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2020-08-15

日中戦争従軍した祖父

過去記憶を頼りに書いているため、情報の正確性を保証できません。それを了承の上でお読みください。

前置きを飛ばしたい場合引用ブロック部分へ

今は亡き私の祖父は、日本軍兵士として末期の日中戦争従軍した。

10年前、祖父は私にその時の詳細を一度だけ語った。

第二次世界大戦が終わって75年、その話を自分記憶がこれ以上劣化しないうちに書き留めておく。

祖父1920年12月まれ1944年頃〜1945年従軍体験を語った当時90歳(認知機能正常)

・私 …1990年まれ、話を聞いた当時21歳

私は幼い頃から祖父中国戦争に行ったことを知っていた。

しかしそれ以上のことは何も知らないままだった。

大学2年のGW、私は両親、妹と共に父方の祖父母宅へ遊びに行った。

祖母と母が台所食事の片付けをし、祖父、父、妹、私が居間で団欒していたその時だった。

祖父が何の前置きもなく、そして極めて淡々と、幼少期から戦争体験を語り出した。


祖父淡路島の山深い農村で生まれた(長男ではない)。

高等小学校卒業後、街の酒屋で奉公した。

将来なりたい職業兵隊だった。

こんな田舎の子供でも「兵隊になる」と思わせる学校教育がなされていた。

奉公が終わった祖父本州民間企業就職した。

そして、徴集がかかった(徴兵検査1921年春?)。

戦地へ赴くよう命令されるまでは、日本国内で訓練を受ける。

兵隊には任期があり、その任期を過ぎると、戦場へ行かなくても良くなる。

任期陸軍・常備兵役現役の2年間?)

祖父任期満了の直前に「中国・石家荘」への出兵命令を受けた。

祖父の話しぶりからは、小学生頃は兵士に本気でなりたいと思っていたが、

いざ徴集される段階になってからは、出兵せずの任期満了を願っていたように感じられた。

ちなみに祖父JR国鉄と呼ぶノリで、中国全体を「満洲」と呼んでいた。

そのため私は石家荘を旧満洲国の都市勘違いしていた。


祖父日本から中国沿岸部まで船で移動し、その後陸路にて石家荘に到着した。

石家荘で祖父はある鉄道の警備を任された。

この鉄道を走る汽車日本軍の物資を運んでおり、これを中国側に妨害される恐れがある。

そのため駅だけではなく途中の線路も警備する必要があり、

祖父担当箇所は山あい農村に近い線路であった。

日本軍は農村占拠し、逃げ遅れたり抵抗した現地の民間人捕虜として捕らえ、使役していた。

しか日本軍に捕まっていない現地人もいて、

彼らが日本軍を襲ってくることがあった。

祖父は彼らに応戦し、山中を駆けずり回った。

当然ながら地の利日本軍より現地人にある。

それに山は樹木で覆われ視界が悪く、敵の姿が見えず、どこから襲ってくるかがわかりにくい。

彼らは銃を含む武器を持っており、しか自分たちの生活基盤を取り戻すべく必死こちらに向かってくる。

木と木の間からは、壮大な万里の長城が見えた。

祖父が戦ったのは民間人のみだったのか、民間人擬態した軍人だったのか、それとも両者混ざっていたのか」

という、かなり重要情報が私の記憶から抜け落ちてしまっている。


ある日、祖父は仲間達と共に銃の撃ち合いをしていた。

もちろん敵から銃弾自分達に向かって飛んでくる(祖父は「プププププッ」という効果音と共に

親指と人差し指でつまむようなポーズをとり、右から左に水平に移動させることで弾道を表現した)。

その時、横にいた年上の兵隊に弾が命中し、彼は息絶えた。

そしてその後、祖父の片脚にも弾が当たった。

祖父は山の中を担架で野戦病院へと運ばれた。

運んだのは、中国人の捕虜達だった。

銃創のでき方によっては、当時の医療技術では脚を切断しなければならなかった。

しか祖父場合銃弾は膝上を貫通しており、脚の切断は免れた。

ただ、祖父の傷の縫合は無麻酔で行われ、激痛が伴った。

祖父野戦病院入院している間、祖父のいた部隊中国側の総攻撃に遭った。

結果、部隊の多くの兵士犠牲となった。

祖父は小柄で屈強ではないため、戦友会では「あの時入院していなかったらお前も死んでいただろう」とよく言われたという。

祖父はその後、1945年8月15日太平洋戦争終戦」を現地で迎えた。

一ヶ月後に日中戦争終結したが、他の任務があったらしく、

祖父帰国は1945〜1946年の冬頃となった。

この部分を聞いた時、私は色々なショックを受けた。

戦争リアル、穏やかでニコニコしている「おじいちゃん」の抱える痛み、そして父や自分誕生紙一重だったということ。

私は祖父の膝上・その裏の傷跡をこの時初めて認識した。


祖父による戦争体験の話には後日談がある。

実は、祖父は膝上の銃弾貫通と同時に片足の小指を失っていた。

このことは、祖父葬儀喪主の伯父(祖父長男)が挨拶の場で初めて語った。

喪主挨拶では他にも、祖父が夜中に大声を出して飛び起きていた(のを幼き日の伯父が目撃した)ことが明かされた。

祖父戦地体験を引き金としたPTSD発症していた可能性がある。

これらの話を祖父がすることはなかったし、裸足の祖父を何度も見ているはずなのに、指が無いことに全く気がつかなかった。

銃弾効果音まぬけさといい、「自分中国人を撃った」経験を話さなかったことといい、

祖父の語りは孫娘用にかなりマイルドになされていたに違いない。

祖父がなぜあのタイミング戦争体験を孫に話したのか、その意図を聞くことはもうできない。

話に圧倒されてしまい、また深堀りを戸惑ってしまい、曖昧情報確認や疑問の解決ほとんどできなかった。

90歳で突如戦争体験を語った3年後、祖父は93歳で他界した。

8月15日に記しておきたい怖い祖父の話

大正まれ祖父は、坊主頭メガネをかけ、こけた頬に冷たい眼差しを持ち、いつも気難しそうな顔をしていた。息子であるから聞く話でも、私は祖父に対して怖いというイメージしか抱いていない。第一印象も第二印象も、とにかく怖い。祖父を評する言葉はそれ以外に無い。もっとも、祖父は私が生まれる7年前に亡くなっている。だから、私が見る祖父はいつも仏壇の脇に飾られた白黒写真のみであり、その気難しそうな佇まいを見るたびに幼心にピシッとした気分になり、怖い爺さんだなぁと思うだけだった。私にとって祖父は、無機質な写真のみで完結していた。

対照的祖母はとても優しい人で、おっとりしたお婆ちゃんだった。私は末の孫だったこともあり、とにかく甘やかされていたので、特にそう思うことも多かった。祖父とは会ったこともないが、祖母とは長い時間を共にした。私は幼稚園に入る前、母が働いている間は朝から夕方まで祖母の家に預けられていたので、祖母とは二人きりの長い時間をゆったりまったり過ごしていた。かなり幼い頃の記憶だが、何故だかその日々のことは断片的によく覚えている。暴れん坊将軍と蒸し芋が大好きな未就園児だったので、祖母とは気が合い可愛がられた。

祖母は幼い頃の私にとって第二の母のような存在で、お話もたくさんしたけれど、既に亡くなっている祖父遺影インテリアのように飾らせているだけで、その人となりについては何一つ聞いたことがなかった。息子であるはずの父や叔父からも、祖父の話は聞いたことはほとんどない。思い出話も一つも聞いたことがない。祖父がどんな人かと聞いても「おっかねぇ(怖い)人だった」と返ってくるくらいだ。そんなこんなで、私が知る祖父像は極めて薄い。とても薄っぺらい。お前の爺さんだよと言われてもピンと来ることはなく、いつまで経っても白黒写真遺影の人でしかなかった。

そんな祖父遺影の脇には、立派な額に入れられた賞状が飾ってある。内容は、抑留生活を慰労し、銀杯を贈られたという内容で、すでに故人になっている祖父政府が贈ったものだ。戦後日本には57万人以上もの人々がシベリアへ連れて行かれており、祖父もその一人であった。『祖父戦争へ行き、シベリア抑留をされていた』たったそれだけの漠然とした事実が、私の中の祖父像を大きく占めていた。小さい頃から、「うちのじいさん、ロシアに連れてかれたんか」と単純に思っていた。どこからともなくの知識で、多くのシベリア抑留者がそうであるように「終戦時は満州にでもいて、捕まったんだろう。だが、どうにか生き延びて帰ってきた」と思っていた。

去年、祖母が97歳で亡くなった。50過ぎの時にヘビースモーカーが祟って肺癌で亡くなった祖父に反し、かなりの大往生である。そこで私は、葬式での親戚が口にした言葉で「祖母が嫁いだ翌日に、爺さんに赤紙が来た」と耳にした。おいおい、なんだそのタイミングは。ドラマかよ、と思った。そもそも祖父母はお見合い結婚だし、祖父戦後抑留され、長いこと家に帰って来なかったし、つまりそれが事実なら祖母は長々と見知らぬ姑と過ごしたことになる。しかも、ど田舎山中にある村で、家業農家という典型的な家だった。時代時代とはいえ、婆ちゃんは肩身の狭い思いをしていたんだろなぁと可哀想に思った。

その頃から興味が沸いていたんだと思う。

遺影の中で怖いオーラを放っているだけの、実態の無い祖父像について。

私はどこからともなく『兵籍簿』の存在を知り、取り寄せたいと決意して、去年の8月15日実家終戦番組を見ながら父に話を切り出して頼んだ。兵籍簿の取り寄せは三等親まで可能で、孫の私でも可能だが、故人の息子にあたる父が取り寄せた方が、必要書類が少なく済むからだ。父は戦争映画などを見るのが好きな人だし、その手のものに興味があるタイプなので、あっさりOKしてくれた。断られたらどうしようと思っていたので、聞いた時はタイミングを見極めドキドキだった。

兵籍簿の取り寄せは案外簡単だ。やり方は調べればネットに載っている。うちの祖父陸軍なので、県の恩給科に電話で問い合わせ、手続きを始めた。ちなみに、海軍だと厚生労働省になる。陸軍であれば『〇〇県 兵籍簿』あたりで調べれば、どこの県もやり方を導いてくれるだろう。発行に際して必要ものは、対象者が故人の場合申請者との繋がりがわかるための除籍謄本戸籍謄本といった、役所簡単に発行してもらえる書類。あとは申し込み用紙を書いて郵送する。コピー代などで数百円かかるが、あまりにも簡単なので、もっと早く取り寄せればよかったと思った。

まぁ、取り寄せた所で、どうせ祖父はちょろっと満州にいて、そのままシベリアに連れてかれていたんだろう。祖父は誰にも戦時の話をしなかったので、家族の誰しもがそう思っていた。語らずに亡くなったがために、語るまでもない軍歴だったのかと、我々は思い込んでいたのかもしれない。みんなが祖父戦争について知っていたのは、彼が『シベリア抑留されていた』たった一言事実のみであるのだから

待望の兵籍簿は一か月かからずに送られてきた。

当時の書類ということで、読み難く難解な旧字も多かったが、やはり同じ日本語なのでほとんどは解読可能だった。それもネットで調べられた。

読み解いてまず驚いたのが、祖父1940年から43年2月まで、きっちり軍生活をしており、一度は満期除隊をしていたということだ。その時は主に満州国境警備をしていたらしい。大きな作戦戦闘に関わることなく、晴れて日本へ戻っていたのだ。もしかしたら亡き祖母は知っていたかもしれないが、祖父は息子たちへ語らずに亡くなったので、満期除隊をしていたことなど誰も知らなかった。

次に驚いたのは1944年2月祖父除隊からほぼ一年後に再び徴兵されており、(祖母が嫁いですぐに赤紙が来たエピソードは日付けから事実だと裏付けられた、祖母マジでお疲れ様すぎる)今度は満州ではなく、北海道の先にある『千島列島』に行っていたことだった。私は先入観からてっきり、祖父満州終戦を迎えたと思っていたので、想像していた祖父人生はガラリと色を変えた。

千島列島……千島列島……たくさんの島が連なる北海道の向こう側……北方領土……。そうか、そこにいた人たちもシベリアへ連れて行かれたのか……。そりゃそうか。

千島列島といえば、日本降伏後にソ連が乗り込んできた占守島の戦いが有名だが、祖父は『新知島(シムシル島)』から途中で『得撫島ウルップ島)』に回され、その二度目の徴兵では約一年半の千鳥列島生活を送り、終戦を迎えていた。兵種はずっと砲兵終戦時は上等兵だった。祖父はヒョロ長い体を駆使し、轟音の轟く砲をぶっ放していたのだろうか。なんともたくましい。

お恥ずかしいことに、私は新知島のことも、得撫島のことも、「なんか名前は聞いたことあるなぁ〜」程度で何一つ知らなかった。千島列島ソ連が攻め入った経緯すらも、占守島の戦いの名前漠然としているだけで、よくわかっていなかった。

どんな所か調べたくなった。特に長くいたらしき得撫島について。当時の千島列島について。

祖父のいた部隊結果的には戦闘をしておらず、言わば活躍をしたわけでもないので、ほとんど資料がなくて見つけ出すのには苦労した。

得撫島はもとより、千島列島自然の宝庫であると同時、一年を通してほとんど霧に包まれ、風も強く、ましてや長い長い冬を有する極寒の地。白夜であり、夏の夜は極めて短い。夏でも長袖は欠かせない。ほぼ無人島。そんな場所で「はい今日から暮らしてね〜」となったら苦労していないわけがない。制空権を奪われていたので、空から米軍攻撃もあった。制海権も奪われており、艦砲射撃が降り注ぐ。戦時中その海域では民間人も含め、2-3万人の人が亡くなっている。祖父のすぐ後に続いて小樽港を出港した同郷の部隊は、魚雷を撃ち込まれ沈没。冬の海に投げ出され、当時は軍機密に隠され2000人以上が死んでいた。祖父もほんの僅かな順番が違っていたら死んでいた。私もこの世にいない。数奇な巡り合わせで今の私は生きている。

得撫島ラッコの島と呼ばれるほどラッコがいるらしい。オットセイもいるらしい。祖父は間違いなく野生のラッコを見ただろう。自然豊かな大地。現代人の私が見たこともない美しい景色を、祖父は計らずとも見ていた。不本意戦時下に望んでもない場所へ飛ばされてはいるが、愛くるしいラッコちゃんとの遭遇が顰めっ面の祖父の心を癒してくれていたことを願わずはいられない。

兵籍簿には、祖父召集や転属などの略歴が淡々と日付けと共に記されていた。必要最低限の事務的情報であるが、その一つ一つの行間にも目に見えぬ多大な苦労があったはずだ。

昭和20年

8月15日終戦

9月29日ソ連により武装解除

10月19日ソ連により得撫島出発

10月24日ソ連ポートワニー上陸以降土工作業従事

昭和23年

7月22日舞鶴上陸

古ぼけた紙は語っていた。戦争8月15日に終わっていなかった。南方の激戦地のように食糧に困る事はなく、敵と遭遇することも戦闘もしなかったとはいえ祖父戦後も長らく闘い続けていた。自分血縁である祖父が歩んだ具体的な数字を見せられ、これはリアルなことだったと肌身に伝わってきた。日本がしていた戦争と、祖父存在への深みが増した。

シベリアでの日々を、祖父の白黒写真の顔と合わせて想像してみた。マイナス40度の永久凍土で働く、ろくな装備もない日本兵たち。栄養失調。ひもじい。所々にシラミが沸く。病気流行る。ご飯は堅い黒パン。粗末なスープ戦争は終わったのに、周りがどんどん死んでいく。いつまで経っても日本に帰れない。故郷よりももっと寒い、極寒の異国の地。日本には結婚生活を1日しか送らなかった嫁が待っている。祖父は雪深い土地で生まれ育ったから、シベリアでも適応能力が多少なりともあったのだろうか。そう思うことが唯一の救いである。

祖父が何も語らずに亡くなったのは何故か。千島列島を盗られた背徳感か。過去抑留生活に蓋をしていたのか。赤化教育を受けたことによる偏見を隠すためか。南方の激戦地に比べたらと、自分の半生は話すまでもないことだと思っていたのか。祖父の心を知る事はできない。私は想像することしかできない。祖父日本に帰ったが、一切を語らずに亡くなった。故郷山村とは掛け離れた四季の彩りのない場所で、途方もない八年もの戦争と闘ったのに、一言も喋らずに亡くなってしまった。

ここでは政治的な話はしない。

兵籍簿を読むことによって、それまで漠然としていた祖父存在がぐんと近づいた。存在のものを実感した。祖父ちゃんと生きていた。過酷時代を生き抜いた。ドラマ映画主人公になるような経歴ではないが、私が一分で根を上げるような過酷環境に長々と身を投じていたのは明らかだ。じいさんすごい。マジでお疲れ様すぎる。生き抜いてくれてありがとう。じいさんが頑張ってくれたおかげで、私はこんな平和世界ツイ廃をしながら、ソシャゲに夢中になれて、推しに心血を注ぎ、それを通して素晴らしい友人と出会うことが出来た。夏にはクーラーの効いた部屋でアイスを食べられるし、冬には暖かい部屋でアイスを食べられる。平和は素晴らしい。色んな国の友達もいる。その中にはじいさんが憎んでいた国の人もいるかもしれない。私は紙切れ一枚で戦地へ送られることなく、空や海からの脅威を感じることもなく、当たり前の明日をのほほんと待ちながら好きなように生きている。これは素晴らしいことだ。そんな当たり前のことを、強く思った。

兵籍簿を取り寄せて良かった。兵籍簿はどこからともなく知った物だが、私はこれを読まなければ自分流れる血に関してとても大事なことを知らずに死んでいた。

仏間へ行き、再び祖父遺影を見上げた。祖父は相変わらず怖い顔をしている。けれど、もうそれだけではなくなっていた。その遺影漠然とした無機質なものではなく、凄惨時代を生き抜いた血が流れているのだ。仏間を見下ろす祖父は、計り知れない威厳を背負っていた。

2020-08-14

anond:20200814184923

後方支援とか兵站輸送とかはどんどん民間請負会社委託されていくと思う。

働くのはもちろん派遣労働者

私物携帯電話を預かって、モニター可能スマホ支給して、組織的な反乱さえ防止しておけば烏合の衆でもなんとかなる。

そういうのは前線や激戦地にはとても出せないから多分生きて帰ってこれると思う。

2020-08-11

Twitterフェミニズム言及する人はよくやるな

Twitter界におけるフェミニズム論争って第二次世界大戦スターリングラードみたいな最激戦地で反フェミフェミ戦闘狂みたいなのがうじゃうじゃいるのにその中に大した知識もなく突っ込む人って危機感なさすぎだろ

2020-08-09

戦争呪縛

さいころ、母方の祖父祖母も同居する三世住宅に住んでた。

祖父祖母戦争経験者。祖父陸軍中野学校出身兵隊戦地に行ってた。

祖母は目が見えなかった。空襲の煙で目をやられてしまってよく見えなくなって、眼医者にいったら間違った薬を出されてそれを使ったがために両眼とも完全に失明していた。

しかった祖父戦争の話を全くしなかった。思い出したくないと言っていた。今ではなんで祖父戦争の話をしなかったのかよくわかる。

祖母戦時中の話をたまにした。自分の目がどういう風にだめになっていったのか、空襲がどれほど恐ろしかたか、家に泥棒が入っているのに近づいたら殺されるのがわかるから遠くから見ているだけしかできなかった話とか。

祖父はいつでも私に優しくて手をあげたりしなかったけれど、母は小さいころ祖父に木に縛り付けて叩かれたり棒で叩かれたと言っていた。

そしてそうやって育った母は私が何か怒られるようなことをするとよく叩いた。高校生になっても叩かれた記憶がある。

今思うと軍隊方式で鍛えられた祖父は、戦争が終わってもその呪縛からすぐには抜け出せなかったのではないかと思う。そうやって育てられた母も。

祖父は早くに癌で亡くなってしまった。目の見えない祖母が残された。祖母天皇ニュースが好きだった。それもなぜか今はわかる。

そういう思想教育を受けていたから。目の見えない祖母に新しい価値観を持てというのは難しすぎることだったと思う。

目の見えない祖母は、時代が大きく移り変わっていくことを見ることをできなかったから、自分の見た光景だけの中で生きていた。

贅沢は敵、楽しむことも敵、物を消費することも敵、目上の者は敬え従え、規律を守れ、そんな古びた厳しい価値観がいつでもゆるやかに家の中に漂っていた。

私の自我は大きく移り変わっていく時代自分の家の価値観の間に挟まれてうまく形成できずに大きく揺れ動き、大人になっても不安定メンタルを抱えて生きることとなった。

数年前に祖母が亡くなった。晩年、耳まで聞こえなくなってしまった祖母は、私たちに会うとずっと同じ話をし続けた。

祖母の頭の中にある世界祖母の見た光景。だいたいは祖母が小さかった頃の記憶

私はなんとかい相手と巡り会って結婚して、今は子どもを育てている。

私は子どもを叩かない。そしてめいっぱい生活を楽しむように心がけている。

子どもを叩かないことで、生活を楽しむことで、呪縛から抜け出せたような気がする。

そしてそれは私自身の復讐でもある。私の育った家を覆っていた戦争呪縛への。

2020-08-08

戦地で泣き叫んでる子供写真

ジャーナリストとかが写真とって

ピュリッツァー賞的なものもらって

戦争悲惨さを伝える迫真写真だ!とか称賛されるけど

カメラ抱えて写真撮ってる暇あったら

目の前の子供を助けに行けよ

そんな他人事カメラマンに賞や賞賛が与えられるかぎり

そりゃ戦争なんてなくならんわな

2020-08-06

anond:20200806100612

そんなの実際戦地に言ってた人しかわからん

こっちに居た人が体験したものが色濃く残るのは当たり前では

2020-07-16

戦地からの死者数報告が日に日に増える

のだが、先日の大本営発表では、わが軍優勢とのことだったから、

進軍を止めるわけにはいかないのだ。


みたいなシーンって、虚構の中の戦争しか見なかったのだが、

よもや、令和の時代になってリアル体験できる日がくるとは、正直、全く予想していなかった。

2020-07-03

anond:20200703220505

真っ向勝負はして無いよ。

戦ってた場所が実は間違ってただけ。

あれ?戦地はそこだったの?って。

大量に物資送り込んで戦線張ってたのに違うのかよ!って。

ガチンコで負けた事もなんかあったかも知れないけど、まぁこんな感じ。

家電メーカーもそうだね。

戦う場所方向性を間違えて落ちてった。

2020-06-24

山本太郎投票して」と頼まれたけど小池百合子投票する。

23歳、看護師夜勤明けの期日前投票小池さん投票する予定です。

なぜか「山本太郎投票して」と地元友達からハガキや、LINE街頭演説動画までたくさん送られてきたのですが、どうしても投票したくありません。その理由を書きます

【高額すぎる危険手当】

 借金15兆を借りて、都民全員に10万・第二波が来たら医療従事者やエッセンシャルワーカー(保育士コンビニ店員など)に危険手当を1日1万4千円(!)配ると書かれています無茶苦茶

私は看護師ですが、借金をしてまで必要制度だとは思えません。そんなお金があるのなら、コンビニより感染リスクの高いスナックナイトクラブ家賃給与を全額保証してお店を閉めさせた方が、よほど感染者が抑えられると思います

弱者に優しくないバラマキ】

 山本太郎さんはとにかく都民お金をばらまきます。「コロナ家賃が払えない、ホームレスが増えてる、食べるものがない人が沢山いる」そうです。

ならば都民全員ではなく、困っている人に重点的に支援するべきです。

 そもそも困窮者への制度は沢山あります(生活保護住宅給付ホームレスが入居できる支援施設フードバンク事業など…)

しかし人に頼れなかったり、支援があることを知らなくて、困っている人が多いです。

 私の病院にもホームレスの方が運ばれてくることがありますが、お金がないからとアメリカのように追い返すこともないし、病院ソーシャルワーカー生活保護に繋げたりしています

 彼らに必要なのは宇都宮けんじさんが提唱してるような【出前福祉制度】(相談に来るのを待つのではなく、困ってる人を探しにいく)です。

全員一律の現金バラマキではありません。

現金給付東京の消費喚起?】

 山本太郎さんは「皆さんに配る10万円は、地元のお店で使ってください。消費することで誰かの所得になります」と訴えています

しか10万を手にしたひとがその通りにするでしょうか?

私は10万貰ったら、AmazonHUAWEI(中国メーカー)のスマホ電子書籍漫画を買います

地域での消費換気したいなら、福岡市大阪が行ったようなデリバリー利用のキャッシュレスポイント還元の方が合理的です。

10万円は票稼ぎに思えます

街頭演説感染リスクを発生させてる】

 山本太郎さんはコロナ災害であると話し、コロナ禍で働いてる人は戦地で働くのと同じであり「命を守る」としきりに訴えますしかし、街頭演説で沢山の人を集めて、3密を発生させています

 ライブハウス劇場座席数を減らして必死運営してるのに、そんなことはお構いなしです。

コロナ風邪と同じ」と訴えてるホリエモンのような人がやるなら分かりますが、太郎さんは言行の不一致です。

 完全オンライン選挙をしている小池さんの方が都民のことを考えていると思います

【昨年度の売り上げのマイナス分を補償、財源不明

山本太郎さんは「昨年度の売り上げのマイナス分を補償する」と、とんでもない政策を出していますしかしこれは「いくらかかるかは分からない」と話、15兆の予算には含まれないそうです。

多額の財源はどうするのでしょうか?

【将来のことを考えてない、今だけ金をばらまく】

 15兆の借金は将来へのツケになります。まさに「今だけ、金だけ」。

山本太郎さんは「まずは都知事になって将来的には総理大臣になる」そうなので、1期でやめるでしょう。後任の都知事都民負債を背負わされて大変なことになります

都立病院独立法人化していい】

 私は都立病院独立法人化には、どちらかといえば賛成です。山本太郎さんと宇都宮さんはこれにすごく反対してます

特に山本太郎さんは、独立法人化したら質が低下したり医療が受けられなくなる、医療崩壊するかのように煽っていました。

しか現在コロナ患者を受け入れている病院都立だけではないし、都立に比べて質が劣ることもありません。

 給与も、不足してる医師20代~30代の看護師だと、非公務員の方が給与が高かったりします。独立法人化した方が柔軟な採用ができるメリットもあります

政策小池さんの方が魅力的だった】

 小池さん小野さんの政策スマートシティ構想や行財政改革など、東京都が便利で豊かになるイメージができました。

山本太郎さんは、とにかく今困ってる人を助けて終わり、という感じです。

【4年間の実績】

 東京都知事は大きな権限があるので、新人の人に無茶苦茶にされる可能性があります

宇都宮さんの人柄は信用できそうですが、激しい権力闘争世界で、都政運営をやっていけるのか不安です。

小池さんは4年間の実績があるので、無茶苦茶になることはないと思います

この4年間で待機児童を減らしたり、保育や私立高校学費を国の基準より緩和して無償化したり、ベビーシッター助成保育士給与アップなど、子育て支援をを重点的に行ってきたところは好印象です。

あと、受動喫煙条例が嬉しかった。

豊洲東京アラートライトアップなど、都民を混乱させたところもありますが、全体的にそこまで悪くないと思います

大差で勝ちすぎて小池百合子さんが調子に乗る可能性があるので、宇都宮さんか小野さんに入れようかと迷いましたが、「女帝」で雲行きが怪しくなってきたので、小池さんに入れる。

 以上の理由で、小池百合子さんに投票予定。山本太郎さんは無理。

2020-05-16

昔々の夏休み

誰よりも大きいカブトムシクワガタを捕まえる事に兄弟で執着していた。

前日に砂糖水を仕掛けラジオ体操が始まるまでに虫を回収して回る。ラジオ体操の後に行く奴もいたな。

あるあるだけど楽しかっただろ。

子ども自転車で行ける範囲カブトムシがいそうな場所は全て網羅していたが、昭和ベビーブーム二世から昆虫採集キッズ人口は多く競争率はとても高かった。

これもあるあるだと思うが、行ってはいけないと言われる所も皆各所にあったと思う。俺の近所では捨てられたような無人の小さな神社だった。

いかにもおどろおどろした、初期のゲゲゲの鬼太郎ばりの神社で昼間でも暗い。その辺りは国道けが新しくできて開発は進まずほったらかしの土地にその神社けが残っていた。行ってはいけない理由は、今思えばヤンキーが集まったり浮浪者が寝泊りしていたのだと思う。

あんな恐ろしい所にカブトムシがいようが誰も近寄らないに決まっている、という事で俺たち兄弟カブトムシ欲しさにその神社に行く事にした。

兄が言い出した事だ。畏怖の念と言うのはまさにこれで、兄ちゃんすげえと心の底から尊敬した。後にも先にもこれ一回だが。

まずは明日夕方砂糖水を仕掛けに行く。

恐ろしさと期待と今まで味わった事のない高揚感で2人とも落ち着かなかった。

増田兄弟の大冒険

最大のカブトムシ

まさかの新種発見

その高揚感はすぐ親にバレた。何を企んでいるのかと父に詰められ兄は速攻で口を割った。

親に黙って、子どもだけで行ってはいけないと言われる場所に行く事がどれだけ危険か、と言う事を真剣説教された。両親の前で悪巧みがばれ項垂れる子ども2人に笑いを堪えながら父は言った。

よし、じゃあお父さんも一緒に行こう。

うそ!もう百人力だ!すげえ!

お母さんお弁当作って!

何で?!お弁当なんかいらないでしょう!

楽しい行事には弁当がもれなく付いてくると信じていたあの頃。

お父さんと兄ちゃんがいるならもう何も怖くなかった。

次の日の夕方がやって来た。その日は言われなくても宿題をやり、母の言う事も聞き、いつもより多めに入れてます砂糖水を用意して父が帰って来るのを待った。母は蚊取り線香を用意した。

父が帰って来て思い出したように、ああそうだった、よっしゃ、行くか。と言うと俺たち兄弟戦地に向かう兵隊の様に緊張した。

忘れ物がないか確認しながら、父の車に乗り込む。


5分で着いた。

まりの近さに子どもの俺でも拍子抜けしたが、暗くなりかけた夕方神社コウモリが飛んだりカラスが泣いたり、充分に子どもを震え上がらせた。

あっという間に蚊に刺されれる。父のすぐ近くに隠れドキドキしながら砂糖水を仕掛ける。

そしてそのドキドキはあっという間に、地面に落ちているエロ本に向けてのそれに変わっていた。

見た事のない体勢の裸の女の人の写真や、きゅうりを持った物凄いおっぱいの女の人の絵。きゅうり??

帰りの車ではあの女の人の写真や絵で頭がいっぱいで、カブトムシ鬼太郎神社の事はどうでも良くなっていた。兄も黙りこくっていたからそうに違いない。

それでも家に帰れば、明日カブトムシへの期待が膨らんできた。ラジオ体操前に行って、捕まえたカブトムシをみんなに見せたい。エロ本ももう一度見たい。

父が、ラジオ体操前って朝早すぎるだろと難色を示し、まぁ朝だし思ったほど荒れている訳じゃないしと母に言い、結局明日の朝は兄弟2人だけで行く事になった。

兄も俺もエロ本の事は口に出さなものの、エロ本をもう一度確認したい気持ちは同じで、カブトムシもいっぱいいるかも知れないし早く起きて行こうぜと張り切った。

エロ本カブトムシの力は強く兄が俺を起こしたのは4時。両親は熟睡中。コソコソと着替えていると母が寝ぼけながら、え、もうそんな時間ご飯は?と聞いて来た。帰って来てから食べる!と言い残し2人で自転車立ち漕ぎして神社に向かった。

まだうっすら明るいだけの神社はやはりおどろおどろしていたが、エロ本カブトムシには勝てない。

神社の前に自転車を止める。2人とも黙って早歩きで神社敷地に入って行く。

奥の方からコンコンと何かを叩くような音がした。兄と顔を見合わせる。幽霊がでるとか、怖い人がいる感じの恐ろしい音ではない。キツツキ?

少し進んで覗き込むと、砂糖水を仕掛けた木の前に着物を着たおばあさんがいた。普通ならここでひっくり返るところだが、俺たち兄弟にはそれが岩崎(仮)のおばあさんだとすぐに分かった。

岩崎のおばあさんとは近所の駄菓子屋岩崎のおばあさん。いつも着物を着ている。令和平成着物と違って、昭和のおばあさんの着物はマジもんだ。生まれからずっと着物を着ている人だ。何色とも言えない、茶色いような緑のような灰色のようなよれよれした着物をいつも着て、駄菓子屋岩崎で俺たちにお菓子を売るおばあさんだった。絶対オマケをしない、騒ぐと怒る、商品に触ると怒る、子ども相手商売には向いてないおばあさんだった。

岩崎のおばあさんはぶつぶつ言いながら白い人形を木に打ち付けていた。

岩崎のおばあさんにはビビらなかったが、その人形を木に打ちつけている行為が訳がわからず、恐ろしくなって兄とまた顔を見合わせ黙って逃げ帰った。

家に帰ると両親が起きて来て、早いねカブトムシは?と聞かれたので、岩崎のおばあさんがぶつぶつ言いながら白い人形を木に打ちつけてたかカブトムシは採れなかったと素直に言った。

母が父に、あそこ新しいお嫁さんとすごい仲悪いらしいからねぇーとニヤニヤして言ったのを覚えている。

エロ本には後ろ髪を引かれたが、なんとなくそ神社に行く事もなく夏が終わった。

それから何年か経ち、きゅうり意味がわかり、カブトムシも飼わなくなった。

駄菓子屋岩崎もなくなり、そのあとにはこの近所には全く似つかわしくない洋風の立派な家が建った。

2020-05-06

文化支援だ、医療支援だ、教育格差是正だ、

財政出動だ、なんだと言うやつは

人口ピラミッドを真面目に見て10年後、20年後どうなるか考えたうえで今どうするべきか真剣に考えてほしい。

厚労省が謎のスローガンとして掲げる ”世界に誇るコロナ低死亡率” なんてものはこんな国が本当に誇っていいと思ってるのか?

他国をみてみろよ。コロナ非常事態便乗コラボ老いぼれ在庫処分キャンペーンをやってる最中なのに(マジで)、世界一の老人大国がいつものマヌケな半人前人道国家のノリでイモ引いて世界一の大量在庫処分できずにご破産コースに向かってるんだぞ。ジャップ株式会社破産したらついでにおまえら従業員資産差し押さえだ。

山梨の女なんて叩いてるときじゃないんだよ。

お国のために死んだら英霊になれる国なんだろ?なあ、はやく戦地で散ってもらう流れにもっていこうよ。

MMT少子化対策就職氷河期救済、ベーシックインカムなんてもの人口ピラミッド再構築の目処がつかないと出来るわけないんだよ

霞が関の連中も本音は黙ってるけど分かりきったことなんだ。だから不作為を重ねるムーブなんだ。

どうせおまえら馬鹿からコロナがあと半年も続けば自ずとそういう空気になってくんだろうな。

遅すぎるよ。

2020-04-22

anond:20200422223655

それはある。でもだから戦地死ねいいとも言えないわ

死なんと治らんようなクズが巣食ってるのも事実だけど

2020-04-16

マスクファッションの一部になる日も近い

今回のコロナ騒動までは、普段生活マスクをすることは殆ど無かった。あの息苦しくなる感じが嫌で、重度の花粉症でありながら、マスク着用を拒み続けた。

しかし今、四六時中マスクをしている。すっかり生活の一部となってしまった。

人前に出るときマスクをつけたまま、ということが常態化している。むしろマナーとさえなっている。

他の人が着けているマスクを見る機会も圧倒的に増えた。よくよく見ると、使い捨てマスクデザイン千差万別面白い

このままこうした状況が続けば、マスクファッションの一部になる日も近い。

今でこそ当たり前に身に着けるネクタイだって起源を辿れば戦地に赴く兵士の無事帰還を願って身に着けたという。

ハイヒールも同様。ファッション化する前にはそれぞれ身に着けるだけの理由があった。

そのうちルイヴィトン製のマスク販売されても不思議ではない。

2020-03-29

anond:20200329185715

小西氏の記憶をもとに事の経緯を詳述する。

はい小西です」と答えると、いきなり「おまえ、ちゃん仕事しろ!」などと絡んできたというのだ。

一般の方からもよく路上で声を掛けられ、励ましだけでなくご批判言葉を頂くことがあります。ご批判の時は、私はいつも『信念に基づいて、国会議員として仕事をさせて頂いております集団的自衛権解釈変更について憲法違反であることを証明してきました』などとお伝えするようにしてきました」

 この時も小西氏はそう答えると、男性は「俺は自衛官なんだよ。おまえは国民の敵だ!」と言い放ったという。

あなた自衛隊員なんですか?」

 小西氏は驚きながらも話を続けた。

憲法違反戦争で、あなたがた自衛隊員戦地に送られるのを阻止するために、政治生命を掛けて闘っています

 それでも男性威圧的な態度で「おまえ、気持ち悪いんだよ」「国民の敵だ」「国会議員意見して何が悪い?」などと罵り続けてきた。

 

民主党政権を執ったら自衛隊クーデターを起こすからその日は永久に来ません

2020-03-21

anond:20200321104923

なんで急に戦地派遣されるの俺

ワニみたいに友達と楽しくいたいんだが

2020-02-25

翳(原民喜

センター試験話題になったけど、全文読めるところが見つからなかったので)

底本:原民喜戦後小説 下(講談社文芸文庫1995年8月10日第1刷発行

     I

 私が魯迅の「孤独者」を読んだのは、一九三六年の夏のことであったが、あのなかの葬いの場面が不思議に心を離れなかった。不思議だといえば、あの本——岩波文庫魯迅選集——に掲載してある作者の肖像が、まだ強く心に蟠(わだかま)るのであった。何ともいい知れぬ暗黒を予想さす年ではあったが、どこからともなく惻々として心に迫るものがあった。その夏がほぼ終ろうとする頃、残暑の火照りが漸く降りはじめた雨でかき消されてゆく、とある夜明け、私は茫とした状態で蚊帳のなかで目が覚めた。茫と目が覚めている私は、その時とらえどころのない、しかし、かなり烈しい自責を感じた。泳ぐような身振りで蚊帳の裾をくぐると、足許に匐っている薄暗い空気を手探りながら、向側に吊してある蚊帳の方へ、何か絶望的な、愬(うった)えごとをもって、私はふらふらと近づいて行った。すると、向側の蚊帳の中には、誰だか、はっきりしない人物が深い沈黙に鎖されたまま横わっている。その誰だか、はっきりしない黒い影は、夢が覚めてから後、私の老い母親のように思えたり、魯迅の姿のように想えたりするのだった。この夢をみた翌日、私の郷里からハハキトクの電報が来た。それから魯迅の死を新聞で知ったのは恰度亡母の四十九忌の頃であった。

 その頃から私はひどく意気銷沈して、落日の巷を行くの概(おもむき)があったし、ふと己の胸中に「孤独者」の嘲笑を見出すこともあったが、激変してゆく周囲のどこかにもっと切実な「孤独者」が潜んでいはすまいかと、窃(ひそ)かに考えるようになった。私に最初孤独者」の話をしかけたのは、岩井繁雄であった。もしかすると、彼もやはり「孤独者」であったのかもしれない。

 彼と最初に出逢ったのは、その前の年の秋で、ある文学研究会の席上はじめてSから紹介されたのである。その夜の研究会は、古びたビルの一室で、しめやかに行われたのだが、まことにそこの空気に応(ふさ)わしいような、それでいて、いかにも研究会などにはあきあきしているような、独特の顔つきの痩形長身青年が、はじめから終りまで、何度も席を離れたり戻って来たりするのであった。それが主催者の長広幸人であるらしいことは、はじめから想像できたが、会が終るとSも岩井繁雄も、その男に対って何か二こと三こと挨拶して引上げて行くのであった。さて、長広幸人の重々しい印象にひきかえて、岩井繁雄はいかにも伸々した、明快卒直な青年であった。長い間、未決にいて漸く執行猶予最近釈放された彼は、娑婆に出て来たことが、何よりもまず愉快でたまらないらしく、それに文学上の抱負も、これから展望されようとする青春とともに大きかった。

 岩井繁雄と私とは年齢は十歳も隔たってはいたが、折からパラつく時雨をついて、自動車を駆り、遅くまでSと三人で巷を呑み歩いたものであった。彼はSと私の両方に、絶えず文学の話を話掛けた。極く初歩的な問題から再出発する気組で——文章が粗雑だと、ある女流作家から注意されたので——今は志賀直哉のものノートし、まず文体研究をしているのだと、そういうことまで卒直に打明けるのであった。その夜の岩井繁雄はとにかく愉快そうな存在だったが、帰りの自動車の中で彼は私の方へ身を屈めながら、魯迅の「孤独者」を読んでいるかと訊ねた。私がまだ読んでいないと答えると話はそれきりになったが、ふとその時「孤独者」という題名で私は何となくその夜はじめて見た長広幸人のことが頭に閃いたのだった。

 それから夜更の客も既に杜絶えたおでん屋の片隅で、あまり酒の飲めない彼は、ただその場の空気に酔っぱらったような、何か溢れるような顔つきで、——やはり何が一番愉しかったといっても、高校時代ほど生き甲斐のあったことはない、と、ひどく感慨にふけりだした。

 私が二度目の岩井繁雄と逢ったのは一九三七年の春で、その時私と私の妻は上京して暫く友人の家に滞在していたが、やはりSを通じて二三度彼と出逢ったのである。彼はその時、新聞記者になったばかりであった。が、相変らず溢れるばかりのもの顔面に湛えて、すくすくと伸び上って行こうとする姿勢で、社会部入社したばかりの岩井繁雄はすっかりその職業が気に入っているらしかった。恰度その頃紙面を賑わした、結婚直前に轢死(れきし)を遂げた花婿の事件があったが、それについて、岩井繁雄は、「あの主人公は実はそのアルマンスだよ」と語り、「それに面白いのは花婿の写真がどうしても手に入らないのだ」と、今もまだその写真を追求しているような顔つきであった。そうして、話の途中で手帳を繰り予定を書込んだり、何か行動に急きたてられているようなところがあった。かと思うと、私の妻に「一たい今頃所帯を持つとしたら、どれ位費用がかかるものでしょうか」と質問し、愛人が出来たことを愉しげに告白するのであった。いや、そればかりではない、もしかすると、その愛人同棲した暁には、染料の会社設立し、重役になるかもしれないと、とりとめもない抱負も語るのであった。二三度逢ったばかりで、私の妻が岩井繁雄の頼もしい人柄に惹きつけられたことは云うまでもない。私の妻はしばしば彼のことを口にし、たとえば、混みあうバスの乗降りにしても、岩井繁雄なら器用に婦人を助けることができるなどというのであった。私もまた時折彼の噂は聞いた。が、私たちはその後岩井繁雄とは遂に逢うことがなかったのである

 日華事変が勃発すると、まず岩井繁雄は巣鴨駅の構内で、筆舌に絶する光景を目撃したという、そんな断片的な噂が私のところにも聞えてきて、それから間もなく彼は召集されたのである。既にその頃、愛人と同居していた岩井繁雄は補充兵として留守隊で訓練されていたが、やがて除隊になると再び愛人の許に戻って来た。ところが、翌年また召集がかかり、その儘前線派遣されたのであった。ある日、私がSの許に立寄ると、Sは新聞第一面、つまり雑誌新刊書の広告が一杯掲載してある面だけを集めて、それを岩井繁雄の処へ送るのだと云って、「家内に何度依頼しても送ってくれないそうだから僕が引うけたのだ」とSは説明した。その説明は何か、しかし、暗然たるものを含んでいた。岩井繁雄が巣鴨駅で目撃した言語に絶する光景とはどんなことなのか私には詳しくは判らなかったが、とにかく、ぞっとするようなものがいたるところに感じられる時節であった。ある日、私の妻は小学校の講堂で傷病兵慰問の会を見に行って来ると、頻りに面白そうに余興のことなど語っていたが、その晩、わあわあと泣きだした。昼間は笑いながら見ものが、夢のなかでは堪らなく悲しいのだという。ある朝も、——それは青葉と雨の鬱陶しい空気が家のうちまで重苦しく立籠っている頃であったが——まだ目の覚めきらない顔にぞっとしたものを浮べて、「岩井さんが還って来た夢をみた。痩せて今にも斃れそうな真青な姿でした」と語る。妻はなおその夢の行衛を追うが如く、脅えた目を見すえていたが、「もしかすると、岩井さんはほんとに死ぬるのではないかしら」と嘆息をついた。それは私の妻が発病する前のことで、病的に鋭敏になった神経の前触れでもあったが、しかしこの夢は正夢であった。それから二三ヵ月して、岩井繁雄の死を私はSからきいた。戦地にやられると間もなく、彼は肺を犯され、一兵卒にすぎない彼は野戦病院殆ど碌に看護も受けないで死に晒されたのであった。

 岩井繁雄の内縁の妻は彼が戦地へ行った頃から新しい愛人をつくっていたそうだが、やがて恩賜金を受取るとさっさと老母を見捨てて岩井のところを立去ったのである。その後、岩井繁雄の知人の間では遺稿集——書簡は非常に面白いそうだ——を出す計画もあった。彼の文章が粗雑だと指摘した女流作家に、岩井繁雄は最初結婚を申込んだことがある。——そういうことも後になって誰かからきかされた。

 たった一度見たばかりの長広幸人の風貌が、何か私に重々しい印象を与えていたことは既に述べた。一九三五年の秋以後、遂に私は彼を見る機会がなかった。が、時に雑誌掲載される短かいものを読んだこともあるし、彼に対するそれとない関心は持続されていた。岩井繁雄が最初召集を受けると、長広幸人は倉皇と満洲へ赴いた。当時は満洲へ行って官吏になりさえすれば、召集免除になるということであった。それから間もなく、長広幸人は新京文化方面役人になっているということをきいた。あの沈鬱なポーズ役人の服を着ても身に着くだろうと私は想像していた。それから暫く彼の消息はきかなかったが、岩井繁雄が戦病死した頃、長広幸人は結婚をしたということであった。それからまた暫く彼の消息はきかなかったが、長広幸人は北支で転地療法をしているということであった。そして、一九四二年、長広幸人は死んだ。

 既に内地にいた頃から長広幸人は呼吸器を犯されていたらしかったが、病気の身で結婚生活飛込んだのだった。ところが、その相手資産目あての結婚であったため、死後彼のものは洗い浚(ざら)い里方に持って行かれたという。一身上のことは努めて隠蔽する癖のある、長広幸人について、私はこれだけしか知らないのである

     II

 私は一九四四年の秋に妻を喪ったが、ごく少数の知己へ送った死亡通知のほかに満洲にいる魚芳へも端書を差出しておいた。妻を喪った私は悔み状が来るたびに、丁寧に読み返し仏壇ほとりに供えておいた。紋切型の悔み状であっても、それにはそれでまた喪にいるものの心を鎮めてくれるものがあった。本土空襲も漸く切迫しかかった頃のことで、出した死亡通知に何の返事も来ないものもあった。出した筈の通知にまだ返信が来ないという些細なことも、私にとっては時折気に掛るのであったが、妻の死を知って、ほんとうに悲しみを頒ってくれるだろうとおもえた川瀬成吉からもどうしたものか、何の返事もなかった。

 私は妻の遺骨を郷里墓地に納めると、再び棲みなれた千葉借家に立帰り、そこで四十九日を迎えた。輸送船の船長をしていた妻の義兄が台湾沖で沈んだということをきいたのもその頃であるサイレンはもう頻々と鳴り唸っていた。そうした、暗い、望みのない明け暮れにも、私は凝と蹲ったまま、妻と一緒にすごした月日を回想することが多かった。その年も暮れようとする、底冷えの重苦しい、曇った朝、一通の封書が私のところに舞込んだ。差出人は新潟県××郡××村×川瀬丈吉となっている。一目見て、魚芳の父親らしいことが分ったが、何気なく封を切ると、内味まで父親の筆跡で、息子の死を通知して来たものであった。私が満洲にいるとばかり思っていた川瀬成吉は、私の妻より五ヵ月前に既にこの世を去っていたのである

 私がはじめて魚芳を見たのは十二年前のことで、私達が千葉借家へ移った時のことである私たちがそこへ越した、その日、彼は早速顔をのぞけ、それから殆ど毎日註文を取りに立寄った。大概朝のうち註文を取ってまわり、夕方自転車で魚を配達するのであったが、どうかすると何かの都合で、日に二三度顔を現わすこともあった。そういう時も彼は気軽に一里あまりの路を自転車で何度も往復した。私の妻は毎日顔を逢わせているので、時々、彼のことを私に語るのであったが、まだ私は何の興味も関心も持たなかったし、殆ど碌に顔も知っていなかった。

 私がほんとうに魚芳の小僧を見たのは、それから一年後のことと云っていい。ある日、私達は隣家の細君と一緒にブラブラ千葉海岸の方へ散歩していた。すると、向の青々とした草原の径をゴム長靴をひきずり、自転車を脇に押しやりながら、ぶらぶらやって来る青年があった。私達の姿を認めると、いかにも懐しげに帽子をとって、挨拶をした。

「魚芳さんはこの辺までやって来るの」と隣家の細君は訊ねた。

「ハア」と彼はこの一寸した逢遭を、いかにも愉しげにニコニコしているのであった。やがて、彼の姿が遠ざかって行くと、隣家の細君は、

「ほんとに、あの人は顔だけ見たら、まるで良家のお坊ちゃんのようですね」と嘆じた。その頃から私はかすかに魚芳に興味を持つようになっていた。

 その頃——と云っても隣家の細君が魚芳をほめた時から、もう一年は隔っていたが、——私の家に宿なし犬が居ついて、表の露次でいつも寝そべっていた。褐色の毛並をした、その懶惰な雌犬は魚芳のゴム靴の音をきくと、のそのそと立上って、鼻さきを持上げながら自転車の後について歩く。何となく魚芳はその犬に対しても愛嬌を示すような身振であった。彼がやって来ると、この露次は急に賑やかになり、細君や子供たちが一頻り陽気に騒ぐのであったが、ふと、その騒ぎも少し鎮まった頃、窓の方から向を見ると、魚芳は木箱の中から魚の頭を取出して犬に与えているのであった。そこへ、もう一人雑魚(ざこ)売りの爺さんが天秤棒を担いでやって来る。魚芳のおとなしい物腰に対して、この爺さんの方は威勢のいい商人であった。そうするとまた露次は賑やかになり、爺さんの忙しげな庖丁の音や、魚芳の滑らかな声が暫くつづくのであった。——こうした、のんびりした情景はほとんど毎日繰返されていたし、ずっと続いてゆくもののようにおもわれた。だが、日華事変の頃から少しずつ変って行くのであった。

 私の家は露次の方から三尺幅の空地を廻ると、台所に行かれるようになっていたが、そして、台所の前にもやはり三尺幅の空地があったが、そこへ毎日八百屋、魚芳をはじめ、いろんな御用聞がやって来る。台所の障子一重を隔てた六畳が私の書斎になっていたので、御用聞と妻との話すことは手にとるように聞える。私はぼんやりと彼等の会話に耳をかたむけることがあった。ある日も、それは南風が吹き荒んでものを考えるには明るすぎる、散漫な午後であったが、米屋小僧と魚芳と妻との三人が台所で賑やかに談笑していた。そのうちに彼等の話題は教練のことに移って行った。二人とも青年訓練所へ通っているらしく、その台所前の狭い空地で、魚芳たちは「になえつつ」の姿勢を実演して興じ合っているのであった。二人とも来年入営する筈であったので、兵隊姿勢を身につけようとして陽気に騒ぎ合っているのだ。その恰好おかしいので私の妻は笑いこけていた。だが、何か笑いきれないものが、目に見えないところに残されているようでもあった。台所へ姿を現していた御用聞のうちでは、八百屋がまず召集され、つづいて雑貨屋小僧が、これは海軍志願兵になって行ってしまった。それから豆腐屋の若衆がある日、赤襷をして、台所に立寄り忙しげに別れを告げて行った。

 目に見えない憂鬱の影はだんだん濃くなっていたようだ。が、魚芳は相変らず元気で小豆(こまめ)に立働いた。妻が私の着古しのシャツなどを与えると、大喜びで彼はそんなものも早速身に着けるのであった。朝は暗いうちから市場へ行き、夜は皆が寝静まる時まで板場で働く、そんな内幕も妻に語るようになった。料理の骨(こつ)が憶えたくて堪らないので、教えを乞うと、親方は庖丁を使いながら彼の方を見やり、「黙って見ていろ」と、ただ、そう呟くのだそうだ。鞠躬如(きっきゅうじょ)として勤勉に立働く魚芳は、もしかすると、そこの家の養子にされるのではあるまいか、と私の妻は臆測もした。ある時も魚芳は私の妻に、——あなたそっくり写真がありますよ。それが主人のかみさんの妹なのですが、と大発見をしたように告げるのであった。

 冬になると、魚芳は鵯(ひよどり)を持って来て呉れた。彼の店の裏に畑があって、そこへ毎朝沢山小鳥が集まるので、釣針に蚯蚓(みみず)を附けたものを木の枝に吊しておくと、小鳥簡単に獲れる。餌は前の晩しつらえておくと、霜の朝、小鳥は木の枝に動かなくなっている——この手柄話を妻はひどく面白がったし、私も好きな小鳥が食べられるので喜んだ。すると、魚芳は殆ど毎日小鳥を獲ってはせっせと私のところへ持って来る。夕方になると台所に彼の弾んだ声がきこえるのだった。——この頃が彼にとっては一番愉しかった時代かもしれない。その後戦地へ赴いた彼に妻が思い出を書いてやると、「帰って来たら又幾羽でも鵯鳥を獲って差上げます」と何かまだ弾む気持をつたえるような返事であった。

 翌年春、魚芳は入営し、やがて満洲の方から便りを寄越すようになった。その年の秋から私の妻は発病し療養生活を送るようになったが、妻は枕頭で女中を指図して慰問の小包を作らせ魚芳に送ったりした。温かそうな毛の帽子を着た軍服姿の写真満洲から送って来た。きっと魚芳はみんなに可愛がられているに違いない。炊事も出来るし、あの気性では誰からも重宝がられるだろう、と妻は時折噂をした。妻の病気は二年三年と長びいていたが、そのうちに、魚芳は北支から便りを寄越すようになった。もう程なく除隊になるから帰ったらよろしくお願いする、とあった。魚芳はまた帰って来て魚屋が出来ると思っているのかしら……と病妻は心細げに嘆息した。一しきり台所を賑わしていた御用聞きたちの和やかな声ももう聞かれなかったし、世の中はいよいよ兇悪な貌を露出している頃であった。千葉名産の蛤の缶詰を送ってやると、大喜びで、千葉へ帰って来る日をたのしみにしている礼状が来た。年の暮、新潟の方から梨の箱が届いた。差出人は川瀬成吉とあった。それから間もなく除隊になった挨拶状が届いた。魚芳が千葉へ訪れて来たのは、その翌年であった。

 その頃女中を傭えなかったので、妻は寝たり起きたりの身体台所をやっていたが、ある日、台所の裏口へ軍服姿の川瀬成吉がふらりと現れたのだった。彼はきちんと立ったまま、ニコニコしていた。久振りではあるし、私も頻りに上ってゆっくりして行けとすすめたのだが、彼はかしこまったまま、台所のところの閾から一歩も内へ這入ろうとしないのであった。「何になったの」と、軍隊のことはよく分らない私達が訊ねると、「兵長になりました」と嬉しげに応え、これからまだ魚芳へ行くのだからと、倉皇として立去ったのである

 そして、それきり彼は訪ねて来なかった。あれほど千葉へ帰る日をたのしみにしていた彼はそれから間もなく満洲の方へ行ってしまった。だが、私は彼が千葉を立去る前に街の歯医者でちらとその姿を見たのであった。恰度私がそこで順番を待っていると、後から入って来た軍服青年歯医者挨拶をした。「ほう、立派になったね」と老人の医者は懐しげに肯いた。やがて、私が治療室の方へ行きそこの椅子に腰を下すと、間もなく、後からやって来たその青年助手の方の椅子に腰を下した。「これは仮りにこうしておきますから、また郷里の方でゆっくりお治しなさい」その青年の手当はすぐ終ったらしく、助手は「川瀬成吉さんでしたね」と、机のところのカードに彼の名を記入する様子であった。それまで何となく重苦しい気分に沈んでいた私はその名をきいて、はっとしたが、その時にはもう彼は階段を降りてゆくところだった。

 それから二三ヵ月して、新京の方から便りが来た。川瀬成吉は満洲吏員就職したらしかった。あれほど内地を恋しがっていた魚芳も、一度帰ってみて、すっかり失望してしまったのであろう。私の妻は日々に募ってゆく生活難を書いてやった。すると満洲から返事が来た。「大根一本が五十銭、内地の暮しは何のことやらわかりません。おそろしいことですね」——こんな一節があった。しかしこれが最後消息であった。その後私の妻の病気悪化し、もう手紙を認(したた)めることも出来なかったが、満洲の方からも音沙汰なかった。

 その文面によれば、彼は死ぬる一週間前に郷里に辿りついているのである。「兼て彼の地に於て病を得、五月一日帰郷、五月八日、永眠仕候」と、その手紙は悲痛を押つぶすような調子ではあるが、それだけに、佗しいものの姿が、一そう大きく浮び上って来る。

 あんな気性では皆から可愛がられるだろうと、よく妻は云っていたが、善良なだけに、彼は周囲から過重な仕事を押つけられ、悪い環境機構の中を堪え忍んで行ったのではあるまいか親方から庖丁の使い方は教えて貰えなくても、辛棒した魚芳、久振りに訪ねて来ても、台所の閾から奥へは遠慮して這入ろうともしない魚芳。郷里から軍服を着て千葉を訪れ、晴れがましく顧客歯医者で手当してもらう青年。そして、遂に病躯をかかえ、とぼとぼと遠国から帰って来る男。……ぎりぎりのところまで堪えて、郷里に死にに還った男。私は何となしに、また魯迅作品の暗い翳を思い浮べるのであった。

 終戦後、私は郷里にただ死にに帰って行くらしい疲れはてた青年の姿を再三、汽車の中で見かけることがあった。……

2020-02-20

海外版は削除せず】クルーズ告発動画削除 岩田氏「迷惑かけおわび」[2/20]

こりゃ小西同様に陸上自衛隊の三等空佐脅迫されたな

まるでノースコリア帝国のような言論弾圧ぶり

 

歩道上で出くわしたところで、ぱっと視線を向けられたので、私は目礼しました。その男性は走りながら、何度も私のほうを振り返ったので、そのたびに目礼しました。国会図書館前の交差点で立ち止まると『小西か?』と声を掛けられました」

 以下、小西氏の記憶をもとに事の経緯を詳述する。

はい小西です」と答えると、いきなり「おまえ、ちゃん仕事しろ!」などと絡んできたというのだ。

一般の方からもよく路上で声を掛けられ、励ましだけでなくご批判言葉を頂くことがあります。ご批判の時は、私はいつも『信念に基づいて、国会議員として仕事をさせて頂いております集団的自衛権解釈変更について憲法違反であることを証明してきました』などとお伝えするようにしてきました」

 この時も小西氏はそう答えると、男性は「俺は自衛官なんだよ。おまえは国民の敵だ!」と言い放ったという。

あなた自衛隊員なんですか?」

 小西氏は驚きながらも話を続けた。

憲法違反戦争で、あなたがた自衛隊員戦地に送られるのを阻止するために、政治生命を掛けて闘っています

 それでも男性威圧的な態度で「おまえ、気持ち悪いんだよ」「国民の敵だ」「国会議員意見して何が悪い?」などと罵り続けてきた。

  

国会議員でこれなら医師だったら89式小銃をもって待ち伏せしそうだ

2020-01-06

新宿駅南口の橋で首を吊った人を見た時の正しい行動

twitter写真が流れ、それを見て不謹慎厨が日本を憂う流れ。

命を大切にしないだとか、現代社会の闇だとか。

じゃぁ新宿で首をつっている人が居た時の正しい行動って何なのか。

手を合わせて拝む?急いで救うために走る?できるだけ見ないようにして歩く?何をしても批判されそうな気がする。

現代社会の闇なのはネットの奥で批判して正しい事をした気になってる人たちじゃないの。

現代人は命を大切にしないとか聞く度に、おばぁちゃんの命に対する向き合い方とか、インド映像とか、戦地体験談江戸時代さらし首が頭をよぎる。

祖母田舎まれ田舎育ちで、家ごとに鶏やウサギを育てて食ってた世代だった。そういう人たちにとって、命というのはあくまで道具で、守るべき大切なものじゃない。

腹が減ったら鶏を絞める、ねずみが居たら岩に投げつけて殺す。

インドには道端に沢山死体が転がってるが、周囲の人は平気で歩く。戦地で人が死んでも10日で慣れる。江戸時代晒し首が見物だった。

生きるのも、死ぬのも、普遍的で、ありきたりなものだった。

現代人は命というものに鈍感すぎると思う。スーパーには元の形を想像できないほど細切れにされた肉しか並ばない。

その鈍感になった結果が、「命を大切にする」という価値観を生み出した。ヴィーガンが増えてるのも、そういう理由だろう。

昔の人は兎に角命を大切にしない。子供病気になったらすぐ死ぬし、大切にしてたら美味しい肉も食べれない。

死に向き合えば向き合うほど、人は命を大切にしなくなる。

僕には死体カメラで撮って喜んでる連中の方が、幾分死や命というものをわかってると思う。

死んだらただの肉だ。人に見えるところでわざわざ死ぬのは迷惑野郎だ。

死んだ後にかける同情なんて無意味だ。生きてるときに同情をかけてない奴が死んだ後に同情するな。

スーパーの食肉を平気で眺めてる奴が、人型になった途端騒ぐな。

文明化された社会では、死は忌避される。

死を当たり前ととらえる人間にとって、文明人は嫌悪感を抱くのは当然の摂理かもしれない。

だけど「本来の命の価値」は、心の隅に置いておくべきだと思う。

死んでる人間より生きてる人間時間をさくべきだ。

世界なんて狂ったままでいい。こんなに命を大切にするなんて、むしろ今の平和な世の中特有で、むしろ狂っているだろう。

It's a trueworld.狂ってる?それ誉め言葉

戦争になっても俺は嫌な思いしない

どうせ仕事もなく親の金を食い潰して無益に生きてるだけだし、戦争でも起きて社会全体の生活水準が下がった方が俺にとっては嬉しいかもしれない

戦地に駆り出されるのは御免だけど、いざとなったら精神病のフリでもして(大路を走れば…っていうし)徴兵逃れって手もある

つうか純粋な疑問なんだけど今の世の中で総動員体制って成立するのかな いまどき愛国心なんてあるやつかなり少ないだろ

2020-01-02

「私が一番綺麗だったとき」を読んで女の楽さに腹が立った

男性機関銃背負って戦地に赴き、生きるか死ぬかの瀬戸際で泥水すすって戦ってたのに、「贈り物をくれなかった」「おしゃれできなかった」だってよw

平和ときでも男性はそれらに大きな制約があるのに、そんな贅沢なこと気にしてんのかよって腹立たしい

本当に、女はいつの時代も男よりも明らかに楽だよな

もっと言うと現代ではもっと酷くて、

世界一男より女の方が幸せで、OECD日本人男性有償労働時間が一位、過労死自殺率も男が圧倒的な割合を占める

弱者」はどっちなんだかw

あと、男性平均寿命女性の一割近く短いのに、どうしてそこは「結果の平等」を誰も求めようとしないんだ?

STEM系統で男女格差はないと盲信してるくせに都合がいいんだな

2019-12-30

現役自衛官戦闘によって死亡した例って絶対あるだろ

歴史上そんな事例はないことになってるけど。

そもそもベトナム戦争で現役自衛官が一人も戦闘参加させられてないなんて考えられない。

間違いなくアメリカ日本にそのレベル協力を強いるはずだし、日本のほうも完全服従で極秘で半強制的自衛官戦地に送り込むでるはず。

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