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2017-10-15

anond:20171015130224

3世紀三韓征伐

古代14世紀蝦夷征伐 → 蝦夷征討。代々の朝廷が征伐をしている。

奥州征伐 →

1189年:奥州合戦鎌倉幕府奥州藤原氏征服

1590年:奥州仕置(豊臣秀吉により小田原征伐後に行われた)

東夷征伐 →

古代におけるヤマトタケル坂上田村麻呂の東征。

1333年鎌倉幕府倒幕(当時は「鎌倉幕府」という言葉がなかった)

関東征伐 →

古代ヤマトタケルの東征[5]、鎌倉時代後期から南北朝における後醍醐天皇による号令[6]。室町時代将軍足利義教鎌倉公方足利持氏対立から永享の乱。1560年~1569年の小田原城の戦いを端緒とする上杉謙信関東平定を目的とした遠征群。豊臣秀吉による小田原征伐小田原合戦)。逸話として江戸時代の萩藩毛利家の新年儀礼挨拶[7]。

1577年:紀州征伐 → 紀州攻め、信長紀州征伐と秀吉紀州征伐がある。

1582年:甲州征伐武田征伐。武田攻め。

1585年:四国征伐四国攻め。四国の役。

1585年:越中征伐 → 富山の役。佐々成政征伐。北国御動座。

1585年:上田征伐 → 上田合戦真田征伐。上田城の戦い。上田城攻防戦。第一次と第二次(1600年)がある。

1587年:九州征伐島津征伐。九州の役[8]、九州攻め。九州平定。

1590年:小田原征伐北条征伐。小田原合戦小田原攻め。小田原の役。関東平定。関東征伐。

1591-98年:朝鮮征伐文禄・慶長の役朝鮮出兵秀吉朝鮮侵略

1600年:会津征伐上杉征伐。会津攻め。

1609年:琉球征伐 → 薩摩琉球侵攻。琉球の役。征縄の役。

1864年長州征伐長州征討) → 長州戦争。幕長戦争。征長の役。長州の役。

馬鹿

2017-10-08

宝石の国が凄いらしいから見てみたんだけどただの擬人化萌え萌え萌え~んじゃん

『フォスフォフィライト硬度が3.5だから弱い』で何カット引っ張ってたのか数えようとしたのが馬鹿馬鹿しくなってやめた。

何だよこれ。

十把一絡げでポイ捨てされる萌え萌えソシャゲの「竹中半兵衛ちゃんは病弱だからお布団から出られませんケホケホ」と何も変わらんじゃん。

これの何が面白いの?

豊臣秀吉ちゃんがウッキウッキ言ってる萌え萌え擬人化アニメ一種じゃん。

うそういうの飽きたわ。

つうかフォスフォフィライトとかしらねーよ。

三国志アニメが始まったと思ったら主人公が卞喜』で「お前の名前なんでそんな臭そうなの?」で弄られ続けてるの見てるような気持ちになったわ。

2017-07-09

https://anond.hatelabo.jp/20170709154334

「漢」という大きな国で「黄巾の乱」という農民反乱が起きる。

朝廷は各地に将軍派遣してようやくその乱を鎮める。

そのあと董卓っていう奴が独裁者になって暴れるんだけど、部下の呂布という奴に殺される。

朝廷はぐちゃぐちゃで統制が効かなくなってしまい、各地の将軍たちが独立して戦国時代みたいになる。

そのころは大陸の北の方が豊かで人口も多く、その覇権を巡って曹操袁紹という二大勢力が戦って、曹操が勝つ。

曹操日本戦国時代で言えば織田信長みたいな冷徹天才タイプ

北半分を手中に収めて圧倒的な勢力を持つようになった曹操

しか大陸の南東のほうで勢力を拡大していた孫権という奴に「赤壁の戦い」で大敗する。

孫権徳川家康みたいな地域密着型の苦労性タイプ

また、孫権に協力していた劉備という奴が、その戦いのあとの隙をついて大陸の南西の方を占領する。

劉備豊臣秀吉…と言いたいけどわりと違くて、やたら仁義忠義にこだわる良い子ちゃんタイプ

実は西遊記三蔵法師に近いんじゃないか

北半分を得た曹操の「魏」、南東を得た孫権の「呉」、南西を得た劉備の「蜀」。

この三国が鼎立するから三国志演義」。

特に劉備主人公格で、義兄弟関羽張飛と共に、紆余曲折を経て国を打ち立てるまでが前半。

でも建国した矢先、関羽は呉と戦って殺されてしまい、張飛も部下に裏切られて殺されてしまう。

義弟たちを殺されて怒り狂った劉備は呉に攻め込むんだけど大敗して死ぬ

そして劉備軍師であった諸葛孔明が、劉備亡きあと、圧倒的な力を誇る魏に対してさまざまな奇策を持って挑む、というのが後半のストーリー

既に曹操も死んでいるから、魏の将軍司馬懿という奴が孔明ライバルになる。

孔明は魔術的な天才軍師として描かれ、司馬懿相手連戦連勝する。

しかし彼我の戦力差はいかんともしがたく、やがて孔明死ぬ

孔明の死後は、後継者姜維を中心に、蜀も粘るんだけど、ついに魏に降伏することになる。

具体的に言うと、鍾会という野心旺盛なエリート姜維を釘付けにしているあいだに、鄧艾というドモりが酷いおっさんが間道を通って蜀の首都を攻め落とす。

でも鄧艾のことが気に入らない鍾会は、鄧艾の勝手な振る舞いを讒言して殺してしまう。

さら姜維に唆されて、鍾会は蜀の地で独立してやろうとするけど、あっさり発覚して鍾会姜維は殺される。

この頃の魏は、司馬懿の息子たちがすっかり権力を握っている。

そいつらが蜀の滅亡の後に魏を乗っ取って、「晋」という国をつくる。

この晋の名将に羊祜という奴がいて、最後に残った呉をいつ滅ぼそうかと手ぐすねを引いていた。

しかし、このときは呉にも陸抗という名将がいた。

二人は国境を挟んで互いのことを認め合い、手紙や酒を送りあうほどだった。

この頃の呉は、晩年に耄碌した孫権が、悲惨後継者争いを引き起こして国力が低下。

陸抗の力によってようやく保っている有様だった。

やがて羊祜も陸抗も亡くなったあと、羊祜の後継者となった杜預という奴によって、ようやく呉は滅ぼされた。

魏も呉も蜀も消え去り、晋が大陸統一したのだった。

おしまい

2017-06-05

続・山川出版日本史の何がすごいのか、さっぱり分からない

http://anond.hatelabo.jp/20170604204919

これの続き。(文字数制限にひっかかったので分割します)

  

三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)

1183(寿永2)年、義仲軍は京都に入り、食糧不足もあって狼藉を続けた。京都にとどまった後白河法皇後鳥羽天皇即位させ、寿永二年の宣旨頼朝東国での支配権を認めるとともに、義仲軍の乱暴ぶりを口実にして頼朝上京要請するなど、政治力の強化につとめた。しかし、頼朝東国支配を固めるために鎌倉を動かず、かわりに弟の範頼・義経上京し、1184(元暦元)年、二人は義仲を打ち破った。

義仲が京都乱暴狼藉を働いたという記述があるのは、意外にもこの教科書だけでした。

兵糧不足のまま進撃して首都占領しても、どうせ軍規が乱れて略奪しまくるぞというのは、日中戦争における南京事件南京大虐殺)のことを言いたいのかなと思いましたが、それは深読みのしすぎかもしれませんね。どうなんでしょう?

  

また、これは下記の引用部分になりますが、頼朝が初めて上京したタイミングがいつだったかを明記しているのは、この教科書だけだと思います

(この点はとりわけ山川の『詳説日本史』が最悪です。頼朝西国での平家追討の仕事をすべて弟の範頼・義経らにやらせ自分はその間ずっと鎌倉にひきこもって地盤を固めていたという基本的事項すらも把握できない書き方がされているんです。)

頼朝挙兵以来、北条氏三浦氏などの東国武士たちと主従関係を結んで、彼らを御家人として組織した。そして1180(治承4)年、御家人の統率と軍事警察担当する侍所を設けて、有力御家人和田義盛別当長官)に据えた。さらに1184(元暦元)年、一般政務をつかさどる公文所(のち政所)と問注所を開設し、実務に優れた下級官人らを側近にして職務を分担させるなど、支配機構の整備を進めた。

頼朝後白河法皇要請を受け、範頼と義経平家追討を命じ、1185(文治元)年、長門壇ノ浦平氏を滅亡させた。後白河法皇頼朝権力拡大を恐れて義経を重用し、頼朝の追討を命じたが失敗した。逆に頼朝は、親鎌倉派の公卿九条兼実藤原兼実)らを朝廷重要政務担当する議奏につかせ、反鎌倉派の貴族追放し、義経の捜索を名目に国ごとに地頭を置くことを認めさせた。さらに1189(文治5)年、頼朝義経をかくまったことを口実に藤原秀衡の子の泰衡を攻め、奥州藤原氏を滅ぼした。こうして頼朝東国西国の多数の武士御家人として組織しながら、主に東国支配確立していった。

1190(建久元)年、頼朝挙兵後はじめて京都に入り、右近大将に任命され、後白河法皇没後の1192(建久3)年には、法皇の反対で就任できなかった征夷大将軍に任命され、名実ともに鎌倉幕府が成立した。」

当然ながら『詳説日本史』にも、侍所政所問注所地頭というキーワードは出てきますしかし、治承・寿永の乱とは別項に記述されているため、時系列が分かりづらくなっています

それに比べて、この教科書歴史の流れの中にキーワードを配置しています。だから時系列に即してこれらの言葉意味理解することができるはずです。

  

結びが「名実ともに鎌倉幕府が成立した」という記述になっているのも、味わい深いです。

鎌倉幕府の成立が何年かという論争を垣間見ることができます名目的には1192年に幕府が成立したと言えるが、実質的にはそれ以前から幕府政治機構ができあがっていたというニュアンスを含ませているのでしょう。

  

  

  

あとは、上記引用中の「義経の捜索を名目に国ごとに地頭を置くことを認めさせた」という記述が最高にクールです。

一般には1185年、義経の捜索を名目にして守護地頭が設置されたとされていますし、国ごとに置かれた役職地頭ではなく守護だと暗記している人が多いんじゃないでしょうか?

例えば山川の『詳説日本史』はそうなっています。それによると、頼朝は1185年に「諸国には守護を、荘園公領には地頭を任命する権利」を獲得したとされています守護は「おもに東国出身の有力御家人から選ばれて「原則として各国に一人ずつ」任命され、「大犯三箇条などの職務を任とし」て国内御家人を指揮統率し、とくに東国では在庁官人支配することで「地方行政官としての役割も果たし」ました。いっぽう、地頭は「御家人のなかから任命され、任務年貢徴収・納入と土地官吏および治安維持」です。「頼朝は主人として御家人に対し、おもに地頭に任命することによって先祖伝来の所領の支配保障したり(本領安堵)、新たな領地を与えたりした(新恩給与)」わけですが、このことが御恩と奉公関係となって封建制度の基礎となりました。

  

ところが、三省堂の『日本史B 改訂版』(日B 015)によると、ここの説明がこれとまったく異なります。私が先に引用した項では、1185年の出来事として守護の設置には言及せず、地頭の設置だけが記述されていますしかもその"地頭"は国ごとに置かれたものだとされているのです。

私は最初にこれを読んだとき、わけがからなくて混乱しました。それでがんばって自力で調べてみて(独学なので苦労したナァ)ようやく理解できたのですが、1185年の文治の勅許守護地頭が置かれたとする『吾妻鏡』の記述には疑いがあり、実はこれがかつて学者の間でも論争になったテーマだったらしいのです。

1960年石母田正が新説を発表したのですが、おおざっぱに言うと、新説では、この時点で置かれたもの守護地頭ではなく、地頭(国地頭)だったとしています。それはわれわれが普通一般に知っている地頭(荘郷地頭)とは異なり、一国を統括する強大な権限を持つ存在です。この国地頭はすぐに廃止され消滅しましたが、守護前身となりました。

三省堂教科書は、次項でそのことが説明されています頼朝がはじめは国ごとに"地頭"を派遣して荘園国衙領のいずれからも兵糧米を徴収させていたこと、そのやり方がひどすぎたから反発を招いて、以後は"地頭"に代わるものとして守護を置いた、という記述になっています。またこれに続いて、頼朝は「荘郷地頭と呼ばれる地頭を任命し」、平氏没官領や謀反人の所領跡で「年貢公事徴収治安維持に当たらせた」としています

このように、三省堂教科書では、「国地頭」と「荘郷地頭」をはっきりと区別しているのです。

  

実教出版もこの新説を採用していますこちらも合わせて読んでおくと、国地頭のことが大変よく分かります東京出版は本文の記述が旧説に拠っていますけど、欄外では国地頭が惣追捕使とならび、守護前身として存在していた話をちょこっと説明しています。これらの教科書は「国地頭」論争の成果を取り入れており、学問的に誠実だと思います

それに対して山川の『詳説日本史』は旧説を採用し、1185年に守護地頭の設置が認められたとする断定的な記述になっています。これが他の教科書とのあいだに無用矛盾を生じさせているのです。私と同じようにこの点につまづいて、困惑してしまった高校生が少なからずいるんじゃないでしょうか。

  

なお、山川参考書『詳説日本史研究』にもこの新説の紹介はありません。同社『日本史B用語集』には「国地頭」という用語掲載されていて、そこでは一応説明がされているんですが、あたかも国地頭が荘郷地頭前身だったと思わせるような記述です。

地頭(じとう)⑪:1185年、頼朝要請後白河法皇諸国公領荘園地頭を設置することを認めた。当初は1国単位荘園公領支配する国地頭を設置したが、まもなく平家一族の所領として没収された平家没官領と謀反人跡地に限定した荘郷地頭となった。しかし、公家寺社の強い反対で、一時縮小、承久の乱後に全国化した。任務土地管理年貢・兵糧米の徴収治安維持など。

地頭⑤ 荘郷地頭

  

山川出版日本史B用語集』より

ですが三省堂実教出版東京書籍教科書によると、国地頭はむしろ守護へと発展的解消を遂げたという記述なんですから、『日本史B用語集』のこの説明とはやはり若干の矛盾が生じています

「国地頭」を教科書に載せている上記の主要3社の文脈に従うなら、この用語独立の項目として取り扱うか、せめて「地頭」の項目じゃなく「守護」の項目にいれて取り扱うべきじゃないでしょうか。

  

(追記 これはインターネット上の情報なので私は未確認ですが、現在は『詳説日本史』にも国地頭掲載されているそうです。近年改訂されたんでしょうか。

予防線として言っておくと、私は高校日本史Bを履修しなかったし、大学歴史学勉強したわけではありません。高校時代文転して受験するかと生半可に考えていて(結局やめたけどね)、興味本位教科書を読んでみただけの素人です。

さいしょの方でも書いたとおり最新版教科書を持ってません。はてブでバズっていてびっくりしましたが、このエントリ専門家レベルのものとして受けとるのは、恥ずかしいのでやめてください。

再追記。id:HRYKtbykさん、確認をしてくださり感謝。)

  

  

  

(追記2

複数教科書を読み比べすることで、『詳説日本史』を読むだけでは見えないポイントが浮かび上がってきます

『詳説日本史』では、前九年合戦後三年合戦のところで、「これらの戦いを通じて源氏東国武士団との主従関係を強め、武家棟梁としての地位を固めていった」とあります。これが後の頼朝挙兵につながるわけですが、それは時代を経てからのことだから教科書のページが離れすぎていて、この関連が把握しづらくなっています

ここで例えば山川出版社新日本史B 改訂版』(日B 018)のような他の教科書と読み比べてみると、『詳説日本史』がこの簡潔な一文を通して伝えたかったことを理解することができるのです。(上述参照)

  

つぎは例えば、貫高制・石高制を見てみましょう。

『詳説日本史』によると、戦国大名性格は次のように説明されています戦国大名は「新たに征服した土地などで検地をしばしばおこなっ」て、それにより「農民に対する直接支配」を強化しました。そして国人地侍を取り込むため、貫高制を導入しました。これは戦国大名が彼らを「貫高という基準統一的に把握」して軍役を課す制度でした。それでここからすこし時代下り、別のページで豊臣秀吉太閤検地説明しています太閤検地により石高制が確立しました。それは「荘園制のもとで一つの土地に何人もの権利が重なりあっていた状態を整理」し、「一地一作人」を原則とするものです。農民は「自分田畑所有権を法的に認められることになった」わけです。

このような記述だけでも表層的な理解はできると思いますが、実教出版日本史B 新訂版』(日B 014)は、貫高制について「荘園の複雑な土地制度は貫高に組み込まれ大名統一的な国内政治を推進」するものとしています。『詳説日本史』ではせいぜい石高制と荘園制の関係しかからないでしょうが、本書はこのように貫高制と荘園制の関係を明示しているのです。

この視点を最もわかりやす記述しているのが、三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)です。本書は貫高制、石高制、荘園制の全部を一つの項目に入れて記述しています。それによると、秀吉太閤検地を行い、「戦国大名の貫高制にかわって、それを発展させて全国に広げた石高制」を導入、その結果「荘園制を完全に崩壊させ」ました。このポイントを把握しておけば、中世から近世への社会の変化を、土地一元的支配確立荘園制の衰退・消滅という視点で見ることができます。本書の特徴は、貫高制・石高制をともにこの視点から語っていることと、しかもそれが荘園制を「完全に崩壊させ」たと言い切っていることです。

ちなみに、東京書籍日本史B』(日B 004)では、石高制を「近世封建制体制原理」と書いています。これがまったく新しい制度であることを強調しつつ、近世という言葉を使ってその射程を江戸時代にまで広げているのです。)

2017-05-21

http://anond.hatelabo.jp/20170521142433

そもそも豊臣秀吉細菌兵器をばらまいた上で焦土作戦を実行し、知識階級を皆殺しにしたせいで

本来なら1830年時点でジェット戦闘機を作って居たと言われる韓国技術が200年遅れてる。

から日本がやった事はただの償い

2017-05-19

園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある、天台寺門宗総本山。山号を「長等山(ながらさん)」と称する。

開基(創立者)は大友与多王、本尊弥勒菩薩である日本三不動の一である黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所である。また、近江八景の1つである三井の晩鐘」でも知られる。

なお一般には「三井寺(みいでら)」として知られるため、本文では「三井寺」の呼称を用いる。

目次 [非表示]

1 歴史

2 伽藍

3 黄不動

4 文化財

4.1 三井寺秘仏

4.2 国宝

4.3 重要文化財

4.4 その他

5 御詠歌

6 前後札所

7 交通

8 周辺

9 脚注

10 参考文献

11 関連項目

12 外部リンク

歴史[編集]

三井寺7世紀大友氏 (古代)の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学円珍天台寺門宗宗祖)によって再興された。三井寺平安時代以降、皇室貴族武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の宗徒によって三井寺が焼き討ちされることが史上度々あった。近世には豊臣秀吉によって寺領没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから三井寺は「不死鳥の寺」と称されている。

三井寺」の由来となった井戸「閼伽井屋」(重文

三井寺起源については、次のように伝承されている。大津京を造営した天智天皇は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。天皇の子大友皇子弘文天皇)も壬申の乱のため、25歳の若さで没している。大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のため、天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した。壬申の乱大友皇子敵対していた天武天皇は、朱鳥元年(686年)この寺の建立を許可し、「園城寺」の寺号を与えた。「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。なお、「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。現在三井寺には創建時に遡る遺物ほとんど残っていない。しかし、金堂付近からは、奈良時代前期に遡る古瓦が出土しており、大友氏と寺との関係史料から裏付けられることから、以上の草創伝承は単なる伝説ではなく、ある程度史実を反映したものと見ることができる。

三井寺では、他宗で「管長」「別当」などと呼ばれる、一山を代表する僧のことを「長吏」(ちょうり)と呼んでいる。貞観元年(859年)、三井寺初代長吏就任し、その後の三井寺の発展の基礎を築いたのが、智証大師円珍である円珍は、弘仁5年(814年)、讃岐国那珂郡香川県善通寺市)に生まれた。俗名は和気広雄、母方の姓は佐伯氏で、円珍の母は弘法大師空海の妹(もしくは姪)にあたる。幼時から学才を発揮し神童と呼ばれた広雄は、15歳で比叡山に登り、初代天台座主義真に入門。19歳の時に国家公認正規の僧となり、円珍改名した。その後、比叡山規定に従って「十二年籠山行」(12年間、比叡山から下りずにひたすら修行する)を終えた後、大峯山熊野三山を巡って厳しい修行をする。このことから三井寺修験道とも深い繋がりを持っている。仁寿3年(853年)には唐へ留学して6年間、各地で修行青龍寺の法全(はっせん)から密教の奥義を伝授された。天安2年(858年)、円珍は多くの経巻、図像、法具を携えて日本帰国した。翌貞観元年(859年)、大友氏の氏寺であった三井寺に「唐院」(とういん)を設置。寺を整備して修行道場とすると共に、唐から請来した経典や法具を唐院に収蔵した。貞観8年(866年)、太政官から円珍伝法の公験(くげん、証明書)が与えられた。顕教密教に加えて修験道を兼学する円珍伝法は、これによって政府公認を得たわけであり、天台寺門宗ではこの時をもって開宗と見なしている。貞観10年(868年)、円珍天台宗最高の地位である天台座主就任。以後、没するまでの24年間、その地位にあった。

円珍の没後、比叡山円珍の門流と、慈覚大師円仁の門流との2派に分かれ、両者は事あるごとに対立するようになった。円珍の没後1世紀まりを経た正暦4年(993年)には、円仁派の僧たちが比叡山内にあった円珍派の房舎を打ち壊す騒動があり、両派の対立は決定的となり、円珍派は比叡山下りて、三井寺に移った。比叡山延暦寺を「山門」と別称するのに対し三井寺を「寺門」と称することから、両者の対立抗争を「山門寺門の抗争」などと呼んでいる。比叡山宗徒による三井寺の焼き討ちは永保元年(1081年)を始め、中世末期までに大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上るという。

三井寺は、平安時代には朝廷貴族尊崇を集め、中でも藤原道長白河上皇らが深く帰依したことが知られている。これら勢力から寄進等による荘園多数を支配下におき、信州善光寺荘園末寺として記録に著れる。中世以降は源氏など武家信仰も集めた。源氏は、源頼義三井寺に戦勝祈願をしたことから歴代尊崇が篤く、源頼政平家打倒の兵を挙げた時にはこれに協力し、平家を滅ぼした源頼朝も当寺に保護を加えている。頼朝意思を継いだ北条政子もこの方針継承し、建保元年(1214年)に延暦寺に焼き払われた園城寺大内惟義・佐々木広綱・宇都宮蓮生ら在京御家人に命じて直ちに再建させている。しかし、園城寺僧侶として育てられていた源頼家の子公暁叔父である源実朝暗殺するという事件を起こしたために、以後鎌倉幕府より一時冷遇を受ける。だが、北条時頼の信頼が厚かった隆弁が別当就任すると再興され、続く南北朝内乱でも北朝足利氏を支持したことから室町幕府保護を受けた。両幕府のこの厚遇は、強力な権門である延暦寺勢力牽制するために園城寺に対して一定支援をすることが必要であると考えられていたからだと言われている。

文禄4年(1595年)、三井寺豊臣秀吉の怒りに触れ、闕所(寺領没収事実上の廃寺)を命じられている。三井寺が何によって秀吉の怒りを買ったものかは諸説あって定かではない。この結果、三井寺本尊や宝物は他所へ移され、金堂をはじめとする堂宇も強制的に移築された。当時の三井寺金堂は比叡山に移され、延暦寺転法輪堂(釈迦堂)として現存している。慶長3年(1598年)、秀吉は自らの死の直前になって三井寺の再興を許可している。これは死期を悟った秀吉が、霊験あらたかな三井寺祟りを恐れたためとも言われている。秀吉の再興許可を受け、当時の三井寺長吏・道澄が中心となって寺の再興が進められた。現在三井寺の寺観は、ほぼこの頃に整えられたものである

明治維新後は天台宗寺門派を名乗っていたが、1946年以降は天台寺門宗総本山となっている。

増田 長盛(ました ながもり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名。豊臣政権五奉行の第三席。父母は不詳、弟に増田長俊、子に盛次、長勝、新兵衛。官位従五位下・右衛門少尉

目次 [非表示]

1 生涯

1.1 仕官以前

1.2 秀吉近臣時代

1.3 郡山城時代

1.4 秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後

2 子孫

3 主な家臣

3.1 一門衆

3.2 重臣

3.3 その他

4 脚注

4.1 注釈

4.2 出典

5 関連項目

生涯[編集]

増田長盛邸址(愛知県稲沢市増田町

増田長盛屋敷跡(滋賀県長浜市朝日町

生地は2つの説があり、1つは尾張国中島郡増田村(現在愛知県稲沢市増田町)[注釈 1]だったという説、もう1つは近江国浅井郡益田郷(現在滋賀県長浜市益田町)[注釈 2]だったという説がある。上野国存在した増田氏との関係不明である

仕官以前[編集]

秀吉仕官する以前の経歴は明らかでないが、一向宗徒であったという説がある。永禄7年(1564年)側室との間に長男・長勝を儲けている。

秀吉近臣時代[編集]

天正元年(1573年)、28歳の長盛は、まだ織田信長の家臣であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に召し出され[注釈 3]200石で仕えた[1]が、この時期に正室を迎えたと見え、天正8年(1580年)、嫡男・盛次が誕生している。盛次の誕生に際し、銘吉光九寸五分の短刀を与えたことが盛次討死後、乳母の口から語られて記録に残されている。

秀吉の麾下で中国攻めをはじめ多くの戦に従軍し、鳥取城攻めでは「陣中萬の物商の奉行」を命じられた。天正10年(1582年)には奏者に任じられ、上杉景勝との外交交渉などを担当した。同年の吉田兼見日記名前が登場している。

天正12年(1584年)3月小牧・長久手の戦いでは先陣を務めて兜首二つを取る功を上げ、この功績で2万石に加増され、翌天正13年(1585年)3月紀州攻めでは、大谷吉継と共に2,000の兵を率いて従軍根来衆津田監物、西谷延命院を斬った武功があったとされ(『根来寺焼討太田責細記』)、従五位下・右衛門尉に叙任されている。

天正18年(1590年)の小田原征伐においては里見義康担当の申次となり、安房国で差出検地の施行知行宛行状の発給を行っており[2][3]、後北条氏が滅亡すると、さら下野常陸安房大名に対する豊臣政権の取次となった[4]。この年、中村一氏駿河国駿府14万石に移封になったのを受け、近江国水口6万石を拝領している。

太閤検地では石田三成長束正家らと共に中心的な役割を担い、近江国美濃国越後国などの要地の検地奉行を務めた。普請積極的で、京都では鴨川に架かる三条大橋五条大橋改修工事にもあたり、三条大橋には今も長盛の名が刻まれる。伏見城の改修も分担した。

文禄元年(1592年)から文禄の役では、石田三成大谷吉継とともに朝鮮に渡って漢城駐留し、奉行として占領統治兵站に携わった他、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いにも参加している。

文禄4年(1595年、豊臣秀次秀吉の命で切腹する「秀次事件」が起きると、長束正家と共に秀吉との間に対立が生じた豊臣秀次の老臣を糾問するなどしている。文禄5年(1596年)にはサン=フェリペ号事件の処理で土佐に赴き、このとき対応秀吉によるキリスト教フランシスコ会)の弾圧日本二十六聖人殉教)の端緒を開いた。

郡山城時代[編集]

文禄4年(1595年)、豊臣秀長の後を継いだ豊臣秀保が没すると7月大和国郡山城20万石の所領を与えられる。高田一英・浅井井頼ら大和大納言家の旧臣の多くは長盛が召抱えた。長盛はまた郡山城に総堀をめぐらす大掛かりな普請を行った。東では秋篠川の流れを東に変えて水流を佐保川に落とし、西に多数の溜池を繋いで堀となすなどした。この普請のために大和から夫役徴発され、普請は翌文禄5年(1596年)に完成を見た。慶長元年(1596年)には紀伊国和泉国の蔵入地管理を委ねられている。秀吉晩年には五奉行となる。慶長2年(1597年)には再び安房国を訪れて、総検地を施行している[2][3]。

慶長の役では開戦後国内にいたが、慶長4年(1599年)に予定されていた大規模攻勢では福島正則石田三成とともに出征軍の大将となることが決定していた[5]。しかし、慶長3年(1598年)8月秀吉が没したためこの計画は実現しなかった。

秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後[編集]

慶長3年(1598年)に秀吉が没すると、石田三成は反徳川家康立場を鮮明にし、長盛もこれに与して打倒家康の謀議に参加。慶長5年(1600年)には長束正家前田玄以など五奉行連判で家康悪事糾弾する弾劾書を示し、五大老毛利輝元宇喜多秀家擁立して挙兵西国大名西軍加担を要請する文書を送るなど精力的に活動した。

伏見城攻めには自ら参加し[注釈 4]、重臣・福原左衛門をして城内に籠る甲賀衆に寝返りを促し、落城に導いている(甲賀郡志)。大津城の戦いには一門の増田左衛門を陣代として軍勢派遣し、増田勢は大津城の湖水方面から城壁を越えて乗り込み攻撃した。同城の戦いではまた、家臣・中村金六が敵方勇士・浅見藤右衛門と組み打ちし功名をあげた。 しかし、一方で家康に三成の挙兵を内通し、また三成の資金援助要請も渋るなど対東軍への保身工作も講じている。9月15日に行われた関ヶ原の戦いには参加せず、毛利輝元とともに大坂城守備部隊として西の丸に兵3,000を率いて駐屯戦後9月25日出家して謝罪し、9月27日大坂城西の丸にて沙汰を申し渡され改易となる。その身柄は高野山に預けられた。

後に高野山を出て岩槻城主・高力清長預かりとなる。慶長19年(1614年)8月家康より召喚され大坂方への和睦の仲介を依頼されるもこれを断る。元和元年(1615年)、尾張藩主・徳川義直に仕えていた息子の増田盛次が長盛との相談の上で義直の了解を取り大坂夏の陣尾張家を出奔して豊臣氏に与したが、戦後この責任を問われ自害を命じられた。享年71。

三白眼であり豊臣家を滅ぼした元凶ではないかと後世に語り継がれている。安藤英男は、長盛が三成失脚後に100万石以上に相当する豊臣氏の蔵入地を一括管理していた点を指摘し、長盛が家康に通じずに蔵入地100万石がもたらす資金人員を豊臣家及び西軍のために振り向けたならば、関ヶ原の戦況も西軍有利に転じた可能性があったとして輝元とともに西軍敗戦の原因と分析している。

墓所埼玉県新座市の金鳳山平林寺。当初、騎西郡金重村にあった平林寺に葬られたが、松平信綱によって平林寺が移転された際、新座郡野火止に移った平林寺の境内に移された。明治年間、子孫が墓石を再度移転している。

右筆(ゆうひつ)は、中世近世に置かれた武家秘書役を行う文官のこと。文章の代筆が本来職務であったが、時代が進むにつれて公文書や記録の作成などを行い、事務官僚としての役目を担うようになった。執筆(しゅひつ)とも呼ばれ、近世以後には祐筆という表記も用いられた。

目次 [非表示]

1 概説

2 鎌倉幕府室町幕府

3 織豊政権

4 江戸幕府

5 関連項目

6 関連作

概説[編集]

初期の武士においては、その全てが文章の正しい様式(書札礼)について知悉しているとは限らず、文盲の者も珍しくは無かった。そこで武士の中には僧侶や家臣の中で、文字を知っている人間書状文書を代筆させることが行われた。やがて武士地位が高まってくると、公私にわたって文書を出す機会が増大するようになった。そこで専門職としての右筆誕生し、右筆文書作成執筆を行わせ、武家はそれに署名花押のみを行うのが一般的となった。これは伝統的に書式のあり方が引き継がれてきたために、自筆文書一般的であった公家とは大きく違うところである武家が発給した文書場合文書作成のもの右筆によるものでも署名花押が発給者当人のものであれば、自筆文書と同じ法的効力を持った。これを右筆書(ゆうひつがき)と呼ぶ(もっとも、足利尊氏のように署名花押まで右筆に任せてしま特殊例外もあった)。

なお、事務煩雑化すると、右筆正式手続を経て決定された事項について自らの職権の一環として文書作成署名を行い、これに主君発給文書と同一の効力を持たせる例も登場する。こうした例は院宣綸旨などに早くから見られ、後に武家の奉書や御教書などにも採用された。

現在では天皇皇后文章の代筆をする宮内庁文書専門員(中島司有、佐伯司朗といった書家が務める)は「祐筆」と呼ばれることがある。

鎌倉幕府室町幕府[編集]

源頼朝鎌倉幕府の原点である鎌倉政権を打ち立てた時に、京都から下級官人が招かれて事務的業務を行ったが、初期において右筆を務めていたのが大江広元である。後に、広元が公文所政所において行政に専念するようになると、平盛時(政所家事)・藤原広綱・藤原邦通らが右筆を務めた。

その後、将軍執権のみならず、引付などの幕府の各機関にも右筆が置かれ、太田氏や三善氏などの官人末裔がその任に当たるようになった。基本的室町幕府もこの制度を引き継いだが、次第に右筆の中から奉行人に任じられて発言力を増大させて、右筆方(奉行衆)と呼ばれる集団構成するようになった。

なお、室町幕府では、行政実務を担当する計方右筆公文書作成担当する外右筆(とのゆうひつ)・作事造営を担当する作事右筆などと言った区別があった。

織豊政権[編集]

戦国時代に入ると、戦時必要文書を発給するための右筆が戦にも同行するようになった。戦国大名から統一政権を打ち立てた織田・豊臣の両政権では右筆衆(ゆうひつしゅう)の制が定められ、右筆衆が行政文書作成するだけではなく、奉行・蔵入地代官などを兼務してその政策決定過程から関与する場合もあった。豊臣政権五奉行であった石田三成長束正家増田長盛は元々豊臣秀吉右筆出身であった。他に右筆衆として著名なもの織田政権の明院良政・武井夕庵・楠長諳・松井友閑・太田牛一、豊臣政権の和久宗是・山中長俊・木下吉隆・安威了佐などがいる。

なお、後述のように豊臣政権の没落後、右筆衆の中には徳川政権によって右筆に登用されたものもおり、右筆衆という言葉江戸幕府でも採用されている。

江戸幕府[編集]

戦国大名としての徳川氏にも右筆存在したと考えられるが、徳川家康三河時代右筆家康勢力拡大と天下掌握の過程奉行代官などの行政職や譜代大名などに採用されたために、江戸幕府成立時に採用されていた右筆は多くは旧室町幕府奉行の子弟(曾我尚祐)や関ヶ原の戦い東軍を支持した豊臣政権右筆衆(大橋重保)、関東地方平定時に家康に仕えた旧後北条氏右筆久保正俊)などであったと考えられている。

徳川将軍家のみならず、諸大名においても同じように家臣の中から右筆祐筆)を登用するのが一般的であったが、館林藩から将軍就任した徳川綱吉は、館林藩から自分右筆江戸城に入れて右筆業務を行わせた。このため一般行政文書作成管理を行う既存の表右筆将軍の側近として将軍文書作成管理を行う奥右筆に分離することとなった。当初は双方の右筆対立関係にあったが、後に表右筆から奥右筆を選定する人事が一般化すると両者の棲み分けが進んだ。奥右筆将軍以外の他者私的関係を結ぶことを禁じられていたが、将軍への文書の取次ぎは側用人奥右筆のみが出来る職務であった。奥右筆承認を得ないと、文書老中などの執政に廻されないこともあった。また奥右筆のために独立した御用部屋が設置され、老中若年寄などから上げられた政策上の問題将軍の指示によって調査・報告を行った。このために、大藩の大名江戸城を陰で仕切る大奥の首脳でも奥右筆との対立を招くことは自己地位を危うくする危険性を孕んでいた。このため、奥右筆の周辺には金品に絡む問題も生じたと言われている。一方、表右筆待遇奥右筆よりも一段下がり、機密には関わらず、判物・朱印状などの一般行政文書作成や諸大名の分限帳や旗本御家人などの名簿を管理した。

2017-04-26

金正恩の次

北朝鮮が狂ったことを言ったりやったりしているけど、アメリカの警告は効いたみたいで、核実験ミサイル発射もできずに軍事演習お茶を濁した。

ところで、ビビリの刈り上げ三男坊がクーデターでいなくなったら次は誰が将軍の座につくと思う?

 

ここでちょっと日本の歴史を見てみたい。

なぜ日本の歴史かというと、日本統治した影響なのか日本の良くない部分が北朝鮮冷凍保存されている面があるから

 

本能寺の変織田信長を討ち取った明智光秀を倒したのは、皆さんご存知豊臣秀吉

でも、手柄はたてたが信長後継者としては認められていなかった。そこで考えたのが織田信長遺児嫡孫三法師後見人となること。

その後、豊臣秀吉関白となり権力を手中に収めたのは御存知のとおり。

 

で、北朝鮮だ。

金正恩子供いるかどうか知らんがいてもおかしくない。

クーデターが起きるかどうかわからんが、アメリカ韓国中国ロシアが水面下で自国に有利となる政権を作ろうと暗闘していることだろう。

可能性が高いのは軍事演習視察中に誤爆を装って暗殺後見人をたてて権力を手中にするという筋書き。

後見人中国ロシア後ろ盾にして、軍事力が強力なアメリカには妥協するだろう。韓国日本には厳しいままだろうが。

第2次朝鮮戦争よりも可能性が高いと思う。

 

北朝鮮三法師はどこだ

 

2017-01-16

中世近世あたりで日本キリスト教国になってたら今頃どうなの?

平和社会になってると思う

現代日本人助け合い精神がない神道大乗仏教儒教のせいで“個人”としての自尊心を失った

僕が織田信長豊臣秀吉徳川家康になったら絶対神道大乗仏教弾圧し、キリスト教隣人愛精神を広める

そしてアジア代表する枢機卿になり

現代では聖人として扱われる存在となる

毎週日曜に教会に行く習慣ができれば孤独な人は減り、穏やかな共同体意識が芽生え、日本は今頃平和な国になっている

2016-08-20

知人がもし性別が違ってたらどうなったんだろうと考えることがある

たとえばスーパーレジのおばちゃんが男性だったとしたら、きっとどっかのサラリーマンやってるんだろうなあとか

もし自分が好きだった娘が男だったら、好きになってないだろうなとか、そもそも同じ高校いないかもしれないし、その場合は別の男の娘好きになってるのかなあとか

性別によって出会いタイミングが大幅に変わったり、そもそも社会だとポジション的な違いもあるよね

多分あべそうりが女性だったらきっと総理になってないし、織田信長女性だったらそもそも戦国の世が続いてただろうし豊臣秀吉だって出世できてないだろうし

2016-08-17

語源の楽しみ

語源の楽しみ。家にいて、そこらへんにある言葉を拾うだけでいろいろ考えた気になる。暇なときに最適な楽しみである

たぶん、それで得られる思索は、ほんとに言語学とかやっている人には当たり前のことなのだろうけど、まあ趣味ですから、許してほしい。逆にそういう専門の人の面白い語源の本もまた好みである

アメリカ上院はSenate。この語源ラテン語Senatus、すなわちローマ元老院。その単語をそのまんま使っているということに僕は衝撃を受けた。つづりの違いは言語の違いに過ぎないから、たぶんアメリカ人学校歴史の授業で、ローマ歴史を学ぶ時とアメリカ合衆国政治機構について学ぶ時に同じ単語Senateをもとに学習しているわけである。そこに歴史の一貫する深い流れを感じ取ることが、感覚としてあるのではないか。ちなみに下院House of Representativesで、一般名詞形成されている。

ところで、どうしてこのように名付けたのだろう。

たぶん、アメリカ民主主義が、設立当時はイギリスよりもフランス継承している意識が強かったことに由来しているのだろう。イギリスは、貴族院庶民院下院)であって、それぞれHouse of LordsとHouse of Commons。それに対し、フランス上院下院は、SénatとAssemblée nationaleであり、上院には同じ単語使用している。フランス上院のことは日本語訳でも直接的に「元老院」の訳語をあてることもあるようで、Wikipediaはそうしている。単語としては同じなんだからアメリカ上院も時には元老院と呼んでもよさそうだ。

アメリカ上院議員はSenator。オバマ大統領大統領選を戦っているとき、「Senator Obama」とよく呼ばれていた。

このときこのひびきは通常の日本語訳では「上院議員オバマであるが、原語では「元老院議員オバマ」と同じものなわけであり、これはつまり歴史を好むアメリカ人にとっては「元老院議員カエサル」と同じ響きをもって伝わっているのだろう。ここがうらやましい。

明治維新が起きてすぐのころ、明治4年の制度では正院の長は太政大臣であり、三条実美が就いていた。過去太政大臣と言えば、藤原道長であり、平清盛であり、当然のことながら、豊臣秀吉である。なんで「太政大臣」の名前を廃したのかな、と残念に思うところ。

もちろん、より有名なところ(だが現在には継承されていないもの)として、ドイツ皇帝カイザー」、ロシア皇帝ツァーリ」は、それそのものローマ皇帝または副帝の称号カエサル」を引き継いでいる。

こういうのを見ると、欧米では歴史単語レベルで地続きであることが多いのだなと思う。しかしもちろん日本でも、大連(おおむらじ)と大臣(おおおみ)の権力争いの末大臣家が勝ち残ったことが、現在でも内閣大臣名称に残っていることなどは、語源から歴史の深みを感じるところではあるのだ。

・・・これを読んで「そんなの誰でも知っとるわアホ」と思った方による、より深い考察も歓迎でございます

2016-06-14

真田丸秀吉名古屋弁喋ってて凄く違和感があるんだけど

元々名古屋の人なんだっけ?

なんか今までの豊臣秀吉から随分異なる印象を受けている。

あのトルネコの大冒険シャナクした時に流れるSEよろしくな秀吉テーマを聞きながら彼の名古屋弁を聞く度に

の子猿みたいなのが天下を統一した名君なのかと疑いの眼差しで見てしまう。

まあ、史書などを漁ると晩年暴君のものだったとか言うけどね。

それでも名古屋弁家康とか信繁にぎゃーぎゃー言うのは珍しくてどうしようもないんだよね。

秀吉は昔は標準語喋れなかったのか、じゃあ昔の大河は嘘っぱちだったのか。

正に青天の霹靂だったよ。

名古屋人すげえ。

2016-06-05

みんな一緒思考

豊臣秀吉自分は一緒、

織田信長自分は一緒、

松下幸之助自分は一緒、

スティーブジョブスと自分は一緒

ビル・ゲイツ自分は一緒、

けれど、世のために自分の身を粉にして働こうと一切思わない。リスクもとらない。自分はの行いは棚にあげて、他人には潔癖なほどに善人であることを求める。そんな自分と一緒でないと、バーーーーンとキレて精神崩壊する人

2016-03-16

農民から1代で出世した豊臣秀吉成功法則は、女性を大切にすることだったらしい。妻を大切にしたんだと。

小卒で極貧から大企業にのしあがった、松下幸之助さんも、たしか女性幸せにするための家電を作ったらしい。

底辺からの大出世は、女性キーワードなのだろう。

心の中で思っていることは、絶対に行動や結果という表に出るし、隠し通せない。

2016-02-25

初詣明治以降につくられた伝統だという説は怪しい

「看羊録」という書物がある。

豊臣秀吉朝鮮侵略の際に日本拉致されて数年をすごした朝鮮人儒学者日本観察記である

家族までも犠牲となった侵略被害者なので当然ながら日本に対する憎しみは深く、感情的偏見の強い記述も随所に見られるが、一方で科挙に受かったエリートだけはあり、抑留中に見聞きした出来事はもちろん、日本の書物をよく読み、北海道も含む日本列島の詳細や地名や各地の慣習、大名名前性格まで記録しており、著者の姜沆の博覧強記ぶりがうかがわせる。

その中に以下のような記述がみられる

その風俗はひどく鬼神を信じ、神に仕えることは父母に仕えるようであります生前、人の尊信を受けていた者は、死ねば必ず人々に祀られます。父母の命日には、あるいは斎戒・素食しないことがあっても、神人の忌日には一切魚肉を禁じます将倭や将倭の妻妾から庶民の男女に至るまで、祝日や神人の忌〔日〕にあうたびに、おごそかに盛装し、〔寺・社などの〕門前に行って銭を〔賽銭として〕なげる者が街路をうずめつくします。神社は宏〔大、奢〕侈〔をきわめ、〕、金碧に照り輝いています

(〔〕の中は文意を分かりやすくするための訳者の注の模様。なお、翻訳基本的東洋文庫「看羊録」朴 鐘鳴 訳による)


一読して分かる通り、ここに書かれている神社参拝の光景今日における初詣のそれと何も変わらない。ただ一つ違うのは、それが行われるのが広く「祝日や神人の忌避」としており、元旦限定していないことだ。(この「祝日」はもちろん、単なる休日という意味ではないだろう。)

この記述部分は姜沆が抑留されていた京都にて自分で見たものなか、それとも人づてに聞いたものかは判然としない(彼は抑留中は藤原惺窩の世話になっており、慕われて戦国大名の人物評なども聞かされていた模様)。もちろん、当時の日本現代よりはるか地域差も大きかったろう。

だがしかし今日の「初詣」と同じような風習戦国時代日本存在したことは間違いないようだ。「看羊禄」にはほかにも、当時の日本人が大変に信仰深かったことが描かれている。


むろん、元旦に行われないならば初詣とは違うという意見もあるかもしれない。

しかし、こうはいえないだろうか

日本人はもともと信仰深かった。そして祝日があるたびに大勢寺社に参って賽銭を投げ入れるという風習があった。それが明治時代になり、だんだん従来の信仰形骸化し、また近代化によってカレンダーに強く拘束される生活になった結果、最大の祝日である元旦にだけ、従来のお参りの風習が集中する結果となった。」

こう考えてみると、「初詣明治以降につくられた伝統」だという説はいささか偏った見解だともいえる。むしろ数少ない、近代適応して変化しながらギリギリ残った古来の伝統の一欠片だともいえるのだ。そう考えると、初詣は貴重な伝統文化として大切に保存しなくてはいけない、ともいえるのではないか。



以上です。



もちろん、この資料だけを根拠にあれこれ言うには限界があります。ほかにも関連資料を見つけた際にはまだ別記事にてご紹介したいと思います

「『元旦』にお参りする」という風習については「恵方詣」などを調べていただければと思いますネット上ではこの恵方詣をもって初詣元祖とする見解が多いですが、その前提として「祝日大勢寺社にお参りして賽銭を投げ入れる」という民族的風習があったといえるでしょう。

そのほか、参考サイト

平安時代までは確実に遡る「初詣」の歴史



追記2/29


予想していたよりもはるかに多くのコメントいただき、うれしいと同時に正直戸惑っております(笑)

頂いた反応のうち、特に多くの方から寄せられたものにつき、回答させていただきたいと思います

新たに記事を立てるべきかとも思いましたが、煩雑になる可能性もあるため、追記という形式をとらせていただきます

匿名ダイアリーの慣習などには明るくないため、もしおかし行為でしたら申し訳ございません。



まず第一に、非常に多く寄せられたコメントに「祭りや祝い事が古来からあったなんて当然じゃないか」というものがあります

これは私にとって予想外の誤解だったのですが、私は単に古来から祭りや祝い事があった、と言っているのではありません。

特定の日に、街道を埋め尽くさんばかりの人間が同時に寺社にお参りして賽銭を投げる」という形式の慣習存在していたと主張しているのです。

初詣の原型があった」という主張なのですから、単なる祝い事があったというだけではもちろん、何の根拠にはなりません。

形式において今日初詣と非常に似通ったもの中世の時点ですでに存在したという点が重要なのです。



次に、「初詣明治以降につくられたという説は、鉄道で無縁の大手寺社に参るという点明治以降に生まれものだという説である」として、いったい誰が何もないところからつくられたと主張しているのか、お前は誰と戦っているのか、という指摘がございました。

そして、専門家の詳細な説や意見を紹介してくださった方もいらっしゃいました。

私は、そのように原型のあった部分と変化のあった部分を明確にした上での見解ならば文句はないのです。

(中には、私がそのような専門的な説に対する批判を行っていると勘違いされた方もいらっしゃいましたが、決してそんな不遜な意図があったわけではありません。)


これは私の書き方に問題があり、本文において大上段に振りかぶって文化論をぶつような書き方をしてしまったため、誤解を生んでしまったものだと思います


私が想定しているのは、もっと低いレベルでの話です。

例えばTwitterで「初詣 明治以降」「初詣 捏造」などで検索していただければ、初詣には微塵の原型もなく、明治以降に突然、(ときには陰謀論的に)創設されたものだと思い込んでいる方のツイートがヒットします。

おそらく、どこかで「初詣明治中期につくられた」という話を知り、それを文字通りに受け取って、そのような認識になってしまったものだと思われます

話は変わりますが、私は、「明治以前に神道という『単語』はなかった」というとんでもない主張をする人と出会ってことがあります

おそらくは明治時代国家神道の創設について、中途半端認識が伝わっていくにつれてそのようなことになってしまったものだと思われます

元は専門的に議論され、ちゃんと留保を置いた上で説かれた説が、一般流通していくにつれ、単純化され、しまいにはデマに等しい説にまでなってしまうのです。

「誰と戦っているの?」というコメントを頂きましたが、私はそのような「デマ」が広まることを危惧しています



ここから先は少々、抽象的な問題になります



他に多くの方々の反感を呼んだのが、

「むしろ数少ない、近代適応して変化しながらギリギリ残った古来の伝統の一欠片だともいえるのだ。」との点です。

様々な反応がありましたが、まとめると、上でもふれられた「遠方の寺社にでかけるのは明治以降である」という認識(それはおそらく事実でしょう)に基づき、やはり捏造された伝統であることは否定できない、という主張です。

これについては、最終的には解釈思想問題になりますので、限られた文字数議論できるとは思いませんし、万人の納得のできる結論も出ないでしょう。


ただし私は、どのコメントを読んでも、あるいは紹介していただいたリンクなどを読んでも、いまいち納得できませんでした。(むしろ違和感が増しました)

というのも、近代化工業化が進めば(直接的な要因が自然ものであれ人為的ものであれ)変化があるのは必至だからで、それは当然じゃないのか、と思ってしまうからです。

「変化した」「変貌した」と言っていただければ何の違和感もないのですが、なぜ「近代になってつくられた」とまで言い切ってしまうのか、その理由が分かりません

近代につくられた」というのは所謂カルスタの方々の昔からの決まり文句ですが、(石原千秋氏は「つくられた系」と批判的に呼んでいました)「近代になって変化した」では当たり前すぎてインパクトが薄いのであえて強調しているのではないかと勘ぐってしまます


また、現在でも地方共同体の生きている田舎では、古来とさほど変わらない信仰地域性の元で「初詣」を行っている地方存在すると思いますが、それは捏造ではない、ということでよろしいのでしょうか?そうするとやはりそのような方面無視して「つくられた」と説くことには違和感があります

2016-02-10

1日10時間勉強半年続けた②

『1日10時間勉強半年続けた』

http://anond.hatelabo.jp/20160102221820

この記事を書いたものです。

  

医師国家試験もおととい終わり、おそらく合格したと思います

そこで、また自分なりの勉強のコツも見つかったので書いていきたいと思います

  

言葉の羅列系はゴロあわせ(2周目以降の暗記)

 徳川代将軍とか、日本総理大臣を全部とか、そういう暗記が詰まったときは、ゴロあわせと決めてました。

  

比較して覚える系は理屈を考える(2周目以降の暗記)

 織田信長豊臣秀吉、この2人はどういう風に対比できるのかをまとめた表みたいなのがあったりするじゃないですか。

 「鳴かぬなら、殺してしまおう、ホトトギス」といったのは織田信長、「鳴かぬなら、鳴かせてみせよう、ホトトギス」と言ったのが豊臣秀吉

 これを覚えようという場合は、「豊臣秀吉は、懐でぞうりをあっためて主人のゴキゲンとったエピソードとかあるから、殺してしまおうは無いな」とか、あるいは「織田信長は物凄く残酷だったらしいから、殺してしまおうだろう」というような。

 これのいいところは、片方覚えれば自動的にもう片方も覚えられることです。

  

 医学場合は、比較して覚える系の病気がめちゃくちゃ多い。

 たとえば、「大動脈弁閉鎖不全(AR)は、速脈かつ大脈」一方で、「大動脈弁狭窄症(AS)は、遅脈かつ小脈」というのがあったりします。

 僕は、この覚え方としては。ASのほうは覚えずに、ARだけ覚えました。

 A「R」→「R」apid(速いって意味英語)→速脈→速いかつ大きいだな→速脈かつ大脈。→ってことは、ASはその逆だから、遅脈かつ小脈か。

 これはイメージ的な覚え方してるので正確には理屈で考えてないですが。片方覚えれば、一気に記憶量が2倍とかに膨れるのがこの系統のいいところですね。

  

③1つの大きな事象を覚える系は、エピソードで覚える(2周目以降の暗記)

 たとえば、「第二次世界大戦」を覚えることになりました。

 色々な事象が入り組んでいて、正確に暗記するのは難しく、膨大な量です。

 こういう場合は、まず、その時のエピソードなんかを探すといいと思います

 戦争中の小説なんかを見て、「フンフン、防空壕でB-29っていう爆撃機空襲に備えたり、疎開したりしたのか、飯もあんまりなかったんだな、どっかの島で戦って壮絶な死にそうな戦いもあったのか」っていう体験談とかとかを見たとします。

 すると、「日本外国から燃料を買えなかったり、そのため最後の方は特攻隊みたいな、操縦の技術が低くても勝負できるようなものだったらしい」とか、ある程度歴史の横の軸を覚えることができるかと思います。その部分を軸にすれば覚えやすい。

  

 医学場合は、「喘息。wheeze(呼気性)って聴診音聞こえる。肩で息をしていたり、呼吸とまったりもする。アスピリン喘息女性に多く、鼻茸なんかが特徴的。運動誘発性喘息には~~~」というような、羅列が並ぶけど。これは覚えにくい。

 なので、実際に問題とかで、「7歳の男児学校運動していたところ、突然呼吸困難を訴え、救急車で運ばれてきた。来院時の酸素化は88%(普通は98%以上)。胸部聴診上、呼気性の喘息を認める。このとき検査治療として正しいのはどれか?」みたいな問題があったら。覚えていないところを、マーカーでぬる。で、この症例イメージを持って、喘息の細かな事象の羅列を覚えていく。

 病気ではなく、患者さんを覚える。

 理屈ではない暗記を効率的に覚えられるので、エピソード系で暗記っていう風にする。

  

④覚えにくく小さい散発的なものは、無理やりなイメージやひっかかりで暗記(2周目以降の暗記で、捨て所な細かい知識)

 どうしようもない、散発的な知識って奴がある。

 たとえば、「尿路結石では、シュウ酸カルシウム結石場合顕微鏡で四角形の結石が見えるし、シスチン結石場合顕微鏡六角形の結石が見えます」っていうのがあるんですが。

 これは出るかどうかも怪しいし、覚えにくい。尿路結石は5種類くらいあって、どれがどれなのか混乱しやすいんですよ。

 これはもう割り切って。「『シ』ュウ酸『カ』ルシウム→『シ』『カ』クケイ→四角形」、「『シス』チン→『シ』ック『ス』→six→六→六角形」

 問題自体、でるかどうかも分からず、でもこれ一発で答えさせる問題過去にでている。しかもこんな覚え方実際本番で思い出せるかも怪しい。

 でも、割り切って、覚えてればいいな~くらいで流します。

  

 「毛細血管拡張性失調症(ataxia telangiectasia)って病気は、T細胞障害で、IaA,IaEが下がる」みたいなのも、覚えにくさが半端無いんですが。

 「『a』taxia 『t』elaniectasia」→「知らないけど、IgAとT細胞は下がるんでしょ」くらいで、IgEの低下はバッサリ切って覚えてました。

  覚えられないし、散発的だけど、覚えるってのは非効率ですが。ある程度納得感を持って切らなきゃいけない部分も多いので、バッサリ切るためにこういう覚え方してますテスト期間中くらいなら持つでしょ。

  

  こうきたら、こうだ。っていう暗記を作ってしまう。

 当然、思い出せる確率は低くなるが、そういうものからしょうがない。

  

  

場所記憶系は最低でも1つは捨てられる(2周目以降の暗記)

 たとえば、四国の位置を覚える場合、全部覚えなくてもいい。3つ分かれば、もう1つは自動的に消去法なわけです。

  

⑥覚えにくい、頭に入りにくいならいいかえてみる(2周目以降の暗記)

 「麻疹になると、T細胞免疫系)が下がりますよ」みたいなことを書いてあっても、なんのこっちゃですが。

 「麻疹になったときに、肺炎になると、相当ヤバイですよ!だって免疫下がってますから防御できないんですよ!麻疹T細胞を弱らせるんですよ!」みたいな感じで言ってもらうと覚えやすい。自分で言い換えやるわけです。

  

 「青森林檎生産量は468000トン、長野は162000トン、山形52000トン」みたいな暗記は難しいですが。

 「全国800000トンの生産の内、半分以上が青森長野青森3分の1くらい、山形長野さら3分の1くらい」という風な記憶でもほぼ正解選択肢が選べることに気づけば、かなり暗記しやすい。というか、元の数値を暗記する手間が省ける。もちろん、このために間違うこともあるでしょうが、9割方大丈夫でしょう。

  

 とにかく、頭に入らないな、覚えにくいなって思ったら言い換えたりしてみる。ダメなら次の機会にまた言い換えたり結びつけたりする。

  

 医学場合だと、「年齢調節したガンの死亡部位では、男は1位肺がん、2位胃がん、3位大腸癌。一方女は、1位大腸癌、2位乳がん、3位肺がん」これを覚えるの結構キツイんですが。

 「大まかに、男は上から、女は下から。+男はタバコうから肺がん一位」→「ちょっとまてよ、乳と肺ってどっちが前だよ!」→「もし肺が2位で乳が3位ならそういう疑問持ってなかったはず、ってことは、乳が2位なはず」

 このくらいの言い換えでいいと思います。途中で頭をひねろうとしたっていう体験記憶に組み込んでいますが、こういう試行錯誤たからこうなってるはずだみたいな暗記も強いです。体験に基づく暗記は体で覚える系になって、かなり思い出しやすいし確信が持てる。

  

⑦なんの合理性もない理屈を無理やりつける(2周目以降の暗記)

 「豊臣秀吉と、織田信長、どっちが先だっけ?」→「『お』と『と』では、五十音で『お』が早いから織田信長でしょ。」

 「咽頭結核熱はどのくらい学校休むんだっけ?」→「咽頭結核ね「ツー」だから、症状が消失して『2(ツー)』日でしょ。」

  

 もうなんの合理性もないんですが、こういう引き出しで覚えるw

  

2015-12-07

郷土偉人大阪編)

大阪言わずと知れた関西最大の都市であり、奈良京都と並んで歴史のある土地だが、

大阪出身偉人といえば?」と言われると意外に思い浮かばない。

松下幸之助和歌山出身だそうですよ。知らなかった。

遡って幕末だと福沢諭吉

しかし「大阪代表する偉人福沢諭吉です」というのもなぁ、という感じがする。

江戸時代元禄文化から井原西鶴竹本義太夫などが思い浮かぶが、どうもパンチが足りない。

有名人の宝庫である戦国時代でも、有名なエピソードといえば大阪冬の陣・夏の陣くらいのもので、

もちろん豊臣秀吉真田幸村大阪の生まれではないし、秀頼では駄目だ。

戦国時代では他に、顕如荒木村重高山右近など…いずれも知名度が致命的に欠けている。

千利休

これは良い線なのではないだろうか。

茶道大成者であり、豊臣秀吉を通して戦国史にも多大な影響を与えた。

さらに遡って南北朝時代

楠木正成

ビッグネームだ。

生地不明?(アーアーキコエナイ

戦前大楠age反動最近は影が薄い気もするが、それでも知名度は高かろう。

平安時代では…源義家あたりか。

日本史的には超有名人だが一般的な知名度はどうか。それとやはり出生地不明

というか河内源氏河内を捨てて鎌倉なんぞに行きやがったからな。

さらに昔だと…道鏡。これはあんまりだ。

というわけで、大阪の「郷土偉人」は、

武では楠木正成、文では千利休

ということになるのではないか。

2015-10-05

大村さんがノーベル賞を取れたのは文化資本があったか

今回ノーベル賞をとった大村智さんは異色の経歴の非エリートとされるが、ふざけろ!

80歳で大卒のどこが非エリートだ!何%だ?大村さんと同世代人間の何%が当時大学に進めた?

俺なんか、29歳なのに、高卒だ。神童と言われていたが、クソな家庭に生まれたせいで高卒だ。

大村さんはエリートだ!エリートからこそ、ノーベル賞を取れた。

もし大村さんが俺の家みたいなクソな家庭に生まれていたら名も無き貧民として一生を終えただろう。

キモオタボッチ童貞として手取り17万で極貧生活をおくっただろう!

そして実際大村さんの同世代人間には、そんな才能を開花させることなく死んでいった人間が沢山いるだろう!

大村さんは80歳なのに大卒

娘は世田谷区在住!

甥っ子は毎日新聞社員

ちくしょうちくしょうちくしょう!なにが才能だ。なにが努力だ。ただの勝ち組一家じゃねえか。

だって大村さんの家に生まれていたら今頃ラスカー賞フランクリンメダルも貰ってるわ!

エリートノーベル賞を受賞!これが今の日本現実だ!

そして、環境に将来を奪われた俺のような人間が無理やり祝言を述べさせられる。これは拷問だ!

平成の世には豊臣秀吉野口英世いねえ。泣き言いっても仕方ねえけど、ひでえよ、しかし。

2015-08-09

ニコニコ日韓関係ドキュメンタリータイズ・ザット・バインド」が韓国寄りがっかり

ニコニコ動画ドキュメンタリーを作るという。その第一弾が「タイズ・ザット・バインド~ジャパン・アンド・コリア~」。「BBCワールドワイドから推薦を受けたイギリス制作会社 BLAKEWAY が

国際的第三者視点から日韓問題」を描いたオリジナルドキュメンタリー」というのがウリらしい。

一体どういうものなのか期待してみたらびっくり。とんでもない作品だった。

第一弾は慰安婦竹島問題。第二弾がヘイトスピーチ日韓関係感情についてでした。その偏り方について、第二弾の内容を紹介しようと思う。

第二弾は、まずはヘイトスピーチについての内容だった。過激なデモ両国で行われ問題になっている。しか番組内では日本側のスピーチが延々と流されていた。具体的に数えてみると、日本デモスピーチの場面は7分以上だったのに対し、韓国は1分も取り上げていなかった。

これでは日本デモが起きているのに対抗して韓国でも対日感情悪化しているという印象が持たれてしまう。

その後はインターネット掲示板で互いの誹謗中傷が飛び交っている話が出てきた。これも先ほどと同様の手法が使われていた。なんと、掲示板映像がすべて日本語なのだ。また、炎上した例も韓国人被害にあった例を紹介するものとなっていた。被害に遭っている日本人の話はないのだろうか……。

また、16世紀から日本にいるという韓国ルーツ陶芸家の話も韓国目線に感じた。

「当時日本陶芸技術は発達しておらず」「技術を盗もうとして陶芸家が連れてこられ働かされたのでしょう」

島国日本には独自文化があると思われがちですがそれは違います

陶芸家については、豊臣秀吉が連れてきたのは事実だが、徳川家康が開放したと言われている。つまり日本に残るのは自分で決めたところが少なからずあるはずだ。

まあ陶芸家はさておきここで言いたいのは「日本の文化否定している」ことだ。これは一番反感を覚えた。その後日本反論するのかと思いきや、次の話題に移ってしまったのだ。あまりの偏りに目を疑った。日本独自文化が栄えたのは自明だ。逆に「これは韓国起源」と因縁をつけ、日本うんざりしていることは多いだろう。このような事実を載せず、韓国の主張を一方的に載せるのはどうなのだろうか。

私は日本独自文化がなかったなどと世界の人に思ってほしくない。

日本世界観光地ランキングで1位になっている京都があるのに、独自文化がないという主張を鵜呑みにしてしまうこの番組制作社のリテラシーが疑われる。

ニコニコ動画は今後新たなメディアとしての地位確立したがっているように思える。インターネット住民に媚びて日本に都合が良いものを作るのはもちろんいけないが、せめて中立立場番組を作ってほしい。

2015-08-01

タイズ・ザット・バインド ~ジャパン・アンド・コリア」を観て

ニコ生面白いことを始めた。

ニコニコドキュメンタリー

http://documentary.nicovideo.jp/

http://blogos.com/article/122730/

TVでは放送出来ないタブーネット放送しようという試みだ。

田原総一朗さんがまだ元気だった頃は朝生タブーを知れたが今は朝ナマも機能せず。

私は部落問題在日問題朝生で知った。

田原さん亡き後次世代池上彰さんに頼るしか無いかと思っていたが

ニコ生がこういう試みを始めたのでありがたい。

ただTVではできないけこともネットではできると

ついこの間までは言われていたが

なんだか最近ネット人口が増え規制だらけになってきたので

どこまで川上さんが切り口鋭く踏ん張れるかは眉唾である

で、今回がその最初作品

タイズ・ザット・バインド ~ジャパン・アンド・コリアエピソード1

http://live.nicovideo.jp/watch/lv227557733

という日韓問題を扱った作品

業界人間ではないので言葉意味がよくわからないんだけど

「著作:ドワンゴ / 制作:Blakeway Productions / 配給:BBCワールドワイド

意味するところがよく分からない。

ドワンゴBBCに「こんな感じの映像作ってくれ!」

って発注してBBCがBlakeway Productionsに作らせてドワンゴ映像を渡したってこと?

で、その中身ですが、

朝鮮日本関係豊臣秀吉朝鮮出兵から語った視点面白かった。

耳や鼻を戦利品で持って帰ってくるというISISばりの頭のおかし日本人達の話は初めて知って驚いた。

隠されているわけでもないのにこの史実自分が知らないということはどういうことなんだろう?

と考えさせられた。

豊臣秀吉とかお伽話の世界のような感覚でいたけれど

史実現実としてそこから始まっていた。

これだけネット自由情報を入手できる世の中になっても

趣旨選択のできない私のような馬鹿

相変わらず簡単に洗脳され情報操作に踊らされてしまうんだなと思い知らされた。

ただ現代史に入ってからの話は

ほとんど私の知った情報しかなかったので特に驚きはなかった。

なんかやたら川上さんは韓国寄りに見えるかもしれないがこれが現実だ!的に言っていたが

個人的にはどっちに偏っているとも思わなかった。

ただ昨今歴史認識問題がやたらクローズアップされるが

個人的には凄く胡散臭く思っている。

ぶっちゃけ私はそんなことに興味が無い。

なんだか理由はよくわからないけど大騒ぎしている人がいるなあ

的な感覚しか無い。

理由戦後に生まれた私には史実が正しいかどうかなどもう確認するすべがないのでどうしようもないから

理由韓国人だろうが日本人だろうがアメリカ人だろうが黒人だろうが全部同じ人間

   どの人種特別であるとか善であるとかあるわけがないから

   環境や生まれで誰しもが加害者になり被害者になる可能性があるというだけ。

理由③私が韓国人に何かしたわけでもないし祖先責任を感じろと言われても実感的に無理だから

理由私自身が韓国人になんの嫌悪感も持っていないから

私は今日本が一番仲良くなり近い存在にならなければならない相手こそ韓国だと思っている。

理由は簡単、隣国から

何かあって困れば一番最初に助けに来てもらえるし

交通流通時間の面でも一番効率よくなんでもできる相手が隣国である

逆に仲悪くなれば一番めんどくさくて大変なことになる相手である

お隣さんと仲良くならないでまともな生活などできるわけがない。

でも近すぎる相手だからこそ掌握したくて日本上から目線で力で相手を制圧しようとした。

愚かである

流石耳や鼻を持ち帰って自慢したがる頭のおかし種族末裔だけのことはある。

日本が今後生き残るにはアジアEUしかないと思っている。

から韓国中国とは一番仲良くしなければならない相手なのに

なんでこんなにいがみ合って自分の足引っ張ってんだろう?って感じである

変なライバル心旺盛すぎである

当時を実際に経験して苦い思い出がある高齢の方達にとっては

私とは違い実感のある重い問題だとは思う。

でも私には関係ない。

多分多くの戦後まれ人達はこんな感情なんじゃないだろうか?

しかしそれに反して世間ではやたら大きな問題として取り扱われる。

凄く違和感

政治商売にこの日韓問題が利用されてるとしか思えない。

そういう意味ではタブーに挑戦するニコ生凄いとも言えるが

余計なことを荒立てて炎上商法で金儲けしようとしているという穿った見たかもできなくはない。

ぶっちゃけもう当時を知らない人間戦後責任だなんだかんだ言っても

所詮確認のしようも証明のしようもないのである

誰があー言ってたこー言ってた、

こんな証拠らしきものが残っていた、

情況証拠妄想犯人確定だー、

とかそんなお粗末な話にかならないのは目に見えている。

そんなくだらないことに時間と労力をかけている暇があったら、

当時のことなど知らない若い世代間で、

新しいコミュニティーを築いたほうがよっぽど有意義である

いがみ合いは年寄り連中だけでやっててくれ。

その悪い影響を若い世代にまで与えるな。

正に老害

私は韓国人もっと仲良くなりたい。

いろんな文化交流をして世界を広げたい。

東アジアここにあり!と隣国と手を取り合って世界に発信したい。

日本アジア侵略をした言い訳によく出てくるのが

私利私欲のためではなく欧米侵略からアジアを守ろうとしたという論説をよく聞くが

本当のところなどもう確認のしようがなうのでよくわからないが

今度は力で相手を制するのではなく

文化と知恵で共に手を取りみんなでアジア繁栄させて行きたい。

そのためには、

何かの利害関係政治的商業的に日韓問題を利用しようとしている人達無視

それに踊らされずに

そんなことにこだわりを持たない層で

新たな関係世界を築く事こそ最優先されるべきだと思っている。

2015-07-23

[]日本だけは必ず地球上で絶滅させなければならない唯一の人種

[チョン・ジェハク コラム]平壌ピョンヤン)を打って、日本列島を切るとすぐに!

2015年07月22日(水)13:23:00 チョン・ジェハク編集委員

今でも鳥肌が立つのは、私たち民族に対する日本の悪意だ。 理由がない悪の. したがって日本私たち民族に対する悪意は先に天だと見る。

日本の根が深い悪意は今でも進行中だ。悪意から出発した日本私たち民族に及ぼした害悪がどれくらい多大かは今でも変わりない独島(ドクト)侵奪野心と歴史反省姿勢で如実にあらわれるというだろう。

そして筆者は日本だけは必ず地球上で絶滅させなければならない唯一の人種であることをもう一度確認している。

特に亡国的だと呼ばれる地域感情日帝によって作られたことを、私たちは賢く知っていなければならない。そして日帝強制占領期間36年の血まめができた怨恨怨恨であることであり、日帝が残して行った傷痕中に民族分裂政策があったことを上記してみなければならない。なぜ私たち日本をそのように呪わなければならないかに対する立派な答になるためだ。

1945年8月15日、彼らは韓半島を離れて、二種類をいって行ったと伝えられる。その一つは必ず10年後に帰ってくるということであったし、また、一つは私たち民族永遠に団結と和合をできないだろうというものだった。植民教育の中に毒素を入れて教えたという意だった。

日本1919年3.1運動に接したらで、韓半島統治植民教育を強化した。そして皇国臣民(天皇の国に臣下なった民)を育てるために国民学校(国民=皇国臣民略語)をたてて、私たち民族の頭の中を洗脳させ始めたし、民族精神抹殺するために学校私たち国語を奪ったし、伝統文化に対する否定的意識を教えた。

花札流行させたのも民族精神抹殺政策の一環だった。花札は勤倹節約の美風良俗を害して、トゥレ村の協同精神を押し倒して私たち怠惰国民に成っていった。

しかし5000年歴史を持った自主民族が一日で簡単に洗脳される理由がなかったし、いよいよ植民教育の強圧を突き抜けて光州(クァンジュ)学生運動が起きた。この事件日帝植民教育の方向を修正した。それが民族分裂政策だった。

民族分裂政策は湖南(ホナム)に対する排他的意識を育てることで始めた。 歴史的に湖南(ホナム)は日本自尊心を押し倒した、日本に敗北の数値を抱かれた故障だった。 壬辰倭乱当時李舜臣将軍の部下にはいつも勇敢な湖南(ホナム)人がいたし、幸州(ヘンジュ)山城での大勝にもクォン・ユル将軍をついて行った全羅道(チョルラド)出身の将卒があった。 豊臣秀吉の侍童出身小暑銀行長は幸州(ヘンジュ)山城の敗北を、全羅道(チョルラド)出身将卒の奮闘を理由に上げたりもした。

同学以後起きた義兵大部分が湖南(ホナム)を拠点にして起きたし、生き残った義兵は智異山(チリサン)を根拠地活動していた。ここに何と20年余りの植民教育を押し倒して光州(クァンジュ)学生運動が展開したのだ。

これに対し日本は湖南(ホナム)排斥目標地域感情生産し始めた。

植民史学者を動員して、その有名な考慮王健のフンこの十兆をまき散らして、湖南(ホナム)を醜くていやしい反逆の故障認識させ始めた。ここに応じたのがいわゆる両班(ヤンバン)階層親日派であった。‘全羅道(チョルラド)犬の土鉄’という(のは)湖南(ホナム)国民らをいやしく呼ぶニックネームだった。

日帝によって生成された地域差別は、親日史学者らと貴族階級の末期的現象に心酔した愚かな支配階層によって広く広まったし、そして日帝韓半島を離れて私たち民族大同団結あざ笑うことになったことだった。

湖南(ホナム)に向かって逆差別的な毒素は軍事独裁で花を咲かせたと見る。軍事独裁当時湖南(ホナム)出身将軍進級が事実上詰まっていたし、カンでも、財界でも湖南(ホナム)人は排斥にあった。どれくらい深刻だったのかは筆者の体験の中に今でもそのまま生きている。子供未来のために本籍までパーサー移住する湖南(ホナム)人が如何に多かったのか。

日帝が狙ったそのままであった。さら全羅道(チョルラド)人ならば婚姻もしなかった。他地域に嫁入りした湖南(ホナム)女たちが受ける侮辱は怒りにつながったし、その怒りは亡国という言葉どおり広がった。

暮らすために他地域に離れた湖南(ホナム)人は全羅道(チョルラド)なまりを使わなかった。情感に充ちたその言い方まで隠さなければならなかったすべての悲しみは湖南(ホナム)人の胸に数多くのあいくちをさしていた。

そしてその頂点に5.18があった。‘慶尚道キョンサンド軍人が湖南(ホナム)人をみな殺す’というデマが光州(クァンジュ)市民の胸に火を付けたのだ。筆者もその現場確認したことだった。したがって光州(クァンジュ)市民はそのようなデマが追い込まれる程湖南(ホナム)差別に対する痛くて大変な数多くの経験があったのだ。

その辛い経験は深い傷で残って今でも有効に展開していると見なければならない。北朝鮮が操縦する韓国葛藤実体も湖南(ホナム)地域差別に根元を置いたことだった。おそらく北朝鮮最後まで地域差別をそそのかすつもりだろう。

日帝が残した植民教育の毒素は、民族分裂のための地域差別だった。今でもこの呪いが生き残って繁盛する理由はその最初北朝鮮対南工作にあって、その次がまだ地域差別実体を悟ることが出来なかった愚昧な国民にあるというだろう。

筆者は北朝鮮との戦いで勝つには、先に韓国葛藤の根因を除去しなければならないと信じる。そのためにはこの葛藤の出発が地域感情であり,この地域感情日帝陰謀だったことを、もう天下に知らせなければなければならないと考える。

もう一度民族を考える。私は全羅道(チョルラド)の人だ。もし国家に危難がくれば、幸州(ヘンジュ)山城とミョンニャンに向かって走って行くだろう。明確にそうするだろう。

私たちは団結しなければならない。私たちが団結すれば、北朝鮮自由民主体制に移ってくることができる。そして私たち韓国北朝鮮国力を統一すれば、日本を克服することができる。

したがって地域感情をはね除けて力を集めて、ついに平壌ピョンヤン)を打って、列島を切らなければならない。 私たち民族1世紀の間の怒りを必ず返さなければならないと信じる。

原文 韓国語

http://www.dailyjn.com/news/articleView.html?idxno=27662

エキサイト翻訳

http://www.excite-webtl.jp/world/korean/web/?wb_url=http%3A%2F%2Fwww.dailyjn.com%2Fnews%2FarticleView.html%3Fidxno%3D27662&wb_lp=KOJA&wb_dis=2&wb_chr=

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