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2018-03-17

anond:20180317154448

235年 - マクシミヌス・トラクスローマ皇帝即位

1184年(元暦元年2月7日) - 一ノ谷の戦い源義経らが「鵯越(ひよどりごえ)の奇襲」により平氏圧勝

1602年 - オランダ東インド会社設立

1703年(元禄16年2月4日) - 赤穂浪士が預かりの大名屋敷切腹する。

1754年(宝暦4年2月27日) - 宝暦治水事件: 薩摩藩による木曽三川治水事業が始まる。

1815年 - エルバ島脱出したナポレオン軍勢を伴ってパリに入城。百日天下が始まる。

1852年 - ハリエット・ビーチャー・ストウの『アンクル・トムの小屋』が刊行

1882年 - 上野動物園が開園。

1883年 - 工業所有権保護に関するパリ条約調印。

1883年 - 高田事件新潟県高田・頸城地方自由党20名を、反乱謀議の嫌疑逮捕

1890年 - ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世首相オットー・フォン・ビスマルクを解任。

1906年 - 上野公園内に帝国図書館の新館庁舎(現 国際子ども図書館)が竣工移転

1913年 - 国民党リーダー・宋教仁が袁世凱の放った刺客により銃撃される。3月22日に死亡。

1914年 - コネチカット州ニューヘイブンで第1回全米フィギュアスケート選手権が開催。

1926年 - 蒋介石反共クーデターを起こす。(中山事件

1933年 - ダッハウ強制収容所の設置を発表。

1951年 - 日本生活協同組合連合会設立

1952年 - アメリカ議会日本国との平和条約批准

1956年 - チュニジアフランスから独立

1964年 - 欧州宇宙機関 (ESA) の前身欧州宇宙研機構が発足。

1969年 - ジョン・レノンオノ・ヨーコ結婚

1972年 - 御殿場市富士山大量遭難事故が発生。

1981年 - 神戸市ポートピア'81が開幕。

1985年 - 広島自動車道が全線開通。

1988年 - JR西日本瀬戸大橋線岡山駅 - 児島駅)が部分開業

1990年 - 大阪市営地下鉄鶴見緑地線(現・長堀鶴見緑地線京橋駅 - 鶴見緑地駅間が開業

1996年 - 大阪近郊の民鉄地下鉄5社局で共通カード乗車券システムスルッとKANSAI」の使用開始。

2003年 - イラク戦争勃発。

2005年 - 福岡県西方沖地震発生。

2006年 - 第1回ワールド・ベースボール・クラシックWBC)で日本代表チームが優勝(現地時間)。

2006年 - 新ICパスポート導入。パスポートへの旧姓併記基準が緩和。

2009年 - 阪神電鉄阪神なんば線 西九条駅 - 大阪難波駅間が開業。同時に近畿日本鉄道難波線奈良線相互乗り入れ開始。また尼崎駅 - 西九条間の区間西大阪線から阪神なんば線に改称。

2010年 - 第二京阪道路が全線開通。

2011年 - リビア内戦: NATO軍リビア軍事行動オデッセイの夜明け作戦)を発動。

2017-05-19

朴 泳孝(ぼく えいこう、박영효(パク ヨンヒョ)、1861年7月19日 - 1939年9月20日)は、李氏朝鮮末期から大韓帝国期の政治家で、日本統治時代朝鮮における貴族実業家日本名山崎 永春。

目次 [非表示]

1 生涯

2 家族

3 その他

4 登場するテレビドラマ

5 脚注

6 出典

7 関連文献

生涯[編集]

判書大監朴元陽の子として京畿道水原生まれる。金玉均らと共に開化党(独立党)を結党した。光緒5年(1879年)、金玉均らと共に李東仁を日本に密出国させ、日本の情勢を探らせた。福澤諭吉支援を受け、光緒8年(1882年)、壬午政変(壬午軍乱)の謝罪のために派遣された謝罪使(副使は金晩植と金玉均であった[1])として日本に向かう船上で、現在大韓民国国旗である太極旗デザインを考案したとされる。朴泳孝が日本派遣された4ヶ月間のことを記した日記『使和記略』によると、8月9日仁川から日本船籍明治丸に乗り日本へと向かった朴泳孝らは、船内でイギリス領事アストンイギリス人船長ジェームスにそれまで国旗として提案されていた八卦太極文様を描いた古太極図を見せて国旗について相談したところ、船長八卦が複雑で区別しにくく他国がこれを見て作るのに不便であると述べたため、四卦を削り、残りの四卦を45°傾けて四隅に配した図案が提案され、大・中・小3本の太極旗が作られたという。8月14日神戸に到着した一行は宿泊した西村屋にはじめて太極旗を掲げ、8月22日太極旗小本とともに国旗制定を本国に報告したという。

帰国後は漢城判尹となり、開化政策を進めるが守旧派事大党)の反対に遭って挫折さらに光緒10年(1884年)12月にはクーデター閔妃から政権奪還を図ったが失敗(甲申政変)、日本郵船の「千歳丸」で日本亡命慶應義塾に隣接していた福沢邸に寄食し、転じて神戸に居を構えた。

光緒20年(1894年)に甲午改革が始まると、帰国して内務大臣となり、改革の中心的な役割を果たすが、開国504年(1895年)に謀反の疑いをかけられ、再び日本亡命した。その後光武11年(1907年)に再度韓国に戻り、李完用内閣宮内大臣となったが、大臣暗殺陰謀の疑いで済州島流刑処分とされた。

隆熙4年(1910年)の韓国併合後には侯爵朝鮮貴族)となり、朝鮮貴族会長1911年)、朝鮮銀行理事1918年)、朝鮮経済会長1919年)、朝鮮維民会会長1919年)、東亜日報社初代社長1920年)、朝鮮人産業大会会長1921年)、朝鮮倶楽部の発起人(1921年11月)、京城紡績社初代社長朝鮮殖産銀行理事朝鮮総督府中枢院顧問1921年)[2]、東光会朝鮮支部初代会長1922年)、貴族院議員1932年)など、日本統治下の朝鮮における要職歴任した。昭和10年(1935年)、 朝鮮総督府編纂した"朝鮮功労者名鑑"に朝鮮人功労者353人のうちの一人に収録されている。

竹添 進一郎(たけぞえ しんいちろう、1842年4月25日天保13年3月15日) - 1917年大正6年)3月31日)[1]は、日本外交官漢学者。名は漸、字は光鴻(こうこう、みつあき)、号は井井(せいせい)と称した[2]。 甲申政変時の朝鮮弁理公使であり、後に漢学者として活躍した。日本学士院賞受賞。熊本県近代文化功労者[3]。

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1 来歴

2 主な著作

3 栄典

4 脚注

5 参考文献

来歴[編集]

肥後国天草(現・熊本県上天草市大矢野町)生まれ。父である小田左衛門(竹添筍園)は、肥前国島原出身医者で、天草大矢野島に移り住み、上八幡宮宮司二上出雲の娘である美加と結婚した[3]。順左衛門儒学者広瀬淡窓門下十八傑の一人でもあり、進一郎が幼い頃より儒学を教えた[1]。

1855年(安政2年)15才の時、天草より熊本に出て儒学者木下韡村の門下生となった。学業は極めて優秀で、木下門下では、井上毅木村弦雄と三才子と称され、さらに古荘嘉門を加えて四天王といわれる[3]。藩校時習館の居寮生となり、木下のはからいで士分に取り立てられ、藩命により京都江戸奥州を訪れる。江戸では勝海舟の知遇を得る[1]。

1871年(明治4年)、廃藩置県で失職し熊本市玉名市私塾を営んだ後、1875年明治8年)に上京する[3]。勝海舟の紹介で森有礼全権公使随行し、清国へ渡った。同郷の津田静一と共に清国を旅し「桟雲峡雨日記」を記した[1]。天津領事北京公使館書記官などを経て、1882年明治15年)、花房義質の後任として朝鮮弁理公使となるが、甲申政変に深く関わり辞任した[4]。

1893年明治26年)、東京帝国大学教授就任漢文学を講じた[1]。退官後、小田原暮らし、76才で没した。1914年大正3年)、日本学士院賞受賞(第4回)。文学博士従三位勲三等。熊本県近代文化功労者。次女の須磨子は、講道館柔道創始者である嘉納治五郎結婚した。媒酌人は、木下韡村の次男で後に京都帝国大学総長となった木下広次が務めている[1]。

 
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