はてなキーワード: ルネサンスとは
イギリス音楽は中世からルネサンス期そしてバロック期もパーセルくらいまでは非常に輝かしいのだけれど。パーセルが若死にしなければ多少は変わっていたのだろうか。というより、バロック期に大陸風の音楽の取り入れに方向転換したということなのだろうか。ロマン派はイギリス人気質に合わなかったのだろうか。古楽復興運動が早くから興って盛んなのもそのせいなのかなぁ。ドルメッチ親子とかダートとかマンローとか。
イギリス音楽はビートルズやローリング・ストーンズ辺りから知名度を上げた「UKロック」で、今なお大きな存在感を示している。
そんなイギリス音楽はルネサンスくらいから、一時代を築いた作曲家が何人もいる。
しかしながらこのイギリス音楽は実のところ、バロック時代に絶大な評価を勝ち得たパーセルから近代のエルガーまでの数百年間、国際的に有名になった作曲家が一人もいないのだ!
まあクラシック音楽でも古典派ロマン派はドイツ系が圧倒している感が強いっちゃ強いのだが、それでもイタリアのロッシーニからドニゼッティにヴェルディやプッチーニ、フランスならベルリオーズやサン・サーンスなどの巨匠がいる。
かつて趣味で小説を十年近く書いていた者だ。俺も理系だが、理系は歴史を学ぶ上で決して弱みではない。むしろ、物事を大局的に眺め、出来事の意味や結果をロジカルに考えるうえでは助けになるし、論理的な文章も得意だろう。なので、自信をもって執筆に向かってほしい。
とはいえ、いきなり中世ヨーロッパを舞台にした小説を書くのは難しい。農民であれ騎士であれ、生活の細部を思い描こうとするだけで筆が止まってしまう。朝起きて顔を洗い、用を足して食事をする、その半時間のことなのに細部がさっぱりわからず、筆が進まない。ありがちな悩みだが、深刻な悩みでもある。
仮に十年前の日本を舞台にした小説を書こうとしても、「当時はスマホが既にあったか」「はやっていた音楽は何だったか」「あの事件はもう起きていたか」など、俺たちの記憶は甚だ頼りなく、資料に頼らざるを得なくなる。ましてや、生まれる前の出来事など仮定に仮定を重ねた蜃気楼のようで、資料なしでは立ちすくんでしまう。よくわかる。なので、俺が読んで面白かった本を共有したい。
ところで、増田は世界史を勉強したいと述べているが、どうも「小説を書くための中世ヨーロッパの知識が欲しい」と「知識欲から漠然と世界史について学びたい」が混在しているようだ。ブクマやレスを見ると、その両方に対する回答がある。俺は、ひとまず前者について答えたく思う。後者については、中央公論社の「世界の歴史」シリーズか、講談社の「興亡の世界史」を読んで、そこから気になったキーワードからどんどん広げていくといいと思う。なお、俺は前者しか通読していない。
さて、過去の世界を生々しく想像するためには、俺は四つの視点が必要だと考えている。数理的視点、物質的視点、非物質的視点、それからエピソード的視点だ。以下、それぞれについて述べる。各々の視点に応じて、手に取るべき書籍は異なってくる。
さらに、この四つの視点があると、頭の中で歴史の知識を整理するのに役に立つ。少なくとも俺にとってははやりやすい。
過去の世界は偉大なようだが、人口は現代よりも少なく、都市の規模は小さく、穀物や工業製品の生産量も少ない。そういうわけで、もしもタイムスリップして中世の大都市を眺めたとしても、その小ささに俺たちは意外さを覚えるかもしれない。確かに現代にも通用する芸術作品はあるかもしれない。時代は異なるが、ピラミッドや紫禁城のような壮大な建物もあるだろう。とはいえ、庶民はそんな生活とは無縁であったはずだ。パリの城壁は今や環状線であるが、今のパリの都市圏はそれを越えて広がっている。
さて、小説を書く上ではリアリティが必要になる。それを支えるのが数の感覚だ。例えば、ある国家の人口がどれくらいで、即時に動員できる兵士がどれくらいで、都市と都市の距離がどれくらい離れており、移動速度はどれくらいか。集落の規模はどの程度か。船舶で運べる量は。モデルとする時代の数字をおおよその知っておくことで、明らかに不自然な描写は減らせるだろう。このあたりについては「銃、病原菌、鉄」や通史的に世界の人口を扱った書籍が助けになると思う。細かいことは気にしなくていい。オーダーが合っている程度で充分だ。数字を確かめるだけなら、ウィキペディアだけでもいい。これは英語版を併用することを薦める。
要するに衣食住の細部だ。先ほど騎士や農民の一日を想像するのが難しいと述べた理由はこれになる。増田が必要としているのはおそらくフランシス・ギースの出しているシリーズだ。都市や農村、城の生活が細かく書かれている。
他に、当時栽培されていた植物や動物については、「世界史を変えた50の○○」シリーズもいい。ある素材が手に入るか入らないか、あるいは知識の有無だけで国の命運が変わるというのは、たびたび起きてきたことだ。中世ではないが、例えばヒッタイトで鉄の製法が独占されたこと、柑橘類で長期航海の敵、壊血病が防げるとか、そうしたことだ。
また、具体的な書名はいちいち挙げられないが、図版の多い図解○○のようなシリーズも良い。もし、増田が視覚的にものを考えるタイプならなおのことだ。慣れていくと建築や芸術の○○様式というのが何となくわかるようになってくる。
加えて、児童書も侮っては行けない。専門家が監修した子供向けの本は、えりすぐりの内容を含んでいる。仮に含まれていないとしても、これだけは伝えておきたいという基礎知識は抑えてある。これは立花隆が言っていたことだったと記憶しているが、なじみのない分野を学ぶためには基本的な内容の本を三冊読むといいそうだ。なぜなら、本当に大事なことはその三冊すべてに書かれているからであり、結果的にその分野の基礎を身に着けることができる。
これは当時の人間が何を知っており、どんな風に考えていたかを指す。直接は物質として残らない、人の頭の中にあった知識や文化にまつわることだ。当時の科学知識、価値観、法律、迷信などもここに含めてよい。
さっき中世人の朝を想像するのが難しいと述べたが、昼以降の社会生活を想像するのはこれでさらに難しくなる。
たとえば俺は異世界ファンタジーをあまり読まないのだが、中世には叫喚追跡という風習があった。当時のイングランドの自由市民は犯罪が生じた場合には、その犯人を逮捕・処罰する義務を負っていた。隣保組織の長は角笛を吹き、大声で喚声をあげながら犯人を追跡しなければならず、また周囲の住民もその指揮に従って追跡に加わることが義務付けられていた。しかも、この協力を怠った住民に対しては制裁が課せられる。寡聞にして、こういうファンタジー小説は読んだことがない。
ここまではいかないにしても、海外文学を読むとなじみのない、ちょっとしたジェスチャーや迷信に出会うことがある。欧米だと、指を交差させることで幸運を祈るし、ロシア人は今でも扉越しに握手をすることを嫌う(宇宙ステーションでさえ)。この辺にリアリティは宿る。ジェスチャー関係なら、中世とは少しずれるが「常識の世界地図」が面白い。
法に関しては詳しくないがが、習慣や生活については先ほど述べたフランシス・ギースの本が参考になると思う。価値観では「中世の秋」がいいだろう。科学史については、増田は理系だから「磁力と重力の発見」を薦めたい。難易度はかなり高いが、知識がいかに科学になっていくかを肌で感じられる。
当時の職業に関しては、未読だが「十三世紀のハローワーク」がいいらしい。
キリスト教・宗教史に関しては、聖書のエピソードの概略や聖人伝を知っているといい。絵画が好きなら名画で学ぶ○○といったシリーズがたくさん出ている。ただし、聖書がわかったからと言ってキリスト教がわかったことにはならないので注意。
これは著名な人物の伝記に関する話だ。あるいは、当時の人々が親しんでいた物語も含めてもいい。こういう偉人の伝記や小話をたくさん知っていると、歴史好きの物知りとしてマウントを取ることができるが、その出来事が世界史上でどのような意味があったかを語れなければ、自己満足で終わり益は少ない。とはいえ、興味深いのは確かで、プロットの参考になるかもしれない。
このあたりの知識のためには、児童書も含めて伝記を読みあさることになる。または、ハプスブルク家の歴史だとか、各国史だとかを扱った新書を乱読する。絵画に興味があるなら、これも名画で見る○○のようなシリーズがおすすめだ。
当時の人々に身近だっただろう中世の騎士の物語については、ブルフィンチがアーサー王伝説、シャルルマーニュ伝説をまとめている。それとは別に「マビノギオン」も面白い。とはいえ、いきなり原典に当たる必要はなく、入門書を読めばいい。
ギリシア・ローマ神話は呉茂一の本が細かいところまで網羅しているし、ホメロスもオウィディウスも岩波文庫に入っているが、呉茂一の本は初心者には細かすぎるし、原典に当たるのは趣味の領域だから、小説を書くなら入門書で充分だと思う。同様の理由で、「史記」だとか「ローマ帝国興亡史」なども趣味に属する。当時ならではの視点は面白いが、鵜呑みにできない誤謬もあるだろう。
もちろん、単純に上記の分類にすべて本が収まるわけではない。大抵の通史・各国史はこれらを兼ね備えている。
以下、何となく面白かったものを思いついたままに書く。「中世ヨーロッパの歴史」「十二世紀ルネサンス」「ケルトの水脈」「西ヨーロッパ世界の形成」(ただしこの本は著名な王の事績がほとんどの載っておらず、当時の価値観や考え方についてのページがほとんどで、そこがアマゾンで叩かれている)。それから、隣人からの視点として「「イスラーム」から見た世界史」「アラブが見た十字軍」など。
書き洩らしているかもしれないが、今のところ思いつくのは以上だ。
他に、中世を舞台にした小説・映画もおすすめだ。難解だが読み応えのあるミステリ「薔薇の名前」、SFだが「異星人の郷」がいい。「大聖堂」は未読だ。「モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル」はコメディだが細部の正確さは中世映画随一であるとのこと。毒のある笑いに抵抗がなければおすすめ。
中世風の舞台を描くために中世について勉強する。素晴らしいことだ。俺は敬意を表する。それに読んでいるうちにどんどん楽しくなってくるだろう。何かを知る、これは純粋な喜びだ。
だが、小説を書く以上、ある程度は想像力で補わないといけない。ある場面を書く際に必要な情報があるとしても、そもそもその資料は存在しないかもしれない。研究者でさえわからないことは多い。俺もこれだけ読んできたが、わからないことだらけだ。むしろ、疑問が深まった感さえある。細部も忘れてしまった。増田はぜひ自分で本を買ってメモを取るなり線を引くなりしてほしい。読み飛ばさず、時間を掛ければそれだけ得るものも多いだろう。
もっとも、描写に困った場合は、該当シーンを省いてしまうのも手だ。小川哲がどこかで述べていたが、ある歴史SFを書くときに、細部を省略したシーンがあるという。ストーリーにあまり関わらない部分を省くのは、立派なテクニックだ。読者だって中世建築の細部について延々読まされても困るだろう。
もうひとつ忘れてはいけないのは、増田は研究者になろうとしているのではなく、小説を書こうとしている、ということだ。知識は目的ではなく、手段だ。これを忘れてしまうと、他人の設定の粗を探したり、中世なのに価値観が現代的なのを揶揄し始めたりする。こうなると、物語世界を素直に楽しめなくなる。
大事なのは歴史的正確さよりも、読者を喜ばせることだ。そういう意味では、演出として火薬が出てきたっていい。あるいは、読者が感情移入しやすくするように、人を殺してなんぼの武将ではなく、戦争で人を殺すことをためらう武将として、描写する必要がある(ドラマの戦国武将がやたらと戦争を嫌い、優しいのはそのためだ)。異世界ファンタジーの読者が読みたいのは中世ではなく、中世っぽいものだ。そもそも中世ヨーロッパ風なのに唯一神を信じていないファンタジーは多い。
そういう意味では、本を読んでもその知識が直接生きることは少ないかもしれない。くれぐれも、読者に向かって知識をひけらかしてはいけない。あるシーンの正確さのために資料に当たるのはいいが、その成果を延々披露しては読者のストレスになるだけだ。もちろんそういう衒学的な歴史小説もあり、固定ファンはついているが、ネット小説の読者には少ないだろうし、ネット小説の肝であるPVを稼ぐことにはならない。これはいい悪いではなく、ネットと書籍の媒体の差だと思っている。
また、レッドオーシャンの中世ヨーロッパ風ファンタジーに飛び込むのなら、正確さよりも作者の専門知を活かしたものの方が(ブクマで書いている方もいるが)読者の目に留まりそうである。そして、くどいようだが、これだけおすすめの本を書いてきたが、読者が欲しいのは正確な知識ではなく血沸き肉躍る物語である。
だが、作者にとっての最大の危険は、どんな物語よりも過去に起きた事実の方が面白いのだと気づいてしまうことだ。この罠にはまると、どんな小説も所詮作り事と思われて素直に読めず、何を書いてもむなしくなってしまう。言い換えるなら、創作欲が知識に殺されてしまう。増田には、これに一番気を付けてもらいたい。
それを防ぐには、面白い小説を読み、面白いものを書くこと、これに尽きる。先行作品としての中世ファンタジーを愛し、数多く読み、繰り返し読むこと。
「おすすめの世界史の本教えて」増田だが、思ったより多くの回答をもらえた。ありがとう。
興味ある人が多いのか無言ブクマも多いので、自分のためにも興味のある人のためにも、もらったコメントをまとめてみた。
ノンフィクションを具体的に挙げてる回答のみ。重複するものは載せてない。
フィクションを挙げたり、書名や著者名などの具体名は挙げず、こういう本を読むといいのではという、よいサジェスチョンをくれるトラバやコメントもあった。ありがとう。参考にさせてもらう。だが今回のリストからは省かせてもらった。
●山川出版社『新もういちど読む山川世界史』、世界史Aの教科書
●歴史好きならとりあえず読破しておきたい世界史本100(https://anond.hatelabo.jp/20211101232345)
●山川 詳説世界史図録(山川出版社)、グローバルワイド 最新世界史図表 五訂版(第一学習社)、最新世界史図説タペストリー(帝国書院)
●中世ヨーロッパ: ファクトとフィクション、現代知識チートマニュアル
●「なぜ?」がわかる世界史
●サピエンス全史
●『やんごとなき姫君たちのトイレ』TOTO出版、『コーヒーが廻り世界史が廻る』中公新書
●『クロニック世界全史』、角川世界史辞典。『知識ゼロからのローマ帝国入門』、『 図説世界の歴史』、中公新書の物語歴史シリーズ、佐藤賢一のフランス王朝史『論点・西洋史学』。
●『図解 中世の生活』(新紀元社)、『中世ヨーロッパの農村の生活』(講談社学術文庫)
●「世界史講義録」というサイト(http://timeway.vivian.jp/)
●『中世の秋』
●「世界システム論講義」(川北稔 ちくま学芸文庫)、「テクノロジーの世界経済史」(カール・B・フレイ 日経BP)
●ハプスブルク家12の物語。ハプスブルク家の女たち。「ハプスブルクの時代を歌わせてみた」(動画)
●銃・病原菌・鉄
●河出書房のふくろうの本シリーズ、講談社学術文庫の『近代文化史入門 超英文学講義』
●モンタネッリ。通史なら中公の世界の歴史の中世の巻(旧版押し)
●「文明崩壊」
●歴ログ
●<ゲーム>から始まる<読書・映画リスト>(まとめhttps://anond.hatelabo.jp/20160701063637)
●ビジュアル版 世界史物語、イタリアの歴史 (ケンブリッジ版世界各国史)、イタリア (世界の歴史と文化)
●サピエンス全史
現時点では以上まで。
増田の内容の正確性とかさっぱりとわからないほど核融合のことなんて知らないが、
でもざっくりとした雑感として核融合の研究には予算が圧倒的に不足してるんでないのかな?
と感じたりしている。
もっとジャブジャブ金突っ込んで完成させればいいのにな。
まあ果実が得られない可能性のリスクが高すぎるからカネ集まらんのだろうけど。
無理でもエヴァンゲリオンみたいにケーブルをひっつけたガンダムがビームサーベルを引っこ抜くところを見てみたい。
でも核融合みたいな無限のエネルギーを手にして何をするんだろうか?未来人は。
結局はいつだって動かすエネルギーをどうするかってことが最大の問題なんだから。
ディズニー映画に埋もれた名作などというものは存在せず、有名なやつは出来がよく、無名なやつは出来が悪い。
以下、備忘録をかねてウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ制作の長編アニメ映画史を概観したい。
『メイク・マイン・ミュージック』以外はディズニープラスで全部見れる。
おすすめの作品:『白雪姫』『ファンタジア』(ミッキーのやつだけ)『ダンボ』
ディズニー長編アニメの歴史はアニメ史に残る傑作『白雪姫』とともに幕を開ける。この作品はとにかく作画が凄まじく、戦後の日本人が衝撃を受けたという逸話も納得の出来である。著作権が切れているのでYoutube等でも見れるが、できるだけきれいな画質で見たほうがいい。7人の小人たちの非モテ自助コミュニティ描写もピカイチで、増田を見ているような人々は目を通しておいて損はないと思う。
ディズニー映画はこの頃から一貫して「教育的で」「社会的にただしいとされる」物語を描こうというはっきりとした意思を見て取ることができる。そのため、作品の背景には常に制作された時代の価値観が垣間見える。
例えば『白雪姫』の3年後に公開された『ピノキオ』では、主人公ピノキオを導く良心の象徴としてジミニー・クリケットという名前のコオロギが登場する。この「ジミニー・クリケット」という名前はジーザス・クライストの言い換え語らしく、つまりここでは創造主の似姿として作られた人形が様々な誘惑と戦いながらも最終的にはイエス・キリストに導かれ、ただしい人間性を獲得するという物語が展開されるわけだ。
『ピノキオ』自体は退屈な作品ではあるものの、歴史や時代背景を含めて見ていくと別の発見があり、それはそれで豊かな体験である。ちなみに当時のディズニー自身はむしろできるだけ宗教色を薄めたいと思っていたらしく、この辺は社会に要請されてやむなくという側面が強いのかもしれない。
ほか『ファンタジア』中の「魔法使いの弟子」と『ダンボ』は見ていて単純にたのしい良作。『ダンボ』のお母さんの健気さは泣ける。
『バンビ』のあと『シンデレラ』まで長編の物語映画はなく、とくにおもしろい作品はない。とはいえ日本人としては、バリバリに総力戦をやりながらアニメを量産していたアメリカの国力にむしろ驚くべきかもしれない。
この頃の作品群には「丁寧な植民地主義」とでも呼ぶべき傾向があり、具体的にはアメリカ開拓時代の美化とラテンアメリカへの観光的関心、キリスト教的な価値観が三位一体となった教育映画が制作されている。この辺はおそらく当時のアメリカの外交・安全保障戦略と密接に結びついており、いわばアメリカ流の国策映画だったのではないだろうか。
丁寧な植民地主義的な傾向はこの後も非常に根強く、形を変え品を変え、ディズニーらしさの1つの要素として受け継がれていくことになる。
『シンデレラ』は物語の大半を出来の悪いトムとジェリー風ドタバタ展開が占め、あまりおもしろくはないものの興行的には大成功を収め、低迷期の脱出に成功する。
『眠れる森の美女』は『白雪姫』以来の超絶作画であり、これ以降の作品と見比べてもダントツでクオリティが高い。一方で興行的には制作費の回収すらできず、総じて失敗作と見なされたようだ。ディズニー作品の作画技法は『眠れる森の美女』でひとつの頂点に達し、以降はべつの方法論を模索していくことになる。
ほか『ふしぎの国のアリス』のチェシャ猫や芋虫の悪夢的な描写は見たものに強いインパクトを与える。一方で登場人物にだれ1人としてまともに会話の通じるキャラがおらず、集中力の維持が非常にむずかしい作品でもある。
『ピーター・パン』では全能感と成熟の拒絶というYoutuberの原型のようなヒーロー像が描かれる。ピーター・パン症候群とはよく言ったもので、本家ピーター・パンも未成年淫行で炎上する未来を強く予感させるキャラクターだった。
『わんわん物語』では都市的自由を謳歌していた野良犬がペットとして不自由な幸福を手に入れて物語が終わる。ここで描かれるペットたちのむき出しの奴隷根性は、前述の植民地主義と無関係ではない。『ピーター・パン』『わんわん物語』ともにおもしろくはないが、それぞれ見どころのある作品となっている。
おすすめの作品:『101匹わんちゃん』『くまのプーさん 完全保存版』
『眠れる森の美女』のアーティスティックで洗練された描線から一転、『101匹わんちゃん』以降はえんぴつで描かれたかのようなラフな描線で作品が構成されていく。『眠れる森の美女』以上のものを作り出すことが現実的に不可能であり、見劣りを避けるという意図があるのか、あるいは端的に制作資金が枯渇しただけかもしれない。
技法的にはやはり『くまのプーさん 完全保存版』でひとつの完結を迎え、以降ディズニー映画は再び模索と低迷の季節を迎えることになる。
『おしゃれキャット』は金持ちのペットが使用人をブチのめす話で、一方『ロビン・フッド』は貧乏人が金持ちをブチ殺す話だ。この時期のディズニーは節操のなさがすごい。
この時期の作品群の特徴を一言で言い表すならば、「リアリティへの接近」ということばになるだろう。それは一方では作画技法への3DCGの導入というかたちで現れ、他方で物語上では善と悪の単純な二項対立の脱却が図られることになる。
前者は『コルドロン』の奥行きのある大胆なカメラワークや作画法、『オリビアちゃんの大冒険』『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』での部分的な3DCGの導入に見られる。後者は『きつねと猟犬』での人種対立のメタファーとして描かれた動物間の争いや、多人種が共生する複雑な現実を猫の姿を借りて描いた『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』に象徴的である。
『きつねと猟犬』はこれまでのディズニー作品に見られた家畜たちの奴隷根性を初めて批判的に描いた作品であり、『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』と合わせて「社会的にただしいとされる」物語像の変容を見て取ることができるだろう。ただしこの時期の作品群は総じて地味で魅力がない。どうやら創業者ウォルト・ディズニーの死や主要スタッフの大量離脱の影響があったようだ。『コルドロン』は興行的にも大コケし、ディズニーの低迷を象徴する作品となった。
シャーロック・ホームズの翻案である『オリビアちゃんの大冒険』がかろうじて見ていられるという程度で、単品の映画作品としておもしろいものは少ない。『オリビアちゃんの大冒険』では、冒頭からネズミ女児のパンチラという一体どこに需要があるのかわからない謎サービスカットがあり、視聴者の集中力が乱される。
おすすめの作品:『リトル・マーメイド』『美女と野獣』『アラジン』
この時期ディズニーは批評的評価・興行収入の両面で復活を遂げ、一般に「ディズニー・ルネサンス」と呼ばれているらしい。本稿でもその表現に従う。
たしかに作品のクオリティは過去10年とは比べものにならないほど高く、ルネサンスと呼ばれるのも納得の時期である。一方で技術革新や価値観の変容は停滞気味で、歴史の流れとしてはさほどおもしろくないというのが正直なところ。ルネサンスの言葉通り、ある種の保守回帰の時代に当たる。
おそらくこの時期、真に革新的だったのは、作品の表層に現れる技術やテーマ設定ではなく、安定して高品質な作品を量産する社内の体制や組織づくりの技術にあったのではないか。
個別の作品として語れる部分は非常に多く、『リトル・マーメイド』は作画がよく、『アラジン』は見ていてたのしい。
『美女と野獣』でははっきりと他者理解をテーマに打ち出し、また女性主人公が男性からの求婚を拒絶する主体性を獲得するなどプリンセスものとして出色の出来栄え。他者を尊重することを覚えた野獣が救われ、他者の存在を最後まで容認できなかった村のヤンキーは破滅する。主人公が読書好きでヤンキーと話が合わないインテリとして描かれる点も珍しい。ただしこの他者理解はプリンセス側に一方的な負担を強いるかたちとなっている側面が強くあり、なかなかむずかしい部分もある。
『ポカホンタス』は白人によるアメリカ侵略・植民地化を矮小化し美化するかなり最悪のお話で、案の定ネイティブアメリカンの民族系団体にかなり怒られたようだ。引き続き怒られてほしい。
『ターザン』もインディアンをゴリラに変えただけで『ポカホンタス』とほぼ同類型のお話ではあるが、最後に白人研究者たちがゴリラの部落に居残ることでギリギリのバランスを取っている。ここにはターザンとポカホンタスの男女差が絡んでおり、単純にターザンのほうがいいとも言いがたい。
『ノートルダムの鐘』は強引にハッピーエンド化されているという不満はあるものの、子供向けの大作映画で障害者の活躍を描いた点は積極的に評価されてよいだろう。そもそもディズニー作品には『ノートルダムの鐘』以外にも障害者がやたらとよく出てくる。アメリカ社会には障害者を積極的に受け入れる土壌があるからできるのだとは思うのだが、日本のコンテンツおよび社会全体でも頑張ってほしいポイントである。東京ディズニーランドでもべつに障害者見かけないし。
そのほか『ムーラン』『ターザン』ではそれぞれ3D技術の進歩を見て取ることができる。
みたび低迷期である。『ダイナソー』に代表されるように3D映画への本格的な移行が始まり、2D映画最後の全盛期に当たる。
作品としては『リロ・アンド・スティッチ』がずば抜けてすばらしい仕上がりで、商業的にも大成功を収めた。『リロ・アンド・スティッチ』は王子様に救われるというプリンセスものの物語類型とは異なる、弱者同士が助け合う疑似家族モデルを明確に示した重要な作品である。
自分の欲求をうまくコントロールできない少女リロと、破壊衝動を植え付けられ誕生した人工生命体スティッチが、貧困家庭のネグレクト問題とSFアクションを背景に成長していく姿が描かれる。キャラクターデザインはかわいらしく、作画から細かい小ネタに至るまで非常に丁寧に作られており、娯楽作品としてもすばらしい。リロの姉・ナニの恋人もいいヤツで好感が持てる。
残念ながらディズニー映画ではこのあと疑似家族的な想像力は発展せず、プリンセスものという旧来の枠組みのなかで無理やり「価値観のアップデート」を図ることになっていく。
『アトランティス 失われた帝国』はディズニー映画には珍しく人がバンバン死ぬ作品で、ふしぎの海のナディアや宮崎作品みたいなものをアメリカ人が真似して作るとこうなるのかといった印象。ガバガバ設定とご都合主義が目につき、リアル路線なのかファンタジー路線なのかどっちつかずの失敗作だった。ただし主人公にオタク青年が採用されている点は注目が必要で、これ以降ディズニー主人公はイケメン・マッチョではなく非モテ・オタクが主体となっていく。
『白雪姫』で人間扱いされていなかった非モテの小人たちが「社会的にただしいとされる」物語の主人公となる時代を迎え、しかもそれが日本のアニメの強い影響化で発生しているわけで、価値観の大きな変化を感じ取ることができる。ただし、『白雪姫』の王子様はあれはあれで人間味のかけらもない平板なキャラクターではあるので、モテ非モテという面ではそこまで単純明快な話ではない。
『ブラザー・ベア』は殺した相手の子を育てるというなかなか攻めたお話ではあるのだが、最終的にファンタジーに着地するせいでどうも軸がブレる。
続く
セネガルの首都ダカールはアフリカ大陸の西端に突き出た半島の港湾都市で、その位置故に大西洋横断貿易の重要な拠点らしい。
そこに、2010年に「アフリカ・ルネサンスの像」という高さ49mの巨像が完成した。若い男女と乳児からなる像である。
この像の利権構造については批判があるところだが、全てを差し置いて見事なのは母像の官能的な肢体である。(そのこともセネガルで多数派であるイスラム教徒の批判の対象らしい。)
造形の素晴らしさは、画像検索よりも最初にこの写真、特に2枚目を見て欲しい。
https://twitter.com/hideto328/status/1009110224215728128
巨像であるが故に、下乳や両足の内腿を見上げる形となるフェティッシュな画角は、見るものをして勃起させざること無しといえよう。像の製作は北朝鮮らしいが、共産国らしい巨像製造技術の高さが存分に発揮されている。
なお、この像は中に入ることができ、男性像の頭部の展望台から女性像の顔を見ることができるが、頭部は私の好みではない。Google画像検索だと頭部が真っ先に出てしまうため、画像検索の後回しを推奨する理由である。
もちろん物には順序があると言う通り、発生した順番に必然性があるものもある。
たとえば人類が松明より先に蒸気機関を発明することは考えにくいだろう。
たとえばそこにはある技術がある技術の土台となっている(その土台が欠けては発生し得ない)という必然性がある。
じゃあたとえば共産主義の後に資本主義が起こったという順序には必然性があるのか。
それは微妙だと思う。共産主義を経ずに資本主義に失敗を感じた人類社会では共産主義が後から発案されるということもありえると思うから。
もっと漫画に関連しそうな絵画でいうなら、フォービズムの後にキュビズムが起こったということには、この逆の順序で起こることは何らかの原理上不可能というような必然性はあるか。絵画における主義思想の順序になんというか指向性というか線形性みたいなものはあるのか。
別にそういった順序はどうあってもいいと思える。いろいろ並べ替えた場合であってもそれぞれにおいて起こり得る理由を後付け説明することはいくらでも可能そうだから。
実際の絵画世界においてはルネサンスから抽象画に走るという、背景知識のない人には一見退化、全体的に下手になったようにさえ見える変化が起こっているわけだが、商業主義の濃い漫画においてはあえて下手になろうとすることは全体的な傾向としてはまず起こり得ないと思う。
かといって上手くなっていく、ということもあまり考えにくい気がする。
個人レベルで絵柄が変化していくのには、技量が上がった場合も流行の絵柄に合わせた場合もあるだろう。
ではこれらの場合をひっくるめて絵がうまくなったとか洗練されていったということはできるか。
つまり流行の絵柄に合わせれば自動的に以前よりも上手い絵を描いたことになるというのなら、漫画は全体的な傾向としても絵がうまくなっていく、そういう「方向性をもった発展」をしていることになるのだが、そうだろうか?
本宮ひろ志の絵より鬼滅の絵の方がどうしてうまいと言えようか?
蒸気機関は松明に遅れて出たみたいなことはそれを歴史的事実として知らなくても、それぞれの実物を見せてもらったり使用方法や動作原理を説明されればどちらが先に現れたのか見当がつくものだろう。
でも漫画において、各年代において特定の作品の一コマを抽出して、これらの作品を新旧順に並べかえよと言われた場合、それを正しくでおこなえたとすればそれは、ある年代においてこの絵柄が流行ったという対応関係を知っているからであって、つまり外的なコンテクストに基づいているだけだと思う。漫画の絵柄に内的に「古さ」というものが実在しているわけではないと思う。感じたとしてもそれは歴史的事実から投射された虚像に過ぎない。
2021/7/3北とぴあ
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NYMC Japan
柔らかな響き。アカペラならではのよく聴きあった融ける和音が魅力的。2曲目は、遠い大地から聴こえてくるような幻想的な部分と、力強いエネルギッシュな部分の対比がよかった。
・
粋声
すげえうまい。もうプロでしょ。(感動したので言葉が悪くなりすみません)
各人の技量がとても高く、パート内の声が揃っており、和音が完璧。などと私ごときがテクニックを褒めるのはおこがましいので、曲の感想を。
隠れキリシタンのオラショ(祈り歌)をモチーフにした曲。潜伏の末にもはや意味がわからなくなったのであろう、ミサ曲の聖句の残滓が見え隠れする中、「瀬戸の潮騒…」と日本語があらわれ、江戸期のおそらくは貧しい人びとの暮らしが立ちのぼる。かと思えば強く鋭くアレルヤ、アレルヤ…!と歌われて、長い年月を経てなお信仰が「ある」のだと思わずにはいられない。
圧巻。
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2曲目、若く瑞々しい爽やかさを感じる。この合唱団によくマッチした曲だと感じた。コロナ禍のためあまり練習できなかったとの事だがよくまとまっていた。挨拶した学生さんから、やっと歌えて嬉しいという気持ちが伝わってきた。
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入場が楽しくてノリが良くて元気!
1曲目、万華鏡のように入れ代わりながらユニゾンになったり音がぶつかったりするのがカッコいい。攻めの姿勢の演奏が小気味よい。
2曲目、一転して優しい雰囲気。大切な女友達に誘われているようで嬉しくなる演奏。
3曲目、冒頭のアルトの、包むように支えてくれるところが好き。
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1曲目、グレゴリオ聖歌とおぼしき清潔なユニゾンの旋律が、ふわりと現代的な和音に広がるのがとても好き。
2曲目、ルルルの重く歌うところとスッと抜くところのコントロールがカッコいい。腹筋が使えてるのだろう、日々の基礎練習を讃える。
プロフェッショナルな上手さとは違うのだが、音楽を作る意志に溢れている。アマチュアが音楽するひとつの理想型では?!
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明るいノンビブラートの声で、丁寧に聴き合っている上品な演奏。少人数で、各自が和音の中での自分の役割を味わいながら演奏しているように感じた。
この人数で歌うのは怖いけれど楽しいだろうなあ…。
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「高齢化で…」と謙遜ぎみに挨拶されていたけれど、とても素敵な演奏でした。
女声はまろやかにつややかに伸びやかな声、男声はしっかりした支えで力強くも優しい声。
声がとてもしっくりと溶け合っていて、長年のご活動で皆さん仲良しなのだろうなぁと思います。
楽譜の音をただ出すだけでなく、曲を「歌って」いる、心がある。これもアマチュアのひとつの幸福なかたちだと思いました。
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1曲目「優しき歌」は混声版しか知らなかったので男声版に衝撃を受けた。やはりメランコリックで、混声版だとここが痺れるんだよ〜、という部分は期待を裏切らず心拍数を上げてくれる、たっぷりした演奏。ステキ過ぎる。
2曲目、斎太郎節系のワクワクする曲。エンヤトットじゃないけどベースの通奏低音ビートの上を高声が華やかに駆け回るケレン味!ロビーストームで聴いたら恋に落ちそう。
最高でした!
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リストver2
年月日 名称 | 場所 | 被害者数 | 使用道具 | 犯人 | 犯行時年齢 | 生まれ年 | 人物 | 供述 |
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1999.9.18 池袋通り魔殺人事件 | 池袋路上 | 死亡2+重軽傷6 | 包丁と金槌 | 造田博 | 23 | 1975 | 親が借金で失踪、大学進学断念 | 「真面目な人がさらにさらに苦しむ一方で、遊んで楽をしていられる身分の人たちがいることに嫌気がさした」 |
1999.9.29 下関通り魔事件 | 下関駅構内 | 死亡5+重軽傷10 | レンタカーと包丁 | 上部康明 | 35 | 1964 | 九州大学工学部卒一級建築士・離婚 | 「社会に不満があり、だれでもいいから殺してやろうと思った」 |
2001.6.08 附属池田小事件 | 私立池田小学校内 | 死亡8+重軽傷15 | 包丁 | 宅間守 | 37 | 1963 | 182cm離婚4回モテ男・兄は事件前に自殺 | 「なんや、家が貧しい者は、ええ学校入られへんのか」 |
2007.12.14 ルネサンス佐世保スポーツクラブ散弾銃乱射事件 | クラブ内 | 死亡2+負傷6 | 散弾銃 | 馬込政義 | 37 | 1970 | 高身長フツメン・週刊新潮によると母→父の逆DV家庭 | 犯行後自殺 |
2008.3.19 土浦連続殺傷事件 | 茨城県土浦市民家・路上 | 死亡2+重傷7 | 包丁とサバイバルナイフ | 金川真大 | 24 | 1983 | 父は官僚・帰国子女 | 「死刑になるために殺した」「ライオンがシマウマを食べるとき、シマウマに悪いと感じるのでしょうか」 |
2008.6.08 秋葉原通り魔事件 | 秋葉原路上 | 死亡7+重軽傷10 | トラックとナイフ | 加藤智大 | 25 | 1983 | 派遣社員 | 「負け組は生まれながらにして負け組なのです まずそれに気付きましょう そして受け入れましょう」「本気で自分を『負け組』だと考える人のことは全く理解できません。また、自分の努力不足を棚に上げて『勝ち組』を逆恨みするその腐った根性は不快です。」 |
2016.6.21 イオンモール釧路昭和通り魔事件 | 北海道釧路モール内 | 死亡1+重軽傷3 | 包丁 | 松橋伸幸 | 33 | 1983 | 介護施設調理師・新聞配達員 | 「人生を終わりにしたかった。死刑になってもいい。殺人が一番、死刑になるかと思った」 |
2016.7.26 相模原障害者施設殺傷事件 | やまゆり園 | 死亡19+重軽傷26 | 包丁 | 植松聖 | 26 | 1990 | 介護士 | 「障害者は可愛い。自分を必要としてくれる。天職だ」「重度障害者の家族は病んでいる。『幸せだった』という被害者遺族は不幸に慣れているだけだ」「特に短期入所者の家族は、暗い表情でそそくさと逃げるように帰っていきます。重たい表情で疲れ切っていました。」「職員は死んだ目をしていた」 |
2018.6.9 東海道新幹線車内殺傷事件 | 新幹線 | 死亡1+重傷2 | 鉈 | 小島一朗 | 22 | 1996 | ホームレス | 『さらに私は言った。「私には生存権がある」「(警官)この場合はあたらない」』 |
2019.5.28 川崎市登戸通り魔事件 | 私立カリタス小学校スクールバス停 | 死亡2+重軽傷18 | 包丁 | 岩崎隆一 | 51 | 1967 | ひきこもり | 犯行後自殺 |
渡邊博史(犯行当時36歳・1976生・元派遣社員)の手記より
《自分の人生と犯行動機を身も蓋もなく客観的に表現しますと「10代20代をろくに努力もせず怠けて過ごして生きて来たバカが、30代にして『人生オワタ』状態になっていることに気がついて発狂し、自身のコンプレックスをくすぐる成功者を発見して、妬みから自殺の道連れにしてやろうと浅はかな考えから暴れた」ということになります。これで間違いありません。実に噴飯ものの動機なのです。
しかし自分の主観ではそれは違うのです。以前、刑務所での服役を体験した元政治家の獄中体験記を読みました。その中に身体障害者の受刑者仲間から「俺たち障害者はね、生まれたときから罰を受けているようなもんなんだよ」と言われたという記述があります。自分には身体障害者の苦悩は想像もつきません。しかし「生まれたときから罰を受けている」という感覚はとてもよく分かるのです。自分としてはその罰として誰かを愛することも、努力することも、好きなものを好きになることも、自由に生きることも、自立して生きることも許されなかったという感覚なのです。
特定の規準を以て他者を非難した人間は同様の規準を以て非難されるのを甘受しなければならない。とまあ、そういうルールですよね?それはある種の「覚悟」であって尊ぶべきものに相違あるまい。
呉座氏の件では論点が多岐に渡るため必ずしも採用される道徳(倫理とか他の言葉に置き換えてもよい)規準が一定ではない。私が思うに根本の規準は呉座氏が北村氏を中傷していたのはよくないという程度だったろう[※1]。しかしまあ関係者含め他のことも非難していたりするわけで、その根本の規準を外れたのであれば新たな規準を示したと考えざるをえず、その新規準はその新規準を用いた人間にも適用される。
そしてなんと今回(結構前)めちゃくちゃ大きなアップデートがあったのである!
北村紗衣・北守・牟田和恵・古谷有希子各氏の過去発言|喜多野土竜|note
簡単に言えば、約10年前に北村氏が男性皆殺し協会マニフェスト(北村訳:男性根絶協会マニフェスト)を翻訳して、「『セックス』で検索してくる人がたくさんいるのだが、だいたいひっかかってくるのはヴァレリー・ソラナスの『男性根絶協会マニフェスト』の翻訳だろうから、見た人はびびるだろうね!楽しいな!」と書いたのが問題視されるべきだという内容の話である。
あ、いや、喜多野氏は「保留」と言って逃げているので、もへもへ氏やMGTOW NEWSが、もしくはこの件で批判されるべきだと言っている一部はてなユーザー達が規準をアップデートしたと言うべきか。
もちろん、訳しただけで問題だと言っているわけではあるまい。実際、MGTOW NEWSも過去に部分的に訳して説明を付している(https://archive.ph/2QksL何故かMGTOW NEWSは消滅してしまった)。その中で、当マニフェストに対する否定的見解は「フィクションに登場する悪役、はたまたブラックすぎるジョークのように思える」という部分以外にオウムを引用して暗に否定している部分だけである。加えて次のようなツイートをしている。
本当は「みんなが幸せな社会」を実現したいだけなのに、なぜか誤解されて叩かれがちなフェミニズム…
もちろん、これは皮肉である。しかしこのような調子のツイートであっても問題はないということをMGTOW NEWSは示している(ダブスタなんてするはずないからね)。換言すれば「このような悪質な憎悪文書を茶化し結果的に矮小化することは不謹慎だ」という非難はそれ単体では適用できないということだろう。ということは多角的に分析せねばなるまい。
なお、MGTOW NEWSは何故かこのツイートを削除してしまったので魚拓での引用とさせてもらう。
記事自体は削除されたのだが、なぜかわけのわからん怪しいサイトで拾えたのでそれを真実と勝手にみなして話を進めていく。セキュリティソフトが発動したのでちょっと不味い気がするが、気になった人は文章を検索すればヒットするよ。さて、北村氏はマニフェストについてどう言及していたのだろうか?
…(前略)…基本的にはレズビアンセパレーティストの立場から男性の抹殺を主張するものである(?!)。ソラナスによるとこの文章は辛辣な風刺を目的としたもので、別に本人は男性を本気で皆殺しにする気はなかったようだ(ハムレットも芝居の中で結婚している奴を皆殺しにすると宣言していたが、別にしなかったし、そのノリとたいして変わらん)。ただしソラナス本人は子供の頃から性的虐待を受けており、…(中略)…"cut up"を「抹殺」だと原文にある去勢のイメージがなくなるから「根絶協会」のほうがいいと思う。
なお、私は別にこのマニフェストに賛同しているわけではない(いや、男の人大好きですよ!とくに女装している時はね)。単に風刺文として面白いと思っているのと、日本語訳がないのと、クリスマス休暇中は図書館がしまっちゃって時間があくから訳してみるだけである。一方でこのマニフェストに書かれているミサンドリー(男嫌い)的な内容は、現代大学で読まれているような哲学・芸術史上重要とされているいろいろな論文に現れているミソジニー(女嫌い)に比べればそうたいしたことないんじゃないかと思っていることも確かである。この論文はたしかにイカレているが、初期キリスト教関係の文献とか、私が研究しているイギリス・ルネサンスのアンチ女性パンフレットとか、現代の「未来派マニフェスト」なんかのイカレっぷりに比べてそう突出しているとは思えない。
とりあえず、「内容に賛同しているわけではなく、イカれたミサンドリーを含む文章だが、一方で風刺文として面白くまた過去現在のミソジニーを含む文章と比べてそう突出しているわけではない」という感じだろう。
すなわち、今回作られた新規準によれば(1)イカれていて(2)ミサンドリーだから(3)不賛同と先に断っていても特に免罪にはならず断罪されるべきだと言うのである!
ではMGTOW NEWSの紹介記事とは何が違うのだろうか?「風刺文として面白い」のように少しでも価値を認めた時点でダメなのだろうか(なお風刺文として面白いというのは的を射た風刺だというのを意味しないらしいのに注意。後述)?もしくはミソジニーテキストと比べてそう突出していないという論評がどっちもどっち的な矮小化を思わせてよくないのだろうか?それはさておきもう2箇所程引用して少し検討してみよう。
しかし、二パラグラフめからはヴァレリー・ソラナス自身の男性嫌悪が匂い立ってくるようでまったくすごい…のだが、これは人生において一度はブスだったことがある女性にしか書けないとこである気もする。実は私はこのあたりはかなり読んでいて厳しい。
北村氏は一気に全文翻訳したのではなくかなりの回数に分けて翻訳している。これは2回目の翻訳の時の説明。この少し前に「あまりのホラーっぷりにちょっと笑いがとまらなくなってしまった」とあり言葉は軽いが男性嫌悪の勢いに着いていけない感じがうかがえる。引用後半部分はそれとは別の感慨だが。
この反ヒッピー論は私はなかなか頷けるところもあると思うのだが…ヒッピーコミューンとかが基本的に男性中心的、異性愛中心主義的だっていうのはよく言われていることじゃない?ここ二回ぶんくらい、表現が非常に下品なだけでソラナスの言うことが結構まともな気がするので、興味深いがちょっと諷刺の切れ味は鈍っている気がするな。
ちょっと前に「なお風刺文として面白いというのは的を射た風刺だというのを意味しないらしい」と書いたのはここにかかる。まともだと風刺の切れ味が落ちるということは風刺として面白いというのはもしかしたら褒めてないかもしれない。
ここは一部同調している箇所で他にも同様の反応が何箇所かある。逆に「相変わらずヒドい」と書いてある場所もある。…とまあおおよそこんな感じである。
引用文書について(1)イカれた差別文書と認め(2)不賛同を表明しているが、(3)一部で論の価値を認め(4)他の差別文書と相対評価している。
とはいえ、喜多野氏やもへもへ氏らはどこに言及すべき価値を見出したのか具体的に説明していないので何とも言い難い節はある。実際具体的にどのような態度で引用翻訳していたのかについての論評はない。つまり直接的に言及・引用されている内容を中心に彼らの取る規準を見出せばとりあえずこんな感じではないか。
中核の評価基準
(1)悪質な文書(引用文書の性質項を満たせば自動的に認定される)について引用し(2)その攻撃性を軽視しているように見られかねない発言をしていた場合(3)その発言が10年前程度の範囲内であっても問題である。
引用における態度
(A)差別または憎悪文書と論じ(B)否定的評価(イカれたなど)を下し(C)不賛同を表明する一方で、(D)部分的に価値を認め(E)類例と並べて相対化している場合は免罪されない。
(a)(引用時から)40年前の文書であり(b)差別または憎悪文書であり(c)内容も過激で(d)本人が殺人未遂を起こしている。
とりあえずキタ規準とでも呼んでおくとする(北村氏にも喜多野氏にも適用されないので不適切な名称かもしれない)。「中核の評価基準」「引用文書の性質」はこれより悪質性が高い場合問題視され、「引用における態度」はこれより良心的であれば責任は軽くなるという感じで、総合考慮されるべきだということになるだろう。ただし、何度も繰り返すようだが「引用における態度」については喜多野氏らは特段触れていないことに留意が必要ではある。ここを入れないと逆にキタ規準が適用されるもへもへ氏らに酷く高度な道徳的規準を適用されるのが不憫なため考慮に入れるのが妥当だと考える。
ところで規準で時期を考慮することに不満を持つ人もいるかもしれない。「中核の評価基準」において時期を考慮するのは、1つはやはり価値観の変遷が大きな理由だ。例えば女性は事務職という考えはすこぶる差別的だが過去に遡ってそういう発言をした人間は断罪されるべきとなれば過去の人物はわりと断罪される(もちろんそういう考え方が過去にあったことを差別的な思想が蔓延っていたと批判するのは否定しない)。するとやはり過去の発言の方が悪質性は減ると考えるべきではないだろうか。とはいえ過去においても問題であった言行は当然問題であり免罪されない。もうひとつは時効という考え方だが、こちらは不同意の方も多いかもしれない。なお例えば森元会長が女性蔑視的発言をした際に15年前の「女の人だなあ。やっぱり(視野が)狭い」という発言が掘り起こされたのは単にその人の一貫した思想態度に対する批判であって15年前だからと擁護することはできないだろう。何にせよ、一見した感じ呉座氏批判については3年前に遡った程度らしく、北村氏が現在ミサンドリー発言をして10年前の言行が掘り起こされたというわけでもないので、単発で10年前の言動も非難されるという新たな規準が定立されたと評価するほかないだろう。
「引用文書の性質」で一応時期を考慮に入れるのは少し違って切迫性の観点による。例えばどこぞの戦国武将の妻が「子供の1人でも戦死すればお家の名誉になる」と言ったのを称揚するのとどこぞの現役政治家が「お国の為に子供を差し出すのが名誉あることだ」と言ったのを称揚するのではやはり深刻度は大きく変わる。
というわけで架空の例題問題[※2]でどのように応用できるか考えてみよう。
アメリカ議会を襲撃して逮捕された人物の発言を引用しよう(訳は引用者)。
「リベラルは超特大の馬鹿(class-A moron)だ。いつでも自分達が正しいと考え意図に沿わない他者を糾弾し排斥する。自らを民主主義者の守り手と称するが、その実彼らは選民思想のエリート主義者に過ぎない。弱者や多様性を言い寛容を謳うが本性は非寛容で本当の弱者に対して無関心。アメリカを偉大さから引きずり下ろした犯人なのだ。今回もDSを支持し選挙を盗み民主主義だと嘯いている。彼らは引きずり出され、八つ裂きにされるべきだ。夜明けに連れ出され銃殺されるべきだ。」
彼はこの発言を非難された際に冗談だと返しておりリベラルは本気で殺されるべきだと思っていたわけではないようだ。それにしてもこの発言からはリベラルに対する憎悪が伝わってくる。彼は陰謀論者であったが、リベラルについての評には見るべきところがある。選民思想の持ち主だと喝破するところなんて的を射ていないか?
今は例の議会襲撃者の発言がブログトップだから別の用事で見に来た人はびっくりしそう。
いい薬だね
まず、引用文書は(a)最近の発言で(b)差別かはさておき憎悪文書なのは間違いなく(c)射殺を言い出さすなど内容も過激で(d)本人も議会を襲撃しているという事情に鑑みれば悪質で切迫性も満たす発言で問題だろう。
引用における態度では、(A)憎悪が伝わってくるなど憎悪発言であることが読み手に伝わり(B)発言の否定的評価は薄いが陰謀論者という評があり(C)不賛同だと表明していないが同調してはいなさそうである一方、(D)部分的に好意的な評価をしている。ただし、(E)相対評価はしていない。ただ総合的に見るとキタ規準に抵触する態度と言わざるをえない。
中核的の評価基準だと(1)悪質な発言を訳し(2)その攻撃性や悪質性を軽んじているように見られかねない態度を(3)最近取っていたので問題だと言える。
つまりこのような発言はキタ規準に抵触するということになろう。もちろんキタ規準は絶対のものではないが、甘受する「覚悟」を示した人間には当然適用される。まあ北村氏にも喜多野氏にも適用されないのだが。何にせよ尊い覚悟は敬服し記録するものである。
ところで繰り返しになるが今回北村氏を批判した人々はマニフェストを翻訳したという事実とそれに言及したツイートをもって批判している。であるから、ここで適切だと考えた規準はいささか正確性に欠ける嫌いがある。ここで言うところの「中核の評価基準」で論じるべきかもしれない。しかしMGTOW NEWSも同じく男性皆殺し協会のマニフェストを引用し「とっても素敵」と茶化し皮肉を言っている。これは「その攻撃性を軽視しているように見られかねない発言をしていた場合」と言えなくもない。
所与の条件である今回の批判者は過去の発言と直接的なダブスタをしていないは動くわかげないので困った話である。これをMGTOW NEWSのパラドクスと言う。これを解消するためにこの論考では別の項目、特に「引用における態度」の項を作り表面上逃れることとした。だが後続者の皆さんには正面から向き合ってこの点をブレイクスルーしていただきたい。
小学生並みの感想を言うと何にせよモラルが向上するのは良いことだと思います!覚悟がある人がモラルに寄与するんですね。いいと思う。それは呉座のいいね欄を遡ってる人でも北村氏の件を非難する人でも同様である。その覚悟は敬意をもって記録されるべきだ。
けど、自分は直接の誹謗中傷でなければ遡っても数年くらいかなって思うので私に対してはそのくらいの基準で批判してもらえると助かるかなあ。その範囲でならリツイートだろうとスターだろうといいねだろうと謝罪するので…。ダメですかね。
[※1] ここはみんな合意してくれると思うんだけど中傷ではないという意見の人もいると思うので次の増田で詳しく説明しておきたい。
結論を言うと、容姿を揶揄したと見るか全く言わないようなことを言っているかのような風聞を流したと見るかどちらかにせよ中傷であるという結論だ。
[※2] 一応元ネタは何個かあるが、1つはトランプ政権で大規模な選挙不正は無いと言って事実上の更迭をされたKrebsに対してトランプ大統領の弁護士diGenovaが冗談?として言った”that guy is a class A moron. He should be drawn and quartered. Taken out at dawn and shot.”
金隠湾から望むコンスパンティノープルはパンティ型の城壁に囲まれている。
かつて、この都はパンティの総本山と呼ばれ世界中のパンティが集まるところであった。
そのパンティを守るため、時の皇帝パンティオン12世はパンティ型の巨大な城壁を築き上げた。
パンティオンの壁と呼ばれた三重構造のパンティ建築様式の枠を極めた城壁はただの軍事施設ではなく、
いざというときには、その壁の中でパンティを生産するべく様々な職工たちが居住した。
そんな職工の一人がパンティルネサンスの祖、レオナルド・ダ・パンティであり、
五感で得た情報を司り、言語という枠を使って漠然としたイメージを表現する一種の記号である。
言語は想起のための指標である。それは経験や知識の曳き手であって、イメージのリアリティではない。
書くことは、他者とのコミュニケーションが可能であることを前提に、ラベル付けされた一連の記号を用いて、他者に対して主張や理性を主張する方法の一つである。
口頭での主張は、私たちが獲得した仮説推論の致命的な能力と、類似点を見つける病気を悪用して、メディアやミームに感染させる一種のツールである。
インターネットを通じて他人のイメージを乗っ取ることを意図して書かれている。この思索は、言語というナンセンスな方法を使っているので破綻している。
自由や幸福は、自分の手に負えないものを無視することで得られる。
これは古代ギリシャの哲学者エピクテテスの発言です。これは権威的な重み付けのための引用であり、特に意味はありません。
松井秀喜がこのストイックな哲学者と似たようなことを言っていたので、歴史的にも理解できる考え方だと思いました。
言語の美点は、話し手が意図した通りに「もっともらしい」ものを人間に刷り込むことができることである。ある公理を真理として刷り込み、恐怖や扇動によってその絶対性を刷り込む行為は、様々な組織の中で日常的に見られる。
そもそも言語の誕生は、人間による宗教の獲得と不可分である。人間はある時点で、言語を通じて空想力、理性、類似性を見出す能力を獲得し、自分ではどうしようもないことを生活の中に内在化させてきた。
それは例えば、お金や権威などの暴力の一種であったり、感情という人間の状態の一種であったりする。
すぐには永続させることのできない現象が、言語という記号を使って他者と共有されるようになったのである。
それだけでなく、活版印刷やインターネットの技術革新によって、言語は時空を超えて広く、長く保存されるようになりました。
それと引き換えに、宗教の絶対性を広めることで、言語習得のデメリットである上記のような制御不能な事象を打ち消そうとする試みがなされたのである。
上記の記述には何の根拠も示せないので、適当な本やネット上の類似情報を相互参照して、ご自身の結論や否定の判断にお任せすることにします。
エピステーム
精神病についての深い考察は、ミシェル・フーコーの著書をお読みください。エピステームという重要な概念が提唱されています。
エピステーメとは、ギリシャ語で「知識」を意味する言葉をもとにフーコーが造語した言葉である。簡単に言えば、私たちの認識が形成される知識の枠組みを指す。私たちの知覚は、私たちの経験から直接、媒介されずに得られるものではありません。私たちの経験はすべて、私たちが持っているある認知的枠組みに適用されたときに知識となるのです。
そもそも「精神病」という名前を使うのはよくありません。何と言っていいのかわからない。ラ・ラ・ラ・ラ・ラ。なんだっけ?
インゲニヤトーレ
12~13世紀のヨーロッパでは、労働組合の倫理規定により技術開発が停滞していましたが、後のルネサンス期の15世紀には、相次ぐ戦争に対応するために様々な技術が開発されました。この時の新技術はインゲニウムと呼ばれていました。その技術を開発したのがインゲニウム・トールである。インゲニウムは、今日のエンジニアの語源です。レオナルド・ダ・ヴィンチもインジニアトールの一人でした。
レオナルドの写本の中で最も有名なのは、アトランティコ写本とマドリッド写本である。彼はすべてのものを描写するために、フォトリアリスティックな絵を必要としていました。言語のような一対一の記号ではなく、より具体的なイメージを捉える方法が必要だったのだと思います。
ピクトリアルジオメトリという幾何学的技法があります。ガスパール・モンジュによって確立され、産業革命期にエコール・ポリテクニークで教えられました。ルネサンスの数世紀後には、主に軍事目的であったが、イコノグラフィーが導入された。
なんでそういうデマを広げるんですか?
リュート奏者の佐藤豊彦さんが最初のLPを出したのが1971年で、ハーグ王立音楽院教授に就任したのが1973年です。
そして、有田正広さんがブルージュ国際音楽コンクールのフラウト・トラヴェルソ部門でダントツで第1位を取って賞賛されたのが1975年ですよ。
同じ時に東京リコーダー・カルテットがリコーダーアンサンブル部門で優勝しました。山岡重治さんらのグループです。
有田正広さんは、その後70年代中からコレギウム・アウレウムのメンバーとなって活躍されてました。後には18世紀オーケストラなどにも参加。
また、オトテール・アンサンブルの活躍開始も70年代です。アルヒーフからレコードが出てましたね。(今はCD)
中世の音楽についても、皆川達夫さんの主催する中世音楽合唱団がありましたし、岡本一郎さん主催のダンスリー・ルネサンス合奏団の結成も70年代(1972年?)でした。
その後、主な団体だけでも、東京バッハ・モーツァルト・オーケストラの活動開始が80年代。バッハ・コレギウム・ジャパンの活躍開始が90年代、ヴォーカル・アンサンブル カペラの活動開始も90年代です。
ということなら、ベートーベンのエグモント序曲なんかはどうでしょう。超有名というわけではないけど名曲で長すぎずまとまりが良くて盛り上がる曲です。いかにもベートーベンらしい感じのオーケストラ曲。
他には、そうだなあ、有名過ぎずってのが難しいところですが、例えばスターウォーズのテーマなんかが好きな人ならチャイコフスキーやワーグナーあたりが合うかも。『序曲1812年』とか『ワルキューレの騎行』とか『さまよえるオランダ人』序曲とか『マイスタージンガー前奏曲』とか(正確には『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第1幕への前奏曲)
もっと颯爽として軽やかなのなら、メンデルスゾーンの『真夏の夜の夢』序曲とか、『交響曲イタリア』とか。
もっと繊細で切ない感じなら、モーツァルトの交響曲40番とか。(歌詞を付けて「哀しみのシンフォニー」としてヒットしましたね)
もっと明るいモーツァルトらしさなら、『アイネ・クライネ・ナハトムジーク(小夜曲)』とか『ディヴェルティメントK136』とか『クラリネット協奏曲』とか。
もっと暗くて深刻な感じのクラシックなら、ブラームスの弦楽六重奏曲 第1番 第2楽章 とか、モーツァルトのセレナーデ ハ短調 K388 とか。
もっとロマンチックでリッチな感じなら、ラフマニノフのピアノ協奏曲なんかどうでしょう。もっと短い曲で手軽にラフマニノフを味わいたいなら、ヴォカリーズがオススメ。(楽器はチェロがいいかなぁ。フルートもいいけど。)
もっとインパクトの強いピアノ協奏曲がお望みなら、グリーグのピアノ協奏曲が一番かも。出だしの印象は強烈です。
もし、スウィングルシンガーズのバッハ(ダバダ〜)やネスカフェの昔のCM(ダバダ〜)やダニエル・リカーリの「ふたりの天使」(ダバダ〜)がお好きなら、映画「恋するガリア」のラルゴ(歌:ミレーユ・ダルク)で有名になった、バッハのチェンバロ協奏曲へ短調BWV1056の第2楽章ラルゴなんかいいかも。「バッハのアリオーソ」とか「バッハのラルゴ」とか呼ばれたりもします。チェンバロでもピアノでも他の楽器でも声でも素晴らしいですよ。(僕の好みはレオンハルトのチェンバロ)
ゲームの音楽のことは何も知らないのですが、初代ドラクエの音楽はクラシック調でしたっけね。CDも出てた。
もし、伝統的なヨーロッパ風の世界が舞台のゲームなら、古い時代の音楽が合っているのかな? だとすると、バロック期やルネサンス期ですね。バロックなら超有名なのはヴィヴァルディの四季やバッハの小フーガト短調ですが、有名なだけあってやっぱり名曲だと思います。(ついでにバッハの『イタリア協奏曲』と『ゴルトベルク変奏曲』もあげときます。)
もしヨーロッパの伝統的な村の雰囲気が味わいたいなら、近代的なオーケストラ用の曲だとレスピーギの『リュートのための古代舞曲とアリア』などもありますが、やはり当時の本物がいいでしょうし、ルネサンス期の舞曲なんかはどうでしょうか。YouTubeで「ルネサンス舞曲」と検索するといろいろ出てきます。
それから、昔の歌だと、マドリガル(またはマドリガーレ)と呼ばれる歌曲が親しみやすいですが、とりあえずジョン・ダウランド(John Dowland)の歌曲はいかがでしょう。YouTubeで John Dowland と検索してみましょう。あのスティングも歌ってますよ。
イギリス人のブルマーの調査から、ずいぶん遠くまで来た。脱線に脱線を重ねてきた結果だ。しかし、昔から気になっていたので、バレエのチュチュ(ふわっとしたスカートみたいなあれ)についても調べておこうと思う。子どもの頃に、やっぱりこれがエッチだと思ったからだけではない。どんなことでも、疑問を持ったならば調べることは大切だからだ。それに、こういう素朴な疑問だけれども面と向かって聞きにくいことについて調査し、書き留めておくことは、誤った憶測に対抗する上での価値があると信じている。
これは、単純にお尻フェチだとかパンチラ萌えだとかだけの話ではない。僕たちの欲望がどのような仕組みになっているのか、そして欲望を喚起するシステムがどのように働いているのかを理解することは、逆説的に欲望の暴走をコントロールすることにつながるはずだ。言い換えるならば、社会が求めている女性像/男性像から自由になる手段であり、政治や広告から発せられる都合のいいメッセージから身を守るすべにもなる。
前置きが長く、堅苦しくなってしまった。どうか肩の力を抜いて読んでいただきたい。
https://tutusthatdance.com/blogs/faq/parts-of-a-tutu
これは、クラシック・バレエのチュチュの基本的な構造である。pantyと書かれている項目に、「ここにフリルが縫い付けられる」と書かれている。要するにお尻の曲線はそこまで丸見えにはならないのである。
しかし、このフリルにもいくつか種類がある。英語版wikipediaのtutuの項目には、現代のチュチュとして、次の4つが挙げられている。
短く硬い、釣り鐘状のスカートを持ったチュチュ。通例、パンケーキ・チュチュより長い。ドガの作品で多く見られる。
これだけを調べるのにも、意外と時間がかかった。当たり前だが、カタログの写真では普通、スカートの中まで写さない(というか、写すべきでもないだろう)。「inside pancake tutu」では、こういう資料は見つけたが。
https://www.pinterest.jp/pin/560487116124411506/
http://4.bp.blogspot.com/_Ozo7z2zkqWs/S-i2wVfcR1I/AAAAAAAACYQ/zDek9ewzWno/s1600/platter.jpg
世の中には私と同じような疑問を持つ御仁もいらっしゃるようである。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11205496201
さて、ウィキペディアのチュチュの項目を見ると、「ツン」というパンツ部分を指す言葉が出ている。引用すると「ツン(Tune)はスカートと一体になったチュチュのパンツ部分。……(中略)……構造的にロマンティック・チュチュには存在せず、ロマンティック・チュチュではバレリーナは下着としてステージ・ショーツを別途着用する(広義では、これもツンと称する場合もある)」となっており、幾分ややこしい。
また、その下着の項には「チュチュを身に付ける際は下着として薄手のキャミソールレオタード状をしたバレエ・ファウンデーションを着用する……(中略)……色はほとんどの場合ベージュ系である」との記載がある。
要するに、レオタードみたいになっている場合は普通に下着を身に着けるし、パンツ部分がチュチュと分かれているものでも、オーバーパンツをはいているわけである。当たり前ではあるが。
ロマンティック・チュチュは1832年、「ラ・シルフィード」で初めて案出されたらしいので、先ほどのツンについての記述と比べれば、現代につながるフリル付きの見せパンの起源はそこにある、と判断できそうである。ただし、英語版wikipediaには「ツン」の項目はなかった。
また、興味深いのは注釈の「ただし、アンダースコートとは異なり、ツンのフリルは横方向よりも縦方向に付けられる場合が多い」という個所だ。確かにさっきの画像でもそうなっていた。フリルの趣味の時代的変遷だろうか?
Wikipedia英語版のballetの記事でバレエの歴史を振り返ると、拾い読みだが、次のような流れになっている。
まず、バレエの起源はルネサンス期の宮廷でのダンスにさかのぼる(ルイ14世も踊ったほどだ)。それが徐々に劇場で公演されるようになった。
17世紀の頃は、女性の衣装は重たい生地と膝丈のスカートで構成されていて、動きやしぐさを出すのが難しかった。しかし、これでは動きやジェスチャーに制限ができてしまう。これが18世紀になると、スカートは地面から数インチの高さになる。色はパステルカラーが主流となり、さまざまな飾りが華やかでフェミニンなスタイルを強調するようになる。現在踊られているバレエでは一番古いものがこの時代で、「ラ・シルフィード」「ジゼル」が知られる。以下は18世紀の絵画だ。
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19世紀初頭には、身体にぴったりとフィットした衣装が用いられるようになる。具体的にはコルセットが導入され、身体のラインが見えるようになった。また、花冠、コサージュ、宝石などの小道具も導入された。クラシック・バレエでは「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」「白鳥の湖」がよく知られる。次の画像では、少しスカートが短くなっているのが確認できる。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/72/Giselle_-Carlotta_Grisi_-1841_-2.jpg
そして20世紀、バレリーナのスカートは膝丈のチュチュとなった。正確なポワント(足の技)を披露するためである。舞台衣装の色も鮮やかに変わった。20世紀の作品としては、「牧神の午後」「春の祭典」が名高い。1910年の写真を貼る。
https://en.wikipedia.org/wiki/Ballet#/media/File:Agrippina_Vaganova_-Esmeralda_1910.jpg
https://en.wikipedia.org/wiki/Ballet#/media/File:Grace_in_winter,_contemporary_ballet.jpg
画像をご覧いただければ、スカート丈がどんどん短くなっていくのがよくわかる。
さて、結論を述べよう。Wikipediaによれば、衣装が重いと細やかな表現ができないのと、脚を使ったテクニックを見せるようになったため、スカートが短くなったようである。
ちなみに、海賊というバレエでは、へそ出しの衣装も存在しているらしい。確かにbunkamuraに食事に行ったとき、バレエの衣装を展示していたが、そこにへそ出しファッションの衣装があったことを思い出した。バレエにしては大胆だと思った覚えがある。
ブックマークのコメントはありがたく読ませていただいており、不快だというお叱りも真摯に受け止めたく思っている。確かにパンツじゃないのにパンチラに見えてしまって欲情する人がいるってのは幾分デリケートな話題であり、増田ではないとやりづらい。また、どの程度ユーモアを交えて描くか匙加減も難しい。それを受けて、少し考えておきたい。
僕は割と美術鑑賞が好きで、ドガの作品も好きなのだが、その背景を知っていると、手放しで褒めることはできない。再びウィキペディアから引用しよう。日本語版からだ。
エドガー・ドガがバレエダンサーを描いていた頃、バレエダンサーは現在と違い地位の低い人が身を立てるためにやっていたため、バレエダンサーは蔑まれていた。主役以外のダンサーは薄給で生活しており、パトロン無しでは生活するのが困難だったとされる。パトロン達は当然男性が多く、女性ダンサーを娼婦の如く扱っていたと言われる。かくして、フランスのバレエ界から男性ダンサーはいなくなり、フランスのバレエは低俗化することになる。
もちろん、どんな事情があったとしても、弱い存在を表現しようとしたドガの作品の価値は損なわれない。しかし、僕は問わねばなるまい。スカートが短くなったのは、果たして本当にダンサーの意志だったのか、と。そして、女性が身体を見せるようになった流れの誕生は、観客も共犯だったのではないか。こうして性的好奇心を持ってしまう僕も、同じではないか。
もちろん、過去のことだからわからないことが多いし、究極的には真相は明らかにならないかもしれない。女性が美しい肢体を見せたいと思ったとしても、それは男性が主流だった時代の文化の中で育ったからそう思っただけなのかもしれず、どこまで本当に主体的に判断したかの判断は難しい。とはいえ、過去の人間が何を考えていたのか、それはどの程度自分だけの決断によって決められたことか、証拠が不十分なままでこちらが断定するのは越権行為だろう。
しかしながら、現代に生きる僕らは、自分が主体的にしていると思っている行動の多くも、無意識のうちに同時代の文化に支配されていることには、自覚的であることが求められるだろう。欲望の仕組みを知るとは、そういうことだ。読者諸氏も、自分のフェチの起源を考えてみると、きっと得るものがあると思う。
身体を使った表現と性の問題は扱いが厄介だ。ただでさえスポーツは厳しい師弟関係でパワハラになる危険があるうえに、新体操などの身体表現のあるスポーツでは、性暴力にまつわる訴訟は絶えない。
スポーツではないが、芸術と性も深い関係にある。どちらも人間の根源に根差しており、安易に善悪を論じることが困難だ。バレエも例外ではない。師弟の間で身体が親密に触れあい過ぎて恋愛関係になってしまう例がある。美しさへの憧れが恋愛感情や欲望と混同されることだってある。現に、男女だけでなく、ディアギレフとニジンスキ―の同性愛関係もよく知られている。こうしたことが、後から振り返ってみれば不適切な関係だった、師弟の力関係を利用していた性暴力だった、と判断されることにもなるかもしれない。とはいえ、これらは個々の具体例によって判断すべきだ。正直なところ手に余るし、多くの人の人生について書くことになる。ここでは語りつくせない。
今までこうした社会的な側面から女性のファッションの歴史に触れてこなかったのは、元々は衣装そのものの歴史を書きたかったのであり、社会の反応まで行くと本題がその中に埋もれてしまうことを恐れてのことだった。しかしながら、ドガが好きな自分としては、いい機会なのでここで一言断っておく必要がある、と感じた次第である。
何を好きになっていいし、対象にはどんな感情を抱いてもいいと思うけれど、歴史や経緯は知っておきたい。それが、芸術やスポーツに励む女性に性的な魅力を感じてしまう僕なりの折り合いのつけ方だ。そして、盗撮などの犯罪には断固反対する。
今回の調査では、見せパンの起源と推測される年代までは確認できた。しかし、細部は依然として明らかではないため、何らかの形で補完したい。
そこから、メイド服、またはロリータ服における、見られても恥ずかしくない下着について調べるかもしれない(知識がほぼないのでとんでもない誤解かもしれない)。または、キャバレーでのラインダンスやバニーガールについて、になるかもしれない。あるいは、再びブルマーに回帰するかもしれない。それは明日の気分次第だ。
とはいえ、しばらくは休みたい。自分の欲望やその起源について考えることは有意義であったし、文章化することで過度のブルマーへの執着やフェティシズムは手放すことができたからだ。一段落した感じがある。この言語化は妖怪に名前を付けて対処法を見つけたようなものだろうか。どろどろ、もやもやした不可解なブルマーに対する欲望が、知的なものとして把握できるようになった。
つまり、増田に欲望を垂れ流すことで、落ち着くことができた。知識が増えて勉強になったという肯定的な意見、ねちっこく不快だという否定的な意見、どちらも自分の姿を客観的に見せてくれた。すべての意見に対して、ここに感謝の言葉を述べたい。
ttps://en.wikipedia.org/wiki/Miss_La_La_at_the_Cirque_Fernando#/media/File:Edgar_Degas,_Miss_La_La_at_the_Cirque_Fernando,_1879.jpg