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はてなキーワード: 徳川とは

2024-11-16

徳川家康関東移封からもわかるように

北条家が素直に傘下に入っていれば

関東全域はそのまま北条家の領地としても良い

くらいの考えを秀吉は持っていたと考えることが出来る。

しかし、北条家が従わなかったので滅ぼすことになった。

では空いた関東経営をどうするか?

もともと北条家にくれてやるつもりであった地域であったし

家康を天下より遠ざける施策となる関東移封は

思い切った政策だが

秀吉の天下構想の中では

それほど異を放った存在というわけでもなかったと考えられる。

このような大度で思いっきりのいい政治手腕が秀吉真骨頂と言っていいし、

そしてその真骨頂はこの家康関東移封以後、影を潜めていくことになる。

それは老齢ゆえか、天下を取るという能動立場から

天下を守り、子孫に継承させる、という受動立場に変化したからか

その両方なのかはわからない。

それはともかく秀吉感覚的には西は毛利

東は徳川大領を与えて天下を安定させる

という政治感覚

とにかくスピード命を信条にしていたものと思わえる。

ちょっとでも政治的空白が発生すれば

もともとが何者でもない秀吉の天下など一瞬で瓦解するからだ。

2024-11-15

人工衛星から重力の歪みみたいなのって検知できないの?

地球の凹凸データとかから算出できるのかな?

要するに過度に凹んでるところは重い金属があるということで

徳川のあれだよあれ

2024-11-09

近所散歩してたら、表札に「徳川」って書いてる家あった

こんなところに一族住んでたんだ

かに高級住宅街だけど

2024-11-03

もしも徳川セブンイレブン、って名前将軍がいたら、7代目なのか11代目なのかわかりにくくて仕方がない

それで9代将軍とかだったら完全に引っ掛け問題のために生まれたような将軍だよな。

2024-10-27

anond:20241027180120

「だまりゃ!」

「麿は恐れ多くも帝より三位の位を賜わり中納言を務めた身じゃ!すなわち帝の臣であって徳川の家来ではおじゃらん!その麿の屋敷内で狼藉を働くとは言語道断!この事直ちに帝に言上し、きっと公儀に掛け合うてくれる故、心しておじゃれ!」

2024-10-25

anond:20241025150642

ビジネス宗教法人のいい例

https://horide-hachiman.com/

ほしいも神社

【鎮 座 地】 茨城県ひたちなか市阿字ヶ浦178

(旧那珂郡前渡村前浜

【 祭 神 】 誉田別尊(ほむたわけのみこと)

境内神社第六天神

 面足命(おもだるのみこと)

 惶根命(かしこのみこと)

月読神社

 月読命(つくよみのみこと)

稲荷神社

 倉稲魂命(うがのみたまのみこと)

難産除社

 誉田別尊(ほむたわけのみこと)

【 大 職 】 奉献堀出明神祭庭 昭和47年9月吉日 神宮大宮司徳川崇敬 謹書

【 神 紋 】 右三つ巴

【 境 内 】 769.42坪

【 氏 子 】 530戸 崇敬者500人

もっとも、こっちの神社は別の神様がいて、日本一干し芋(かんそ芋)の先駆者小池吉兵衛公)が後から加わり、令和になって株式会社マルヒ初代社長黒澤一治が施設を作ったので、純然たるビジネス宗教法人とは違うんだが、神社の中では芋を販売している

なので、こういうのがそこそこ再現性があると思う

2024-10-24

anond:20241024133600

たんぽぽ徳川ときメモ賢者鎌倉で5つは埋まるが、それ以外は相当揉めそうだな。

ロマサガアフリカ舞浜フューラー、ゴブスレかなあ。

2024-10-16

anond:20241015205456

別にこれは福島が恨み深いとかではなくて

そもそも倒幕の朝敵 長州幕府成立から260年、打倒徳川だけで生きてきたわけで。

そういう自分たちの「恨(ハン)」の歴史を棚上げにして会津を嗤っている山口の気風ってなんなんだろうなって思ってる。

2024-09-18

anond:20240918121644

「だまりゃ!」

「麿は恐れ多くも帝より三位の位を賜わり中納言を務めた身じゃ!」

「すなわち帝の臣であって徳川の家来ではおじゃらん!」

「その麿の屋敷内で狼藉を働くとは言語道断!」

「この事直ちに帝に言上し、きっと公儀に掛け合うてくれる故、心しておじゃれ!」

2024-09-17

結局順番覚えられなかったもの

もう50になるので、ここから覚えることはないと思う

若い頃はめっちゃ使うってわけでもなかったがそこそこ使ってた

ループカウンタで使いがちな、i,j,k,l,m,nのゾーンだけは何故かすらすら出て来てた時期はあった

今は冒険者ランクでよく見るA~Fまでと、最後がZだというぐらいしか認識できてない

これも英語。下手するとアルファベット順よりも遭遇率は高い。

じゅーんとじゅらーいをじゅーんぶらいどで乗り切ったので、8月まではなんとかなった(競馬レースがあったり四月馬鹿みたいなイベントあったり)

9月以降は、遊んで思い出すしかない

曜日は火曜と木曜が見ただけではわからんアルファベット同様歌う羽目になる。順番というのとは違うかもしれない

唱えないと出てこない。年賀状出すこともなくなったからあまり必要ではなくなった




逆にすらすら出てくる順番

アイドルグループの結成順、あとなんかあったっけ

宇宙世紀作品時系列とかはわかる(マイナーなやつとか重なってるやつのかいことはわからん

エピソードと絡めて覚えてたり、同時代で少しずつ追加されてくのだと覚えやす

歴史の授業をもっと楽しんでおけばよかった。織田豊臣徳川の順番以外さっぱり(縄文弥生明治大正昭和平成令和は流石にわかる)

2024-08-25

anond:20231031105905

しっかりとした後継ぎがいたとしても豊臣政権不安定だっただろうな。

少なくとも室町幕府程度には。

というのは豊臣政権というのはどういう歴史の流れをたどるにしろ

その成立の経緯からして、

どうしたって「大大名」というものが必ず存在することになる。

秀吉織田政権簒奪から天下統一の流れというのは政治的な魔術みたいなもので、

武力はもちろんだけど秀吉一流の政治的バランス感覚と調略力で無理矢理に成立させたものだ。

ゆえにその過程既存の大大名を潰すことなく維持せざるを得ない。

とにかく秀吉を天下と認めさせることが第一であり、

第二にはスピードが命ということだ。

細かなことは天下を取ってから考えればいい(もちろんどうしたって譲れないものはあるが)

というある一面的には鷹揚な天下取りともいえなくもない。

ゆえに必ず「大大名」が存在することになる。

実際の歴史上でも毛利家なんて室町政権下の大内氏領土匹敵もしくは凌駕してるし、

徳川家北条家の領地を受け継ぎ関東管領もしくは関東公方とも言えるような広大な関東を治めている。

そのような強力な大名がいるがゆえに極めて不安定だった室町幕府と同じような運命を豊臣政権は辿ることなっただろう。

いや、室町幕府であれば足利将軍という源氏棟梁という「血の尊さ」ゆえの権威があったが、

どこの馬の骨ともわからない秀吉血筋では例え摂関家を名乗ったところでそこに遠慮を覚えるものなどいたかどうか。

秀吉が死に、その後継ぎに能力があったとしても3代4代と重ねるうちに必ず大きな反乱が起き、そのときにはもともと泥の中からまれたような根のない豊臣家など消し飛んでいたことだろう。

その不安定さ故に徳川政権のような300年の太平など築くはずもなかったと考える。

2024-08-18

anond:20240818084505

「だまりゃ!」

「麿は恐れ多くも帝より三位の位を賜わり中納言を務めた身じゃ!」

「すなわち帝の臣であって徳川の家来ではおじゃらん!」

「その麿の屋敷内で狼藉を働くとは言語道断!」

「この事直ちに帝に言上し、きっと公儀に掛け合うてくれる故、心しておじゃれ!」

2024-08-17

大君がなぜTycoonという英語になったのか?

大君とは徳川将軍外交文書において自らを称するとき言葉である

征夷大将軍という名乗りは単なるひとりの将軍という意味合いしか持たず、それを避けるための権威付けに大君という言葉を使うようになった。

もともとは朝鮮との外交文書に使われるものであったが後に欧米とのやりとりにも使われた。

欧米は初期の段階では天皇将軍関係がよく理解できず(日本天皇特殊性将軍のことをエンペラーといったふうな既存言葉を用いて表現していた。

しかし、のちに天皇こそがエンペラーである理解すると徳川将軍表現するための新しい言葉必要となった。

だが、そのような単語を持ち合わせていなかったために「大君」をそのまま「Tycoon」として用いるようになったと言われている。

2024-08-08

anond:20240808161043

駿府城のタヌキはアクビをしながら 今日も一日を過ごしてゆく

何も変わらない 穏やかなペルソナ

みんな夏が来たって浮かれ気分なのに 淀君は一人さえない顔してるネ

そうだ君に見せたい筒があるんだ

大きな日輪の夕やけ 子供の頃と同じように

外様譜代も 親藩でさえも 質求めてゆくから

この長い長い下り坂を君を徳川神輿に乗せて

ブレーキいっぱい握りしめて ゆっくりゆっくり下ってく

2024-07-18

anond:20240718002952

徳川文庫に子守りの犬(犬とは想えない顔)とか光琳の描いた金の百人一首とか物吉鯰尾の名刀とか、熱田神宮太郎太刀とかあるからもっとちゃん勉強して

2024-06-17

代将軍 徳川相光

幕府に不義を働かぬよう、

大名は必ず3社以上から見積りを取ったうえで一番安い会社発注を出すようにせよ。

2024-06-11

anond:20240611074426

徳川家康のやり方真似てるだけじゃんwww

徳川五公五民やって勝海舟大政奉還されちゃったじゃん

2024-06-08

国会図書館デジタルコレクションで見る明治時代新撰組の扱い

明治時代新撰組庶民からどのように思われていたのかを調べるために、庶民の目に触れていそうな(?)雑誌記事だとか読み物だとかを抜粋していく。

明治10年『昔今豪雄見競鑑』

こちらは明治10年頃の「番付表」を集めた書籍のようだ。

『昔今豪雄見競鑑』は歴史上の英雄明治期の英雄を対比したものだが「都ノ猛勇 悪源太義平」と並んで「脱走ノ勇士 近藤勇とある

近藤勇ってどっかから脱走したっけ?と思ったが、幕府瓦解後の旧幕府軍のことを「脱走方」と言ったらしいのでそのことだろう。

同じく「古今英雄競」「本朝今昔英雄鑑」「古今英雄三幅対」などにも近藤勇の名が挙がっている。

このような番付でよく名前が挙がる程度には知られていたらしい。

明治16年『徳川義臣伝』岡田霞船

まずは近藤勇について。

近藤勇武勇衆に秀で当時其英名尤も人に知られり新徴組の隊長となりて始め京師に在り又大坂に退き伏見の戦ひ幕兵乱るる中より取て返し迫る官兵を追捲り銃丸足に当ると雖も屈せず大ひに勇名を現し江戸に返りてより諸士を煽動して甲府に至り勝沼駅にて寄手を破りしが遂に衆寡せずして敗軍なし残兵を率いて走りたるが官軍厳重に探索を遂流山に於て勇(いさみ)を捕へんとす勇(いさみ)力戦して縛に就き板橋駅にて斬せらる

新徴組と間違えられとるやんけ!

新撰組時代よりもその後の甲陽鎮撫隊時代のほうに力点が置かれた説明のような気もする。

土方歳三も紹介されている。

土方歳三幕府の旗下にして始め京師にあり伏見鳥羽戦争破れしより江戸に返り諸士を募り主家を再興せんと謀り軍議を決して榎本永井の人々と共に品海を脱し函館に趣き尚ほ奥羽の士を募り官軍の来るを待受屡々寄手を脳す然れ共官兵は新手を入替無二無三に攻立たるに脱兵防戦に尤も苦む歳三毎も真先に進み敵を切る数十人に及ぶ後乱弾にあたりて死すといふ。

新撰組について何も触れられてねえ!

とはいえ「義臣」と銘打っているだけあって悪いようには書かれていない。

明治18年『汗血千里駒』坂崎紫瀾

『汗血千里駒』は坂本龍馬主人公として、その名を一躍有名にしたという小説。その龍馬暗殺犯として近藤勇が登場する。

縦令ひ其不意を打ちたるにもせよ鬼神と呼ばれし海援陸援の両隊長をば斯く容易く一挙に斃し負せる其の手練と謂ひ肝気と謂ひ天晴れ日本一の剛の者と思はるるも実に理りなり彼の刺客は当時徳川将軍の御内に其人ありと聞えたる新選組の旗頭近藤勇等にてありしと

近藤勇とその腹心の土方歳三が、二人で近江屋に討ち入り、坂本龍馬中岡慎太郎を斬って、「そのとき義経少しも騒がず…」と高らかに謡いながら出ていき、今際の際にそれを聴いた龍馬が「あの刺客は只者ではない、彼らのような豪胆さがあってこそ大事を成せるのだろう」と慎太郎に語る、という描写があり、これがのちの様々な作品踏襲されていったようだ。

当時幕府の亡びなんとするは天の命なり民の望なり社会自然の気運なれば今は百の勇(いさみ)ありとも亦之を如何ともすることなきをば思はずして健気にも唯忠を己が仕ふる所にのみ尽さんとしたるは愚かにも又哀れとや謂わん

時代の流れに逆らって忠を尽くした健気だが哀れな武人…といった感じで「敵役でありつつ悪役ではない」という扱いに思える。

明治22年『女侠松竹梅』奥村玄次郎

偖は其方が近藤なるか。其方幕府を笠に着て国を憂ふる正義の士を多く害せし大罪人。此処で遇しぞ僥倖なれこれまで其方の手にかかり不幸にも寃に死したる正義の志士の忠魂を弔ふための復讐せん

お松・お竹・お梅という三人の娘が勤王の志士を助けて新撰組と戦う、といった話らしい。

こうしたいかにも勧善懲悪な読み物では「典型的な悪役」として描かれていたようだ。

明治26年『活文字』鈴木力・佃信夫

近藤勇の話

江川太郎左衛門が琴の譚に比らべて、劣る事なきは、近藤勇の謡なりけり、以て幕臣中の双美とこそは為す可けれ、左に説かむ。

武勇と剛胆とは、麾下九万の士人中、勇(いさみ)ぞ其第一位を占めたりける、さればまだうら若き身を以て、新撰組の頭領として、海内動揺の中心たりし京城鎮護の命を稟げ、一時其独力をもて、鷙悍狂躁の浮浪はらを打鎮め、幕廷擁護干将莫耶とは成りたりけり。

めっちゃ褒めるやん。

土方歳三は、豪邁不屈、肝気非常の男なれども常に勇(いさみ)を相輔けて、死生を共にせむ事を約し、巴港戦死の時に至る迄、其生前の交義を追想し、風吹く日雨降る夜ども、寒窓の下に俛泣し、時世は既に望なし、片時も早く、泉下に亡友を尋ねましとぞ歎ちけるとぞ、其人をしらまく欲せば、先づ其の友を見るべかる、この一斑の譚を見ても、勇(いさみ)が全豹をぞ推すに足る。

国粋主義系の雑誌らしいんだけど朝敵をこんなに褒めていいのか。忠義を尽くして死ぬ話がやはり好きなのか。

コラムの後半では坂本龍馬暗殺の話が書かれていて、この頃はやはり「龍馬を殺した男」という印象が強かったようだ。

明治29年『近藤勇の少年時代』中野三鷹子

『家庭雑誌』という婦人向け雑誌掲載されたコラムらしい。

著者本人が古老に取材したもので、幼少期の勇が近藤周助の養子に迎えられて「近藤勇」と名乗るまでを紹介している。

是より後のことは明治維新の史にくはしく、今更いふべき要もなし、唯其妻の事継嗣のことおよび処刑後の事并びに近藤勇と尤も関係ふかき土方歳三ことなどは、世に知られざるふし多しそは又時をかへて語らん。

として次号に「近藤勇の妻及子」、また別の号に「土方歳三少年時代」が掲載されている。

婦人雑誌でも「今更いふべき要もなし」と言うほど近藤勇知名度は高かったのだろうか。

花を浮べし徳川の流れの末荒浪立ち騒ぎて、二百六十余年は名残の夢となりける時、武士道の意気地を立て貫きて、板橋の草に赤きこころの血を染めたる近藤勇の名を知る人は、函館の浦吹く風に露と消えたる土方歳三の名を忘れざるべし。

かっこいい。

明治30年『幕府名士近藤勇』松林伯知

松林伯知は、永倉新八から『浪士文久報国記事』を借りパクした疑惑があることで知られる講談師で、新撰組講談主人公とした最初期の人物だったという。

巻末に「夢物語」と題した短編が収録されていて、それは函館に入った土方歳三が「公武合体成功した新政府のもとで陸軍を率いる近藤勇海軍を率いる坂本龍馬が仲良く会話する」という夢を見る、というifルート的な内容のようだ。胸熱

本編では、坂本龍馬暗殺したのは近藤勇ということになっているし、新撰組結成前に江戸近藤勇坂本龍馬が手合わせをしていた、というような場面も描かれている。

明治30年『坂本龍馬(名士伝)』竹林巌

少年世界』という、その名のとおりの少年向け雑誌掲載された坂本龍馬の伝記で、そこに近藤勇が登場する。

人と為り魁夷、斗酒を嗜なみ、勇悍独歩肝臼の如し。幕の末路に当り新選組の長となりて徳川氏の為め新日本の活舞台上に仇すること実に巨多なりとす。彼は常に歩百歩の外に潜行して西郷大久保坂本等を暗殺せんと睨むこと茲に年ありき。就中龍馬が大勇は向に新選組百有余人をして全く色なからしめ、以て其長たる勇(いさむ)の面目を天下に唾し去り。(中略)勇(いさむ)は今や血燃え、涙滾りて自から禁ずる能わず。すなわち刎頸の友、土方歳三を招きて何をか耳語すること久し。忽ち相頷きつつ頗る決色ありき。

として近藤勇土方歳三は、二人して坂本龍馬暗殺に向かうのだった、という筋立てになっている。暗殺の場面は『汗血千里駒』を踏襲している。

明治31年『新撰組十勇士伝』松林伯知

こちらも松林伯知の講談を筆記したもの

前述の『幕府名士近藤勇』には沖田総司永倉新八は出てこないが、こちらの『新撰組勇士伝』には登場する。

ただし、沖田が天才剣士だとか、そういうキャラクター付けはまだ無く、せいぜい「名前のある脇役」くらいの立ち位置のようだ。

芹沢鴨暗殺山南敬助切腹伊東甲子太郎との敵対池田屋事件などのエピソードはある。

また、こちらでは龍馬暗殺近藤本人ではなく「近藤勇の命を受けた佐々木只三郎」によるものということになっている。

京都見廻組佐々木只三郎らが龍馬暗殺したという説は明治2年には出ていたようなのでそれを取り入れたものか。

明治41年『二十世紀之京都』

京都観光ガイドブックらしいが、壬生寺についての紹介で新撰組言及がある。

節分には疫除祈祷の為め参詣者群れを為せり、去れば維新前後天誅組と称し近藤勇土方歳三など当寺に立籠り壬生浪士といへば婦人子供の戦慄せし当時を思へば御代太平を喜こばぬ者はない

当時の京都人の認識がうかがえるものの、「天誅組」といえば倒幕派武装集団なので新撰組とは正反対存在である

単なる勘違いなのか、それとも庶民あいだでは混同されていたのか。

明治44年『幕府名士近藤勇』『怪勇後の近藤』玉田玉秀斎

松林伯知のものと同じタイトルだが別の講談師によるものらしい。

こちらには沖田総司永倉新八斎藤一らも登場するが、池田屋事件の場面において、

中にも沖田惣司の働きに至っては実に目ざましい、此処彼処と戦ふて居りまする中に、最う最後と思ふ、折りしも何処からか一人の敵が、惣司の袖の下を潜って逃げんとする 沖田「己れッ………」と云ひながら躍りかかつて、エイッ……只だ一刀に斬って落とした、其の時に急に持病の肺患が起つて其の場に気絶をした

とあり、喀血ではないが、沖田総司の発病の描写があるのが興味深い。

同じ明治44年に刊行された鹿島淑男『新選組実戦史』(デジタルコレクションには1975年の復刊版しかない)にも同様の記述があり、そちらは新聞連載をまとめたものだというので、講談師が紙面で読んで取り入れたものか。

ちなみに『新選組実戦史』は吉島力『新選組顛末記』の元ネタで、『新選組顛末記』は子母澤寛新選組始末記』の元ネタらしい。

まとめ

明治の始めにはまず「近藤勇個人が知られ、「新撰組」はそれに従属する情報にすぎなかった。

・『汗血千里駒』によって坂本龍馬の人気が高まるにつれて、「坂本龍馬暗殺した男」として近藤知名度を上げた。

近藤の腹心として土方歳三が登場することは多かったが、それ以外の隊士たちはほとんど取り上げられなかった。

近藤は概ね「維新志士の敵ではあったが立派な剣士だった」と捉えられていた。

しかエンタメ寄りの勧善懲悪ものでは典型的な悪役を演じることもあった。

・やがて永倉新八の『浪士文久報国記事』などをもとに、近藤勇主人公とした講談が演じられるようになった。

明治末にはさまざまな証言資料が揃ってきてディテールが深まり近藤土方以外の隊士が取り上げられることも増えていった。

・やっぱり京都からの評判は悪かったらしい。

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