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はてなキーワード: コンテクストとは

2020-07-01

脳が瞬時に判断できないもの

  • 「概ね」

「かねがね」と脳内再生されたあとに、それを訂正するように「おおむね」と理解される

  • 西と東

Go West標語アメリカ右から左開拓されていったことを思い出して、どっちがどっちだか理解される

大人になってからからなくなった。自分が言う際には箱型昇降機階段昇降機で間に合わせるし、言われたときコンテクストでなんとかする。

2020-06-30

川崎のぼるは調べると一世風靡をした漫画家っぽいのに

漫画史振り返り的なコンテクストでも全く存在感がないな

一般受け向きだったからだろうか?

漫画史のコンテクストを掘り起こすのはオタク

知らないけどあまり社交的じゃなかったのだろうか?

話題になりやすいのはトキワ荘など社会性のある作家たちだなら)

よくしらないが原作つきのヒット作が多かったからだろうか?

(超絶作画以外は話やキャラも考えてこそ漫画家という風潮)

2020-06-09

もう自然言語適当に入れ替えようとするのやめろよ

ある文章の中にある「小児性愛」を「同性愛」に入れ替えて論破しようとするの虚無虚無の虚無だろ

自然言語に反転だの成立するわけねーだろそれぞれコンテクストが違うんだから

2020-05-25

何万回聞いてもPCR検査必要理由がわからなかったが

「↑これらを一生懸命論じるほど大事なことと見るかどうか」 Yes / No

この考え方についての、岩田教授言葉を借りれば宗教戦争だ、という理解でいいんだよな?

政策とかで意見が分かれるのはわかるんだけどさ、

こういう科学っぽいことで、いつまでも議論平行線なのがむず痒かった。

けどこれも、リスク・リターンの見積もり次第で双方の意見になりうるような、

ファクトが明示することではなくて、ファクト見方コンテクストへの置き方の話だと。

(まあ今更どっちでもいいんだが。タイトル通り、自分検査してどうすんの?派だったのは一応書いておこう)

2020-05-08

anond:20200508113340

いや、いずれにせよコンテクストを読めないバカバカって言っただけだけど

2020-05-04

日本語圏の不自由について考える

「いつかの休日、野山を散策していたら大きな栗を抱えた一匹のリスを目撃した。」という事実があったとして、果たしてその話題は日の目を見ることがあるだろうか、という事を思案する。

「栗の実をほおばる栗鼠の姿を描いた絵画」は果たして公開されることが許されうるのか。「栗と栗鼠」という題を避けたとしても、コンテクスト批評から果たして逃れうるものなのだろうか。

リスは「栗鼠」の音読である。栗とリスはかように関連性の高い語句であって、栗とリスの語句は決して忌避されうるものである筈がないのであるしかしながら、この「陰核」なるものを想起される

事を回避する手段が完全に奪われて久しい令和の世に於いては、この栗とリスはもはや暴力であるかのように我々日本語話者の脳細胞に直接作用せしめ、思想とは無関係女陰のある一点

イメージを否応なく上書き破壊脱構築してゆく。嗚呼このおぞましき精神的DVたるや、何故に大きな栗の木の下で遊んでいるのは二匹の可愛らしい栗鼠であってはならないのか。何故に

この詩的かつ純粋空間於いて栗と栗鼠が存在すら許されず原罪を抱えたままで楽園追放されうるか

2020-04-14

COVID-19 ソリューション主義解決策にならない

COVID-19の疫病は特異な歴史的コンテクストに現れました。まず、グローバル資本主義自由民主主義の折り合いをつけるには他に解決策(ソリューション)がないと30年間も信じてきた後で、人類は自らに課した昏睡状態からしだいに目覚めつつあります。状況が改善するかもしれないが、急激に悪化するかもしれないという考えにもはや誰も驚きません。

他方で、これまでの4年間、ブレグジットトランプ大統領当選ジェレミー・コービンの登場と失脚――じきにバーニー・サンダースも同じ運命をたどることになりました――といった出来事からグローバル資本主義がかなりしぶといものだということが見えてきました。世界主義から排外主義へ、ネオリベラリズムから社会民主主義へ、イデオロギーがたんに変わるだけでは、社会的経済的な諸関係は変わりませんでした。資本主義の完全な作り直しという課題に直面して、かつてはあれほどラディカルに見えたイデオロギーが無力で陳腐ものであることが明らかになりました。

現在健康上の緊急事態をどう考えるべきでしょうか。COVID-19の引き起こし危機世界を変えて開放する可能性に希望を抱く人は、すぐに失望することになるかもしれません。私たちの期待が過剰だというのではありません。ユニバーサルベーシックインカムグリーンニューディール政策妥当だし、まさに必要ものです。ですが、私たちは現行のシステムのしぶとさを過小評価し、また同時に、思想が堅固な技術的・経済的インフラなしで世界を変える能力過大評価しています。そうしたインフラがあってはじめて思想作動させることができるのに。

ソリューション主義国家

ネオリベラリズム」のドグマ諸悪の根源とみなされることが多いですが、このドグマであらゆることの説明がつくわけではありません。知的には「ネオリベラリズム」には似ているものの、これとはまた別の悪について、10年ほど前から私は指摘しています。それは「ソリューション主義」といいます

このイデオロギーは、ポストイデオロギーであることを標榜しており、グローバル資本主義が生み出す問題矛盾解決しながらこれを動かし続けるために、いわゆる「実践的」な、個別対応策をまとめたものを勧めます。そして驚くべきことに、こうした対応策には美味しい利益がついてくるのです。

ソリューション主義もっと有害帰結は、スタートアップではなく私たち政府がもたらします。ソリューション主義国家とは、その前の時代監視国家人間的になりつつもより巧妙化したもので、二重の使命を帯びていますイノベーションを引き起こす人々(デベロッパーハッカー起業家)は御しがたい存在ですが、これらの人々がその能力既存リソースを〔現在グローバル資本主義とは異なる〕他の社会組織を作る実験に用いないよう、ソリューション国家は気をつけていなくてはなりません。AIクラウドコンピューティング恩恵を十全に受けたいのなら、資金的に余裕のあるスタートアップを作らなくてはいけないようになっているのは、偶然ではありません。逆にそれは意図的政治的努力の結果なのです。

その帰結。非商業的なしかたで社会を編成する制度を生み出す可能性があり、既存体制転覆するおそれのある試みは、頓挫する。そういったものは胚子の段階で殺されます。そういうわけで、ウィキペディアの流れをくむ団体はもう20年以上現れていません。とにかくデータが欲しい多国籍企業世界を完全にデジタル化してゆく時代に、国家自分の分け前を手に入れようと目論んでいます監視が完全に行き渡ったことに加えて、企業世界デジタル化してきたことで、諸国政府市場を利するかたちでソリューション主義的な数々の介入を進めることができるようになりました。

ナッジ (nudge)の技術ソリューション主義の完全な実践例です。ナッジのおかげで、問題の原因は変えないまま、取り組みやす作業の方に集中することができる。それは、個人の行動を不可変の現実(それいかに残酷現実であっても)に「合わせる」という作業です。

ソリューション主義者のみなさん! COVID-19はソリューション主義国家にとって、9/11テロ監視国家にとって持っていたのと同じ意味を持っていますしかし、ソリューション主義民主主義的な政治文化に対して示す脅威は、〔監視国家よりも〕陰険はいわないまでも、より微妙ものです。

COVID-19の危機にさいして中国韓国シンガポールがとった独裁主義的な戦略評価されました。3国ともに、市民が何をしてよいか、してはいけないか決めるために、アプリドローンセンサーの展開をトップダウンで決定しました。西洋民主主義的な資本主義擁護者を標榜する人たちは予想通り、すぐさまこれらの国を批判しました。

エリートの臆見をもっとも雄弁にうたう詩人たるユヴァル・ノアハラリがファイナンシャルタイムズコラムで表明した代替案は、シリコンバレープロパガンダマニュアルからそのまま出てきたようなもので、知識によって市民自律的にしよう! というものでした。

人道主義的なソリューション主義者はみんなに手を洗ってほしいと思っています。それがみんなにとって、社会にとってよいことだと知っているからです。中国政府暖房電気を切るぞと脅したように、みんなを力ずくで束縛するよりは、そのほうがよいと思っているのです。このような言説は、政治アプリ化〔アプリ市民監視し行動を制限する方向性〕にたどりつくだけです。手洗いの奨励をめざして作ったアプリがその人道的な見地によって報酬を受けたとしても、そうなるのです。

認知行動的な介入によって市民自律的にしようというハラリの呼びかけは結局のところ、キャス・サンティーンリチャード・セイラー代表されるようなナッジ擁護者が推奨するステップとたいして変わりません。こうして、過去数百年で最大の健康上の危機への政治的対応は、石鹸や手洗い槽の自販機というかたちで「実践的な」言説に還元されてしまます。これはサンティーンセイラーが〔共著の『ナッジ』で事例として紹介しているアムステルダム空港の小便器の形をめぐる思考〔小便器の底に蠅の絵を印刷するというナッジにより、男性利用者トイレの床を小便で汚す率が大幅に減るというもの〕の系統にある発想です。

ソリューション主義者の想像の中では、あらゆる中間団体制度は、歴史と同様、政治のシーンからほぼ消えてしまったので、他にできることはあまりないのです。ハラリやサンティーンのような人たちにとっては、世界本質的に、消費者としての市民企業政府で成り立っています労働組合アソシエーション社会運動、そして感情連帯で結びつけられたあらゆる共同的制度のことをこの人たちは忘れているのです。

知識による自律化」というお題目古典的リベラリズム根底にあるものですが、今日ではひとつのことを示しているだけです。もっとソリューション主義を、ということです。だから諸国政府は、去年私が「生存のための技術」(survival tech)と名付けたもの(つまりスペクタクル(見せ物)としての資本主義が、その主要な問題を緩和しつつ続くようにするデジタル技術の総称)に大金投資するものと予期しておかねばなりません。そうやってソリューション主義国家自分が「中国の道」は採らないことを標榜しつつ、自己正当性を強化することになります

ポストソリューション主義政治のために

この危機から脱するためには「ポストネオリベラリズム」の政治必要なだけでなく、とくに「ポストソリューション主義」の政治必要です。まず、スタートアップか、中央集権的な計画経済か、といった人為的二項対立はもうやめてもいいでしょう。この考え方は、私たち今日イノベーション社会的な協力を考える仕方を規定しています

新しい政治的議論の中心となる問題は、「社会民主主義ネオリベラリズムのどちらの勢力市場で競合する力を制御できるか?」ではなく、「社会的な協力と連帯の新しいかたちを追求するうえで、デジタル技術がもたらす巨大な機会をどの勢力が活かすことができるか?」でしょう。

ソリューション主義」とはだいたいのところ、「他に選択肢はない」(There is no alternative)というマーガレット・サッチャーの有名なスローガンを応用したものにすぎません。このようなロジック残酷実践できるものではないことを、左翼思想家は過去40年間にわたって明らかにしてきました。とはいえ、〔このサッチャー的なロジックが〕破綻していても、政治的権力を持つようになるうえで支障はなかったのです。結果的に、私たちの暮らす技術的な世界は、市場支配する世界秩序を逸脱するような試みはぜったいに制度化されることがないようにできています私たち議論輪郭〔つまり議論の組み立て方〕そのものが、そのような〔逸脱の〕可能性を排除してしまっています

COVID-19への技術的な対応策を考えるさいに直面する困難は、ポストソリューション主義的な政治方向性私たちにどれほど必要か示していますイタリアのような国では――私はローマで外出制限の3週間目に入るところです――提案されるソリューションは酷いほどに野心を欠いたものです。私生活公衆衛生あいだで妥協点をめぐって議論が繰り返されており、さらには、これはハラリが示した方向性に従うことですが(「反抗または生存」を参照)、「生存のための技術」を使ってスタートアップイノベーション引き起こしやすいようにしなくてはいけないという議論になっています

他の選択肢はどこに行ったのかという疑問が浮かぶのはもっともなことです。なぜ公衆衛生のために私生活犠牲にしなくてはならないのでしょうか。テクノロジー企業通信事業者が作った現在デジタルインフラが、それを提供する会社ビジネスモデルにかなった利益をもたらすようにできているからなのでしょうか。

現在デジタルインフラは、私たち個別消費者として識別し、ターゲティングを行うようにできています集団の行動についてマクロレベル匿名情報提供するようなインフラ実装する努力があまりされてきませんでした。なぜでしょうか。そのような〔匿名データ分析をする必要について検討した政治的プロジェクトがなかったからです。非商業的なしかたで社会を編成する形態の中でも、とりわけ〔社会主義的な意味での大規模な〕計画ネオリベラリズムが用いる手法ではなかったからです。社会民主主義を信奉する人たちのなかでも、そのような手法を用いるべきだと主張する人はいませんでした。

現在デジタルインフラは残念ながら個人が消費活動をするためのインフラであり、相互扶助連帯のためのインフラではありません。デジタルプラットフォームと同様、現在デジタルインフラは、アクティヴィズム、人の動員や協力といったさまざまな目的に使うことはできますが、そのような使い方は、たとえそう見えていなくても、高くつくことになります

ネオリベラリズム的でもなくソリューション主義的でもない社会秩序の基盤としては、これはじつに脆いです(さらにこうした基盤には、消費者スタートアップ起業家とは違う働きをする人が必ずいなくてはなりません)。アマゾンフェイスブック、あるいはあなたがお住まいの国の通信事業者提供するデジタル基盤のうえにこの新しい秩序を建てる誘惑にもからますが、そうしてもろくなことにならないでしょう。それは良くてソリューション主義者が跋扈する新しいフィールドになるか、悪くすれば、監視と抑圧に基づく全体主義的で押し付けがましい社会となるでしょう。

この危機事態権威主義的な体制よりも民主主義がうまく収拾できると熱く説く声が、左翼方面からさかんに聞こえてきます。このような呼びかけは無意味ものに終わる可能性があります現在民主主義民主主義的でない私的権力行使にとても依存しているので、名ばかりの民主主義になっているからです。これぞ「民主主義」と考えるものをほめたたえることで、潰れかかっているスタートアップの見えない持ち分を意図せずほめたたえたり、スタートアップほどには無害でなくソリューション主義国家構成するテクノクラートの持ち分をほめたたえたりすることになります

もしこの生ぬるい民主主義がCOVID-19を生き延びることができるのなら、私企業権力から完全に自由になるためにポストソリューション主義の道をまず選ばなくてはならないでしょう。そうしなければ権威主義的な体勢への道へまた踏み出すことになります。それは「民主主義価値」、「規制機序」、「人権」について、以前にもまして偽善的なエリート支配を許す道です。

エフゲニー・モロゾフ

Covid-19, le solutionnisme n’est pas la solution

*ナッジとは、「行動経済学行動科学分野において、人々が強制によってではなく自発的に望ましい行動を選択するよう促す仕掛けや手法を示す用語」(株式会社日立総合計画研究所

2020-03-20

こじらせててつらいのでカウンセリング行ったら楽になった話

スペック

(いくつかフェイクあり)

この記事を書いた理由

カウンセリングを受けて何かと楽になったので、知見を共有したい。

それに、カウンセリングを終えてからそろそろ1年が経過するので、ちょうど過去を振り返るのにちょうどいいと考えた。

増田でも、多くの人が「カウンセリングに行ってみたら?」と時には本気で、時には冗談で言うのだけれど、そこが実際にはどんな場なのかを知らないせいで、行くのをためらっている人が多い現状を、変えたいというのもある。

増田だけではなく、ネット上の多くの人が、少しでも楽になれるように祈っている。その助けになれば幸いだ。

どのようなことで困っていたか

長くなりそうだし、愚痴っぽくなるのも嫌なので、代表的ものだけを箇条書きで挙げる。

カウンセラーはどんな人?

臨床心理士資格を持っている50代の女性中学生くらいの子供がいるらしい。

髪の毛が長く、少しやせ型。落ち着いた物静かな女性だが、明確な自分の考えを持っている印象がある。初恋の人に似ている気がするがおそらくは気のせいというか、投影しているのは間違いない。

実際のカウンセリングではどんなことをするのか

初回は風景構成法を行った。これはカウンセラーの指示に従って、順番に山や川、家や田んぼ人物などを配置していくもので、専門書に当たれば具体的な解釈方法が書かれているが、自分専門家ではないので省く。当日に描いた作品を今になって振り返ってみると、道のど真ん中に障害物の石が置かれていたり、山が雪に閉ざされていたりと、寒々とした印象を受けた。描かれている人間逆立ちをしていて、何やら不穏である。蛇も不気味にとぐろを巻いていた。

二回目からは主に夢分析を行った。カウンセリングカウンセリングの間の一週間に見てきた夢を記録して、それを材料に話をする。つかみどころがないようだが、意外なことにかなり効果があった。理屈はわからないが、この治療中は同じようなテーマの夢を見るようになる。さらに、肝心なのは夢の内容そのものではなく、夢の話をしているうちに自分が何を思い出したか、あるいは漠然とした印象をどのように語りなおしたかで、それによって、自身の考え方の偏りや傾向が見えてきた。現に、夢の内容を話す時間は案外短く、後半の三十分は、そこから思い出した過去出来事や近況、それについて自分がどう感じたについて話し合うことに費やされた。そうした雑談きっかけに、突破口を開いたこともある。

夢分析が行き詰まった時には、箱庭療法を試みた。これは、砂の敷かれた箱の上に人形模型を配置していくもので、話しながら人形を動かしたり、砂の上に模様を描いたりした。うまく説明できないが、非言語的なものを明確にするのに役立った気がする。例えば「このタヌキ(の置物)は寂しくて困っている。友達がいなくて寂しそう。上下がひっくり返って困っている。悲しくて暴れている」などと比喩的な話をすることで、日常使っている言葉論理で語りたくないことを口にしていた。小さな人形を触っているうちに気分が落ち着いたり、逆にひどく動揺することがあったり、不思議経験だった。箱庭療法最初の一回も、自分心理的混乱が反映されていたのか、人形同士がにらみ合ったりひっくり返ったり無意味に積み上げられたりと、非常に張り詰めた印象のもので、カウンセラーも「ちょっと怖い」という印象を漏らしていた。

これらの技法は、ある種のきっかけというか呼び水だった気がする。どんなことを語っても許されるというか、傾聴してくれる場というのはそれだけで貴重で、話しているうちに自分の思いがけない本音や、ダブルスタンダードに気づいた。また、夢のような一見「どうでもいい」話ができる仲になることで、普通は人に話すこともはばかられるような、野外オナニー願望についても話すことができた。

治療も後半になると、こうした技法ほとんど用いず、通常の雑談に近くなった。自分はこういうことをしてこう言う結果になった。自分気持ちはこうだ。そうしたことが素直に言えない人のために、これらの技法はあるのかもしれない。

カウンセリングの進行、そこで自分はどう変化していったか

始め、自分は藁にも縋るような思いでカウンセリングを申し込んだ。と同時に、どこか疑ってもいた。自分カウンセリング技法についての基礎的な知識はあったし、大体どのようなことをされるのか予想がつくと思い込んでいた。精神分析に関するフロイト著作だって読んだことがあるし、河合隼雄の「ユング心理学入門」も読んでいた。しかし、カウンセリングの概略を知っていることと、実際にカウンセリングを受けることとは、まったく別の経験だった。水泳理論と、実際に水に入って泳ぐこと以上に隔てられている。なんといっても、何年にもわたって定期的に同じ人間と会うのだから必然的相手には強い感情を持ってしまう。結局、人間が強い感情を持つの人間に対してであり、人間が変わるのも対人関係を通してだ。

カウンセリングでは何について話すことも自由だった。幼少期の悲しみ、いじめられた経験、両親から受けた不条理仕打ちなどなど。それだけではない。女性にするべきではないとされている話もした。自分の性生活自慰行為風俗店での出来事など、自分は露悪的なまでに細部を語ったが、しっかりと耳を傾けてくれた。

そして肝心なのが、何度同じ話をしても相手は退屈する様子を見せない点だ。自分は、同じ話を繰り返すことで忘れていた細部を思い出すことがあったし、それに新しく意味付けをすることもできた。

最後に、カウンセリング時間が終わりに近づくと、カウンセラーは僕の話した内容を簡潔に言い直す。そうすると、自分はこういうことを考えていたのか、と毎度のように驚かされる。まとめられた内容を反芻しながら次の一週間を過ごすことで、自分の考えが深まっていった。他にも、自分がすべての不平不満をぶちまけた後で、それに対する解釈を投げ返されることで、その負の感情自分の一部として取り込むことができるようになった。「あなたがそこで腹を立てるのは当然だ」「あなた感覚はそれほどおかしものではない」という趣旨言葉を返してくれるだけで、自分過去を少しずつ受け入れることができるようになっていった。

カウンセリングの中で、カウンセラーを好きになること

ところで、カウンセリングに通ったのが、2014年3月から2019年8月ことなので、4年以上も同じ人と毎週のように会っていたことになる。途中から自分の気分が落ち着いてきたので隔週に切り替えたのだが、それでもかなりの頻度だ。自分は、自分のあらゆる感情や悩みをぶちまけて、それでも受け入れてくれる存在がうれしかった。モテないあまり風俗に浸っている自分軽蔑しない彼女存在が尊く思われた。

珍しくないことだが、自分カウンセラー好意を持つようになった。自分は、職業倫理上その気持ちは受け入れてもらえないことだと知ってはいたけれど、「あなた尊敬しているし、とても強い好意を持っています」と伝えた。カウンセラーからは「私もあなたと会うのが楽しみです」という趣旨の返事をもらった。と同時に、僕は、なぜこのカウンセラーが好きになったのかをじっくり考えだした。すると、自分には好きな人自分の悩みを洗いざらい吐き出したいという願望があったのだ、と気づいた。同時に、自分知的水準の高い女性に強いあこがれを持つことも改めて認識した。年齢などどうでもよかった。比較的若く見えるが、相手は五十代の人妻で、自分が手を出すわけにはいかないのだけれど、叶わない想いだとは知りながら、相手尊敬の念を持ち続けるというのは、思ったよりも悪くなかった。おかげで、自分にとって他人を好きになるとはどういうことかを言語化できたし、他人尊重することを身をもって学んだ。

一人の女性を好きになり、それを軽蔑されたり馬鹿にされたりしないこと安心感を、自分はたくさんの悩みに取り組む支えとしていった。僕は、このカウンセラーのことが好きになれて、本当によかったと今でも思っている。

カウンセリングを通じての自分認識の変化

過去のどのようなつらい経験も、自分はそれぞれ意味があったのだと、迷いなく考えられるようになった。それから、今までは様々な物事を与えられて当然だと感じていたが、やっとのことで与えられた物事感謝することを学べたように思う。

また、自分の恐れの感情トラウマにとらわれずに行動できるようになったことで、自分の外側の世界に対して、うまく働きかけることができるようになった。

もちろん、上に書いたような悩みのなかには、直接解決しなかったものもある。でも、それはそれで仕方がない、と受け入れられるようになった。

何よりも現実検討能力がついた。不安不安のままかかえておけるようになり、不安で頭が真っ白になることがほとんどなくなった。自分の中の膨大な不安エネルギーが、落ち着くべき場所を見つけたかのようだった。

上記の悩みに自分は具体的にはどんな答えを見つけていったか

悩みの解決過程言語化するのは難しい。自分の考えがどんな風に変化していったかを記すにとどめる。人によってたどるべき道のりは異なるし、僕の頭の中の理屈をそのまま文字にしても、納得できないことは十分に考えられるからだ。

過去いじめ、対人関係トラブルはとても悲しいものだった。でも、おかげで自分は人をできるだけ傷つけないようにしようと心掛けられるようになった。それと同時に、絶対に誰のことも傷つけない発言表現というのも無理だとも知った。男性であれ女性であれ、相手を一人の個人として尊敬することが大切であり、それは自分相手は異なっていると認識することだ。だから、できるだけ丁寧に接することは大切だけれども、自分他人は別の存在なので、礼儀正しくしていたとしても、絶対不快な思いをさせないでいることは不可能だ。かつての自分は、自分女性から不快な思いをさせられた経験から絶対女性を傷つけてはいけないというルール自分に課していたのだけれども、それは不可能だと知った。過度に自分を縛る目標は、ある種の呪縛だ。

それに、世間はいろんな女性がいる。優しい人、冷たい人、知的な人、ちゃらんぽらんな人。一人の女性自分暴力を振るったからと言って、そうでない人もたくさんいる。女性一般や平均的女性像みたいなものに、振り回されなくなった。

フェミニズムとの距離感もうまく取れるようになった。納得できることはうなずき、わからないことについては調べ、おかしいと思うことには反対する。それは、フェミニズムだけではない。自分とは違う考えの相手に対する対応の仕方と全く同じだ。

仕事に関しては、転職をした。自分能力に見合った仕事に切り替えることでやりがいも感じられるようになった。給与は下がったが、例えば600万稼ぐ人間が300万稼ぐ人間の2倍偉いのかといえばそういうわけでもないし、僕にとっての一番大切な価値観は、早寝早起き快食快便が守れる生活が維持できるかどうかだと知った。

男らしくないのではないか、というのも気にしなくなった。世間価値観がどうあれ、自分が好きなことを好きなようにする。自分らしくあることが自分にとって男らしいことと定義しなおした。

その中で、家族との関係改善した。今にして思えば、両親は自分と非常に適切にかかわってきてくれた気がする。圧倒的にすがりたいと思っていた両親も50~60代のただの人間なのだ、と実感することができた。しかし、ただの弱みもある人間からこそ、大事にしたく思えるようになった。距離感が適切になった気がする。

処女厨ロリコンも治った。正確には、そういう願望があることそのものに対して、思い悩まなくなった。一つには、50代の女性に恋をすることで、実際に小学生恋愛したって、物足りなくなるに決まっていると心の底から理解したというのがあるし、人生経験豊かな女性の魅力に気付いたのもある。さらに、処女厨の根源にあった、「セックスとは汚いものだ」という意識も弱まった。「セックス気持ちよいものだし、誰かを愛することは素敵なことだ」という感覚しかなかったら、処女喪失を汚れとは認識しないだろう。それよりも、出会った二人が新しく一緒に思い出を作っていくことの喜びに目が向くようになった。まだ彼女はできていないけれども、一緒にデートしたり、他愛のない話をしたり、うとうとしたりしたいし、それに向けて今でも努力している。

女子小学生の裸を見たいという感じもほとんどなくなった。確かにあの年頃の女の子かわいいけれど、それだけのことだ。どんな感情を抱こうとも人間自由だと思えるようになったことで、かえってそうしたロリコン的な願望から自由になった。

同時に、野外オナニー願望も消えた。なんというか、得体のしれないドロドロした性欲のエネルギーに、適切な形が与えられた感覚がある。よく夢で、性器露出したり全裸になったりするパターンが多かったのだけれど、カウンセラーと話すうちに「おちんちん見せるだけじゃ意味ないよね?」みたいな話になり、そうしたことを話しているうちに、セックスって相手あってのことだよね、みたいな認識に到達した(このあたりの話が非常にわかりにくいのではないかと恐れている。ラポール、とでもいうのだろうか、クライアントカウンセラーの間には、長い間の会話の積み重ねからくる膨大なコンテクストの共有があり、ある種のツーカー関係が出来上がっているので、会話だけも書き起こしても非言語的な部分が多くを占めていて、客観的にはわかりにくくなりがちだ)。

死への恐怖は、とりあえず先送りされた。これは個人的な経験だけれど、死ぬのが怖くてたまらないときというのは、何か大きな変化を恐れているときか、未知のものに飛び込まなければいけないときに強まるような感覚がある。

カウンセリングを終えたきっか

カウンセラーには日々の出来事を何でも話すことができたが、別にカウンセラーに聞いてもらわらなくても、別に大丈夫になってきた。さらに、ここで話をしても、これ以上自分は楽にはならない気がするようになってしまった。

とても感謝はしているけれども、自分自分を励ます考え方ができるようになっていて、あとは毎日出来事淡々カウンセラーに報告するだけみたいになっていた。

というのも、自分の悩みを解決できるのは、最終的には自分だと思うようになったからだ。話を聞いてもらって勇気をもらったり、現実的なアドバイスを受け取ったりすることはあったけれども、実際に行動するは他ならぬ自分なのだ

ならば、これ以上ここにいても、自分は変われないのではないか、という気がした。そして、3月という区切りのいい時期であったので、そこで終えることにした。

最後にもう一度風景構成法を行った。山には緑があふれるようになり、街には人がたくさん姿を見せるようになった。蛇は道や川のうねりへと姿を変えた。困ったときには駆け込めるような病院や、芸術を鑑賞できるような美術館も街に描かれていた。そこでは、たくさんの人々が連れ立って歩いていた。ずっと住み心地のよさそうな風景だった。

そして、僕は無事にカウンセリング卒業した。

続き→ anond:20200320072823

2020-03-05

anond:20200305061410

アートっていうのは手偏の漢字すべてだよ

人がなにか加工したものアーティフィシャルの語源

まあここでは日本人の大好きな「芸術」つまり狭いアート限定しておこう

術というのも行の部分で両手をつかっている状態を示す形象文字にすぎないんだが

日本人芸術といえば茶道みたいに(意図理解しなければただ空虚笑い種しかみえない)

儀式セレモニー)として奉ることが正当だとおもってるから

 

中世アートだってコンテクストはあり、空気読めない作者は

ミカン農園股間じわのついたミニスカート女を立たせた絵を描いたごとくにさんざんに怒られた

たとえば受胎告知というタイトルなのに聖母マリアらしき女性が青い服着てない、天使百合の花もってないなどは

いくら上手くてもけちょんけちょん、「なに考えてんの」「おまえ破門な」だ

 

しかるにこういったコンテクストによる価値づけは日本人卑近唾棄すべきとおもっている

フェミニスト価値観のほうがずっと自分の頭や感性をつかってる分芸術に近い

無知日本人は「自分が知らない・理解できないものから無条件にえらいものだろう」と奉るへんなアニミズム癖がある

二次元スカートはいてるからエロくなんてありませ~ん」もその派生

そうだな二次元萌え絵でまつ毛ばっさり深海魚あるいは0歳児みたいなデカ目に描かれてるのは神秘的で素敵だな

そして作者側もこれに積極的に乗っかっていくw

現代アートにあふれる「無題」w 

どうして無題か聞いても「おれ頭悪くてかっこいいタイトル書けないから」w

マクドナルドでふとおもいついたくだらないアイデアを発展させたものだとは

知らせない方がかっこよくみえるだろうという中二病同士のじゃれ合いw

 

漫画でゲジヒトだのノイシュシュヴァルツシルトだのドイツ語流行るのもドイツ語中学校選択できないからだ

ドイツ語がすらすら読める人にとってはなんで冠詞つけねえの変化させられねえからかなプゲラなのに

 

まあしょうがないよ 前沢氏だの麻生氏だのお金もちで芸術理解ありそうな人だってたいした基準で選んでるわけじゃない

日本にはまともな批評ができる芸術批評家がいないのだ

民衆芸術としてのアニメ映画でいいよもう

日本現代アートがあまり評価されてない理由

世界で主流になってる現代アートというのが、あまりにも日本人に身近になり過ぎてるのでは、という理由

現代アートは大雑把に言えば「高度にコンテクスト化された作品」だと思う。

あれはものに溢れる豊かな国の人が、「あえて~」することによって発生する。

継茶碗とか、枯山水とか、日本は昔から「あえて~」というのを好む。それをわびさびとか言ったりするのだが

あれは現代ではないが現代アート一種だと思う。そして歴史の中で洗練・定着している。

正直そこらの現代アートでは、その高度な文脈に勝てない。日本人現代アートを見ると、「なるほどな」以前に

「野蛮・ダサい、洗練されてない」と思ってしまう。だからまらない、というか、既に広まってるのだ。

そして逆に世間で低評価されがちな、絢爛豪華できらびやか完璧な、時に世界の人が「ダサい」と思うもの

逆に日本人は惹かれる。正直「高度なコンテクスト」とか「わびさび」とか、うんざりしている部分があるんだと思う。

背景の文脈とかなく、その時に直球で伝わる言葉、そういうのに憧れてしまうんじゃないかと思う。

でも結果的文脈を見せようとして、見せかけのレンガ造りの家とか作ってしまう。

日本現代アートが正当に評価されてない」とのたまう人は、まずその狭い視野を広げて欲しいし

同時に、日本人はその中途半端文脈を求める態度を改めるべきだと思う。出羽守が多いのも、「海外から来るには意味があるんだろう」みたいな

下手に文脈評価する性質故だと思う。

2020-02-15

anond:20200215001849

コンテクスト多様化かいうからからなくなる。あるコンテンツに対する支持不支持ポジションの取り方のバリエーションは、社会全体では(実は)全然多様化なんかしてない。

正解のない問題についてはみんながヤイヤイ好き放題言った結果、どっかで(不断に揺れ動く)妥協ラインが便宜的に引かれるだけ。

ただし好き放題といっても節度は守りましょう、あまりにも極端なキチガイじみたこという奴は無視しましょうというだけの話。一部のキチガイにばかり着目するから多様化多様化言い出す

広告ポスター女性には好きな服を着る自由はないのか?

考えてたらだんだんからなくなってきたので誰かこのもやもやに付き合ってほしい

広告ポスター女性イラスト性的魅力を強調した服を着てる: 叩かれる

・街中で女性性的魅力を強調した服を着てる: 少なくとも表立っては叩かれない。内心、はしたないとかエロいとか思ってる人はいるかもしれないけど、それを面と向かって言ったりTwitterでつぶやいたりすると言った方が悪いムード

…じゃあ近い将来、AI進歩に伴い自我を持った女性イラスト(2次元YouTuberとか?詳しくないから間違ってるかもしれないけど、思考実験として)がポスターになった時に性的魅力を強調する服を着てたらどうなるんだろうか

やっぱり叩かれるのか、それともAIにも好きな服を着る自由は認められるのか

ポスターじゃなくてホログラムだったら? アンドロイドだったら? 人間以外の表現の自由人間不快感に劣後するのだろうか

人間アンドロイドを見分けられなくなった時、はたして

みたいなことを疲れた頭で考えていた。多分最近出たセミナーで言ってた「コンテンツよりもコンテクスト重要時代が来ている」という言葉のせいなんだと思う。個人の受け止め方としてコンテクスト重要なのは実体からも納得出来るけど、そのコンテクストがどんどん多様化して他者と共有困難になる世界での線引きはどう行われるのだろうか。極力長生きして見届けたい。

2020-02-13

[] #83-3「キトゥンズ」

≪ 前

未来人の価値観理解に苦しむところもあるが、翻訳の難しさは俺たちにでも分かる問題だ。

慣用句や、詩的な表現、そういった何らかのコンテクスト要求されるとき、別の言語に変換することは困難を極める。

該当する適切な表現翻訳先の言語になければ、その時点で破綻するんだ。

そこを意訳したり省略したり、或いは開き直って直訳すれば最低限は伝わるかもしれない。

しかし、それは元の言葉に則った、厳密なものではないだろう。

ガイド時代でも試行錯誤はあったようだが、不可能という結論先延ばしにする以上の意味はなかった。

100%正しい翻訳ではない時点で、100%正しい意思疎通もありえない、ってことらしい。

「結局は翻訳という工程必要としない、新たな共通言語を開発することで対策をしたんだ」

「そういえば以前にどこかで話していたな。フエラムネ語だっけ」

「ヒューメレンゲ語じゃなかった?」

「いや、フュ○メッ△ゲ語だね」

それでも課題は残った。

共通語を用いることができない、介さな相手がいたからだ。

この場合動物である

言語のもの最適化しようが、他種がそれを用いることができない時点で、。

言葉というもの自体が、所詮はヒト向きのコミニケーション手段しかいからね」

そして、その“ヒト向けのコミニケーション手段”でもって動物と“会話”をすることは、極めてヒトの恣意的判断が介入することになる。

それは意思疎通ができているようで、実際は“分かっているつもり”の状態に近い。

しろ中途半端理解によって、新たな問題が発生する場合もある。

「つまり理念に反するんだよ。『人間尺度動物意思推し量ることは傲慢だ』という指摘が多くてね」

ガイド時代技術開発ばかり先行していると思っていたが、そういうことも考えている人も多いんだな。

自分が生きていない遥か未来ことなど大して興味もないが、俺にでも理解できる価値観が残っているようで少し安心した。

「あ~あ、つまんねえの。結局は何も分からないってことじゃねえか。未来って言っても、そんなもんかよ」

「体調を管理する機器を用いて、快・不快度などのバロメーターは分かるよ」

「その程度のことなら、俺たちの時代でもできるっての」

弟にとっては面白くない結果だったが、俺は内心これでよかったとも感じていた。

そりゃあ気にならないわけじゃない。

時々、思うことはある。

キトゥンの奴が日々をどのように世界を見て、考え、動いているのか。

理解できるかはともかく、知れるものなら知りたい。

それが、おこがましいって分かっているから、したくないだけでさ。

自分があのテの動物番組を無邪気に楽しめるタイプなら、こんな七面倒くさいことを考えなくて済んだのかもしれないが。

俺はふと、キトゥンのいる方へ視線を向けた。

……あれ、いないぞ。

恐らく日課散策に行ったのだろうが、いつもどこで何をしているんだ。

あいつの勝手とはいえ、飼い主という名分でもって把握しておくべきなのだろうか。

次 ≫

2020-02-09

増田には学ばせて頂いた

ここ最近、しばしばログインしてて

色々な議論を読んだり、参加したりしてた

それで話題になってるひろゆきハフポスト見つけて読んだ

自分男性で、炎上ポイントはあまりからなかった

ただ、色々なツイ垢とか記事ブログなどを見ていったよ

穏当な?というか、本当の意味のというか、超真っ当なこと言ってるなと思うフェミニストの人も居るね

それに、目を覆うようなワガママを繰り返してるなー、と見える人も居る

色々なタイプがいる

当たり前のハズのことを、再認識した

その過程で有り難いことに、駆け足ながらフェミニズム歴史も学んだよ

だけど、論争とか怒りに満ちたディスなどを読み解いていくと、

読み違え・取り違え、不徹底なロジック、主客の未分離、そういう事例に本当にたくさん行き当たる

とあるアカウントが真っ当に話を進めても、そこにすごい角度で噛み付いてて驚かされる

からネット論争が起こり大炎上する真の原因は、やはり、

コンテクスト認識できず主観を排せず枝葉末節について罵り合うような、

思考せず学習せず”議論”に至れていない程度の言語認識力・概念思考力の人々も、

ツールを得て議論の場に出られるようになった」

ということなんだね(まさにインターネットによる言論民主化だ)

まり、知性の問題だと理解したよ

ではどうしよう?ってなったらさ、

ツールを取り上げろ!」みたいなのはもちろん不毛で、そういうのでなく、

言論民主化の先を前向きに考えようとするなら、

次にインターネット以降の現代に求められるのは、知の民主化なんだね

バカ(失礼だが、そう呼ばせてもらおう)のままでも議論できる」方向性か、

バカバカじゃ無くなり自然議論できる」方向性

そうやってボトルネック解消を目指すのがいいんだな

というのを、最近増田を通して考えさせられたよ

当たり前すぎることなのかも知れないけどね

でも今回肚に落ちたし、それを志向しよう、って思った

偉そうだとムカつく人も居るだろうから、そしたらごめんな

でも増田というものに少し感謝しているし、書きなぐりではあるけど、

この文章が誰かのなにかのきっかけになったらいいなと思いつつポストしますよ

2020-02-07

表現の自由戦士さまに「嫌なら見るな」と言われたので、一年アニメ漫画映画ゲームに触れないよう頑張ってみた件

結論 けっこう普通に生きれた

 

理由

年々過激化、リベラルに対するバックラッシュ化するオタクコンテンツ

ウンザリする外周の議論悪辣さを競う新自由主義オタク界隈に嫌気がさしたので

また、世の中には創作物が飽和していて、いい加減「ストーリーから離れたくなった

ちょっと創作物ヴィーガンにでもなってみようと思ったのがきっか

ちなみに学生時代けいおんイカ娘が大好きだった元オタク

 

推移

 

アニメ漫画 

まずアニメ漫画をやめた これは結構簡単だった 

そもそもラブライブかいコンテンツにお熱だった俺は

ミューズ事実上死んでからというものアニメ漫画いまいちハマれなかった

社会人になるとアニメ漫画が楽しめなくなると言うのもあるのかも

この機にスパっとやめてみようと愛用のヴィエラを質に入れた

テレビのものを手放した時、「あ、これニュースも見れねえな」と気づいた

まあバラエティやらは既に一切見てないという御仁もおられるだろう

ニュースネット代用ドキュメンタリーもSVODで見れた

 

開始三ヶ月くらいは「流行に遅れてる」という焦燥感もあるだろうが

これは心配しなくていい 一般人は思ったよりもアニメ漫画を見ていないので

 

次に映画 

これも割と楽

邦画邦ドラはいうまでもなくゴミの山なので、そもそも見てない人は沢山いるだろう 

洋ドラは同じことの繰り返しなの簡単に離れられた

モノコンテンツは一般的に、アニメ漫画より高めの12歳当たりの知能をターゲット創作しているらしい

実のとこ、アニメ漫画と大して変わらない程度の低さ、時代考証杜撰さがあったりする

(特にネトフリのドラマは酷い ほとんどが間だったり、引き伸ばしの為の人間ドラマばかり)

 

洋画はなかなか離れられなかったので、まずハリウッド脚本術の本を取り

そこでコンテンツの骨子を研究した

どんなに斬新な映画にも、シンデレラ曲線やいくつかの型の複合技であることに気づき

作品陳腐化させることに成功し 今は数か月に一本が関の山となってる

(昨年に至ってはアベンジャーズしか見なかった)

また、新作映画も2000円と高価なのでわざわざ映画館に行くことは無くなった

 

ゲーム

正直な話、ゲームはやめられなかった

(といってもストーリーものJRPGなどはプレイしてないが)

APEXやスマブラなど、対戦系のゲームはたいしてアレでもないのでノーカン扱いにした

そもそもゲームコンテンツの規模的に発売される頻度も少なく 

アニメ漫画みたいに一か月に何本も消費出来る創作物ではないのでちょっと判断甘い

 

 

結果としては対戦ゲーム以外はやめられた

ゲームは娯楽の王」という考え方にも頷ける

受動的な映像作品スキップできないのが辛い

ゲームは「ゲーム性」と「物語性」の二つの評価軸を持てるので

物語がややオフェンシブでもスキップすれば我慢できる(BOTWは特にそうだった)が

受動コンテンツゲームではなく、物語性を楽しむしかないので

故に好き嫌いが分かれる感覚がある

 

創作物離れすることによる弊害として

教養が無くなるという主張もあるが

自分場合、そこは土日に図書館に通って、

暇つぶし適当な専門書や小説(当然だがラノベは除外)を読んだり

しろアニメ漫画を嗜んでた頃よりも教養がついた感じがある

また、海外YouTube動画などは結構専門的な動画があったりするので

それを酒のつまみに見るのが丁度良かったりする

 

ゲームだけは離れられたことを鑑みて、プログラミング勉強をすることにしたり

暇をつぶすためにインドアな娯楽以外を調査したりと

案外、映像コンテンツ漬けだった頃よりも有意義時間を過ごせることに気が付いた

 

デメリットとしては映像作品価値を見出すことが難しくなった

例えばオタクがやたら「このアニメ凄いよ!」とゴリ押ししてるモノをちょっとだけ見ると

おそらくそれには数か月前のアニメ漫画コンテクストが関わってるパターンが多いので

こっちとしては何が面白いのか分からないという事態になる

ジョジョネタを嬉々として使う作品を見る時のうすら寒さ、というべきか

子供の頃、両親が自分の好きな娯楽を楽しんでくれない時があっただろう

それと同じような状態

よく言えば客観的、悪く言えば無理解思考になる

創作物自分アイデンティティとまで言い切るオタク

そうでない一般人とで軋轢が生まれるのも無理は無い

 

パーセントとは言わずとも、段階的に創作物の消費を抑えていくことは

悪化する大衆メンタリティや、加熱する競争にたいする抵抗になり得るのではないだろうか

2020-02-03

宇崎ちゃんポスター問題赤十字ガイドライン予想

件の献血ポスター

俺はどっちも問題ないと思っているけど、もしガイドライン制定担当者になったらどうするか?

第一https://urbanlife.tokyo/post/22892/

第二弾 https://www.huffingtonpost.jp/entry/uzaki-chan_jp_5e366317c5b69a19a4b084b7

俺が見たかぎり、批判者が言いたいのは「表情」と「ピチピチの服」だろ。

1つめ、「表情」についてはかなり難しい。

批判者が第一弾の表情を「アヘ顔」と呼んでいるのを見たが、これは断じてアヘ顔」ではない。

wikipediaによれば

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%98%E9%A1%94

アヘ顔とは「性行為最中における架空キャラクターの表情を表現した日本ポルノ用語

なのだ。つまり、性行為というコンテクストがないと成立しない表現なワケだ。

宇崎ちゃんの顔は「先輩を煽るウザい顔」である、というコンテクスト理解していれば

全く性的表現では無いと言えるので、「アヘ顔」論者は「アヘ顔」の意味を誤解していないか

コンテクスト理解不足と考えられる。

しか問題もある。

A. 批判者は、コンテクスト理解しないと批判してはいけないのか?

B. コンテクストを誤魔化した性的表現は許されるのか?

AについてはYES批判者はコンテクスト理解すべきだ。

BについてはNO、ただし「明文化および規制はできない」だと考える。

まずAについて。

悪意なきコンテクスト理解しないことによる解釈の違いとは「勘違い」と言い換えることができる。

人間感性は本当に様々で、勘違いが発生しない表現など不可能だ。

これを突き詰めると、女体の下半身に見える根菜を売っている八百屋猥褻物陳列罪にあたるか?

という話にさえ及びかねない。

まりコンテクスト理解すれば問題無い表現に関しては、素直に矛を収めるべきだ。

Bについて。

「悪意なきコンテクスト」と書いたが、実際には脱法的ハイコンテクスト悪用している2次元作品存在する。

例を挙げると、アンサイクロペディアにさえネタにされる「エロゲー登場人物18以上」問題だ。

https://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E7%99%BB%E5%A0%B4%E4%BA%BA%E7%89%A9%E3%81%AF18%E6%AD%B3%E4%BB%A5%E4%B8%8A

(断っておくと、俺はそもそも非実在児童ポルノ規制には反対だが、分かりやすいので例示する)

これは18歳未満との性交を避ける業界自主規制に関するエクスキューズなのだが、

ランドセルしょって成年です」はねぇよと思いつつ、設定次第でどうとでもなるので

コンテクストに基づく明確な判断不可能

かといって、見た目で判断となると「この絵は幼く見える」という絵柄魔女狩りが始まるのは目に見えているので規制すべきではない。

それでも、「悪意ある脱法」だと確信するなら、根拠を示して堂々と批判すべきだ。

極端な例として、エロ漫画コマを寄せ集めた「アヘ顔Tシャツ」なるものちょっと前に話題になった。

エロ大丈夫な人は検索してね)

これを街中で着ていたら、紛うことな環境セクハラだと思うが、

着ている人に「別に裸が写っているわけじゃないし表情だけで判断できないよね?」と言われたら?

安心してほしいが、ネットを見る限りほとんどのオタクはこのTシャツドン引きしてたし、

エロ漫画家が描いたエロ漫画の1コマ」というコンテクストを考えれば客観的批判正統性が保たれる。

つまるところ、ハイコンテクストコンテンツガイドラインによって規制するのは困難である

本当に問題のある表現赤十字のような公的組織採用した場合

その根拠も添えて批判すべきであり、根拠が正統ならオタク含めて大衆批判に晒されるであろう、と俺は思う。

2つめ、「ピチピチの服」は理解できるし、まだシンプルだが基準を作るとなると話は別だ。

第一弾のイラストを見ると、確かに乳房付近は他の上半身部分に比べて

シワひとつない、ぱっつんぱっつんだ。

漫画コンテクストを考えても胸の大きさがキャラクター性の1つとなっており

女性的な胸部を強調した表現であることは否定し難い。

巨乳から隠せない、仕方ない」という意見もあるだろうが

漫画公共ポスターという性質の違いを考えると、確かに適切な表現は変わってくるだろう。

例えるなら、同じ巨乳女性でもパーティ葬式では着る服が変わってくるようなものだ。

ここで俺は、ガイドライン担当者として、その線引きを考える。

「ピチピチはダメ」「乳袋ダメ

これでは曖昧すぎる。

第二弾を見るに「上着羽織っていること」?

巨乳がわからないようなデザインにすること」?

これでは巨乳女性ファッション社会通念的に制限することに繋がらないか

まだ水着とかなら非日常的だし、「肌の露出度が」「局部の際どさが」と言えるだろうが

そもそも「ピチピチの服」=「性的」と定義して良いのか?個人性癖では?という問題にさえいきつく。

これは俺個人の予想だが、カフェバイトウェイトレス制服である

= 宇崎ちゃん個人ファッションではなく着せられている

= ステレオタイプ女性店員に対する性的消費表現

批判者は捉えているのではないだろうか。

興味深いことに、コンテクスト理解していない批判者がいる一方で、

そのコンテクスト批判材料にしているようにも見える。

さて、俺は悩みつつも、仕事なのであえて明文化するなら

女性の胸部を過度に強調した表現を控える」とだけ書くだろう。

前述したように明確な基準を作るのは不可能なので、このように曖昧表現をするしかない。

おそらくすぐに形骸化するだろうがやむを得ない。

また可能ならば「女性の体型自体問題としない」と併記すべきだ。

筋肉を強調した表現」と「マッチョ表現」を描きわける難しさを考えて欲しい。

いろいろ書き殴ったが、批判者の目線に立つとやはり「何か言いたいが曖昧批判せざるを得ない」気持ちはわかる。

批判者、反論者双方とも、「こんな意見もある」と捉えてお互いの領分を犯さない程度で収めるべき問題だと感じた。

批判者はこれだけ反論が出るのは「セクハラに対する男性の不理解」だけが原因ではないと考え、安易規制論に走るべきではないし

反論者は見慣れた表現でも見る人によっては不快になるデリケート問題だと理解すべきだろう。

2020-01-25

テンプレ描写記号的に想像するのも

詳細な描写から想像するのも

必要想像力は変わらない

行間を読むなんてのは依存したコンテクストを読む能力なんだからフラグから流れを読むのと変わらん

2020-01-10

anond:20200110101506

データの物量で解消できそうだけどな。

「俺はうなぎだ。」みたいな前後コンテクストがない文でも事前分布で大まかに適切な翻訳は選べるし。

2020-01-09

anond:20200108232756

2010年ツイッターが出回り始めたころですね。

SNSなんて概念がそこあたりからじゃないでしょうか。

当時はSEOが幅を利かせていてまだ固定ページが情報発信の何たるかを示していましたがSNSをはじめとする「ネット上にデータを散らかしておけばどこかにバズる」というプラットホームの拡大に移行したのでしょう。

個人アカウント以外に拠点を築かなくなって実質個人プラットホームアカウントという鍵にまで縮小というか消滅することによって境界が同時に消滅情報の発信が情報の力量でのみ測られるようになったように見受けられます

できるだけ強いことを大きいことを騒がれる事を発信したもの情報単体として力量を認められるようになってきました。

情報のもの」の質量情報価値を決められるようなそれまでのネット利用者にとって望ましい時節が来たように見えました。

SEOいか品質が良くてもくだらないLPを張りまくったほうが上位になっていたことに不満のあった人にとっては望みの形になったのかもしれません。

しか炎上ねらいといったアプローチ小学生に受けるというだけのほうが視聴数が稼げるというビジネスでその好機を探っていた人にはまったく必要のない方向へ流れたように思えます

つい最近の潮流として旧ネットユーザーネットとはなんたるかをそのSEO時代に撒き戻すべくとするような意志を感じさせる「コンテクスト」の連呼がありました。

プラットホームとなる情報基盤を以てしてネットという単発でも手軽にも情報を接種できるメディアをつかって、自己プラットホームに落とし込むべきだというような流れでした。

ツイッター議論に向かないとよく言及される「局面で表示された文字に対してのみ意見する」というものがあります

コンテクスト連呼は結果としてクソリプだとかを発露することになる短プラットホーム情報体へ移行を決意するための最後のあがきだったのかもしれません。

現在パソコンという手続きの多い機械などを介さなくてもアイコンクリックで大量の情報アップロードできます

有象無象ユーザータピオカだのと情報を積層して自己を反映させなくても参加することに満足するという構造に至っている姿はコンテキストを省くと過去「将来やってくる無機質な機械人間世界」に似ているかもしれません。

当時の作品未来人の描画がはっきりしていないためコナン君の黒い人のような「状況をつくりあげるその他の人たち」を描いた結果構成部品としての描写だったのかもしれませんが、結果として情報の強度で強さがはかれるようになるとよく似た光景みえます

親や出生や地の利タイミング、運でコンテクストを築き上げてその高みから無駄情報でもありがたいとされていた過去から、単発的に効果や影響がでる価値に移行するのは情報社会としては望ましいのかもしれません。

しか現実的投資予算、予定や計画評価価値づけについて、過去のものはすでに価値はなく次に取り組む行動に効果がまったく予測できないとなると資本主義的な構造の多くがほころぶかもしれません。

無知で元気のいい若者は単発的で過激情報の発信で成功していくでしょうし、それを支える社会構造労働者はひどくみじめな環境から脱することが困難になるかもしれません。

実際の問題として産業経済の基礎的な構造がなければ継続的社会は望めないわけですが、若者がみんなキリギリスになり老人が生きているかぎり蟻として支えることになりそうに思えます

どうでもいいことなんですが、ものごとはなんでも変化していくものなので、おじさんたちも変化していっていいと思います

未来を語るのにいくらでも言葉だけで、いまの若者が奔放にそうしているようにすればいいと思いますが、おじさんはおじさんなりに累積した過去をかたるのであれば若者の夢をかたるそれと同じではなくしっかりした物理的に根拠なしたものコンテキストをもってしてするのがよいのではないかとおもいます

2020-01-05

anond:20200105094449

外付けメモリでも通じるしなんならBUFFALOのアレでも通じるやで

コンテクストってヤツや

2019-11-25

@Ohsaworks 氏の発言をさして問題だと思えなかった

さて、おおさわーくすこと大澤氏が燃えている。ここでもまとめられているように、

今回の一連の発言の中でもっと問題が明確なのは11月20日午前11:12の以下のツイートです。「弊社 Daisy では中国人採用しません」。なおこのツイートには11月24日18時時点で、318件のリツイートがなされ、511件のいいねがついています

https://twitter.com/Ohsaworks/status/1196974667422035968

続いて同日午後1:21には、他のアカウントから批判を受けて以下のようにツイート。「中国人パフォーマンス低いので営利企業じゃ使えないっすね」。

https://twitter.com/Ohsaworks/status/1197007069464842240

同日午後2:02には、さらに別のアカウントから批判を受けて「そもそも中国人って時点で面接に呼びません。書類で落とします。」とツイート。これは460件リツイートされ、385件のいいねが付いています

https://twitter.com/Ohsaworks/status/1197017322185052161

という発言問題視されてのことである最初に見た時、これはめちゃくちゃな発言であり、こんなことをいう人間が身近にいたら絶対にお付き合いしたくないと感じた。しかし、『とんでもない差別許すまじ』とか『東大マネックスに訴えて直ちにやめさせるべき』ということは思わなかったのだ。今となっては直ちに訴えるべきであったなあと思っているのだが、自戒も込めて、なぜすぐにそう思えなかったかということを書き記しておきたい。

理由1. 学環周り・出身者に人格能力一定ラインに達していないと思しき教員複数名いること

『学環』といって一括りにするのは間違っていることは百も承知であるのだが、あえて言わせてもらうと、一部学環関係者レベルの低さは底が抜けているように思う。私学のお飾り教授よりもはるかにひどい例が散見される。例えば大澤氏を除いて学環出身者で最も有名なのは落合某だと思うけれど、彼は知りもしない社会科学しょっちゅうくちばしを突っ込んでいる。本業で何をやっているのか全く知らないけれど、他の分野のサイエンスちゃんと敬意を払えない人間がまともな教育を受けてまともな研究をできているはずがない。あとしばらく前に炎上したのは『様』付けメールをもらってTwitterでぶちぎれていた伊東乾教授という職業を己を飾るアクセサリーの一つ程度にしか考えていないことが明々白々である。あともう一人、個人的比較的近くで見たことのある教授がいる。その人のグループが呼んだ講演者セミナー要旨を見たことがあるが、完全に論理関係破綻していた。論理関係破綻しているというのは屁理屈とかそういうレベルではなく、モーダスポネンスや三段論法が成り立っていないとかそういうような次元の話である高校生ですらもう少しまともな文章が書けるだろうなと思ったことを記憶している。もちろん、この講演者けがヤバかったわけではなく、その人のグループ構成員セミナーも後で見たが論理関係が完全に壊れていた。『情報』と名付けるからにはカリーハワード同型くらい教えてみてほしい。

というような感じで、見聞きした関係者アカデミアにいる人々が全員、自己顕示欲に比べ人格能力釣り合っていないように思え、今更そのサンプルが増えたところで、すでに感覚がマヒしており別に何とも感じなかった。学環の一部関係者のせいで、増田のような外部者からは学環周りの風評はすでに地に堕ちており、今更東大被害を与えるというようなことも想像できなかった。

理由2. 発言意味不明すぎて取り合う意味すら感じなかった

問題視されている発言のもととなっているのは、例えば「中国人パフォーマンス低い」というような話である事実ではないことは明らかである。『人種信条性別社会的身分又は門地』とその人間能力は全く関係がない。こんなことは幼稚園児でもわかることである。ましてや2-30年も生きていれば優れた中国人プログラマーなんていくらでも心当たりがあるだろう。正直ばかばかしすぎて、まともにとらえる気にもならなかった。大体がそもそもこのような根拠もクソもない妄言を吐く人間がまともであるはずがないし、それは彼のHTTPS周りの発言からも明らかである。まともでない人間のやっているまともでない会社に雇ってもらう機会を逸したところで痛くも痒くもないのではないか。そう思っていた。

しかし、それはどうやら増田日本人他人事からそう感じただけらしい。よくネトウヨキッズが言うような『俺がお前の立場なら事実を言われても何も思わないけど?』という論理にはまってしまっていたのだと思う。そもそも考えてみれば『未踏スーパークリエーター』で『東大准教授』の発言である。ある種の権威圧力をもって聞こえる可能性はあるわけだ。増田なんかはそもそも学環というだけで権威性に-infinityのゲタをかませているのだけど、世間的にはそんなこと関係がないだろう。上に書いたようにあまりにもばかばかしすぎて扇動にすら聞こえなかったのだが、『学環』とか『イキリ倒してる人』とかそういうバイアスを外して、「東大准教授中国人能力統計的に低いと発言した」と言えばその問題点は明らかであった。

結論


というわけで、バイアスがあったりすると人間はどうも問題矮小化して捉えてしまいがちであるらしい、というお話だった。まあよくよく考えてみるとこういう事象政治家発言とかでもしばしばあって、安部麻生がどんな妄言を吐いても国民スルーしてしまうのに似ていなくもないかなと思った。

あと東京大学は大澤氏をパージするのはいいんだけど学環全体をお掃除してください。まじめにやっている人たちが(いるのだとは思いますが)かわいそうです。

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