったが、コロナは致死率こそそれほど高くないものの、後遺症がひどいので「しょぼいウイルス」とは言えないであろう。
2020年7月に黒瀬陽平のセクハラが発覚する。東は黒瀬との関係を断つが、これはこの時世であるから仕方ないところであろう。黒瀬は「思想地図vol.1」(2008年)でデビューしており、ゲンロンではカオス*ラウンジ新芸術校などもやっていた。
2020年10月19日にシラスがオープンする。ユーチューブとどう違うのかとも思われるが、その理念は「ゲンロン戦記」第6章第2節で語られている。
2021年はキャンセルカルチャーが吹き荒れた年であったが、東京オリンピックでの小山田圭吾の炎上が最も目立つ事例であろう。音楽家の不祥事が新聞の一面トップを飾ったのは小室哲哉の逮捕以来ではないだろうか。この件で宮台真司は小山田に対して批判的であったが、これに東は反発して、関係を断つ。九〇年代に宮台も露悪系でやっていたのだから、小山田の側に立つべきだったというのであるが(「東浩紀無料突発 またどうせ消す」)、これはまっとうな批判であろう。一晩で数百万もの売り上げのあるイベントの相手をこのくらいの理由で切れるのだから、東の行動原理は損得にはないということは認めていいのであろう。
2021年4月4日、オープンレター「女性差別的な文化を脱するために 研究・教育・言論・メディアにかかわるすべての人へ」が公開されたが、これはキャンセルカルチャーの烽火といっていいものであろう。日文研助教(当時)呉座勇一が武蔵大学准教授(当時)北村紗衣を鍵垢で揶揄していたことを非難するものである。東北学院大学准教授の小宮友根が書いたらしい。呉座は日文研から准教授への内定を取り消される。同じ年に、立憲民主党の衆議院議員・本多平直が辞任に追い込まれたりもしており、リベラルが連携して動いていることは明らかであろう。キャンセルカルチャーの年表としては、「桐野夏生『日没』と2020年代の「大衆的検閲」」がある。
2021年9月29日、呉座は日文研を提訴したが、これに加えて、2022年2月27日、オープンレターの差出人に対して、オープンレターの削除と損害賠償を求める書面を送付し、同年2月25日、オープンレターの差出人らが呉座に債務不存在確認訴訟を提訴している。2021年12月に、草津町町長が女性町議から強制わいせつ容疑で告訴されたのに対して、名誉棄損と虚偽告訴の容疑で女性町議を逆に告訴したりもしていたが、キャンセルカルチャーに対して反撃が始まったという印象である。ツイッターでアンフェが気焔を上げていたのであるが、オープンレターは、署名していない人が署名したことになっていたり、差出人に加わることに合意していないのに差出人にされていたり、差出人が五十音順で並べられていなかったりして、杜撰なところが多く、そこを突かれていた。いわゆる法クラの弁護士が加勢したのも大きいのであろう。キャンセルカルチャーの本邦第一号としてモデルケースにするはずだったものと思われるが、躓いてしまった。
この呉座が、シラスにチャンネルを開設すると発表される。キャンセルカルチャーの犠牲者に助け舟を出したかたちであるが、ここからが問題であった。2022年6月、呉座が春木晶子を姫と言ったところ、辻田が咎めたが、呉座は姫の初出は東であると反論する。後日、春木は呉座に指摘を感謝し、東にこそ問題があると批判する(5ちゃんねる、東浩紀671の12)。このような経緯で呉座のチャンネルは、契約は未了であったものの、開設されないことになってしまった。また春木のチャンネルも契約更新を拒まれる。こちらはアップルパイを番組で焼いていたことも問題視された。このことからアップルパイ事件とか五反田ベース事件などと呼ばれることもある。呉座と春木はユーチューブに「春木で呉座います。」というチャンネルを開設した。
悪いことは続くものであるが、今や東のトレードマークともなった「とんこれ」発言が飛び出す。衆議院選投票日を二日後に控える2022年7月8日、元総理大臣の安倍晋三が統一教会に家庭を破壊された過去を持つ山上徹也によって射殺される。7月10日、ニコニコ生放送で「【参院選2022】開票特番|三浦瑠麗、東浩紀、石戸諭、夏野剛と見守ろう」が放送されるが、中継で社民党の福島瑞穂が「それで現在はまだ詳細がわかっておりませんが、統一教会との関係などとも言われております。ですから詳細が明らかになると同時に、もし自民党を統一教会が応援していることが問題とされたのであれば、まさに自民党が統一教会によって大きく影響を受けているということも日本の政治の中で問題になりうると思ってるんですね」などと発言した。中継終了後、東は「あの、これさ……自民党は統一教会と関係しているからこのようなテロを招いたということを言った?もしかしたら」と述べ、一連のやり取りの中で「これとんでもない話だなぁこれ」との印象深いフレーズが口にされる。福島に安倍への銃撃を容認する意図はないと思われるが、そのように曲解したのであろう。しかし、この発言がネタになったのは、味わい深いものがあったからであろう。「五反田式人文パフォーマンスは①唐突で②滑稽で③絶妙にピントが外れていないといけない。極めるのは大変ですよ」(5ちゃんねる、東浩紀スレ817の622)。狙ってやれるものではないように思われる。
2022年10月頃、暇空茜が一般社団法人Colaboの杜撰な会計を追求しはじめる。これは2021年後半から始まったキャンセルカルチャーへの反撃のうちで最大のものであった。暇空の活動は、表現を燃やすものを燃やすことでキャンセルカルチャーを終わらせることを目的にしているが、そのために情報公開請求や住民監査請求などの合法的手段を用いている(一部デマもあるようだが)。青識亜論のような従来の「表現の自由戦士」は原理を唱えるだけであったが、行動に移したかたちである。東は暇空についてほとんど言及していないが、暇空を支持している宇佐美展也と「都知事選は本当にこれでよかったのか!?」(2024年7月7日)で共演している。
「とんこれ」発言で東の評判はずいぶん落ちたため、それからは安全運転を心がけているようである。しかし、安倍が死んだこともあり、検察が息を吹き返した。東京五輪の汚職で株式会社KADOKAWA会長の角川歴彦は逮捕・起訴され、「とんこれ」発言に同席していた夏野剛が棚ぼたで取締役・代表執行役社長兼CEOに就任した。同じく「とんこれ」発言に同席していた三浦瑠璃にはそういうラッキーはなかった。夫(当時)の三浦清志は、建設の見込みがないのに太陽光発電の出資を受けたとして、詐欺容疑で告発されていたが、2023年3月7日、業務上横領罪で逮捕されたのである(同月27日に起訴)。三浦瑠璃はしばらく活動を休止していたが、2024年4月26日、夫との離婚を発表し、活動を再開した。
辻田真佐憲は、「訂正可能性の哲学」の副読本「訂正する力」(2023年10月)の聞き手・構成を担当するなど、東の最側近になっていたが、2024年5月31日の「東浩紀突発#136 ただなんとなく雑談」で批判される。「みんな格好つけたいんだろ?俺、自分が格好つけるとか考えない。ゲンロンとシラスのためにめっちゃやってるから!俺シラスを盛り上げようと思ったんだよ。シラサーと一緒に。やってくんないよ!みんな自分のチャンネルのことばっか考えてるじゃん!」などの発言があったそうである(5ちゃんねる、東浩紀スレ酒849の290)。「石戸諭×桂大介×東浩紀 ネットで(ついに)社会が変わるのか?」(同年7月18日)でも辻田は批判される。辻田が論壇フェスというイベントに出るのが気に食わないようである。辻田は「【雑談配信】東京都知事選後日談、中間の重要性、論壇フェスほか」(同年7月19日)で反論した。しかし、辻田は売り上げトップであるだけに東も軟化し、辻田がシラスを止めることは今のところないようである。
現在に追いついた。これまでのあらすじをまとめると、東は郵便本で確立した視座でずっとやってきたといえるのであろうが、ゼロ年代はネット草創期のコミュニケーションの変容をアーキテクチャ論から考えていて、この頃がいちばんよかった。個々人は社会から下りていても、社会は回っていくというような夢が語られた。このような夢まで否定されるいわれはないだろう。テン年代になると、SNSによってネットが政治的なもので満たされるようになり、東はそこから距離を置こうとしてゲンロンに立てこもるようになった。ゼロ年代はネットの勢いに乗っており、その可能性を引き出すべく理論化に励んでいたが、テン年代はネットの動向に批判的になり、アーキテクチャ論も捨ててしまい、時代を作るような存在ではなくなっていった。
時代を作っているのは、左派ウォーキズムであろう。東に近かった人でも、津田や藤田はこちらに付いていったのであるが、ゼロ年代の東は、環境を変化させることで行動を変える環境管理型権力がこれからの権力であり、内面に介入する規律訓練型権力は過去のものになりつつあるとしていた。しかし、左派ウォーキズムは明らかに内心に介入しており、先祖返りしている印象である。外山恒一はキャンセルカルチャーについて「云ってることは新左翼だが、やってることがイジメ」(情況 2022年春号)と言っているが、これにならえば、左派ウォーキズムは、云ってることはフーコーだが、やってることがキリスト教といったところであろうか。しかし、左派ウォーキズムは収まりそうになく、これに対する抗議運動も続くであろう。
展望も記しておくべきなのであろうか。宮台真司は東に健康診断を受けるように勧めていたが、宮台はステージ0のすい臓がんを発見しており、しっかりと健康診断を受けているのだろう。東はアル中ではないということらしいが、酒の飲みすぎであることは疑いない。しかし、健康さえ保てれば、今の地位は揺らぎそうもない。思想的な伸びしろは乏しいのかもしれないが、依然としてアイデアマンではあり、あと十数年は売れる本を出せるであろうし、ゲンロンも続けようと思えば続くであろう。
これでこの伝記は終わりであるが、記憶に頼って書いたところも少なくなく、誤りもあるかもしれない。東の埋蔵量は油田のようであり、書き終えられるか不安になったこともあるが、何とか書き終えることができた。これを読んだ人にネット草創期の興奮が少しでも伝われば幸いである。
非モテ論壇は、小谷野敦の「もてない男」 (1999年)に始まり、本田透に引き継がれるが、ものすごく盛り上がっているというほどでもなかった。本田は消息が分からなくなり、小谷野も2017年頃から売れなくなった。ツイッターでは雁琳のような第三波フェミニズムに応対できる論者が主流となっているが、そういうのの影に隠れたかたちであろう。大場博幸「非モテ独身男性をめぐる言説史とその社会的包摂」(2021年、教育學雑誌 (57) 31-43)というレビュー論文がある。ロスジェネ論壇も盛り上がった印象はない。氷河期世代はそれどころではなかったのだろうか。雑誌「ロスジェネ」は迷走してしまい、第3号は「エロスジェネ」で、第4号で終刊した。
東のゼロ年代はゼロアカ道場で幕を閉じる。東チルドレンを競わせるという企画であり、ゼロアカとは「アカデミズムがゼロになる」という意味らしい(「現代日本の批評2001-2016」、講談社、101頁)。彼らは東浩紀しか参照していないので、アカデミズムとしてはゼロなのかもしれない。ここで台頭したのが藤田直哉であり、ザクティ革命と称して、飲み会動画を無編集でアップした。ゲンロンのプロトタイプかもしれない。藤田はwokeしたが、東チルドレンでそちらに行ったのは彼くらいではないか。
3 ゲンロン
ニコニコ動画に「動ポノムコウ」(2020)というMADがあるが、ゼロ年代の東は輝いていたものの、震災後は落ちぶれてしまったという史観で編集されていた。落ちぶれたかどうかはともかく、震災前後に断絶があることは疑いない。東は移動を躊躇わないところがあり、90年代末に批評空間を離れたように、震災後に自らが立ち上げた動ポモ論壇からも離れてしまう。
ゲンロンの前身である合同会社コンテクチュアズは2010年4月6日に創業された。2009年の秋の飲み会でアイデアが出たそうである。宇野常寛、濱野智史、浅子佳英(建築家)、李明喜(空間デザイナー)との飲み会であった。「ゲンロン戦記」(2020年)では李はXとされているが、ウィキペディアには実名で出てきている。李はコンテクチュアズの代表に就任したものの、使い込みを起こして、2011年1月末日付で解任されている。代わって東が代表に就任し、李から使い込んだ金を回収した。ちょうど震災前のことで、震災後だと回収は難しかったかもしれないらしい(「ゲンロン戦記」、42頁)。この頃には、宇野や濱野は去っており、浅子が右腕だったが、その浅子も2012年には退任する。
「一般意志2.0」は震災前に雑誌「本」に連載されていた。2009年12月号から2011年4月号まで連載されていて、4月号は3月頭に出るものなので、ちょうど震災が起こる直前に終わったことになる。「ゲンロン戦記」には「その原稿は2010年代に書かれたのですが、出版は震災後の2011年11月になりました」(22頁)とあるが、ゼロ年代に連載が始まっているし、出版されたのも2010年代なので、おかしな文である。「震災前に書かれた」と直すべきところであろう。「一般意志2.0」はゼロ年代のパラダイムに属している。デジタル民主主義の本であるが、ちょっとひねって、ニコニコ動画のようなもので民意をくみ上げようというものである。ゲンロンもニコニコ動画でやられているので、その所信表明でもあるのであろう。ゼロ年代とゲンロンをつなぐ蝶番的な書物ではあった。
「サイバースペース」「情報自由論」は一冊の本として刊行されることはなかったのであるが、「一般意志2.0」は刊行された。すっきりとした構想だったからだろうか。東はネット草創期のアングラさのようなものを後光にして輝いていたのであるが、この本を最後に、アーキテクチャを本格的に論じることを止める。ニコニコ動画は2ちゃんねるの動画版のようなところがあったが、ツイッターをはじめとするSNSにネットの中心が移り、ネットはもはや2ちゃん的ではなくなり、東の想定していたアーキテクチャではなくなってきたのかもしれない。東はツイッターも使いこなしているが、かつてほどの存在感はない。
「一般意志2.0」の次の主著は「観光客の哲学」(2017年)であるが、サブカルチャーを批評することで「ひとり勝ち」した東が観光客を論じるのは意外性がある。娘が生まれてから、アニメやゲームに関心を失い、その代わり観光が好きになったとのことで、東の関心の移動を反映しているようである。「観光客の哲学 増補版」第2章によると、観光客は二次創作するオタクに似ている。二次創作するオタクは原作の好きなところだけつまみ食いするように、観光客も住民の暮らしなどお構いなしに無責任に観光地をつまみ食いしていく。このように観光客は現実を二次創作しているそうである。
「福島第一原発観光地化計画(思想地図β vol.4-2)」(2013年)は、一万部も売れなかったそうである。ふざけていると思われたのだろうか。観光に関心を持っていたところに、福島第一原発で事故があり、ダークツーリズムの対象にできないかと閃いたのであろう。もともと観光に関心がなければ、なかなか出てこないアイデアではないかと思われる。東によると、ダークツーリズムは二次創作への抵抗である(「観光客の哲学 増補版」第2章)。それなりの歴史のある土地であっても、しょせんは無名なので、原発事故のような惨事が起こると、そのイメージだけで覆い尽くされることになる(二次創作)。しかし、そういう土地に観光に出かけると、普通の場所であることが分かり、にもかかわらず起こった突然の惨事について思いをはせる機会にもなるそうである(二次創作への抵抗)。
社会学者の開沼博は福島第一原発観光地化計画に参加して、前掲書に寄稿しているのにもかかわらず、これに抗議した。東と開沼は毎日新聞のウェブ版で往復書簡を交わしているが、開沼の主張は「福島イコール原発事故のイメージを強化する試みはやめろ」というものであった(「観光客の哲学 増補版」第2章)。原発事故を語りにくくすることで忘却を促すというのが政府の戦略のようであるが、これは成功した。開沼は2021年に東京大学大学院情報学環准教授に就任している。原発事故への応答としては、佐藤嘉幸・田口卓臣「脱原発の哲学」(2016年)もあるが、こちらはほとんど読まれなかった。ジュディス・バトラーは佐藤の博論(「権力と抵抗」)の審査委員の一人であり、佐藤はバトラーに近い(竹村和子亡き後、バトラーの著作の邦訳を担っている)。「脱原発の哲学」にもそれっぽい論法が出てくるのが、こちらは功を奏しなかった。資本主義と真っ向から対立するような場面では効かないのだろう。ちなみに佐藤の博論には東も登場しており、バトラーも東の名前は知っているものと思われる。
「観光客の哲学」はネグリ・ハート「帝国」を下敷きにしているが、そこでのマルチチュードは、共通性がなくても集まればいいという発想で集められているものであり、否定神学的であるとして、郵便的マルチチュードとしての観光客を対置する。東は原発事故後の市民運動に対して否定的であり、SEALDsなどを毛嫌いしていた。第二次安倍政権は次々と「戦後レジーム」を否定する法案を提出しており、それに対抗する市民運動は盛り上がっていたが、負け続けていた。しかし、Me too運動が始まってからというもの、リベラルはマイノリティ運動に乗り換え、勝ち続けるようになる。「観光客の哲学」は市民運動が負け続ける状況に応答しているが、「訂正可能性の哲学」(2023年)はマイノリティ運動が勝ち続ける状況に応答している。小熊英二やこたつぬこ(木下ちがや)はSEALDsの同伴者であったが、マイノリティ運動に与した共産党には批判的である。小熊の「1968」(2009年)は絓秀実「革命的なあまりに革命的な」(2003年)のマイノリティ運動に対する評価をひっくり返したものなので、こういう対応は分からなくはない。東も「革あ革」を評価していない。「絓さんの本は、ぼくにはよくわからなかった。六八年の革命は失敗ではなく成功だというのだけれど、その理由が明確に示されないまま細かい話が続いていく。どうして六八年革命が成功していることになるのか」(「現代日本の批評2001-2016」、講談社、71頁)。論旨そのものは分かりやすい本なので、かなりの無理解であろう。
東はアベノミクスには何も言っていない。政治には入れ込んでいるが、経済は分からないので口を出さないという姿勢である。経済について分かっていないのに口を出そうとしてリフレ派に行ってしまった人は多い。宮﨑哲弥が典型であろうが、北田もそうである。ブレイディみかこ・松尾匡と「そろそろ左派は<経済>を語ろう――レフト3.0の政治経済学」(2018年)という対談本を出している。リベラルが負け続けているのは、文化左翼路線だけでは大衆に支持されることはなく、経済についても考える必要があるという主張であるが、リベラルがマイノリティ運動で勝ちだしてからはこういうことは言わなくなった。北田は2023年から刊行されている「岩波講座 社会学」の編集委員の代表を務めている。
「観光客の哲学」の次の主著は「訂正可能性の哲学」である。こちらも郵便本の続編といっていいのであろうが、そこに出てきた訂正可能性(コレクタビリティ)という概念がフィーチャーされている。政治的な正しさ(ポリティカル・コレクトネス)を奉じている者がそうしているように、理想を固定したものとして考えるのではなく、誤りをコレクトするという姿勢が大事であるということらしい。駄洒落のようであると言われることもある。森脇によると、東は状況に合わせてありきたりの概念の意味を変えるという「再発明」の戦略を採っているが、この「再発明」の戦略を言い換えたものが訂正可能性なのだという(森脇「東浩紀の批評的アクティヴィズムについて」)。そうだとすると、訂正可能性は郵便本では脇役であったが、これが四半世紀後に主役になることには必然性があったということであろうか。
こうして現在(2024年7月)まで辿りついたのであるが、東は多くの人と関係を断ってきたため、周りに人がいなくなっている。東も自身の気質を自覚している。「ぼくはいつも自分で始めた仕事を自分で壊してしまう。親しい友人も自罰的に切ってしまう。「自己解体と境界侵犯の欲望」が制御できなくなってしまう。だからぼくには五年以上付き合っている友人がいない。本当にいないのだ」(東浩紀・桜坂洋「キャラクターズ」、2008年、73頁)。一人称小説の語り手の言葉であるものの、現実の東と遠からぬものと見ていいであろう。ここからは東の決裂を振り返る。
宇野常寛は東を批判して「ゼロ年代の想像力」(2008年)でデビューしたのであるが、東に接近してきた。ゲンロンは宇野のような東に近い若手論客が結集する場として企画されたそうである。東によると、宇野を切ったのは、映画「AZM48」の権利を宇野が要求してきたかららしい。「東浩紀氏の告白・・・AZM48をめぐるトラブルの裏側」というtogetterに東のツイートが集められている。2011年3月10日から11日を跨ぐ時間帯に投稿されたものであり、まさに震災直前である。「AZM48」は「コンテクチュアズ友の会」の会報「しそちず!」に宇野が連載した小説である(映画の原作なのだろう)が、宇野のウィキペディアには書かれていない(2024年7月27日閲覧)。円堂都司昭は「ゼロ年代の論点」(2011年)の終章で「AZM48」を論じようと企画していたが、止めておいたそうである。「ゼロ年代の批評をふり返った本の終章なのだから、2010年代を多少なりとも展望してみましょうというパートなわけだ。批評家たちのホモパロディを熱く語ってどうする。そこに未来はあるのか?」(「『ゼロ年代の論点』に書かなかった幻の「AZM48」論」)。
濱野智史は「アーキテクチャの生態系」(2008年)でデビューしているが、アーキテクチャ論こそ「「ゼロ年代批評」の可能性の中心」(森脇、前掲論文)であった。東の右腕的存在だったこともあり、「ised:情報社会の倫理と設計」を東と共編している。濱野は東と決裂したというより、壊れてしまった。その頃、AKB48などのアイドルが流行りつつあり、宇野は、東をレイプファンタジーなどと批判していたのにもかかわらず、アイドル評論を始めたのであるが、濱野もそちらに付いていってしまった。「前田敦子はキリストを超えた 宗教としてのAKB48」(2012年)を刊行する。これだけならよかったものの、アーキテクチャ論を実践すべく、2014年、アイドルグループPlatonics Idol Platform (PIP)をプロデュースするも大失敗してしまい、精神を病んでしまった。行方が分からなくなっていたが、「『豪の部屋』濱野智史(社会学者)が経験したアイドルプロデュースの真相」(2022年)に出演して、東に「ぐうパワハラされた」ことを明かした。
千葉雅也の博論本「動きすぎてはいけない」(2013年)には、浅田彰と東浩紀が帯を書いていて、「構造と力」や「存在論的、郵便的」を承継する構えを見せていた。郵便本をきちんと咀嚼した希な例ということらしい。東がイベントで千葉はゲイであることをアウティングしたのであるが、その場では千葉は黙っていたものの、「怒っている。」などとツイートする(2019年3月7日、「男性性に疲れた東浩紀と何をいまさらと怒る千葉雅也」)。これに反応して、東は「千葉との本は出さないことにした。仕事も二度としない。彼は僕の人生を全否定した」などと生放送で二時間ほど怒涛の千葉批判を行った。こうして縁が切れたわけであるが、千葉くらいは残しておいても良かったのではないかと思われる。國分は数年に一度ゲンロンに登壇するようであるが、このくらいの関係でないと続かないということだろうか。
大澤聡も切ったらしいのであるが、「東浩紀突発#110 大澤聡さんが5年ぶりにキタ!」(2023年10月16日)で再会している。どうして切ったのかはもはやよく分からないが、それほどの遺恨はなかったのだろう。
福嶋亮大は向こうから去って行ったらしい。鼎談「現代日本の批評」の第1回、第2回に参加しながら、第3回に参加することを拒んだらしい。東も理由はよく分からないようである。珍しいケースといえよう。
津田大介とは「あずまんのつだっち大好き・2018年猛暑の巻」(2018年8月17日)というイベントが開催されるほど仲が良かった。津田は2017年7月17日にアイチトリエンナーレ2019の芸術監督に就任し、東は2017年10月、企画アドバイザーに就任する。しかし、企画展「表現の不自由展・その後」に政治的圧力が加えられ、2019年8月14日、東は企画アドバイザーを辞任する。この辞任はリベラルからも顰蹙を買い、東はますますリベラル嫌いになっていく。批評家は大衆に寄り添わざるを得ないので、こういう判断もあり得るのだろうか。
東浩紀の伝記を書く。ゼロ年代に二十代を過ごした私たちにとって、東浩紀は特別の存在であった。これは今の若い人には分からないであろう。経験していないとネット草創期の興奮はおそらく分からないからである。たしかにその頃は就職状況が悪かったのであるが、それはまた別に、インターネットは楽しかったのであり、インターネットが全てを変えていくだろうという夢があった。ゼロ年代を代表する人物を3人挙げるとすれば、東浩紀、堀江貴文(ホリエモン)、西村博之(ひろゆき)ということになりそうであるが、彼らはネット草創期に大暴れした面々である。今の若い人たちはデジタルネイティブであり、それこそ赤ちゃんの頃からスマホを触っているそうであるが、我々の小さい頃にはスマホはおろか携帯電話すらなかったのである。ファミコンはあったが。今の若い人たちにはネットがない状況など想像もできないだろう。
私は東浩紀の主著は読んでいるものの、書いたものを網羅的に読んでいるというほどではなく、酔っ払い配信もほとんど見ていない。しかし、2ちゃんねる(5ちゃんねる)の東浩紀スレの古参ではあり、ゴシップ的なことはよく知っているつもりである。そういう立場から彼の伝記を書いていきたいと思う。
東浩紀は71年5月9日生まれである。「動ポモ」でも援用されている見田宗介の時代区分だと、虚構の時代のちょうど入り口で生を享けたことになる。國分功一郎は74年、千葉雅也は78年生まれである。國分とはたった3歳しか離れていないが、東が早々にデビューしたために、彼らとはもっと年が離れていると錯覚してしまう。
東は中流家庭に生まれたらしい。三鷹市から横浜市に引っ越した。東には妹がおり、医療従事者らしい(医者ではない)。父親は金沢の出身で、金沢二水高校を出ているそうである(【政治番組】東浩紀×津田大介×夏野剛×三浦瑠麗が「内閣改造」について大盛り上がり!「今の左翼は新左翼。左翼よりバカ!」【真実と幻想と】)。
東は日能研でさっそく頭角を現す。模試で全国一桁にいきなり入った(らしい)。特別栄冠を得た(らしい)。これに比べたら、大学予備校の模試でどうとかいうのは、どうでもいいことであろう。
筑駒(筑波大学附属駒場中学校)に進学する。筑駒在学中の特筆すべきエピソードとしては、おニャン子クラブの高井麻巳子の福井県の実家を訪問したことであろうか。秋元康が結婚したのは高井であり、東の目の高さが分かるであろう。また、東は中学生時代にうる星やつらのファンクラブを立ち上げたが、舐められるのがイヤで年を誤魔化していたところ、それを言い出せずに逃げ出したらしい(5ちゃんねる、東浩紀スレ722の555)。
もう一つエピソードがあって、昭和天皇が死んだときに、記帳に訪れたらしい。
東は東大文一に入学する。文三ではないことに注意されたい。そこで柄谷行人の講演を聞きに行って何か質問をしたところ、後で会おうと言われ、「批評空間」に弱冠21歳でデビューする。「ソルジェニーツィン試論」(1993年4月)である。ソルジェニーツィンなどよく読んでいたなと思うが、新潮文庫のノーベル賞作家を潰していくという読書計画だったらしい。また、残虐記のようなのがけっこう好きで、よく読んでいたというのもある。三里塚闘争についても関心があったようだ。「ハンスが殺されたことが悲劇なのではない。むしろハンスでも誰でもよかったこと、つまりハンスが殺されなかったかも知れないことこそが悲劇なのだ」(「存在論的、郵便的」)という問題意識で書かれている。ルーマン用語でいえば、偶発性(別様であり得ること)の問題であろうか。
東は、教養課程では、佐藤誠三郎のゼミに所属していた。佐藤は村上泰亮、公文俊平とともに「文明としてのイエ社会」(1979年)を出している。共著者のうち公文俊平だけは現在(2024年7月)も存命であるが、ゼロ年代に東は公文とグロコムで同僚となる。「文明としてのイエ社会」は「思想地図」第1号で言及されており、浩瀚な本なので本当に読んだのだろうかと思ったものであるが、佐藤のゼミに所属していたことから、学部時代に読んだのだろう。
東は94年3月に東京大学教養学部教養学科科学史・科学哲学分科を卒業し、同4月に東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻に進学する。修士論文はバフチンで書いたらしい。博士論文ではデリダを扱っている。批評空間に94年から97年にかけて連載したものをまとめたものである。私たちの世代は三読くらいしたものである。博論本「存在論的、郵便的」は98年に出た。浅田彰が「東浩紀との出会いは新鮮な驚きだった。(・・・)その驚きとともに私は『構造と力』がとうとう完全に過去のものとなったことを認めたのである」という帯文を書いていた。
郵便本の内容はウィキペディアの要約が分かりやすく、ツイッターで清水高志が褒めていた。「25年後の東浩紀」(2024年)という本が出て、この本の第3部に、森脇透青と小川歩人による90ページにわたる要約が付いている。森脇は東の後継者と一部で目されている。
東の若いころの友達に阿部和重がいる。阿部はゲンロンの当初からの会員だったらしい。妻の川上未映子は「ゲンロン15」(2023年)に「春に思っていたこと」というエッセイを寄稿している。川上は早稲田文学の市川真人によって見出されたらしく、市川は渡辺直己の直弟子である。市川は鼎談「現代日本の批評」にも参加している。
東は、翻訳家・小鷹信光の娘で、作家のほしおさなえ(1964年生まれ)と結婚した。7歳年上である。不倫だったらしい。98年2月には同棲していたとウィキペディアには書かれていたのであるが、いつのまにか98年に学生結婚と書かれていた。辻田真佐憲によるインタビュー「東浩紀「批評家が中小企業を経営するということ」 アップリンク問題はなぜ起きたか」(2020年)で「それは結婚の年でもあります」と言っており、そこが根拠かもしれないが、明示されているわけではない。
そして娘の汐音ちゃんが生まれる。汐音ちゃんは2005年の6月6日生まれである。ウィキペディアには午後1時半ごろと、生まれた時間まで書かれている。名前はクラナドの「汐」と胎児用聴診器「心音ちゃん」から取ったらしい。ツイッターのアイコンに汐音ちゃんの写真を使っていたものの、フェミに叩かれ、自分の写真に代えた。汐音ちゃんは「よいこのための吾妻ひでお」 (2012年)のカバーを飾っている。「日本科学未来館「世界の終わりのものがたり」展に潜入 "The End of the World - 73 Questions We Must Answer"」(2012年6月9日)では7歳になったばかりの汐音ちゃんが見られる。
96年、コロンビア大学の大学院入試に、柄谷の推薦状があったのにもかかわらず落ちている。フラタニティ的な評価によるものではないかと、どこかで東は推測していた。入試について東はこう言っている。「入試が残酷なのは、それが受験生を合格と不合格に振り分けるからなのではない。ほんとうに残酷なのは、それが、数年にわたって、受験生や家族に対し「おまえの未来は合格か不合格かどちらかだ」と単純な対立を押しつけてくることにあるのだ」(「選択肢は無限である」、「ゆるく考える」所収)。いかにも東らしい発想といえよう。
2 ゼロ年代
東の次の主著は「動物化するポストモダン」で、これは2001年に刊行される。98年から01年という3年の間に、急旋回を遂げたことになる。「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」はその間の論考である。
東はエヴァに嵌っており、「庵野秀明はいかにして八〇年代日本アニメを終わらせたか」(1996年)などのエヴァ論も書いている。その頃に書いたエッセイは「郵便的不安たち」(1999年)に収められた。エヴァ本をデビュー作にすることも考えたらしいが、浅田彰に止められたらしい。だから、サブカル本を出すというのは、最初から頭の中にあったのだろう。
「いま批評の場所はどこにあるのか」(批評空間第Ⅱ期第21号、1999年3月)というシンポジウムを経て、東は批評空間と決裂するが、それについて25年後に次のように総括している。「ぼくが考える哲学が『批評空間』にはないと思ってしまった。でも感情的には移転があるから、「お前はバカだ」と非難されるような状態にならないと関係が切れない」(「25年後の東浩紀」、224-5頁)。
動ポモは10万部くらい売れたらしいが、まさに時代を切り拓く書物であった。10万部というのは大した部数ではないようにも思われるかもしれないが、ここから「動ポモ論壇」が立ち上がったのであり、観客の数としては10万もいれば十分なのであろう。動ポモはフェミニストには評判が悪いようである。北村紗衣も東のことが嫌いらしい。動ポモは英訳されている(Otaku: Japan's Database Animals, Univ Of Minnesota Press. 2009)。「一般意志2.0」「観光客の哲学」も英訳されているが、アマゾンのglobal ratingsの数は動ポモが60、「一般意志2.0」が4つ、「観光客の哲学」が3つと動ポモが圧倒的である(2024年8月3日閲覧)。動ポモは海外の論文でもよく引用されているらしい。
次の主著である「ゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2」までは6年空き、2007年に出た。この間、東は「情報自由論」も書いていたが、監視を否定する立場から肯定する立場へと、途中で考えが変わったこともあり、単著としては出さず、「サイバースペース」と抱き合わせで、同じく2007年に発売される(「情報環境論集―東浩紀コレクションS」)。「サイバースペース」は「東浩紀アーカイブス2」(2011年)として文庫化されるが、「情報自由論」はここでしか読めない。「サイバースペース」と「情報自由論」はどちらも評価が高く、この頃の東は多作であった。
この頃は北田暁大と仲が良かった。北田は東と同じく1971年生まれである。東と北田は、2008年から2010年にかけて「思想地図」を共編でNHK出版から出すが、3号あたりで方針が合わなくなり、5号で終わる。北田は「思想地図β」1号(2010年)の鼎談には出てきたものの、今はもう交流はないようである。北田はかつてツイッターで活発に活動していたが、今はやっていない。ユミソンという人(本名らしい)からセクハラを告発されたこともあるが、不発に終わったようである。結婚して子供もできて幸せらしい。
その頃は2ちゃんねるがネットの中心であったが、北田は「嗤う日本の「ナショナリズム」」(2006年)で2ちゃんを俎上に載せている。北田は「広告都市・東京」(2002年)で「つながりの社会性」という概念を出していたが、コミュニケーションの中身よりも、コミュニケーションが接続していくことに意味があるというような事態を表していた。この概念を応用し、2ちゃんでは際どいことが言われているが、それはネタなので心配しなくていいというようなことが書かれていた。2ちゃん分析の古典ではある。
東は宮台真司や大澤真幸とも付き合っているが、彼らは北田のように鋭くゼロ年代を観察したというわけではなく、先行文献の著者である。宮台は98年にフィールドワークを止めてからは、研究者というよりは評論家になってしまった。大澤は日本のジジェクと称されるが、何を論じても同じなのもジジェクと同様である。動ポモは彼らの議論を整理して更新しているのであるが、動ポモも「ゲーム的リアリズムの誕生」も、実際に下敷きになっているのは大塚英志であろう。
宮台や大澤や北田はいずれもルーマン派であるが、ルーマンっぽいことを言っているだけという印象で、東とルーマンも似ているところもあるというくらいだろう。しかし、ルーマン研究者の馬場靖雄(2021年に逝去)は批評空間に連載されていた頃から「存在論的、郵便的」に注目しており、早くも論文「正義の門前」(1996)で言及していた。最初期の言及ではないだろうか。主著「ルーマンの社会理論」(2001)には東は出てこないが、主著と同年刊の編著「反=理論のアクチュアリティー」(2001)所収の「二つの批評、二つの「社会」」ではルーマンと東が並べて論じられている。
佐々木敦「ニッポンの思想」(2009年)によると、ゼロ年代の思想は東の「ひとり勝ち」であった。額縁批評などと揶揄される佐々木ではあるが、堅実にまとまっている。類書としては、仲正昌樹「集中講義!日本の現代思想 ポストモダンとは何だったのか」 (2006)や本上まもる「 “ポストモダン”とは何だったのか―1983‐2007」 (2007)があったが、仲正は今でも読まれているようである。本上は忘れられているのではないか。この手の本はこれ以後出ていない。需要がないのだろうか。
佐々木の「ひとり勝ち」判定であるが、そもそもゼロ年代の思想の土俵を作ったのは動ポモであり、そこで東が勝つというのは当たり前のことであった。いわゆる東チルドレンは東の手のひらで踊っていただけなのかもしれない。懐かしい人たちではある。
北田によると、東の「情報技術と公共性をめぐる近年の議論」は、「批評が、社会科学的な知――局所から全体を推測する手続きを重視する言説群――を媒介せずに、技術、工学的知と直結した形で存在する可能性の模索である」(「社会の批評Introduction」、「思想地図vol.5」、81-2頁)ということであるが、ゼロ年代の東はこういう道を歩んでいた。キットラーに似ており、東チルドレンでは濱野智史がこの道を歩んだのであるが、東チルドレンが全てそうだったわけでもなく、社会学でサブカルを語るというような緩い営みに終始していた。宇野常寛などはまさにこれであろう。
佐々木「ニッポンの思想」と同じ2009年7月に、毛利嘉孝「ストリートの思想」が出ている。文化左翼の歴史をたどっているのであるが、この頃はまだ大人しかった。ポスコロ・カルスタなどと揶揄されていた。しかし、テン年代(佐々木の命名)から勢いが増していき、今や大学、メディア、大企業、裁判所を押さえるに至っている。しかし、ゼロ年代において、動ポモ論壇と比較できるのは、非モテ論壇やロスジェネ論壇であろう。
非モテ論壇は、小谷野敦の「もてない男」 (1999年)に始まり、本田透に引き継がれるが、ものすごく盛り上がっているというほどでもなかった。本田は消息が分からなくなり、小谷野も2017年頃から売れなくなった。ツイッターでは雁琳のような第三波フェミニズムに応対できる論者が主流となっているが、そういうのの影に隠れたかたちであろう。大場博幸「非モテ独身男性をめぐる言説史とその社会的包摂」(2021年、教育學 Permalink | 記事への反応(13) | 17:44
数学と物理学と化学の人間を全部足したくらいの人間がいるように思う。
だって、理学部で生物系の教室にいる人間、農学部の人間、それから医歯薬獣医の人間、あと看護とかがエッセンシャルを持ってる。
科研費やら学振の採用者一覧を見ても広義の生物学に分類される(できる?)ようなテーマは4割くらいを占めている。
何が言いたいかというと、人口が多いので教科書の古本がたくさん流通しているので教科書が安く手に入る。
それから研究が盛んでどんどんアップデートされるので、すぐ版が重なる。前の版は安くなる。
エッセンシャルでいうとアマゾンで1円から手に入る。まあそれは第一版なんだけども。
インターネッツでも、英語で検索しさえすればかなり有用な学習サイトがある。
ケンブリクラスの大学の、講義の内容をまるまるアップロードしてる先生もいる。それこそようつべで15回分見れたりする。15回は半年分の授業の回数だ。
あとTwitterで暇な日本人のバイオの先生方が文科省の悪口を言うためのアカウントを拵えてるので、ぶりっこして質問すれば丁寧に教えてくれる(場合もある)(最近面白い漫画を教えてあげると喜ばれる(場合もある))。
最近は論文もタダで読めるところがとても多いので、最新の情報も手に入れようと思えば手に入る。そうでなくとも論文の海賊サイトを使えばほぼあらゆる論文が入手できる。論文雑誌の総説という、まあまとめコンテンツみたいなやつをめいっぱい読んでればめちゃめちゃ賢くなれる。まあまあな大学院生と同じくらい強くなれる。
学術分野の英語はそんなに難しくない。小説よりは簡単だ。なにが簡単かというと、Google翻訳に入力するのが簡単だ。コピペできるのでね。まあそれは冗談ですが
そんなこんなで根気があれば相当勉強できる。何年か前に、アメリカの高校生が根気よく勉強して研究したところ、すい臓がんの早期発見できる方法を発見したので界隈ではニュースになったりもしている。PLoS ONEというタダで読める結構な雑誌の、次世代シーケンサーの膨大なデータを目で見て発見したらしい。極端な話、パソとフレッツで論文が書けるという時代である。実験を一切しない論文というのもあるくらいだ。
というわけで生物学の教科書は高くない。高いのは生物学の敷居なのだ。一歩またいだら無限にも思える未開の地が広がっているのが生物学ということでガッテンしていただけましたでしょうか。
あの人は毎日「疲れの取れる」花瓶を触りに来た。
「この花瓶見てるだけで落ち着くよ。」
と聞こえるか聞こえないか位の声で言った。
初めてこの薬局に来たときから比べるとかなり痩せ細ってしまい、
体はガリガリになって、腹部が異常に張っていた。
ただ毎日ここに来て花瓶を触って帰っていった。
もう彼に疲れを取る薬は無かった。
いつものように道の向こうからふらふらと歩きながら玄関までやって来た。
そして店の自動ドアの前まで来た。
だが自動ドアが開かない。
私は手で自動ドアを開けて中に招き入れた。
「クレジットカード使えるようになったんですね。じゃあカードで。これって疲れに効くかな。」
と言って、たまごボーロを一つ手にとった。
「よく効きますよ。」
と言うと、
「じゃあ買って行きます。」
と蚊の鳴くようなクレジットカードを渡した。
「ぶわーーーーーーーーーーーーーーっ」
となった。
名前が20年前にすい臓がんで死んだ彼氏の名前と一緒だったのだ。
自動ドアが開かなかったことを同僚に告げると、
「そりゃあ開かないよ。今日は誰も来てないもん。あと自動ドアは重さで開いてるんじゃないんだよ。疲れてるんじゃないの?」
「え、そうなの。」
「疲れてるんじゃないの?」
と言われてからあの人は全く来なくなった。
来なくなったんじゃなく見えなくなったのかもしれない。
でも私は知っている。
誰も気づいてないけど、毎日来て少しずつ花瓶を回転させていることを。
世界初、「夢のがん診断」技術 血液1滴、たった3分で結果がわかる! 医学知識ゼロのベンチャー企業が起こした奇跡 | 原元美紀の「女子アナ健康塾」 | 現代ビジネス [講談社]
15歳の少年、すい臓がん発見の画期的方法を開発 たった5分、3セントで検査
「天才高校生が開発」「尿1滴で」がん早期発見法の可能性|男の健康|ダイヤモンド・オンライン
Amazon.co.jp: がんは「におい」でわかる! “がん探知犬”の力で、乳がんセンサーが誕生: 本: 外崎 肇一
はてなブックマーク - パーキンソン病患者に特有の「におい」、遺族が指摘 研究対象に (AFP=時事) - Yahoo!ニュース
普段こういったことを噤んで生活をしていく中で、
誰かに聞いて欲しかったんだろうと思う。
*
今年の冬に死のう、と決めたのはちょうど一年前にあたる昨年の初冬のことです。その日は父の命日でした。
叔父は僕が中学生の頃に飛び降り自殺をし、結果的に未遂に終わり、半身不全になりました。
僕の曽祖父はすい臓がんの痛みに耐え切れず電車に突っ込んで自殺をしました。きっとその遺伝子が僕にも流れているのだと思います。
*
父は僕が高校生の時に突然亡くなりました。
母が話したがらなかったので、正確な死因は聞かされていませんが、脳梗塞かそれに似た病気だったと思います。突然死でした。
僕はその地区では一番の進学校に入学したにも関わらず、勉学への意欲を失っていました。もともと中学ではいじめから逃げるため、まるであてつけか腹いせのように勉強をしていたようなものだったので、環境が変わったことにより勉強する理由を見失ってしまったのでした。学校でも居場所を失い、借りてきた本を読んだり、漫画を読んだり、ラジオを聞いたり、夜はいつもだらだらと過ごしていました。
その日、日付をまたごうかとしていた時刻です。ようやく物理の問題集を開きかけたところ、隣の寝室から母のくぐもった叫び声が聞こえました。母は僕を呼びつけ父を見ているようにと言って、一階へばたばたと階段を駆け下りました。父は目を開けたまま空中を見つめて固まっていました。ぼんやりと口を大きく開け、橙色の明かりが照らしているはずなのに、その瞳が灰色のように見えたのが印象的でした。
僕は、救急車の音を聞きながら、弟の手を握って、多分おとうさんは死ぬから、これからは二人で母をささえていかなくてはいけない、といったことを弟に言いました。こたつぶとんの銀杏の柄を今でも覚えています。(その弟とは数年後に金のいざこざで法事であっても目を合わさないような仲になるのですが。)
どこにでもあるような、ありふれた死です。
中学生の時には友人を何人か自殺で亡くしました。そのうちの一人とはとても仲がよかった。僕は高校受験の合格の知らせとともに、その電話をうけました。成績も優秀で人柄も温厚だった彼の葬式には、たくさんの友人が足を運びました。彼は病気で死んだと聞かされていましたが、数年後あれは自殺だったのだと母から言われました。彼が最後どのような姿だったのかは知るべくもありませんが、僕は彼がきっと暗い森で首を釣ったのだろうな、と画を浮かべました。
どこにでもあるような、ありふれた死です。
僕は彼とそこまで交流があったわけではありませんでした。
どこにでもあるようなありふれた死です。
その後も肉親のありふれた死を沢山通り過ぎましたし、災害や事件が起こるたびに、そしてウェブの手記やブログといったひとの人生が語られるたびに誰かの死を知りました。思えば、中学生のあの自殺を経験した時から「死」というものについて毎日考えるようになっていました。それは而立と呼ばれる年齢を超えた、今でも、毎日です。
人というのは本当にあっけない。人の人生を美しく錯覚させているのもまた人なんだなあ、と僕は祖父の焼かれた骨を拾いながらとても空虚な気持ちになっていました。
*
僕は幼い頃からとても潔癖で、世の中では避けて通れない、多くのひとなら何も感じないような些細な傷にもいちいち血を流すようなとても弱い、誤解を避ける言い方をすれば、感受性の強い人間でした。そうやって振舞っていると当然のように不幸を呼びこむもので、学生時代も就職してからも、ひとに脅されたり漬け込まれたり、悲しみや苦しみを自ら引き寄せたりすることがとても多かったように思います。自分に自信がないせいで、異性を好きになることもできません。
しかし、悲しいことばかりでもなく、大学では友人に恵まれましたので、そういったふるまいがいけないのだということを少しずつ学びました。そして、悲しさやいらだちをすべて筆に載せることで自分を保つようになりました。自分自身を神のように錯覚する、一種の宗教のようなものです。筆を握ることさえできれば、どんなに辛いことがあってもまあなんとかなる、それを糧にしていけば、次の作品の材料にしていけばいい、そして、それでもだめならいざとなれば死ねばいい。そうやって自分をごまかすことができていました。ここ数年は。
*
昨年の初冬から筆が握れなくなりました。その頃は仕事で一日の時間の大半を奪われており、常に締め切りに追われ、朝方に眠り、ぼんやりとしたまま起き、仕事をし、眠っていたから、いつのまにか、なにかを美しいとおもったり、なにか美しいものをつくろうと思う気持ちがすっかりなくなってしまったのでした。ただ人を裏切ることが恐ろしい。人にがっかりされることが恐ろしくて仕方がありませんでした。あのころと一緒です。自ら悲しみや苦しみを引き寄せるようになっていました。
僕はスケジュールをきちんと管理できなかった自分を、仕事がこなせない自身の力不足を糾弾しました。ある日道を歩きながら、パソコンに向かいながら、電車に乗りながらわけもなくぼろぼろと涙が溢れてきて、「これははてなのコメントでよくみんなが言っていた鬱というものだなあ」と思い、病院へ言って安定剤をもらいました。
薬を飲むと涙が流れるのはすこし和らぎましたが、強烈な眠気とだるさに見まわれ美しいと感じる心はますます萎びていきました。何を見てもときめかないし、輝かない。美しい作品を作って、褒められたいという情熱は、作品をつくってそれが美しいものでなかったらどうしようという恐怖に変わっていきました。もうひとりの自分が糾弾します。筆を取れない自分に価値はない。いや、もともと価値などなかった。もっといえば人間に価値などない。人を美しく思わせているものは人なのだから、その気持をうしなってしまったらなにも意味が無い。
僕がこうやって萎びている間も周りの人間はどんどん前へ進んでいきます。そういった輝かしい人々を指さして、僕をもう一人の僕がぺしゃんこに糾弾します。毎日平静を装って仕事をしながら、己を否定する言葉が泉のように湧き出てきてそれが朝から眠るまで続きます。インターネットで見かける言葉がすべて僕を責め立てるように見えてきて、恐ろしくなります。汚い言葉がこちらに向かって刺さってきます。けれどそれをやっているのは自分自身です。それをわかっているから、ますます自分を糾弾します。こんなことで萎びてしまう弱い自分がすべて悪いのです。けれども僕は何食わぬ顔をして普通に仕事をして、ごはんをくちに運び、風呂に入って、眠ることができます。糾弾して、仕事をして、ごはんを口に運んで、風呂に入って、眠ることができます。おそらく死ぬまで。ずっとこれを続けることができます。でもできるのとしたいのは別のことです。
*
思えば物心ついた時から常になにかに怯えていました。人の顔色をうかがい、人の評価にあわせることでしか自身を保つことができませんでした。筆を握ることは、ただ楽しいと思えていたのに、それも虚栄心を満たすだけのものに成り果てました。いまでは作品を作ることすら恐ろしいし、過去の作品を見ると動機が激しくなって、吐き気のようなものがこみ上げます。
毎日暮らしていくことはできます。恋人や伴侶や子供もいないので一人で暮らしていくには給料は十分です。でももう、立ち上がるだけのエネルギーがのこっていない。
いざとなったら死ねばいい、これまでも幾度と無く思ってきたことですが、そのいざとなったらが、今ではないかと思いました。僕は去年の初冬に決めました。あと一年この気持が変わらなかったらビルの20階から飛ぼう。高いところがとても好きで、バンジージャンプの経験はあるし、幼いころの夢は鳥になることでした。首吊りや凍死、薬物やガスも考えましたが、インターネットは便利です。いろいろ調べて、死ねなかったことを考えるとこれが一番いいような気がしています。
今年に入って身の周りのものも処分をはじめました。できるだけ周囲に迷惑をかけないように(それが無理なのはもちろんわかっていますが)、手配したいし、遺書も用意してあります。ここ数カ月間は、仕事関係以外の人間、肉親との接触もできるだけ断つようにしてきました。準備を淡々と進めています。僕は初冬に多分、多分死ぬのだろうと思います。悲しいというよりは空虚な気持ちです。死んでいった彼等もこんな気持だったのでしょうか。
どうすればよかったのか?なんて思うけれどもそんな救済ははじめからなかったような気がします。思えばむかしから弱くて、弱くて、ここ数年がただ運良く、うまくごまかせていた、それだけだったのだと。この世は弱肉強食ですから、弱いものは去らなくてはいけない。もう一度美しいと錯覚できたら、そうしたらまた以前のように自分をごまかすことができるのだろうか。ごまかすことができたら、この先の命を続けていくことができたのだろうか、それはもうわかりません。今の私には、屋上から逆さまに落ちてトマトのようにぐしゃりとなる自分の姿しか思い描けないのです。
批判がほしいのか、一握りの共感がほしいのかわかりませんが、こんな文章を知らない誰かが読んでどう思うのか気になって書いて見ました。
いつからかボタンをかけちがっているような感覚がありました。些細な瞬間というよりは常にうっすらとありました。
自分の人生を生きているという確かな実感が薄く、実年齢とその年齢で想定していた精神状態との乖離をすごく感じていました。精神は安定せず、2~3ヶ月に何日かすごく塞ぎこむ日が続いたと思えば、一週間ほど“ハイ”な日がきたりしました。
夜明けまで街なかを散歩したかと思えば、毎日ランニングに精を出したこともあります。
2~3週間で興味や関心が移り、好きな時間に起きて、それをやり、好きな時間に寝ていました。
そんな生活をしていると一年という期間はあっという間に過ぎてしまいます。
この一年で得た些細なものと、この一年で失った大きなものとの、両方の大きさを実感できます。
ニートになるのはやめろ、言いたいのではなく、結局なるようになったのだと思います。
ボタンのかけちがったままいこうにも、すでにとめるものが無くなってしまったのですから。
躁鬱病と言えばそれまでですが、病院に行ったこともなく正式な診断は受けていません。
自分で病的だということの自覚はありますが、それが自他ともに認めるのを怖がっているのです。
ですが自分が病的であるという自覚、又は仮定をすれば、では正常な判断とはなんだろう、という疑問が湧きます。
もし1つ条件を置くことを許して頂ければ、誰しもこの疑問にすぐ答えることは難しいだろうと思います。
「常識、普通」と「正常な判断」というのは必ずしも一致しない。
これは僕の経験則なので、あまり参考にならないかも知れませんが、常識や普通で考えて、「良い」又は「ありえる」「良くない」と想定できる行為は、行為のすべての可能性の8割程度を構成していると思います。
後の2割に「とてつもなく悪い」と「とてつもなく良い」が、混在しており、それは常識では判断できず、往々にして常識ではどちらも「とてつもなく悪い」と判断されてしまいます。
デカルトは良識はすべての人に備わっているといいましたが、もし「とてつもなく良い」判断をする能力を須く人類が備えていれば、「とてつもなく良い」世界ができそうですが、僕にはそうなっているようには思えません。
つまり8割を判断できる一般論では、2割を構成する極論は判断できないのです。
そしてその極論は、一般論では、否応なく悪い方に判断されてしまいがちだ、と思うのです。
というのも「とてつもなく悪い」と「とてつもなく良い」というのは何か、紙の裏と表のようなもので切り離して語ることはで
きないので、そのように思うのです。
例えば「食事」で考えてみます。
「良い」食事というと常識で考えて、1日3食決まった時間にバランスよく肉だけでなく魚や野菜も食べれば「良い」食事であると判断できるのではないでしょうか。
逆に「悪い」食事というのは、常識で考えて、好きな時間に、ファーストフードや揚げ物など偏ったものばかり食べれば、それは「悪い」食事であると判断できるのではないでしょうか。
では例えばスティーブジョブスのような偏執的とも言えるようなベジタリアンはどうなのでしょう。
本で見た程度なので、正確かどうかはわかりませんが、彼は体の毒を除くための絶食を1週間程したり、肉は全く食べず限られたものしか食べないというようなかなり偏ったベジタリアンだったようです。
晩年、すい臓がんの闘病中に、医師から栄養価の高いものを勧められても頑なに自分の信念を曲げず、自分の決めたものしか食べなかったので、病気の進行を早めたといいます。
これは「とてつもなく悪い」食事なのでしょうか。
多分そうなのでしょう。
食事という面を切り取れば、「とてつもなく悪い」ということになると思います。ではもう少し多面的に、考えてみましょう。
この偏執とも言える食事のおかげで、彼の頑なな意志が生まれ、僅かではあるが、皆さんがご存知の偉大なイノベーションにつながったとすればいかがでしょうか。
これでは、言い過ぎと言われるかもしれないので、彼の頑なな意志では、一度決めたことは、たとえそれが「とてつもなく悪い」ことでも貫き通すことにこそ意味があった、というのはいかがでしょう。
彼のパーソナリティを鑑みれば、「とてつもなく悪い」食事と「とてつもなく良い」イノベーションとは切っても切れない関係なのです。
これも言い過ぎかも知れませんが、僕が言いたいのはこのようなことです。
極論なので論ずるに値しないと思う人もいるかもしれませんが、僕は極論の話をしたいのです。
極論というとあまり響きがよくないので、ここで言い換えましょう。
一般相対性理論、特殊相対性理論とあるように、一般の対義語は、特殊だと思いますが、特殊論というと、これも極論と響きが似てきます。
例えば「彼のようなクリエィティブな人間な人材を育成したい」と言うと、食習慣を真似するというのではなく、イノベーティブな製品を発明することを指すと思います。
ですが私は、それらは切り離せないウラとオモテのように思うのです。
常識的な判断で「よい」と思われる物事の一面だけを切り取って、それを一般化させて、一般論としても、個別論に適応できないように思われるのです。
僕達は個別論的に生きているので、一般論的に論じられても、意味を見出せないと思います。
これは私の個別論的な主観を、一般化して世代を論じているので、自己矛盾じゃないか、と言われると思いますが、全くその通りです。
そしてただの自己弁護です。
こんな文章を一体誰が読んでくれるのでしょう。ああ、そういえばタイトルがありました。
「やりたいことをやるってなんだろう」です。これです。
結局僕はやりたいことが一般論で見つからなかったからニートになったんだと思います。そしてこの文章も推敲もせず途中で投げ出していまいました。こんな人間がニートになるのです。
吐露させてくれ
親がすい臓がんになった。運良く早期発見だが、まだどうするかは決めていない
早めの手術だとは思うが、いろいろ調べたら、すい臓がんのステージ1での5年後の生存確率は50%だとか・・・
ググればググるほど、それをいろんなところで見るから、余計に悲しくなってきた
親との死別はいつかは来るものだし、覚悟はしていた。だが、こんなに元気な還暦なのに、もう亡くなる可能性が出てきたことに驚きを隠せない。
書いてる最中も泣いている。
こーゆーときくらいは「世の中で一番苦しいのはオレだ」とか、思い込んでもいいじゃないかと思った。もっと苦しい奴はいるんだぞとか、言うべきではないと思った。
まさに直面中。自分の現状として親はいるが、動ける状況ではないから、、、、みんなも早めの方がいいよ。と思うし、そういうのを見聞きはしてきた。先人の言葉を重く受け止めることがやっと出来た。
あーあ、オレって孝行してたのかなー。。。