はてなキーワード: ステンシルとは
軍服というものは、伊達で着ているわけではなく、現在においては国際法上の意味がある。則ち、交戦者資格の獲得である。
現在の国際法上では、戦争は(基本的に)交戦者と交戦者・軍事施設間で行われるもので、それを外れた場合、戦争犯罪となる。これを容易とするために、戦闘を行う者は、保護されるべき文民と明確に区別されなければならないのだ。
この国際法は古くはヘーグ陸戦条規に端を発し、現在はジュネーブ諸条約追加議定書(77年)によって条件づけられている。
時期によっても異なるが概ね
にという条件が課せられる。諸条件を欠きながらも戦闘行為に参加した場合、交戦者として得られるべき保護、端的に言うと捕虜として正当な扱いを受ける権利を失う。ただし、その場でコロコロしていい訳でもない(現在では)。
さて、
2については、以前は「遠方より視認できる固有標章の着用」が義務付けられていた。
即ち、軍隊らしい立派なおべべを支給できぬ場合、交戦者たらんとする者共は「固有標章」だけで何とかしろというケースがあったのである。WW2における著名なケースを見てみよう
欧州を失陥しつつあった大英帝国はドイツ軍上陸の予感に、1940年5月国内の未動員人材を活用して戦力化することを決定した。これがLocal Defence Volunteers-LDV・地域防衛義勇隊、後に改称しホームガードである。ただし、装備品をほとんどダンケルクに置いてきた英軍に、そんな有象無象共に渡す制服などなかった。一時期かの有名なホームガード・パイク(水道管に中古の銃剣を取り付けたヤリ)すら取りざたされていたのである。そんな時こそ、「固有標章」の出番である。具体的には、腕章だ。
https://www.iwm.org.uk/collections/item/object/30077601
ただし、勝ち組なうえ、ケツモチとして米帝がついていたので、数カ月後には制服・真っ当な装備が支給されだした。しかしその前に100万のLDV腕章が製造されていたのである。
欧州を失陥しつつあったドイツ第三帝国は、1944年9月いよいよ枯渇した戦力の穴埋めに男子の総動員を行った。これによって編成されたのが国民突撃隊である。これにより、質はともあれ600万人の兵力が補充される予定であった。
負け戦中に600万人にパリッとした制服なぞ提供できるはずもなく、服装は「野戦向きなら何でもいい」自前。そんな時に国家がすがるのが、そう、腕章である。
黒地に国家鷲章と「Deutscher Volkssturm Wehrmacht」(ドイツ人民突撃軍)のステンシルが施されていた。
https://en.wikipedia.org/wiki/Volkssturm#/media/File:Volkssturm_armband.svg
占領地どころか、沖縄まで失陥し、大日本帝国は本土決戦を覚悟していた。そのための補充兵力として45年6月、国民義勇戦闘隊を編成するための法整備が行われた。これは男女問わず(対象年齢に差あり)必要に応じて召集することができ、2800万人を動員する計画であった。義勇と名前がついているが、召集と書いた通り義務兵役の類である。
本土残地の正規軍にすらろくろく兵器物資がいきわたっていないところに2800万人の動員である。当然制服など配る余裕などない。なにせ武器だって自前で用意する想定である。そのための竹槍。
そんな時こそ腕sy・・・あれ?腕章ってば輪っかにする分布地余計に要るよね?ピコーンひらめいた!
というわけで、一般隊員は6×7センチの白布に「戦」と書いたものを右胸に縫い付けることと相成ったのである。なお、指揮官級は幅10センチの白い腕章をつけることになっていた。
なお、この部隊は樺太の戦いで実戦投入された以外は、交通職域で200万人が動員された程度にとどまった。
https://www.digital.archives.go.jp/das/image/F0000000000000043434
インテリアを探していると、「男前」というキーワードが目に入るようになった。
何かと思って調べたら、お部屋自慢投稿サイトから流行りだした言葉のようだ。
私が好きなジャンルはミッドセンチュリーやインダストリアル系で、確かに男性的ではあるが、
検索結果によく出てくるのは、それとはかけ離れた細いワイヤー雑貨に男前という売り文句なのだから参ってしまう。
① 男としての容貌や姿。 「 -が上がる」
② 男らしい顔つきや態度。男振りのよいこと。
上記から男前インテリアとは、男性的で格好良く感じるインテリアのことと考えられる。
女に比べ男は、大きく直線的で、硬質である。多くの場合、女より喋らない。
現代では優男がちやほやされたり男のイメージも様々あるが、ひとまず、男性的な特徴が誇張されたものが男前と受け取ってもよさそうだ。
「男前インテリア」と検索すると、続々出てくる貧相なお部屋たち。
ビーカンパニーやニコアンドに毛が生えたような、カントリー系に近いものばかりだ。
ばかでかい英字ステンシルが恥ずかしくてたまらない。おしゃべりな英字は、男前と言えるのか。
木と鉄の素材なら、なんでも男前なのか。
「男前インテリア」は、「細マッチョ」のような、イメージが噛み合わない気持ち悪さを感じる。
元の2つの主張
ステンシルによってアルファベットやら数字やら文字やらを描く手段が使われる場所といったらねぇ。
基本的に「ステンシル書体が使われる場所」ったらこんなところだろ。
「なぜそういう書体になっているのか」「かつてどういったところで使われてきたか、使われている書体なのか」
「どういうイメージを連想させる書体なのか」ということを考えもしないで
前者について「反例を出せ」って言われたからそれらしきものを挙げたまで.
http://www.horniman.ac.uk/ に使われているタイポグラフィが
「なぜそういう書体になっているのか」
「国営」「美術館」でステンシル書体のようなものが使われている例
https://twitter.com/lunar0/status/641130016193941504
こういう話もあるみたいだな。
ステンシルによってアルファベットやら数字やら文字やらを描く手段が使われる場所といったらねぇ。
基本的に「ステンシル書体が使われる場所」ったらこんなところだろ。
https://en.wikipedia.org/wiki/Stencil
間違っても、三大文化施設?とやらに数えられるような場所に縁のある書体ではないわな。
「なぜそういう書体になっているのか」「かつてどういったところで使われてきたか、使われている書体なのか」
「どういうイメージを連想させる書体なのか」ということを考えもしないで
リエージュは同心円をモチーフにしてて、ステンシル書体がベースではない
かも知れないよ。
http://blog.goo.ne.jp/motch150530/e/8d061ff0d8a8fcbfcf6914cb99923677
現代でも立ち食い蕎麦のように安かろう不味かろうのイメージがあるから、
天皇陛下に献上するはずがない」と書くと一見するともっともらしいけど、
「ステンシルは野蛮だから王立劇場に使われるはずがない」だけでは、
ちょっと説得できないよなぁ。
ちゃんと根拠を示してくれないと。
「でもステンシル書体と共通する特徴があるんだし、ステンシル書体と同じ」というところから恐らく深津氏の論理は出発しているんだけど、
実際、共通する特徴は存在するんだが
「だからステンシル書体である」っていうのなら、深津氏が自身で挙げている例でいう「井と#を同じ文字、しとJを同じ文字とする」こと同レベルのことを言ってることになる。
深津氏は、ステンシル体が一体どういう経緯で作られ、どういう用途で用いられている書体なのか、という「背景」を理解してないね。
よくわかる、なぜ「五輪とリエージュのロゴは似てない」と考えるデザイナーが多いのか?
http://bylines.news.yahoo.co.jp/takayukifukatsu/20150907-00049112/
なんというか、この記事を読んで「この人って常識も教養もないのか?」って思った。
もしこの見解が「デザイナー界隈の最大公約数」というのなら、デザイナーってのはどれだけ教養も常識もないのだろう。
この説明をみて「その通り!」って思う人って、どれだけ教養も知識もないのだろう。
深津貴之という人は、ベルギー国やそのデザイナーを侮辱しているのだろうか。
今回の類似性を理解するには、前提としてステンシル書体を知っていなければなりません。これは製図やレタリングで使われるステンシルテンプレートをモチーフとした書体の通称です。リエージュや、チヒョルト展の文字デザインは、このステンシル系の書体をベースにしています。
などとあるように、深津氏の論理の大前提に「リエージュロゴ」や「チヒョルト展ロゴ」は、ステンシル書体を基本にして作られている、という主張をおいている。
そんなわけあるか。
ステンシル体というのは、ペンキやスプレーなどで簡単に、木箱や木樽などにアルファベットをペイントする「型紙文字」を模したものだ。
ところどころ文字の線が切れているのは、「型紙を作るときに閉曲線を作らない」為とか、さらに型紙の強度(壊れにくさ)なども加味した、
実用大前提の理由があるんであって、オシャレのためでも独自性のためでもない。
更に、ステンシル書体の由来が「実用」、それも非常に泥臭い場所や用途での実用やその使われる対象や実際の転写品質の関係もあることから、
ステンシル書体は「野性味」、良い意味での「不精さ」「無骨さ」「無頼」「不器用」「泥臭さ」「俗っぽさ」「荒っぽさ」、そういうイメージを連想させるものだ。
ベルギー国王の名前を冠したベルギー王立の劇場のエンブレムを作るときに、そんなものから出発するわけがないだろう。
深津氏の主張は「ベルギー王や王立劇場のイメージは、野生、不精、無骨、不器用、泥臭い、俗っぽい、荒っぽい、である」といっているに等しく、
ステンシル書体から出発してスタイリングを経て現在のロゴになった、と主張するということは
「リエージュ劇場は、ちょっときれいにスタイリングされただけ、そもそもの根本的にはステンシル書体が似合う場所なんだよ」と言っているにすら等しい。
あまりにも無教養すぎるし、ベルギー国や王立劇場、そのデザイナーに対してあまりに侮辱的過ぎる。
「でもステンシル書体と共通する特徴があるんだし、ステンシル書体と同じ」というところから恐らく深津氏の論理は出発しているんだけど、
それこそ深津氏が言うところの「井と♯と#が同じ文字と言っている、無学な藁人形」と深津氏の知能が同じであるということに等しい。
なんというんだろう、これが本当に「デザイナー」の共通認識なのか?
デザイナーというのはここまで無教養で、無礼で、不躾で、まがりなりにも一国の王を侮辱して恥じない人間なのか?
深津氏の説明を聞いて「なるほど」と思った人は、このぐらいのことも頭が回らないのか?
http://twinavi.jp/topics/news/55ed5ffc-0a30-4ffc-a057-3b8eac133a21 これ。
なんとなれば「T」に隙間の無いステンシル書体が存在することは、リエージュロゴがステンシル書体をモチーフにしていない理由にはならないから。
元記事(よくわかる、なぜ「五輪とリエージュのロゴは似てない」と考えるデザイナーが多いのか?)では、名刺やデザイン展開を根拠にリエージュロゴはステンシルをモチーフにしている、としていて、そうすると「Théâtre de Liège」の頭文字TLを合わせたあのロゴの隙間が論理的整合性を保って説明できる。
一方反論記事(デザイナーの『ごまかし』 本当に「五輪とリエージュのロゴは似てない」か?)では、
リエージュロゴについて言えばむしろ、(佐野氏が五輪エンブレムのモチーフとして紹介した)DidotやBodoniのようなローマン系のフォントのセリフ(文字の端のヒゲの部分)から発想し、エリアを囲む四角形を外円の円周をあてて切り抜いた、と考えるほうが自然に思われます。
となっていて、その根拠が全く示されないため「お前がそう思うんならそうなんだろう お前ん中ではな」と言わざるを得ない。
そして反論記事後段の「ごまかし」の指摘。ここも微妙だったりする。
「似てない」根拠は、「似て見えるか、似て見えないか」でも、エンブレムのデザインそのものではなく、デザインする上での「設計思想」のみと言うことになります。
──つまるところ、この記事の解説は、佐野氏が会見で行った解説に、自分に都合のいい事例だけを付加しただけの「ごまかし」ということになるのではないでしょうか?
反論記事の筆者は上記のように元記事を批判しているわけだが、ここに反論記事自身の「ごまかし」がある。元記事の主張に向き合わず周辺箇所にレッテルをはることで矮小化しようとしている、とでも言えばいいのか。
どういうことかというと、元記事の主張は、両ロゴはコンセプト(=設計思想)が違うため、「似てない」とするデザイナーが多い、である(個人的には「似てるけど設計思想が違うから別物」と表現した方がいいとは思う)。
これが元記事の根幹であり、元記事を批判するのであれば最初にツッコミをいれるべきだと思うが、反論記事はここをスルーする。そして逆に、元記事におけるステンシル書体や商標のくだりを「自分に都合のいい事例」と批判する。
しかしステンシル書体のくだりは、リエージュロゴ側のコンセプトを推論したものであり、主張の根拠となり得るものだ。他方、商標のくだりは何故事前に類似を見抜けなかったのかや、何故ロゴを事後修正したのかという疑問に答えるためのもの。
いずれも元記事内での役割があり、その役割に妥当性もある。決して「自分に都合のいい事例」でもなければ「ごまか」すためのものでもない。逆にそうレッテルをはってしまう反論記事に「ごまかし」を感じてしまう――のだが、はてなの諸賢にはどう映っただろうか。
スポーツの祭典を象徴するロゴの騒動は、辞退した事もあって一応の落ち着きを見せ、総括の段階に入ったようだ。
つまり、アレは一体何だったのかという説明と、それに対する反発の第二ステージに入ってきたと言って良い。
ロゴに関しては、専門家の説明と素人の感情の両方がネットでは読めるので、説明はしない。
ここで触れるのは「自分がもしも佐野氏の立場になったら」という対処法だ。
一番簡単なのは、諦めることだ。
店長を思いローソンカラーに塗ってみたら面白かったので、Twitterに写真を載せた。
「それ、セブンイレブンのパクリでしょ?」「べつやくれいが恐竜に塗ってたのパクった?」
続々とリプが飛んできたとしよう。クソリプとは言えない。適切な感想だし。
ここで、「いや、思いつきで」とか「セブンイレブンのヤツは今ググったけど、みたことない」
みたいな反論は火に油だ。転載されてどこかのまとめサイトにでも載ったら、まあオシマイだろう。
最終的に識者に「著作権的にはグレーですが、迂闊な公開とは言えるかもしれません」とかオチが付いたりする。
相手の意見を肯定しつつ諦めることで、2,3日すれば「消すくらいなら上げるな」的なクソリプも収まる。
ちょっとややこしいので、まず分類しておこう。
「パクリ」と「似てる」には明確に差があって、
「パクリ」は「誰かのに似せる」という「行為」を問題視される。盗用や盗作等、黙って使うと非難される。
「似てる」は「誰かのに似ている」という「結果」を問題視される。途中経過は、あんまり関係ない。
「パクリ」とは「似せる」という「行為」を問題にされるので、やってるやってない双方で証明は異常に難しい。
これは「所有権を主張するなら、譲ってもらった相手が譲ってもらった相手のそのまた譲ってもらった(以下略」と最初まで遡って証明せよ、と言われていたいわゆる所有権の悪魔の証明みたいになる。
そして、対処法も法律の枠組みと同じになる。証明責任を転換させる「権利推定」という手法だ。
「この事実があるんだから、この権利があるものと推定する」という方法。
プロセスに沿って仕事してましたよ、と説明すれば良くなる。(というか、良くなることにしないと進まないのでそう決めてる)
先行技術調査、なんていい方をするけど、似た特許がすでに無いか調べてから出願する(特許を出す)のが一般的だ。
この場合、特許庁に登録されているもので調べれば、少なくとも仕事の上では、以後問題になることはない。
プロセスに沿って仕事していれば、特許無効審判で潰されても、賠償問題にはならない。
ポイントは大きくは2つあって、まあ「格」と「情緒」と言っても良い。
人間の屑であってもクレバーな人間は多いし、サイコパスだからこそ社会的に成功するなんて論文もある。
冷静に考えれば、「人間性」と「その人が行った成果」は、全く関係ないんだけれども、世の中そうはなっていない。
「格式」は、服装振る舞い挨拶儀礼ほぼ全てについて回るので、まあ、根強いし仕方のない面もある。
「情緒」は、論理性とかは特にないので、同じように情緒的に対応するしか無かったりする。
こういう場合、特許情報プラットフォームで調べると、出願されてるかは判る(例えば「はてブ」は、登録5672858で登録済み)
例えば、全くの天啓で「アノニ増田」を思いついたとする。(これは商標登録されてない)
こういう時は、弁理士か弁護士に依頼して、商標出願してもらうのがプロセスになる。
こうすると、「パクリじゃない」と調査してくれた上で、「似ている」場合のリスクの報告もしてもらえる。
そして、法律上の問題点をクリアした上で、「格式」として、類似に見えるサービス展開はどうだ?みたいな話になる。
なんで言質をとって関係者展開で事実を積み上げるかというと、次への布石になるからだ。
「格式」や「情緒」しか問題がない場合は、明らかな「難癖」は、見た目で判りやすくなるからだ。
(仕事で良くある「それは法律上の」とか「それは盗作や盗用のリスクが」という批判を潰せる)
まあ仕事でもないと、プロセスに則って何かをやるってのは難しい。
個人では弁護士に依頼して調査してもらう(お金で責任の肩代わりをしてもらう)ことはまずない。
そうすると、言質をとって対応するのが次善の策になる。
「パクリだ!」→「これはこういうことで」→「そういうことを言ってるんじゃない!」というのを、前提とするってことだ。
特に、発言の多様性で意味を変えてくる(大抵謝ったりしない)相手に対応するときの基本方針になる。
これは、コミュニケーションを繰り返すという意味ではなくて、想定しておくという形になる。
この深津氏の説明が優れているのは、「言質をとって切り分ける」想定問答集として理想的な形になっているからだ。
たいへん雑で恐縮だが、「対処法」に絞って整理すると、説明としては以下のようになる。
途中、デザイン寄りだったり、秘匿性の話が挟まっていたりはするものの、きちんと切り分けされている。
「オマエのことが気に入らない」とストレートに言う人間は、実は非常に少ない。
「俺は、なんとなく、気に入らない」は、ほぼ無敵で対処法が存在しないけれども、
「みんなは、法律的に、問題視するのでは」という「第三者批判」は対処法がある。
その為、深津氏の説明は、
という流れで、以下の結論に持って行ってる
反論しようとすると、法律の問題か感情の問題かのどちらかをハッキリ言わないとバカに見えるようになっている。
(オリジナル部分が違えばパクリではないと規定しているが、妥当な前提だろう。似てるだけなら全部ステンシル書体のパクリになるし)
(「著作権的にオリジナル主張が難しい」という弁理士や弁護士やその他デザイナーが指摘はできる構成)
仕事上で諦められないなら、プロセスに沿って仕事してた、対応は粛々としますと切り返せ。
仕事でネット上で炎上したら……感情の解消と、法律面の対応は、両輪。
「情緒」の解消は、基本的に当事者間の話し合いになるので、そこをクリアするとネットは沈静化するよ。
(法律面は粛々と対応。「格」対応は、週刊誌ゴシップで蓄積有るはず。基本根回しとコネ)
……上記は、難癖対応であって、弁護士が代理人としてやってきたら、ちゃんと対応しよう。
まあ、今までは週刊誌で盛り上がるだけなんで抑えも取引も効いただろうけど、ネットから燃え広がるとコントロール難しいからねー
事務所兼寝床に帰ってきた頃には始発が動き出す時間になっていた。興奮冷めやらぬままソファに腰掛ける。リュックから盗ってきた卒業アルバムを取り出した。パラパラとめくると、クラス集合写真の載っているページを見つかった。ポケットから高橋圭一の写真を取り出し、ページにかざす。
高橋圭一の写真からは、今も四方八方に無数の関係が伸びている。その内の一本が、集合写真の上に伸びている。まず一人。期待通りだ。俺は全クラスの写真から、高橋圭一と関係を維持している数人を見つけ出した。
夕方まで一眠りすると、同じく卒業アルバムから見つけた電話番号を使って、さっき見つけた高橋圭一の元同級生達に電話をかけた。何気ない卒業アルバムの持つ情報としての価値の高さに驚く。そりゃあ個人情報保護が厳しくなるはずだ。
「もしもし、私、佐藤君のクラスでクラス委員をしていた佐々木と申します。覚えておいででしょうか?」
「は、はぁ……」
覚えているはずがない。佐々木というクラス委員が居たのは本当だが、卒業アルバムの写真の上で、二人の間には一切の繋がりがないのは確認済みだ。
「佐藤君とは同じサッカー部のチームメイトとして、仲良くやっていたのですが。話にだけでも、聞いていませんでしょうか?」
二人がサッカー部だったというのも本当だ。
「それで、ご用件は何でしょうか?」
「高橋君のニュースは聞いてますよね? ほら、僕達、元同級生として高橋君には特別な思い入れが……今回の事には、みんなショックを受けていまして。一度、ケジメと言いますか、僕達で集まって、話しておこうということになりまして……それで、佐藤君の今の連絡先をもらえませんか?」
同様の手口で狙いをつけた元同級生、全員分の住所を手に入れた。
* * *
週末。洋服の青山で買い込んだ安いスーツに身を包み、俺は調べをつけた元同級生達の元を訪ねてまわっていた。全員高橋圭一と同じ年齢で、31歳だ。同じ高校を卒業したはずなのに、それから十年以上も経つと二人として同じ人生を送って来なかったのが分かる。幸せな家庭を築いている者、そうでない者。卒業アルバムの中で凛々しい顔つきの少年が、立派な中年に育っていたり。
これから訪れるのは都内大手企業の独身寮だ。目的の部屋を見つけ、インターホンを鳴らす。
やがて、くたびれたトレーナー姿の男がドアを開けて顔を出した。
「田中さんですね。私、こういう者なのですが……」
俺は懐から『警察手帳』を取り出し、彼の目の前に掲げた。マスキングテープとステンシルを活用して、それっぽい黒い手帳に旭日章と警視庁を金字でスプレーしただけの偽造警察手帳だ。何度も作り直してやっと完成した。力作だ。このタイプの警察手帳はもはや使われていないそうなのだが、疑われることはなかった。
「警察の方が、何の用ですか?」
いかにも警戒している。そりゃ突然訪問してきた警察なんて、歓迎はされないだろう。俺は偽造警察手帳を懐にしまい、代わりに高橋圭一の写真を取り出した。
「ご存知でしょうが、高校の元同級生だった高橋圭一が都内連続児童誘拐殺人事件の容疑者として取り調べを受けています。それで念のため、元同級生にもお話を伺ってまわっているんですよ」
「俺が何か知っているとでも?」
「いえ、全員に聞いていまして」
俺は、ちょっとすまなそうな顔をして言った。
「何も知りませんよ。高橋とは、卒業以来会ってもいない。別の世界の住人でしたから」
「そうですか。ご協力ありがとうございました」
俺は頭を下げて、その場を後にした。
彼は嘘をついている。俺の目には高橋圭一の写真から彼へ繋がる関係が見えていた。十年以上昔の元同級生などという、弱々しい関係ではなかった。それは、警察に嘘をついてでも隠さなければならないような関係だ。さて、一体何を隠しているんだろうね?
* * *
鞄から携帯を出そうとしたら、隣に座っていた人のNexus7にぶつかって
あ、すみませんと顔を向けたら、知っている顔だった。
ひとしきり近況を交換したところで、知人が見せたいものがあるという。
内製アプリのプロトかなにかと思ったら、タップしたのは標準アプリの「ギャラリー」だった。
彼はちゃっかりリア充ぶりを見せつけるように時間をかけた後、伊豆で撮ったという一枚の寂しい写真に最終的に辿り着いた。
下のサングラスのようなアイコンをタップすると端末を持って周りを見回してくれと言う。
言われるままに端末を滑らすと、真冬の弱々しい太陽とくすんだように黄色く低い灌木が山裾まで広がった景色が左に流れ、
代わりにここまで撮影者を連れてきたのであろう山道が山の嶺の向こうまで続いて風景に変わっていた。
はっと後ろを向けば、ステンシルで型どられたような影法師が山緑を上下に分けていた。
行ったこともなく名前も聞いたこともないその場所に、あの時私は確かに立っていた。
「これを知ったら、一眼レフはもう持てないよ。」
ゴルフのドライバーの代わりに三脚を車のトランクに突っ込んでいたことを思い返せば、
その発言は驚きで、でも理由を説明されなくても分かる気がした。
ハードウェアじゃなくて完全にソフトウェアで実現していること、
内蔵された傾加速度センサがそれを可能にしていること、
撮影するのに時間がかかるけど、たくさんのカメラがあれば一瞬で出来ること、
ドイツのベンチャーが、放り投げるだけで360度の視界を撮影できてしまうカメラボールを開発していて
日本でも入手できることなど、たくさんの覚えきれない話に時間はゆっくり流れていく。
今のところ、これの唯一の欠点は足下が幽霊になってしまうことぐらいだねーと、
さっきは気づかなかった、臑の先が風景に溶け込んでいく自然さに笑った後、
「ところで、そのNexus4にも同じ機能入ってるはずだよ」
ぽろっと落雷が舞い込んだ。そうだ、この携帯、KitKat入ってた。
IoTって言葉がなんかバズって久しいし、iBeaconやAndroidWearが後二年ぐらいしたらフツーになってるからと
上司に力説されて、AndroidWearのデモアプリを動かすためによくよく調べず購入したけど
今のところマインクラフトPEのMODスキンをその場で確認できる自己満足くらいにしかなってないNexus4が
使い方はいたって単純。ランチャーアプリすら入れていない自分の環境では
ホーム画面を開いて、左下のカメラボタンをタップして、同じような位置にあるアイコンをタップして、
一覧の一番上の地球儀がサングラスを掛けたようなアイコンをタップして端末をまっすぐ前に掲げて「Align to start」という文言を見ながら待つだけ。
これすごいよ、と電車内を盗撮しまくっていたところを友人につっこまれ、
「じゃあ、開けた場所に行こう」と自分の予定も友人の予定も置き去りにしたまま、
全方位写真は撮影者が一番臨場感を感じると思います。楽しいです。
Nexus5と間違えてNexus4を購入した時は世界が終わったような感じがしてましたが、