はてなキーワード: 書簡とは
困ったな、あまり悲しくないんだ
家を出て22年
今年5月に「病気が悪化してきたから会ってやってほしいが、仲立ちはしたくないので自分で連絡しろや」
という母からの胸糞な要請を受けて親父に連絡をして、向こうの希望するままにセッティングをして、すっぽかされた
そういう病気だし
しかし連絡がひとっつも来ない
そして昨日亡くなったと叔母経由で知らされた
もちろん母からは何もない
家を出た理由は根深くて書ききれないが、母とは違って親父とはいい思い出もあった
それにしても親父のためにと言うのならば、仲立ちくらいちゃんとやれやと思う
結局実家の人々は親父のために動く気はまるでなかったんだなと思うと、
「あんたも浮かばれないね」と言ってやりたくなるってもんである
なお、母には少しもいい思い出がないので、多分こっちは亡くなったら祝杯もん
さあ、葬式だ
きっと私は親不孝者として袋叩きにあうのだろう
現在のところ「煮詰まる」という言葉は、「議論や交渉がまとまって結論が出る」という用法が正しいとされ、「議論が進まなくなって行き詰まる」という用法は誤用であるとされている。「煮詰まる」という言葉がどのように用いられてきたのかに興味を持ったので、その変遷を辿っていこうと思う。ソースはだいたい国会図書館デジタルコレクションである。
注意として、ここでは「煮詰まる」と「煮詰める」を区別して、「煮詰まる」の用例のみを追っていくこととする。現在においても「煮詰める」のほうには「行き詰まる」という用法はなさそうだからである。
調べてまず気付くのは武者小路実篤が「煮詰まる」を多用していたことである。そして同じく白樺派の有島武郎や長与善郎、その影響を受けたという岸田劉生・木村荘八なども「煮詰まる」を用いている。まるで実篤から伝染したようである。それらは概ね「無駄な修飾を排して凝縮されている」あるいは「態度が一つに決まっていく」というような用法であり、いずれもポジティブな意味で使っているところが共通している。いくつかの例を挙げる。
心が二元的である間は、即ち或る機縁によって煮つまって一元的にならない間は、どこまでも二元なり多元なりの生活を押し通して行くがいいと思う。
牛のよだれのようにだらだらした書きぶりがいかんのは問題にもならぬ事であるが、さればと云って何でも只無暗に簡潔に端折って書きさえすればいいと云う事を一つおぼえて、まるで電報の文句のような言葉さえつかえば煮つまったいい文章だ、と思っている人の文章は又不自然な、とらわれた感じのするものである。
もちろん白樺派以外の用例も同時期にあった。意味的にはさまざまだが、ネガティブな用法も多かったようだ。
この説明には余程可笑しな点がある、で、僕は云った。
もとは『The Scarlet Empire』というタイトルのアメリカの小説である。原文は「It looks as if religion may correctly be said to have gone to seed, in this country.」となっており、「gone to seed」は「盛りを過ぎて衰える」という意味なので、つまりそういった意味で「煮詰まる」が使われていると考えられる。「加熱しすぎて水分が飛んでしまった」ようなイメージだろうか。
私が余りに余計なことを喋舌り、私の心の中で長い間煮つまっていたことを必要もないのに述べ立てたことを、而もそれに就いては私は書いたものから読むように話すことが出来たのだ
こちらも翻訳書。英文は「I had unnecessarily described what had long been simmering in my heart」。「心の中でくすぶり続けていた」とか「ずっと感情が渦巻いていた」といったイメージか。
真夏の暑い日に遠く法華宗のお題目が聞こえてくる…という場面で、この「煮詰まった声」は「重苦しく絞り出している」ような印象を受ける。ものが煮詰まったあとのドロドロとしたイメージだろうか。
「居た堪らない」というので、世界が煮られて、そこにいられなくなるような感じだろうか。ぎゅっと狭窄するような感覚もあるかもしれない。
議論が悪い方向に盛り上がってヒートアップしているという描写。結論が出そうにないという点では現在の「誤用」のほうに近いか。
かるが故に自己の生活を安泰ならせんが為には儼然として己れが階級の城壁を固守しなくてはならない。科挙制度がそれだ。かかる試験制度を採用することは一に権力者に反抗する意志を学問の為に煮つまらせ、又一には士大夫階級思想擁護の有為なる人材を作ることになる。
この式場隆三郎も白樺派との交流があったらしいが、「作品を見ない」ということは、ここでの用法は「行き詰まる」に近いのではないか。
勿論コチコチ官僚型で煮つまって、倒さにふっても水っ気もないような人ではなく、時代に対する感受性は強く、好んで人の長所を認識する感服癖さえある。
昭和10年 ギュスターヴ・フローベール『ジョルジュ・サンドへの書簡』
では左様なら。もう遅いのです。頭がまるで煮詰まりそうです。
翻訳書。英文は「Adieu, it is late, I have an aching head.」なので、普通に頭痛がすることを言っているのか、それとも「悩んで行き詰まっている」的な意味なのかはわからない。
戦前は武者小路実篤を中心に、小説・詩歌・戯曲などの文学的文脈で使われることが多かった「煮詰まる」だが、戦後になると現在のような「議論や交渉が煮詰まる=結論が出る」といった用法が登場し、やがて支配的になっていったようだ。
それに関してわかりやすいのは「国会会議録検索」で、戦前の「帝国議会会議録検索」では「煮詰まる」はほとんどヒットしないが、国会会議録では1950年代あたりから見られるようになる。さらに用例を確認していくと1960年代から爆発的に増えていったようだ。労使交渉の文脈が多いように思われるので、そのあたりをきっかけに流行りはじめたのかもしれない。
となると次に気になるのは「議論が煮詰まる」=「行き詰まる」という用法がいつごろ確立されたのかということである。どうやって調べればよいか。たとえば「煮詰まってしまった」みたいな形だとネガティブな文脈で使われていそうだ。ということで検索してみよう。
しかし日本側は表面上は「朝鮮総連を相手にせず」とその抗議を重視せず、裏では字句は修正せずとも運用面に幅をもたせるという妥協の動きに期待を寄せていた。それが、日赤が相手にせざるをえない北朝鮮赤十字から真向に攻撃を受けたのだから、問題は煮詰ってしまった。
やはり人間は災害にあってみないとなかなかわからないもので、そういったことで安堵感を持っている。しかしジワジワと危機に瀕してきているわけで、そのときの判断をあやまると、残念ながら煮詰まってしまう。
ハイ・スクールからジュニア・カレッジヘと進んだアリス達は2年間のカレッジ・ライフで煮詰まってしまい、カリフォルニアに向かったのである。
ああいう自由さが背景にあってのこの音楽じゃなくて、すごい煮詰まっちゃってて、つらいだろうなというところで出て来る音なんですね。
「でも、仕事ばっかりしていると煮詰まっちゃう」「煮詰まっちゃうってのは、息詰まる、退屈する、スランプに陥るって意味なんです。」
昭和60年 毛利子来・岡島治夫・末永蒼生『「体」発、宇宙へ』
「結論が出る」用法と比べれば圧倒的に少ない。とはいえ1970年代くらいからは、日常語として「行き詰まる」的な用法もわりと広まっていそうな感じはする。というか「結論が出る」用法は議論や交渉の文脈でしか使えず、それ以外のときは「行き詰まる」用法になることが多かった、という感じではないか。
ちなみに、この「行き詰まる」用法が誤用として問題視されるようになったのは2000年ごろらしい。実際、Google Booksで「煮詰まる 誤用」などと検索すると2000年以降の書籍しか引っかからない。
といったところか。
「煮詰まる」のコアイメージは「熱されることで水分がなくなっていき固形分だけが残る」というようなものであろう。
それをポジティブに捉えると「余分なものが削ぎ落とされて本質がはっきりする」といった意味合いになり、ネガティブに捉えると「瑞々しいものが失われて停滞する」といった意味合いになる。たとえば「議論」にポジティブなイメージを適用すると「論点が整理されて結論がはっきりする」になり、「思考」にネガティブなイメージを適用すると「新しいアイディアが生まれなくなり行き詰まる」になるわけだ。
もともとの料理としては「美味しくするために煮詰める」ことも「熱しすぎて煮詰まってしまう」こともあるわけで、どちらのイメージで使うのも自然な感覚である。当初から「煮詰まる」は多義的な比喩表現だったのだから、「これが唯一正しい用法なのだ」などとはあまり気にしなくていいのではないだろうか。
非モテ論壇は、小谷野敦の「もてない男」 (1999年)に始まり、本田透に引き継がれるが、ものすごく盛り上がっているというほどでもなかった。本田は消息が分からなくなり、小谷野も2017年頃から売れなくなった。ツイッターでは雁琳のような第三波フェミニズムに応対できる論者が主流となっているが、そういうのの影に隠れたかたちであろう。大場博幸「非モテ独身男性をめぐる言説史とその社会的包摂」(2021年、教育學雑誌 (57) 31-43)というレビュー論文がある。ロスジェネ論壇も盛り上がった印象はない。氷河期世代はそれどころではなかったのだろうか。雑誌「ロスジェネ」は迷走してしまい、第3号は「エロスジェネ」で、第4号で終刊した。
東のゼロ年代はゼロアカ道場で幕を閉じる。東チルドレンを競わせるという企画であり、ゼロアカとは「アカデミズムがゼロになる」という意味らしい(「現代日本の批評2001-2016」、講談社、101頁)。彼らは東浩紀しか参照していないので、アカデミズムとしてはゼロなのかもしれない。ここで台頭したのが藤田直哉であり、ザクティ革命と称して、飲み会動画を無編集でアップした。ゲンロンのプロトタイプかもしれない。藤田はwokeしたが、東チルドレンでそちらに行ったのは彼くらいではないか。
3 ゲンロン
ニコニコ動画に「動ポノムコウ」(2020)というMADがあるが、ゼロ年代の東は輝いていたものの、震災後は落ちぶれてしまったという史観で編集されていた。落ちぶれたかどうかはともかく、震災前後に断絶があることは疑いない。東は移動を躊躇わないところがあり、90年代末に批評空間を離れたように、震災後に自らが立ち上げた動ポモ論壇からも離れてしまう。
ゲンロンの前身である合同会社コンテクチュアズは2010年4月6日に創業された。2009年の秋の飲み会でアイデアが出たそうである。宇野常寛、濱野智史、浅子佳英(建築家)、李明喜(空間デザイナー)との飲み会であった。「ゲンロン戦記」(2020年)では李はXとされているが、ウィキペディアには実名で出てきている。李はコンテクチュアズの代表に就任したものの、使い込みを起こして、2011年1月末日付で解任されている。代わって東が代表に就任し、李から使い込んだ金を回収した。ちょうど震災前のことで、震災後だと回収は難しかったかもしれないらしい(「ゲンロン戦記」、42頁)。この頃には、宇野や濱野は去っており、浅子が右腕だったが、その浅子も2012年には退任する。
「一般意志2.0」は震災前に雑誌「本」に連載されていた。2009年12月号から2011年4月号まで連載されていて、4月号は3月頭に出るものなので、ちょうど震災が起こる直前に終わったことになる。「ゲンロン戦記」には「その原稿は2010年代に書かれたのですが、出版は震災後の2011年11月になりました」(22頁)とあるが、ゼロ年代に連載が始まっているし、出版されたのも2010年代なので、おかしな文である。「震災前に書かれた」と直すべきところであろう。「一般意志2.0」はゼロ年代のパラダイムに属している。デジタル民主主義の本であるが、ちょっとひねって、ニコニコ動画のようなもので民意をくみ上げようというものである。ゲンロンもニコニコ動画でやられているので、その所信表明でもあるのであろう。ゼロ年代とゲンロンをつなぐ蝶番的な書物ではあった。
「サイバースペース」「情報自由論」は一冊の本として刊行されることはなかったのであるが、「一般意志2.0」は刊行された。すっきりとした構想だったからだろうか。東はネット草創期のアングラさのようなものを後光にして輝いていたのであるが、この本を最後に、アーキテクチャを本格的に論じることを止める。ニコニコ動画は2ちゃんねるの動画版のようなところがあったが、ツイッターをはじめとするSNSにネットの中心が移り、ネットはもはや2ちゃん的ではなくなり、東の想定していたアーキテクチャではなくなってきたのかもしれない。東はツイッターも使いこなしているが、かつてほどの存在感はない。
「一般意志2.0」の次の主著は「観光客の哲学」(2017年)であるが、サブカルチャーを批評することで「ひとり勝ち」した東が観光客を論じるのは意外性がある。娘が生まれてから、アニメやゲームに関心を失い、その代わり観光が好きになったとのことで、東の関心の移動を反映しているようである。「観光客の哲学 増補版」第2章によると、観光客は二次創作するオタクに似ている。二次創作するオタクは原作の好きなところだけつまみ食いするように、観光客も住民の暮らしなどお構いなしに無責任に観光地をつまみ食いしていく。このように観光客は現実を二次創作しているそうである。
「福島第一原発観光地化計画(思想地図β vol.4-2)」(2013年)は、一万部も売れなかったそうである。ふざけていると思われたのだろうか。観光に関心を持っていたところに、福島第一原発で事故があり、ダークツーリズムの対象にできないかと閃いたのであろう。もともと観光に関心がなければ、なかなか出てこないアイデアではないかと思われる。東によると、ダークツーリズムは二次創作への抵抗である(「観光客の哲学 増補版」第2章)。それなりの歴史のある土地であっても、しょせんは無名なので、原発事故のような惨事が起こると、そのイメージだけで覆い尽くされることになる(二次創作)。しかし、そういう土地に観光に出かけると、普通の場所であることが分かり、にもかかわらず起こった突然の惨事について思いをはせる機会にもなるそうである(二次創作への抵抗)。
社会学者の開沼博は福島第一原発観光地化計画に参加して、前掲書に寄稿しているのにもかかわらず、これに抗議した。東と開沼は毎日新聞のウェブ版で往復書簡を交わしているが、開沼の主張は「福島イコール原発事故のイメージを強化する試みはやめろ」というものであった(「観光客の哲学 増補版」第2章)。原発事故を語りにくくすることで忘却を促すというのが政府の戦略のようであるが、これは成功した。開沼は2021年に東京大学大学院情報学環准教授に就任している。原発事故への応答としては、佐藤嘉幸・田口卓臣「脱原発の哲学」(2016年)もあるが、こちらはほとんど読まれなかった。ジュディス・バトラーは佐藤の博論(「権力と抵抗」)の審査委員の一人であり、佐藤はバトラーに近い(竹村和子亡き後、バトラーの著作の邦訳を担っている)。「脱原発の哲学」にもそれっぽい論法が出てくるのが、こちらは功を奏しなかった。資本主義と真っ向から対立するような場面では効かないのだろう。ちなみに佐藤の博論には東も登場しており、バトラーも東の名前は知っているものと思われる。
「観光客の哲学」はネグリ・ハート「帝国」を下敷きにしているが、そこでのマルチチュードは、共通性がなくても集まればいいという発想で集められているものであり、否定神学的であるとして、郵便的マルチチュードとしての観光客を対置する。東は原発事故後の市民運動に対して否定的であり、SEALDsなどを毛嫌いしていた。第二次安倍政権は次々と「戦後レジーム」を否定する法案を提出しており、それに対抗する市民運動は盛り上がっていたが、負け続けていた。しかし、Me too運動が始まってからというもの、リベラルはマイノリティ運動に乗り換え、勝ち続けるようになる。「観光客の哲学」は市民運動が負け続ける状況に応答しているが、「訂正可能性の哲学」(2023年)はマイノリティ運動が勝ち続ける状況に応答している。小熊英二やこたつぬこ(木下ちがや)はSEALDsの同伴者であったが、マイノリティ運動に与した共産党には批判的である。小熊の「1968」(2009年)は絓秀実「革命的なあまりに革命的な」(2003年)のマイノリティ運動に対する評価をひっくり返したものなので、こういう対応は分からなくはない。東も「革あ革」を評価していない。「絓さんの本は、ぼくにはよくわからなかった。六八年の革命は失敗ではなく成功だというのだけれど、その理由が明確に示されないまま細かい話が続いていく。どうして六八年革命が成功していることになるのか」(「現代日本の批評2001-2016」、講談社、71頁)。論旨そのものは分かりやすい本なので、かなりの無理解であろう。
東はアベノミクスには何も言っていない。政治には入れ込んでいるが、経済は分からないので口を出さないという姿勢である。経済について分かっていないのに口を出そうとしてリフレ派に行ってしまった人は多い。宮﨑哲弥が典型であろうが、北田もそうである。ブレイディみかこ・松尾匡と「そろそろ左派は<経済>を語ろう――レフト3.0の政治経済学」(2018年)という対談本を出している。リベラルが負け続けているのは、文化左翼路線だけでは大衆に支持されることはなく、経済についても考える必要があるという主張であるが、リベラルがマイノリティ運動で勝ちだしてからはこういうことは言わなくなった。北田は2023年から刊行されている「岩波講座 社会学」の編集委員の代表を務めている。
「観光客の哲学」の次の主著は「訂正可能性の哲学」である。こちらも郵便本の続編といっていいのであろうが、そこに出てきた訂正可能性(コレクタビリティ)という概念がフィーチャーされている。政治的な正しさ(ポリティカル・コレクトネス)を奉じている者がそうしているように、理想を固定したものとして考えるのではなく、誤りをコレクトするという姿勢が大事であるということらしい。駄洒落のようであると言われることもある。森脇によると、東は状況に合わせてありきたりの概念の意味を変えるという「再発明」の戦略を採っているが、この「再発明」の戦略を言い換えたものが訂正可能性なのだという(森脇「東浩紀の批評的アクティヴィズムについて」)。そうだとすると、訂正可能性は郵便本では脇役であったが、これが四半世紀後に主役になることには必然性があったということであろうか。
こうして現在(2024年7月)まで辿りついたのであるが、東は多くの人と関係を断ってきたため、周りに人がいなくなっている。東も自身の気質を自覚している。「ぼくはいつも自分で始めた仕事を自分で壊してしまう。親しい友人も自罰的に切ってしまう。「自己解体と境界侵犯の欲望」が制御できなくなってしまう。だからぼくには五年以上付き合っている友人がいない。本当にいないのだ」(東浩紀・桜坂洋「キャラクターズ」、2008年、73頁)。一人称小説の語り手の言葉であるものの、現実の東と遠からぬものと見ていいであろう。ここからは東の決裂を振り返る。
宇野常寛は東を批判して「ゼロ年代の想像力」(2008年)でデビューしたのであるが、東に接近してきた。ゲンロンは宇野のような東に近い若手論客が結集する場として企画されたそうである。東によると、宇野を切ったのは、映画「AZM48」の権利を宇野が要求してきたかららしい。「東浩紀氏の告白・・・AZM48をめぐるトラブルの裏側」というtogetterに東のツイートが集められている。2011年3月10日から11日を跨ぐ時間帯に投稿されたものであり、まさに震災直前である。「AZM48」は「コンテクチュアズ友の会」の会報「しそちず!」に宇野が連載した小説である(映画の原作なのだろう)が、宇野のウィキペディアには書かれていない(2024年7月27日閲覧)。円堂都司昭は「ゼロ年代の論点」(2011年)の終章で「AZM48」を論じようと企画していたが、止めておいたそうである。「ゼロ年代の批評をふり返った本の終章なのだから、2010年代を多少なりとも展望してみましょうというパートなわけだ。批評家たちのホモパロディを熱く語ってどうする。そこに未来はあるのか?」(「『ゼロ年代の論点』に書かなかった幻の「AZM48」論」)。
濱野智史は「アーキテクチャの生態系」(2008年)でデビューしているが、アーキテクチャ論こそ「「ゼロ年代批評」の可能性の中心」(森脇、前掲論文)であった。東の右腕的存在だったこともあり、「ised:情報社会の倫理と設計」を東と共編している。濱野は東と決裂したというより、壊れてしまった。その頃、AKB48などのアイドルが流行りつつあり、宇野は、東をレイプファンタジーなどと批判していたのにもかかわらず、アイドル評論を始めたのであるが、濱野もそちらに付いていってしまった。「前田敦子はキリストを超えた 宗教としてのAKB48」(2012年)を刊行する。これだけならよかったものの、アーキテクチャ論を実践すべく、2014年、アイドルグループPlatonics Idol Platform (PIP)をプロデュースするも大失敗してしまい、精神を病んでしまった。行方が分からなくなっていたが、「『豪の部屋』濱野智史(社会学者)が経験したアイドルプロデュースの真相」(2022年)に出演して、東に「ぐうパワハラされた」ことを明かした。
千葉雅也の博論本「動きすぎてはいけない」(2013年)には、浅田彰と東浩紀が帯を書いていて、「構造と力」や「存在論的、郵便的」を承継する構えを見せていた。郵便本をきちんと咀嚼した希な例ということらしい。東がイベントで千葉はゲイであることをアウティングしたのであるが、その場では千葉は黙っていたものの、「怒っている。」などとツイートする(2019年3月7日、「男性性に疲れた東浩紀と何をいまさらと怒る千葉雅也」)。これに反応して、東は「千葉との本は出さないことにした。仕事も二度としない。彼は僕の人生を全否定した」などと生放送で二時間ほど怒涛の千葉批判を行った。こうして縁が切れたわけであるが、千葉くらいは残しておいても良かったのではないかと思われる。國分は数年に一度ゲンロンに登壇するようであるが、このくらいの関係でないと続かないということだろうか。
大澤聡も切ったらしいのであるが、「東浩紀突発#110 大澤聡さんが5年ぶりにキタ!」(2023年10月16日)で再会している。どうして切ったのかはもはやよく分からないが、それほどの遺恨はなかったのだろう。
福嶋亮大は向こうから去って行ったらしい。鼎談「現代日本の批評」の第1回、第2回に参加しながら、第3回に参加することを拒んだらしい。東も理由はよく分からないようである。珍しいケースといえよう。
津田大介とは「あずまんのつだっち大好き・2018年猛暑の巻」(2018年8月17日)というイベントが開催されるほど仲が良かった。津田は2017年7月17日にアイチトリエンナーレ2019の芸術監督に就任し、東は2017年10月、企画アドバイザーに就任する。しかし、企画展「表現の不自由展・その後」に政治的圧力が加えられ、2019年8月14日、東は企画アドバイザーを辞任する。この辞任はリベラルからも顰蹙を買い、東はますますリベラル嫌いになっていく。批評家は大衆に寄り添わざるを得ないので、こういう判断もあり得るのだろうか。
東浩紀の伝記を書く。ゼロ年代に二十代を過ごした私たちにとって、東浩紀は特別の存在であった。これは今の若い人には分からないであろう。経験していないとネット草創期の興奮はおそらく分からないからである。たしかにその頃は就職状況が悪かったのであるが、それはまた別に、インターネットは楽しかったのであり、インターネットが全てを変えていくだろうという夢があった。ゼロ年代を代表する人物を3人挙げるとすれば、東浩紀、堀江貴文(ホリエモン)、西村博之(ひろゆき)ということになりそうであるが、彼らはネット草創期に大暴れした面々である。今の若い人たちはデジタルネイティブであり、それこそ赤ちゃんの頃からスマホを触っているそうであるが、我々の小さい頃にはスマホはおろか携帯電話すらなかったのである。ファミコンはあったが。今の若い人たちにはネットがない状況など想像もできないだろう。
私は東浩紀の主著は読んでいるものの、書いたものを網羅的に読んでいるというほどではなく、酔っ払い配信もほとんど見ていない。しかし、2ちゃんねる(5ちゃんねる)の東浩紀スレの古参ではあり、ゴシップ的なことはよく知っているつもりである。そういう立場から彼の伝記を書いていきたいと思う。
東浩紀は71年5月9日生まれである。「動ポモ」でも援用されている見田宗介の時代区分だと、虚構の時代のちょうど入り口で生を享けたことになる。國分功一郎は74年、千葉雅也は78年生まれである。國分とはたった3歳しか離れていないが、東が早々にデビューしたために、彼らとはもっと年が離れていると錯覚してしまう。
東は中流家庭に生まれたらしい。三鷹市から横浜市に引っ越した。東には妹がおり、医療従事者らしい(医者ではない)。父親は金沢の出身で、金沢二水高校を出ているそうである(【政治番組】東浩紀×津田大介×夏野剛×三浦瑠麗が「内閣改造」について大盛り上がり!「今の左翼は新左翼。左翼よりバカ!」【真実と幻想と】)。
東は日能研でさっそく頭角を現す。模試で全国一桁にいきなり入った(らしい)。特別栄冠を得た(らしい)。これに比べたら、大学予備校の模試でどうとかいうのは、どうでもいいことであろう。
筑駒(筑波大学附属駒場中学校)に進学する。筑駒在学中の特筆すべきエピソードとしては、おニャン子クラブの高井麻巳子の福井県の実家を訪問したことであろうか。秋元康が結婚したのは高井であり、東の目の高さが分かるであろう。また、東は中学生時代にうる星やつらのファンクラブを立ち上げたが、舐められるのがイヤで年を誤魔化していたところ、それを言い出せずに逃げ出したらしい(5ちゃんねる、東浩紀スレ722の555)。
もう一つエピソードがあって、昭和天皇が死んだときに、記帳に訪れたらしい。
東は東大文一に入学する。文三ではないことに注意されたい。そこで柄谷行人の講演を聞きに行って何か質問をしたところ、後で会おうと言われ、「批評空間」に弱冠21歳でデビューする。「ソルジェニーツィン試論」(1993年4月)である。ソルジェニーツィンなどよく読んでいたなと思うが、新潮文庫のノーベル賞作家を潰していくという読書計画だったらしい。また、残虐記のようなのがけっこう好きで、よく読んでいたというのもある。三里塚闘争についても関心があったようだ。「ハンスが殺されたことが悲劇なのではない。むしろハンスでも誰でもよかったこと、つまりハンスが殺されなかったかも知れないことこそが悲劇なのだ」(「存在論的、郵便的」)という問題意識で書かれている。ルーマン用語でいえば、偶発性(別様であり得ること)の問題であろうか。
東は、教養課程では、佐藤誠三郎のゼミに所属していた。佐藤は村上泰亮、公文俊平とともに「文明としてのイエ社会」(1979年)を出している。共著者のうち公文俊平だけは現在(2024年7月)も存命であるが、ゼロ年代に東は公文とグロコムで同僚となる。「文明としてのイエ社会」は「思想地図」第1号で言及されており、浩瀚な本なので本当に読んだのだろうかと思ったものであるが、佐藤のゼミに所属していたことから、学部時代に読んだのだろう。
東は94年3月に東京大学教養学部教養学科科学史・科学哲学分科を卒業し、同4月に東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻に進学する。修士論文はバフチンで書いたらしい。博士論文ではデリダを扱っている。批評空間に94年から97年にかけて連載したものをまとめたものである。私たちの世代は三読くらいしたものである。博論本「存在論的、郵便的」は98年に出た。浅田彰が「東浩紀との出会いは新鮮な驚きだった。(・・・)その驚きとともに私は『構造と力』がとうとう完全に過去のものとなったことを認めたのである」という帯文を書いていた。
郵便本の内容はウィキペディアの要約が分かりやすく、ツイッターで清水高志が褒めていた。「25年後の東浩紀」(2024年)という本が出て、この本の第3部に、森脇透青と小川歩人による90ページにわたる要約が付いている。森脇は東の後継者と一部で目されている。
東の若いころの友達に阿部和重がいる。阿部はゲンロンの当初からの会員だったらしい。妻の川上未映子は「ゲンロン15」(2023年)に「春に思っていたこと」というエッセイを寄稿している。川上は早稲田文学の市川真人によって見出されたらしく、市川は渡辺直己の直弟子である。市川は鼎談「現代日本の批評」にも参加している。
東は、翻訳家・小鷹信光の娘で、作家のほしおさなえ(1964年生まれ)と結婚した。7歳年上である。不倫だったらしい。98年2月には同棲していたとウィキペディアには書かれていたのであるが、いつのまにか98年に学生結婚と書かれていた。辻田真佐憲によるインタビュー「東浩紀「批評家が中小企業を経営するということ」 アップリンク問題はなぜ起きたか」(2020年)で「それは結婚の年でもあります」と言っており、そこが根拠かもしれないが、明示されているわけではない。
そして娘の汐音ちゃんが生まれる。汐音ちゃんは2005年の6月6日生まれである。ウィキペディアには午後1時半ごろと、生まれた時間まで書かれている。名前はクラナドの「汐」と胎児用聴診器「心音ちゃん」から取ったらしい。ツイッターのアイコンに汐音ちゃんの写真を使っていたものの、フェミに叩かれ、自分の写真に代えた。汐音ちゃんは「よいこのための吾妻ひでお」 (2012年)のカバーを飾っている。「日本科学未来館「世界の終わりのものがたり」展に潜入 "The End of the World - 73 Questions We Must Answer"」(2012年6月9日)では7歳になったばかりの汐音ちゃんが見られる。
96年、コロンビア大学の大学院入試に、柄谷の推薦状があったのにもかかわらず落ちている。フラタニティ的な評価によるものではないかと、どこかで東は推測していた。入試について東はこう言っている。「入試が残酷なのは、それが受験生を合格と不合格に振り分けるからなのではない。ほんとうに残酷なのは、それが、数年にわたって、受験生や家族に対し「おまえの未来は合格か不合格かどちらかだ」と単純な対立を押しつけてくることにあるのだ」(「選択肢は無限である」、「ゆるく考える」所収)。いかにも東らしい発想といえよう。
2 ゼロ年代
東の次の主著は「動物化するポストモダン」で、これは2001年に刊行される。98年から01年という3年の間に、急旋回を遂げたことになる。「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」はその間の論考である。
東はエヴァに嵌っており、「庵野秀明はいかにして八〇年代日本アニメを終わらせたか」(1996年)などのエヴァ論も書いている。その頃に書いたエッセイは「郵便的不安たち」(1999年)に収められた。エヴァ本をデビュー作にすることも考えたらしいが、浅田彰に止められたらしい。だから、サブカル本を出すというのは、最初から頭の中にあったのだろう。
「いま批評の場所はどこにあるのか」(批評空間第Ⅱ期第21号、1999年3月)というシンポジウムを経て、東は批評空間と決裂するが、それについて25年後に次のように総括している。「ぼくが考える哲学が『批評空間』にはないと思ってしまった。でも感情的には移転があるから、「お前はバカだ」と非難されるような状態にならないと関係が切れない」(「25年後の東浩紀」、224-5頁)。
動ポモは10万部くらい売れたらしいが、まさに時代を切り拓く書物であった。10万部というのは大した部数ではないようにも思われるかもしれないが、ここから「動ポモ論壇」が立ち上がったのであり、観客の数としては10万もいれば十分なのであろう。動ポモはフェミニストには評判が悪いようである。北村紗衣も東のことが嫌いらしい。動ポモは英訳されている(Otaku: Japan's Database Animals, Univ Of Minnesota Press. 2009)。「一般意志2.0」「観光客の哲学」も英訳されているが、アマゾンのglobal ratingsの数は動ポモが60、「一般意志2.0」が4つ、「観光客の哲学」が3つと動ポモが圧倒的である(2024年8月3日閲覧)。動ポモは海外の論文でもよく引用されているらしい。
次の主著である「ゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2」までは6年空き、2007年に出た。この間、東は「情報自由論」も書いていたが、監視を否定する立場から肯定する立場へと、途中で考えが変わったこともあり、単著としては出さず、「サイバースペース」と抱き合わせで、同じく2007年に発売される(「情報環境論集―東浩紀コレクションS」)。「サイバースペース」は「東浩紀アーカイブス2」(2011年)として文庫化されるが、「情報自由論」はここでしか読めない。「サイバースペース」と「情報自由論」はどちらも評価が高く、この頃の東は多作であった。
この頃は北田暁大と仲が良かった。北田は東と同じく1971年生まれである。東と北田は、2008年から2010年にかけて「思想地図」を共編でNHK出版から出すが、3号あたりで方針が合わなくなり、5号で終わる。北田は「思想地図β」1号(2010年)の鼎談には出てきたものの、今はもう交流はないようである。北田はかつてツイッターで活発に活動していたが、今はやっていない。ユミソンという人(本名らしい)からセクハラを告発されたこともあるが、不発に終わったようである。結婚して子供もできて幸せらしい。
その頃は2ちゃんねるがネットの中心であったが、北田は「嗤う日本の「ナショナリズム」」(2006年)で2ちゃんを俎上に載せている。北田は「広告都市・東京」(2002年)で「つながりの社会性」という概念を出していたが、コミュニケーションの中身よりも、コミュニケーションが接続していくことに意味があるというような事態を表していた。この概念を応用し、2ちゃんでは際どいことが言われているが、それはネタなので心配しなくていいというようなことが書かれていた。2ちゃん分析の古典ではある。
東は宮台真司や大澤真幸とも付き合っているが、彼らは北田のように鋭くゼロ年代を観察したというわけではなく、先行文献の著者である。宮台は98年にフィールドワークを止めてからは、研究者というよりは評論家になってしまった。大澤は日本のジジェクと称されるが、何を論じても同じなのもジジェクと同様である。動ポモは彼らの議論を整理して更新しているのであるが、動ポモも「ゲーム的リアリズムの誕生」も、実際に下敷きになっているのは大塚英志であろう。
宮台や大澤や北田はいずれもルーマン派であるが、ルーマンっぽいことを言っているだけという印象で、東とルーマンも似ているところもあるというくらいだろう。しかし、ルーマン研究者の馬場靖雄(2021年に逝去)は批評空間に連載されていた頃から「存在論的、郵便的」に注目しており、早くも論文「正義の門前」(1996)で言及していた。最初期の言及ではないだろうか。主著「ルーマンの社会理論」(2001)には東は出てこないが、主著と同年刊の編著「反=理論のアクチュアリティー」(2001)所収の「二つの批評、二つの「社会」」ではルーマンと東が並べて論じられている。
佐々木敦「ニッポンの思想」(2009年)によると、ゼロ年代の思想は東の「ひとり勝ち」であった。額縁批評などと揶揄される佐々木ではあるが、堅実にまとまっている。類書としては、仲正昌樹「集中講義!日本の現代思想 ポストモダンとは何だったのか」 (2006)や本上まもる「 “ポストモダン”とは何だったのか―1983‐2007」 (2007)があったが、仲正は今でも読まれているようである。本上は忘れられているのではないか。この手の本はこれ以後出ていない。需要がないのだろうか。
佐々木の「ひとり勝ち」判定であるが、そもそもゼロ年代の思想の土俵を作ったのは動ポモであり、そこで東が勝つというのは当たり前のことであった。いわゆる東チルドレンは東の手のひらで踊っていただけなのかもしれない。懐かしい人たちではある。
北田によると、東の「情報技術と公共性をめぐる近年の議論」は、「批評が、社会科学的な知――局所から全体を推測する手続きを重視する言説群――を媒介せずに、技術、工学的知と直結した形で存在する可能性の模索である」(「社会の批評Introduction」、「思想地図vol.5」、81-2頁)ということであるが、ゼロ年代の東はこういう道を歩んでいた。キットラーに似ており、東チルドレンでは濱野智史がこの道を歩んだのであるが、東チルドレンが全てそうだったわけでもなく、社会学でサブカルを語るというような緩い営みに終始していた。宇野常寛などはまさにこれであろう。
佐々木「ニッポンの思想」と同じ2009年7月に、毛利嘉孝「ストリートの思想」が出ている。文化左翼の歴史をたどっているのであるが、この頃はまだ大人しかった。ポスコロ・カルスタなどと揶揄されていた。しかし、テン年代(佐々木の命名)から勢いが増していき、今や大学、メディア、大企業、裁判所を押さえるに至っている。しかし、ゼロ年代において、動ポモ論壇と比較できるのは、非モテ論壇やロスジェネ論壇であろう。
非モテ論壇は、小谷野敦の「もてない男」 (1999年)に始まり、本田透に引き継がれるが、ものすごく盛り上がっているというほどでもなかった。本田は消息が分からなくなり、小谷野も2017年頃から売れなくなった。ツイッターでは雁琳のような第三波フェミニズムに応対できる論者が主流となっているが、そういうのの影に隠れたかたちであろう。大場博幸「非モテ独身男性をめぐる言説史とその社会的包摂」(2021年、教育學 Permalink | 記事への反応(13) | 17:44
マリーアントワネットの首が歌うシーンが興味深かったから、意図をしりたくて、いろいろ読んだ。
具体的に言及はされていなかったから、はっきりとはわからなかったが、インタビューはどれも面白かった。
id:hazlittさんが教えてくれた、ラジオ番組からいろいろ読み始めた。
増田はフランス語は多少わかるが、わからないところは、DeepL先生に頼っているため、正確性は保証できない。
ホスト:昨日私たちは、コンシェルジュリーにおいて、革命の中、斬首されたマリーアントワネットがゴジラ(というパンクバンド)とマリナ・ヴィオッティと歌うというシーンを見ました。このシークエンスは、いったいどのような意図で書かれたのですか、ダミアン。
ダミアン・ガブリアック(監督):まず私は一人で書いたのではありません。すべてみんな(4人の中心人物)で書きました。そして理由は極めてシンプルです。私たちは、選手が進むルートに沿ってシークエンスを進めていくことにしていました。そして、ここではコンシェルジュリーです。マリー・アントワネットが斬首の前に幽閉されていた場所です。我々は自分たちに、これについては言及せざるを得ない、と言い聞かせました。ここで起きた歴史的なイベントは世界中が知っています。私たちはそこにエネルギッシュであることを求めました。だからゴジラです。そして、斬首されたマリーアントワネット、その両方。私たちは顔を突き合わせ、私たちが価値を見出していた(後述する)ロンドンのエリザベス女王とジェームスボンドを改めて思い起こしました。これだ、これだ、と。
パトリック・ブシュロン:そうですね、まず私たちがやった、みたものは、完全に、楽しく、集合的であったと考えています。そしてそれは全く同じく、議論するつもりがないことです、正確に。議論するつもりはないのです。私たちが見たものはまさに、さきほど述べられた通り、似ているのです。この多様性の物語、これが私たちのあり方だと、私たちが、大胆に主張している、複雑さと。それらは、あの歴史的なモニュメント(コンシェルジェリー)と、その美しさ、威圧的であることを望まない美しさ、私たちを勇気づける過去と一緒に示されました。私たちは誇りを回復しました、国家はアイデンティティではなく、あくまで政治的プロジェクトなのだ、という誇りを回復しました。私はそれらを若者に見せることができてとてもうれしいです。私の娘もコースでそれを見ました。あの悲痛なものを見たのです。それこそが全てです。シンプルです。私たちは、わずか数分の間にバスティーユを奪還したのです。
(中略)
ホスト:ダミアン、実際にこのセレモニーは、世代間的でもありましたね、だれにとっても自分事であるような感覚、ミュージカルレベルでもそうですし、サウンドトラックはすばらしかった。ダリダもあったし、クラシックもあった。とてもエモーショナルでした。とても美しかった。そして、話を変えるが、橋の上でのクィアたちとの最後の晩餐。かれらと一緒に生きているというシーンでしたね?ダミアン。
ダミアン:その通り。クィアはいた。でも付け加えるなら、フランスのすべてがあった。背が高い、低い、太っている、痩せている、黒人、白人、アラブ人、みんな違う衣装で、同じプレイリストを踊ったんだ。グアドループ(カリブ海)の音楽、オーヴェルニュの音楽、ヨーロッパの音楽を、同じ時にね。
トーマス・ジョリー監督に選ばれたパトリック・ブシュロンは、このセレモニーに寄せられる期待や懸念さえも承知の上で、「私たちに似た」物語を望むと改めて表明した。 「私たちはバカバカしいことや傲慢にならないように努めます。それをやったら、とんでもなく長い道のりになってしまうよ」と冗談を言う。
(中略)
「最初のシーンには、『エミリーパリへ行く』シリーズを観たアメリカ人などが期待する、パリで見られるものをすべて詰め込みました。きっと反応は「ありきたりなだな」だろうけど、それは違う。少し忍耐が必要です。所要時間は 3 時間 45 分です。紆余曲折があるでしょう。次に、これらのイメージは正反対の方向に進み、スノードームが転がるように、私たちはエッフェル塔(私たちが期待しているもの)を目にするでしょう 。私たちはすべてを揺るがすでしょう。違うものが出てきますよ。 」
(中略)
共同執筆者たちは、過去の開会セレモニーを研究しました。そして、アテネの謙虚さと、ロンドンの自虐性を継承することとし、北京の誇張されたナショナリズムを拒否することにしたのです。
「ディベートの仕方を知っている国に生きることはとても大きなアドバンテージです。おそらく、(この国に暮らす)外国人たちが我々にもたらしている、楽しい面のカオス、それには多くの憤りと尊敬が同居していますが、私たちはそれを見せなければならないのです。」
開会セレモニーの原点は、セーヌ川の流れとともに進む、という点である。
「私たちが見せる、このゆっくりとした流れるイメージ、この空想上のパレードは、パリが示すべき力の中にあります。このステージは軍隊のデモンストレーションパレードではないのです。フランスはもはやー私は全く望んでいませんがー世界に対して、我々の歴史について講釈を垂れるような立場ではないのです。私たちは、持っているもの、信じているものでやるしかないのです。我々が込めたメッセージはシンプルです。言葉で、あるいは映像で、伝わればうれしいですが、そうです、それは、”すべてがある、それでも私たちは一緒に生きていける”ということです。」
パリの歴史から離れて、歴史家は、パリジャンの通勤のあり方についても、言葉を用いずに示すつもりだといいます。
「英雄的物語の反対にあるもの」を語る、というこの歴史家が大量のインクを費やしてきたフレーズにおいて、彼は、その立場を明らかにした。「私たちはしゃべりすぎです』と彼は笑う。宣言も挑発もない。オリンピックゲームは、包括性、平等性、多様性という価値観に基づいています。セレモニーはそうでなければならない。私は歴史家だから、ナポレオンの話をしなければならないなら、どうすればいいか知っているし、そうするつもりです!しかし、それだけではありません。絵画(Tableau)ではより完全なものになります。私たちは何も削除していないのです。追加しているんです。セレモニーは軍事パレードではないが、謙虚でないのに謙虚なふりをするつもりはない。その一方で、私たちは互いの違いに連帯感を示すことができる。誰もが楽しめるものになるでしょう。」
少し考えた後、彼はこう付け加えた。
「私に、世界(の見たくないもの)に対して目をつむることを期待しないでください。パリに世界を迎えるのであれば、ありのままの世界、ドラマなども含めて歓迎します。オリンピックは原義的に政治的なものですから、政治的なものを排除するということはありえません。しかし世界の最も公正な感覚の中にあってほしいとのぞみます。」
彼は微笑みながら、「こんなに複雑なものに参加することになるとは思ってもみなかった」と話した。
(増田はルモンドやリベラシオンに課金はしていないので、まとめ記事が助かった)
(略)
ジョリーと4人の作家が2022年末に共同の冒険を始めたとき、ルートはすでに決められていました。
東のアウステルリッツ駅から始まり、ノートルダム大聖堂、マリー・アントワネットが投獄されたコンシェルジュリー、ルーブル美術館、 ガラスのドームが特徴のグラン・パレなど中世の遺跡を通り過ぎ、エッフェル塔のふもとで終わります。
「私たちはダウンジャケットを着て、アウステルリッツ橋からエッフェル塔 までボートで川を上下しました」とジョリーはル・モンドに語った。
「私たちはパリの歴史の一部であるあらゆるものを見ました。通り、記念碑、広場、彫像。文学的な書簡、映画、ミュージカルも調べました。」
彼らは何度もブレインストーミングした後、約9か月間秘密裏に執筆を続けた。
フランスのカルト映画「アメリ」やアメリカのネットフリックスシリーズ「エミリーパリへ行く」の夢のようなパリに引き込まれることを警戒し、 彼らは「常套句やアメリカ流のフランス解釈についても、茶化さずに扱わなければならない」とわかっていたとジョリーは語った。
彼らはショーを12の絵画(セーヌ川沿い、セーヌ川の上、さらにはセーヌ川から出る)に分割し、約90隻の船に乗ったアスリートのパレードと掛け合わせた。
3,000人を超えるダンサーや俳優が岸壁や橋の上でパフォーマンスを披露し、それぞれの絵画は、パリのシンボルと、過去と現在の両方について呼び起こすものを描いており、世界をパリの歴史と建築の旅へと誘う。
例えば、ノートルダム大聖堂は、ゴシック様式の記念碑であり、19世紀の作家ヴィクトル・ユゴーとのつながりであると同時に、猛烈な地獄でもあるなど、人によってさまざまな意味を持っています。
「世界が最後にテレビでノートルダム大聖堂を見たのは、火災のときでした」とブシュロン氏は言う。「誇りと壮大さの物語だけではなく、感動の、再建の物語でもあるのです。私たちが演じたかったのは、どんな困難にも負けずに共に生きていこうとする粘り強く創造的な意志の物語です。」
自らを「現代を愛する歴史家」と称するブシュロン氏は、式典はできるだけ多くの人々に語りかけるものでなければならなかったと語る。
「パーティーを開いてお気に入りのプレイリストをかけるのとは違います。世界からフランスへ、そしてフランスから世界へ語りかけるものでなければなりません。私たちはただ、人々が共感できるように、当時の状況を描写しようとしただけです。」
(略)
エマニュエル・マクロン大統領は、セレモニーでは1789年のフランス革命から1948年の世界人権宣言まで、「解放と自由の偉大な物語」を提供すると述べた。
セレモニーの詳細は秘密のベールに包まれているが、フランスの価値観が何らかの形で讃えられると推測されている。フランス系モロッコ人の小説家であるレイラ・スリマニは、パリが集合的であろうとする努力に価値を置いていることーそして力を合わせることで考えられないようなものを生み出せるーを高く評価している、とル・モンド紙に語っている。
4人の作家は、自分たちの物語に寛大な精神を持たせたかったという。
「喜び、模倣、動き、興奮、輝きがなければならない。フランスが時に自信過剰に見せたがる伝統的、哲学的、価値観だけでなくね。」
(略)
一方、昨年9月にパリで開催されたラグビーワールドカップの開会式は、「反例となった」とブシュロンは言う。
『アーティスト』のオスカー俳優ジャン・デュジャルダンが、ベレー帽にバゲットという出立ちで、1950年代のフランスの村々を再現した模型を自転車で巡り、ミルク絞りの女性やダンサーに手を振るというこのショーは、多くの批評家から、時代遅れの陳腐なフランス表現だと非難された。そして、非常に内向きなフランスだった。
「ただの古臭い過去のイメージや、現在の単純な賞賛ではないものでなければならない。歴史は揺らいでいるもので、国家はアイデンティティではなく、政治的プロジェクトであることを忘れてはならない。だから未来を語るのです。だから、私たちはセーヌ川を大旅行し、みんなを巻き込もうとしています。」
ブシュロンは、最も感動的なショーとして、ジャン=ポール・グードによる壮大な舞台美術を伴った、1989年のフランス革命200周年記念式典を挙げている。
当時20歳だったブシュロンは、それを見て歴史家になろうと決意した。
「それは歴史を痛感した瞬間でした。1989年、ソ連、中国(天安門広場の抗議活動)など、世界では多くの出来事が起こっていました。当時、私たちは多文化フランスと呼ばれていたものの価値を声高に明確に宣言することができました。それはより困難になり、ある種の幻滅感もありますが、私たちは怯んではなりません。」
数週間前、フランスでは議会選挙後に極右政党「国民連合」が政権を握るかもしれないという懸念が真剣にあった。その場合、ショーは「ある種の抵抗のセレモニーに変貌していただろう」とジョリー氏は語った。
結局、マリーヌ・ル・ペン氏の党は好成績を収めたが、セレモニーの書き直しを必要とするほどではなかった。
「私たちは、切実に、いたるところで起こっている暴力から離れて、平和の瞬間、止められた瞬間を共有することを必要としています」とスリマニは言った。
「私は本当に、7月26日にみんなが流れに身を任せてくれることを願っています。私たちの中の子供の部分、発見する楽しみを思い出してほしいです。今では本当に珍しいものになってしまいました」
と思っていたけど、セーヌ川、コンシェルジュリーが先にあることがわかった。ルイ16世でない理由もそこにある。またマリーがサン・キュロット版のア・サ・イラをうたい上げた後に上がった数多くの血しぶきは、その後のコンシェルジュリーで数多く処刑された人々のものであろうとも思う。なぜなら、マリーはすでに断頭済みだから。そして、ガブリアック氏、ブシュロン氏のコメントから、別に完全に誇っているわけでもないこともわかりました。やるしかねぇな、と言っているのですから。またブシェロン氏はdéchirer(悲痛な、引き裂かれる痛み)という言葉を使って、あそこで起きたことを示しており、歴史家である彼は当然革命期のその後の悲劇を知っているわけですから。それでもなお、彼は「バスティーユを奪還した」といい、国家は終わるもので、政治的プロジェクトに過ぎないのだ、ということを「誇って」いるという点が印象的でした。右派が怒ることなども承知の上でしょう、なにしろ、「ディベートの仕方を知っている国に生きている」のですからね。
開会式全体に込められたメッセージから判断すると、別にキリスト教を揶揄はしていないんでしょうね。挑発はしているかもしれませんが。クィアは存在する(キリスト教がないものとみなしている)ということを目ぇ開いてしっかり見ろ、ということが言いたいのでしょうから。真正面からね。
要は、暴力やクィアなど、みたくない、特にオリンピックにおいて、というものも当然パリは包摂してるぜ、外国人問題とかもカオスだけど、でもちゃんと一緒に生きてるんだぜっていうメッセージと受け取ったね。論争が起きるのとか、まさに狙い通りでしかないんじゃないですかね。
>ちなみに岡先生・ソウザ先生の著作に「「富貴」や「威風」の象徴…こぞってその所有を望んだと思われる」とあるが、その根拠は示されておらず、不明である
こいつスクショあげられてるの見ただけで実際に読んでないだろ
代官などの権力者複数名が黒人奴隷を仕えさせていたこと、弥助とは別の黒人奴隷について「俺に渡してほしい」と書簡を贈っていたことが根拠となっている
我が国政府は、いわゆる従軍慰安婦問題に関して、道義的な責任を痛感しており、国民的な償いの気持ちを表すための事業を行っている「女性のためのアジア平和国民基金」と協力しつつ、この問題に対し誠実に対応してきております。
私は、いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題と認識しており、数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての元慰安婦の方々に対し心からのおわびと反省の気持ちを抱いていることを貴首相にお伝えしたいと思います。
そのような気持ちを具体化するため、貴国の関係者と話し合った結果、貴国においては、貴国に設立された事業実施委員会が、いわゆる従軍慰安婦問題に関し、先の大戦において困難を経験された方々に医療・福祉分野の財・サービスを提供する事業に対し、「女性のためのアジア平和国民基金」が支援を行っていくこととなりました。
日本国民の真摯な気持ちを表れである「女性のためのアジア平和国民基金」のこのような事業に対し、貴政府の御理解と御協力を頂ければ幸甚です。
我が国政府は、1995年の内閣総理大臣談話によって、我が国が過去の一時期に、貴国を含む多くの国々の人々に対して多大の損害と苦痛を与えたことに対し、あらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたしました。現内閣においてもこの立場に変更はなく、私自身、昨年6月に貴国を訪問した際に、このような気持ちを込めて旧蘭領東インド記念碑に献花を行いました。
そして貴国との相互理解を一層増進することにより、ともに未来に向けた関係を構築していくことを目的とした「平和友好交流計画」の下で、歴史研究支援事業と交流事業を二本柱とした取り組みを進めてきております。
我々は、過去の重みからも未来への責任からも逃げるわけにはまいりません。我が国としては、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えながら、2000年には交流400周年を迎える貴国との友好関係を更に増進することに全力を傾けてまいりたいと思います。
話の流れはこんな感じ。
クレジット会社はポルノサイトから撤退を 権利団体など要請 - BBCニュース
https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-52585694
BBCは活動家など10人による共同書簡を入手。書簡はポルトサイトについて、「性暴力や近親相姦、人種差別などを面白いものとして見せて」おり、児童性的虐待や人身売買を題材としたコンテンツを配信していると指摘している。
これに対し、大手ポルノサイト「Pornhub」は、「この書簡の内容は間違っているだけでなく、意図的に誤解を招いている」としている。
米VISA、児童ポルノ収益化を支援する意図があった...米裁判所が認定|ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2022/08/visa-1_1.php
当時14歳だった女性が性的動画の掲載被害を訴えている裁判で、米地方裁判所は7月29日、決済手段を提供している米VISA社には児童ポルノから収益を得ることを「支援する意図があった」との判断を示した。
本裁判は、大手ポルノ動画サイトのPornhubに無断で性的動画を掲載された米女性が原告となっている。サイト運営元のカナダのマインドギーク社を訴訟し、また、同サイトに支払い手段を提供していたとしてVISA社の責任を追求していた。
先週、日本の岸田首相はワシントンの米国議員からこの書簡を手渡された。
"500人以上のアメリカ人の子供たちが日本に拉致されました。日米関係のために、これらの家族を再会させるための公的公約を求めます."
その日本女が元凶だから、日本女が黙って従うまで欧米は圧力掛けるだけやぞ。
ちなみについ昨日も米国で岸田首相に直接実子誘拐への対処について要請したからな。
実子誘拐という蛮行を連発した日本女こそが今回の共同親権法案可決を実現させた立役者やぞ。
米共和党議員、海外にいる数百人の米国人児童に影響を与える重要な問題について日本首相に行動を要求
ある共和党の下院議員は、日本の首相に書簡を直接手渡し、何百人ものアメリカ人の子供たちが、両親の同意なしにもう一方の親から子供を引き取った親によって誘拐され、日本で拘束されているという問題に対処するために行動を起こすよう促した。
ちなみについ昨日も米国で岸田首相に直接実子誘拐への対処について要請したからな。
実子誘拐という蛮行を連発した日本女こそが今回の共同親権法案可決を実現させた立役者やぞ。
米共和党議員、海外にいる数百人の米国人児童に影響を与える重要な問題について日本首相に行動を要求
ある共和党の下院議員は、日本の首相に書簡を直接手渡し、何百人ものアメリカ人の子供たちが、両親の同意なしにもう一方の親から子供を引き取った親によって誘拐され、日本で拘束されているという問題に対処するために行動を起こすよう促した。
「巨人の肩に乗る」って表現は先人の業績の上に新たな業績を積み重ねていくという意味であって、車輪の再発明とはだいぶ意味が違う。
なお、「巨人の肩に乗る」という表現はアイザック・ニュートンが使ったものとして有名。(プラトンは時代が古すぎると思う)
【追記】Wikipedia の「巨人の肩の上」という項目に詳しい説明があって参考になります。それによると、
科学者アイザック・ニュートンが1676年にロバート・フックに宛てた書簡の以下の一節で知られるようになった。
私がかなたを見渡せたのだとしたら、それは巨人の肩の上に立っていたからです。(英語: If I have seen further it is by standing on yᵉ sholders of Giants.)
このニュートンの手紙が原典と見なされることも多いが、最初に用いたのは12世紀のフランスの哲学者、シャルトルのベルナールとされる。
だそうです。
(翻訳記事)...ニューヨーク・タイムズ(NYT)紙 〈全訳〉
https://note.com/wypcg332/n/n3ebb465bd5eb
これは労作だね。
トランス批判は宗教右翼云々というのが妄想で、実は大規模な医療過誤事件の可能性があるってことだ。
というかヤバいことやってるのがわかってて、口封じのためにノーディベートとかやってたんだろうな。
グレース・パウエルによれば、医薬的または外科的移行を行っている間、ジェンダー違和(GD)やうつ病の理由について誰にも全く聞かれたことはなかったという。彼女の性的指向について尋ねられたことも一度もなかった。彼女は過去の心理的トラウマについて一度も尋ねられなかったため、セラピストも医師も彼女が子供の頃に性的虐待を受けていたことを知らなかった。
「でも、もしこれがあなたの問題であるならば、治療法はひとつ。やるべきことはひとつであり、これがあなたを救う、と言われたのです」
"ジェンダー肯定モデル" の支持者たちは、その標準的な治療と自殺リスク低下との関連を示す研究を引用してきた。しかし、それらの研究には方法論的な欠陥があることが判明したり、完全な結論には至っていないと判断されている。ホルモン専門医の専門組織である内分泌学会誌に3年前に発表された、異性ホルモンの心理的影響に関する研究調査では、"自殺による死亡については、いかなる結論も導き出すことはできない" とされている。
昨年ウォール・ストリート・ジャーナル紙(WSJ)への公開書簡の中で、9カ国21人の専門家は、この調査が "異性ホルモンによる移行(トランジション)が自殺予防に有効であることを示唆する信頼できるエビデンスはない" と考える理由の一つであると述べている。
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https://www.l.u-tokyo.ac.jp/tokyo-ias/nihu/publications/mers03/mers03_fulltext.pdf
1915/01 H.サミュエル「パレスチナの将来』メモ一一英国保護下ユダヤ・コモンウェルス
ttps://en.wikipedia.org/wiki/The_Future_of_Palestine
ttps://en.wikipedia.org/wiki/Balfour_Declaration
ttps://en.wikipedia.org/wiki/San_Remo_conference
ttps://en.wikipedia.org/wiki/Churchill_White_Paper
パレスチナをユダヤ人国家にするとは言ってない。移民は経済が吸収出来る範囲で。
1929/08/23-29 西の壁事件 J133人、Ar.116人死亡
ttps://en.wikipedia.org/wiki/1929_Palestine_riots
嘆きの壁をめぐるデモからアラブとユダヤ人が衝突。ユダヤ人にとって第二神殿の遺跡、アラブにとってアルアクサ・モスクの一部。
ttps://en.wikipedia.org/wiki/Passfield_white_paper
1931/02/13 マクドナルドの BlackLetter
ttps://en.wikipedia.org/wiki/MacDonald_Letter
1936/04/25 アラブ高等委員会結成、全Pスト委員会設置 ゼネスト開始、ゲリラ戦広がる
ttps://en.wikipedia.org/wiki/1936%E2%80%931939_Arab_revolt_in_Palestine
太字じゃないけど重要なので。
1937/07/07 ピール報告書公表 -JA執行委員会「検討する」
ttps://en.wikipedia.org/wiki/Peel_Commission
委任統治は実行不能、分割勧告。分割内容の評価は色々な立場があるんじゃないでしょうか。
1937/10/01 アラブ高等委員会非合法化/ハッジ・アミーンSMC議長解任 ゲリラ戦再発
ttps://en.wikipedia.org/wiki/Arab_Higher_Committee
ttps://en.wikipedia.org/wiki/Supreme_Muslim_Council
ttps://en.wikipedia.org/wiki/Woodhead_Commission
ttps://en.wikipedia.org/wiki/White_Paper_of_1939
バルフォア宣言のナショナルホームは国家ではない。マクマホン書簡にパレスチナは含まれない。10年以内にパレスチナ国家樹立。移民・土地購入制限。
1939/08/16 アメリカにシオニスト緊急委員会設立決定
American Emergency Committee on Zionist Affairs
ttps://en.wikipedia.org/wiki/Biltmore_Conference
"that Palestine be established as a Jewish Commonwealth."ニューヨーク開催。無制限移民を求める。1939年白書を拒否。
1943/08/29-09/02 全米ユダヤ会議、ピルトモア綱領採用
ttps://en.wikipedia.org/wiki/American_Jewish_Conference
ttps://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-American_Committee_of_Inquiry
10万人の移民。土地譲渡規制撤廃。パレスチナはユダヤ人国家でもアラブ人国家でもない。
ttps://en.wikipedia.org/wiki/United_Nations_Special_Committee_on_Palestine
ttps://en.wikipedia.org/wiki/Ad_Hoc_Committee_on_the_Palestinian_Question
もう滅茶苦茶だよ。
ttps://en.wikipedia.org/wiki/Andrei_Gromyko#United_Nations
1947/11/29 国連総会181号決議 ⇒パレスチナ内戦勃発
ttps://en.wikipedia.org/wiki/United_Nations_Partition_Plan_for_Palestine