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はてなキーワード: 国史とは

2018-09-27

阿Q正伝より

大総統の上諭に依って国史館に宣付して本伝を立てたことがまだ一度もない。――英国正史にも博徒列伝というものは決して無いが、文豪ヂッケンスは博徒別伝という本を出した。しかしこれは文豪のやることでわれわれのやることではない。

これはなにかのほのめかしです。意味の分かる方は下記にいらしてください。応募お待ちしております

【原文 青空文庫

https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/files/42934_16419.html

Togetter

https://togetter.com/li/1266430

2018-08-18

高知県立大学の蔵書の件

高知県立大学の蔵書の整理の件、ブコメでいろいろ意見出ているが思うところを述べる。

ブックマークコメントの粗さがしをしたいわけじゃないので、論点となりそうなところを適当に項目立てて書いていきます

やすことで二度と手に入らなくなる

そんなことはない。図書刊行物なんだからどこからでも手に入る。

裏返しで、どこにもない一点モノの本や史料を捨てたらそりゃ問題だ。

富士山測候所の日誌が処分されたのとは、ここが違う。

一点モノか、刊行物か。まずここを峻別して議論した方がいい。

刊行物の場合、一ヶ所の施設が捨てたとしても代替措置いくらでもある。

キャパティ問題で捨ててもいいということ。

記事には古そう、かつ郷土関係する、かついかめしタイトルがならんでいるが、これに騙されてはいけない。

刊行物か一点モノか。ここで判断すればいい(もちろん「○○氏文庫」とかを崩すのは問題があるけれども)。

むろんその境界あいまいで、限定された刊行物なんてのもあるんだが。

電子化するべきだったのでは?

これも一点モノor刊行物の機軸で考えてみよう。

他所にもある刊行物をあえて電子化する意義はどこまであるだろうか。

当然、コスト問題がある。膨大な資料スキャンする。そしてそれを常に使えるようシステム保守していかなくてはならない。

刊行物に対してそこまでするメリットはないのではないか

頻度の問題

記事には『国史辞典』『日本国語大辞典』が燃やされたとある

いやあ国史日国重要辞書ですよ。でも、それ使ったことある人どれだけいますか? 手に取ったことある人どれだけいますか? 

私は日本史学専攻だったのでアホほど使ったけれど、世の中のみんながこれを使っていたとは思えない。むしろみんな使ってたらすごい社会だと思うが。

他の本もそうだと思う。私は記事で上がっている書籍について、恥ずかしながら国史日国以外、ほとんど手に取った事有りません。

本が一冊一冊貴重なのは重々みんな承知している。だけど、それをどの程度で使ったり読んだりしているのか。

そんな中で廃棄の判断がなされた。国史日国も重複してるんだし、今は電子化の絡みで言えばジャパンナレッジあるし。

大学は知を守るところなのに……

その通りで、未来に向けて予算が限られるなか建物を建て替え、未来に向けて増え続ける蔵書を合理的に整理していかなくてはならない。

一見すると蔵書の焼却は知の後退のようにみえるけれど、実際、今後数十年数百年存続していくための知的チャレンジであるように思う。

じゃあ、どうすればよかったのか?

高知県立大学の今回の措置で責められるべきは、焼却の前に頒布の機会を持つべきだったということ。

新聞記事にもあるが、大学図書館の蔵書を処分する際にはいくつか頒布方法がある。

私の大学では、書庫の大改修の際に本が放出された。エクセルの表になっていて、希望者は随時図書館を訪れ、本を受取る。

本には図書館所蔵印のうえから廃棄の印が押される。

また、しれっと近くの古くからある古書店図書館のラベルが付いた本が並ぶことがあった。

事務処理的には、入札して適正に古書店販売したのだろうと思う。

表を作ったりなんなりと事務作業量は増えるけれども、このあたりは本の処分の前に出来ることだったのではないかと思う。というかほかの大学ではやっている。

ただし、これはこれで問題になることがある。どうしても、一点モノに近い貴重書が混ざるのだ。

先輩から聞くところには、農学部放出した書籍の中に著名な植物学者の記名のある本が含まれいたことがあると言う。

そういう「瑕疵」みたいなのを露見しないためには燃やしちゃえ! となるのかもしれない。いずれにせよダメだが。

高知新聞の書き方

高知新聞の書き方は、いらずらに問題を騒ぎ立て過ぎな印象を受ける。

貴重な書籍が失われた、というところに力点ありすぎる。述べてきたとおり、刊行物は貴重かというとそうでもない。失われた、といっても代替はいくらでもある。

頒布の機会もなく燃やしたこと図書館の蔵書管理キャパティに関する話題と絡めて語るのであったならばどれだけ良かったか

本が燃やされた! 残念! という感情に訴えるところに力点があり、この辺りに記者の見識・力量の限界が見える。

まとめ

刊行物はそれほど貴重ではないよ

使用頻度を考えた方がいいよ

未来に向けて蔵書を整理するのは仕方の無いことだが頒布の機会を持つべきだったよ

高知新聞記者はその辺りに鈍いんじゃないかと思うよ

2018-08-08

anond:20180804152511

歴史人口学で見た日本』はともかく、『ユーゴ紛争』って、体系的な読書入り口になるか……?

いや、ユーゴ紛争とか国際政治かについて関心を持つ糸口にはなると思うけど、良くも悪くもルポルタージュなので、体系的な読書入り口になるかっつーと微妙では。

ルポルタージュルポルタージュとして興味深いものだけど、往々にして「入り口」というか「とっかかり」であることが多い。本当に相手に体系的にものごとを知ってほしいなら、導入は別の本がいいんじゃないの。

もし国際政治とかそういった話に興味を持ってほしいなら、ナイ&ウェルチ国際紛争』(http://www.yuhikaku.co.jp/books/detail/9784641149175)とか、あるいは有斐閣政治学入門のやつ(http://www.yuhikaku.co.jp/books/detail/9784641150256)とか。

東大出版会最近政治学の入門シリーズ出してるな>http://www.utp.or.jp/book/b297525.html政治学の入門としてはお手頃かなと。

民族問題とかそういうテーマにいざないたいなら、『民族ネイション』(https://www.iwanami.co.jp/book/b225944.html)とか、『民族紛争』(https://www.iwanami.co.jp/book/b226218.html)とか。『ナショナリズム論・入門』(http://www.yuhikaku.co.jp/books/detail/9784641123359)はちょっと初心者にはとっつきにくいかな。

ユーゴ紛争に興味を持ってほしいなら、『ユーゴスラヴィア現代史』(https://www.iwanami.co.jp/book/b268264.html)とか、最近出たやつだとマゾワーの『バルカン』(http://www.chuko.co.jp/shinsho/2017/06/102440.html)なんかがいいんじゃないの。

国際紛争』はレベル的にも大学新入生がちょっと背伸びして読んでみるくらいだから青二才さんにちょうどいいと思うんだよね。色々おもしろエピソードが紹介されてたりするし。やっぱり英米教科書はおもろいわ。

あるいはどんな入門書が適切かわからん問題もあるのかもなー。青二才さんが何かの入門書を探したい、となったときには、だいたい、

この辺をチェックして入門書探して、そこから参考文献を芋蔓式にたどっていくのがいいと思うんだよね。

ただまあ最終的には青二才さんに興味がないとどうにもならんところはあるので。You can lead a horse to water, but you cannot make him drinkですよやっぱ。

2017-06-11

続・白紙に戻せぬ遣唐使教科書の読み比べ)

http://anond.hatelabo.jp/20170611183038

これのつづき。今回も文字数制限にひっかかったので、分割します。

  

桐原書店新日本史B』(日B 011)

一方、インドの僧菩提、林邑(ベトナム中部)の仏哲、唐僧鑑真らの外国人も、遣唐使船に便乗して来朝し、インド西域東南アジア文化を伝えた。

遣唐使船は日本人が唐へ往来するためだけではなく、外国人日本に招くためにも使われていたのです。「遣唐使」「鑑真」というのは中学生レベル用語です。しかし、この2つを結びつけて説明できる人は案外少ないんじゃないでしょうか?

ちなみに、山川の『日本史B用語集』によると、菩提僊那、仏哲という用語を載せている教科書は、唯一これだけみたいです。しか桐原書店は彼らの業績を説明するための註を設けている徹底ぶりです。入試問題になったら難問だと思いますが、大切なのはこういう人名を丸暗記することじゃなくて、東大寺大仏開眼供養会はインドベトナム出身僧侶たちも参加していた国際色のあるイベントだった、それは遣唐使船がもたらしてくれたものだということでしょう。

  

日本がしばしば新羅従属国として扱おうとしたため、両国関係はしばしば緊張した。しかし、日本遣唐使が唐において新羅人に助けられることもあった。」

これもこの教科書に独特の記述です。遣唐使新羅人に助けられたというのは、円仁著作『入唐求法巡礼行記』のことを念頭に置いているんでしょうか?

また、上掲の講談社日本の歴史シリーズから引用すると、次のような話もあります

遣唐使派遣が間遠になり、日本の船が唐まで行かないなか、それでも求法の念止みがたいとなれば、来航する新羅船を利用するしかない。そしてまた新羅商人たちは、概して好意的に彼らを助けたのであった(坂上早魚『九世紀の日唐交通新羅人』)。こうして入唐と研鑽を果たした天台真言の平安仏教旗手たちが、仏教の使命は鎮護国家にあるとする考えに則り、護国の修法による新羅調伏を担うことになったのは、実に皮肉なことであった。

  

坂上康俊『日本の歴史05巻 律令国家の転換と「日本」』

  

  

  

三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)

このころ唐では、みずから世界の中心とみなす中華思想が強まり、周辺の国々を夷狄として見下す考えが生まれていた。この考え方は日本にも影響をあたえ、朝廷新羅や、朝廷に服属しない東北九州南部の人びとを蝦夷隼人とよんで夷狄として蔑視しはじめた。

朝廷東北地方九州南部進出した経緯を説明する際、そこには中華思想の影響があったことを説明しています。それに絡めて新羅との関係にもちょこっと触れているので、先にとりあげた東大入試問題を解くときのヒントになるでしょう。

もっとも、この点はやはり、山川出版社新日本史B 改訂版』(日B018)の方が優れています。私が先に引用した箇所のすぐうしろ([後略]とした部分)では、朝廷が「東北地方蝦夷九州南部隼人異民族夷狄)として服従させ」たことを説明し、「律令国家が蛮夷を服属させる帝国であることを内外に示した」と結んでいるのです。

それに比べると、三省堂教科書は、遣唐使中華思想という2つのものを関連付けて理解することが不可能です。

  

  

  

東京書籍日本史B』(日B 004)

遣唐使8世紀には6回、9世紀には2回派遣され

実教出版にも「奈良時代遣唐使は6度派遣され」たとありますが、東京出版9世紀のことも記述していてグッド。

遣唐使は894年、菅原道真の建議で廃止されました。ですから9世紀末まで遣唐使派遣する制度は残っていたはずなんですが、8世紀と比べるとその回数がめちゃくちゃ減っていることが分かるでしょう。

理由は、日本がもはや唐から学ぶべき必要・意欲がなくなってきたこと、唐が政治的混乱に陥って衰退したことによる国威の低下、商船の往来が活発になったことで日本が唐に朝貢をしなくても舶来品を入手できるようになったこと、などです。

これがさっき桐原書店のところで述べた話にもつながっています時代が9世紀(すでに平安時代)になっても、仏教では唐に確固たる先進性がありました。だから日本僧侶たちは唐に留学することを熱望したのです。しか朝廷遣唐使派遣積極的ではなく、彼らは新羅商人の助力を得なければ、渡航が困難という状況だったのです。

  

[引用者注:702年の遣唐使派遣の再開について] その目的なかには、「日本」という国号を認めさせることも含まれていたと考えられる。

東京書籍教科書にだけある、この一文。「日本」がはじめて国際社会に登場したのがこの時点だったと言っているんです。

これ、すごいことを言っていますよ? 「日本」が太古の昔から存在したという皇国史観に対する強烈な一撃です。

ちなみに、このとき天皇」は国際デビューしていません。倭国はなんとかして「日本」への国号変更を唐に認めさせることはできても、皇帝にあたる「天皇」という称号を用いて唐と対等外交をする力がなかったのです。唐では天皇のことを「日本国王主明楽美御徳」(日本国王メラミコト)と呼んでいたようです。もしかしたら当時の日本朝廷内では、「スメラミコトは唐の皇帝に臣従したが、天皇は臣従していないか日本国王ではなく、したがって日本は唐の朝貢国ではない」という回りくどい官僚的答弁があったかもしれませんが、その点は不明です。このような高度に政治的問題は、国史編纂ときに巧妙な隠蔽がおこなわれるからです。(上掲の講談社日本の歴史シリーズ青木和夫著の中央公論社日本の歴史3巻 奈良の都』を参照せよ)

  

さて、これは東京書籍にかぎらず、多くの教科書でそうなのですが、古代史において「天皇」「日本」という表記を用いるときには慎重になっている様子がうかがえます。例えば白村江の戦いでは、唐・新羅と戦った国が「日本」ではなく、「倭」倭国」「朝廷」等の表記になっています

なぜ教科書がこんな表記になっているかというと、「天皇」「日本」という称号国号は、ある時期の特定政治状況のもと、人為的に作られたものからです。具体的には天武朝(673年~686年)のころ、大王とその国を神格化する目的で、初めてこれらの称号国号使用が開始されました。ですから、もし神と同一であるところのその「天皇」、その神のおさめる国である日本」が、天武朝より遥か昔から存在していたかのように記述するならば、それは皇国史観に他なりません。

無論、教科書では便宜的に仁徳天皇推古天皇というような表記が使われていますけど、古代史における「天皇」「日本」という表記の取り扱いについては一応注記が設けられていたりします。例えば『詳説日本史』は壬申の乱ののち、天武天皇が「強力な権力を手にし」て、「中央集権国家体制形成を進」めていく過程で、そのころに「大王にかわって「天皇」という称号が用いられる」ようになったと書いています。同社の参考書『詳説日本史研究』はそこがもっとクリティカルです。「大王から天皇へ」というコラムで、「天皇」という称号が天武朝に始まることの歴史学的な検証を載せ、唐の皇帝が一時「天皇」と称していたのを知った日本側が模倣したという説を紹介しています

こういう細かな表記へのこだわりからも、各社の教科書がどんな史観に基づいているかを見ることができるはずです。

2017-05-26

夫と国内旅行するのが辛い

国内旅行した時、夫が見聞したもの自分の呟きについていちいち訊いてくるのが、なんか辛い。


例えば、ある有名な寺社を拝観して、そこに狩野派障壁画があったとして、

自分が「ああ、狩野派かあ。道理で背景キンキラキンやねえ」とつぶやくと「狩野派って?」って聞かれる。

例えば、ある有名な城郭を拝観して、そこで石垣を見て自分が「これって野面積みかな?」とつぶやくと、「野面積みって?」って聞かれる。

それに対していちいち説明するのが、面倒くさいし、いろいろとなんか辛い。


自分の友人とならば、こういう会話にならない。

狩野派からね」「芳崖は違うんじゃない?」とか。

穴太衆の仕事かな」「あのうしゅうは読めない(笑)」とか。

旅での体験に対して、一方通行でない、対話が楽しめる。知識交流がある。

それが夫とはないのが辛い。

夫との国内旅行がなんか辛くてすごく疲れてあんまり楽しくなくて。

それがなんでなんだろうと思って、上のことに気づいた。

友達との旅行が一番楽しいのは、こういうのもあるのかなと思った。


でも夫はとても楽しいみたいで、色々自分に訊くのもただの素直な知識からで、悪気はない。

悪気が無いのはわかってるけど、「訊くだけじゃなくて自分で調べる」ってことはしない。

でも、「ちょっと自分で調べて」とか「わたしあなた先生じゃない」とか、言えるわけもない。

自分大学国史やってて、一般の人よりは歴史に詳しいのもあるのだし。

教えるのが楽しいって人もいるんだろうし。

夫が普通なだってわかってる。わかってるけど辛い。


でも、旅先でなんか見て、それに対して、

「青はいい…」「いい」

「さすがは緑…」「うむ」

みたいな、そういう会話で盛り上がりたいんだよお。

そこで「青って何?」とか聞かれるの、ぶっちゃけ、興ざめなんだよー。


ああそう、興ざめ、それなんだ。

それで夫と国内旅行するのが気が乗らないんだ。

海外だと、どっちも同じだけ知識がないのでそういうことにならない)


なんで歴ヲタ結婚しなかったんだよって言われそうだけど、

それ以外の点では何も不満はないし、この問題だって別に夫は悪くない。

私が教えるのが好きな人間なら何も問題じゃない。

ああ、そんな理由国内旅行を避けててごめん、夫。

でも、正直、自分にも夫にも嫌気がさしてしまうんだ。

心が狭くて、本当にごめん。

どうすればこの状況を楽しめるのかな。

2016-07-14

1-3 鳥越俊太郎

1940年3月   福岡県吉井町(現うきは市)生まれ

  58年3月   久留米大附設高校

  65年3月   京都大学文学部国史学専攻)卒

     4月   毎日新聞社入社

          新潟支局大阪社会部東京社会部サンデー毎日編集部

  82年〜83年 アメリカペンシルバニア州クエーカー タウンフリープレス紙に職場留学 

           帰国後、外信部(テヘラン特派員)を経て

  88年4月   サンデー毎日編集長

  89年8月   毎日新聞社退社

  89年10月〜 テレビ朝日系列ザ・スクープキャスター

  95年10月〜 「サンデージャングル」  

2002年10月〜テレビ朝日系列ザ・スクープスペシャルキャスター

2002年10月〜2011年3月  「スーパーモーニング」(テレビ朝日系)月~木曜日コメンテーター            

2002年10月〜2005年3月  TBSラジオCUBE

2003年4月〜2005年3月  関西大学社会学部教授マスコミ専攻)

2005年4月〜2007年3月 関西大学客員教授   

2004年4月〜2005年3月 「僕らの音楽」(フジテレビ系列)   

2005年4月〜 TBS ラジオ大沢悠里のゆうゆうワイド」(月曜日スーパートーク)

2008年4月~ BS朝日鳥越俊太郎 医療現場!」 

【賞罰】

2001年4月  「日本記者クラブ賞」(桶川女子大生ストーカー殺人事件報道に対し)

2004年5月 ギャラクシー賞報道活動部門大賞

         (ザ・スクープスペシャル警察裏金追及第一弾、第二弾』に対して。     

著書   『あめりか記者修業』(中公文庫

     『異見ー鳥越 俊太郎ジャーナリズム日誌』(現代人文社)

     『うちのお父さんは優しい 検証金属バット殺人事件』(共著明窓出版

     『「あのくさ、こればい」』(プラネット出版

     『桶川女子大生ストーカー殺人事件』(メディアファクトリー

     『そのニュース ちょっと待った!』(PHP研究所

     『ニュース職人 「真実」をどう伝えるか』 (PHP研究所

     『報道欠陥商品と疑え』(ウエイツ)

     『歳には勝てる』(マガジンハウス

     『人間力の磨き方』(講談社新書

     『本当は知らなかった日本のこと』(ミシマ社

     『〜現代ニュス用語から読み解く〜2時間でわかる

      問題ニッポン』(主婦と生活社

     『 鳥越俊太郎エンディングノート 葬送曲はショパンでよろしく』

     『 がん患者』(講談社)

趣味   ニュース、車の運転、映画最近DVD)、歌うこと、

2016-02-28

死霊術師井上

死霊術師としてのすべては、今は亡き祖母から伝習した。大学では文学部に進学した。これはもともと歴史学に興味があったことと、死霊術師としていつか遭遇するかも知ない事態に備えるためだった。

大学3年生の終わりころ、死霊術師としていよいよその事態を迎えることになった。

ある日テレビを見ていると、旅番組のようなものがやっていて、滋賀県西部の山林地帯をいつも見る芸能人が歩いていた。何の変哲もない番組だった。しかし、テレビを介しても充分過ぎるほどに、死者が放つ霊の波動が伝わってきた。もちろん、普段生活していてもその種の死者の波動を感じることはある。霊波は一般に、腐ったり火葬したりして身体が失われると弱まる。またたとえ身体があっても、時間経過によっても霊の波動は弱まる。人間やその他の生き物は、その場にとどまろうという意志を長くはもちえないのだ。恨みだとか、一般に強そうと言われる意志ですらそうだ。こういうのは仏教的に言うと成仏していくってことなんだろう。魂は残らない。めったには。

テレビで知った、滋賀県の霊波は別次元と言えるほど古く、そして強力だった。おそらく、亡骸がある程度そのままの、古い死体があるのだろう。そして、強靭意志21世紀でも保っている。

死体と強い意志。これが重要だ。死者蘇生の用件を満たしている。そしてかなり古い。

腕試しにはちょうどいい。見つけてしまったらもう止められない。死霊術の行使者として、その興味関心を止めることはできない。

祖母から習った作法で、霊波の質から霊が生きた(死んだ?)時代のおおよその年代を感じとった。520年+-30年前くらい? 手元の『日本史辞典』を紐解く。室町後期? 手が震える。研究室で『国史辞典』にかぶりついた。

その頃の近江一般に長享・延徳の乱と呼ばれる動乱期にあった。守護六角氏討伐のために将軍足利義尚が長く近江に陣を設けていた。どうやら死体はこの時期のものらしい。

私は大学研究室院生の先輩に聴いてその時期の文献を学んだ。また隣りの言語学研究室国文学研究室に行って、室町時代言語やその発音について質問した。かなり難しい。筆談の方がいいかもしれない、と祖母アドバイスを実感をもって思い出した。まさか室町期の死体に会えるなんて。せいぜい行って天保期くらいだと思っていた。古い死体なんてもの時代を遡るにつれて加速度的に少なくなる。祖母明治4年に死んだ男の死体蘇生したことがあると言う。これでもだいぶん古い方だ。室町期の死体なんて、祖母からもきいたことがない。後で聞けば、先輩方は私が卒論室町時代後期を扱うから一生懸命調べていると勘違いしていたそうだ。


春休み近江に旅した。大きなスーツケースを持って。蓬莱なんてお誂えむけの地名だ。山の方に入っていく。山は静かだった。ほどなくして現場に到着した。霊波は強い耳鳴りのような形で私の身体に具現する。こんな古くて強い霊波、他の死霊術師が気付かなかったのはちょっと不思議だ。まぁ波長が合う、合わない、はかなり厳密だから。私にもってこいのチャンスなのだ。私は女ながらオリエンテーリング部で体を鍛えていたから山歩きは結構得意なのだオリエンテーリングなんて全然興味が無かったんだけど、新人歓迎コンパで迎えてくれた先輩方の雰囲気がすごく良かった。サークルでは、大学生なりだけど、人との付き合い方、間の取り方を学べたと思う。高校生の時にはあまり意識できなかった、人間(じんかん)の距離感や発話。

山道から沢に下りる。死体が残った理由が、何となくわかった。日本では死体はすぐ腐って亡くなってしまう。しかし沢下にはぽっかりと、知られざる洞窟が顔をのぞかせていた。多分ここに死体がある。相違ないだろう。もしかしたら近年はずっと埋まっていて、最近になって地震などで再び穴が地表に現れたのかもしれない。だから今まで波動に誰も気づかなかったのかも? 洞窟は沢が近く低温が保たれ死体が保存されたのかも。あるいは永久凍土なんかがあって風穴で涼しいのかも。ま、これを考えても詮無い。とにかく、死体があるのは明らかなのだから

ひんやりした洞窟に足を踏み入れる。かなり急だ。いよいよだ。震えるほどだ。周囲には驚かれるけれど、死霊術の技術は、実は私にとってはとても簡単なものだ。血も継いでいるし、祖母と言う佳き師もあったから。祖母もいっていたことだが、基本的死霊術師は技術的な部分はそんなに問題にならない。むしろ重要なのは、死者と会い、契約する時の対話の仕方だ。死者が生きた時代言語常識を、こちらが把握してしっかり対話せねばならない。そうしないと蘇生に応じないこともあるだろうし、蘇生したい旨すら伝えられないこともあるだろう。死霊を怒らせてしまっては、あるいは成仏させてしまっては元も子もない。死霊術師の実力はここで決まる。このことを上手くやるために、私は大学では文学部へ行ったのだ。もし死霊術師に生まれなかったら、稲の光合成研究をしに理学部農学部へ行きたかった。

洞窟の奥にややひらけた場所があり、その壁によりかかるように木製の箱型の人工物が見える。…ああ、かなり古い牛車だ。小八葉の牛車? 公家が移動手段として用いていたもの。八葉の大きさ、小さい? 大きい? これで身分が大体分かるのだが…肝腎の大きさが、大きいのか小さいのかわからない。そんなの文献に載ってない。牛車なんて初めて見るんだ。そもそも近江に牛車。やや不可解? 足利義尚近江出陣の際には公家近江まで出向いたというから牛車できてたのか? それにしたって牛車で近江まで行くの? なにもかも自信が無くなってくる。

これではだめだ。祖母の言によれば、まずはその人をそのまま、そのままに感じるのだ。先入主観は退けるのだ。牛車の文様が大八葉だろうが小八葉だろうが、なかに居る主こそを見るべきなのだ

精神を澄ませる。霊とは頭の中で会話する。結局、『太平記』のテキストをメインに準備を進めていた。『太平記』は南北朝時代を描いた軍記物で、室町後期には往来物として身分を問わず人々に広まっていた。死体教養がいかほどであっても『太平記』の語調なら大丈夫ではないか、と考えた。とうぜんテキスト変わっているんだろうけど…。

太平記』の文法で私は語りかける。

「私はあなたよりも後世を生きる人間で、その間に人間が語る言葉も変わってしまった。この言葉あなたにどの程度通じるか私にはわからないが、どうか話を聞いてほしい」。ここまでテンプレ国文学研究室富田先輩ありがとう

…牛車がガタガタと動く。御簾が超自然的な動きを示し、内の暗闇をあらわにする。お化けが怖い人はびっくりするんだろうけどもちろん私はそんなことはない。打掛の裾が見える。小袖が二重? そして茶色く干からびた手のひらが…暗くてよく見えない…が、死者に話しかけた段階で幽界との淡いが生起し、この世ならざる強烈なイメージ五感以外から五感を経由し認知される。死体は髪の長い公家女性が見える。平安時代のオカメ十二単イメージがあるけど、それより軽装だ。でも相当めかしこんでいる。この時代人間は小さいしガリガリだな。さぁ、いよいよだ。頑張って蘇生素体になってくれるよう語りかけよう。

「…私の寂滅からどれくらいの時間が経過しまたか?」むむ、なんとかこれくらいなら聴き取れる。うほっ、「太平記読み」専攻の坂田先輩ありがとう! 高校非常勤やりながら大変でしょうけど博論頑張ってください。

「五百有余年でございます。『太平記』を読んであなた時代言葉を学びました」「…私も『源氏物語』で古の言葉の遣いに触れました。」「実は、…今日あなたお話しがあって武蔵国から参ったのです」いよいよ本題だ。

あなたは強い心をお持ちで五百有余年をお過ごしになられました。そして幸いにしてお体も崩れず残されております。私はあなた精神と身体とを結び付かせ、再び現し世に復することができます。再び洞窟の外に出て暮らしてみるのはいかがでしょうか」

「たしかに私はまだ黄泉の食物を口にしておりませんね」さすが公家の娘だけある。当意即妙にこたえねば。「私なら黄泉比良坂をあなたを連れて戻ることができます。」「どうして私を選ぶのです」「あなたのように長らく意識と身体とを保つ例はめったにないことなのです。」実はこれはあまり理由になっていない。死霊術師の衝動説明するには、私には言葉が足りない。彼女が尋ねる。

「当時(筆者注:ここでは現在の事を指す)は死者を供養する作法は未だ仏式を用いますか?」意外な質問だ。自らの供養を望んでいるのか? 「ええ、大分形はかわっておりますが仏の教えは今でも通用しております」「ならば既に死んだ者を私なりのやり方で供養して、意味があるということですね」…あやうく意味を取り損ねるところだった。ちょっと不可解な質問だ。彼女は何を考えているのか。彼女の事を深く知った今になって考えると、これは彼女なりにかなり考え抜かれた、ある種の哲学のようなものだった。彼女の培った供養の作法。そのルールがもし現代で途絶えていたら。つまり仏教現代に伝わらなくて、もし私たちが何か違う祈りの作法で死者を弔っていたら。きっと彼女蘇生に応じなかっただろう。彼女の知っているルール現代でも供養ができる。これが彼女にとって重要だったのだ。

「私は京都六角富小路邸宅がある公家(筆者注:ここでは「こうけ」って読んでね!)に生まれました。大乱(筆者注:ここでは応仁の乱を指す)の後の騒擾の世でありますから、私は近江根拠にする武家の御仁に嫁ぐことになりました。いよいよ渡嫁のとき、牛車が谷に落ちて私は命を落としたのです。嫁ぐことが決まってから武家奉公人生活が如何様であるか、主人が如何なる稟性を持つのか。和歌は読めるのか古典は存じているのか。いつも想像していました。」死霊術師の常識から考えれば、それだけでここまで精神は保てない。私はほとんど確信をもって尋ねた。「もちろんそれだけで想いを保つことはできなかったでしょう。どうして。」

彼女はここで初めて表情を私に感じさせた。「実は洛中で一度彼の人をお見かけ申上げたことがあるのです。私の生家は上って四位の家柄ですから、ふらふらと外にでてもあまり咎められることは有りませんでした。ある日京師が物騒になり武家の人が20騎ばかり邸宅の前を過ぎりました。颯爽と武者を連れていたのが、後々判ったことですが我が主人となる方でありました」え? それだけ。うーん恋愛感情ってわからないけど、そんな単純な感情で何百年も持つのかな? 単純だからこそ長持ちする? わからんね。すると彼女が続ける。

「死んだあとはずっと新しい生活の事を考えていました。武家生活。今まで見知った知識や噂話全てからひとつひとつ、未だ来ぬ時の先をずっと、ひとつひとつ限りなく。一日の起きてから寝るまで衣服の糸先から世情に至るまで。とにかくひとつひとつ。世に現れるであろう現象をすべて想像しうる限り、ひとつひとつ。彼や周囲の人間との交わされたであろう会話をひとつひとつ。彼の人とのありうべき時と出来ごとの全てをひとつひとつ想像していたのです。そうしたら、ええと、五百有余年過ぎ去っていたというわけです。」そうして彼女は莞爾した。私は一発でこの女性を好ましいと思ってしまった。こんな偏執的で叮嚀な思考回路を持った人があるだろうか。この人なら。彼女21世紀平成の世の中で夫となるはずだった人の菩提を弔わせたり、あるいは彼の一族についてその後どうなったか調べさせたりすることは、彼女の心性をおそらく負に傾けることはないだろう。ひとつひとつ彼女には想像したことの自分なりの答え合わせをしてもらえたら。私がそのお手伝いができたら。ちょっと勝手か。とにかく、この人なら大丈夫だ。

好奇心イマジネーションとを併せ持って、平成の世まで意識を有した五条顕子姫の死体は、その意識と共に、こうして私の赤羽マンションにやってきた。

2015-03-20

「帝」は「御門」にあらず―高畑勲天皇観を駁す

スタジオジブリかぐや姫の物語」のストーリー批判については既に玖足氏が記されているゆえ、ここにおいては多言はしない。

かぐや姫の物語 感想その二 高畑勲監督原作の良さを自己中心的に曲げたダメ映画

http://d.hatena.ne.jp/nuryouguda/20150316/1426441543

僕がここで記したいのは、高畑氏のあまりに32年テーゼに縛られたかの如き貧弱な反天皇である

例えば、高畑氏の擁護をするツイートまとめとして以下のようなものがある。

高畑勲かぐや姫の物語」についてのCDBさんのツイート

http://togetter.com/li/794657

この中でCDB氏は「帝の性暴力女性性の収奪」を描いたと言っている。しかしそれは高畑氏の平板な反天皇観をあげつらうことでしかない。

天皇は決して収奪暴力に結び付けられて語られる存在ではなかった。天皇もまた征旅に行くことはあったが、軍の最高司令官として赴くことはなかった(「我国の軍隊は世々天皇の統率し給う所にぞある」という軍人勅諭の出だしは山県閥の西周西洋歴史に準じた擬制に過ぎない)。例えば斉明天皇百済救援のために親征の途上、崩じられても軍はそのまま百済上陸している。天皇はむしろ巡狩(みそなはし、視察のこと)して各地を平定したのであり、軍隊中大兄皇子武内宿禰のような皇子臣下に統率されて敵を討ったのである天皇が自ら軍を指揮することは東洋古制の兵学から見ても邪道であった。東洋において軍の戦略を決定する軍師軍司令官の任免もできるゆえに、天皇がそのような地位に就かれることはあり得ないのである

では天皇とは何であるか。それは何よりも「社稷を祀る」存在である。具体的にいえば、五穀の豊穣を祈り天照大御神が宣らされた「斎庭の神勅」を奉じることであった。それゆえ自らは何も所有されないのが天皇原則であった(詳しくは保田與重郎の『述史新論』『鳥見ひかり』『方聞記』などを参照せよ)。作中で「御門」は支那趣味侮蔑意味を込めて使うのではない)の俗な人物として描かれているが、これなぞは共産党仕込みの「収奪する権力者」の図式に無理やり天皇をあてはめたものに過ぎない。何も所有されない天皇からこそ、天神地祇を祀り権力者を束ね日本を統らすことができるのである権力といえば外交権を一手に握った大宰府の方がよほど強く、「遠の朝廷」と呼ばれたほどだった。聖武天皇大宰府へ下る節度使たちに下された御製の長歌の冒頭「食す国の 遠の朝廷に 汝らが かく罷りなば 平らけく 我は遊ばむ 手抱きて 我はいまさむ」は権力や所有とはほど遠い天皇本来のあり方を示している。

明らかに反差別思想を有しているだろう高畑氏が「御門」の顔をわざと崩してかぐや姫生理的嫌悪感を催させ、それが月からの使者が来る原因となっているのも氏の醜悪な思想垣間見える。氏は容姿差別は良くて身分差別は悪とでも思っているのだろうか。先に述べたように、天皇は五穀の豊穣を祈る点で国民とつながっていたし、今もなおつながっている。明治大帝は「子等はみな 軍のにはにいではてて 翁やひとり 山田もるらむ」と詠まれているし、昭和帝と香淳皇后戦後まもなくの国内行幸啓されて国民暮らしぶりをみそなわした。今上陛下東日本大震災津波を被った田を心配されたのも記憶に新しい。天皇は宮闕の奥深くに居ましても農土を、漁場を、金山を離れてはいないのである高畑氏の浅薄思想はこの国史上の事実にどう応えるのか。

 
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