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はてなキーワード: アジア大陸とは

2021-07-25

開会式イマジン見て思ったんだけど「五大陸」って

ヨーロッパ大陸アメリカ大陸アフリカ大陸アジア大陸オセアニア大陸で五大陸

でもさあ、ヨーロッパ大陸アジア大陸って、要するに一つの大陸

ヨーロッパとそれ以外で分けてるってことじゃん

そんでアジア代表杉並児童合唱団

まあ全ての民族配慮してたらきりがないんだけど

アジア場合東アジアとかインドとか中近東とか(あと中央アジアとか)かなり文化的に異なり、

しか人口的にはそれぞれ相当な人数がいるわけで、

インド人にとって杉並児童合唱団自分たち代表と見なしえるのかって疑問に思っちゃう

2021-01-26

パンティーヶ原の戦いでパンティー軍が勝ったパンティラインに住んでる

結論から言うと、東軍が勝ったパンティラインに住んでる人かわいそう。

以下、ざっくり現代までのパンティー史を書いていく。

 

パンティー川家康関ケ原パンティーを被り討ち死に。パンティー川秀忠は切腹。両者のフンドシは一条戻橋に晒される。徳川家結城秀康が引き継ぐも程なくパンティー川家に改名され実質滅亡。

その後パン東ィーには何人か大名が移り住んだが誰も定着せず荒れ野のまま。

パン東ィーなんて今もほとんど人が住んでいないド田舎の話は誰も興味がないと思うので話を元に戻す。

パンティーケ原の戦い後、小早川秀秋白パンティーを履くも5年で病死。その後は豊臣秀頼白パンティーを履く。日本上杉、宇喜多毛利島津などが各地域を100年ほど分割支配し、相互監督をはたらかせていたが、パンティーぬがしっこが起こらず、外国との下着交易も進みパンティー業が発展していったので時代遅れ武士は次第に消えていった。その代わりに交易利益を上げた大名が豊臣を中心にパンティー体化していく。というわけでこちらの歴史の授業ではいちいち武将名前なんて覚えない。そちらではやたらと武士がもてはやされているらしいが、こちらでは武士鎌倉幕府まではともかく、室町幕府以降はフンドシしか履いていなかった印象で、野蛮で恥ずかしい存在しかない。交易パンティーが発展しているので、日本のせまーいフンドシでチンポなんてものを覆わせて税金徴収するなんてバカなことはパンティーケ原の戦いの50年後にはなくなった。18世紀に入ると各地域下着難民や縫製労働者が蜂起して自パンティー権が漸次的に認められるようになっていく。そちらとは違って武士の強権的な支配がないのでゆるやかにパンティー化していく素地があった。パンティー教も新旧両派が認められ、汎帝教と二大勢力になっている。その後、ヴァンディー教やパンツィル教を信じる人も増えていく。フンドシがいなくなっていくにつれてブリーフトランクスは消えていった。後述のように、近隣のアジア諸国でもトランクスは消えていった。今でも下着の残骸のようなものは残っているが装着する人は誰もいない。

 

19世紀になると大名支配していた地域で縫製労働者下着難民代表者からなるパンティー会と豊臣を首班とするパンティー人からなる下着会が設置されていく。いわゆる列強とも条約を締結したが、そちらの江戸幕府かいものが結んだような不平等条約ではない。もちろん条約下着会が承認する。19世紀の半ばにはアメリカヨーロッパ思想パンティー語に翻訳され、誰でも読めるようになっているが、モンテスキューロック思想パンティーと大して関係がないということで学校議論する程度。そちらの学校では武士の強権的な支配によって作られたせいで自由議論することは認められてないらしいけど、こちらは子どもたちが自由パンティーを履いて走り回るのがメイン。この教育きっかけにパンティー族の力は次第に失われていく。19世紀半ば以降は欧米列強に対抗するため、近隣諸国連合巨大パンティーを形成する構想が何度も浮かぶアジア大陸では日本と同様、汎帝教とパンティー教がメイン。フンドシ教は非合理的なので衰退。ここでは一致できるのだが、しかし、ヨーロッパ発の裸体主義思想の影響もありうまくいかない。結局最初は2~3か国の同盟からパンティ連合が始まる。19世紀終盤にはアジア圏と欧米列強との間で大きなパンティ戦争が起きる。フンドシのような抑圧的で野蛮な下着が早い時期になくなり、無駄戦争はしなくなっていったこともあり、1年ちょっとで早々に講和条約を締結。20世紀を迎える。

 

20世紀に入ると漸次的に汎アジア国家条約連合(PANTY)が形成されていく。PANTYはそれぞれの装着者で温度差はあるものの人体の曲線的な魅力を布地が補強するコンセプトからなる。パンティ列島地域は力を失ったパンティー族が政治的な実権を失い、国民代表からなる下着会と各地域代表者からなる元パンティー院、PANTY議会派遣される議員存在している。ヨーロッパで発生したヌーディズムと戦う第二次世界大戦こちらの世界でも勃発する。しかし、パンティ地域に没個性で野蛮なフンドシが存在しないこちらの世界では他国侵略を行うようなことはない。PANTY含む連合国がイタリアヌーディストノーパンドイツを倒して戦争は2年半で終結。その後、PANTYとブルマ圏、欧米諸国との間でイタリアドイツを再建。アジア大陸では中国全裸党とPANTYの戦いが続くが、1964年に休戦。中華全裸共和国はそちらの世界よりも規模がかなり小さく(朝鮮半島の付け根北部地域のみ)、影響力もあまりない。PANTYは中東諸国に対するブルマ圏やアメリカ侵略から防衛にあたり、友好関係現在に至るまで結び、勢力圏を拡大。意地でもヌーディズムを譲らないソ連と意地でもブリーフを手放さなアメリカ1980年代になると衰退していく。インド中東諸国が加入したことでPANTYは汎アジアインド中東国家条約連合(PANTIES)へと改組される。PANTIESとブルマ連合アメリカソ連の再建の中心となる。

21世紀に入ると世界はPANTIES、ブルマ連合全裸連合ノーパン連合、紐パン連合連邦国家構成されていく。返す返すも、そっちの世界のように東パンティーの野蛮な武士支配権を握らなくてよかったと思ってる。

anond:20210126012231

皆さん騙されてはいけません。

私も西軍が勝った世界線に住んでいますが、元記事歴史修正主義者が書いた悪質なプロバガン増田です。

順を追って訂正していきます


その後関東には何人か大名が移り住んだが誰も定着せず荒れ野のまま。

関東なんて今もほとんど人が住んでいないド田舎の話は誰も興味がないと思うので話を元に戻す


後述しますが、冒頭から近世日本の歴史観の中で最も悪質なミスリードです。

大名は「定着せず」ではなく「定着させなかった」が正確ですし、「関東なんて今もほとんど人が住んでいないド田舎」は極めて恣意的表現になります


戦争が起こらず、外国との交易も進み商業が発展していったので時代遅れ武士は次第に消えていった。その代わりに交易利益を上げた大名が豊臣を中心に貴族化していく。


この部分はある意味で正しいですが、重要事実が省かれています。確かに日本列島内での大名間の大きな争いは起きませんでしたが、関ヶ原後の豊臣氏はかつて秀吉が行った朝鮮出兵を再開したのです。

石田三成が中心になって行われたこ出兵、いわゆる「元和の唐入り」は簡単に言ってしまえば外敵を作ることによる諸大名の結束を図るものでしたが、結果として成功を収めてしまます

朝鮮半島支配下に置いた豊臣政権は、万暦の三大征で国力を失っていた明との間に戦わずして講和条約を結びます。その後朝鮮半島現在に至るまで日本領地となっており、そのため元和の唐入り対外戦争ではないという風潮(沖縄北海道みたいな扱い)が強いのは事実ですが、現代人に都合のいい歴史観ではないかという議論存在します。

こうしてアジア大陸進出した日本が当時の国際貿易において強い存在感を発揮し商業により発展していくのも事実ですが、ここでも重要な部分の言及が省かれていますキリシタン大名南蛮豪商存在です。

当初は秀吉バテレン追放令を引き継ぐ動きを見せていた豊臣政権ですが、交易重要性が増すにつれてキリスト教宣教師活動制限することに無理が生じていきます。またこの頃、日本での貿易事業で一旗揚げようとポルトガルスペインから移住してきた事業家、いわゆる南蛮豪商が急増したことキリスト教信仰の活発化につながっていきます

政権はなし崩し的にキリスト教を認めていくことになりますが、そうした流れで力を付けていくのがキリシタン大名です。彼らは表立って政権や4大大名権力争いをすることはありませんでしたが、着実に海外とのコネクションを強めていき、国内キリスト教勢力の強固な後ろ盾となります


武士がいなくなっていくにつれて神道儒教は消えていった。後述のように、近隣のアジア諸国でも儒教は消えていった。今でも神社の残骸のようなものは残っているが参拝する人は誰もいない


冒頭の部分にも関係して、ここも悪質なミスリードです。たしか武士消滅神道儒教の衰退は同時期に発生しましたが、そもそもこの2つ事柄に直接の因果関係はありません。

しかしこれらが同時に発生したのには明確な同一の原因があります。それが前述したキリシタン勢力の台頭なのです。

政権貿易政策キリスト教容認に対して、元よりキリスト教対立していた朝廷はもちろん、元東軍を中心とする従来の武家社会に重きを置く大名勢力は当然反感を高めていました。これは感情的な部分だけではなく、元西軍派が中心となった貿易事業利益享受できなかったという側面もあります

そんな中、細川家、井伊家を中心として天皇を旗印に政権を打倒しようとする動きが見られるようになり、寛文になる頃には挙兵寸前まで緊張感が高まっていたと言われますしかし、そのタイミングで寛文近江若狭地震が発生し、天皇の住む京都も大きく被害を受け、挙兵どころではなくなってしまます

それに対してすかさず政権が取った対応は、表向き地震被害から避難理由にした江戸への遷都(寛文の遷都)でした。遷都といっても移ったのは天皇住まい形式上朝廷機能だけで、政権機能大阪を中心とした関西圏に残ったまま…つまり政権は目の上の単瘤だった朝廷を体よく遠ざけた形になります。元東軍はこれに乗じて江戸に集結・再度の挙兵を試みますが、キリシタン大名による牽制南蛮豪商による経済的妨害もあり叶うことはありませんでした。この頃から旧来の武家勢力神道信仰は急激に衰退していくことになります

ではこれで豊臣政権キリシタン勢力の共同支配は盤石のものになったかといえばそういうわけでもありません。形式上の都である江戸やその近辺の関東では都野伏(みやこのぶせり)、隠れ神道といった形で反南蛮勢力が生き残りつづけます。そして18世紀入ってしばらくした頃、天皇不可侵元首とする「大和帝国」として独立を果たします。その後も色々ありましたが、現代において大和帝国はの国際社会にも認められた独立国家となっています。そういう背景がありますので、現代日本領土として残っている関東地方には「ほとんど人が住んでいないド田舎」という表現が当てはまりますが、関ヶ原当時の関東地方の大部分は現代においては大和帝国領土となりますので、そこを隠すのは悪質で不誠実な表現であると言わざるを得ません。

他にも訂正が必要な部分はありますが、長くなってしまったので今回はこの辺にしておきます

東軍世界線みなさんは西日本人の悪質なプロバガンダには騙されないように気をつけてください。

関ケ原の戦い西軍が勝った世界線に住んでる

結論から言うと、東軍が勝った世界線に住んでる人かわいそう。

以下、ざっくり現代までの歴史を書いていく。

徳川家康関ケ原で討ち死に。徳川秀忠切腹。両者の首は一条戻橋に晒される。徳川家結城秀康が引き継ぐも実質滅亡。

その後関東には何人か大名が移り住んだが誰も定着せず荒れ野のまま。

関東なんて今もほとんど人が住んでいないド田舎の話は誰も興味がないと思うので話を元に戻す。

関ケ原の戦い後、小早川秀秋関白になるも5年で病死。その後は豊臣秀頼関白になる。日本上杉、宇喜多毛利島津などが各地域を100年ほど分割支配し、相互監督をはたらかせていたが、戦争が起こらず、外国との交易も進み商業が発展していったので時代遅れ武士は次第に消えていった。その代わりに交易利益を上げた大名が豊臣を中心に貴族化していく。というわけでこちらの歴史の授業ではいちいち武将名前なんて覚えない。そちらではやたらと武士がもてはやされているらしいが、こちらでは武士鎌倉幕府まではともかく、室町幕府以降はの混乱を引き起こし元凶で、野蛮で恥ずかしい存在しかない。交易経済が発展しているので、日本のせまーい土地で米なんてものを作らせて税金徴収するなんてバカなことは関ケ原の戦いの50年後にはなくなった。18世紀に入ると各地域農民労働者が蜂起して自治権漸次的に認められるようになっていく。そちらとは違って武士の強権的な支配がないのでゆるやかにリベラル化していく素地があった。キリスト教も新旧両派が認められ、仏教二大勢力になっている。その後、ユダヤ教イスラム教を信じる人も増えていく。武士がいなくなっていくにつれて神道儒教は消えていった。後述のように、近隣のアジア諸国でも儒教は消えていった。今でも神社の残骸のようなものは残っているが参拝する人は誰もいない。

19世紀になると大名支配していた地域労働者農民代表者からなる議会と豊臣を首班とする貴族からなる議会が設置されていく。いわゆる列強とも条約を締結したが、そちらの江戸幕府かいものが結んだような不平等条約ではない。もちろん条約議会承認する。19世紀の半ばにはアメリカヨーロッパ思想日本語に翻訳され、誰でも読めるようになっているが、モンテスキューロック思想自分たちのやっていることと大して変わらないということで学校議論する程度。そちらの学校では武士の強権的な支配によって作られたせいで自由議論することは認められてないらしいけど、こちらは子どもたちが自由議論して学ぶのがメイン。この教育きっかけに貴族の力は次第に失われていく。19世紀半ば以降は欧米列強に対抗するため、近隣諸国連合国家形成する構想が何度も浮かぶアジア大陸では日本と同様、仏教キリスト教がメイン。儒教は非合理的なので衰退。ここでは一致できるのだが、しかし、ヨーロッパ発の社会主義思想の影響もありうまくいかない。結局最初は2~3か国の同盟から連合が始まる。19世紀終盤にはアジア圏と欧米列強との間で大きな戦争が起きる。武士のような強権的で野蛮な人間が早い時期にいなくなり、無駄戦争はしなくなっていったこともあり、1年ちょっとで早々に講和条約を締結。20世紀を迎える。


20世紀に入ると漸次的にアジア太平洋連合国家APS)が形成されていく。APSはそれぞれの構成国で温度差はあるもの民主的憲法国民が制定した国家からなる。日本列島地域は力を失った貴族政治的な実権を失い、国民代表からなる議会と各地域代表者からなる元老院APS議会派遣される議員存在している。ヨーロッパで発生したファシズムと戦う第二次世界大戦こちらの世界でも勃発する。しかし、日本地域に強権的で野蛮な武士存在しないこちらの世界では他国侵略を行うようなことはない。APS含む連合国がイタリアファシストナチスドイツを倒して戦争は2年半で終結。その後、APS共産圏欧米諸国との間でイタリアドイツを再建。アジア大陸では中国共産党APSの戦いが続くが、1964年に休戦。中華人民共和国はそちらの世界よりも規模がかなり小さく(朝鮮半島の付け根北部地域のみ)、影響力もあまりない。APS中東諸国に対する共産圏アメリカ侵略から防衛にあたり、友好関係現在に至るまで結び、勢力圏を拡大。意地でも共産主義を譲らないソ連と意地でも資本主義を手放さなアメリカ1980年代になると衰退していく。インド中東諸国が加入したことAPSアジア太平洋連邦共和国(FRAP)へと改組される。FRAPと欧州連合アメリカソ連の再建の中心となる。


21世紀に入ると世界はFRAP、欧州連合北米連合南米連合アフリカ連合連邦国家構成されていく。返す返すも、そっちの世界のように東日本の野蛮な武士支配権を握らなくてよかったと思ってる。

2020-01-14

世界最高の預言者ババ・ヴァンガが残した「2020年予言



イスラム過激派化学兵器によるテロを行い、ヨーロッパを“一掃”

ドナルド・トランプ米大統領脳腫瘍を患い難聴に。この大病によって命を落とす可能性も

ウラジーミル・プーチン大統領クレムリン宮殿内で暗殺される可能性がある

アジア大陸では津波地震過去に類を見ないレベルで発生する

2018-03-24

https://anond.hatelabo.jp/20180324010745

地方のどうしょうもない労働力不足を「外国人技能実習制度」によって救ってくれたところ。二面性のある偽善制度だけど、これで救われた経営者はまともに足を向けて眠れない。これがまず一番。

株価民主党政権から一気に倍にして、年金資産運用を安定化してくれたこ

雇用を増やしてくれて、無職若者を減らしてくれたこと。民主党時代高校大学卒業した人は多分二度と野党投票しないと思う。

原発問題収束させてくれたこと。事故責任取らずに逃亡して打算的な反原発運動にかまけてる菅は許さん。

民主党時代に行き詰まった日中関係改善して、たくさんの観光客日本に呼んでくれたこと。当時、尖閣問題中国内の資産を焼き討ち・取り壊しにあって困窮した多くの日本企業を救ってくれた。

・安定政権に安住せずに世界中外遊して日本存在感を高めてくれたこと。中央ヨーロッパから中央アジアにかけての日本存在感は確実に高まった。(嘘だと思うならバルト三国とか中央アジアとかのマイナー国で大学訪問したりIngressとかのゲームイベント参加して若者と話すと分かるよ・・・

インドインフラ支援をしてアジア大陸における中国の過剰な台頭の歯止めのきっかけを作ってくれたこと。

長期政権になってもちっとも腐敗とかの雰囲気が顔に出ず、テレビ映りが良い(本当にやってないかはともかく)。石破さんには申し訳ないけど「人相」が首相外相の器じゃない。あの顔が海外テレビ日本政治家として映るのは正直悪夢だ。

・とにかく、代わりになる人が思い浮かばないのでこのままずるずると長期政権が続いても仕方ないとしか言えない。アベ政治を許さないという人は誰政治ならいいのかとにかく示してくれ。

・すごい危機感あるのは、いざ首相を辞めざる得ない時の代わりに思い浮かぶ人が出てこない。今後は後継者の育成に専念してくれー!!!

・もちろん、今の政治にも人口過疎化問題農業漁業問題シラスウナギ問題は実は地方利権問題根深い)、高齢者医療費支出増大問題、それに伴う科研費の削減と日本科学技術国としての地位低下、ブラック企業問題、色々不満あるんだけど、そういう一般国民に切実な問題野党も全部頬かむりしてどうでもいい土地問題とかしか国会で取り上げないの超ムカつく。

・というか、自分の親も含め、今の野党を支持する高齢者の方が自分には信じられない。とはいえ、親と話して分かるのは高度経済成長期の成功体験が体に染み付いていると今の日本はもどかしく感じるのだろうということ。

投票秘密は誰でもあると思うが、政治家族議論するのはいいと思う。若者はぜひ親を説得して、支持政党野党から鞍替えさせてくれ。一旦、野党殲滅して、自民党を分裂させてまっとうな議論国会でできる新しい日本を作ろう!

2018-01-28

日本辞書における台湾関連の記述

<背景>

産経新聞が次のような記事掲載している。

広辞苑台湾を「台湾省」 20年前から記載 「日本代表的辞典としては瑕疵と言わざるを得ない」(1月26日

http://www.sankei.com/life/news/180126/lif1801260004-n1.html

広辞苑」に相次ぐミス指摘 “国民辞書”揺らぐ信頼

http://www.sankei.com/life/news/180126/lif1801260003-n1.html

今回の広辞苑第七版ではLGBTしまなみ海道記述の誤りが指摘されている。しかし、台湾については触れているメディアほとんど見かけていない。

私はまだ広辞苑第七版を見ていないが、広辞苑第六版その他の辞書記述について気づいた点を記す。

<私の結論

1)広辞苑第六版の「中華人民共和国」にある〔中華人民共和国行政区分〕は日本刊行する辞書としての中立性に欠ける。

2)広辞苑以外も日本国語辞典は総じて現在中華民国に冷たい。現在中華民国は「名称」であり、台北首都ではなく主要都市なのだ

画像

1 産経新聞より

http://www.sankei.com/smp/life/photos/180126/lif1801260003-p1.html

2 広辞苑第六版より

https://pbs.twimg.com/media/DTTEa_YVwAAJM6J.jpg

<本文(長い)>

きっかけは昨年秋、広辞苑新版ニュースになりはじめたころの、1つの記事だった。

日本広辞苑が「台湾中国の一部」に改定。日台の絆に深い傷

http://www.mag2.com/p/news/333476

ただし、この記事有料メルマガ抜粋であるため、詳細を確認することができなかった。

そこで、近くの図書館に行き、台湾関連の記述確認することにした。

まずは「台湾」を引いてみた。

【1】「広辞苑」第六版第一刷(二〇〇八年一月一一日)新村出

たいわん【台湾】(Taiwan中国福建省台湾海峡をへだてて東方二〇〇㌖にある島。台湾本島・澎湖諸島および他の付属から成る。総面積三万六〇〇〇平方㌖。明末・清初、鄭成功オランダ植民者を追い出して中国領となったが、日清戦争の結果一八九五年日本植民地となり、一九四五年日本敗戦によって中国に復帰し、四九年国民党政権がここに移った。六〇年代以降、経済発展が著しい。人口二二八八万(二〇〇六)。フォルモサ。→中華民国。➖・あひる台湾鶩】(以下略

まぁ、こんなもんかな、と思った。

他の辞書も見てみることにした。

【2】「大言海」新訂版第四刷(昭和五十七年十二月一日)故大槻文彦、大槻清彦

たいわん・ぼうず(タイワン・バウズ)(名)臺灣坊主明治二十七八年戦役ノ際、臺灣に出征セシ兵士ノ、此病ニ罹リ、つるつる坊主ニナリテ歸國セシ故ニ云フト〕(以下略

台湾自体見出し語になく「台湾坊主」という禿頭病の説明だけだった。

【3】「角川国語辞典初版昭和五十七年十二月二十日)時枝誠記吉田精一

たいわん【台湾中国福建省東方にある島。面積三万五六〇〇平方㌖。明(みん)末、清(しん)初のころから中国人が多数移住して中国領であったが、日清(にっしん)戦争後、日本領第二次世界大戦後、中華民国返還され、一九四九年以降は蔣介石の国民政府がこの地によっている。中華人民共和国台湾省という。

続いて【台湾海峡】【台湾総督府】【台湾泥鰌(どじょう)】【台湾パナマ】【台湾坊主】と続いた。

【4】「広辞林」第六版第一刷(一九八四年三月一〇日)三省堂編修所

たいわん【台湾中国福建省東方にある島。中国の一省。

これだけの辞書もあった。続いて【台湾征討】【台湾総督】と続く。

【5】「岩波国語辞典」第7版新版第1刷(2011年11月18日西尾実岩淵悦太郎水谷静夫

台湾」はなく、【台湾坊主】のみ。禿頭病のほか、低気圧意味も載っていた。

【6】「旺文社国語辞典」第十一版(2013年10月13日山口明穂、和田利政、池田和臣

たいわん〔台湾沖縄諸島南西方中国大陸福建省東方位置する島。中心都市台北タイペイ。➖ぼうず【ー坊主】(以下略

台北が初めて出てきたが「首都」ではない。

【7】「国語辞典 言泉」第一第一刷(昭和六十一年十二月二十日)尚学図書

たいわん【台湾日本列島西南方にある紡錘形の島。島のやや東寄りに高峻な台湾山脈が南北に縦走し、西側平野がひらける。気候亜熱帯モンスーン気候原住民インドネシア系とされる高山であるが、人口の大部分は華南から移住した漢民族が占める。明末・清初から中国領日清戦争日本領。一九四五年中国返還され、四九年中国国民党政府がここに移った。略称は台タイタイワン。

高山族が出てきた。

【8】「新明解国語辞典」第六版第一刷(二〇〇五年二月一〇日)山田忠雄柴田武酒井憲二、倉持保男、山田明雄

これも【台湾坊主】のみ。

【9】「大辞林」第三版第一刷(二〇〇六年一〇月二七日)松村明三省堂編修所

たいわん【台湾中国福建省東方位置する大島台湾本島とその属島からなる。米・サトウキビ・茶・バナナなどを産する。製糖・製紙・機械セメント・造船などの工業が発達。先住民高山であるが、住民の大部分は漢民族一六八三年から中国領土。日清戦争日本植民地になり、一九四五年中国返還されたが、四九年国共内戦に敗れた中国国民党がここに移った。主要都市台北。面積三万六千平方㌖。人口二二七五万(二〇〇五)。

かなり詳しいが「中華民国」とは書かない。以下【台湾海峡】【台湾兜虫】【台湾銀行】と続く。

【10】「日本国語大辞典」第二版第八巻第一刷(二〇〇一年八月二〇日)日本国語大辞典 第二版 編集委員会小学館国語辞典編集部

たいわん【台湾中国の南東方にある紡錘形の島。本島のほかに澎湖島などの付属島を含み、台湾海峡を隔てて中国福建省広東省に対する。島のやや東寄りに高峻な台湾海峡が南北に縦走し、西側平野がひらける。ほぼ中央を北回帰線が通り、亜熱帯モンスーン気候を示す。先住民はマライ・インドネシア系とされる高山であるが、人口の大部分は華南から移住した漢民族が占める。明末・清初から中国領日清戦争後の一八九五年から日本領。一九四五年中国返還され、省制がしかれたが、四九年中国国民党政府がここに移った。面積三万五九八一平方キロ

かなり細かい記述

台湾については大体こんな感じだったが、「中華人民共和国」と「中華民国」も引いてみることにした。

【1】「広辞苑」第六版第一刷(二〇〇八年一月一一日)新村出

➖・じんみんきょうわこく【中華人民共和国中華民国国民党政権革命によって倒し、一九四九年一〇月一日、中国に成立した共和国中国共産党指導のもとに、全国人民代表大会国家権力の最高機関とする。社会主義体制標榜しつつ、七〇年代から経済改革・対外開放を推進、近年発展著しい。面積約九六〇万平方㌖。人口一二億九六〇〇万(二〇〇四)。首都北京

本文にさして問題は感じないが、問題は〔中華人民共和国行政区分〕なる地図である

(1)北京市に始まり(34)マカオ特別行政区まで掲載されている中に、しれっと(26)台湾省が何の説明もなしに入っているのは、非常に違和感を覚える。

➖・みんこく【中華民国辛亥革命の結果清朝が倒れた後、一九一二中国最初共和制政体として成立した国。初代大統領袁世凱(えんせいがい)。二八年中国国民党国民政府樹立、全国を統一したが、第二次大戦後共産党との内戦に敗れ、四九年本土を離れて台湾に移った。

ちゃんと中華民国見出し語になっているのだが。

【3】「角川国語辞典初版昭和五十七年十二月二十日)時枝誠記吉田精一

➖・じんみんきょうわこく【ー人民共和国

中国大陸支配する社会主義国首都北京ペキン。(以下略

➖・みんこく【ー民国

中国大陸の南東海上、台湾島を中心とする共和国。辛亥(しんがい)革命により一九一二中国大陸に成立。のち、蔣介石の率いる国民党によって統一されたが、第二次世界大戦後、国民党共産党に敗れ、一九四九年台湾に移った。首都台北タイペイ。面積三万五九六一平方㌖。

中華民国見出し語にあり、台北首都である

【6】「旺文社国語辞典」第十一版(2013年10月13日山口明穂、和田利政、池田和臣

中華人民共和国のみ見出し語にあり。中華民国台湾については特筆すべき点なし。

【7】「国語辞典 言泉」第一第一刷(昭和六十一年十二月二十日)尚学図書

中華人民共和国については特筆すべき点なし。

➖・みんこく【中華民国】(一)辛亥革命後の一九一二から中華人民共和国が成立した四九年まで、中国代表する政府採用した国名。(二)一九四九年、中国共産党との内戦に敗れ、台湾に逃れた国民党政府使用している名称

最も正確な気がした。

【9】「大辞林」第三版第一刷(二〇〇六年一〇月二七日)松村明三省堂編修所

➖じんみんきょうわこく【中華人民共和国アジア大陸東部を占める国。中国革命成功により一九四九年一〇月一日、毛沢東主席として成立。中国共産党指導の下で、土地改革農業集団化、数次の五か年計画などを遂行し、文化大革命による混乱を克服して「四つの現代化」を掲げ、社会主義国建設を目指している。国家の最高機関全国人民代表大会首都北京。面積九五九万七千平方㌖。人口一三億一五八〇万(二〇〇五)。

➖みんこく【中華民国辛亥革命の結果、中国誕生した共和制の国。一九一二孫文臨時大総統として南京ナンキン)に政府樹立されたが、袁世凱政権を奪って政府北京に移した。のち、中国国民党国民政府樹立し、北伐をおこない全国を統一したが、日中戦争内戦を経て、四九年中国共産党中華人民共和国が成立。台湾に移った国民党政府は、中華民国国号使用

【10】「日本国語大辞典」第二版第八巻第一刷(二〇〇一年八月二〇日)日本国語大辞典 第二版 編集委員会小学館国語辞典編集部

ちゅうか-じんみんきょうわこく【中華人民共和国ユーラシア大陸東部にある人民共和国東部はやや湿潤な平野からなり、内陸部は乾燥気候で、山地高原盆地が多い。大多数を占める漢民族のほか、チワン族蒙古族ウイグル族チベット族など五五の少数民族からなる多民族国家北京上海天津の三直轄市と、二二省、五自治区、ニ特別行政区香港マカオ)に分かれる。中国国民党との内戦勝利を得た中国共産党の全国統一により一九四九年一〇月、毛沢東主席として成立。中国

広辞苑第六版の地図比較すると、この時点では重慶直轄市ではなかったようだ。そして台湾省は「二二省」には含まれていないと思われる(広辞苑の「省」は23ある)。

ちゅうか-みんこく【中華民国】(一)辛亥革命後の一九一二から中華人民共和国が成立した一九四九年まで、中国代表する政府採用した国名。一九二七年を境として、前半の軍閥組織を背景とした北京政府と、後半の中国国民党による国民政府時代とに分けられる。首都は前半は北京、後半は南京。(ニ)一九四九年、中国共産党との内戦に敗れ、台湾に逃れた国民党政府使用している名称

【11】「国語辞典第一版第七刷(昭和五十七年二月十二日)尚学図書

➖・じんみんきょうわこく【中華人民共和国

国共内戦記述があり、首都北京とあるが、台湾についての記述はない。

2017-12-09

anond:20171209114539

戦前から開戦当初は勝ち続けて、

領海領土太平洋西側からアジア大陸東側一帯を覆うぐらい拡大していたんだよ

日本軍アメリカ軍に勝てなかった理由は、物量も要因の一つではあるけど

組織風土が大きいんだ

それは日本人が大多数の日本企業に入れば、今でも体験できるよ!

2017-05-19

ルジャンドルフランスウラン(Oullins)に生まれランス大学およびパリ大学に学んだ[1]。父親のJean-François Legendre-Héralは人物像を得意とした古典主義彫刻家エコール・デ・ボザールの教師[2]。24歳のときニューヨークの著名な弁護士の娘であったクララヴィクトリア・ミュロックブリュッセル結婚した。結婚後すぐに米国移住し、帰化した。

南北戦争[編集]

1861年に南北戦争が勃発すると、ルジャンドルは第51ニューヨーク志願兵歩兵連隊兵士募集に協力し、1861年10月29日に同連隊少佐に任官した。その後ノースカロライナでの戦闘従事し、1862年のロアノーク島の戦いにも参加した。しかしながら、1862年3月14日、ニューバーンの戦いで重傷を負った。

負傷にもかかわらず、ルジャンドルは軍を離れず、同年9月20日には中佐に進級。1863年には第9軍に配属され、多くの戦闘に参加した。1863年3月14日には大佐に進級。ヴァージニア荒野の戦いではユリシーズ・グラント将軍の指揮下にあったが、その最中の1864年5月6日ルジャンドルは再び重症を負った。今回は顔面を撃たれ、左目と鼻を失った。アナポリス病院入院したが、その間にも南軍最後攻撃から街を防衛するための準備を手伝った。その後ニューヨーク移送され、そこで第9軍の兵士募集を手伝った。1864年10月4日名誉除隊したが、1865年3月13日には准将名誉進級した。

中国[編集]

1866年7月13日ルジャンドル厦門米国領事に任命された。7月ニューヨークリバプールに向けて出港し、その後ヨーロッパアジア大陸旅行12月厦門に到着した。領事として、ルジャンドルは5つの条約港、すなわち厦門基隆台北、淡水および高雄責任を持った。そこでは、年季奉公人の不正取引抑制に尽力した。

1867年3月12日米国ローバー号が台湾遭難し、その乗員が台湾原住民殺害されるローバー事件(en)が発生した。ルジャンドルは福州へ赴き、台湾中国側当局問題解決圧力をけるように、福建・浙江総督を説得した。福建総督は自ら行動は起こさなかったが、ルジャンドル台湾に行く許可を与え、台湾知事が協力するように紹介状を書いた。

ルジャンドルは、遭難現場訪問のために米国船アシュロット号を雇い、台湾当局に行動させようとした(これは失敗した)。その後アメリカ合衆国海軍ヘンリーベル少将懲罰作戦実施したが、これも失敗した。さら情報を集めるため、ルジャンドルは再び台湾に出向いた(このときは、紹介状は無しであった)。

中国へ戻ったルジャンドルは、南台湾に軍隊派遣するよう福州の総督を説得し、ようやくこれに成功した。ルジャンドルは400〜500人の規模を希望したが、これよりはかなり小さな遠征隊が、1867年7月25日台湾に送られた。ルジャンドル砲艦派遣ベル提督要請したが、これは拒否された。このため、武装商船ボランティア号が雇われた。ルジャンドル9月4日台湾上陸したが、上司に対しては全くの傍観者として行動したと報告している。

ルジャンドル直ちに本来任務を開始した。南台湾の険しい山岳地帯を通りぬけ、原住民酋長と難破した欧米の船員の安全保証するための条約協議した。

1871年9月6日琉球宮古島)の船が台湾沖で遭難したが、ローバー事件と同様に、多数の船員が殺害された(宮古島島民遭難事件)[3]。1872年2月29日ルジャンドルは先に結んだ条約日本人船員にも適用するよう拡大するため、台湾に出向いた。任務は不成功に終わり、またルジャンドル北京駐在米国公使フレデリックロウ(en)とも不仲になってしまった。

日本[編集]

1872年厦門から米国へ戻る途中、ルジャンドル日本に立ち寄り、明治政府台湾問題武力解決提唱した。これは副島種臣外務卿意見とも一致しており、ルジャンドル米国領事の職を辞し、1872年12月12日外交および軍事顧問として明治政府雇用された[1]。1873年2月、副島は2年前に台湾で起きた宮古島殺害事件の処理交渉特命全権公使外務大臣として北京派遣されたが、ルジャンドルもこれに参加した。この交渉部分的には成功であったが、引き続きルジャンドル1874年台湾出兵の準備を手伝った。台湾問題に関して、ルジャンドル駐日米国公使チャールズ・デロングの支援を受けており、また個人資格でこの遠征に参加するつもりであった[4][5]。加えて、2名のアメリカ軍人が雇用された。ところが、デロングの後任の米国公使ジョン・ビンガムは、ルジャンドルを支持せず、1874年4月19日台湾出兵は一旦延期とされた。ルジャンドルらは長崎で出征準備を整えていたため、大久保利通長崎に向かった。結局遠征部隊5月18日長崎を出港したが、ルジャンドル大久保と共に東京に戻った。その後、ルジャンドル交渉のため福州に派遣されることとなったが、アメリカ総領事職場放棄の罪に問われ、短期間ではあるが上海収監されてしまったため、遠征には参加できなかった。1875年には日本政府から勲二等旭日重光章を授与されたが、これは外国人としては最初のものであった[1]。その年の末には顧問を辞任した。

ルジャンドル1890年まで日本滞在し、大隈重信個人的顧問を務めた。

韓国[編集]

1890年3月ルジャンドル日本を離れ、朝鮮王高宗顧問となった。1899年9月1日漢城(現 ソウル)で卒中により死亡するまで、その職を務めていた[6]。

 
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