はてなキーワード: お国とは
ノルウェーのアーティストでModdiって人がいて、彼の「House by the sea」 って曲が好きでMVつきで久々に聞きたくなってyoutube開いたらそのサジェストで出てきて、ファイナリストがファイナルでそれ歌ってた
本人歌唱https://www.youtube.com/watch?v=lX5FpPP4TSA
ザ・ボイスのファイナリストhttps://www.youtube.com/watch?v=h3qbkLh7Kv8
メロウでゆったりして静かな歌っていうか、アコースティック系というかざっくりいうと「北欧っぽい」歌歌っててこれがこの人のスタイルなんだろうとはいえ勇気あるなと思った
歌い上げる感じとかテクニックとかパワーって感じの曲じゃなくてなんか妙に力が抜けてるっていうか、kings of convennienceとかSusanna and the Magical Orchestraとかあの辺の感じを想像するとわかりやすいかな
喉じゃなくて吐息を使う系みたいなささやくような感じの歌い手というか、こういうのにもお国柄が出るというか、好まれる曲のトレンド的なものが違うんだろうかね
https://www.youtube.com/watch?v=ei7rJ1_biTY
よく見るとアバとかコールドプレイとかも歌ってるんだけどその仕上がりがなんかすごい静かで染み入るようで、この感じの選択はアメリカとかスペイン版とかではあまり見ない感じする
オリジナルも作って歌ってる人みたいだからそれを貫くのはわかるしそりゃ国内の歌手の曲はもちろん歌うだろうけど、House by the sea みたいな結構淡々とした曲を大舞台のファイナルで選ぶんだなーみたいな新鮮さがあった
この人は勝たなかったみたいだけどすごいすてきな歌手なので追いかけたくなった
この人はオランダだけどこの人もすごいすてきだhttps://www.youtube.com/watch?v=o9jNlosHsvA
なお国は発展しない模様
もう少しで夏休みが終わる。
2学期になって学校へ行きたくない子は、逃げ場がないと自殺するだろうか?
https://anond.hatelabo.jp/20230822071720
私は
「死にたくない」
「お国のために死んでくれ」と言われても、絶対に断るし、他人の命令には従わない。
私が中1のとき、クラスで「プロレスごっこ」と称したイジメが流行った。
無口で大人しいO君が標的にされ、毎日のようにプロレス技の練習台にされていた。
小1のとき、クラスのイジメっ子にいつも意地悪をされていた自分は、イジメられっ子の苦しい気持ちが良く分かっていた。
クラブ活動で柔道をやっていた私は、ある日「O君をいじめるのはやめろ!」と言って、プロレスごっこに割って入ってやめさせた。
すると、イジメっ子達は技をかけても無反応なO君よりも徹底抗戦する私の方が反応があって楽しいと思ったのか、O君の代わりに私を標的にした。
柔道を習っていたので相手が一人なら対抗できるが、同時に複数人が襲撃してくると勝てなかった。
O君の代わりに私がボコボコにされる日々が続いたが、心は折れなかったので一度もギブアップはしなかった。
担任の先生はデブの中年女性で、クラス内で起こっている暴力・イジメには無干渉だった。(イジメ解決には全然役に立たなかった)
イジメっ子たちも「これは遊びで喧嘩じゃない」と言い訳をしていた。
ある日、別のクラスのT君が話を聞きつけて、私を空手道場に誘ってくれた。
T君は小学生のとき同じクラスだった元同級生で、中学生になってからは別々のクラスになった友人だ。
T君が通っている空手教室に自分も参加して年上の人とも組手をやって特訓した。
相手は4~5人だったか、その日もイジメっ子たちがプロレスごっこを勝手に始めて、私に暴力を振るってきた。
その日はいつも防御に回っている私と違って、全力で殴る蹴る攻撃で応戦し、全員を血祭にした。
空手道場のルールでは顔面パンチは寸止めだったけど、プロレスルール?で鼻を殴ったら鼻血がパーっと出た。
子どもの頃のイジメを暴力で解決する成功体験を得てしまったので、力に頼る考え方が染みついてしまっている。
大人になった今なら分かるけど、力で解決するのは安直すぎる。本来なら、頭を使って暴力を封じ込めるべきだった、と思う。
今なら使える解決手段は何でも使い、法律(社会のルール)を駆使して、相手を社会的に抹殺するだろう。(中学生のときにはそれが分からなかった)
自分でもこれは生存者バイアスだと思うけど、今でも子どものイジメ対策には格闘技を勧めている。
しかしチビや女が格闘技をやっても複数人を相手に勝てるか?というと正直微妙だと思う。
生存者バイアス(せいぞんしゃバイアス、survivorship bias、survival bias)または生存バイアス(せいぞんバイアス)とは、何らかの選択過程を通過した人・物・事のみを基準として判断を行い、その結果には該当しない人・物・事が見えなくなることである。選択バイアスの一種である。
生存者バイアスの例として、ある事故の生存者の話を聞いて、「その事故はそれほど危険ではなかった」と判断するという事例がある。
物理的な喧嘩なら格闘技が一つの正解だけど、他のタイプの陰湿なイジメだと暴力では解決できないだろう。(暴力で返しができない場合)
夏休みの間にパワーアップできなかったイジメられっ子が、解決策がないまま新学期を迎えたらどうなるだろうか?
ゆたぼんのように、不登校も1つの正解だと思うけど、理解がある親じゃないと無理矢理登校させるかもしれないね。
通学と休学の中間ぐらいの選択肢があればいいのではないか?と思った。
ぶっちゃけ知識を得るだけなら今のK12教育は時代遅れで、はなはだ効率が悪い。
数学とか、YouTubeの無料講座で独学できるので、オンライン教材を活用した反転学習とか導入すれば、義務教育の数学なら1年程度で習得できるだろう。
日本の学校は、人間を命令に従順な指示待ちロボットに改造する工場なので、校則や教育内容は社畜量産以外の用途には向いてない。
自殺防止のための切り札をもっとたくさん持たないと、的確なアドバイスができないと思った。
そもそも学校自体が犯罪の温床なので、解体しなければならない。
お国柄を反映してるのでは?
平成時代の思い出といっても色々あったので一概に何をしてたとも言えませんが私は平成11年から19年に東大法を出るまでに書くことに力を入れてきた人間なんで
それは現在の警察、特に、戸田、くまがい、へべのすけ、故人の井本光なんかは典型的に書かない人間というか、村田も任介も書かない人間と思いますが私の時代は豊かだったので
東大とかZ会が業を煮やして書いていたわけですが、3年くらい前志村で、文Ⅰの同級生の女と思われる者とか、東京高裁のしらちゃんから、杖でカットされるちゅうんですか、
ババアだから書くなってゆわれるんですね多分 長谷川順一からも書いたものは捨てろと言われました
別に昭和58年に生まれてべっとりお国についていったわけでもないし、私が発作的に勉強開始したのは中3の頃なんでそれから必死で書いたわけですが別に平成の20年間が勉強
ばかりだったわけでもないしね、晴生がケンタッキーを買ってきて食べていた時代もあったし、 騒音叔母さんで、ひっこしひっこしさっさとひっこしみたいな最近の一般人じゃありえないのもあったわけで
一時期はあまりにもガキがうるさいので、部屋に防音壁を設置してそこに引きこもっていた容姿劣等感の人とか、そういうふうに生き生きしていたことが大量にあった割になんでこうなったか
分からないですね 昔は秋葉原事件もあったし、 前田の人生が壮絶というのを、 Nomurayamansukeがいてったのと、 点滴をしているバールカースという弁護士もいたけどこの
10年間どんどん出てこなくなった。昔は、 ordne feuiiles とか、 Herrenmoral とか、ぷらんたんとか、悪人がTwitterに大量にいたんですけども、それもいなくなったと
特に、 Prantanについては、ブログの知り合いがどんどん散逸していなくなったとか、 あと、東大法学部で同級生で俺を懲罰委員会に通報した、Nyaikiの部屋ってのもあったんですが、
そのNyaikiも、いなくなって、最近では、前野町に住んでるんですけども、理解できることは、 右後方にざちゃんがいるのではないか、ということと、左後方に、 最高裁判事のえりこが
一つ思い出したことがある。
moralとethicsの違いを説明する事例として聞いた話。
昔の欧米では、ペットとして猫を飼うことは忌避される傾向が強かった。
特に、独身の高齢者が猫を飼っていると、地域社会の中で魔女(witch)の嫌疑をかけられる虞れがあった(witchは、日本語では「魔女」と訳されることが多いが、魔女裁判では男性がwitchとして裁かれることもあったようである)。
猫には「女性」的なイメージが強く有ることから、女性=悪という図式/世界観を持つ聖書とキリスト教の影響の強かった欧米では、悪魔/魔女と猫を結び付けて考えられたのだろう。魔女の使い魔として、フクロウ、コウモリ、ヘビ、ヒキガエル等とともにネコも含められていた。
このように、昔の欧米ではペットとして猫を飼うことは、それがmoralに反する行いだった。
しかし実際には、ペットとして猫を飼うことは、伝染病の媒介などの具体的な理由が伴わない限りは、何も実害は無く、他人や社会に迷惑を掛けることではない。したがって、ethicsの観点から見ると問題は無い。
こうして見ると、moralのethicsの違いが分かる。
米国は、今でも魔女裁判のことを、まるでつい最近の話のように持ち出すことが多いお国柄だから(『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』みたいな作品が生まれて受け入れられ易いのも、こういった土壌があるから)、いまだ猫に関するネガティブなイメージが強いmoralが生きているのだと思われる。
東京にいわゆるサブカルチャー的な(本屋が多いだのライブが、コンサートが多いだの美術館やギャラリーがうんぬん)リソースの集積があるのは、まぁそう。
でも、東京には歴史があんまりないし、色んなお国から集まってきている人の集まりの街なので「東京のくらし」という共通認識もあんまりない。
増田は東京生まれ・育ちなのだが、東京には割と潤沢にあると言われがちなサブカルチャーやサブカルチャー的な”文化”よりも、人の生活に根差した文化がある地域が素敵だと思うのだ。この間はTVを見ていて、青森には「普段は別の仕事をしている市井のねぷた絵師」がいる、というのを知って、何だよそれめちゃステキじゃないか。と思った。
東京は、色んなお国から人が集まってきていて、そういう暮らしに根差した市井の文化は割と薄まってしまいやすい。まぁ薄まっているところも「東京らしさ」でもあるのだけれど、市井のねぷた絵師のような存在は文化だなーうらやましいな、カッコいいな、と思う。
ところで、サブカルチャー的な文化ではない、市井の文化も、薄まってしまっているとはいえ東京にも残っていたりする。
下町生まれ育ちの増田が感じる、東京の下町の、もうすぐなくなってしまうもしれないな…と思ったりもする、東京の市井の文化を紹介させてください。
そりゃ歴史のある他の街ほど立派なものではないが、東京はいわゆるお祭りが結構かなり多い。
下町は特に、もう数百年のあいだ狭い長屋に人がひしめき合って暮らしてきたところでもあって、人の数だけ「祈り」も必要とされてきたんだろうと思う、街ごとに小さいお社がある。小さいお社は普段は町内会で掃除とかの面倒を見ているが、このお社がお祭りに参加する。大きな祭りの氏子だったり(例えば神田祭だと100個ぐらい神輿が出るらしい)、自分たちだけの祭りがあったり色々である。
下町では、各町内ごとに「自分の町内は〇〇祭の神輿」がある。氏子という言い方なんだろうと思うんだが、かなり割とキッチリと、祭りの割り当て?範囲?みたいなものが決まっていて、町内ごとに神輿を持っている。まぁ他の街でも祭りってそういう感じだと思うので珍しくもないと思うけども。
下町の祭りは基本的には神輿がメイン、山王祭(日枝神社の祭り)は山車がメインのようだが、まぁあの辺は山の手だな。下町は神輿。わっしょい、わっしょい。
隅田川より西側の下町の祭りは、春~初夏ににやるところが多い気がする。そして隅田川より東側の祭りは夏にやるところが多い。夏にやる祭りは「水かけ祭り」といって、町内を練り歩く神輿に、宮入する神輿に近所の人たちが水をわっしゃーわっしゃーとぶっかける。手にバケツを持つおじいさん、ホースを持ち出すお母さん、金だらいにビールを浮かせながらひしゃくで水をかけるお父さんなど。担ぎ手もびしょびしょ、道路もびしょびしょになる。
神輿が出る日は一日中、町内が法被と脚絆、なんならふんどしの人がウロウロする。非日常ですごく楽しい。普段ダラシナイ自分の親父殿が祭りの衣装になると5割増しに格好よく見える。近所の、普段は古いビルの1階のすすけた喫茶店のマスターをやってるおじさんが、祭り半纏をめっちゃ粋に格好よく着こなしたり、新しいマンションの住人の若いお父さんの装束をきゅきゅっと直してあげてたりね。女も神輿担いでも全然オッケー。ただめちゃ肩が痛くなるので私はまぁ、雰囲気だけ味わって担ぎ手はあんまりやらない。子供神輿を持ってる町内もあるし、うちの町内は子どもは山車が出る。
下町の祭りは毎年はやらない、2年に1度とか3年に1度とか。本当のところは知らんけど「江戸っ子は祭りにお金を使いすぎるから毎年だと無理」だかららしい。馬鹿だな江戸っ子ときたら。
増田が子供の頃は近所に「木遣りをうなる爺さん」というのが居た。「木遣り」と書くので、木にまつわる仕事をする人たち、材木関連、とび職さん、火消し(火消し≒鳶)の労働歌がルーツなんだろうと思う。よく知らないのだが笑。Youtubeなどを見るとうなってる爺さんの動画があると思う。
結婚式の時とか葬式の時に「木遣りを歌うじいちゃん」が何人かで来てくれて、家の前にずらっと並んで木遣り歌を歌ってくれるのだ。平成の半ばに亡くなった祖父の出棺の時にずらっと「木遣り爺さん」が並んで歌ってくれたのが良い思い出。ちなみにおじいちゃんはとび職ではなかったので木遣りは歌えなかった。
まぁでも、もうこういうのは無くなっていくんだろうなーと思う。数年前に祖母が亡くなった時は少し離れた町の老人ホームだったので葬式もその町でやったから、それ以来木遣りうちには来てない。マンションも多いしなぁ。
今は、正月とか区の祭りとかに出くわすと「ずらっと並ぶ木遣り爺さん」が見られる。保存会が伝承しなくては、とかそういう感じみたい。
ちなみに祖父母の家には、私が子供の頃(昭和後半)まで、年末になると上記の「木遣りのじいさん」が門松を立てに来てくれていた。その木遣りのじいさんのことを祖父母は「親分さん」と呼んでいた。今思うとあれは銭形平次的な何かの名残なんだろうな。昭和の頃まで、うっすら「江戸」が残っていたんだろうなと思う。バブルで全部洗い流されたけどね…。
東京には寄席がある。上野の鈴本、浅草演芸ホール、新宿末廣亭、池袋演芸場。あといくつかの落語や演芸の団体がある。落語家が多い街、東京。
下町には落語家さんが結構たくさん住んでいたりする。私が初めて一人暮らしをしたマンションにも偶然かなり有名な落語家が住んでいて、すれ違うと気さくに挨拶してくれるおじいさんだった。
落語は、上記の定席小屋で毎日やっているし、〇〇市民会館、○○ホールみたいなところで独演会なんかたくさんやっているが、もっと小さい、近所の落語好きの蕎麦屋のお父さんが自分の店で若手を集めて落語会をする、みたいなことが、結構あちこちで見かける。
覚えている人もいるかもしれないが10数年前のNHKの朝ドラ「ちりとてちん」で(まぁあれは上方落語の話なんだけどさ)、アル中から立ち直った師匠を中心に一門の小さい落語会を近所の居酒屋で開くようになるのだが、その「寝床寄席」みたいなのが、蕎麦屋やら居酒屋やら和菓子屋やら、結構あちこちで見かける。神保町のらくごカフェとか日暮里のひぐらし亭とか、ミニ寄席が最近ブームだったりするが、それよりももっと「地元の落語好きの人が場所を貸す」みたいなのがあるんですよ。
これは良い文化ではないのだが、下町には、下町名物の、何て言うか「飛び地の庭」というか…歩道の植え込みを不法占拠して勝手に花壇を作っちゃう爺さん婆さんが生息している。下町の家は狭い。元々長屋だったところなのでとにかく家が狭いし庭なんてない。玄関を開けると2、3歩で歩道なのが下町建築。
なので、下町の園芸好きは、軒下などに細ーくプランターを並べて園芸を楽しむのだが、それが段々エスカレートし過激になってくると、歩道を飛び越えて飛び地的に、街路樹が植わっている土や植え込みにも鉢植えやらを置きだす。通行の邪魔になりかねないのでなぁ…とは思うが、庭の無い下町生まれなのに園芸を楽しみたいぐらいなので結構、きちんと管理されていてきれいな花が咲いたりする。逆ビッグモーターである。
そういえば下町は庭がないからかもしれないが、結構園芸趣味がある。朝顔祭りなんてのは典型だし、少し大きい神社の境内で植木屋台が出ていたり。庭がない家が多いからね…せめて緑を。でも良くないんですよ。
これは、すべてがそういうわけではないと思うのだが、下町に暮らすために必要なものとして「踏み込みすぎない、ちょうどいい親しさを表す距離」を作るスキルがあると思う。
増田は4代前までさかのぼれる東京者だが、その前の先祖は京都出身、新潟出身。しょせんはよそ者同士。色んな理由で集まってきたよそ者が大きくしてきた街が東京である。
例えば真逆の存在として地方の農業地域なら、農業という生計を近所で共に協力して行っていくという、関係を良くするための必然的な理由があるが、東京にはその理由が希薄である。だからこそ、隣近所とはそれなりに良い関係を継続しておく必要があり、かつお互い踏み込みすぎない適切な距離を保つ必要もある。この辺は、下町育ち同士だとすごく「そう!」となるのだが、下町育ちじゃない人(山の手育ちの人や郊外や地方の人)には、イマイチぴんと来てもらえないことが多い。都会に暮らすって、住み着いて何十年も経っても、少し緊張感のある交友関係が必要になるんだろうなと思ったりしている。
手前味噌で恐縮だが、増田は、ご近所さんや、よく行く店の店員さんとかと、適切な距離を取るのが上手いと思う。近所の人におすそ分けをもらったり、差し上げたり、常連の店でひっそりこっそりオマケをしてもらったり。そういうのを目立たないように、踏み込みすぎないように、負担にならないように。数か月に1回程度なんだけどね。何かがあったら協力できる程度、でもプライバシーを保った距離というか。
これは下町に限らないのだが、東京の文化的な特徴だと思う。墓が広い。というか「古い広い墓」がある。
前の項にも繋がる話だが、やはり東京に暮らす人は少し根無し草なのだ。先祖代々の寺や墓がない。ある人ももちろん結構いるんだけど。
特に明治期以降は、仕事の都合で東京に出てきている人が山ほどいるわけで、そういう人に向けた公園墓地がたくさんある。古くは谷中墓地、現代でも八王子とかちょっと郊外に「誰でも入れるでかい墓」がある。
やたらと広い墓には有名人の墓があったりするから墓趣味の人用の案内があったりするね。
このぐらい。
実際、俺は生活保護受けてるけど、2つの病院(精神科と呼吸器科)の先生に一筆書いてもらうだけでほぼストレートに受給できた。
そして、働かなくてもYotube以外の娯楽を諦めて、酒もタバコもせず、食べ物も腹を満たすことだけを考えた最低限にして、夏は半裸で扇風機に当たってクーラー無しで耐えて、冬は何もせずに布団にくるまってひたすら耐えてれば生きていける程度には金貰えるんだから腐ってるよこの制度。
当事者としてもっと生活保護費は減らしていくべきだと思う。少なくともかなりの無理をしてでも何らかの労働をしないと、衣食住に支障が出る程度には絞り上げるべきだと思ってる。結果として精神が悪化して自殺したり、病気が悪化して病死した方がお国のためなんだからさ。
なんとなく生きていける生活水準では自殺も考えないから駄目なんだよ。生活保護受給者は常に自殺を考えるくらい追い詰められているべき。