はてなキーワード: 詩文とは
アノニマスダイアリーを登録したのはひとえにこれを書きたいがためだったので、ユーザーネームのことは何も考えていなかった。
頭痛に悩まされる頭からは聖書のナオミ(彼女は苦難の中で自らを苦味を意味する「マラ」と呼ぶように言った)の姿が思い出された。
なんとなくそのまま苦い塩という名前にしようとしたが、なぜだか塩の簡単な綴りを間違えた。
英語は数十年やっているはずなのに、我ながら情けない。
思い返すまでもなく、今日は朝から台風に振り回されてばかりである。
頭に漬物石を括りつけ、それを引きずって歩いているのような気分だ。
体の調子が悪いと人間の思考は悪い方向へとどんどん傾いていく。
鬱々とベッドの中でスマホを弄っていると、円の切れた相手の最近のツイートを何となく見に行く、というあまり良いとは言えない行為にも走る。
友人は複雑な家庭で育ち、発達障害故の躁鬱に日々苦しんでいた。
時折夜中に電話がかかって来ては「自殺しないように見張っていてくれ」と言い、所謂寝落ち通話を求められたりもした。
せん妄状態なのか、訳の分からないことを言いながら私に泣き縋ったり、幻覚の状況を仔細にこちらに伝えてくることもしばしばあった。
友人にいま現在そういった普通でない状態の自分を任せられる相手がいるのかどうかは知らない。
が、ともかく私が友人の呟きに見たのは狂気であった。
この「狂気」といった表現は決して障がい者への差別的な意味を意図したものではないことを断っておこう。
ここ数日間の友人の呟きはほとんどが今敏のパプリカに出てくる台詞にそっくりであった。
以前、ツイッターにて「狂人の文章は稀に凄まじい美を帯びることがある」といった呟きを見かけたことがあるが、私は友人の言葉でそれを深く実感した。
内容を書くことはしないが、そこには(恐らく幻覚の)誰かに向けた必死の懇願めいた内容から、悟りの気配さえする穏やかな詩文の雰囲気を漂わせるもの、意味をなさないひとつの単語、一文一文は理解出来るが繋げて読むと全く支離滅裂な長文など、大量の呟きが残されていた。
友人の健康を祈るかたわら、綴られた言葉はとても美しく思えた。
「私は穏やかです。海のようです。波打つ畳が私の頭を、白い兎、飛び越えて、ああああ」
こういった混沌とした内容が数十ツイート分、ツリーで続いていることもあった。
自分の精神状態的にも敢えて深く読み込むことはせず、一度ざっと目を通しただけで閉じてしまったが、その海のくだりだけは鮮明に覚えている。
友人と縁が切れたのは数年前のことで、理由は私が編集者として働きたいがために引越しを決意した時のことだったと思う。
あまり覚えていない。
時が経ち過ぎたのか、今の私が友人に無関心なのか、それすら判然としない。
台風は、今どの辺りにいるのだろうか。
私の意識にはそればかりがある。
「トンボなどいるはずはない」という内容は、読者が「つまりは季節外れである」ことを想定しやすい。
こういった想像力は当然持ち合わせているよね?
この文章にはその前に「1分と経っていないはずだが彼女のすがたはなかった」という一文がある。したがってこの少女はトンボと併せてもともと存在していなかったのではないかと容易に推測できてしまう(より突っ込むと話の舞台が実は夏ではない、という推察もできる。なにより雨も降っている)。もしこれがそういった仕掛けでないなら作者の描き方のミスになる。これを読者のせいにしてしまうのは少々自己認識が甘いのではないか。わざとわかりにくくしたという印象でもない。
次いで、「彼女には行き場がないように見えた~家庭内虐待の可能性~今日あったことを書き記した」というつながりを考えると、この文体はルポ風でもなくあまりに小説的、詩文的で妥当に危険性を訴えられる内容とは言えない。したがってなにがやりたかったのかも伝わらず、内容が宙に浮いてしまう。
それと、最初から見てて分かると思うが、マウント気味にきつい言葉は使ってない。
なにもない、と書いたのは実際なにもないからだよ。
Gガンダムの石破天驚拳が『石破・天驚拳』じゃなくて『石破天・驚拳』であることは意外と知られていない(元ネタの武侠小説の主人公の通り名が「石破天」さんで、石破天さんもビックリのすごい拳って意味だよ)— あろまーら (@aromara1) 2017年6月27日
普通にこっちじゃねえの。
https://dictionary.goo.ne.jp/leaf/idiom/%E7%9F%B3%E7%A0%B4%E5%A4%A9%E9%A9%9A/m0u/
せきは-てんきょう【石破天驚】の意味
音楽・詩文・出来事などが、人を驚かすほど奇抜で巧みなことの形容。石が破れ、天が驚くほど巧妙であるという意から。
石破天驚の出典 李賀「李憑箜篌を引く」
吳絲蜀桐張高秋 空山凝雲頹不流
女媧煉石補天處 石破天驚逗秋雨
夢入神山教神嫗 老魚跳波瘦蛟舞
吳質不眠倚桂樹 露腳斜飛溼寒兔
金庸がこっから人や技を名付けたのを、さらに今川が取り入れた、って流れなんだろうけど。
言葉としては大元の「石破天驚」から取られているはずなので、区切りは「石破・天驚・拳」でいいと思われる。
追記
LD掲載のロングインタビューをテキスト打ちしたサイトが有るのですがその中を見ると両方共関係ないですね。最初は「天破侠乱」だったようです。ご参考までにhttps://t.co/oqhAu60g6O— 5 (@NI_5) 2017年6月27日
最初にあるひとつの四文字熟語からインスパイアされて「天破侠乱」っていう言葉を考えたんですよ。香港でのレコーディングのときに、これを唄の中にセリフで入れることになって、日本語にその場で訳して、かい摘んだ説明をして、一度英語に直してもらって、それから広東語に直してもらったのが「石破天驚」なんですよ。和解釈、英語になって、広東訳っていう手順なんですよ。なんと面白かったのが、香港から帰ってきて最初の四文字熟語をもう一度調べて見たんですよ。そうしたら「石破天驚」って書いてあったんですよ。これは自分自身、本当に忘れていたことなんで驚きました。
書き起こしなので分かりづらいけれど、これは今川監督が、(李賀の詩に由来する)「石破天驚」という四字熟語にインスパイアされて、「天破侠乱」という新しい言葉を考えたということか(中国語に「天破侠乱」という言葉はない)。
その「天破侠乱」の意味するところを翻訳者に伝えて広東語にしてもらったら「石破天驚」と訳されて、逆引き的に意味が通じていることが証明されたというエピソードのようだ。
もともと今川監督が「石破天驚」という四字熟語を知ったのは、金庸作品あるいはその映画からの可能性が高いが、いずれにせよ「石破天驚拳」は「石破天驚」という既存の四字熟語が元ネタだと断定していいだろう。
デマが定着しないことを祈る。
副島 種臣(そえじま たねおみ、文政11年9月9日(1828年10月17日) - 明治38年(1905年)1月31日)は、日本の江戸時代末期(幕末)から明治時代の佐賀藩士、政治家、書家。勲一等、伯爵。初名は竜種(たつたね)。通称は次郎(じろう)。号に蒼海(そうかい)、一々学人(いちいちがくじん)。
目次 [非表示]
1 生涯
2 書家
3 栄典
4 参考文献
4.1 伝記
5 登場作品
6 脚注
7 関連項目
8 外部リンク
生涯[編集]
文政11年(1828年)、佐賀藩士・枝吉南濠(忠左衛門、種彰、30石)の二男に生まれる。父は藩校である弘道館の教授を努める国学者で、兄は同じく国学者の枝吉神陽。母は木原宣審の娘・喜勢。父と兄の影響により、早くから尊皇攘夷思想に目覚める。弘道館で学び、この間に江藤新平や大木喬任と交わる。
嘉永3年(1850年)、兄・神陽が中心に結成した楠公義祭同盟に加わる。嘉永5年(1852年)、京都に遊学、漢学・国学などを学ぶ。この間に矢野玄道らと交わる。さらに、神陽の命を受けて大原重徳に将軍廃止と天皇政権による統一を進言する意見書を提出して青蓮院宮朝彦親王から藩兵上洛を求められるが、藩主・鍋島直正に退けられた上、藩校での国学教諭を命じられた。
安政6年(1859年)、父の南濠が死去し、同年3月には同藩士の副島利忠の養子となる
元治元年(1864年)、長崎に設けた藩営の洋学校・致遠館の英学生監督となって英語等を学ぶ。慶応3年(1867年)、大隈重信と脱藩するが、捕らえられて謹慎処分を受ける。
明治維新後は慶応4年(1868年)、新政府の参与・制度取調局判事となり、福岡孝弟と『政体書』起草に携わる。明治2年(1869年)に参議、同4年(1871年)に外務卿となり、マリア・ルス号事件において活躍する。マリア・ルス号事件では、助けを求めた中国人奴隷を解放したことで、正義人道の人と国際的に支持された。
明治6年(1873年)2月には前々年に台湾で起きた宮古島島民遭難事件(台湾出兵も参照)の処理交渉の特命全権公使兼外務大臣として清の首都北京へ派遣され、日清修好条規批准書の交換・同治帝成婚の賀を述べた国書の奉呈および交渉にあたった。この間、清朝高官との詩文交換でその博学ぶりを評価をされている。同年10月、征韓論争に敗れて下野し、明治7年(1874年)には板垣退助らと共に愛国公党に参加、同年には民撰議院設立建白書を提出したものの、自由民権運動には参加しなかった。西南戦争中は、中国大陸中南部を旅行滞在している。
明治12年(1879年)、宮内省一等待講。明治17年(1884年)、伯爵。明治20年(1887年)に宮中顧問官、明治21年(1888年)に枢密顧問官、明治24年(1891年)に枢密院副議長になり、明治25年(1892年)には第1次松方内閣において内務大臣を務めた。