はてなキーワード: YHWHとは
というよりYHWH系と一緒
スリーS @Super_S_Shoborn
報復や排除による危険性を無制限に正当化するのもまた危険です。極端なことを言ってしまえば『貴方の周りの空気を保護する。吸えば貴方に対して報復する』ということも殺人の正当化に悪用されてしまいますね。従って人間への危険性が最小になるように線引きする必要があります。今の所設定されているベターな線引きはヒト及びヒトに所有される(動物含む)物ですね。
その線引きに動物まで含めてしまうと、動物資源によって生存している人間及び今後そうなるかもしれない人間(つまり万人)は生存手段を奪われた形になります。鯨も飢饉時は立派な食料です。狩猟には継続的な経験が必要ですので、飢饉時だけは鯨を殺していいと言われても狩猟出来ずに餓死です
箱のなかの海 @kawa_machi
さて、また最初の問に戻ってきました。 ”ヒト”とは何でしょう?
遺伝情報? 認知判断能力? 苦痛を感じる能力? YHWHがそう定めた?
報復の危険性を無制限に正当化できないなら、それを制限して正当化する基準が必要になります。
空気はおそらく”人”や”動物”ではないと私も思います。では何を基準に、そう判断するのでしょうか。
少なくとも
でないことは合意できたと考えて良いですか?
スリーS @Super_S_Shoborn
個人的な意見ですが、関係性によってヒトはヒト足りうると思っています。従って遺伝情報認知判断能力苦痛を感じる能力という一個体を観察するだけではヒトをヒトだと理解出来ないのでしょうね
合意してませんね。鯨のために報復する人間がいるから鯨を殺すのは危険だと認めますが、鯨を殺す手段を失うのはそれ以上に餓死のリスクを伴うから、鯨のために報復する人間を排除してまで鯨を殺す手段を維持しなければならないとは言っていますが
箱のなかの海 @kawa_machi
さて、関係性という言葉の定義はまだわかりませんが、例えば犬や馬に対して関係性を感じる人はいるでしょう。一方で、犬や馬は食用に殺されてもいます。関係性を結び得る相手を”ヒト”とするなら、馬や犬は”ヒト”ですか? 殺すべきではありませんか?
単純に考えるなら、危険だと認められる行為はやってはいけないでしょう? 危険でもやるべきとするなら、別の価値判断が必要になります。
スリーS @Super_S_Shoborn
関係性を結び得るからヒトとは言ってません。『親子』も『繁殖可能』も『可食かどうか』も『毒が効く効かない』も『危険かどうか』も関係性ですね。どれか一項目該当するものがあればヒトとも言ってませんし 確かに危険だと認められる行為はやってはいけませんね。動物愛護団体だろうが人間の生存手段となる動物で報復するのは自殺行為だからしてはいけませんよね。
医療食料問わず動物資源は人間の生命線であるので、その使用禁止は生存手段の放棄であり自殺行為です。また、人間から動物資源という生存手段の剥奪はその人間から排除対象となるので、これもまた自殺行為。二重の意味で危険な行為なので動物に権利を与えてはいけません。
そうですよね
箱のなかの海 @kawa_machi
スリーS @Super_S_Shoborn
自分にとって他者や環境はどのような性質を持つか、他者にとって自分はどのような性質を持つか、という意味で言っています。
個々人の存続に対する妨害ですので、全く拡大しておりませんね
箱のなかの海 @kawa_machi
その意味で、馬や犬はヒトと関係性を持ち得ますか?食用の馬や犬は存在しても良いのですか?
奴隷解放論者に対して、「私の存続には黒人奴隷を搾取することが必要です、妨害しないでください」という白人農場主はいたでしょう。しかし、黒人奴隷は解放されました。
動物解放論者に対して、「私(たち)の存続には動物の搾取が必要です。妨害しないでください」という人はいるでしょう。なぜ、動物は解放されなくても良いのですか?
スリーS @Super_S_Shoborn
関係性を持ち得る。
箱のなかの海 @kawa_machi
聞いた上で、「当時の黒人奴隷は人間(その定義に黒人奴隷は含まれていませんでした)の生存手段であった」 と言っています。
あなたの基準を適用すると、医療・食料用のホモ・サピエンスも存在しても良いとなりませんか?銃火器を苦にしない国は、人体実験をやり放題になるように思いますが。
人体実験が解禁になったら、これまでとは段違いのスピードで医療は進歩するでしょうね。 歓迎する人(その多くは力を有する人でしょう)も多そうです。
スリーS @Super_S_Shoborn
既に実際に『人間を安全に取り扱う範疇』で人間は医療資源として活用されています。同意を元にした骨髄バンク、生体臓器移植、死後・脳死後の臓器移植、献血があるのをご存じないのですか?
箱のなかの海 @kawa_machi
もちろん、限定的にはすでに医療資源として活用されています。 私が想定するのはそれ以上のものです。
スリーS @Super_S_Shoborn
人間に限らず動物だろうが植物だろうが機械だろうが安全な手法で取り扱っているんですけど……危険性が異なるからその取り扱い方が異なるだけで。
国家が人間にとって危険なシステムであるというなら、それは人間が国家を人間にとって危険なシステムのまま対処しなかったツケを支払っているだけです。国家だろうが機械だろうが、安全に取り扱わなかったら痛い目を見るのは当然では?
箱のなかの海 @kawa_machi
ええ、なので国家は危険に感じない範囲で人間を不安全に取り扱って良いということですよね?と聞いています。
ホロコーストで殺されたユダヤ人たちは対処しなかったツケを支払っただけで痛い目を見るのは当然であり、ナチスに倫理的な問題はない(もしあるとすれば戦争に負けたことだけ)と。
”不安全に扱う”というのは誤解を招くかも知れない(不安全に扱った時点で問題が有る)ので、”いわゆる人権を無視して”くらいに置き換えてください。
スリーS @Super_S_Shoborn
ツケを支払う方になってしまった側にとっては問題ですし、国民の国家の扱い方が未熟だった時代でもありますからそのような結果になってしまったのは当たり前です。当時放射線の危険性を知らなかったキュリー夫人が放射線被爆により健康を損なったのと同じように。国家が国民の脅威にならないよう次に活かすしかないです。それと倫理の話はしていません。人間にとって危険だから人間には問題だったとは言っていますが
箱のなかの海 @kawa_machi
ちょっとお返事がよくわからないのでもう一度聞きますが、 国家は危険性を感じない範囲で、人間をいわゆる人権(個人の生死など基礎的な権利も含めて)を無視して取り扱っても良いのですか?
危険性というのも曖昧ですが、あなたの基準からすると、「反政府組織が政府転覆が可能なほどの力を持つようにならない程度で」 とでも言えるでしょうか。
もちろん知ってますよ。だから、 「国家は危険性を感じなければ何をやってもいい」 「中国共産党は人権を守る必要がない」 などという言説を否定しようと努力しています。
否定するというのは言葉が過ぎましたね。 個人がどのような思想を持ってもそれは自由なので。 言説が”広がらないように”に訂正します。
スリーS @Super_S_Shoborn
暴力という手段であっても国民が国家を制御する方法を持たない国家ならしても良い。国民にとってはとても不幸なことですけど。
勿論国民や他の国家には、なされるがまま黙ってろとは言ってません。機会があったらぶっ壊して作り直せと言っておきましょう。天安門事件や香港など負け続きなだけです
箱のなかの海 @kawa_machi
なるほど。
スリーS @Super_S_Shoborn
箱のなかの海 @kawa_machi
ということで、肉食を正当化する論理の一つは、生命などの基礎的な権利をも含めた個人の諸権利を、(条件付きなものの)国家が好きに取り扱うことを良しとするところまで行き着きました。
難しいんですよ。ほんとに。
スリーS @Super_S_Shoborn
国家も人権も人間の作った道具なので、人間にとって危険ならその都度安全になるようパッチを充てる不断の努力をしなければならないって話でもありますね
https://togetter.com/li/1605085
のコメント欄より
また誤字脱字が明らかな場合はそれを補った
箱のなかの海 @kawa_machi
”他者の権利を侵害すべきでない”という一般的な道徳観を動物まで広げるなら、ヴィーガンのような主張になるのは自然なことではある。
人と動物は違うと言うなら、その線引きをどこに置くかの明示は必要だけど、論理的に妥当な基準を出すのはかなり難しいよ。
自分はリバタリアニズムの消極的自由から肉食を正当化できるか悩んだことがある。
今のところ子供(→契約の主体になりえない存在)に対する パターナリズム的対応を援用して考えてるけど、お肉を食べたいがために無理してないと聞かれたらちょっと困る部分も無いとは言えない。
お肉美味しいから食べるけど。
「倫理判断は普遍化可能である」「遺伝的差異自体は差別をする理由にはならない」「動物も人間と同じように苦しむ」「認知能力や契約能力等、動物と人間を区別する道徳的に重要な違いとされている違いは人間同士の間にも存在する(すなわち、限界事例の人たちが存在する)」「限界事例の人たちにも人権があり、危害を加えてはならない」、これらの組み合わせから容易に「動物にも「人権」があり、危害を加えてはならない」という結論が導ける。 (Wikipedia 動物の権利)
他者を食べることを倫理的に正当化するには、これらの前提のどれかを弱める必要がある。
ヴィーガンの多くは「植物も動物や人間と同じように苦しむ」を弱めて、植物を食べているように思うし、 自分は「限界事例の人たちにも人権があり、危害を加えてはならない」を弱めて肉を食べている。
kusorip @kusorip2
人権は人の作った道具に過ぎないので、人が快適に過ごすために如何様にも定義変更可能なんだが 勝手に都合よく定義を狭めて理論ぽく仕立ててるだけでガキの屁理屈止まりなんだよなぁ
箱のなかの海 @kawa_machi
人が作った道具であり、適宜変更ができると言うのはそのとおりなんだけど、その快適に過ごすべき”人”って何なのかという話。
人と動物の違いは何を基準にどこで線引きすべきか? 遺伝情報? 認知判断能力? 苦痛を感じる能力? YHWHがそう定めた?
他者に危害を加えることを正当化するのってちゃんと考えるとホント難しいよ。
誤: 人と動物の違いは
スリーS @Super_S_Shoborn
箱のなかの海 @kawa_machi
危険性を保証し合うと言うのは、法律(してはいけないこと)の概念をを持つという理解で良いですか?
そうなると、ある種の知的障害者や1, 2歳までの子供は人間ではないので殺していいことになりますがそれで良いですか?
逆に、ルールの概念を持てる動物(例えば、ある程度以上の哺乳類はそうでしょう)は”人間”なので殺してはいけないことになりますね。
スリーS @Super_S_Shoborn
知的障害者だろうが幼児だろうが、その家族が報復しうるし、その境遇に陥るかもしれない人間が次は我が身次は我が子と考えて排除しうるので、危険性は保障されてますので問題ありません
危険性が保障されてるから、危険だからやってはいけないという簡単なロジックです
大ざっぱに言ってしまいますと、全ての人間は任意の人間から危険性を保障されているので、その危険性が保障された人間を安全に取り扱う為に人権に沿う必要があります。言い換えれば、人権は人間を安全に取り扱う規範だと言っています
箱のなかの海 @kawa_machi
なるほど。しかし、「危険だからやってはいけない」は「危険でないならやってもいい」に繫がりますよね。
例えば、家族がいないまたは家族が報復しないことを約束して譲る場合はどうでしょうか。悲しいことですが、親から虐待を受けている子供や障害者など、可能性は十分考えられると思いますが。
食用の豚は殺されていますが、だからといってペットとして豚を飼っている飼い主(保護者)が「次は自分の豚が殺されるかも」とは考えないでしょう。
親が自分の子供を殺す(故意または未必の故意)場合も報復の危険は無いので問題なくなりますね。
パチンコ中に車の中に放置されて亡くなった子供がいたとして、その親が近くに暮らしていたとしても、「自分や自分の家族が殺されるかも」とは思わないでしょうし。
危険性を保障されているという言葉の定義がよくわかりませんので、もう少し詳しく説明ください。
周囲の人が次は自分と思って排除してくる危険→そう思わないような場合は?
また、 「人権は人間を取扱うためのものである。人間とは人権で取り扱われるものであ(動物はそうではない)」 はトートロジーです。何を基準に人権で取り扱われる”人間”を決めるのか?と問うています。
スリーS @Super_S_Shoborn
家族が居ない、または見捨てられた等の天涯孤独者は天涯孤独者同士危険性を保障し合っています。では天涯孤独の乳児はどうか。普通の子供でも親が死ぬ等で天涯孤独になります。親の危険性の保障から外れえる子供を守るために「危険でないならやってもいい」という人間を排除するでしょう。
親からも見捨てられ誰も報復せず次は我が身我が子だと考えて誰も排除してくれない子供はどうか。子供にそういう危険性がないことを調べる必要がありますが、それを調べることもまた危険であるのでやってはいけまん(続く)
『家族が報復する危険→報復しない、できない場合は? 周囲の人が次は自分と思って排除してくる危険→そう思わないような場合は?』
確かに必ずしも家族や同じ境遇の人が報復や排除をしてくれる訳ではありません。そのような危険性が保障されない人間が潜在しています。彼らは自身に危険性が無いと判断されることは死刑宣告にも等しい。従って危険性を判断するような人間を排除するでしょう。つまり危険性がないことを調べる事自体、危険でやってはいけないことなのです
さながら、危険性が保障されない人間が危険性を保障された人間に擬態するように。山に生えるキノコが可食か毒か見分けがつかず、見分けることも危険であるならば、山に生えるキノコは全て毒と判断して食べてはいけないと判断するように
箱のなかの海 @kawa_machi
なるほど。 ある程度以上の知能を持つ動物も、自分や自分の家族、群れを傷つける他者を排除しようとしますが、それらの動物は危険性を保障しあっていないのでしょうか。
人間がそれらの動物を傷つけた時に報復の危険性を感じないのは単に人間がそれらの動物より強いからですが。
動物の(勝手な?)代弁者である動物愛護団体などからの報復の危険性を感じないうちは動物には”権利”がなく、彼らが強大な力を有した段階で”権利”が生じるとなりそうです。
それは、過去に王侯貴族が下々の者の人権を決めていた時代と何が違うのでしょうか?
実際のところ、権利は力の獲得とともに増えてきたという歴史はそのとおりではあるものの、
少なくとも理念上は、
力の有無や数の大小ではなく、一人ひとりが等しい人権を有しているというのが現代では概ね合意であるはずです。
動物には力がないから人間にとって危険性がなく、だから動物を傷つけても良いという”危険性の論理”はこの合意に反しますし、弱者やマイノリティへの攻撃に容易に繋がりかねないのではないでしょうか?
スリーS @Super_S_Shoborn
医療食料問わず動物資源は人間の生命線であるので、その使用禁止は生存手段の放棄であり自殺行為です。また、人間から動物資源という生存手段の剥奪はその人間から排除対象となるので、これもまた自殺行為。二重の意味で危険な行為なので動物に権利を与えてはいけません。
全ての人間は任意の人間から危険性を保障されている(自分はそう主張している)ので、弱者やマイノリティへの攻撃に容易に繋がりません。
動物も報復しますが、人間にとって大した危険ではなく、それ一頭を銃等の動物では認識出来ない武器で殺せば再報復されません。人間が危険なのは動物と異なり火や毒、自動車銃火器等の過剰な攻撃力を持っているからです。毒を使う動物はいますが、それを報復には使いません。『過剰な攻撃力』を持ち、かつそれを『報復等に使用する』生物はただ一種、ヒトのみです。故に人間にとって人間が特別です。他に該当する動物が居るのでしょうか?
箱のなかの海 @kawa_machi
2点教えてください。
1. 過激な動物保護団体は多く居て、その中には銃火器などで武装しているものも有りますよね。 単に危険性の大小なら、下手な人間のマイノリティよりもよほどある種の動物のほうが危険性を保障されている(報復の可能性が高い)と思いますがいかがでしょう。
2. 本当にすべての人間同士で危険性を保障しあっているのでしょうか。 例えば、ウイグルの人々が中国共産党の上層部に報復できるとは思えないのですが。 仮に米国を動かして、米中戦争が起きたとして中国が勝った場合は?
端的に言うと、 「どうしていじめはダメなの」という問に対して、 「先生に怒られるから」と答えられてるような感覚があります。
スリーS @Super_S_Shoborn
1. 危険性の保障を代行・専門化・強化した警察・司法という組織の方が基本的に有能です。
2.国家という組織は人間が運用すれども人間そのものではありません。人権は『人間が』人間を安全に取り扱う規範ですので、国家対個人では基本的に機能しません。中国みたいに強い国家にとって人間は脅威ではないので、中国は人権を守る必要がありません。では何故人権を守る国家があるかというと、国家が比較的弱いか国民が運用している国民主権国家だからですね
箱のなかの海 @kawa_machi
1. 確かに、警察、司法のほうが優秀です。しかし、危険性で問題になるのはどちらが大きな力を持っているかではなく、ある閾値以上の力を持っているかでしょう。
戦車や戦闘機よりマシンガンの方が弱いですが、普通の人にとってはどちらも脅威です。
2. 人権とは、単に人間であるということに基づく普遍的権利。「対国家権力」または「革命権」から由来している。ブルジョア革命(資本主義革命)によって確立された権利であり、「近代憲法の不可欠の原理」とされる。 人権は人が生まれつき持ち、国家権力によっても侵されない基本的な諸権利であり(略) Wikipedia 人権
えっと、その人権の定義は少なくとも一般的に受け入れられている定義ではないですよ。 対国家、つまり自分より強い相手に対するものです。
箱のなかの海 @kawa_machi
人と動物との違いはなにか?という問いに対して、
1. 傷つけた時に報復される危険があるのが”人”で危険がないのが”動物”
2. この危険とは殴る、噛むなどではなく、銃火器などの過剰な武力を指す
3. 報復するのは傷つけられた本人ではなく、それを見た他人でも良い
という基準が出されました。
それに対して、
1.例えばクジラを傷つけた相手に銃火器を用いて報復すると宣言する愛護団体が存在したら、クジラは”人”の基準を満足しますよね?
2.銃火器などを苦にしない強い個人や団体(国家)は、弱い立場のホモ・サピエンスを傷つけても倫理的に問題ないとなりませんか?
スリーS @Super_S_Shoborn
警察・司法の方が基本優秀なので、過激な動物保護団体はテロリスト認定して取り締まってその保障を無効化してますね。
銃火器などを苦にしない強い個人(超科学異星人だろうがスーパーマンだろうが)や団体(国家)が弱い立場のホモ・サピエンスを傷つけても、その個人や団体(国家)にとっては問題ありません。同じように強い力である台風が我々の人権を慮ってくれるんです?
箱のなかの海 @kawa_machi
なるほど。そこまで力を信奉し、強者は何をやってもいいとお考えならそれはそれで筋が通っていると思います。
願わくば、その考えが弱い立場に向かないように、また貴方が強者に蹂躙されませんように。 どちらにしても、中国には住まないほうがいいと思いますよ。
攻め方と守り方は非対称で、普通は攻め方が大幅有利です。本当に取り締まりが完璧にできるなら、アメリカは911を受けずにすみました。
スリーS @Super_S_Shoborn
自分はスーパーマンでも独裁者でもないことを知ってますし、立場が弱かろうが強かろうが人間にちょっかい掛けて好き好んで危険を被ろうだなんて思ってないのでご心配なく。
それに『安全』というのはリスクゼロという完璧を表す言葉ではありません。人間を対象に限らず、危険性を小さくする為に安全な取り扱いを行っていますが、自動車を安全運転してたって事故は起きます。警察を信用しないのは自由ですが、警察という抑止力がなければもっと被害を受けていたのは想像に難くないでしょう
箱のなかの海 @kawa_machi
警察がなければもっと被害を受けていた と 警察があっても被害を受ける危険がある は矛盾しませんよ。
報復される危険があるなら(実際に日本では太地町が有名ですし、海外ではもっと大きなテロも起きています)、あなたの基準ではそれは”人”であり、傷つけるべきではないのでは?
スリーS @Super_S_Shoborn
報復や排除による危険性を無制限に正当化するのもまた危険です。極端なことを言ってしまえば『貴方の周りの空気を保護する。吸えば貴方に対して報復する』ということも殺人の正当化に悪用されてしまいますね。従って人間への危険性が最小になるように線引きする必要があります。今の所設定されているベターな線引きはヒト及びヒトに所有される(動物含む)物ですね。
その線引きに動物まで含めてしまうと、動物資源によって生存している人間及び今後そうなるかもしれない人間(つまり万人)は生存手段を奪われた形になります。鯨も飢饉時は立派な食料です。狩猟には継続的な経験が必要ですので、飢饉時だけは鯨を殺していいと言われても狩猟出来ずに餓死ですPermalink | 記事への反応(1) | 10:35
はてなID:ykkjhrk
はてなキーワードに投稿しましたが、編集合戦を避けるため、こちらに転載します。
エホバの証人とは
● http://www.watchtower.org/j/ 雑誌のバックナンバーや聖書研究の手引き書などがいくらか読める。
● http://www.jw.org 機関誌のポッドキャストフィードの受診、書籍、電子雑誌などがダウンロードできる。
● http://www.jw-media.org 広報室の公式サイト
名称の由来は旧約聖書のメシア預言のひとつであるイザヤ43章10~12節に基づく。
エホバの証人についての解説(公式サイト): http://watchtower.org/j/jt/article_02.htm
(個人サイト): http://biblia.milkcafe.to/thesis009.html
「ものみの塔聖書冊子協会」は、彼らが用いる代表的な法人の名称である。世界本部はニューヨーク法人ものみの塔聖書冊子協会にあり、出版物の著作権表示はペンシルバニアのものみの塔聖書冊子協会となっている。(ただし、「わたしたちの王国宣教」は、2009年4月以後、著作権表示がエホバの証人のクリスチャン会衆"Christian Congregation of Jehovah's Witnesses"となっている。)
なお、ものみの塔とは1879年に創刊された雑誌の名称であり、ジェームズ王欽定訳のイザヤ21章8節などを由来としている。聖書預言と照らし合わせながら世界情勢を見張っている、という意味がこめられている。さらに、1884年、この雑誌の出版社として現在のものみの塔聖書冊子協会が米国ペンシルバニア州の非営利法人法に則って登録された。したがって、彼らは自分たちを「ものみの塔の信者」とは言わない。ものみの塔協会は法人名に過ぎないからである。
また、「エホバの証人」という語は彼らが構成する集団社会と、信者各個人の両方を指す。(英語などの場合、複数形と単数形で区別する。)したがって彼らは、「エホバの証人の信者」という表現は使わない。ちょうど、「クリスチャンの信者」とか「ムスリムの信者」などと言わないのと同様である。
1870年米国にて、チャールズ・テイズ・ラッセルらが聖書研究会を結成したことに始まり、1931年、米国オハイオ州コロンバスの大会で、「エホバの証人」という名称を採択する決議が可決された。この大会は短波放送で中継されており、日本にいた数名の信者も決議に加わった。(なお、戦前・戦中の大日本帝国下では、「灯台社」という名称で活動しており、天皇は被造物であるなどと主張し、本土および台湾・朝鮮において、治安維持法違反で検挙されている。―参考: 灯台社または燈台社または燈臺社を調べるぺえじ http://www.geocities.jp/todai_sha/)
聖句と聖句を比較しながら論題別に掘り下げてゆくという19世紀の聖書研究者ヘンリー・グルーの聖書研究のポリシーが、現在でも一貫して守られており、エホバの証人出版物の特色となっている。聖書は文字通り神の霊感(インスピレーション)を受けた神の言葉であり、普遍、無謬であって、絶対に矛盾していない、という前提で聖書を調べ、矛盾と思われる箇所がある場合には、ほかの聖句を持ってきて説明しようとする。聖書で聖書を説明するのである。(ものみの塔2006年8月15日号12~15ページを参照。)
((聖書は矛盾している、との主張に対するエホバの証人の反論については、「ものみの塔出版物索引」の「聖書の信ぴょう性」の項の「聖句間に見られる調和」という見出し以下から資料を探せる。))
信者数は日本で21万人ないし30万あるいは40万とも言われ、2009年現在全世界で731万余の伝道者が活動している。
全世界の統計(公式): http://www.watchtower.org/e/statistics/worldwide_report.htm
エホバの証人の実勢信徒数の数え方: http://jwpc.milkcafe.to/media03.html
機関誌「ものみの塔」や「目ざめよ」などを配っている。最近は雑誌の朗読版(mp3およびaac(m4b))やオーディオブックのポッドキャスト配信、アメリカ手話(ASL)や日本手話(JSL)をはじめとする手話版のビデオキャスト配信、オーディオドラマやPDFによる電子書籍のRSS配信も行っている。
「目ざめよ!」は2006年以後月刊誌となり、「ものみの塔」は2008年から一般大衆向けと研究用(信者向け)とに分かれた。
出版物のダウンロードサイト(公式): http://www.jw.org
モルモン教、統一教会と並び、カトリックの総本山であるバチカンの法王庁(教皇庁)からキリスト教系三大カルト(または異端)の一つとされている。
また、カトリックと対立関係にあるが、プロテスタントではない。プロテスタント諸派もエホバの証人との教理上の相違が大きく、エホバの証人自信も自分たちをプロテスタントであるとは主張しない。
http://www.watchtower.org/j/20091101a/article_01.htm
エホバの証人のスポークスマンによると、ときおり、日本基督教団の牧師が「保護説得」などと称してエホバの証人を拉致、監禁して強制棄教を試みるといった事例が生じており、アメリカ大使館は日本の警察当局に、これを事件として取り締まるよう勧告している。((なお、宗教監禁の実態(統一協会の信者)に関する情報は、こちらの月刊現代の記事を参照。))
参考:2003年 国別人権報告書 http://tokyo.usembassy.gov/j/p/tpj-j20050601-50.html
ただし、SDA―セブンスデー・アドベンチスト教会―はエホバの証人に比較的好意的であり、国によってはセブンスデー・アドベンチスト系の病院がエホバの証人の望む無輸血医療を積極的に提供していることもある。
神の名はエホバであり、敬意を込めてその名を積極的に用いるべきである。
http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_01.htm
なお、「エホバ」であるか「ヤハウェ」あるいは「ヤーウェ」であるかは彼らにとって大きな問題ではない。マタイ福音書の主の祈りの冒頭にあるように、神の固有名を用い、それが神聖にされることが重要である、とする。(マタイ 6:9)
さらに、聖書を翻訳する際、神聖四字(YHWH(JHVH)テトラグラマトン)を「神」や「主」といった称号に置き換えると、読者は一般名詞としての神と固有名であるエホバとの意味の相違が識別できないという弊害が生じる。「神」(エローヒーム)と「エホバ」の違いについて、インペリアル聖書辞典(P・フェアベアン編、ロンドン、1874年、第1巻、856ページ)は次のように例証している。
「それ[エホバ]はどんな箇所でも固有の名であり、人格的な神を、そしてただその方だけを表わしている。一方、エローヒームはどちらかと言えば普通名詞の特徴を帯びており、確かに普通は至上者を表わすが、必ずしも、またいつも一様に至上者のことを指しているわけではない。……ヘブライ人はあらゆる偽りの神々に対立する方のことをthe Elohim、つまりまことの神と言う場合があるが、決してthe Jehovahとは言わない。なぜなら、エホバとはまことの神だけの名だからである。また、わたしの神とは再三言うが……決してわたしのエホバとは言わない。というのは、わたしの神と言う場合、エホバのことを意味しているからである。また、イスラエルの神について語りはするが、決してイスラエルのエホバについて語ることはしない。それ以外のエホバはいないからである。さらに、生ける神について語りはするが、決して生けるエホバについて語ることはしない。生きている方ではないエホバなど考えられないからである」。(訳文は、聖書に対する洞察、第一巻、「エホバ」の項より。)
ヘブライ語聖書中に「サタン」が登場するすべての箇所において、定冠詞が使われており、悪魔は固有の実在者であって、人の心に内在する抽象的な概念などではない。(ヨブ 1:6 脚注)
http://watchtower.org/j/20091001a/article_01.htm
神は愛の動機からすべての良いものを創造された。生きる喜びを分かち合うため、み使い(天使)や人間を、倫理的に自由な行為者、つまり神に仕えるか仕えないか、どのように仕えるかを能動的に選択できるものとして創造された。
やがて天使のある者が自由意志を誤用・悪用して神に反逆し、神の主権の正当性、妥当性、義にかなっているか否かに疑念を差し挟むようになった。その天使は、ヘビを使ってエデンの園にいた最初の男女アダムとエバ(イブ)を罪へといざなった。こうして、完全だった人間は不完全になり、原罪を受け継いで死ぬようになった。
悪魔となったその天子が投げかけた問いは、もっぱら倫理的な論争であった。つまり、悪魔は神の力を否認していたのではなく、宇宙の主権者としてエホバがふさわしいか否かを問題にした。したがって、悪魔と叛逆した人間を即座に滅ぼしても、この種の問題の解決とはならなかった。
神からの独立を望む人類社会には、神から倫理的に独立してやっていけるかどうかを試す時間が与えられた。そして、数千年の歴史の中で、君主政治、軍国主義、全体主義、共産主義、自由民主主義などあらゆる政治形態を試みることが許された。
神を愛する人には人間の政治に希望を寄せるのではなく、エホバによる神権政治を支持する機会が差し伸べられている。人間一人一人は、エホバの側につくか悪魔の側につくかを選ばなければならず、エホバの主権を受け入れることによって神の心を喜ばせることができる。―箴言 27:11。(←この側面は「忠誠の論争」とも呼ばれる。)
http://watchtower.org/j/bh/article_11.htm#q10_src
http://watchtower.org/j/bh/article_12.htm#q6_src
なお、悪魔の投げかけたこの論争は、当初から矛盾(論理破綻)していた。悪魔は、自分が論争に勝つなら、エホバは自分を生き続けさせる義務を感じるであろうと考えていたからである。神の公正に疑念を差し挟む一方で、神の公正をあてにしていたのである。(聖書に対する洞察、第一巻、「主権」の項を参照。)
イエスは、人類を罪と死から救済するために天から地に遣わされた。イエスの贖罪死と流した血によって、罪の許しの法的根拠が据えられ、人類には永遠に生きるみこみが差し伸べられた。
http://www.watchtower.org/j/bh/article_05.htm
http://watchtower.org/j/bh/appendix_04.htm
http://www.watchtower.org/j/20091101/article_05.htm
http://www.watchtower.org/j/20090401a/article_01.htm
http://www.watchtower.org/j/20091101/article_02.htm
http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_07.htm
http://biblia.milkcafe.to/21-ec-12-07.html
クリスチャンは天に設立された神の王国の国民であるゆえ、地上の政治論争には一切「内政干渉」せず、神の王国の大使また公使として振舞うことが期待される。―ヨハネ 17:16。
http://www.watchtower.org/j/bh/article_15.htm#q12_src
神を愛する者は暴虐を憎まなければならない。―詩編 11:5。
http://www.watchtower.org/j/kn37/article_01.htm
(誤解されがちな点だが、彼らはいかなる戦いをも否定する絶対的平和主義者ではない。旧約聖書(ヘブライ語聖書)にある数々の戦いの記録は、将来神があらゆる悪に報復されることを表しており、「復しゅうは神のもの」と聖書にもある。また、クリスチャンは各自「信仰の戦い」をしなければならない。なお、戦争には不参加となるが、政治的な中立の観点から、戦争反対のデモなどの活動に加わることもしない。)
http://www.watchtower.org/j/hb/index.htm
地抜きされていない肉を食べてはならないという聖書の禁止事項は、イエスの流した贖罪の血に敬意を示すべきであるという考えを根底にしている。したがって、これはもっぱら宗教的な性質のものであり、物理的な意味で1ミクロンも血を摂取してはならないという意味ではなく、血抜きのための合理的な努力が払われていればそれでよしと彼らは考える。
日本臨床麻酔学会誌Vol. 26 http://www.jstage.jst.go.jp/browse/jjsca/26/3/_contents/
http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_10.htm
エホバの証人はユダ王国の滅亡を西暦全607年に起きたと考えている。考古学の主流の学説とは意を異にしているが、この点は、「聖書に対する洞察」というものみの塔協会発行の聖書百科事典の「年代計算、年代学、年代記述」の項で、かなりのページを割いて論じられている。
http://www.watchtower.org/j/20051115/article_02.htm
http://www.watchtower.org/j/20051201/article_02.htm
裁くのはイエスであり、誰が救われ、誰が救われないかを決めることに、エホバの証人は関与しない。―ヨハネ 5:22。
http://watchtower.org/j/jt/article_08.htm#saved
週に2回ある集会への参加および非信者への証言活動が求められる。(ヘブライ 10:24-25; マタイ 28:19-20。)また、年に1回、地域大会、巡回大会、特別一日大会という、より規模の大きな集まりがある。(詩編 35:18。)
http://watchtower.org/j/rq/article_14.htm
唯一の式典として、年に1回、キリストの死の記念(主の記念式)が行われる。これは、いわゆる最後の晩餐(最後の晩さん)を記念するもので、カトリックのミサ(聖体祭儀)に当たる。―ルカ 22:19。
http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_06.htm
彼らは「新世界訳聖書」という独自に翻訳した聖書を用いている。
オンラインバイブル(インターネット聖書)新世界訳: http://www.watchtower.org/j/bible/
「恣意的な翻訳だ」「自分たちに都合の良い内容に改竄している」という批判もある。
また、エホバの証人側はこれに反論している。
公式: http://www.watchtower.org/j/20080501a/article_01.htm
個人サイト: http://biblia.milkcafe.to/
機関誌・書籍などで、しばしば古今の有名人の発言・著作を引用するが、前後の文脈を無視して極めて恣意的な引用をする傾向にある。(例えば、有名な古生物学者であるスティーブン・J・グールドの著作を、あたかも彼が進化論を否定しているかのような形で引用する)
しかし、この点は近年改善されてきており、2010年に発表された創造を指示する小冊子では、相当の配慮が示されている。
近年では全人類の平等を謳っているが、同協会に批判的な主張によれば、ローマカトリックを始め、他のキリスト教諸派よりもずっと後(1970年代)まで「黒人は神に呪われた種族であり、知的にも劣っており、終わりの日に遂に彼らが救済される時、彼らの肌は白くなるだろう」と主張してきたという。(下部の参考リンク「エホバの証人情報センター」の記述による。同センターは論証的な立場に立っているが、エホバの証人に対する論調は全般に批判的。1970年代およびそれ以前の、エホバの証人における有色人種の扱いについて、より信頼性の高い情報源があればご教示ください。)
世界各国に支部があり、信者のうち白人は1/3程度と推測される。「統治体」と呼ばれる最高指導部は、設立以来多年にわたり白人男性のみで構成されてきたが、1999年にメンバーにサミュエル・F・ハードが加わったことにより、統治体にも有色人種が加わることとなった。
1933年、ドイツで政権を握ったナチスがエホバの証人の弾圧を始めると、協会のドイツ支部は大会を開催して(ベルリン大会)、ナチスの政策を支持し、自分たちとユダヤ人は無関係だと主張する「事実に関する宣言」を全会一致で採択した。この大会には、当時のものみの塔協会の会長ラザフォードも出席している。しかし、世界各国に支部があり、本部がアメリカにあるエホバの証人は、この「宣言」以後もナチスの弾圧の対象となり続けた。
しかし、エホバの証人側は、ナチスを政治的に支持していたわけではないと反論する。
公式: http://www.watchtower.org/j/19980708/article_01.htm
個人サイト: http://biblia.milkcafe.to/07-jg-11-40.html
1985年、ダンプカーに轢かれたエホバの証人の子供大ちゃんが、両親の輸血拒否にあい、死亡。輸血をしても助からなかったとの見解もあるが、マスコミに大々的に取り上げられた。大泉実成著「ASIN:4768455646」に事件の様子が描かれている。
1994年、過剰な体罰、虐待によりエホバの証人の信者の子供が死亡した。
参考:http://www.jwic.com/abuse.htm
エホバの証人である高専生が宗教上の理由で剣道実技を許否した結果、退学処分を受けたが、1996年3月8日、最高裁判所は、この退学処分は違法であるとの判決を下した。
判決文(PDF): http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/js_20100319123008290359.pdf
なお、これは教育と信教の自由に関する日本国憲法下における重要な憲法判断である。
エホバの証人の婦人が、事前にいかなる場合においても輸血を施さないでほしい、なおかつ輸血しないことによって障害を負っても医師に責任を問うことは一切しないとの合意書に署名していたにもかかわらず、医師たちはひそかに、事前に示し合わせて、当初から輸血を断行することにしていた。手術後、内部告発によってこのことが明らかになり、裁判となった。2000年2月29日、最高裁判所は患者の人格権を侵害したと判決した。
ここでの問題は、強制的に輸血を施したことの是非ではなく、また緊急事態には輸血を施すというその病院の方針が裁かれたのでもない。むしろ、病院はそのような方針をもっているならば、密約をしたりダブルスタンダードをとったりするのではなく、誠実に病院の方針を説明し、患者の信条に沿う別の医療機関を紹介すべきであった、ということである。
エホバの証人のプレスリリース(英語): http://www.jw-media.org/jpn/20000229.htm
判決文(PDF): http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/js_20100319120604218580.pdf
このほかにも、エホバの証人は国内外で、後に重要な判例となる裁判を起こしている。
参考:衆議院議事録―第159回国会 憲法調査会基本的人権の保障に関する調査小委員会 第2号(平成16年3月11日(木曜日)) http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/010715920040311002.htm?
「思い出の生徒か」 教授は自身の歴史を振り返っている様子だった。「たくさんの生徒を受け持ったけど、そう尋ねられて一番に思い浮かぶのはやはり彼かな」
「ほう」 数多くの優秀な存在を輩出した教授にそう言わしめる存在に私は興味を覚えた。「その彼とはいったいどんな生徒だったんですか?」
「優れた生徒でしたよ彼は」 教授は強調するように付け加えた。「とてもユニークだった」
「ユニーク、と言いますと?」
「そうだね」 教授はしばらく考えた。「そう。ある時、こんな課題を出したんだ。ある複雑な命題を証明するプログラムの記述課題。普通は証明に直接アタックする。つまり多方面からその証明を、手法の差はあるにしろ、直接証明しようとするんです」
「普通は、と仰いましたが、それ以外にやりようなんてないんじゃないでしょうか?直接証明に取り組むことすらできない落ちこぼれを除いては」
「そうでしょうな」 教授は面白そうに言った。「普通は、まさしくその通りです。生徒は二つに分けることができました。直接証明に取り組むのと、命題を理解できずに取り組むことすらできない落ちこぼれとの二種類に。そう。彼と出会うまではね」
「彼はどうだったんです?」
「最初はね」 教授は過ぎ去った時を懐かしむように言った。「彼のことを落ちこぼれだと思いました。それも飛びっきりのね。なぜなら彼ときたら、全く関係のない環境世界のプログラムを始めたんですよ」
「そう。水や植物や鳥や生き物を創ってるのを見た時はさすがの僕も魂消ましたよ。少なくとも自分の力で完成させるまでは口出しをしない。そう決めている僕でさえ口を出しそうになりました。そして彼は次にAIのプログラムに取りかかりました。そして彼は、環境世界にAIを入力し、マシンだけを動かし早々に帰ってしまいました」
「帰ってしまったんですか?課題に関係のない環境世界とAIだけしかやってないのに?」
「そう帰ってしまった。呆れてしまいましたよ。だから彼が一番に提出した時は信じることができませんでいた。なにせ課題に取り組んでるとすら思ってなかったんですからね。しかしレポートを見るとそれは確かに正解でした。つまりはこうです。彼はそれをAIにやらせていたのです。ただしAIと言っても課題をいとも簡単に証明できるAIなんて容易には組めません。だから彼は知性と好奇心を持つ2種類のAIを創りました。2種類のAIが接触するとそれらのパラメータを引き継いだAIが生まれます。AIには短い寿命があり、世代交代を繰り返しますが、情報は蓄積が可能なので、次世代でも利用することができます。彼がそのようにして創ったAIを最適な環境に入力した結果、AI達は進化を重ね、ついにはその好奇心と蓄積された情報により、命題を証明したのです。もちろん、AIに特別な指向性を持たせてはいませんでしたから、その証明だけがされたわけではありません。他にもユニークな成果がありましたね。中でもユニークだったのが、彼がAIにならって文学や芸術と呼んでいたものです」
「その彼の名前は?」
「YHWH」