はてなキーワード: 大往生とは
喪服に腰回りが入るか心配をする季節。祖父の三回忌がもうじき行われよう、という頃であった。
祖父を追うようにして、と言うには少し年月が経っていた。そして、三回忌になる祖父の死を、祖母が認識できていたかは、はたしてわからない。
要介護4。祖母が認知症を患ってから、もう20年は経っただろうか。
合掌。
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戦前を知る祖母。海外旅行が好きで、アルバムが何冊もある。そのほとんどをめくったことはないし、思い出を尋ねたこともないが…。実に惜しいことをした。
裁縫が得意で、幼少期に好きだったゲームキャラクターのぬいぐるみを、ねだって作ってもらったことがある。手作りのプレゼント、と思い返すと、今でも気持ちがあたたまる。
祖母は長年、自営業だった祖父の会社の経理を務める傍ら、学童保育なんかの地域活動に勤しんでいた。60歳を過ぎたあたりで、そうした仕事縁が切れてしまったようで、毎日、特にすることもなく、会う人もなく、自室に籠りがちになった。
特に具合が悪いとは聞いていないが、時おり部屋を覗きに行くと、散らかり放題。まず、足の踏み場がないくらい服が散乱している。万年床で力なく横たわる祖母の頭上には、布マスクが何枚も干してあり、床には消費期限切れのあんぱんやバナナが、袋に入ったまま潰れている。
当時はげっそりするばかりで、祖母を慮ることができなかったが、おそらく、鬱だったのだと思う。社会に、自分の居場所がなくなってしまったのだ。家族でさえも、居場所を作れなかったのだと思う。
おばあちゃん、なんかヘンだね、と家族で話題にあがることもあるが、「しっかりしてよ!」と本人に言うくらいで、解決のしようがわからない。これからしばらく経つと、祖母の口から物や人の名前が出てこなくなり、めっきり口数が減った。
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次いで、認知症らしい症状が出てくる。
自分の食事が済んで部屋に戻ったあとで、入れ歯で咀嚼に時間がかかり、食事の遅い祖父に対して「まだ食べているのか」「洗い物ができない」と小言を言いにくるようになった。…3分おきに。
あまりに頻度が過ぎるので、逆に祖母が咎められる始末。でもまたすぐに、小言を言いに戻ってくる。まるでコントのようだが、本人の言い方は鬼気迫っている。見方によっては、祖父にだけは強く出られる、…それは愛情だったのかもしれない。
わかった、わかった、と折れるが食事の終わらない祖父。 その後、また小言を言いにくる祖母。祖母が老人ホームに入るまで、夕飯時はこのシーンが毎日、繰り返されることになる。
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振り返って、認知症の決め手に思えたのが、「死んじゃいたい」という祖母の発言だった。小言を言うようになって1年ほど経った頃に、祖母がふいに口にしたのだった。
なんてことを言うんだ…! …と驚いた。家庭に、希死念慮のある人がいるとは。
「情けないよ、死んじゃいたいよ」
これを何遍も繰り返す。認知症の人は、直近の出来事の記憶はなくなっても、腹が立った、哀しかった、恥ずかしかった、という感情は残るのだという。おそらく祖母は、このときには自身の認知症をはっきり自覚していて、それに伴う負の感情が、いよいよ堰き止められなくなったのだろう。
これはもう家族の手に負えない、と思って診断を受けてもらうと、当時は軽度ではあったが、やはり認知症の認定をもらったのだった。遅かった、と悔やむが、早ければどうにかできたのだろうか。接し方くらいは、変わったかもしれない。
買い物は危ない。出先で声をかけられたのか、家族で登録済みの生協に個人でまた登録してしまったり、フルーツの訪問販売に食べきれないほど買わされそうになったり、人の良さや判断能力の鈍さに"付け込まれる"ことは多々あったが、それでも祖母は、自宅で自分の身の回りのことをやれるだけの元気はあった。
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我が家ではねこを飼っている。認知症の祖母にとっても、ともに同居する家族にとっても、ねこの存在は救いだったと思う。
相変わらず祖父への小言は絶えなかったが、ねこを愛でるときは、祖母本来の、やさしい気質を感じさせた。
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祖母と過ごした時間は、祖母が認知症を患ってからの期間の方が、ずっと長くなった。
もう祖母の思い出というと、例の夕食のシーンがほとんどだったが、あるとき反物をもらったので、これを浴衣にしてほしい、と無茶を頼んだことがある。
「ずいぶん久しぶりだから、どうかしら…」
ちょっと困った顔をしていたが、やるだけやってみる、と十数年ぶりかに、針と糸とを手に取ってくれた。
数日後、ちょっと丈の短い浴衣が完成していた。物が出来上がったこともうれしかったが、大変だったのよ、とこぼす祖母の"小言"にも、うれしさを感じた。
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それから私は家を出て、LINEで家族から近況を伺うか、たまに帰ると名前を忘れられている人になるか、そういう距離感で祖母と接していた。
認知症が進み、施設介護が必要になってきた。ショートステイから始めて、遂にホームに入居するようになった。相変わらず、祖父は食事が遅いが、それを咎められることもなくなり、家は静かになったそうだ。
一方で、祖母はホームではよく食べるようで、自宅にいた頃よりもがっちりとした姿を写真で見せてもらっていた。
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一昨年、祖父が持病で亡くなった。
"長生き"が目標。90歳を超えて、呼吸や聴力、咀嚼に難はあったが、認知能力に問題はなく、足腰は丈夫で、最後まで自分の身の回りのことはこなしていた。友人には先立たれ、お金もあまりなかったようだが、酒と煙草はやめられない。…適量でね。カメラと高校野球が好きな、元気な人だった。大往生だろう。
年齢からすると、祖母も大往生と言える。ただ、人生の後半20年は、認知症との並走だった。家族も辛かったが、本人も辛かっただろう。どんな心境だったか、皆目検討がつかない。
本人が「情けなくない」と自分に安息できた瞬間は、この老後にあっただろうか? ひとつ、ねこを撫でているときは、そうだったかもしれない。
孫の私は30歳を超えて、訃報を聞いたきょうも、だらしなく生きている。もう倍生きると、祖母の認知症が始まった歳になる。
「情けないよ、死んじゃいたい」と、私もいずれ、誰かに言うことになるかもしれない。誰に言えるだろうか? そう口にしてから、どう仕切り直していけるのだろうか?
猿も木から落ちる、みたいな、たしかにそういう現象あるよね、そこから教訓が導き出せるかもね、ってタイプの根拠のあることわざはまあわかるんだが。
可愛い子には旅をさせよ、みたいななんの根拠もないことわざが好きなんだよな。
根拠が無いのにことわざのフォーマットを利用してるから説得力だけはあってバグっちゃってる感じが好きなんだわ。
可愛い子を旅に出しても実際は殺されるかもしれないし、家でていねいな教育を施したほうが出世するかもしれないわけじゃん。
チンパンタラコの言い方を借りれば「なんかそういうデータあるんですか」って話だよな。
実際、「可愛い子には旅をさせよ」って思わない人も多いから警句としてそういうことわざがあるわけでしょ?
だったらデータで話をすべきであって、ことわざに頼るべきじゃないよな。
これがことわざなのかはわからないけど「天網恢恢疎にして漏らさず」も好きだなあ。
天の網は抜け穴があるように見えるけど実際は通すべきでないものを通さないようにできている、つまり悪人にはかならず報いがある、みたいな意味だな。
なのに見てきたかのように「疎にして漏らさず」とか言ってるわけでしょ。空想の二段重ねじゃん。
めっちゃ好きだわ。
まあ天網ってのが比喩なのはわかるんだけど、それにしたって極悪人が大往生する例なんていくらでもあるわけで、根拠もなければ事実でもないわけじゃん。
「天網恢恢疎にして漏らさず」みたいな思考って公正世界仮説って名前が付いていて、歪んだ思考の典型だよな。
老子とかいう中国の謎のオッサンの言葉らしいけど俺からすればワンパンだろwって思うわ。
「二度あることは三度ある」とかな。普通に二度で終わるパターンもあるだろ。
繰り返しになるけど、なんの根拠も無いのにことわざのフォーマットを使ってるから説得力だけあってバグっちゃってる感じが好きなんだよな。
そういうのあったらおしえて。
祖父は私のことが大好きだった。
小さい頃は近所の公園まで連れて行ってくれて、もう少し歳が大きくなると自転車の後ろに乗せてイオンまで連れて行ってくれたり、お祭りに連れて行ってくれたりしたことをよく覚えている。
夏休みはほとんど親の実家に帰る家だったから、子供の頃の夏の思い出は大体がこんな感じだ。
私が20歳くらいの頃だ。
祖父祖母父母私で食事に行った。4人乗りの車だったので、私だけ自転車で店まで行き帰りをすることになった。店も自転車で20分くらいだし、仕方ないことなので特に何も思わなかったのだが、車で帰ったはずの祖父は私の帰りを道の途中で待っていてくれた。
心配だったのだろうか?まさか待ってくれているとは思わなかった。いいのに、と思うが同時になんて優しいんだろうと感動した。かなり印象深い思い出の一つだ。
そんな祖父も、近年は認知症を患って周りの人間のことを忘れたり、思い出したりしていた。詳しくないが、進行はかなりゆっくりだったのではないかな、と思っている。
私はもうアラサーになっており、さらに一人暮らしをしている。なかなか祖父と祖母に会いに行くのは難しくなっていたので母が実家に帰ったタイミングでビデオ電話で少し話したりしていた。
母が祖父に「この人誰だか分かる?」と聞いた。私のことだ。「わからん。綺麗だなあ」と言った。
私のことを忘れていたことが辛かったのもあるが、それでもまだ私を褒めてくれるんだなという思いでグチャグチャになって通話を切ってからおいおい泣いた。
私の名前は覚えているけど…と言っていたところもまた嬉しいような悲しいような気持ちになった。
去年会いにいった時は私のことを時々思い出していて、テレビ電話と実際に会うのでは違ったりするのかな?と思った。よく分からないが、たまにでも思い出してくれてたのは嬉しかった。
周りの人のことを忘れたり思い出したりする祖父は、性格こそ穏やかだったし前と変わらなかったように思うが、私と遊んでくれていた頃の前の祖父とは厳密には違う人だったのかもしれない。
でも、あの頃の祖父と会えなくなることと、もう祖父とは会えないことはやはり全く違う。
詳細は聞けてないが、おそらく老衰のような感じなのではないかと思っている。大きな病気はしていなかったはずだ。
それで90近くまで生きられるのはなかなかにすごい事だ。
なので、良かったなあと言う感情で悲しみを和らげることができるのはありがたいことだ。
まだ心の整理はついてないし、ふとした時に祖父との思い出を思い出して涙ぐんでしまう。本当にかわいがってくれていたなあと改めて思う。私も祖父のことが大好きだった。
お葬式には行けなかったが、今祭壇に囲まれる祖父の遺影なんて見ようものなら号泣してしまうだろうから行けなくて良かったと言う気持ちが少しある。四十九日には行く。
父方の祖父は私が小さい頃に、祖母は中学生の頃に亡くなったので、親族が亡くなるのはかなりひさしぶりのことだった。友人や知人を亡くしたこともない。ペットも金魚しか飼ったことがない。それも小学生の時だ。
人と比べたことがないからわからないが、どっちかと言うと死に触れることが少ない人生のような気がする。
私はもういい大人だが、大人になったからと言って辛い事や悲しい事とうまく折り合いがつけられるようにはなってない。
自分は自分の地続きでしかないんだなあと強く思った。当然のことなんだろうが、考えたことがなかった。
50になっても80になっても同じように大切な人の死はつらいんだろう。
だから毎日を大事に生きようとか周りの人を大切にしようとか、やっぱりそう言う結論になるんだけどそれがなかなか。前者は特に。仕事をしてたら無感情のまま1日が終わっている。難しいな。
今の気持ちを書き起こしておこうと思ったので、めちゃくちゃだが終わり。
間違い電話の折り返しで母と話したとき,祖母が数か月前に亡くなっていたと教えられた.
祖父はかなり前に他界している.祖母は一人暮らしで痴呆症も進行し,介護施設に預けてから大分経っていた.
最期は呼吸が困難になり苦痛でのたうち回った.母は何度も病院に呼び出され最終的に看取りはしたが,火葬などの手続きは叔母に任せたそうだ.
年齢的には大往生と言ってよいのだろう.祖母には末っ子の一人っ子として幼少の頃は大分可愛がられた.
母から伝え聞いた話によると医者を志していた才女だったようだが,時代や親族がそれを許さなかったそうだ.
おぼろげながら思い出せる会話からも教養の片鱗は覗かせていた.
2DKの狭い実家にほぼ毎年帰省してはいたが,親子間の関係はかなり冷え切っていたように思える.
理由ははっきりしていて,母は幼いころ大叔父にレイプされたそうだ.
母は我慢強い性質ではあるものの,全てを隠しとおせるほど強靭ではない.
当時も周囲に告発したものの,祖母,つまり実の母には「お前が股を開いたんだろ」と言い捨てられたらしい.
そのときの母の絶望は想像に難くないが,当然ながらそのやり取りは姉弟にも知られ,親子関係は破滅した.
私はその経緯を学生の頃,母から涙ながらに電話で教わる.まさに青天の霹靂だった.
因果関係は不明だが,母は障碍者手帳を持つ程度には重度の双極性障害で,私は虐待を受けていた.
短気で仕事に没頭しがちだった父と母は相性が悪く,離婚していないことが不思議なくらい夫婦仲はよろしくない.
小学生の頃,母に連れられ不倫相手の家に泊まったこともある.当時はポケモンカードを買ってもらい口封じされる程度には単純だった.
いつしかその行為も終わったが当時専業主婦だった母は精神を病み,私を風呂場に閉じ込め,叩き,包丁でお気に入りの自転車のサドルをめった刺しにした.
私は逃げるように県外に進学した.小中高大院と全て国公立だったが塾に行かせ,学費も負担してくれる程度には父は稼いでいた.
勉強や研究は楽しかった.指導教員にも恵まれ,JASSOの奨学金も返済免除となる程度には業績も評価された.そこに件の電話が来た.
私は病んだ.祖母を憎悪し,母を憎み,父を恨んだ.祖母に無邪気に懐いていた自身も悍ましく思った.
ほどなくして不登校となり,カフェインのLD50を調べエスタロンモカをがぶ飲みした.ブルーシートを敷きドアノブを使って首を括ったが死ねなかった.
一昨日に体調を崩して、昨日は少し持ち直した。
今朝、母に抱かれて外の空気を吸い、多分そのまま旅立ったのだと思う。
家に戻ってきて様子を見たらもう呼吸も心臓も止まっていたらしい。
私は実家から1時間弱の場所で暮らしていて、弟から死んじゃったみたい、と連絡を受けた。
本当は昨晩実家に帰るつもりだった。大雨で帰るのは今日に延期した。
犬と最後にふれあったのはゴールデンウィークが明ける前の土曜日だった。
犬は1年前くらいから歩くのが下手になり、半年はひとりで立ち上がることもできない状態だった。
でも噛む力だけは衰えず、老衰で力加減を忘れた分、若いときよりずっと危険だと家族と笑いあった。
いつだかシルバーのバングルに不意に噛み付いて、傷を付けていた。
外につれていくと歩こうと前脚を動かすので、四足歩行の体制になるように支えて歩かせた。
人間の方がよほど疲れると母と笑いあった。
それでも老犬なりに動けないなりに、それなりに元気な老後だったと思う。
とにかく牛乳が好きな犬だった。
犬に牛乳はあまりよくないというのを知った頃には牛乳が大好きな犬になっていた。
老いてからは犬用の粉ミルクに切り替えていたけれど、それまで我が家の冷蔵庫の牛乳を消費しているのはほぼ犬だった。
煮干しの頭が嫌いだった。
頭だけ器用に残して食べていたので、一時期我が家のリビングには煮干しの頭が転がっていた。
鮎を貰って大喜びしていた。
近所のおじさんに冷凍した小さな鮎をよく貰って、人間より良いものを食べているなと笑った。
さつま芋が好きだった。
人間の食べ物にあまり興味を示さなかったが、焼き芋と干し芋だけは盛んにアピールをして食べていた。
抱っこが嫌いだった。
抱き上げると器用に身をよじり、脱出する様子はうなぎのようだった。
個人主義者だった、と思う。
我が家の人間はそれぞれ好きなことを自分のスペースでやるタイプで、犬もそんな感じだった。
好きにしていて、人間が集まったタイミングで犬も参加してきた。
甘噛が直らなかった。
直さなかった。塩対応の犬だったが、人間が帰宅した時は甘噛で出迎えた。それがうれしかった。
お手とおかわりと両手タッチと待てはできた。伏せはおぼえなかった。
目がよく見えなくなったときは家中の隙間や椅子に挟まって助けを呼んでいた。
夏の暑い日は、縁側の下に潜り込んで寝ていた。
よく額の毛に指を突っ込まれて穴模様を作られていた。
換毛期に顔に謎の模様が浮き上がることがあった。
はっきり模様が出たときは、近所の住民にこどものイタズラでペンで書いたものだと思われていたらしい。
キツネみたいな顔だった。
たまに顔がまんまるになっていた。
濃茶色の毛並みなのに、背中は焦げたみたいに毛の先端が黒かった。
しっぽの先端も黒かった。
額と耳の、濃茶色の短い毛がいちばんやわらかくてふわふわの毛並みだった。
犬に会うと尻の匂いを嗅ぎに行くのに嗅がれるのは嫌がって飛び退いていた。
犬よりも人間のほうが好きみたいだった。
亀に恐る恐るちょっかいを出し、猫には負けていたがよく猫を探していた。
そういえば散歩中、我が家の犬と同名の犬に会ったのを思い出した。
散歩で遠くまで歩けなくなっても、家の周りのパトロールは入念に行っていた。
近所の仲の良かった犬たちの中では最も長生きをした。
しばらく前に亡くなったボクサー犬の飼い主が、お供えと言っておやつを持ってきてくれた。
今日は犬の思い出を探して、家族みんな写真をグループラインで共有していた。
古いカメラや携帯を引っ張り出してデータをサルベージしては、思い出を語り合った。
家族は、午前のうちに気持ちを整理したようだった。さっぱりと涙を流して、
写真を見て笑い合って、腐敗を遅らせるために保冷剤を添えた犬に声を掛け、やっぱりたまに泣いた。
今、リビングに安置されている犬のそばにいるのではなく、日記を書いているのは、
犬がまだこの家にいるうちに自分の記憶を書き出さないと駄目な気がしたからだ。
犬は明日には灰なって、もうこの家には帰ってこない。
冷たい犬の額を撫でるたび、その事実が脳に布を掛けるような涙になる。
私は犬のいる家が好きだった。
母と父がリビングで寛いでいて、二人の弟はそれぞれの部屋で遊んでいて、たまに降りてきて会話を交わす。
そして犬は定位置か母の近くで寝ていて、起きたときには、チャカチャカとフローリングを爪ではじく軽快な音を響かせる。
この光景が永遠になれと願った。この家族の揃った家が私の永遠だった。
もう犬の魂はこの家を離れて、明日には身体も無くなってしまう。
今朝、犬は母に連れられて雨上がりの空気を吸い、少し地面に触れて、再び母に抱えられた。
そうして自分の足が動くことに気が付いて、母の腕を離れ、軽快に力いっぱい走って、虹の橋を渡っていったのだと夢想する。
自由に走ることができて大喜びだっただろう。遊びに誘うような笑顔で振り向いてくれただろうか。
犬の友達は向こうにいるし、もとよりひとりでいても困らない性格だから心配はいらない。
私も、この別れは限りなく良いかたちだと思っている。
それでも私は、もっとこの家にいてほしかった。ずっといてほしかった。
家族はもう気持ちを整理できたようだった。水をさしたくないので、
この日記を書きながらひとり部屋で泣いている。私の永遠が終わってしまった。
別れたくないのに引き留められる場所にはもういない。いたって私には手段がない。
納得しているのに受け入れがたい。
去らないでほしい。ずっとリビングにいて、家族みんなに呼びかけられていてほしい。
犬が夜鳴きして、私ひとりが起きてきた夜のことを思い出す。
ずっと記憶にある思い出。
あの月を見たときは、犬と会話ができていたような気がしている。
意思の疎通ではなくて、おもいをひとつにするとか、そういう感じの。
もういない。
これで現在が万フォロワーの神絵師だったらアツい少年漫画なのだが、まっっったくそんなことはないことを先に断っておく。
ちなみに現在のフォロワー数は500以上1000以下とだけ明記しよう。
これで読む気を失くした人は実に正しい。回れ右してもっと為になる記事を読んだ方がはるかに良い。
それでも読み進める酔狂な紳士淑女たちはしばしお付き合いを願いたい。
(なお活動の内容はTwitterに絞り、pixivやskebについて言及しない。)
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これはノートにシャーペンで描いた絵を写メでパシャってた頃から今に至るまでの、大して伸びてない俺の、しかし愛と劣等感と承認欲求と生きがいにまみれた記録である。
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かれこれ×年前、新卒で入った会社での馬車馬労働も落ち着いた頃。
「忙しくて絵描くヒマなんか無くなっちゃったよ〜☆」というまともな人のレールに乗りかけていた自分に気づき、ゾッとなって作ったのが現在の主戦場・イラスト垢である。
絵を描くのは物心ついたころから大好きだ。中学ではお絵かき仲間と自作漫画()のノートを見せ合い、高校では漫研に入って己の井の中の蛙感を思い知らされ、美大にこそ進まなかったものの、大学でもなんやかや作ったり描いたりは続けていた。
それがなんだ、社会人になった途端に魔法が解けたようにぱったり辞めてしまうのか?ありえないだろう!気を確かに持て!!
ということでTwitterにイラスト専用垢を作り、ノートに描いたオリジナル絵(この頃は全年齢)を写メで撮って画質調整すらせず手元の影が映り込んだような状態でアップする日々が始まった。
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なんか最初は気合入れて初任給で買ったコピックを使ってカラー絵なんかも上げてたが、「1日1枚更新、かつツイート数=アップした絵の枚数だったらカッコよくね?」という中学生の妄想じみたイキリで運用していたため数日で挫折、上記の通り「とりまなんか描いて上げる」感じになった。
当時は「ハッシュタグは馴れ合い」というクソダサ固定観念があったため、ただひたすら黙々と上げていればそのうち報われる的なシンデレラストーリーを思い描いていた。
そして絵を数十枚上げた頃、ようやく気付く。
当然である。当時はフォロワー数2桁、20くらい…?(お絵描き垢ということだけでフォロバしてくれた心優しい人々)だったうえ、絵もヘタクソでアナログ民である。イイネもRTもある訳がなく、ただ孤独感ばかりが募っていった。
そこでいくつかハッシュタグを使うようになる。ワンドロ(1 drawing=特定のお題に沿って1時間で絵を仕上げてUPする企画)という存在を知ったので、好きな作品のワンドロを見つけてはこれまたドヘタクソな版権絵で参加しだす。ワンドロ公式から必ず1つはイイネとRTを貰えるので、それを心の糧にしていた。
というかこの時期、アナログ民でも参加できる懐の深いワンドロに出会えていたことがマジで幸運だった。
フォロー祭り的な拡散系のタグは使わなかった。何も起きなくて落ち込むのは俺なのでね!
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ともかくモチベーションが出来たことでまた同人誌作ろうかなーと思い始め、学生の頃2〜3回参加したことのあるコミティアに出ることに。この頃はまだストーリーもの?4コマ?みたいなやつとか描いてた。
衣食住ぜんぶ自分で面倒見ながら可処分時間と睡眠時間全ツッパして命からがら仕上げる、宝物のような24ページの本…!!!
そういう本が、1冊も売れないのがコミティアだよねー。
うーわしんどいな、これキッツイな……と痛感しながら座る長机(半分)で、それでも撤収する頃には「またここ座ろ☆」と思いなおす狂った思考回路と仲良ししながら活動を続けた。
社畜との両輪で参加したコミティアは2〜3回、頒布数は平均3冊くらいだったろうか。
一度だけドハマりした作品で版権モノのオンリーイベントに参加したが、ここでの頒布数は1だった。
というかその直前のコミティアで頒布数0をやらかしていたので、心機一転での二次創作だった。なのに開場から3時間経ってもガチのマジで0冊。泣かないように奥歯を噛み締めながら、列のできる両隣のサークルの合間でモーゼ状態を耐え抜いた時のことは昨日のことのように思い出せるし、こん時に比べれば大抵のことは頑張れる俺である。
でもね、閉会間際で1冊だけ売れたんだよ。
無配ペーパーを持ってってくれてたらしき人がたまたま再度通りかかり、「あ ここだ」と呟いて立ち読みし、悩んだ末に買ってくれた。
この1冊がなければ完全に心が折れて描くのを辞めてたかもしんない。
あのとき買って行ってくれた人、心より御礼申し上げます。あなたがいなければド底辺絵師が一人消えてました。(キモい)
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こうして3年ほど経った頃……
「伸びねーーーー増えねーーー」
と思っていた。
当然である。
絵の読み込みにスキャナーを使うようになった程度で、別に大して上手くならない画力(描けてれば幸せ♡だったのであんま練習とかしない民)に流行りでもなんでもない変な絵である。特定の性癖があるわけでもなく、今をときめく版権絵でもない。
伸びるワケがない。
「描けてれば幸せ♡なら伸びなくてもいいのでは…」と思われる諸氏。
無理やぞ????
たまーにいるけどね、そういう良い意味で無敵の人。ああなれたらマジで強いしカッコいいと思う。
けどな、俺ザコキャラだから!!!絵上手くないくせに承認欲求は人一倍だから!!!豆腐メンタルで麻婆豆腐だから!!!!
とはいえなんか絵の練習はせねば、まずは気軽にできるやつ…と超絶便利サイトのポーズマニアックスを選び、1日8ポーズ、10分足らずの練習を2ヶ月ほど続けてみた(結果的にこれはやってよかった)。
けっこう思い通りの線引けてるんだけどな、やっぱ根本的にド下手なんだよな……というモヤモヤした感覚を抱きつつ活動を続ける日々を送っていた。
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そんな中、「これフルアナログなのが原因では……??」と思い始める(気づくのが遅すぎるネ☆)。
俺は「誰か父さんのメールアドレス知らない?」と聞いてくる父と「ケータイでインターネットに繋いだら絶対に
高額請求が来る」と信じて疑わない母から生まれた生粋のデジタル音痴である。アナログ民を脱することなど夢のまた夢だと思っていた。
ヨドバシカメラでペンタブレットを触ってみても、「手元のペンと目の前の画面」の違和感がハンパなくて踏み切れなかった。
かといって液タブとかいう神のツールは10万フォロワー越えの神々が使うものだと考えていたので、実力的にも金銭的にも雲の上の存在だった。
かつて「描線をデジタル化するボールペン」とかいう謎な商品に目が眩み、コツコツ溜めた3万(くらい…?)で買ったことがある。
もともと速記用のペンをイラスト向けに改良したとかなんとかで「俺の求めていたものはコレだ!」と息巻いたが、レビューが全然見当たらん。なんか変だな…?と思いつつも意気揚々と購入したが、案の定まともに使えるようなものではなかった。当時の俺のPCは聞いたことねえメーカーのノパソだったため、なんかもうあらゆる意味でダメだったんだと思う。このへんの身の振り方がデジタル音痴たるゆえんである。
絵が上手くならない理由は「物を見る目があまりに歪んでいる」といまさら気づいた俺は、社畜の合間を縫ってデッサン教室の夜間クラスを探した。
死んだように寝て過ごす休日のうち気力で3時間を振り絞り、電車に乗って教室に通う。
ここで想定していたのは美大受験みたいな切磋琢磨の場だったのだが、俺が受講したのは社会人向けである。
初心者の俺が「お上手ですね〜〜」と言われるぬる〜い空間だった。
当然である。
周りは良き趣味のおばさまがた、ここは「継続的に金を落としてくださる生徒さん」の集まる場所だったのである。
もどかしさを抱えつつ、それでも評価の中に混じる「ここはもうすこーしこうした方が…」という言葉を金言のごとく握りしめ、反芻しながら目の前のモチーフを描いた。
が、爆睡と家事で精一杯だった休日のうち、この習い事というミッションはかなりハードルが高かった。
そして疲弊の色が濃くなり、仕事の繁忙期と重なって半月ほど足が遠のいていたタイミングでコロナ禍が始まった。
実は数年前にも断続的にクロッキー会に通っていた時期はあるんだが(この時は教室の遠さと値段の高さで数ヶ月で断念した)、コロナで「ぬる〜い場所」にすら集まれなくなったのは痛手だった。
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一方Twitterでの活動は、そんな七転八倒をしながらもワンドロだけはコツコツ参加し続け(版権のワンドロはどれも垢が消えたのでオリジナルだけになっていた)、「いつもなんかいる人」という枠でフォローしてくれる人たちに支えられていた。
ワンドロ以外での反応は閑古鳥だが、もはやそれが普通であると納得してすっかり馴染んでいた。
UPした絵が100枚を越えたのを機に、アナログ絵をまとめた本を作った。
そしてイベントで売るついでにおっかなびっくり書店委託の申請をしてみたことがある。
規定通りに虎の子の1冊を現本として送ったが、お祈りどころか受け取りの連絡すら来なかった。
問い合わせる勇気もなく、実力の無さと壁の高さを改めて感じた。
5年以上の活動期間でフォロワー数もやっとこさ100に到達したものの、しかし現状はさほど変わらず。
がむしゃらにやってきていた俺は次第に病んでいった。
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……が、余計に病んだ。
しかも「何も描かない人生なんて……俺……生きてて意味あんのか……?」と真剣に悩むレベルで、「別にTwitterに入り浸らなくても平気なんだな」と分かった一方で、「絵を描かない自分」にだけは耐えられなかった。かといって何か描いてしまえばまたムクムクと承認欲求が湧いてくるので、「俺から絵を取ったら何が残るのか」というif論の世界線にいるつもりで意識的に描くのをやめていた。
自分の手で何かを生み出さなくなった時間がヒマでヒマで仕方なく、かといって本を読むとか建設的な情報の摂取もできなくて、大好きな漫画への興味もそれなりになっちゃって、虚な瞳で哲学ニュースとカラパイアを行き来する地獄の様な日々を送っていた。
(ちなみにこの期間、無意識に熱意を注ぐようになっていた料理スキルのおかげで自炊がだいぶラクになった)
ストレスが極まって真夜中にひたすら川沿いを歩き続けたりもした。
なんとなくチャリで長旅行きてえな(学生の頃はちょいちょいやってた)などと考えていたが、やはりその場合でも気づけば「旅先で撮った写真をいい感じに分類してアップするサイトを作ってみたい」とかいう思考がスッと出てきたのでもうダメだと思った。
なんか作ってないと死ぬヤツって天才とかだけだと思ってたんだけど、大して努力もできないような凡人の中にもいるんだな、そしてそれはなんだか残酷だなあと身をもって知った。
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進むも地獄、戻るも地獄な精神状態が半年近く続き、同じ地獄 -hell- なら踊らにゃソンソン…?と思い始めたある日、ネットで調べ物をしている最中にとあるバズツイを目にする。
さいわい俺はオタ活もソシャゲもしないぼっちの根暗オタクで社畜なので、好きにできる貯金くらいはある。
知り合いも「液タブに手が出ないならあいぱっよ」的なこと言ってたなーと思い出し、思い切って導入することに。
お絵描きソフトはいくつか試した末にProcreateを選んだ。クリスタの多機能さ()についていけなかった俺は、UIが直感的でツールとアイコンを極限まで絞ったプロクリがスッと手に馴染んだ。
ペーパーライクフィルムなるものを貼り、紙のザラザラ感を脳内で補完しながらApple Pencilで線を引く日々が始まった。
フルアナログ底辺野郎が、板切れ一枚でフルデジタル貴族に転生したのである。
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それが×年前のこと。
ここから「オリジナル絵はもともと伸びにくいけど、ちょっとエッチだと訴求力が上がる」という観測結果をもとにR18に手を出す。
といっても乳首解禁程度で可愛いもんだが、方向性が定まったことで不安が少し減った。
フルデジタルで久しぶりにいつものワンドロに参加すると、反応が違う。イイネRTが3割増しといったところだろうか。(※ここでの3割増しとは3RT→4RTのような血で血を洗う話である)
デジタルのバケツ塗りになったことで、アナログだった頃の癖の強さが軽減されたのかもしれない。
やっっっっっっと俎上に登れた、と思った。
いつでもどこででも描けるiPadは社畜の俺にはピッタリで、しんどくて布団から出られない時でも通勤電車の中でも四六時中描けるようになった。
デジタル作画はワンタッチで消しゴムが使えるので描くこと自体のハードルが下がり(筆圧鬼強野郎なので消しゴムかけが大変だった)、本を買って絵の勉強を始めた。まずは骨格と筋肉から!と、教本の図解をじっくり模写する方法で自分なりに学ぼうとした。
だがデジタル音痴な上に加減も融通も効かない俺である。両手両足をやり切ったところで一度息切れしてしまった(でもこれはやってよかったと今でも思う)。
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数ヶ月後、それらの勢いでオリジナルの同人誌を1冊出す。そしてサイコパスな神絵師の友人の甘言に乗って再び「書店委託」なるものに挑戦(ふつーフォロワー100人前後の人間にそういう話するか?)。
実力的には最低レベルにも達していない自覚があったので、何度もお断りされるなかでいつかOKもらえたらなーという気持ちで申請。
が、思ったよりあっさり通った。
同じような画力の低さでも、版権作品ではなく「オリジナルのエロ」という切り口だけで「まぁ…いっすよ」と言ってもらえたのかもしれない。
やるなら徹底的に!と思い、紙の本を3社に委託。そもそも30部とかしか刷ってない本を5部とか10部でも受け付けてくれるプロの仕事ぶりに、尊敬と畏敬の念しかない。
みんながわいわいしている端っこに自分の席を置いてもらえたことで、ずっと憧れていた「輪の中に入る」ことがちょびっとだけできた気がしてめちゃめちゃ嬉しかった。
そもそもド底辺の自分がなぜ身分不相応にも書店委託や電子販売なんぞを活発にやりはじめたのかといえば、
「そこでの売上が決して0冊ではない」
作品も作家も、露出しなければこの世に存在しえない。フォロワー数2桁でのたうち回っていた俺のつらさは「この世に認知されない」ことだった。
コミュ力さえあれば自力で輪を広げることも可能だが、そんな能力あったら初めからこんな苦労してねーよという話である。
ならば厚顔無恥だろうとおこがましかろうと、一方的に「俺ココにいるよ!こんな本描いたんだよ!」と嬉しそうに手を振る方が100倍マシじゃねーか。
そんで委託した本を買ってくれた誰かが、「このページのこのコマのこの乳だけはイイな」とさえ思ってくれれば俺は大往生である。
しかも誰かがその本のために払ってくれた数百円は、汗水垂らして働いたお金だったり数少ないお小遣いだったりするわけだ。
そんな嬉しいことある?
紆余曲折を経て、そういう肝の座り方と考え方を得られたのは一番の収穫だった。
とはいえピコ手もピコ手なので、委託先の売上振込最低金額に達するまでに長ーい年月を要するRTAに強制参加となる。そりゃ売上¥300だろうと申請すれば振り込んでもらえるんだが、それじゃロマンねーじゃん?
俺とあるサイトの最低金額¥5000に届くまでにマジで2年半かかったし、達成した時は三ツ矢サイダーで祝杯あげたよ(下戸)。
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フルデジタルに移行したことで、イベントでの頒布数もギリギリ10冊を越えるようになる。
頒布数1も0も経験した身からすると、もはや恐いモノなんてないのだ。
1冊でも売れれば、それはすべて神の起こしてくれた奇跡なのである。
普段の活動ではオリジナルでとにかく節操なくいろいろなものを描き、月に1人とか2人とかじわじわとフォロワーを増やしていった。
ごくまれに描いた絵がなんらかの界隈のハブになっているアカウントの目に留まり、RTしてもらえることも出てきた。
その時のフォロワーの伸び率はびっくりするほどだったので、そのたびに「存在を知ってもらう」ことの生命線っぷりを痛感した。
まあとはいえタグなしの絵にはやっぱり無反応だけど、それが俺の平常運転である。
「こいつ今日も描いてんなー」と読み流してくれる誰かがそこにいるってだけで嬉しかった。
UPした絵は、300枚を越えたあたりから数えるのをやめた。
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コミティアしか知らない門外漢の俺はドキドキだったが、入場者数の制限もあって全体的にまったりムードだった。
開場して10分20分、宝の地図を手に通路を行き交っていたうちの一人が立ち止まり、俺のスペースに近付いて
「新刊1冊ください」
と言い放った。
新刊1冊ください…
しんかんいっさつください…?
それって、なんらかのルートで俺のこと知って、新刊あるっぽいって分かって、サークル配置を事前にチェックして、宝の地図に印つけて、「あっココだ」って気付いて来てくれたってこと?!?!?!
つーか開場20分とかそこらだよ??あなた一般参加じゃなくてサークル参加なんじゃねーの??
シャッターサークルとか企業ブースの先頭にだって並べるはずなんじゃねーの???
アイドルマスターシンデレラガールズというソーシャルゲームがある。
ソシャゲ発作品としてはかなり長寿な方で今年で誕生から12年になる。
古いソシャゲらしく、なんと今どきフルボイスではない。
モブだから声が無いんだろうって?そうじゃない、ヒロインの一人とされている。
でもボイス実装は無い。
だからこそ、全員にボイス実装をしろ、という声が常に出ている。
しかし、多分いますぐにボイス実装をしたら多分、デレマスは早晩サービス終了することになるだろう。
なぜボイスが必要なのか
なぜボイス実装が難しいのか
これを説明するためには、デレマスの辿ってきた歴史の話をしなければならない。
素人文なので読みにくいだろうが、興味があるやつは、適当に読んでくれ。
また、細かな間違いは多分あるだろうが
大筋の話として捉えてもらえるとありがたい。
まあ、最初のブラウザゲームは今年の3月でサービス終了してしまったのだが。
それでも大往生だ。
そして、デレステという歌って踊るゲームは開始から7年以上経つが健在である。
アイドルマスターは知っているだろうか?
ざっくり言えば、アーケードのアイドル育成ゲームから発展した作品で
ゲームやアニメで遊ぶ際はもちろん喋って歌うし、リアルライブでは声優が歌って踊る。
それのソシャゲ版としてスタートしたのがシンデレラガールズってやつだ。
ちなみにコロナ前にはナゴヤドームや大阪ドームを満員にする程度に集客力があった。
このシンデレラガールズ、なんとサービス開始当初から100人以上のアイドルを実装した。
アイマスは1アイドル声優1人が基本なので(※例外はある)当然、そんな人数は一気に声をつけられない。
ちょっと作ってみることになったが売れるかわかんないし
下手したら早期サービス終了もありえたので、声なんて用意しなかったらしい。
ところがこいつはソシャゲブームの波に乗っかって予想外に成功した。
こいつは予想外に儲かる、ということで運営はボイス、楽曲の実装に舵を切る。
それが、シンデレラガール総選挙という投票で競うイベントで、だいたい年に1度開催されている。
おそらくお手本にしたであろうAKBのやつと同じで、アイドルを推すオタクたちが札束で殴り合うイベントである。
上位に入れば歌を歌う、という特典も第2回から追加された。
シンデレラガールズ、通称デレマスは競争原理も追い風にどんどん拡大した。
歌を歌えるくらい高位ではなくとも、唐突にCDがリリースされるなどで
ボイスがつくチャンスがあった。
また、アニメを機にアニメ内で突然喋りだす、いわゆるサプライズボイスが多く出たのもこの頃だ。
未ボイスの有力アイドルにガチャを実装し得票の後押しをすることもあった。
ビジネスとしては
アニメから新アプリのリズムゲーム、デレステのリリースという流れは大成功した。
デレステのセルランは大体トップ10位内、絶頂期といっていい。
なにせ、デレステでイベントのメインメンバーになるには、歌うための声が必要なのだ。
もちろん、声がなければライブにだって出られない。出る声優がいない。
この頃、ボイスのあるアイドルは全アイドルが180人以上いる中で60人超くらいだろうか。
総選挙は一層、声をつけるために激しい戦いが行われ、必死の争いが毎年行われた。
森久保乃々も、藤原肇も、佐藤心も、総選挙で勝って声を手に入れたアイドルだ。
売上はだんだんと落ちていくものである。デレステも以前ほどの人気は得られなくなっていた。
うち、4人だけは最初からボイスがある、というアンバランスな状態で。
新しい展開は活力にもなりうる。
そりゃ、これまで何万、人によっては百万以上の単位で課金して、応援するアイドルへのボイスを目指してきたわけだ。
しかし自分たちのアイドルには全く見向きもされなかったのだから、荒れるのも無理もなかろう。
まあ、そんな感じで結構な間荒れていたのだが
それでもなおデレマスは続いていき追加組もそれなりの人気が出た。
ボイスがなかった3人も結局、総選挙、あるいはボイスオーディションというボイス争奪戦で勝利して
声を得るに至ったのである。
ビジネスのほうは……まあ何をやったって、ソシャゲ市場そのものが以前のレベルに戻る状態ではなくなっていた。
なので、この判断が良かったのか悪かったのか、というのは結局のところわからない。
何にせよ、今もまだサービスは続いている。
モバイルゲーム版のほうは流石にゲーム自体が古くなったこともあってサービスを終了した。
「ボイスを全員につけることができるのか」という話を書ける。
曲を歌うこともアニメに出ることも全く不可能で、イベントもミニシナリオ的なものしか出られないというのは
展開の上でかなりハンディだ。
だから、公平性でいえば全アイドルにボイスがついていたほうがいいという話になる。
アイドル1人には1人の声優が必要だ。それが今のアイマスのポリシーだし、ライブ等の都合もあるだろう。
声がついたとして出番がもらえるのかだ。
1曲で歌う人数は多くて15人くらい。通常は5人で、デュオ曲、ソロ曲などもある。
常に15人で大合唱では、アイドル一人ひとりの魅力を取り上げて、顧客満足と売上につなげることは難しいだろう。
190人全員を順番に歌わせるとしたら、多分年に1回すら出番は来ない。
今の段階だって年1の出番なんて無いアイドルはたくさんいるのだ。
もちろん、ライブにも呼べない。190人を呼んでギャラ支払ってペイするライブなんて存在しない。
呼べる人数に限りが出てくるし、順番に呼ぶとしたら、やはり長い期間目当てのアイドルがライブに来るまで待つことになる。
それで、残酷なことを言ってしまうと、デレマスも上位人気と中位人気、中位人気と下位人気には結構な差がある。
あまり人気の無い子の出番が続けばそれだけ人は減る。
今だって、担当のイベント以外は遊ばない、ガチャも回さないという人も少なくないのだ。
つまり、今すぐに190人声をつけると
目当てのイベントは待たされ、曲もなかなか出ず(すでに中々出ない)、カード実装は遅く(すでに遅い)、ライブも滅多に来ない(元々滅多に来ない人もいる)
という状況が悪化する。
少なくとも待ち時間が今の2倍になる。待てるか?俺は待てん。
人気が出た子だけ声をつける。それも、すこしずつ。
今の厳しい選挙を勝ち抜くということは、それだけの支持はあるということだ。
支持した人は、たぶんそのアイドルに多少なりとも金を使ってくれるであろう、という運営側の計算なわけだ。
ボイスが新規につけば、一時的にでも注目は集まる。そうすればそれが収益につながってくれるだろう、という期待もあるわけだ。
ちなみにここの計算が狂うと、アイドルにボイスを実装するほど赤字が膨らんでデレマスは死ぬ。
190人に声をつけろという理想論
それを支えるほどの財力は俺にはない。
デレマス人口を増やしてそれを支えられるようにするだけの、布教するパワーもない。
だから、勝ち抜いて
上京した先で家庭を築き仕事をしていると、ふとした瞬間に20年30年後のことが頭をよぎる。
何不自由なくスクスクと育ててくれたことにむしろ感謝の気持ちで溢れているくらいだが、その親もいつまでも元気なわけでもない。
どんどん老いぼれていく親を見る度、痴呆症の祖父祖母の大往生と親の苦労を目の当たりにしたときに感じた気持ちを思い出す。
絶対に同じ目に遭いたくない。
足腰が立たなくなったり病気で入退院を繰り返すようになったら?関東から地元へ往復しなきゃならないのか?全部片付いたあと土地の相続とかどうすればいいの?
生存のために他人の扶助を必要とするようになったり、鬼籍に入ったのちの面倒なやり取りでこちらの生活に牙を剥いてくるかもしれないと思うと憂鬱になる。
そんな気持ちに付き合っているうち、隣国から頻繁に発射される兵器とけたたましく響くスマホのアラートを耳にする度に「実家にピンポイントで落ちてくれたらな」と思うようになった。
今抱えているぼんやりとした不安や将来への憂鬱な気持ちが一気に晴れるのに。
実際にそうなれば、楽以上の悲しみや怒りが強く湧いてくることと思うが、想像の中では自身に降りかかりうる問題を埒外のパワーで事前に解決されることを期待してしまう。
親は今年で65。
性虐待以外は優しい親だったというパターンについて思い出したこと
新聞の性虐待に関する特集記事で、さまざまな実体験が語られていたのだけど
そのなかのひとつに、祖父に虐待されていた女性の体験談があった。
当初は受け入れていたが、知識がついていけないことだと思い、拒否するようになった
その後も祖父とは何事もなかったように仲良く過ごし大往生して逝ったが、
って書いてあったのね
今も苦しんでいる被害者にとっては許せない話なのではないだろうか
新聞がどういうつもりでこの体験談を載せたのかわからないけど、
普通に克服して人並みの幸せも手に入れ、加害者は憎まれることもないって、
虐待は「いたずら」程度で済む話なんですよって