はてなキーワード: 戦地とは
勝ち目のない戦いを続けても死ぬだけ。
実際その通りだと思うんだよね。
ロシアの支配下になっても庶民の生活はそう変わらないでしょ。中国人だってロシア人だってまあまあ幸せに生きてるよ。
じゃあウクライナの誰がロシアに負けたら困るかと言うと、まあ支配者層だよね。政治家とか財閥とか。そいつらがプロパガンダでロシアに支配されるなんてまっぴらというアピールを行い、ウクライナの国民や他の国々が煽動されてる。
日本の戦争もこれだったよね。国がなくなって本当に困るのは支配者層だけ。支配者層の権力維持のために庶民が戦地に送られるのが戦争(でも実際のところアメリカに支配されて財閥は解体されたけどやつらは君臨し続けたよね。結局新しい支配者が来たところでそれまでの支配構造をまるきり変えるまでにはなかなか至らないんだよね)。そういう現実を目の当たりにして、戦力放棄戦争放棄を固辞するものとして70年くらい生きてきたのに私達はもう忘れようとしている。国体護持が大事なんだと思わされようとしている。
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB098BF0Z01C22A2000000/
君の人生を困難にしているのは、
学習障害があって文章の意図が読みにくいか、言語化能力が弱すぎるから調べ物が出来ないこと
知的な困難があるならゆっくりペースで成長してるんだな、自分の独自の世界の話をしているんだなって思うけど、どうなん?
戦時中において、一部の個人が特殊な手段を使って兵役を回避しようとしたという報道や記録が存在します。その中には醤油を飲んで「貧血状態」を装い、兵役を回避しようとしたという報告もあるようです。
当時の日本では、戦争による兵力不足から徴兵が厳しく実施されていました。兵役を回避するためには、健康上の問題を装ったり、裕福な家庭であればお金を使って兵役を免除されることもあったとされています。これらの行為は違法であり、社会的にも非難される行為であることは言及しておきます。
戦時中の日本において、一部の支配階級や裕福な人々が軽井沢などのリゾート地でパーティーをしていたという記録や報道があります。当時、日本は太平洋戦争を戦っており、国内は厳しい経済状況や食料不足、空襲などの戦争の影響を受けていましたが、一部の富裕層はそれらの影響を比較的受けにくい状況にあったため、リゾート地での贅沢な生活を楽しむことがあったとされています。
軽井沢は、夏涼しく過ごしやすい気候と美しい自然があり、戦前から日本の上流階級や外交官、外国人などが避暑地や保養地として訪れることが多かった場所です。戦争が進行していた時期でも、一部の特権階級の人々は軽井沢での生活を続けていたという記録があります。
これらの情報は歴史的な資料や回想録、報道などによって裏付けられていますが、一部の特権階級の行動が全体の状況を反映しているわけではありません。当時の社会は戦争の厳しい状況により多くの人々が苦しんでいたため、特権階級がリゾート地での贅沢な生活を楽しんでいたことは一般の市民にとっては不平等や不公平な状況として捉えられることもあるでしょう。
白洲次郎(しらす じろう)は、日本の外交官であり、戦後には評論家としても知られる人物です。彼は戦時中、外務省の要職にあったが、病気を装って徴兵逃れをしたとされる代表的な例の一つです。
白洲次郎は、日本が太平洋戦争に突入した時点で、外務省の官僚として国内の情勢や国際的な状況をよく理解していました。しかし、自らが体験した第一次世界大戦の戦場での経験や戦争の悲惨さを胸に抱え、戦争への反対や人道的な理由から徴兵逃れを試みたとされています。
白洲次郎は、病気を装って入院したり、療養の名目で兵役を免除されるように働きかけたりしたと言われています。彼はその後、戦後の日本の外交政策に大きな影響を与える存在となりました。
徴兵制について。昭和2年(1927)までは、お金を払って兵役期間を短縮できる制度がありました。もっと前は兵役免除となる時期もありました。こちらは入営中の経費を負担することで2年の兵役を1年にする一年志願兵への申請書類と選考結果。現在の長野県塩尻市の方です。
信州戦争資料センター
太平洋戦争ですが、私の知ってる金持ちは、誰も戦争に行ってませんが、何か方法があったのですか?
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10158993500
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うちの父も、自らの口で語ってますが「軍部にお金を積んだ」そうです。
最初は、暗号解読とか、通訳の口を狙っていましたが、御殿場の練兵場で終戦です。
食べ物も、ウラから手に入れ、飢えた思いをしたことはないそうです。
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それだけで本が書けるほど。
結果として単純に徴兵に応じたのは
①何も知らない人
②親にカネがなかった
④みんな仲間だからと、抜け駆けはできない人
など。
詳細は省きますが、ウチの親の場合、満洲の炭鉱の課長なので「徴用」扱いで最後まで赤紙は来ませんでした。
叔父は馬の専門家で「軍医」として戦地には赴きましたが、ずっと後方です。
親戚には陸大を卒業し、陸軍中枢の参謀本部勤務のまま終戦を迎えた人もいます。
知人は臨床検査技師で、衛生兵を希望し、最後はシベリア経由で帰ってきました。
著名な作家の多くは、結核の既往歴で徴兵免除になったか、さもなければ報道班の「徴用」で南方に行っただけ。
勉強し過ぎの学徒上がりは、視力不足では鉄砲が打てないと大幅に順位を下げられ、
診断書に手心を加えてもらった金持ちの子弟、自傷して障碍者になった者、わざわざ犯罪を犯して自首したもの(懲役以上の受刑者は徴兵の対象外)、良心的兵役拒否で最後まで出頭に応じなかった、等やり方は無数にあります。
私は高校生の時から、今徴兵が来たらどうするか、そればかり考えて行動していたのでやたら詳しくなりましたが、今後のお勧めは、コンピューターの腕を磨いて、資格をとって、徴兵されても後方勤務になるよう工作するのが一番簡単でしょうね。
確かに日本は「唯一の被爆国」だ。だが、1945年3月には「東京大空襲」があり、国会議事堂や最高裁判所が爆撃されただけでなく、10万人以上が亡くなっている。このときに何故戦争を終結させられなかったのか。何故反戦運動が起きなかったのか。本土決戦を覚悟していたわりに何故あっさりGHQの占領を受け入れ、寧ろ喜んだのか。結局、1945年4月~8月の期間に戦争を継続した意義はあったのか。「過ちは繰返しませぬから」も良いが、もう少し自分たちの弱さを直視したほうが良いのでは?未だに公共放送が芸能事務所創業者のスキャンダルを報道するのにもここまでコストが掛かるのを見ると、多くの報道機関が談合しているのを見ると、他の国ならば1945年3月には戦争終わらせることが出来たのでは、もっと早くに戦争終わらせること出来たのでは、というかそもそも開戦しなかったのでは、とか思ったり思わなかったり。
【追記】
・1944年頃から講話に向けた動きがあった、1945年2月には「近衛上奏文」があった
で、結局当時の一般の日本人は何をしていたのか? 自分の子供を戦地に無邪気に供給していただけなのでは?
日本人しか興味なさそうな言葉の定義に関する議論お疲れ様です。
何故隠蔽されてきたのか、報道機関は「忖度」していたのか、とかは興味がある。日本みたいに芸能事務所や広告代理店がメディアをハックしている事例とかも調べれば他国にあるのだろうか。
夫が戦地で必死に戦って死んだのに、妻はとっとと死んだ夫との「正統な大和人の」子供を捨てて夫を殺した白人の米軍兵に股開いてアヘアヘヨガって「混ざり物の」あいのこ産んでんだから
これを読んで心底腹が立ち絶望しこの世に怒りと虚しさを抱いた。
この国の女はすぐに外国人に股開くろくでなしの動物しかいない。
今に始まったことじゃない。戦後すぐだって夫が戦地で必死に戦って死んだのに、妻はとっとと死んだ夫との「正統な大和人の」子供を捨てて夫を殺した白人の米軍兵に股開いてアヘアヘヨガって「混ざり物の」あいのこ産んでんだからマジで報われないよな。
俺は未だに子供どころか、結婚も付き合ったこともデートしたこともない。
でも、もし俺が白人に生まれてたら違かったんだろうな。都内のクソバカ私大に留学して「ニホンショクスキデスー。アニメスキデスー」って言いながらその辺のクソジャップメスに声かけまくってたらヤリまくれたんだろう。あいのこも産ませ放題で責任も取らなくていい。
俺のこと振った同級生もサークルの後輩もバイトの同期も会社の同期も、俺が白人だったら「コニチワ〜」って言うだけでアヘアヘヨガって無責任生中出し出産プレイさせてくれたんだろうな。
マジでこの世はクソだわ。ゴールデンウィークだっていうのに憂鬱な気分になった。
てかマジで、テレビとかで父親白人男性、母親メスジャップの混ざり物タレントや女優、モデルに仕事させんなよ。その度に不快になるんじゃボケ。
皆様は、何が楽しくて生きてますか?
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自分語りさせてください。
自分はほどほどに太い実家で育った。両親は毒親ではなく、むしろ愛情を受けて育ったと思う。
おかげで良い大学にも行けた。
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でも人生が楽しくない。
楽しくないと言ったら語弊があるかもしれない。
飲み会行ったとき、旅行行ったとき、美味しいご飯を食べたとき、寝てるとき、セックスしたとき。
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でも楽しくないことの方が断然多い。
別にパワハラされているわけではないし、深夜まで働いていることもない。
でも、起きるのめんどくさいし、業務もめんどくさいし、帰ったら何のために今日一日頑張ったのだろうかと虚無になる。
給料日には気分も上がるが、すぐ使い果たすだけ。
この繰り返しの毎日。
この苦痛が、あと数十年続くと思うと本当につらい気持ちになる。
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じゃあベンチャーにでも行ってやりがいのある仕事にでもつけば良いじゃん、とか言われる。
でもやりがいのある仕事なんてないと思ってる。今までの人生全部そうだった。最初は楽しくても、すぐに飽きる。
しかも自分は男だ。将来誰かを養わないといけないかもしれない。短いスパンで転職を繰り返して、家族に心配をかけたくない。
それだったら、大企業で安定した職について、そこそこに高いお給料をいただいていたい。
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楽しいことより、楽しくないことの方が多い。楽しさの関数を積分したら、かなり負の値を取る感覚がある。
死んだ方が楽しいと思う。
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代わりに病気になってあげたいと思う。
代わりに戦地に赴きたいと思う。
毒親に育てられた人を見ると心が痛くなる。
代わりにサンドバッグになりたいと思う。
でも、ドナーになる勇気もなければ、志願兵になる勇気もなければ、毒親を注意する勇気もない。
自分は「代わりに〇〇してあげたい」のではないことに気づく。死にたいだけなんだ。
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よく、なぜ生きてるのか考える。
(あと、親は悲しませなくない。)
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このように考えるようになったのは最近に限った話ではない。なので、仕事のせいではないのかもしれない。
記憶がある限りは、小学校高学年くらいからはそう思うようになってた。
(再三だが、親は優しかった。虐められることもなかった。だから、発育環境のせいではない。 )
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恵まれているのに、このように考えてしまうのは捉え方の問題なんだと思う。
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精神科にも行った。薬も飲んだ。認知療法的なのも試した。でも、頭で考えて、しっかり結論が出てるから考えが治らない。
どうしたら良いのだろう。
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皆様は、何が楽しくて生きていますか?
いやホント税金高くしたりしてマジでろくでもないのに、マジで武の方で納得させられそうになるの昔の武将かよって感じはする。
戦地であっても向かっていくような外交も死を逃れられる運も立派な武だと思う。
現代社会で力を行使するのは行き過ぎでよっぽどのことがない限り悪になっちゃうから、よっぽどのことがあったゼレンスキーですら疑われまくってんのに。
だから今日本が使える武って外交力、政治力、そして運なんだよな。平和だからこそ大きな流れを読み取ったり感じ取ったり何故か乗せられたりする力が必要になるというか。
後は国民が金使いたくなれば本当はいいんだけど、金使えば使う程に外国に流れていくかもしれないならタンス貯金増やさせて必要な時に税金として出させた方が良いのか…?とか思ってしまう。
約600万人ってのが信じられなくてさ
でも昔の資料はまともなのに最近の資料ほど分かんなくなるんだよね
タブーなんだろうねもう、日本での南京事件を100倍繊細にしたような話題
wikipedia見ると
マーティン・ギルバートはドイツのホロコーストによって、730万のユダヤ人のうち570万(人口の78%)が犠牲になったとしている。他に、490万から600万にいたる推算がある
人口の8割を逃さず1人ずつちゃんと処理していくみたいな作業を600万人分はきついよと
戦地に送って死んだとかならまだわかるんだけどね
600万人は途方もない作業だ
調べるとわかるのはアウシュビッツの犠牲者が誇張されてるのと、アウシュビッツの収容者が全部ユダヤ人だったかどうかみたいな話
発表したのは当時のソ連だそうで
まあ多くて100万人台じゃね、という声がそこそこ見つかる
まあでも現代人的にはポリコレ配慮して600万人!!って言うんだろうね、少なかったとか言うとネオナチか!?歴史修正主義だ!って言われるから
気持ち悪い
「“おひとりさまの教祖”上野千鶴子(74)が入籍していた」という報道で、言行不一致だというバッシングが起きている
上野の著書をきちんと読めば言行不一致ではないという指摘もあるようだが、「愛する人と契りたいのは人情からしょうがない」とか「政治的な主張と個人の人生は別」という、言行不一致そのものへの擁護まで出てくるのはさすがにおかしくないか?
人前では「若者はお国のために戦争に行って死になさい」と言いながら、こっそり自分の息子だけ兵役から除外させるような奴がいたとしたら、それは自分の言葉に対してあまりにも無責任だと思うんだよな
少なくとも「私は若者に戦争へ行けと言いましたが、自分の息子は戦地に送れませんでした」とはっきり宣言するべきだと思う
「若者はお国のために戦争に行って死になさい」という言葉の正しさを信じようとするあまり、ヤミの兵役逃れを擁護するようでは本末転倒ではないか
2月初頭に始まったロシア軍の冬季攻勢について簡略にまとめる。ロシア軍の冬季攻勢は本格的な戦線の突破を意識したものではあったが、早い段階で頓挫してしまった。そこで、当初の方針を転換し、ウクライナ軍に対する複数の戦術の試行と、ウクライナ軍の損耗を強要することで春季攻勢を阻止するよう目標を変更し継続しているものである。
この区間ではウクライナ軍の秋のハルキウ攻勢によりドネツ川の支流であるオスキル川とクラスナ川にはさまれた南北100km、東西30km 程度の区間が戦場になっている。
北側では国境からクピヤンスクまではほとんど東西の動きはなく、中部のスヴァトヴェ、南部のクレミンナを目指してウクライナ軍が攻勢を仕掛けていたところへロシア軍が逆襲する形で冬季攻勢が始まった。この区間でのロシア軍の攻勢は空挺軍と機械化歩兵師団からなる比較的優良装備で長期の休息を経たエリート部隊が先鋒を務め、その左右を動員兵により増強されたその他の部隊が固めるという構図を取っている。
有力な部隊を攻勢の主力とすること自体は教範に則ったものである一方で、ロシア軍としては開戦直後の拙劣な作戦により最新鋭の装備と人員を損耗しており、無駄遣いはできないものであるから、有力なウクライナ軍部隊を相手に正攻法でどこまで攻勢を維持できるかは不透明な要素が多かった。一方で、この戦線に展開するウクライナ軍部隊を包囲撃滅できれば今後の北部戦線を有利に進められる利点もあった。
ロシア軍のこの方面での当初作戦計画は以下のようなものであった。まず、ウクライナ軍に対してクレミンナ正面で突破作戦を行い、主力は30km 西進してリマンに到達する。この時、クレミンナ周辺やドネツ川沿いの森林地帯に展開するウクライナ軍は後続の部隊により拘束するにとどめる。次に、突破した主力はオスキル川沿いに北上し、やや遅れてクピヤンスク周辺の部隊をオスキル川沿いに南下させることで、スヴァトヴェ周辺のウクライナ軍を両翼包囲する。この作戦が成功すればウクライナ軍数個旅団を包囲することができる。また、仮に突破がうまくいかなくともクレミンナ西方20km 地点のトルスケまで到達できればクレミンナ周辺のウクライナ軍を退却に追い込めるとの計算であった。
実際にはウクライナ軍の防御陣地が想定以上に堅牢でトルスケに到達する前に攻勢限界を迎えてしまい、ロシア軍部隊は当面確保した地域を維持する方針に転換している。
激戦地として知られるバフムットを含む戦線であり、この地域では11月よりワグネルを主力とする部隊による攻勢が行われてきた。ここでロシア軍が試行した戦術は、シリアなどで採用されてきたハイローミックス戦術である。すなわち、大量の低練度の部隊を投入して敵を消耗させ、また守備位置を暴露させたのち、少数の精鋭部隊により突破を行うというものである。
この戦術の利点として、エリート部隊の損害は最小限に抑えながら確実に戦果を挙げられるというものが挙げられる。一方で、この戦術は最初に投入される低練度の部隊は大きな損害を被る欠点がある。シリアなどでは現地の民兵などが担わされており、また相手となる反乱軍部隊も装備や練度がさほど高くなかったためにロシアにとってはさほど問題とはならなかった。しかし、ウクライナ軍のようなより装備が整い士気も高い部隊相手にこの戦術は損害が大きすぎた。ワグネルも、当初は膨大な囚人兵を確保して戦線へ送り込めたために着実に戦果を挙げてこられたが、広大な作戦正面への投入はさすがに戦果と損害のバランスが悪いということが判明し、より限定された正面への攻勢へと縮小されている。損害の大きさに驚愕したプーチンが直接止めに入ったとも言われている。
作戦計画としてはバフムットを確保したのちにドネツ川北部の攻勢と連動して後続の空挺軍部隊を北西のスロヴャンスクまで進出させることで、ドネツク州北部を確保することが目標とされていた。
いわゆるヴフレダールの戦いにおいては、動員兵を主体とする部隊による正面攻撃を精鋭部隊が掩護するという戦術を試行することとなった。ハイローミックス戦術よりも損害を抑え、動員された兵士主体の部隊による大規模な攻勢を行うというのが主眼である。これがうまくいけば今後も長期的に攻勢を維持することが可能と考えていただけに、ロシア軍の期待は大きなものであったが、こちらも失敗に終わってしまった。
この正面での主眼はドネツク市から南に延びる鉄道線路の安全を確保することにある。線路を通常の野砲の射程外にまで、すなわち戦線を40km 程度後退させることが当面の目標とされ、特にドローンなどで線路を直接監視できるヴフレダールの確保が最優先の目標とされた。また、動員兵の訓練期間の短さから複雑な攻勢作戦を実行できるめどが立たないため、単純な作戦が立案された。しかし、動員兵の練度は想定以上に低く、砲撃などにより簡単に統制を乱してしまい、全く攻勢には不向きであることが判明した。
以上のように、ロシア軍の冬季攻勢は失敗に終わったものの、これらの戦訓を基にウクライナ軍の春季攻勢をしのぎ、夏季攻勢を行う計画を構築している。