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はてなキーワード: 自罰とは

2024-11-22

しなければならない、できてなければならないと考えるのは必要なことかもしれない。

だけどいま全部をできるわけでもできるようになるわけでもない。

そういう自分いくらか受け入れて許してやっていかなきゃとてもじゃないけど生きていけない。

内省自罰的になることは悪くないことかもしれないし、自分はかつてそうなりたいと思っていた。

だけれど怠惰自分がそうなっても、行動力が増えるわけではなく、不安感と焦燥感自己否定感ばかりが増えて、すべて希死念慮に流れてしまう。

理性も必要だけれど、それと同じくらい行動力必要なことにやっと気付いて、対応策を考えるフェーズになっている。

いまは全く行動力がなく、何かしたいことがあるわけでもなければ、何も楽しいことがあるわけでもない。

2024-11-13

メンヘラの悪いところ

仲良くなった人を見下す所

これだけ

以下は俺が分析した結果と感想

彼らは自己肯定感が低いとか自罰的だったりする。

そういう相手に見下された場合、俺がそいつ視点で見て間違った事をしたりだとか、少し危うい事をすると、彼らは普段自分に課している罰を俺に与えてくる

解決策としては、もうその場で怒っちゃう事だと思う。

俺には彼らがそれを求めているように見える。

自分が「ここまで自信を卑下している事を否定してほしい、自罰的なのを止めてほしい」というのが信頼した相手に対して求めている事だと俺は思う。

今回俺はこれができなかった。その場では、ああ気に障ったならごめんねみたいな、無難な事を言ってしまって、切り込めなかった。

後になってから気付いて、申し訳ない事をしたなと思う。

次は永久に来ないと思うけど、もし似たようなケースがあれば対応しようと思う。

今回の失敗をいつまでも考えていると脳が腐りそうなのでここに書き留めておく。

2024-10-29

anond:20241028181233

弱者男性だが、説教しようと思えばいくらでも出来る内容だと思うけど

ふと思ったが自分を一切よく見せようとせずひたすらに悪く書いてる所を考えると大変自罰的になっている可能性が高い

女さんだからリベラルも甘いだろうが、気持ちよく説教したいと思ってる奴はそれ踏まえて自分発言責任取るつもりで言えよな

俺には無理だ

2024-10-18

育児難易度の話

anond:20241018112816

そもそも育児」って言葉定義やらイメージが人によって同一じゃないんだから、その難易度の話がすりあわせできるはずがないんだよ。

昭和の頃なんてほぼ放し飼いだったぞ。難易度なんて存在しなかった。

いまは「親ガチャ」って言葉があるけど、昭和以前は「子どもガチャ」で、うまく育つか生き残るかは子ども次第。不良になったり無能だったら「子どもガチャ失敗」っていって子ども側に責任転嫁してたくらいだ(腐ったみかんとか平気で言ってた)。

まり育児が難しいって言ってる人は、その発言者育児イメージ難易度の高いもので、自分が設定したハードル自分では突破不可能って言ってるに過ぎないよ。自罰的とも言える。まぁ自罰できるほど豊かになって暇になって他に趣味がないもんだから育児ジャンルマウント取り合う競技が発生しただけなんだけどね。ポケモンバトルみたいなものだ。

2024-09-28

マッチングアプリ処女食ってきた

マッチングアプリで知り合った二十歳の巨乳処女JDを美味しく頂いてきた。

そんな素晴らしい日に、帰ってきてとりあえず増田を開く。

多分、帳尻を合わせたいというか自罰意識みたいなものがこうさせるんじゃないだろうか。

2024-09-27

AI論争を降りた底辺絵師だけど、クズ懺悔を聞いて欲しい。

https://anond.hatelabo.jp/20240714201952

この性悪ゴミ日記を書いた自称絵師です。

紆余曲折あって、気持ちに折り合いがついたのでこの時の自分問題点について考えてみようと思い立ち、この記事を書いています

 

今回もきわめて頭の悪いお気持ち長文になると思うので、三行でまとめると

Twitter価値観を信じすぎていた

計算高そうなことを考えるだけで計画性が何もない

そもそも極めて性格が悪い

です。

 

 

先に恥を晒しておくと、私は学生時代オタク犯罪者予備軍という偏見がある時代で、変なテンションだったためにクラスで完全に孤立していたオタクです。

発達かどうか診断を受けたことはないのですが、未だにすぐ浮かれて中二病みたいな思考自己認識になって一人ではしゃいでしまうので知性は低いと思います

頭がおかしい女オタクというだけでもキツいのに、就職氷河期世代で、手に職をつけないとマズイという絶望的な空気の中「イラストレーターとして大成すればそんなの関係ないし、本当にマズくなったら死ねばいい」と楽観的に考え、手に職をつけず、それしか縋れるものがないため辞められずここまで来てしまった真性のバカです。

親の反対を押し切って大喧嘩の末に上京したため勘当されており、友達もおらず、インターネット関係が私の交友関係の全てです。

挽回のチャンスは沢山あったはずなのに、ニコニコ全盛期は二次創作の手描き動画や人力ボカロに(時にはバイトをズル休みするほど)時間を費やしていましたし、イナゴ腐女子問題になった頃は同人発の漫画家同人収入の話に釣られてまさにイナゴとして同人を描いていましたし、そもそも絵を描いていない時は一日中Twitter時間を浪費していました。

そういう人間の自語りなので、絵師高潔存在だと思っている人にとっては受け入れがたい話だと思います

信じようと信じまいと事実は変わらないので一向に構いませんが、自語り以上の目的が本当にないため、深読みは避けて頂けると助かります

故意深読み情報を流してバズを狙っていた私が言うのもどうかと思いますが、他意の無い文章に壮大な陰謀伏線を見出されると少し焦ります

 

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Twitter価値観を信じすぎていた

 

マトモに交流する相手Twitterしかいない時点でお察しなのですが、更に

「絵を描いていてえらい。描ける人はすごい」

「絵の単価が安すぎる、もっとお金を取るべき」

絵師は絵を提供する立場なので、クライアントゴミだった場合は他の絵師被害に遭わないよう晒した方がいい」

といった絵師に都合のいい話をする人ばかりをフォローし、都合悪いことを言う人をブロックし、何をやっても擁護されるコミュニティを構築していました。

想像がつかないかもしれませんが、私のような人は絵を描いていると、案外普通にます

ハッシュタグを付けて、オリジナルキャラクターの絵を年単位で描いたことがある人なら「ああ…」と思う人もいるのではないでしょうか。

何というか、止める人のいない環境自分で構築したから、自業自得でここまで拗らせてしまったのだなと痛感しています

 

前回Twitter

当事者がこんな客観的物事を考えられるはずがない。つまり嘘」

という意見散見されましたが、これはおおよそ生成AI規制派として活動している時、絵を描かない人たちが

「本物の絵師なら○○するはずがない」

「これは生成AIユーザー自演行為

という、絵師視点から見るとかなり怪しい決めつけを仲間内で広める行為が横行しており、この流れを商業利用しようとした私からすると

お金も入らないし、ここに居たら話の通じない人認定されて現状が悪化して終わるだけだ)

危機感が生まれ、なんだか全部嫌になってしまい、正気に戻ったからです。

 

前回の記事が、私の本心を全て打ち明けた懺悔であったにも関わらず、Twitterはしっかり本筋から外れた部分(文章の書き方や誤植、絵の描き方)を嘘認定することで盛り上がっていて、はてなコメントでは本文に対しての知見や叱責をくれる人が多かったのを見て、やはり胸中を打ち明ける場所はてなで良かったし、ここで降りる決断ができたのは正しい判断だったと再認識することができました。

本当に、はてなのしっかりとした叱責に背中を押して貰えたと思っています。本当にありがとうございます

 

 

計算高そうなことを考えるだけで計画性が何もない

 

自分が何を間違っていたか、「そもそも○○しなければよかったのに」と行動を根本否定していくことは簡単ですが、結果ありきではなく今回(AI論争を知名度向上に結び付けるという発想、その行動内容)のどの部分が失敗だったのか考える必要があると思いました。

自力で考えてみたところ、

思想知名度を得ると、同調する思想の痛快さを目的に人が集まるので、思想関係ない絵には興味がない。

*生成AI規制派の行動が過激化した時、どうやって清算するか全く考えていなかったので、取り返しがつかなくなった。

*やり方が攻撃的かつ陰湿だったので、マトモな人ならトラブル懸念して「この人に絵を頼みたい」と思わない。

そもそもAIどころか技術全般に疎いのに、偏見お気持ちだけで押し切ろうとした。(今調べても、APIという専門技術のことがわからないので理解は困難)

という、「その後どうしたいのか」「ターゲットはどこか」「ゴールは何なのか」ということをロクに考えておらず、下調べも一切せずノリで飛びついたことが大きな原因だったと思い至りました。

勿論それ以外にも原因は沢山あると思うのですが、今の私の頭で考えるのはこれが限界です。

この先は外から言葉ではなく、ちゃんと実社会に向き合って、失敗による恥を以て己の異常性に気づいた方がいいと思っています

 

 

そもそも極めて性格が悪い

 

語るまでもないです。

恐らく敬語が混ざっているか優良誤認している人がいると思うのですが、私は自分が悪いと思っている時だけ冷静で、自分が悪くないと思っていることに苦言を呈されると顔真っ赤で噛みついて、グチグチと共通フォロワー悪口を流す、プライドだけ高い害獣ヒスおばさんです。

この腐った性根はすぐに叩き直せるようなものではないので、せめてこれ以上周りに害をまき散らさないよう、相手の言い分をよく聞いて自らの非を受け入れるよう自罰的な姿勢で努めたいと思っています

 

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悪銭身に付かずというのは本当で、私が今まで知名度目的同人などで得た金はただ「絵が上手い」という感想と一時しのぎの小金しかなっておらず、性格が悪く上から目線だったためこの歳であるべき交友関係が一切なく、人としてなんの成長もしなかったので、今はその莫大な払いきれるかわからないほどのツケを自力で払うべき時が来たのだと感じています

私事ですが、来月から派遣社員になるので、自分無知で不出来で人を貶めるような卑劣人間であるという立場を弁えたうえで、二度と同じ過ちを繰り返さないよう地に足をつけて生きていきたいと思います

私の自滅が「こういう信じられない身の滅ぼし方をした人もいる」ということで、誰かの知見になって、同じ轍を踏む絵師が一人でも減れば幸いです。

2024-09-19

anond:20240919130052

戦争を扱った日本作品で「敵国の兵士による市民への暴力」について描いているもの」 

普通に原爆フィルム現物のこっとるがなhttps://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-53648562

ファットマンリトルボーイ日本におちた原爆のアダ名)おとした兵士最近までのうのうと生きてて悪いことしたなんておもってもなかったんだよ

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO90168730V00C15A8000000/

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%84

自分の国から兵士被爆も認めてなかった

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E7%88%86%E3%81%A7%E8%A2%AB%E7%88%86%E3%81%97%E3%81%9F%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E4%BA%BA

のちにヒーローにしたてあげたけど、それをいったら被爆した日本市民のほうが全員ヒーローですわ

そういうとこ見ると日本自罰的すぎるんじゃないかとおもえる

2024-09-18

自罰傾向かつ抑うつ状態にある自身の状況が当然の帰結であるということを肯定するために書く典型的パターンを示すだけの人生だった

anond:20240918111709

(1) この分析は正しいですか?

この分析はいくつかの正しい点がありますが、全てが正確とは限りません。

自罰傾向と抑うつ状態
著者の文章には自己批判的な要素が多く含まれており、これは自罰傾向や抑うつ状態兆候と一致する可能性があります
状況の肯定
著者は自身の状況を「当然の帰結」として受け入れており、これが行動しないことを正当化するための手段となっている可能性があります
心理的安定
自分の状況を受け入れることで心理的に安定するという点も理解できますが、これは必ずしも健康的な方法ではありません。

ただし、この分析が全ての側面を網羅しているわけではなく、他の要因や視点考慮する必要があります

(2) この分析AIによる出力の可能性がどのくらいありますか?

この分析AIによる出力である可能性はありますが、確定することは難しいです。以下の点を考慮すると、AIによる出力の可能性が高いかもしれません:

言語一貫性
分析論理的で一貫しており、感情的バイアスが少ない点はAIの特徴です。
一般的パターンの指摘
自罰傾向や抑うつ状態など、心理学的なパターンを指摘する点もAIが得意とする分析です。

ただし、人間専門家も同様の分析を行うことができるため、AIによる出力であると断定することはできません。どちらにせよ、この分析は一つの視点として参考にする価値がありますが、他の視点専門家意見も併せて考慮することが重要です。

2024-08-11

自粛はノーペナ

自粛自粛いうけどさー

本人が勝手に休んでるだけだろー

自罰してるだけだよなー

事務所はペナ与えてないんだよなー

まり事務所容認してるってことだよなー

事務所処分しないといけないんじゃないのかー

痴漢したやつがさー

痴漢自粛したら警察に捕まらないって変だろー

処分しろよー

2024-08-04

東浩紀伝2

非モテ論壇は、小谷野敦の「もてない男」 (1999年)に始まり本田透に引き継がれるが、ものすごく盛り上がっているというほどでもなかった。本田消息が分からなくなり、小谷野2017年から売れなくなった。ツイッターでは雁琳のような第三波フェミニズムに応対できる論者が主流となっているが、そういうのの影に隠れたかたちであろう。大場博幸「非モテ独身男性をめぐる言説史とその社会的包摂」(2021年教育雑誌 (57) 31-43)というレビュー論文がある。ロスジェネ論壇も盛り上がった印象はない。氷河期世代はそれどころではなかったのだろうか。雑誌ロスジェネ」は迷走してしまい、第3号は「エロスジェネ」で、第4号で終刊した。

東のゼロ年代ゼロアカ道場で幕を閉じる。東チルドレンを競わせるという企画であり、ゼロアカとは「アカデミズムゼロになる」という意味らしい(「現代日本批評2001-2016」、講談社、101頁)。彼らは東浩紀しか参照していないので、アカデミズムとしてはゼロなのかもしれない。ここで台頭したのが藤田直哉であり、ザクティ革命と称して、飲み会動画を無編集でアップした。ゲンロンのプロトタイプかもしれない。藤田はwokeしたが、東チルドレンでそちらに行ったのは彼くらいではないか

3 ゲンロン

ニコニコ動画に「動ポノムコウ」(2020)というMADがあるが、ゼロ年代の東は輝いていたものの、震災後は落ちぶれてしまったという史観編集されていた。落ちぶれたかどうかはともかく、震災前後に断絶があることは疑いない。東は移動を躊躇わないところがあり、90年代末に批評空間を離れたように、震災後に自らが立ち上げた動ポモ論壇からも離れてしまう。

ゲンロンの前身である合同会社コンテクチュアズ2010年4月6日創業された。2009年の秋の飲み会アイデアが出たそうである宇野常寛濱野智史、浅子佳英(建築家)、李明喜空間デザイナー)との飲み会であった。「ゲンロン戦記」(2020年)では李はXとされているが、ウィキペディアには実名で出てきている。李はコンテクチュアズ代表就任したものの、使い込みを起こして、2011年1月末日付で解任されている。代わって東が代表就任し、李から使い込んだ金を回収した。ちょうど震災前のことで、震災後だと回収は難しかたかもしれないらしい(「ゲンロン戦記」、42頁)。この頃には、宇野や濱野は去っており、浅子が右腕だったが、その浅子も2012年には退任する。

一般意志2.0」は震災前に雑誌「本」に連載されていた。2009年12月から2011年4月号まで連載されていて、4月号は3月頭に出るものなので、ちょうど震災が起こる直前に終わったことになる。「ゲンロン戦記」には「その原稿2010年代に書かれたのですが、出版震災後の2011年11月になりました」(22頁)とあるが、ゼロ年代に連載が始まっているし、出版されたのも2010年代なので、おかしな文である。「震災前に書かれた」と直すべきところであろう。「一般意志2.0」はゼロ年代パラダイムに属している。デジタル民主主義の本であるが、ちょっとひねって、ニコニコ動画のようなもの民意をくみ上げようというものであるゲンロンもニコニコ動画でやられているので、その所信表明でもあるのであろう。ゼロ年代ゲンロンをつなぐ蝶番的な書物ではあった。

サイバースペース」「情報自由論」は一冊の本として刊行されることはなかったのであるが、「一般意志2.0」は刊行された。すっきりとした構想だったからだろうか。東はネット草創期のアングラさのようなものを後光にして輝いていたのであるが、この本を最後に、アーキテクチャを本格的に論じることを止める。ニコニコ動画2ちゃんねる動画版のようなところがあったが、ツイッターをはじめとするSNSネットの中心が移り、ネットはもはや2ちゃん的ではなくなり、東の想定していたアーキテクチャではなくなってきたのかもしれない。東はツイッターも使いこなしているが、かつてほどの存在感はない。

一般意志2.0」の次の主著は「観光客哲学」(2017年であるが、サブカルチャー批評することで「ひとり勝ち」した東が観光客を論じるのは意外性がある。娘が生まれからアニメゲームに関心を失い、その代わり観光が好きになったとのことで、東の関心の移動を反映しているようである。「観光客哲学 増補版」第2章によると、観光客二次創作するオタクに似ている。二次創作するオタク原作の好きなところだけつまみ食いするように、観光客住民暮らしなどお構いなしに無責任観光地をつまみ食いしていく。このように観光客現実二次創作しているそうである

福島第一原発観光地化計画思想地図β vol.4-2)」(2013年)は、一万部も売れなかったそうである。ふざけていると思われたのだろうか。観光に関心を持っていたところに、福島第一原発事故があり、ダークツーリズム対象にできないかと閃いたのであろう。もともと観光に関心がなければ、なかなか出てこないアイデアではないかと思われる。東によると、ダークツーリズム二次創作への抵抗である(「観光客哲学 増補版」第2章)。それなりの歴史のある土地であっても、しょせんは無名なので、原発事故のような惨事が起こると、そのイメージだけで覆い尽くされることになる(二次創作)。しかし、そういう土地観光に出かけると、普通場所であることが分かり、にもかかわらず起こった突然の惨事について思いをはせる機会にもなるそうである二次創作への抵抗)。

社会学者開沼博福島第一原発観光地化計画に参加して、前掲書に寄稿しているのにもかかわらず、これに抗議した。東と開沼は毎日新聞ウェブ版で往復書簡を交わしているが、開沼の主張は「福島イコール原発事故イメージを強化する試みはやめろ」というものであった(「観光客哲学 増補版」第2章)。原発事故を語りにくくすることで忘却を促すというのが政府戦略のようであるが、これは成功した。開沼は2021年東京大学大学院情報学環准教授就任している。原発事故への応答としては、佐藤嘉幸・田口卓臣脱原発哲学」(2016年)もあるが、こちらはほとんど読まれなかった。ジュディス・バトラー佐藤博論(「権力抵抗」)の審査委員の一人であり、佐藤バトラーに近い(竹村和子亡き後、バトラー著作邦訳を担っている)。「脱原発哲学」にもそれっぽい論法が出てくるのが、こちらは功を奏しなかった。資本主義と真っ向から対立するような場面では効かないのだろう。ちなみに佐藤博論には東も登場しており、バトラーも東の名前は知っているものと思われる。

観光客哲学」はネグリハート帝国」を下敷きにしているが、そこでのマルチチュードは、共通性がなくても集まればいいという発想で集められているものであり、否定神学であるとして、郵便マルチチュードとしての観光客対置する。東は原発事故後の市民運動に対して否定的であり、SEALDsなどを毛嫌いしていた。第二次安倍政権は次々と「戦後レジーム」を否定する法案を提出しており、それに対抗する市民運動は盛り上がっていたが、負け続けていた。しかし、Me too運動が始まってからというものリベラルマイノリティ運動に乗り換え、勝ち続けるようになる。「観光客哲学」は市民運動が負け続ける状況に応答しているが、「訂正可能性の哲学」(2023年)はマイノリティ運動が勝ち続ける状況に応答している。小熊英二こたつぬこ木下ちがや)はSEALDsの同伴者であったが、マイノリティ運動に与した共産党には批判である。小熊の「1968」(2009年)は絓秀実革命的なあまり革命的な」(2003年)のマイノリティ運動に対する評価をひっくり返したものなので、こういう対応は分からなくはない。東も「革あ革」を評価していない。「絓さんの本は、ぼくにはよくわからなかった。六八年の革命は失敗ではなく成功だというのだけれど、その理由が明確に示されないまま細かい話が続いていく。どうして六八年革命成功していることになるのか」(「現代日本批評2001-2016」、講談社、71頁)。論旨そのものは分かりやすい本なので、かなりの無理解であろう。

東はアベノミクスには何も言っていない。政治には入れ込んでいるが、経済は分からないので口を出さないという姿勢である経済について分かっていないのに口を出そうとしてリフレ派に行ってしまった人は多い。宮﨑哲弥が典型であろうが、北田もそうであるブレイディみかこ松尾匡と「そろそろ左派は<経済>を語ろう――レフト3.0の政治経済学」(2018年)という対談本を出している。リベラルが負け続けているのは、文化左翼路線だけでは大衆に支持されることはなく、経済についても考える必要があるという主張であるが、リベラルマイノリティ運動で勝ちだしてからはこういうことは言わなくなった。北田2023年から刊行されている「岩波講座 社会学」の編集委員代表を務めている。

観光客哲学」の次の主著は「訂正可能性の哲学であるこちらも郵便本の続編といっていいのであろうが、そこに出てきた訂正可能性(コレクタビリティ)という概念がフィーチャーされている。政治的な正しさ(ポリティカル・コレクトネス)を奉じている者がそうしているように、理想を固定したものとして考えるのではなく、誤りをコレクトするという姿勢大事であるということらしい。駄洒落のようであると言われることもある。森脇によると、東は状況に合わせてありきたりの概念意味を変えるという「再発明」の戦略を採っているが、この「再発明」の戦略を言い換えたものが訂正可能なのだという(森脇「東浩紀批評アクティヴィズムについて」)。そうだとすると、訂正可能性は郵便本では脇役であったが、これが四半世紀後に主役になることには必然性があったということであろうか。

こうして現在2024年7月)まで辿りついたのであるが、東は多くの人と関係を断ってきたため、周りに人がいなくなっている。東も自身気質自覚している。「ぼくはいつも自分で始めた仕事自分で壊してしまう。親しい友人も自罰的に切ってしまう。「自己解体境界侵犯欲望」が制御できなくなってしまう。だからぼくには五年以上付き合っている友人がいない。本当にいないのだ」(東浩紀桜坂洋キャラクターズ」、2008年、73頁)。一人称小説の語り手の言葉であるものの、現実の東と遠からものと見ていいであろう。ここからは東の決裂を振り返る。

宇野常寛は東を批判して「ゼロ年代の想像力」(2008年)でデビューしたのであるが、東に接近してきた。ゲンロンは宇野のような東に近い若手論客結集する場として企画されたそうである。東によると、宇野を切ったのは、映画「AZM48」の権利宇野要求してきたかららしい。「東浩紀氏の告白・・・AZM48をめぐるトラブルの裏側」というtogetterに東のツイートが集められている。2011年3月10日から11日を跨ぐ時間帯に投稿されたものであり、まさに震災直前である。「AZM48」は「コンテクチュアズ友の会」の会報「しそちず!」に宇野が連載した小説である映画原作なのだろう)が、宇野ウィキペディアには書かれていない(2024年7月27日閲覧)。円堂都司昭は「ゼロ年代論点」(2011年)の終章で「AZM48」を論じようと企画していたが、止めておいたそうである。「ゼロ年代批評をふり返った本の終章なのだから2010年代を多少なりとも展望してみましょうというパートなわけだ。批評家たちのホモパロディを熱く語ってどうする。そこに未来はあるのか?」(「『ゼロ年代論点』に書かなかった幻の「AZM48」論」)。

濱野智史は「アーキテクチャ生態系」(2008年)でデビューしているが、アーキテクチャ論こそ「「ゼロ年代批評」の可能性の中心」(森脇、前掲論文)であった。東の右腕的存在だったこともあり、「ised情報社会倫理設計」を東と共編している。濱野は東と決裂したというより、壊れてしまった。その頃、AKB48などのアイドル流行りつつあり、宇野は、東をレイプファンタジーなどと批判していたのにもかかわらず、アイドル評論を始めたのであるが、濱野もそちらに付いていってしまった。「前田敦子はキリストを超えた 宗教としてのAKB48」(2012年)を刊行する。これだけならよかったものの、アーキテクチャ論を実践すべく、2014年アイドルグループPlatonics Idol Platform (PIP)をプロデュースするも大失敗してしまい、精神を病んでしまった。行方が分からなくなっていたが、「『豪の部屋』濱野智史社会学者)が経験したアイドルプロデュース真相」(2022年)に出演して、東に「ぐうパワハラされた」ことを明かした。

千葉雅也の博論本「動きすぎてはいけない」(2013年)には、浅田彰東浩紀が帯を書いていて、「構造と力」や「存在論的、郵便的」を承継する構えを見せていた。郵便本をきちんと咀嚼した希な例ということらしい。東がイベント千葉ゲイであることをアウティングしたのであるが、その場では千葉は黙っていたものの、「怒っている。」などとツイートする(2019年3月7日、「男性性に疲れた東浩紀何をいまさらと怒る千葉雅也」)。これに反応して、東は「千葉との本は出さないことにした。仕事も二度としない。彼は僕の人生全否定した」などと生放送で二時間ほど怒涛の千葉批判を行った。こうして縁が切れたわけであるが、千葉くらいは残しておいても良かったのではないかと思われる。國分は数年に一度ゲンロンに登壇するようであるが、このくらいの関係でないと続かないということだろうか。

大澤聡も切ったらしいのであるが、「東浩紀突発#110 大澤聡さんが5年ぶりにキタ!」(2023年10月16日)で再会している。どうして切ったのかはもはやよく分からないが、それほどの遺恨はなかったのだろう。

福嶋亮大は向こうから去って行ったらしい。鼎談現代日本批評」の第1回、第2回に参加しながら、第3回に参加することを拒んだらしい。東も理由はよく分からないようである。珍しいケースといえよう。

津田大介とは「あずまんのつだっち大好き・2018年猛暑の巻」(2018年8月17日)というイベントが開催されるほど仲が良かった。津田2017年7月17日にアイチトリエンナーレ2019の芸術監督就任し、東は2017年10月企画アドバイザー就任する。しかし、企画展「表現不自由展・その後」に政治的圧力が加えられ、2019年8月14日、東は企画アドバイザーを辞任する。この辞任はリベラルから顰蹙を買い、東はますますリベラル嫌いになっていく。批評家は大衆に寄り添わざるを得ないので、こういう判断もあり得るのだろうか。

東は2018年12月18日にツイッターゲンロン解散を発表するが、上田洋子らに説得されて、

東浩紀

東浩紀の伝記を書く。ゼロ年代に二十代を過ごした私たちにとって、東浩紀特別存在であった。これは今の若い人には分からいであろう。経験していないとネット草創期の興奮はおそらく分からいかである。たしかにその頃は就職状況が悪かったのであるが、それはまた別にインターネットは楽しかったのであり、インターネットが全てを変えていくだろうという夢があった。ゼロ年代代表する人物を3人挙げるとすれば、東浩紀堀江貴文ホリエモン)、西村博之ひろゆき)ということになりそうであるが、彼らはネット草創期に大暴れした面々である。今の若い人たちはデジタルネイティブであり、それこそ赤ちゃんの頃からスマホを触っているそうであるが、我々の小さい頃にはスマホはおろか携帯電話すらなかったのであるファミコンはあったが。今の若い人たちにはネットがない状況など想像もできないだろう。

私は東浩紀の主著は読んでいるものの、書いたもの網羅的に読んでいるというほどではなく、酔っ払い配信ほとんど見ていない。しかし、2ちゃんねる(5ちゃんねる)の東浩紀スレ古参ではあり、ゴシップ的なことはよく知っているつもりである。そういう立場から彼の伝記を書いていきたいと思う。

1 批評空間

東浩紀は71年5月9日まれである。「動ポモ」でも援用されている見田宗介時代区分だと、虚構時代のちょうど入り口で生を享けたことになる。國分功一郎は74年、千葉雅也は78年生まれである。國分とはたった3歳しか離れていないが、東が早々にデビューしたために、彼らとはもっと年が離れていると錯覚してしまう。

東は中流家庭に生まれたらしい。三鷹市から横浜市引っ越した。東には妹がおり、医療従事者らしい(医者ではない)。父親金沢出身で、金沢二水高校を出ているそうである(【政治番組東浩紀×津田大介×夏野剛×三浦瑠麗が「内閣改造」について大盛り上がり!「今の左翼新左翼左翼よりバカ!」【真実幻想と】)。

東は日能研でさっそく頭角を現す。模試で全国一桁にいきなり入った(らしい)。特別栄冠を得た(らしい)。これに比べたら、大学予備校模試でどうとかいうのは、どうでもいいことであろう。

筑駒筑波大学附属駒場中学校)に進学する。筑駒在学中の特筆すべきエピソードとしては、おニャン子クラブ高井麻巳子福井県実家訪問したことであろうか。秋元康結婚したのは高井であり、東の目の高さが分かるであろう。また、東は中学生時代うる星やつらファンクラブを立ち上げたが、舐められるのがイヤで年を誤魔化していたところ、それを言い出せずに逃げ出したらしい(5ちゃんねる、東浩紀スレ722の555)。

もう一つエピソードがあって、昭和天皇が死んだときに、記帳に訪れたらしい。

東は東大文一に入学する。文三ではないことに注意されたい。そこで柄谷行人の講演を聞きに行って何か質問をしたところ、後で会おうと言われ、「批評空間」に弱冠21歳でデビューする。「ソルジェニーツィン試論」(1993年4月であるソルジェニーツィンなどよく読んでいたなと思うが、新潮文庫ノーベル賞作家を潰していくという読書計画だったらしい。また、残虐記のようなのがけっこう好きで、よく読んでいたというのもある。三里塚闘争についても関心があったようだ。「ハンスが殺されたことが悲劇なのではない。むしろハンスでも誰でもよかったこと、つまりハンスが殺されなかったかも知れないことこそが悲劇なのだ」(「存在論的、郵便的」)という問題意識で書かれている。ルーマン用語でいえば、偶発性(別様であり得ること)の問題であろうか。

東は、教養課程では、佐藤誠三郎ゼミ所属していた。佐藤村上泰亮公文俊平とともに「文明としてのイエ社会」(1979年)を出している。共著者のうち公文俊平だけは現在2024年7月)も存命であるが、ゼロ年代に東は公文グロコムで同僚となる。「文明としてのイエ社会」は「思想地図」第1号で言及されており、浩瀚な本なので本当に読んだのだろうかと思ったものであるが、佐藤ゼミ所属していたこから学部時代に読んだのだろう。

東は94年3月東京大学教養学部教養学科科学史科学哲学分科を卒業し、同4月東京大学大学総合文化研究科超域文化科学専攻に進学する。修士論文バフチンで書いたらしい。博士論文ではデリダを扱っている。批評空間に94年から97年にかけて連載したものをまとめたものである私たち世代は三読くらいしたものである博論本「存在論的、郵便的」は98年に出た。浅田彰が「東浩紀との出会いは新鮮な驚きだった。(・・・)その驚きとともに私は『構造と力』がとうとう完全に過去のものとなったことを認めたのである」という帯文を書いていた。

郵便本の内容はウィキペディアの要約が分かりやすく、ツイッター清水高志が褒めていた。「25年後の東浩紀」(2024年)という本が出て、この本の第3部に、森脇透青と小川歩人による90ページにわたる要約が付いている。森脇は東の後継者と一部で目されている。

東の若いころの友達阿部和重がいる。阿部ゲンロンの当初からの会員だったらしい。妻の川上未映子は「ゲンロン15」(2023年)に「春に思っていたこと」というエッセイ寄稿している。川上早稲田文学市川真人によって見出されたらしく、市川渡辺直己の直弟子である市川鼎談現代日本批評」にも参加している。

東は、翻訳家小鷹信光の娘で、作家ほしおさなえ1964年まれ)と結婚した。7歳年上である不倫だったらしい。98年2月には同棲していたとウィキペディアには書かれていたのであるが、いつのまにか98年に学生結婚と書かれていた。辻田真佐憲によるインタビュー東浩紀批評家が中小企業経営するということ」 アップリンク問題はなぜ起きたか」(2020年)で「それは結婚の年でもあります」と言っており、そこが根拠かもしれないが、明示されているわけではない。

そして娘の汐音ちゃん生まれる。汐音ちゃん2005年6月6日まれであるウィキペディアには午後1時半ごろと、生まれ時間まで書かれている。名前クラナドの「汐」と胎児聴診器心音ちゃんから取ったらしい。ツイッターアイコンに汐音ちゃん写真を使っていたものの、フェミに叩かれ、自分写真に代えた。汐音ちゃんは「よいこのための吾妻ひでお」 (2012年)のカバーを飾っている。「日本科学未来館世界の終わりのものがたり」展に潜入 "The End of the World - 73 Questions We Must Answer"」(2012年6月9日)では7歳になったばかりの汐音ちゃんが見られる。

96年、コロンビア大学大学入試に、柄谷の推薦状があったのにもかかわらず落ちている。フラタニティ的な評価によるものではないかと、どこかで東は推測していた。入試について東はこう言っている。「入試残酷なのは、それが受験生合格不合格に振り分けるからなのではない。ほんとうに残酷なのは、それが、数年にわたって、受験生家族に対し「おまえの未来合格不合格かどちらかだ」と単純な対立を押しつけてくることにあるのだ」(「選択肢無限である」、「ゆるく考える」所収)。いかにも東らしい発想といえよう。

2 ゼロ年代

東の次の主著は「動物化するポストモダン」で、これは2001年刊行される。98年から01年という3年の間に、急旋回を遂げたことになる。「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」はその間の論考である

東はエヴァに嵌っており、「庵野秀明はいかにして八〇年代日本アニメを終わらせたか」(1996年)などのエヴァ論も書いている。その頃に書いたエッセイは「郵便不安たち」(1999年)に収められた。エヴァ本をデビュー作にすることも考えたらしいが、浅田彰に止められたらしい。だからサブカル本を出すというのは、最初から頭の中にあったのだろう。

「いま批評場所はどこにあるのか」(批評空間第Ⅱ期第21号、1999年3月)というシンポジウムを経て、東は批評空間と決裂するが、それについて25年後に次のように総括している。「ぼくが考える哲学が『批評空間』にはないと思ってしまった。でも感情的には移転があるから、「お前はバカだ」と非難されるような状態にならないと関係が切れない」(「25年後の東浩紀」、224-5頁)。

動ポモ10万部くらい売れたらしいが、まさに時代を切り拓く書物であった。10万部というのは大した部数ではないようにも思われるかもしれないが、ここから動ポモ論壇」が立ち上がったのであり、観客の数としては10万もいれば十分なのであろう。動ポモフェミニストには評判が悪いようである北村紗衣も東のことが嫌いらしい。動ポモ英訳されている(Otaku: Japan's Database Animals, Univ Of Minnesota Press. 2009)。「一般意志2.0」「観光客哲学」も英訳されているが、アマゾンのglobal ratingsの数は動ポモが60、「一般意志2.0」が4つ、「観光客哲学」が3つと動ポモが圧倒的である2024年8月3日閲覧)。動ポモ海外論文でもよく引用されているらしい。

次の主著であるゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2」までは6年空き、2007年に出た。この間、東は「情報自由論」も書いていたが、監視否定する立場から肯定する立場へと、途中で考えが変わったこともあり、単著としては出さず、「サイバースペース」と抱き合わせで、同じく2007年に発売される(「情報環境論集―東浩紀コレクションS」)。「サイバースペース」は「東浩紀アーカイブス2」(2011年)として文庫化されるが、「情報自由論」はここでしか読めない。「サイバースペース」と「情報自由論」はどちらも評価が高く、この頃の東は多作であった。

この頃は北田暁大と仲が良かった。北田は東と同じく1971年まれである。東と北田は、2008年から2010年にかけて「思想地図」を共編でNHK出版から出すが、3号あたりで方針が合わなくなり、5号で終わる。北田は「思想地図β」1号(2010年)の鼎談には出てきたものの、今はもう交流はないようである北田はかつてツイッターで活発に活動していたが、今はやっていない。ユミソンという人(本名らしい)からセクハラ告発されたこともあるが、不発に終わったようである結婚して子供もできて幸せらしい。

その頃は2ちゃんねるネットの中心であったが、北田は「嗤う日本の「ナショナリズム」」(2006年)で2ちゃん俎上に載せている。北田は「広告都市東京」(2002年)で「つながりの社会性」という概念を出していたが、コミュニケーションの中身よりも、コミュニケーション接続していくことに意味があるというような事態を表していた。この概念を応用し、2ちゃんでは際どいことが言われているが、それはネタなので心配しなくていいというようなことが書かれていた。2ちゃん分析古典ではある。

東は宮台真司大澤真幸とも付き合っているが、彼らは北田のように鋭くゼロ年代を観察したというわけではなく、先行文献の著者である。宮台は98年にフィールドワークを止めてからは、研究者というよりは評論家になってしまった。大澤は日本ジジェクと称されるが、何を論じても同じなのもジジェクと同様である動ポモは彼らの議論を整理して更新しているのであるが、動ポモも「ゲーム的リアリズムの誕生」も、実際に下敷きになっているのは大塚英志であろう。

宮台や大澤や北田はいずれもルーマンであるが、ルーマンっぽいことを言っているだけという印象で、東とルーマンも似ているところもあるというくらいだろう。しかし、ルーマン研究者馬場靖雄2021年逝去)は批評空間に連載されていた頃から存在論的、郵便的」に注目しており、早くも論文正義門前」(1996)で言及していた。最初期の言及ではないだろうか。主著「ルーマン社会理論」(2001)には東は出てこないが、主著と同年刊の編著「反=理論のアクチュアリティー」(2001)所収の「二つの批評、二つの社会」」ではルーマンと東が並べて論じられている。

佐々木敦ニッポン思想」(2009年)によると、ゼロ年代思想は東の「ひとり勝ち」であった。額縁批評などと揶揄される佐々木ではあるが、堅実にまとまっている。類書としては、仲正昌樹「集中講義日本現代思想 ポストモダンとは何だったのか」 (2006)や本上まもる「 “ポストモダンとは何だったのか―1983‐2007」 (2007)があったが、仲正は今でも読まれているようである。本上は忘れられているのではないか。この手の本はこれ以後出ていない。需要がないのだろうか。

佐々木の「ひとり勝ち」判定であるが、そもそもゼロ年代思想土俵を作ったのは動ポモであり、そこで東が勝つというのは当たり前のことであった。いわゆる東チルドレンは東の手のひらで踊っていただけなのかもしれない。懐かしい人たちではある。

北田によると、東の「情報技術公共性をめぐる近年の議論」は、「批評が、社会科学的な知――局所から全体を推測する手続きを重視する言説群――を媒介せずに、技術工学的知と直結した形で存在する可能性の模索である」(「社会批評Introduction」、「思想地図vol.5」、81-2頁)ということであるが、ゼロ年代の東はこういう道を歩んでいた。キットラーに似ており、東チルドレンでは濱野智史がこの道を歩んだのであるが、東チルドレンが全てそうだったわけでもなく、社会学でサブカルを語るというような緩い営みに終始していた。宇野常寛などはまさにこれであろう。

佐々木ニッポン思想」と同じ2009年7月に、毛利嘉孝ストリート思想」が出ている。文化左翼歴史をたどっているのであるが、この頃はまだ大人しかった。ポスコロ・カルスタなどと揶揄されていた。しかし、テン年代佐々木命名から勢いが増していき、今や大学メディア大企業裁判所を押さえるに至っている。しかし、ゼロ年代において、動ポモ論壇と比較できるのは、非モテ論壇やロスジェネ論壇であろう。

非モテ論壇は、小谷野敦の「もてない男」 (1999年)に始まり本田透に引き継がれるが、ものすごく盛り上がっているというほどでもなかった。本田消息が分からなくなり、小谷野2017年から売れなくなった。ツイッターでは雁琳のような第三波フェミニズムに応対できる論者が主流となっているが、そういうのの影に隠れたかたちであろう。大場博幸「非モテ独身男性をめぐる言説史とその社会包摂」(2021年教育Permalink | 記事への反応(13) | 17:44

2024-05-21

「とりあえず謝る」って便利だよな

なにか問題が起きたとして

その原因が何割どちらにあるかなんて、入念に検証しなきゃわからないんだ

から、その人がどれくらい相手自分が悪いと思うかなんて、その場や考え方による

でも大抵の場合いちばん大事なのは責任追及じゃなくて、その次にどうするかだから

双方が自分の悪かった点を反省して(自罰的に)謝れば、場がうまく収まる

 

Aさん「すいません、自分がこうすればよかったかもしれません」

Bさん「こちらこそすいません、自分がこうしていたらよかたです」

これでいい

 

別解として、実はこういうのもある

Aさん「あなたがこうすれば問題は起こらなかった」

Bさん「なるほど、でもあなたがこうしても解決した」

これで話が済むなら、これでもいい

 

問題は両方が混ざる場合

2024-04-26

責めたくないけど友人にモヤる

 友人と他数名で、共同制作作品を作っている。

 どんなものを作るのか、どの程度の進捗なのかを毎週話して進めている。時間が無く、他に主導する人もいないので、普段から私が話を進めることが多い。

 私と友人は担当する箇所が密接なので、特によく話をする。そこでモヤるところにぶつかった。

 私が考えた計画設計ほとんどを考え直したいと言われた。計画を1ヶ月以上進めた後に、だ。

 友人が言うには、共同制作から私だけが考えたものではなく、自分が考えたものも入れたい、という話だった。

 それは私も考えていて、計画しながらこれって共同制作意味あるのかな? と思っていた。担当箇所の根幹に関わるところを、私ひとりで考えていたからだ。

 はじめから、一緒に考えよう、と言えばよかったんだろうか?

 しかし毎週の会議では、誰がその設計をするのか、誰も言い出さなかったのだ。私は自分担当箇所だと思い、立候補した。

 それに会議が終わったあとには、質問確認したいこと、伝えておきたいことは無いかと毎週言っていた。その時友人は、担当箇所を一緒に考えたいとは言ってこなかった。1ヶ月間、一度も……。

 友人は、「自分制作方法計画的なものでは無く、思いついた時、やりたい時にやる」、「疑問は感じていたが言い出せなかった」とも言った。

 本人の性質からして、嘘は言っていない。そして同時に、多分こいつは忘れているのだ。私が話の最後に最終確認する時には、一緒に設計したいと思っていることがポンと抜けてしまって、毎週毎週言い出せなくて、今になって言ったのだ。設計の大枠を考え終わった1か月後に!!

 私はふざけた調子で、言ってよ〜!!と叫びながら、ちょっと泣いた。

 この設計が出来るまでに、省略するが紆余曲折あったのだ。制作メンバーに謝ったり睡眠時間を削ったりしながら、設計を提出したのだ。

 それなのに、この仕打ち。私の確認不足と言えばそうかもしれないが、1ヶ月間毎週なにか無いか確認していたのに、これ以上どう確認したらよかったと言うのだ。

 これを防ぐにはもう、毎日なんか思いついてない? 言いたいことない? と確認するしかないのではないか保護者か。私は出来るだけのことをやったと思いたい……。

 そしてなにより私にとって悲しいのは、設計がまた1からになる事よりむしろ、友人は私のこの感情理解出来ないだろうということだ。

 先述したように、友人は「思いついた時にやる」スタイルなのだ。私は計画が崩れた気分だが、友人にとっては、今思いついたから、言って、やる。それだけの事なのだろう。

 また人に対して感情よりも理論で事を進める友人は、単に私が怒っていると思って、すげー困った顔をする。意地悪な言い方をすると、面倒くさそうにする。

 1ヶ月も何も言わなかったのに何を今更!!  そう言われて私がどう思うのか分からないのか!? と言っても、多分本当に分からないだろう。本人は本当に、当たり前にこういう振る舞いをしている。私が怒っているので、早く落ち着いてくんないかな、なんとかやり過ごそう、とすら思っているかもしれない。被害妄想が過ぎるか?

 実際には、私は怒っていて、悲しんでいて、後悔も自罰反省もして、友人に言ってやりたいことも、理解させてやりたいことも沢山あって、なんなら一発殴ってやりたいとすら思っている。過去に戻ることは出来ないので、もうそれくらいでしかこの気持ちを発散出来ない。でも理解されることは無いだろう……。

 他の制作メンバーのしてきたこと、私がしてきたこと、友人がしてきたこと、その全てを無駄にしないためにも、私はここで食いしばるべきだろう。

 友人の提案に従って設計をやり直し、期日までに制作する、それだけだ。

 それだけだが、このモヤりをどこにも出さず理解されないまま進められるほど、私は利口ではない、本当に。

 マジで一発殴らせてくんないかな。お前のせいでこうなってるんだからなと言って、一発殴って、それで終わりに出来ないかな……

2024-02-25

anond:20240225102632

一方で野際かえでは徹底した胸糞悪くなるような漫画の描き手でどっちもロリコン読者に自罰的な内容なのが興味深いよな

例えばポンスケとかはやけがこんな内容に踏み込んでくるとは思えないし

2024-02-14

anond:20240212222718

釣りに釣られて長文乙やがな

本当だとしても(わざとらしく描写されないだけで)現実では婚活相談からとがめがくるわけだし

自分自罰したことにしてケリつけてるんやからかまわんほうがええんちゃう

旧帝大もほぼ嘘やろこれ

ほんまダボハゼは楽しそうに長文たれながすのうー

2024-01-24

喧嘩をしたい」と「相手を罰したい」をはき違えるな

anond:20240124202726

文章生成AI実用化できるレベル流行ったタイミング23年なので「最後LINEしてから2年」という時点でそもそも時系列グチャグチャで、どれだけ好意的に見ても何割かはフェイク入ってるんだろうなと思ったが、以下、「この記事に幾ばくかの真実が書かれている」という前提で垂れ流すけど(釣られたのなら普通に笑ってくれ)。

行間から「A子が悪い」という思いがにじみ出ててるので、そう感じてるうちはあなたが悪いとしか言いようがない。賭けてもいいけど、終盤での既読スルーされてるときに送ったLINE、多分一度も謝ってないでしょ。

「それって、何も反省してないヤツの考えだよ」と。

何がダメだったかってこれが最悪の間違いでしょうね。誹謗中傷されてる友人が悩んでるときに、自分が傷ついたこ過去出来事にかこつけてこれ言うの普通にアウトでしょ。友人のことを何一つ考えてない。なんなら友人を傷つけるつもりで言ってるよね。

あなたとA子さんとの間の問題で言うなら別にいいよ。でもこれ別案件で言ったんだよね。そこには悪意しかないよ。

罰したかったんでしょ?罰した結果相手から距離取られたんでしょ?

自分大事にしてくれない相手から距離とるの当たり前じゃん。それは身から出た錆としか言いようがない。

喧嘩と言うものを少しは覚えた方がいい。

私はA子を大事にしているつもりだった

こことかマジで矛盾してるからね。「喧嘩した方がいい」はギリギリ信じてもいいけど、相手を傷つける気満々の発言が「大事にしているつもり」なわけないじゃん。「大事にする」とは相手を中心にして考える言葉であって、自分ベースに考える言葉じゃないよ。人間なんて利己的な生き物なので自分大事にしてくれない相手に怒るのはわかるけど、「相手大事にする」とは「自分を傷つけないような行動を取るよう相手の行動を強制する」ことではないよ。

しかもこの場合はそのやり方が悪い。「自分が傷ついた」ということを相手理解してもらうためにやるべきことは「自分が傷ついたことを相手に伝える」ことであって、「自分が傷ついた分、相手を傷つける」ことではないよ。

相手を傷つけたいという気持ちあなた性格問題であって、相手は何一つ悪くない。

というか20年一緒にいて相手自罰的か他罰的かの判断すらできないならまともにその人のことみてなかったんじゃないの?

喧嘩をすることと相手を傷つけることは別の行為だよ。本当に反省した方がいい。

「本当に」相手のことを大事にしたいんだったら、次から自分が傷ついたときやるべきことは「私はあなた言動で傷つきました」と伝えることだよ。A子さんが本当にかわいそうだ。

2024-01-19

狂う独身と狂わない独身の違い

SNSで長くフォローしてる人達見てて思うんだけど

狂ってない高齢独身は良くも悪くもゆるい

狂ってる方の高齢独身若いからやたらめったら他罰

と同時に他罰的なだけではなく自分に厳しい真面目な一面もある

しかし今まで叩いてきた生涯独身という社会的に正しくない状態が我が身に降りかかってきた時に

生真面目さが災いして過剰に自罰的になり、その時期を過ぎると自己防衛からさらなる他罰(=自分がこうなったのは社会おかしい)に転じるのではないだろうか

2023-11-02

ウェルベックを「終わってる村上春樹」と例えてるのを見て村上春樹ちょっと興味持った。

中学の頃1Q84読んでみたけど、何がなんやらさっぱりだった。スノッブでやたらセックスをするくらいの前印象しかなくて、確かにくらいに思った。途中で読むのやめた。

空豆みたいな名前美人だけど顔がアシメントリー殺し屋セックスしたりなんか線路だか高架だかに靴を脱いでなんかやってるシーンしか覚えてない。

あとあと現文で村上春樹翻訳したって小説も読んだけど、そっちはマジで手榴弾(手投げ弾って表現についてなんか解説を受けたような気がする)が出てくる事しか覚えてない。

この間ドライブ・マイ・カー観て、喪失再生テーマだ、的な受け売りコンパス何となく言わんとしてる事は読み取ったような気分になった。

演劇自分の心の声を聞くことだなんて語ってみるけど、もっと地に足のついた悩みは抑圧してしまっている事にも気がつけない。理屈を超えて悲しむべき時は悲しんで、どうにかこうにか生きていくしかない。的な。チェーホフ劇中劇がかなり内容と密接に絡んでるっぽかったから、ちゃんとそのメタファー直喩か?)を意識しながら観てたらちょっと疲れた

10代の頃読んだスノッブセックスデカダンス小説も今読めばまた違った感想になるかもしれない。

この間人間失格を読んでみた時も、多分中学の時に読んでたら違う感想になってただろうなって思ったし。当時なら「これは自分だ……自分けが本当の意味で彼を理解できる……」って思ってた気がする。今読んだ限りでは総じて自意識肥大したナルシスト自己弁護じゃん。社会性として、エクスキューズとして自罰的な風を装ってるだけで、自分大好き人間じゃん。ケッ、って感じだった。ただ所々人間普遍的な悩みを明確な輪郭で描いたパンチラインがあって、そこは自意識を突っつかれたけど。

でもおれが興味あるのは人間存在不条理とか実存主義みたいなテーマだし、村上春樹よりはカミュとか読んだほうがいいのかもしれない。

2023-09-17

エレ傘女とギリギリスイッチ

https://anond.hatelabo.jp/20230916071759

勿論警戒はダメだとか言うのは完全NGだし女性の性被害と怖がる心情にも真剣に寄り添い対策を考えるのは大前提として

実際問題人生で何回かはエレ傘女の様な警戒というより威嚇攻撃みたいなのを食らって

何もしていないし下心すら抱いていないにも関わらず、女から蛇蝎のごとく嫌われる存在であるというハラスメントを受けて

人間の悪意と女性反論すると異常者扱いされる社会権力勾配に傷つき尊厳を貶められた経験がある男性は多いと思われる。


あれから何年も経つけど未だに思い出すと恥辱屈辱で頭の中が熱くなっておかしくなりそうな怒りを覚える。

一般的会社員生活を送り家庭を持つ自分の様な一般人ですら、苦しくて狂いそうになる屈辱女性無自覚ハラスメントにより受けたのだから

本当のヤバい奴の、加害行動に至る最後きっかけ、いわばギリギリスイッチを押してしまうだけで、エレ傘女みたいな

✕警戒

威嚇攻撃

は、警戒にもなっていないどころか寧ろ自分の身を危険晒すだけでは?という疑問がある。

はっきり言ってそういう女が本当に危ない目にあって被害に遭おうが「ざまぁみろ」としか思わないし、思われない。

性犯罪被害を怖がるばかりに、大多数の庇護すべき性犯罪被害者のイメージすら貶めている。


しかし、性犯罪者とかいうごくごく一部のヤバい奴だけじゃなくて、社会にはヤバい奴になりかけている奴、要素がある奴、不満や鬱屈を抱えて爆発しそうになっている人間は、性犯罪者のそれよりは多い。

そういう、世間自分他人鬱屈を抱えて爆発しそうな人間に対しての警戒という名の威嚇攻撃は、ギリギリ踏み止まっていた人間の「最後の一線」の背を押してしまう、ギリギリスイッチを押してしまうのでは無いか


また、犯罪者的なヤバい奴とは別枠として、敵とみなした相手を潰す事に躊躇しないタイプ人間がいる。

こういった人間は、一旦敵とみなした相手には極めて容赦が無い。「自分を害して潰してきそうな人間は潰す」という、侍の様なメンタルで生きている人間は、意外と少なくない。

そういった人間の敵になってしまギリギリスイッチを押してしま可能性も、ある。


色んな類のヤバい奴のギリギリスイッチを押しかねないエレ傘女の愚行については、本人が一番被害を被る可能性を高めるだけなので自業自得しか無いのだが

そういった輩に限って、自罰意識が無いので被害者感情を拗らせますます他責性を高めて、99.99%の善良な一般人攻撃をするモンスターになるのが困りものなのだが。

2023-06-30

自分男性性が憎い

しばらく自殺したいと思っていたが、男性をやめる(精巣摘出)すればなんとかなるのではないかと思い始めた。私自男性性にこだわりはないので、できるものならやってしまいたい。

やめたい理由

1.性欲が強い

何もなくてもすぐシコるし、先日友人を傷つけてしまった。

シコるのは時間と体力の無駄だし、自分男性性によって友人を傷つけたのが許せないという自罰的な面もある。

そのくせセックスするのはそんなに好きじゃなかった。

性欲がなくなれば彼女ほしいという欲求も別のものに姿を変えるのではないか

2.自分心理

そもそも中性的容貌をしていて、空気によっては女性が飲むフェーズでも飲まされたりする。友人の中では半ば女性として扱われている雰囲気すらあり、私の中での抵抗感もあまりない。私は女子メイクというものにも興味があり、堂々とやりたいと思ってもいる。

やりたくない理由(というか、心配なこと)

1.スポーツ身体的な面

私はあるスポーツをやっていて、大会などには当然男子として出場しているが、そもそも体格に恵まれていたわけではないためやめた後も男性で出るのは少しチームメイト申し訳ない。かといってすぐ女性で出るのもどうかとは思う。(そもそも出られるのか?)

2.パートナー存在

世の人間の多数は異性が好きなのであり、男性をやめた後の私は基本的対象から外れるだろう。セックスに対する欲望自体はなくなっても、人肌恋しさは抜けないと思われるのでパートナー探しに著しく難航する可能性がある。というか多分私の好みとして女の子が好きなのは変わらない。

3.子供ができない

パートナーがいれば、という話にはなるが子供ができなくなる。私は金銭的に困る見込みはないので、これに関しては養子を取ればいいかなーとも思っている。自分遺伝子を継ぐものがいないのは残念だが。

(4.これは本当にどうでもいいのだが、私のそれは平均より幾分大きいらしく、もったいないと言われそう。それだけ)

性転換手術、またはそれに類する治療を受けている人がいたら体験談を聞きたい。性同一性障害、というわけではないと思うが、私は多少医療知識があるため詐病可能と考えている。

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