はてなキーワード: 多人種とは
アメリカ人は建前ばかり言う。無論全員ではない。しかしアッパー層のほとんどがそうだ。ここでは中間層以下の話は取り除こう。
アメリカ人は初対面で笑う。あなたの敵ではないですよと笑う。とってもフレンドリー。しかしそうやって笑っている裏で冷静に観察している。
アメリカ人はいつもポジティブのように見える。だがそれは違う。公の場ではポジティブで公平でいなければならないのである。
公の場にもかかわらずネガティブな奴は異常者扱いだ。
(おいおい、お前にも事情があるかもしれないけど、俺たちだって事情がある中でなんとかやりくりしてるんだぜ? はーーーーーだる……)
Hey! What's up?😄
こういうことになる。そして見切られる。
アメリカは多人種国家だ。多人種だけでなくさまざまな思想の人がさまざまなバックグラウンドを持って住んでいる。
裏で誰が何をどう考えていて、どういうつながりがあるかわからない。実は敵かもしれない。
だからそういうところで暮らす人はとりあえず当たり障りのないこと・全員にとって正義であることしか言えないのだ。でなければ血で血を洗う戦争になる。
神や英雄ならこう言うよねというのが根底にある。普段は裏で悪口を言う。「あいつネガティブすぎてダメだな」とか。
親しくなってきてコイツには言っても構わないなとなって始めて悪口を言われる。「おまえの英語はダメすぎる」と。
アメリカ人の天敵は初対面で全く笑わないやつだ。しかも笑わないのにネガティブではない人間。「笑えない」のではなくわかった上で「笑わない」人間だ。
彼らの顔には「コイツは被植民地人ではない!」「アメリカ文化に従ってこない!」という表情が出る。これはかなりおもしろい。
下手に彼らに迎合してニコニコしていると被植民地人の扱いを受ける。アメリカ文化を中途半端に理解しているアメリカ人になりたい二等市民のような扱いだ。
一度そうなると彼らは凄まじく冷酷になる。まるで日頃の恨みを晴らすかのように。だが言葉はジェントルマンだ。Hey! What's up?😄👎
ここからの挽回は難しい。序列がついてしまっているので取り返しがつきにくいわけだ。
これがマイルドになったバージョンが東京だ。東京もまた建前に満ち溢れている。京都より京都らしい。
無論これが問題であるというつもりはない。そういう文化なのだ。そして日本はそういう文化に中途半端に染まっている。中途半端、これが最悪に良くない。
早い段階で簡単に心を許してはならない。国際社会は魑魅魍魎の巣窟なのである。食われるぞ。食われるぞ。
あまり詳しくないがトランプが謎に人気があるのも、そういうアッパー層の集団浅慮と下層の心理を捉えているからというのがあるかもしれない。
言いにくいことを言っちゃったしやろうとしている。実際ゲスなところもいっぱいあるんだろうが、まあ「ウソつきの民主党」より全然いいだろう。
ヤツは強欲だが、ただ強欲なだけで、正直者だ。金と名声さえ与えておけば、やってくれるだろう、みたいな。そんな感じが今のアメリカだと思う。
欧米で「黒人差別反対」って言うのはそもそもとんでもないレベルで黒人差別してるからだし、アフリカの大半で「黒人差別反対」って言わないのはそもそも人口の大半が黒人で黒人に対する差別を維持できなかっただけだから
南アと同じく白人統治系の非欧米国であるインド、オーストラリアも人種差別的傾向は残るが、こちらは「黒人」が少なすぎるから「黒人差別反対」とはわざわざ言わない(インドは欧米統治以前から多人種でカーストと肌の色の結びつきが強い、オーストラリアは言うまでもない)
そこはAIやろなあ
AIがそれっぽい会話するNPCやそれっぽい室内の内装とかそれっぽいお使いイベントとか用意してくれるでしょ
そこで実現可能になる新しいゲームデザインはきっとめちゃくちゃあると思うので期待してる
人種はそれはそう。将来の人類はタイガー・ウッズみたいに多人種が溶けていくと思うんだけど現代のアメリカ(人種のサラダボウル)の再現で留まってる作品が多すぎる
個人的にはAAAはゲームとしてよく作られていても提示する価値観が無難になりがちだからもう刺激がないと感じるようになった。NTR伝説のミニゲーム(猫やお婆ちゃんを轢くとペナルティだけどチャラい男を轢くと高得点という運送バイト)みたいな作者の偏った感性に触れたい。やっぱインディーよ
アトランティス(2001)→登場人物が多人種で多様性意識しすぎ!ヒロインがブス!ポリコレガー
プリンセスと魔法のキス(2009)→黒人プリンセスだと!?ポリコレガー
リロアンドスティッチ(2002)→リロがブス!ブスしか出ない!ポリコレガー
コルドロン(1985)→ポリコレのせいでこんなにつまらなくなったんだ!
黒人アリエルはともかく、ミラベルはブスで眼鏡だからポリコレだ!つまらないに決まってる!と上映前から叩かれまくってるの見た時はアホかと思いましたわ
私ときどきレッサーパンダも同じ事言われてたけど、ピクサーに至っては可愛くない主人公の方が多いじゃねえか。
というか、黒人アリエルに対して「オリジナルなら文句言わない!」って言ってたけど嘘じゃねえか
「今のディズニーはポリコレのせいでつまらなくなった!」って言ってる人に「過去の面白いディズニー映画を挙げてみて」と言ったらまずヒット作しか出さない。
ヒットしなかった過去作品も数多くあるけど存在すら知らない。間違ってもコルドロンとか挙げない。
面白い作品に比べてつまらない、という小泉構文みたいな結論しか出ない。
しかも、つまらないと断じた作品を見てすらいなかったりするんだよな…
「これだとポリコレ的なモノは大して人気になれず、そうでないモノの方が時代を超えてウケているみたいな話にならない?」
リロアンドスティッチがヒットしてない世界線の人のブコメがトップになっておる…
そうじゃないんだよなぁ。昔からあったような要素まで「最近のポリコレのせいだ!」と言われてるのがウザかったのよ
コルドロンに関しては伝説級のつまらなさそのものが「ポリコレのせい」と言われそうだからオチに持ってきた
再追記
というか、ヒット作の美女と野獣、アラジンだって原作と違ってかなりフェミニズムを意識した作品になってるし(ジャスミンが「私はゲームの商品なんかじゃない」と言うのとか、ガストンが有害な男らしさを発揮した女性差別的なヴィランだったり)
なんなら眠れる森の美女ですら、「王子を見知らぬ女性にいきなりキスしてレイプ(原作)するやつにするわけにはいかんよね」と二人をあらかじめ恋人同士にしてるし
ピーターパンの人種差別といわれる描写ですら、当時的には「インディアンを悪者として描いてない」ポリコレ寄りな描写だったらしいし
ライオンキングなんかは当時的にも保守的な内容だから全てのディズニー映画が当時のポリコレを意識してるわけじゃないけどさ
それらの作品が現在のポリコレ的に非難されてたり、南部の唄が発禁になってたりするから、
ポリコレによる表現規制、キャンセルカルチャーの煽りを一番食らってるのがディズニーオタクなんだけどさ、
それでもポリコレアンチによるヒステリックな反応にもウンザリしてるのがディズニーオタクなのよ
つまらないと見もしないで言われる最近のディズニーも楽しんで見てるわけだしね。ツイッターなりpixivで検索して「ミラベルと魔法だらけの家(Encanto)」ファンがどれだけいるか見てほしい
もへもへ「えらそうに多様性を語るディズニーや欧米様。デヴでブスのヒロインをだすと称賛されるがハゲでデヴの中年おっさんヒーローを出演させない」→ディズニーオタクから総ツッコミ https://togetter.com/li/1812366 #Togetter @togetter_jpより
弱者男性「ディズニーとかのポリコレ映画は男性が弱く生きることを決して許さない!オタクをいじめてる!」←そうか? https://togetter.com/li/1887702 #Togetter @togetter_jpより
また追記
"ポリコレ批判"批判をしている人達ってよく「ポリコレは作品を面白くしている!」とか「現代の人々が受け入れられるように差別的な表現を避けたら自然にこうなっただけだ!」とか言うけどさぁ……。
そういう人達は、例えば同じディズニーという土俵で見ると、ミラベルとか近年のポリコレムーブを取り入れた作品は大したヒットもせず、逆にそういう臭みのないアナ雪1とかの方が流行り、一昔前のディズニープリンセスが世代交代されることなく未だに彼女達の方が人気なことについてはどう思っているんだろう?
(アナ雪もポリコレだ! とか、昔からディズニーは先進的な価値観を取り入れてきた! とかいう人もいるだろうけど、個人的には少なくともそれらはポリコレファーストだったとは感じない。まあその辺りは主観なので異論は認める)
アメコミヒーローとかも、近年のLGBT配慮や多人種推しヒーローが昔ながらのヒーローに人気で勝てているようには見えないし。
観客動員数や興業収入だけがコンテンツの価値とは思わないので、作者が描きたいモノを優先した結果や、ニッチ需要ターゲティングで結果的にポリコレ的になった作品を否定する気はサラサラないんだけどさ。
そこを否定したら"ポリコレ批判"叩きでよく使われる「日本の美少女動物園深夜アニメより多様な価値観に配慮したディズニーの方が世界で受け入れられている!」みたいなムチャクチャな論法を肯定しなくちゃいけなくなるし。
その結果イケメン美人だけが結婚して子供を持つから、ネットが普及し理想が高くなったこの20年ばかりで子供や若者の容姿レベルが爆上げになってるけれど。
実際に多人種が混交の世の中になったら、あらゆる人種が白人を好み、自分と同じ人種を毛嫌いするようになると思うんだよね
そしてそれは白人もまた同様だから白人と有色人種のカップルも滅多に生まれず、実際に結婚し子孫を残せるカップルは白人同士ばかりになる…と考えるのが自然なのに。
でも何故かアメリカで白人の人口はこの20年で20%も減ったらしい
ディズニー映画に埋もれた名作などというものは存在せず、有名なやつは出来がよく、無名なやつは出来が悪い。
以下、備忘録をかねてウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ制作の長編アニメ映画史を概観したい。
『メイク・マイン・ミュージック』以外はディズニープラスで全部見れる。
おすすめの作品:『白雪姫』『ファンタジア』(ミッキーのやつだけ)『ダンボ』
ディズニー長編アニメの歴史はアニメ史に残る傑作『白雪姫』とともに幕を開ける。この作品はとにかく作画が凄まじく、戦後の日本人が衝撃を受けたという逸話も納得の出来である。著作権が切れているのでYoutube等でも見れるが、できるだけきれいな画質で見たほうがいい。7人の小人たちの非モテ自助コミュニティ描写もピカイチで、増田を見ているような人々は目を通しておいて損はないと思う。
ディズニー映画はこの頃から一貫して「教育的で」「社会的にただしいとされる」物語を描こうというはっきりとした意思を見て取ることができる。そのため、作品の背景には常に制作された時代の価値観が垣間見える。
例えば『白雪姫』の3年後に公開された『ピノキオ』では、主人公ピノキオを導く良心の象徴としてジミニー・クリケットという名前のコオロギが登場する。この「ジミニー・クリケット」という名前はジーザス・クライストの言い換え語らしく、つまりここでは創造主の似姿として作られた人形が様々な誘惑と戦いながらも最終的にはイエス・キリストに導かれ、ただしい人間性を獲得するという物語が展開されるわけだ。
『ピノキオ』自体は退屈な作品ではあるものの、歴史や時代背景を含めて見ていくと別の発見があり、それはそれで豊かな体験である。ちなみに当時のディズニー自身はむしろできるだけ宗教色を薄めたいと思っていたらしく、この辺は社会に要請されてやむなくという側面が強いのかもしれない。
ほか『ファンタジア』中の「魔法使いの弟子」と『ダンボ』は見ていて単純にたのしい良作。『ダンボ』のお母さんの健気さは泣ける。
『バンビ』のあと『シンデレラ』まで長編の物語映画はなく、とくにおもしろい作品はない。とはいえ日本人としては、バリバリに総力戦をやりながらアニメを量産していたアメリカの国力にむしろ驚くべきかもしれない。
この頃の作品群には「丁寧な植民地主義」とでも呼ぶべき傾向があり、具体的にはアメリカ開拓時代の美化とラテンアメリカへの観光的関心、キリスト教的な価値観が三位一体となった教育映画が制作されている。この辺はおそらく当時のアメリカの外交・安全保障戦略と密接に結びついており、いわばアメリカ流の国策映画だったのではないだろうか。
丁寧な植民地主義的な傾向はこの後も非常に根強く、形を変え品を変え、ディズニーらしさの1つの要素として受け継がれていくことになる。
『シンデレラ』は物語の大半を出来の悪いトムとジェリー風ドタバタ展開が占め、あまりおもしろくはないものの興行的には大成功を収め、低迷期の脱出に成功する。
『眠れる森の美女』は『白雪姫』以来の超絶作画であり、これ以降の作品と見比べてもダントツでクオリティが高い。一方で興行的には制作費の回収すらできず、総じて失敗作と見なされたようだ。ディズニー作品の作画技法は『眠れる森の美女』でひとつの頂点に達し、以降はべつの方法論を模索していくことになる。
ほか『ふしぎの国のアリス』のチェシャ猫や芋虫の悪夢的な描写は見たものに強いインパクトを与える。一方で登場人物にだれ1人としてまともに会話の通じるキャラがおらず、集中力の維持が非常にむずかしい作品でもある。
『ピーター・パン』では全能感と成熟の拒絶というYoutuberの原型のようなヒーロー像が描かれる。ピーター・パン症候群とはよく言ったもので、本家ピーター・パンも未成年淫行で炎上する未来を強く予感させるキャラクターだった。
『わんわん物語』では都市的自由を謳歌していた野良犬がペットとして不自由な幸福を手に入れて物語が終わる。ここで描かれるペットたちのむき出しの奴隷根性は、前述の植民地主義と無関係ではない。『ピーター・パン』『わんわん物語』ともにおもしろくはないが、それぞれ見どころのある作品となっている。
おすすめの作品:『101匹わんちゃん』『くまのプーさん 完全保存版』
『眠れる森の美女』のアーティスティックで洗練された描線から一転、『101匹わんちゃん』以降はえんぴつで描かれたかのようなラフな描線で作品が構成されていく。『眠れる森の美女』以上のものを作り出すことが現実的に不可能であり、見劣りを避けるという意図があるのか、あるいは端的に制作資金が枯渇しただけかもしれない。
技法的にはやはり『くまのプーさん 完全保存版』でひとつの完結を迎え、以降ディズニー映画は再び模索と低迷の季節を迎えることになる。
『おしゃれキャット』は金持ちのペットが使用人をブチのめす話で、一方『ロビン・フッド』は貧乏人が金持ちをブチ殺す話だ。この時期のディズニーは節操のなさがすごい。
この時期の作品群の特徴を一言で言い表すならば、「リアリティへの接近」ということばになるだろう。それは一方では作画技法への3DCGの導入というかたちで現れ、他方で物語上では善と悪の単純な二項対立の脱却が図られることになる。
前者は『コルドロン』の奥行きのある大胆なカメラワークや作画法、『オリビアちゃんの大冒険』『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』での部分的な3DCGの導入に見られる。後者は『きつねと猟犬』での人種対立のメタファーとして描かれた動物間の争いや、多人種が共生する複雑な現実を猫の姿を借りて描いた『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』に象徴的である。
『きつねと猟犬』はこれまでのディズニー作品に見られた家畜たちの奴隷根性を初めて批判的に描いた作品であり、『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』と合わせて「社会的にただしいとされる」物語像の変容を見て取ることができるだろう。ただしこの時期の作品群は総じて地味で魅力がない。どうやら創業者ウォルト・ディズニーの死や主要スタッフの大量離脱の影響があったようだ。『コルドロン』は興行的にも大コケし、ディズニーの低迷を象徴する作品となった。
シャーロック・ホームズの翻案である『オリビアちゃんの大冒険』がかろうじて見ていられるという程度で、単品の映画作品としておもしろいものは少ない。『オリビアちゃんの大冒険』では、冒頭からネズミ女児のパンチラという一体どこに需要があるのかわからない謎サービスカットがあり、視聴者の集中力が乱される。
おすすめの作品:『リトル・マーメイド』『美女と野獣』『アラジン』
この時期ディズニーは批評的評価・興行収入の両面で復活を遂げ、一般に「ディズニー・ルネサンス」と呼ばれているらしい。本稿でもその表現に従う。
たしかに作品のクオリティは過去10年とは比べものにならないほど高く、ルネサンスと呼ばれるのも納得の時期である。一方で技術革新や価値観の変容は停滞気味で、歴史の流れとしてはさほどおもしろくないというのが正直なところ。ルネサンスの言葉通り、ある種の保守回帰の時代に当たる。
おそらくこの時期、真に革新的だったのは、作品の表層に現れる技術やテーマ設定ではなく、安定して高品質な作品を量産する社内の体制や組織づくりの技術にあったのではないか。
個別の作品として語れる部分は非常に多く、『リトル・マーメイド』は作画がよく、『アラジン』は見ていてたのしい。
『美女と野獣』でははっきりと他者理解をテーマに打ち出し、また女性主人公が男性からの求婚を拒絶する主体性を獲得するなどプリンセスものとして出色の出来栄え。他者を尊重することを覚えた野獣が救われ、他者の存在を最後まで容認できなかった村のヤンキーは破滅する。主人公が読書好きでヤンキーと話が合わないインテリとして描かれる点も珍しい。ただしこの他者理解はプリンセス側に一方的な負担を強いるかたちとなっている側面が強くあり、なかなかむずかしい部分もある。
『ポカホンタス』は白人によるアメリカ侵略・植民地化を矮小化し美化するかなり最悪のお話で、案の定ネイティブアメリカンの民族系団体にかなり怒られたようだ。引き続き怒られてほしい。
『ターザン』もインディアンをゴリラに変えただけで『ポカホンタス』とほぼ同類型のお話ではあるが、最後に白人研究者たちがゴリラの部落に居残ることでギリギリのバランスを取っている。ここにはターザンとポカホンタスの男女差が絡んでおり、単純にターザンのほうがいいとも言いがたい。
『ノートルダムの鐘』は強引にハッピーエンド化されているという不満はあるものの、子供向けの大作映画で障害者の活躍を描いた点は積極的に評価されてよいだろう。そもそもディズニー作品には『ノートルダムの鐘』以外にも障害者がやたらとよく出てくる。アメリカ社会には障害者を積極的に受け入れる土壌があるからできるのだとは思うのだが、日本のコンテンツおよび社会全体でも頑張ってほしいポイントである。東京ディズニーランドでもべつに障害者見かけないし。
そのほか『ムーラン』『ターザン』ではそれぞれ3D技術の進歩を見て取ることができる。
みたび低迷期である。『ダイナソー』に代表されるように3D映画への本格的な移行が始まり、2D映画最後の全盛期に当たる。
作品としては『リロ・アンド・スティッチ』がずば抜けてすばらしい仕上がりで、商業的にも大成功を収めた。『リロ・アンド・スティッチ』は王子様に救われるというプリンセスものの物語類型とは異なる、弱者同士が助け合う疑似家族モデルを明確に示した重要な作品である。
自分の欲求をうまくコントロールできない少女リロと、破壊衝動を植え付けられ誕生した人工生命体スティッチが、貧困家庭のネグレクト問題とSFアクションを背景に成長していく姿が描かれる。キャラクターデザインはかわいらしく、作画から細かい小ネタに至るまで非常に丁寧に作られており、娯楽作品としてもすばらしい。リロの姉・ナニの恋人もいいヤツで好感が持てる。
残念ながらディズニー映画ではこのあと疑似家族的な想像力は発展せず、プリンセスものという旧来の枠組みのなかで無理やり「価値観のアップデート」を図ることになっていく。
『アトランティス 失われた帝国』はディズニー映画には珍しく人がバンバン死ぬ作品で、ふしぎの海のナディアや宮崎作品みたいなものをアメリカ人が真似して作るとこうなるのかといった印象。ガバガバ設定とご都合主義が目につき、リアル路線なのかファンタジー路線なのかどっちつかずの失敗作だった。ただし主人公にオタク青年が採用されている点は注目が必要で、これ以降ディズニー主人公はイケメン・マッチョではなく非モテ・オタクが主体となっていく。
『白雪姫』で人間扱いされていなかった非モテの小人たちが「社会的にただしいとされる」物語の主人公となる時代を迎え、しかもそれが日本のアニメの強い影響化で発生しているわけで、価値観の大きな変化を感じ取ることができる。ただし、『白雪姫』の王子様はあれはあれで人間味のかけらもない平板なキャラクターではあるので、モテ非モテという面ではそこまで単純明快な話ではない。
『ブラザー・ベア』は殺した相手の子を育てるというなかなか攻めたお話ではあるのだが、最終的にファンタジーに着地するせいでどうも軸がブレる。
続く
友人から指摘されてたしかに無信仰で宗教に偏見がない人間を自分以外で見たことない事に気づいた。俺みたいなタイプってやっぱり俺みたいな環境で育ってたりするのかな?
偏見を持っている人は、それを持つほどの知識や経験もないのにそういうふりをしている人がほとんどでは。
アメリカのような多人種国家と日本のような見た目では区別がつかないような民族が集まっている国では社会的な差別の態様が違うと言われることがあるよね。
黒人や白人が日本の差別を語るときに、よく知らない相手に対する戸惑いや警戒心を上げることがある。
それに似ているのではないかと思うよ。
日本では宗教的な行事に形式的に参加させれたり参加したりする人は多いが、教義的な理解や共感を求められるような機会は基本的にない。
だから形式的なものを越えて熱心に信仰している人が目の前にいたら警戒心は高まるものだと思う。
それは誰もが持つ普通の感覚だが、それを政治的に利用したい人は偏見を増長する方向に利用するだろうね。
これは排外主義的な思想を持つ人が外国人への偏見を強化するように動くことに似ていると思うよ。
それ以外の社会的に認知度が高い差別でも、そうでない差別でも政治化させられているものはそういう傾向が多い。
偏見が少ない人というのは意外と多いと思うが、それは
祖母が私財を宗教に費やさず勧誘活動を一切やっていなかった(ただ、俺に対しては一緒に勉強しないかと熱心に誘ってきた)のと、近所の某学会員たちも一切勧誘活動はしてこず、平均よりも良識的な人たちだったのが大きいのかもしれない。事実、穏やかで地域奉仕活動に熱心な人が傾向として多かった。
School District Decides Asians Aren't Students of Color
https://reason.com/2020/11/16/equity-report-north-thurston-asian-students-of-color/
>One school district in Washington state has evidently decided that Asians no longer qualify as persons of color.
(ワシントン州のある学区は、アジア人はもはや有色人種としての資格を持たないと明白な決定を下した。)
>lumped Asians in with whites and measured their academic achievements against "students of color," a category that includes "Black, Latinx, Native American, Pacific Islander, and Multi-Racial Students" who have experienced "persistent opportunity gaps."
(アジア人を白人と一緒にし、「持続的な機会格差」を経験してきた「黒人、ラテン系、ネイティブアメリカン、太平洋諸島、多人種の生徒」を含むカテゴリーである「有色人種の生徒」と比較して、アジア人の学業成績を測定した。)
アジア人だってアメリカでは未だに肌の色で差別されるマイノリティであり、人口も少ない。
有色人種としてのデメリットを経験しているのに、このような場面では白人と一緒くたに扱われ、他の黒人やラテン系のような機会確保の配慮を受ける対象からも除外される。
行政ですらアジア人には平気で雑な扱いをしているのだから、アジア人を狙ったヘイトクライムも起こるべくして起こったといえる。
色々とコメントをいただけたのでいくつか返信してみよう。
まず、私をいわゆるネトウヨだと思い込んでコメントしている人がけっこういるみたいだが、私は自分をネトウヨとは思っていないし元の日記も徒らに日本アゲをするような趣旨は一言も書いていない。最初にも書いたが日本の男女格差が酷い(森元首相の例のコメントのように)のは痛感しているしもっと男女平等が実現されてほしいと思っているくらいには自分をフェミニストと思っている。日本の人種・外国人差別がマシだとも決して思っていないし、ネット上の中国・韓国人への誹謗中傷は断じて容認しない程度には自分をリベラルだと思っている。
人種の坩堝のような国から、単一民族の国まで、男女よりも形態にバラつきがあるから単純なランキングは難しいのかも?大和民族と、在日外国人や、その他の民族とのギャップがフィーチャーされるのは良いと思う。
ありがとう。確かにこの辺を見ても民族・文化的多様性は本当に国ごとにバラバラらしいから(日韓あたりは世界的にみて非常に同質な国家らしい)、定量的な指標を作るのは難しいかもしれない。
https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_countries_ranked_by_ethnic_and_cultural_diversity_level
それでも定性的には何らかの評価はできるだろうし、不完全でもまずは何らかの横並びの指標で世界を測ってみるのが大事だと思う。指標は後から批判を受けて改善していけばいいし。
なるほど、ではある。しかし男女というのは理屈上はどの国でもほぼ半々なわけだ。人種とかで区切ると国によって多様すぎる。アメリカは人種別のいろいろな統計は出ていて、ひどい結果になっている。
男女はほぼどの国にもいますが多人種はいる国とあまりいない国があるから難しいでしょう。 あと欧州やアメリカは人種差別の多い国というより人種の多い国だと思うんだけどどうよ
男女はどの国もあるというのは確かにそうだなとは思う。一方で、LGBTのような性の多様性まで考慮したら本当にどの国でも同じと言えるのか。また、人種・民族・文化の多様性は国ごとというが、これだけグローバル化が進んでいてどの国民国家も一国では成り立たない世の中で、安易にこうした試みを諦めるのも勿体ないとも思う。どんな国も(日本でさえ ※上のWikipedia参照)何らかの人種的多様性を抱えてて社会的問題を孕んでいる中で、こうした指標を作る意義はあると思う。男女格差の指標だって、20世紀来女性の地位が見直されて社会進出が進む中で出てきたものだし。
あと欧州・アメリカは、人種の多い国だけど同時に人種差別も多い国だと思う(でなければBLMみたいな運動が注目されるはずがない)。一度でも欧州のどこかに旅行に行ったことがある人は、あの独特の硬直した社会の雰囲気を知ってるんじゃないかな。アジア人としての居心地の悪さ。それはCOVID-19の前から変わっていない(今はさらに酷くなっている)。あと欧州人のアフリカ・アラブ系への見下し方とかは酷いよね。以前、欧州の同僚とイタリアのミラノを観光していたときに私は何気なくアフリカ系の人たちに近寄ってしまったのだが欧州人の距離のとり方は凄かった。カリフォルニアから来たインド系の同僚は、ベルリンでフードを目深に被って顔を隠しながら歩いていた。警戒していたんだと思う。
ちゃんとジェンダー不平等指数は22位、ジェンダー開発指数55位、人間開発指数19位とかそういう公平な報道をして、最上級国民ダボス会議で知られる「日本は遅れている」プロパガンダをやめることが先決だと思うが。
公平な報道を、というのは本当にその通り。一方で、ここのコメントでさんざん吹き上がっているように日本社会にまだまだ改善の余地があるのも事実なので、そこは粛々と改善していきたい。
実際に分類された結果「男女差別よりはずっとマシだがら男女差別を放置する言い訳には使えないが欧米を言い返すのは不可能レベルに充分酷い」って出たら、ウヨミソが発狂しそう。
「人種差別・民族差別指数」なるものがあったとして、永住権をもつ外国人の地方参政権すら認めないジャパンはやっぱり差別大好き国家になることは目に見えてるんだが。
冒頭でも書いたけど、自分はネトウヨではないし日本アゲしたかった訳でもないから、もし客観的な指標で日本が低い結果になったらそれはそれで粛々と受け止めるだけだと思う。あと仮にそんなランキングで日本が上位になったからといって、今のネット上での人種差別的な言動は断じて許容しないし、日本社会の大きな問題であることには変わりがない。上のコメントが私にではなくこれを読んで曲解した「ネトウヨ」読者へ向けての警句だとしたらいいが、元の記事には「日本ガー」みたいなことは書いてないはずなのでネトウヨだろうが誰だろうがもう少し丁寧に読んでほしいなとは思う。
外国人の地方参政権云々については、人種問題というよりは移民政策とかもっと政治的な各国の判断だと思うのだが、その分野は詳しくないのでこれ以上はなんとも言えない。
人種格差は、フランスのように「仏市民自体が一つの民族であり、人種を想定するのは差別の温床」という国や、ミャンマーのように「あれは国民ではなく移民」と言う国もあり難しいのよ。逆に統計とってる代表格は南ア
南アフリカは確かに過去に苛烈な人種差別のあった国だから自浄作用的にそうした統計を取ってるのは理解できる。国々で人種・民族の捉え方が違う、というなら男女の問題だって各国で伝統的に扱い方が違うだろうし、とくにムスリム国家では宗教と結びついたナィーブな問題でもあるだろうから、難しいと言っていたら何もできないのではないか。
人種差別ランキングというか評価付けならあるぞ、日本は最近それで評価下がった 理由は外国人労働者へのブラック労働。さらに下がると貿易に影響するからヤバい状況らしいよ
あるよ。なんでないとおもったのか。
既にあるんだとしたら私が単に不勉強なだけなので、ぜひ教えてほしい。タイトルだけでも教えてくれればあとはググれるので。
こういうのでなくて?ランキング形式ではないけど。https://www.google.com/amp/s/www.cnn.co.jp/amp/article/35122505.html まぁアジア系が最大で開いてるので、増田の願望はかなわない臭いけど。
調べてくれたのはありがたいが、これはランキング以前に米国内での話だよね? あとアジア系の格差が最大というのは米国内でアジア系人種への扱いが二極化していることを示すだけで、アジア系社会内で差別が最も激しい訳ではないでしょう? ここから逆に読み取れたのは、米国ではアフリカ系やヒスパニック系、ネイティブ系は逆に社会で固定的に差別対象とされていて、一方アジア系は貧しい階層に押しやられている人たちもいればヨーロッパ系同様の裕福な階層にも入り込める、ということかな。
国連の人種差別撤廃条約に基づく人種差別撤廃委員会による日本政府に対する条約の実施のための改善勧告を見てみよう。ジェンダー関連以外もてんこ盛り。本邦の人権絡みの惨状は男女差別だけじゃないよ、大丈夫だ!
これも元の日記を日本アゲだと勘違いしているコメントだけど、日本に改善勧告してくれるのは大変結構なんだけど、どちらかといえば同じように欧州や米国などにも人種差別の問題をもっと勧告しようね(してるならその報道を見たいね)、という話。それは日本のためじゃなくて世界のためにね。
ネットでざっくり検索しただけだが、献血ポスターに黒人を採用したことはないようだ。なぜだろうか。
日本で献血を啓蒙するのだから日本人を対象にするために黒人を除いたというのはもっともらしい理屈だが
それでも、そういう人々は少数派に過ぎないのだからわざわざ取り上げる必要もないと言うのだろうか
折しもラグビーワールドカップでは多人種、多国籍、様々な肌の色の選手たちが日本代表として活躍している。
その姿を私達は応援していながら、日本に暮らす外国の人々を少数派だからと切り捨てていいのだろうか。
多様性を重んじるならば、少数派も取り上げるべきではなかろうか。
献血ポスターに採用されるオタクコンテンツにまつわる騒動からこんな発想に至った。
件のポスターは、採用されたことで議論を巻き起こしたが、採用すらされないことにも示唆があるのではなかろうか。
多様性を重んじるならば、献血ポスターに黒人がいてもいい、オタクコンテンツがあってもいい。
万人にとって当たり障りのない表現は、時として少数派を切り捨てることになる。