はてなキーワード: ものみの塔とは
A5版を縦に二つ折りにしたカラフルなチラシが郵便受けに入っていた
聖体パンの特売日とかイエスの磔体験イベントのご案内とかそういうんじゃなくて、教会組織の紹介や信徒のショートストーリーが書かれてるっぽい
書かれてるっぽいと曖昧なのは、チラシに書かれた全文が外国語で書かれてて読めないからだ
アルファベットで書かれており、英語なら昭和の中学生レベルでギリ読めるが、angなんて冠詞・接続詞は知らない
パッと見、aで終わる単語が多いから、イタリアやスペイン、ポルトガルといったラテン語系の言語に見える
なんでこんなものが俺の家に?
「とにかく手がかりが欲しい!英語はないか、英語は!」と目を皿のようにして探していると、あった
Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
ものみの塔かよ!!
なんでこんな言語のチラシを寄越してきたし
も、もしかしてこれは・・・バベルの塔が建設される前の言語で書かれてるんじゃないのか!?
俄然、興味の沸いた俺は書いてある単語を手当たり次第にググってみた
手あたり次第と言ってもまあ2、3の単語をググった時点で、答えは出た
配る国を間違えてやしないかと思ったのだが Printed in Japan とか書かれてるし、日本で印刷したチラシをわざわざフィリピンまで持っていくとは考えにくい
なんでこんなものを配ったんだろう?
人が死んでも天使になるわけじゃない、キリスト教的世界観においても
この表現を多用している一番有名な漫画はおそらくドラゴンボールだろう
どこかで発想の飛躍があったのかな
気になるねえ、ぐぐりましょうねえ
天使に限らず聖人などを描いた絵画にも、聖人の後ろに光が差す表現が用いられたのだとか
天使に限らないのであれば以降は天使の輪じゃなくヘイローとここでは書くようにしておこう、ブルーアーカイブ風の呼び方
発想としては仏教の後光と同じか
まだ足りない
天使や聖人を描いた絵画→???→漫画的表現の死者を表す記号としてのヘイロー、間に挟まるものを探さないと
なんかこれだ!って情報がなかなかヒットしないな
勘だけど風刺画が間に挟まる気がするんだよな
天使や聖人を描いた絵画のパロディで、天使を例えば政治家に差し替えた風刺画みたいなのがどっかにあるんじゃないか
それが転じて死者の頭上にヘイローを用いるのが一般化したとか?
一応、英語圏のイラストで死者の頭上にヘイローがあるイラストはまあまああるっぽいが……
日本でもなんかドラゴンボール以前に死者の頭上にヘイローがある表現をした漫画無いかな
……手塚治虫がやってる気がする
あの人だいたい何でもやってるからな、あとで探すか
うーん、探し方が下手
wikipediaの「光輪 (宗教美術)」の「大衆文化における使用」の記述が少ないな
英語版だと……英語版の「Halo (religious iconography)」には大衆文化の項自体無いのか
うーんアメコミにもヘイローの使用あるかもだが、アメコミに詳しくない
ここまで調べたというメモ
なんかコレ!っていう本があれば読みたいんだが、この疑問をずばっと解決する文化史本は無いかもなあ
今週の『サチ録』、番外編15を読んだ結果
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こういう路線で調べていくのがよさそうか
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なぜ亡くなった人の頭上に「天使の輪」を描くようになったのでしょうかよろしく... - Yahoo!知恵袋
漫画の記号的表現としては昔からある定番スタイルですよね。 ディズニーのアニメにも、ヨーロッパのカートゥーン(cartoon)にも良く死者の記号として使われていますね。
人間は死ぬと天使になりますか | ものみの塔 オンライン・ライブラリー
アリーロという,まだ7歳の幼い女の子が亡くなりました。悲しみに打ちひしがれた両親は,柩に横たわる白いドレス姿の娘を前に,ぼう然としています。慰めようとして,神父がこう言います。「神様は,天使をもうひとりお望みになって,アリーロちゃんをお召しになったのです。幼子の魂は,今ごろ,神様のみそばで翼を広げて飛んでいますよ」。
死んだ人間の魂が天使になる,と信じている人は少なくありません。公式の教理として教えられることはまれですが,映画やテレビの連続ドラマでは,死んだ人が翼のある天使になって,生きている人を守る,という話がよく取り上げられます。
あなたはいかがですか。愛する人が死後に天使になると考えておられますか。聖書は何と教えているでしょうか。では,天使の本質について,また死んだ人の本当の状態について,聖書そのものが何と述べているかを調べてみましょう。
うーん、「死んだ人間の魂が天使になる」という発想は無いわけではないのか
それが転じて天使ではない死者の霊魂的な何かの頭上にもヘイローが描かれるようになった?
っていうかドラゴンボールつまみ食い的にしか読んだこともアニメを見たこともないんだよな
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ここら辺の本があるいは参考になるか
だいたい最終章は「現代における天使がどのような姿で描かれているか」みたいな話題だから、そこに期待が出来る
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英語圏の情報を探そうとしてもゲームの『HALO』ばっかり引っ掛かってやりにくいったらありゃしない
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そうだ、『トムとジェリー』で爆死したトムが雲の上でヘイローつけた状態で不満そうな顔してるってオチのエピソードがあった気がする
プレゼントボックスに入ったトムが針でめった刺しにされるシーンは涙なしでは見られない
やっぱり「死んだら天使になる」って発想がポップカルチャーである程度一般的に表現されていたようだ
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ってことは
天使や聖人を描いた絵画→死後に天使になる認識、またそれを表現したイラストやアニメ→天使ではなく単なる死者にもヘイローがつけられた
……か?
まだ足りないぞ
キリスト教の教義だと死んでも天使になるわけじゃない、それはカトリックだろうがプロテスタントだろうがエホバだろうが他の何かであろうがだいたい同じだろう
ヘイローは聖なるものの加護を表すからどんな死者でもヘイローは頭上に表れる?
でもトムは爆死して天使になっとるじゃろがい
まだまだ調べないと納得できないな
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ひょっとしたら演劇やミュージカル側の文化が関係している可能性もある
死者を表現する記号として頭の上にヘイローをのっけた衣装を着ていた……とか、あるかもしれない
一応留意して調べる事
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「池にコインを投げる風習はいつから始まったのか?」みたいなテーマでおととい調べて日記書いたときは、その風習を有名にした「Three Coins in the Fountain」っていうアカデミー賞受賞作品を見つけたんだよな
聖者の記号としてではなく、単なる死者の記号としてヘイローを使った何らかのヒット作品があったので一般化したみたいなキッカケがひょっとしたらあるかもしれない
しかしあんまりこの仮説に固執するのはよくないな、気長に探そう
あるとすれば19世紀後半以降くらいのはず
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そうか、調べるポイントが二つに分かれちゃったんだなあ
②漫画的表現で死者が天使となった描写→漫画的表現で死者に(翼など他の天使的要素抜きで)ヘイローのみが付与される描写となった転換点を探すルート
こりゃ大変だ、いったん追加調査ここまで
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次にやる事
→実は守護聖人の頭上にヘイローだけでなく、翼がはえているなどあったりするかどうか
:積んでるキリスト教入門みたいな本をさっさと読む
→なんもかんも体系的な知識が欠けているのが悪い
→でもなー、自分の興味の向き先は「キリスト教の教義はこういうものです」って知識じゃなくて「人々はキリスト教をこのように解釈して信仰していました」という知識なんだよなあ、基礎の勉強ってどうしても飽きちゃって
→第一次世界大戦は1914年7月28日~1918年11月11日、ちょうど探したい年代
:キリスト教的素養がない私がヘイローの描写を見たとき、それが宗教的な性質を持っているのかそれとも記号化したものなのかを区別できるのか?という点について考える
:そもそもヘイローがあって翼があったらそれは天使とみなしていいのか?「天使」って何?「御使い」って何?何もわからない、調べる
→基礎(略
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②についてだが「ゲームのドット絵でキャラが死んだことを表現するのにヘイローが便利で、ドット絵で翼を描くのが大変だったから省略された」という仮説を思いついた
流石にお話として出来すぎな気がする、この仮説は最終的に棄却することになりそうだ
しかし調べるとっかかりとしては魅力的
ヘイロー関係ないけど「ゲームで戦闘不能をどう表現するか?」というテーマを調べるのめちゃくちゃ楽しそう
また別の機会に調べよう
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「Heaven Cartoons」というジャンルの風刺画があるらしい
画像検索してみるとなるほど確かに天国で天使がなんやかんやする種類の一コマ漫画
いつ頃から描かれているかをちょっと調べてみたがなかなか難しい
Wikipediaの「カリカチュア」のページの「主な作家」の項に載ってる人の代表作を一つずつ見ていくしかない
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星新一がアメリカの一コマ漫画を蒐集してそれについてエッセイを書いた『進化した猿たち: The Best』をkindleで購入
権利関係の問題のせいかほとんど掲載が無くなってしまっているようだ
もっと挿絵を見たいから挿絵が載ってる物理書籍のほうを読まないといけないなこれは
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やっとひとつ見つけた
ざっくり言うと政治家が天に召されている様子の風刺画が1868年?1869年?に描かれた、ってところか
翼があり、ヘイローもしっかり完備
しかし余談だけれど死後4年後たってから風刺画が描かれていて不思議だ
なんか「天使になる」ってのは語弊があって「昇天するときに天使と同じ装いをする」という言い方の方が正確なのかもしれない
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トムとジェリー以前のオールドカートゥーンを片っ端から観ているが、天に召されるシーン自体を全然見つけることができていない
ところでチャップリンの『キッド』に天使が登場するシーンがあった
オールドカートゥーンの本当に初期の初期は紙の漫画をそのまま映像化したようなやつだったから、漫画の文脈だと思うんだけどな……
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『マーク・トウェインの天国建設の旅』という論文を見つけたが、これは読む価値がありそうだ
絵やイラストとして描かれていなくても天国に行くとヘイローと翼とハープが通行証かのように与えられる認識は当時の人々視点で昔からあったようだ
18~19世紀の文学作品で天国を描写しているものを探すべきだな
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Elizabeth Stuart Phelps Wardという人が書いた『The Gates Ajar』という宗教小説がアメリカで1868年に刊行されめちゃくちゃ売れたらしい
当時の人々の天国観に影響ありそうに見える
In contrast with traditions of Calvinism, Phelps's version of heaven is corporeal where the dead have "spiritual bodies", live in houses, raise families, and participate in various activities.
カルヴァン主義の伝統とは対照的に、フェルプス版天国は、死者が「霊的な身体」を持ち、家に住み、家族を養い、さまざまな活動に参加する身体的なものである。
とのこと(『The Gates Ajar』のwikipedia英ページより引用しdeepl翻訳)
うーむ、おぼろげに流れが見えてきた気がする
『マーク・トウェインの天国建設の旅』という論文の序文あたりに19世紀半ば以降に天国ものの小説が流行ったみたいなことが書いてあったが、その一因はこの小説な気がする
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そういえばこの日記メモには記述をしていなかったが、宗教美術におけるヘイローは写実主義の高まりによって19世紀までにほとんど衰退しているらしい
なので宗教美術において死者(例えば聖人、殉職者など)にヘイローが描かれたものがあったとしても、カートゥーンのヘイロー描写がその影響を受けているとはちょっと考えにくいのではないか
一度断絶しているのでは?という疑問を持っている
ヘイロー描写は一度衰退し、再び風刺画やカートゥーンなどで記号として便利なので復活したという前提で調べている
あー、いや……この前提本当に大丈夫か?自信ないな
19世紀のアメリカで人々が見ることが出来た美術や絵画はどのようなものだったのか?というのがわからないと正確なことは言えないな……
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自分が確認した限り、カートゥーンアニメで「死んだら天使の装いをして天に召される」表現をやった一番古いものは『トムとジェリー』の『ネズミ取り必勝法』
オールドカートゥーンを全て総ざらいして確認したわけではないからもっと古いのがあってもおかしくはない(アカデミー短編アニメ賞受賞作品すらすべて確認できていない)
幽霊は沢山出てくるんだけどねえ
『ネズミ取り必勝法』はアカデミー賞とる程度には人気だったので、カートゥーンにおける元祖でなかったとしてもビジュアルイメージ固定に大きく貢献したといっていいかも
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キリスト教の教義では死者は天使になるわけではない、という認識があった(今でもそうではある)
→19世紀半ばにスピリチュアルな小説が流行り、人々の天国観を変えた
→それは死後に霊的な体を持った死者が天国で現世と同じような生活を営むものだった
→たまたま印刷技術の発展とタイミングが同じで新聞の挿絵、風刺画、漫画などで聖人でもなんでもない普通の人の死者の絵が多く描かれるようになった
→死者に天使の装いをさせた風刺画、紙の漫画、カートゥーンアニメでビジュアルイメージが固定される(この時点ではヘイローと翼はセット、あくまで天使など聖なる魂的な存在(専門用語を適切に使う自信が無いので曖昧な表現)と同じ装い)
→日本でキリスト教の文脈が無視された記号的な描写がされ、ヘイローのみで死者を表す記号的表現となる
……という流れだという仮説を立てることが出来た
うーん、自信ない
「18世紀以前に普通の死者も天に召されるときは天使と同じ装いをするという認識があった」と言える材料を見つけることができていない
印刷技術が生まれる以前だと絵画にそこらへんの人が天に召される絵なんて描かれないんだよなあ
探すとすれば厳格な宗教者が教義通りに書いた本でなく、人々を慰撫する目的で教義からすれば不正確な内容が書かれた本みたいなのがあればあるいは……(というか、それが『The Gates Ajar』なのよ)
また、『The Gates Ajar』などの天国観を変えるイベントによって死者が天使の装いをするようになった、とある程度の自信をもって言えるような材料は正直見つけることができていない
しかし、とりあえず一定のレベルで納得は出来たからこの疑問はクローズ
https://anond.hatelabo.jp/20230423111053
①敵の話が全て俺の予想の通りだった。
俺は自分の仕事のどこにミスがあるかなんて全てわかっているし、上司が怒りの表情で俺に話しかけてきたら、そのミスのどれか指摘してきているに決まっている。
また、相手の趣味嗜好、時事ネタの何を好むかも大体わかっているので、相手の機嫌次第で何の話をしてくるかは大体わかる。
世の中は、俺の予想通りの行動をしてくるやつらしかいないことを再確認し、話を最後まで聞くのは時間の無駄だなということがわかっただけだった。
俺はちゃんと、他人のPCモニタに何が映ってるか監視しているし、他人の日常会話に聞き耳を立てているし、
朝誰もいない時に机も漁っている。同僚のスマホやPCの解除パスも、6割くらいは覚えている。
そういう努力をしていない人間だけが、敵の話を予想できないのだなと思った。
『敵を知り、己を知れば百戦危うからず』という言葉を贈りたい。
まずは誰もいない時に机を漁り、他人の書類を読み込んでおくことだ。
②話を聞かない能力が失われる
例えば貴方は創価学会やマルウェイ、統一教会等やものみの塔などの話をちゃんと聞く必要があるだろうか?
会社にかかってくる、不動産投資営業や、保険営業の話を、理解する必要があるだろうか?
そういうことだ。
世の中は、「聞かない方が良い話」や「理解しない方が良い話」に溢れている。
それらの詐欺的カルト的な話など、しっかりと耳を傾ければ、ある程度の合理性は見出せるのだ。
「あなたは幸せになれる」などという甘言なのだから、論理的に理解すればするほど、ハマっていくものなのだ。
オウムに高学歴の人間達がドはまりしていたのも同じで、彼らは話を聞く能力や読解力があったからこそ、カルトにハマってしまったのだ。
仕事もそうだ。
何故ならば、仕事上のコミュニケーションの行きつく先というのは「人生を食いつぶし会社や俺のために奉仕しろ」という言葉に他ならない。
何故、そんな言葉を理解する必要がある?胸に手をあてて考えろ。
他人の言葉を自己流に都合よく解釈し、ああお客様の役に立つことなんだな、とか、自分の成長にも繋がることなんだな、と思い込むことによって社会は成り立っている。
上司の指示や話をしっかり理解しろなど、残酷な言葉に耳を傾ける必要はない。
俺が会話をする時は他人を利用するためか、他人を陥れる時だ。それ以外の会話をしたことがない。
そんな俺の話を聞く必要があるか?ないだろう?つまりそういうことだ。だが、俺は善人だ。なにせ、自分が悪意を持っていることを知っている。
そして本当に他人を利用する悪人なら、自分の悪意を晒したりしない。デメリットしかないからな。
真の悪人とは、つまり自分の行為が社会善や共通善に則っていると思い込んでいるやつらのことである。
わかるだろう。
他人に無償でアドバイスをするような人間の言う事は聞く必要がない。俺のような善人の言葉を除いて。
我々に人の話を全て聞く時間があるだろうか?
いや、ない。
国語の物語文や論説文を解く時、まさか主題となる文章を頭から読んでいたのではないだろうか。それは誤りだ。
国語の長文読解は、①問題文で使用されているのと、同じ単語の連なりを全体視で見つける。②問題文と関わりのある文章の段落のみから、情報を引用し解答する。
これだけでいい。短時間で解答することができる。しかも間違えない。そもそも、文章全体を捉え、理解することなど、時間の有り余っている暇人だけやっていればいい。
俺の経験が確かなら、駿台だとか河合塾だとかでも、同じように教わるはずだ。というか教えていた。
受験勉強が得意なことと社会生活が得意なことは=ではないが、この能力は必須だ。
マニュアル、社則、資料、全てを読み込んでいる人間はまさかいないだろう?
このゴミのような情報が溢れた社会で、俺達は幸福に生きなければならない。
必要な情報を必要なだけ読み取るのが国語力だ。断じて、頭からケツまで理解する能力が国語力ではない。
全てを書き取り、相手の意図を読み取れ、というのは問題を錯誤させようとしている詐欺だ。
目的は明らかだ。この世は限られた幸福の総量を奪い合うゲームだ。
能力とは、つまり相対的なものだ。絶対評価ではなく、相対評価が世の常だ。
他人が時間を浪費し、無駄なことに時間を使うことによって、相対的価値を高めようとする人間の欺瞞である。
時は金なり、いや、金より重い。
他人の話を全て聞き取る、書きとる、こんな無駄な行為に時間を使ってはいけない。
何度も言うが、俺はまず自分が悪人であることを示した真の善人なので、本当の善意から言っていることはわかってくれたと思う。
ではどうしたらいいのか?対案はある。最初に述べたように、まず予測能力を高めることだ。
人生のパターンは貧弱だ。国語の問題文などその実、パターンが数種しかないのと同じことだ。世の中の人間は、そんな大したバリエーションや複層性を持っていない。
つまり、敵である人間達の情報を常日頃から収集しておくこと、これは文章①で述べた。
文章②で、世界は聞く必要のない話、聞いてはいけない話が多い事を述べた。
その前に、俺は善人なので少し捕捉する。
日本語は実は言文一致(話し言葉と書き言葉が同じ)をしていない。
その前提を理解していない人間、理解しているのにも関わらず、文章を書き写せなどと言ってくる、相手の無知を利用したコミュをするやつは、くたばってしまえと言う話だ。
会話、『話し言葉』においては簡単だ。語気が強まる瞬間、あるいは話の最後の瞬間だけ聞き取ればいい。どうせ中間は天気の話とか大谷の話しかしていない。
1から10まで聞くのではなく、音が強まった瞬間だけ、耳を傾ければいい。
大体、専門用語や略語、社内オリジナル用語や業界用語など、文語なら通じるが口語では通じない音でこの世は溢れている。
文字に起こせと言われても、「こいつ何言ってんだ?」という部分で引っかかりが生じるのは当然のことだ。
「つまり」だとか、でかでかと書かれている部分だけ読みとればいいし。テキストが100行あれば、人生において必要な行は2行か3行がせいぜいなのだ。
そこをCtrlFで検索するのでもいい。自分に必要なテクストだけ摂取すればいいのだ。
この点で『つまり会話を文章に直すのは有効では?』という語り掛けがあるかもしれない。詐欺である。なぜならば、その有効性とは効率のためにあり、
そもそも『口語を文語に訳す』という手間、時間が、そもそも『非効率的』である以上、その論法は成り立たない。
「人が口から発した言葉をテキストにしろ」という言動が、貴方をハメようとしている悪意に満ち溢れたものであることはわかって貰えたと思う。
「相手の話を全て聞き、それを文章に書き写し、理解する」ためにあるのではない。
そもそも、『話が理解できない』などというのは、『単語やローカルルールが理解できない』ことに原因があるのは明らかなのに、元増田はそれをあえて無視している。
組織の使う備品の名前、その目的、取引先や他部署の人間の名前、そのあだ名。
そう言った知識の非対称性が、『話が理解できない』に繋がっているのは明らかなのに、1から10まで話を聞けば、理解できるかのように語る元増田は詐欺師だ。
人間の会話は、知らないワードが3つ出てくると理解できないのだ。
それを、元増田は分かった上で無視している。種別は違うが、理解できない会話を放り投げてくる奴と同じだ。
知識の非対称性を利用している。そういう人間は総じてカスである。
バットを持っていない人間にホームランを打てと語り、サッカーのルールを知らない人間に試合に勝てと言っているのが元増田だ。
俺はそんなことはしない。どんな無知な人間でもわかることしか言わないし、やれることしかアドバイスしない。
敵を知り己を知り、要点だけを聞ける能力を磨け。
わざと変なことを言ってすまなかったな。
つまり、話し手と同じくらいの、前提知識を得ようぜ、そうすると要約できるって話だ。
あなたが何を信仰しようと自由だと思いますし、稼いだお金を寄付したり、借金してもお金を教団に渡して先祖やあなたの魂を浄化してもらおうとするのは自由です。
問題なのは、その事で「他の誰か」に迷惑を掛けない、旧統一教会とか世界平和統一家庭連合であることを「隠して・名乗らないで」第三者を勧誘しないことさえ守ってくれれば「私は」お好きにどうぞ、と思ってる。
だからと言って「なんでもやっていい」という話では、ない。
例えば私が男性で、レオタードを身につけて公衆の面前に立つのが人生の何よりも好きだとして、実際にやったら逮捕まではいかなかったとしても多くの人に嫌悪感を与えるよね
私にはそういう嗜好はないけれど「そういう人」が実在している。ここには敢えてキーワードは書かないけれど、世の中には「すごい」人がいるのは知っている。
旧統一教会や世界平和統一家庭連合が示す教えは、私の目にはキリスト教や聖書をベースにしているけれどキリスト教的ではない、ものみの塔やモルモン教のほうが(あいつらも相当ヤバいけど)まだキリスト教的だと言える、と思ってる。なんだけど「信仰するな」「宗教ではない」とまでは言わない。何をどのように信仰しようと「自由」だからだ。
とはいえ、あなたの信仰が他の人に迷惑を及ぼすようなことは「やめて」欲しい。それだけ、それだけだ。
個人的には信仰してるならホームページとかにも書けば良いのにねって思うし、選挙の応援とかに行ったり講演会で万歳とか言ってる議員さんが「知らなかった」とか言ってるのを聞いて傷ついたりしてなくないかって心配になるよ。
2000年代に大学内でゴスペルコンサートをやっていて、それを聞きそびれた...的なことをスタッフらしい人に話したら、ゴスペルコンサートを聞きたかったら休みの日に来てと言われ、ついていった教会が統一教会系のやつだったんだろうなと今では思う。
ミサ中にイエス様を信じたらすべてがうまくいったみたいなことを弾き語りしているおっさんがいたりして、ショーとしてはなかなか面白かったけれど、信仰心は抱かなかったな。
ミサが終わってから、交流会があり、同年代の信徒による熱烈な勧誘もあって、聖書を信じて生きていたらうまくいったみたいな話をずっとされたのは覚えている。
ちなみに、ワイはカトリック系の学校に通っていたのでキリスト教にそんなに抵抗はなかった。
逆に、カトリック系の学校に通っていたからこそ、神父とその教会の牧師の振る舞いのあまりの違いに違和感しか覚えなかったんだよな。
信者たちが固い椅子に座っている中、牧師はショーをふかふかのいかにも高そうな牧師専用ソファーから見物してたんだな。
俺が通っていた学校の神父はミサ中にちょっとそれぞれでお祈りをするみたいな時間は安っぽそうなパイプ椅子みたいなのに座ってたから、牧師が高そうな椅子に座っている光景にものすごい違和感を覚えた。
カトリック系の経験がある自分からすると、ものみの塔の人のほうがまともな感じがする。
まあ、カトリック系で学んだ知識をもとにいろいろと勧誘の人と話をしていたら、興味がある人だと思われて聖書のお勉強に誘われたので固辞したんだけど。
そういえば「エホバの証人」の日本支部(神奈川県海老名市)にずっと興味がある。
「聖書に興味はありませんか?」と言って各家庭を回る布教で有名な「ものみの塔」「目ざめよ!」などの冊子を刷ってる大規模な印刷施設があって、毎時9万部の雑誌を生産できるらしい。「ものみの塔」は世界一の発行部数の刊行物だそうだ。
とはいえここ10年以上、新宗教はどこも右肩下がりで、エホバの証人の布教冊子も大幅に部数減しているらしい。文化遺産として保護されるような施設ではないし、そのうちたいした記録も残らないまま規模縮小してしまうのではないかと思う。
印刷製本工程は住み込みの奉仕者を中心に行っていて、それなりの技術者でなければできないハードな仕事だと思うけど、ネットで見た情報では月々の支給金は1万円程度だそうだ。年中無休で保険や年金もなし。たぶん高齢化が進んでいて、辞めた人々がどういう待遇になっているのかも気になる。
私は生まれたときから母に連れられて王国会館や奉仕、大会へ出席していましたが、中学生でフェードアウトした元2世信者です。
所属していた会衆(地域ごとに集会をするJWのまとまり)の長老は、フランクながらも模範的な親権家族(家族全員がエホバの証人である家庭)で、よく成員に声を掛けて励ましていました。
長老は趣味のレジャーを楽しみながら、生活のための仕事をして奉仕や集会ではよく牧羊の活動をしている、理想的なバランスでやっていて、抑圧的でない方が務めていました。
大会ではストイックさが非常に要求される内容の話が多い中、締め付けはゆるいように感じました。
このためか、会衆の雰囲気も集会の前後の交わりで気さくに世間話をし合ったりよかったと思います。
集会の内容は子供が理解するには大変で、時間も長いため集中することなど不可能で辛かったですが、
当時バプテスマを受けていない伝道者(大会で洗礼を受けずに集会や自発的に奉仕活動に出席する立場)として活動していた私は、
奉仕に行くのはいろんな兄弟と話す機会として楽しくやっていました。校区内で知り合いに会うのは本当に嫌でしたが。
私は、エホバの証人の教義自体は信じても信じていなくもなく、特に興味はありませんでしたが、コミュニティとして居心地がよかったのでやめずに続けているという状態でした。
生まれたときからずっと一緒にいる仲間でしたから。成員に恵まれた会衆の方はこのような方もおられることでしょう。
ただ、中学生だった若い私は、集会や奉仕に費やす時間を惜しむようになりました。
勉強をしたり遊んだり…(ほぼ余暇は遊んでいましたが)その中でエホバの証人としての活動をする時間が惜しくなっていました。
もともと、集会の内容は意味不明で、個人研究(集会内ではなく自宅でJWについての勉強をすること)の頻度を兄弟に尋ねられたときも虚偽申告をしていました。
学校の勉強もありますが、学校を帰った後には結構時間があるので聖書通読の範囲と書籍研究の範囲を時間を取ってやっていますなどと答えていましたが、毎週0時間でした。
奉仕は毎週行っていましたので、奉仕報告(奉仕活動の時間や出版物の配布数を提出する)はそこそこのものを出していたと思います。
しかし、奉仕についても表紙しか読んでいないものみの塔や目覚めよ誌を「今回こんなテーマで書かれた雑誌をお渡ししていますー。よかったらあとでお読みになってくださいー」
なんてバラまいていました。子供なのでよく受け取ってもらえるので、いくつか再訪問先もありました。今思うと、家の人も子供相手に断りづらかっただけなんでしょうけども。
ある時、会衆では模範的な伝道者と見えるように行動しながら、外では世(非信者や俗世間のこと)の友達と遊んだり、普通に過ごしているし、信じていない内容を述べ告げ、
読んでもいない雑誌をおすすめするのもどうかな。これはダブルスタンダードというものだよな。と思いはじめて、奉仕に行く機会を減らしました。
土日どちらも出ていたのを、土曜日だけにしたり、今週はお休みにしたりとだんだんと。その後、テスト期間中で忙しい、あるいは体調不良を理由で集会も休む機会を増やしました。
はじめは、仲間をこれまで欺いていたことが明るみに出ていくことが怖くて、母親が集会や奉仕に出かけた後泣いたりもしました。
案の定牧羊訪問(長老が励ましにくる活動)を受けたりしましたが、はい、はいといつもどおりの愛想で返事だけしていました。やがて、完全にブッチするに至りました。
高校に進学した後も時折兄弟姉妹が顔を見せに家にやってきたり、家に置いてある出版物を見るのが嫌で、大学は県外に進学しました。それからは実家を離れて一人暮らしをしています。
会衆を離れてから、いろいろ調べていると、どうもバプテスマを受けたエホバの証人がこのように不活発になって組織を離れると、
場合によっては背教者とみなされて、家族であっても忌避すべき対象となってしまうそうです。
私はそこまで深く考えていませんでしたが、バプテスマを受けていない伝道者というちょうどいいポジションでお茶を濁していたということでしょう。
もし嫌々ながら集会や奉仕に通っていながら、ダブルスタンダードに苦しんでいる方がおられるなら、
ぜひバプテスマを受ける前に離れることをおすすめします。そうすれば、親とは断絶することなくただの子と親の関係、いたって普通の関係は続くことでしょう。
親は一緒に楽園に行けないなんて!これまでやってきたことはすべて無駄になる!
なんて言って泣くかもしれません。でもあなたも信じていないなら、いずれにせよ楽園に行くことはできないと分かっているじゃありませんか。
これは私の考えですが、私は永遠に生きたくはありません。
世の娯楽を楽しみ、世が作ったもので商売をしています。(もちろん、犯罪などではなくまっとうな、JWの方も使っているものやサービスを提供しています。)
この生活が幸せですし、一日一日を大切に過ごして、最後は死にたいと思います。
もちろん、永遠に会衆の成員や家族と幸せに過ごしたいと思えば、それはあなたが教義に賛同しているのですから続ければいいと思います。
「受けるより与えるほうが幸福である」だとか、「隣人を愛しなさい」だとか。
聖書を字義通り解釈して、これら聖書の原則を大切にして過ごしておられるJWの方は、普通にいい人としてこの世に幸せをもたらしてくれることでしょう。
リンク先の本を買って読んだ。
https://twitter.com/alpaca_mofu/status/943446184676306944
私にとっては本当に辛い記憶でありこれまで「ネタにするくらいしか昇華しようがないかなー」と漠然と考えていた体験だが、このような本に巡り会い昇華の方法として素晴らしいと感じた。
この記事を書くに至った衝動はいくつかあるが、1つはかの宗教に地域性とローカルルールが豊富であることに由来する。
Amazonのレビューや著者の方を含めたツイッターでの会話を眺めたら「まさにそうだった」「うちはこうだった」「それはなかった」といった感想を目にした。
この宗教に関わっていない方にとってはどれが正しいかわからない状況かもしれないが、きっとどれも正しく、単に環境が違ったのだと思う。
この記事もあくまで私の体験であり他の方と一緒かもしれないし違うかもしれない。
ただそういう経験をしてそう感じたと書く。
各々信じたいものを信じ、やりたいことをやるしかないのであるし、公序良俗というやつに反しない限りそうあるべきなので特定の個人を貶める意図はない。
また、正式名称「ものみの塔聖書冊子協会」通称「エホバの証人」についても賛成も反対もなく信教の自由は保証されてしかるべきなので信奉したい人はどうぞ。
「ものみの塔」とか「エホバ」とか書くの本当に久しぶりだが手が震える。
コメントorツイッター( https://twitter.com/s_fjw )で質問してもらえたらできるだけ書く。
いわゆる「元2世」というやつで、親が入信してたので必然的に参加していました。
かの団体は地域性とローカルルールが多いことが知られており「いつ」「どこで」「どれくらい熱心だったか」という前提が欠かせないのでまずそれを書きます。
西日本。
年1回の「地域大会」というやつはスペースワールドの近くで開催されるやつに割り振られていた気がします。
洗礼受けてから脱退すると「排斥処分」というやつになって以降かの団体の人々との交流を一切禁じられるが、洗礼を受けずに諸々の行事に参加しなくなっただけなので、扱いとしては単に「信者候補が『世の人』(信者ではない人の呼称)になった」だけ。
「排斥処分」の有無は感情や精神に色々影響与える場合があるらしいのでここに状況を明記する。
父母私。
父→大きく賛成も反対もせず。一時母の勧めで「研究」に参加した模様。
母→熱心な信者、たぶんまだ現役。
前述の通り心理的に脱退済み。
たまにフラッシュバックして死にたくなる。
かの教義には賛成も反対もないので自分の意思でやりたい人はやったらいいんじゃないんですかね。
書く。
本当に体験が近しくてびっくりした。
が、ごく一部私の体験と違ったので書く。
悪いことを「サタン」と言うことはあった。
これは十戒あたりに「神の名をみだりに唱えてはならない」とか書いてあって、私の周りでは「良いこと」を表すために神の名を使うことはそれに沿っていないと考えていたか、あるいは単にそういう用法を思いつかなかったのだろう。
なお彼らは主に新約聖書を教義の根拠として用いるが、旧約聖書も参照する。
繰り返すが地域性やローカルルールが多彩であり特定の人の記憶や考えを否定するものではない。
今のところこれくらい。
他は本当に体験が近しくて驚いた。
悪いことばかりというのはあり得ず、このような環境で過ごしてよかったこともあるので書く。
気力が戻ったら書く。
思い出すだけで辛いし得損なった15年ばかしと数々のチャンスを考えると何かを呪わずにいられなくなるんだ、わかる人にしかわからないだろうが。
この件を考えると人に優しくできない。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54011
エホバの証人では信者同士のことを「兄弟姉妹」と呼ぶのですが、
兄弟姉妹で集まって毎週集会を行い聖書の勉強をしたり、「奉仕」と呼ばれる布教活動を行ったりするくらいです。
争いや政治参加が禁止されているので、他の宗教団体と比べて派手な活動を行っていないし、有名な方もいないので、いたって地味な宗教です。
新興宗教には、メディアに厳しく目を光らせている団体も多いようですけれど、
エホバの証人ではそもそも争うことが禁じられているため、報道に対して、抗議することもありません。政治活動が禁止なので、どこかの政党を応援することもない。
信者をたくさん獲得しなさい、とか、いくらお金を収めなさい、とも言われないので、他の宗教とは違って社会問題にならず、「被害者の会」がないんです。
また、教祖はおらず、信者の集いというかたちです。正式名称が「ものみの塔聖書冊子協会」なのもその現れです。
小生、恥ずかしながらこの記事で初めてエホバの証人の実態を知ったのだけど、教えの内容はともかく、活動形態としては理想的な宗教団体なのかもと思ってしまった。
それが戦前の状況だった。そして2015年の今も良心的兵役拒否の議論が為されず、徴兵恐いよの話ばかり。
だからむしろ良心的兵役拒否をカルトな場所に置いとかないで、普通に人権の話として語ろうぜ。これがfinalventの考え。
端から見れば狂気としか思えないような人が自分の良心を背負っていると、そういう感性って分かるか?
彼にとってものみの塔とは、戦争で人を殺したくないという良心の代弁者なんだよ。
彼にとって榎美沙子の狂気はちゃんと彼のフェミニズムという課題につながる。
彼にとって若泉敬の狂気はちゃんと彼の沖縄という課題につながる。
それをちゃんと見ていたのがfinalventだということ。
http://www.jwstudy.com/docs/study_hours_per_baptism/
誰も興味がないだろうけれども。
エホバの証人がやたら来るのは、一ヶ月にどのくらい伝道活動をしたかを報告するシステムがあるから。
日本人はこの数字上げに関して世界一熱を入れている。他国の信者が驚くくらい。
互いに愛し合うことより数字入れることの方がわかりやすいし、記録として張り合いやすいからかな。
組織は誰が何月に何時間伝道していたかという記録を過去何年分も遡って記録している。
伝道時間とは、エホバの証人じゃない人間にエホバの証人の教義を伝えるためにかけた時間を指す。
正規の伝道者になったら最低一ヶ月1時間は伝道活動を報告しないと「不活発」ということで、頭数から除外される。
どんなに熱心に聖書を読んでいようか、仲間の信者を助けるために奔走していようが、伝道してないとダメ。
「奉仕活動」と呼ばれているんだけど、地域ボランティアや被災地支援、介護なんかは含まれない。
そんなわけで現役エホバの証人として神に、そして仲間に受け入れられたかったら伝道は欠かせない。
この伝道時間というのは実質信者の格付けランキングになっていて、時間が多い人ほど重んじられる傾向にある。
伝道時間により伝道者、補助開拓者、開拓者、特別開拓者、宣教者というクラス分けがあるんだけど
海老名市にあるものみの塔聖書冊子教会日本支部、通称海老名ベテルの精鋭に選ばれた場合
何歳から何年間開拓奉仕をして来たかで、休みの日も違えば割り当てられる部屋も違う。
まず家を訪ねる場合、伝道開始した最初の家を訪ねた時間から、最後の家を訪ねた時間までを計算する。
途中道ばたで喋っていたり、移動したりする時間をどの程度記録に入れるかは個人の裁量に任される。
また手紙やメール、電話の場合は手紙を書き始めてから書き終えるまでを数える。
さて、補助開拓者から宣教者までは伝道時間のノルマがあるから1時間でも多く伝道したい。
特に月末・年度末は切羽詰まって、勢い質より量になる。
そのため伝道時間の「経費」とみなされる活動に自ずと力が入る。これを「時間を入れる」という。
遠くの家と遠くの家をピンポイントで訪ねてみたり、同僚に唐突に聖書の話をしてみたり
エホバの証人でない親族や友人知人にご機嫌伺いの手紙を書いて、最後にちょろっと聖書の言葉を書いたり
すごい人になると、一回家に帰って小一時間くつろいで、それも「休憩時間」とみなしてしまう。
そんなわけでエホバの証人は聖書の話を聞いてくれる・断らない相手にしがみつく。
聖書研究を始めた途端にいろんなエホバの証人が何かと話しかけてきたり、手紙を寄越したりするのもそのせい。
同じ相手に話しかけると「再訪問」という別枠のカウントも入り、これも熱心さの目安とされる。
もちろん出版物を提供したり、聖書研究を司会したらそれも件数でカウントされる。
こういう数字がいいメンバーは集会や大会で「模範的な伝道者」として賞賛される。
どれだけ長年熱心に仲間を支援していても、信者でない人を隣人として愛してきても
布教の成果が出て相手がエホバの証人になると、そこから数字はカウントされなくなる。
もちろん「時間が入らなくなる」ので、難癖つけて献身を渋るような本末転倒な事態も起きる。
(そして献身した後は「奉仕が忙しいから」とアフターケアをしなくなる。)
ブルックリン本部の出版部から来た人が「聖書通読をしましょう」という講演で
「日本は数字を出すのが好き。もしも聖書通読の数字を報告することになったら、年間1000時間とかすごい人が出るだろう」
と言っていたが、その通りだと思う。
日本のエホバの証人は他国と比べてとりわけ熱心に伝道活動をしているわけではない。
ただ数字を上げることへの熱中度は群を抜いている。
ちなみにどれだけ寄付したかは発表されないので、寄付への熱意はかなり低い。
施設維持費として最低いくらかかるかは明確にされており、簡単に計算できるけど、しょっちゅう赤字。
■追記■
id:sawakimiによるエホバの証人の信者っぽい立場からのはてなキーワード編集がみられます。
エホバの証人が毎月1冊発行している小冊子。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CC%DC%A4%B6%A4%E1%A4%E8%A1%AA
スタイルプラス株式会社は、愛知県名古屋市東区に本社を置く不動産業者。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B9%A5%BF%A5%A4%A5%EB%A5%D7%A5%E9%A5%B9?kid=287231
この会社はエホバの宗教の息がかかった会社とみなしてよいのですかねぇ?
-1世紀初頭の[[パレスチナ]]で「神の国の到来」を宣べ伝えた結果、ローマ帝国が政治犯に行う極刑(十字架刑)で抹殺されたユダヤ人、ナザレの[[イエス]](BC4年以前~AD30年没)を救世主(メシア、キリスト、神の子)として仰ぎ、彼の行動と教えを中心に神の愛と罪の赦しを説く宗教。 +1世紀初頭の[[パレスチナ]]で「神の国の到来」を宣べ伝えた結果、ローマ帝国が政治犯に行う極刑(十字架刑)で抹殺されたユダヤ人、ナザレの[[イエス]](BC2 Ethanimの月(9-10月) ~ AD33 Nisanの月(3-4月)14日、金曜午後3時没)を救世主(メシア、キリスト、神の子)として仰ぎ、彼の行動と教えを中心に神の愛と罪の赦しを説く宗教。
キリストの生年は「BC4年」が定説だと思ってたのですが、「BC2 Ethanimの月(9-10月) ~ AD33 Nisanの月(3-4月)14日、金曜午後3時没」というのはそちらの教典に由来してるのですか?」
「Ethanimの月」という聞きなれない言葉は、ユダヤ暦の、日本語でエタニムの月と表記し、
エホバは,取り入れの祭りのことを「年が去って行くころ」,また「年の変わり目に」行なわれる祭りと述べて,1年の変わり目の月としてのエタニムに言及されました。(出 23:16; 34:22)また,ヨベルの年の始まる月がアビブの月ではなく,このエタニムの月であった
一般に用いられている暦である西暦をごく狭いコミュニティ間で使用されている「ユダヤ暦」に改竄するのははてなキーワードの趣旨に反すると考えます。「はてなキーワード作成・編集ガイドライン 」の「キーワードの説明として不適切であると考えられるもの」の「中立的でない偏った内容」、「自分にしか意味がわからないなど、他の人に理解できない内容」に抵触すると思われます。
『新世界訳聖書』 - エホバの証人が利用している聖書。神の名前としてエホバが訳出されていることが特徴。販売はされておらず、エホバの証人を通して入手することができる。インターネットで新世界訳聖書の全文が無料で公開されている。
id:biblememoの編集ですが気になったのひとこと。異端とされる宗派の聖書を同列に記すのは「はてなキーワード作成・編集ガイドライン 」の「キーワードの説明として不適切であると考えられるもの」のひとつ「中立的でない偏った内容」に抵触すると思われます。
はてなID:ykkjhrk
はてなキーワードに投稿しましたが、編集合戦を避けるため、こちらに転載します。
エホバの証人とは
● http://www.watchtower.org/j/ 雑誌のバックナンバーや聖書研究の手引き書などがいくらか読める。
● http://www.jw.org 機関誌のポッドキャストフィードの受診、書籍、電子雑誌などがダウンロードできる。
● http://www.jw-media.org 広報室の公式サイト
名称の由来は旧約聖書のメシア預言のひとつであるイザヤ43章10~12節に基づく。
エホバの証人についての解説(公式サイト): http://watchtower.org/j/jt/article_02.htm
(個人サイト): http://biblia.milkcafe.to/thesis009.html
「ものみの塔聖書冊子協会」は、彼らが用いる代表的な法人の名称である。世界本部はニューヨーク法人ものみの塔聖書冊子協会にあり、出版物の著作権表示はペンシルバニアのものみの塔聖書冊子協会となっている。(ただし、「わたしたちの王国宣教」は、2009年4月以後、著作権表示がエホバの証人のクリスチャン会衆"Christian Congregation of Jehovah's Witnesses"となっている。)
なお、ものみの塔とは1879年に創刊された雑誌の名称であり、ジェームズ王欽定訳のイザヤ21章8節などを由来としている。聖書預言と照らし合わせながら世界情勢を見張っている、という意味がこめられている。さらに、1884年、この雑誌の出版社として現在のものみの塔聖書冊子協会が米国ペンシルバニア州の非営利法人法に則って登録された。したがって、彼らは自分たちを「ものみの塔の信者」とは言わない。ものみの塔協会は法人名に過ぎないからである。
また、「エホバの証人」という語は彼らが構成する集団社会と、信者各個人の両方を指す。(英語などの場合、複数形と単数形で区別する。)したがって彼らは、「エホバの証人の信者」という表現は使わない。ちょうど、「クリスチャンの信者」とか「ムスリムの信者」などと言わないのと同様である。
1870年米国にて、チャールズ・テイズ・ラッセルらが聖書研究会を結成したことに始まり、1931年、米国オハイオ州コロンバスの大会で、「エホバの証人」という名称を採択する決議が可決された。この大会は短波放送で中継されており、日本にいた数名の信者も決議に加わった。(なお、戦前・戦中の大日本帝国下では、「灯台社」という名称で活動しており、天皇は被造物であるなどと主張し、本土および台湾・朝鮮において、治安維持法違反で検挙されている。―参考: 灯台社または燈台社または燈臺社を調べるぺえじ http://www.geocities.jp/todai_sha/)
聖句と聖句を比較しながら論題別に掘り下げてゆくという19世紀の聖書研究者ヘンリー・グルーの聖書研究のポリシーが、現在でも一貫して守られており、エホバの証人出版物の特色となっている。聖書は文字通り神の霊感(インスピレーション)を受けた神の言葉であり、普遍、無謬であって、絶対に矛盾していない、という前提で聖書を調べ、矛盾と思われる箇所がある場合には、ほかの聖句を持ってきて説明しようとする。聖書で聖書を説明するのである。(ものみの塔2006年8月15日号12~15ページを参照。)
((聖書は矛盾している、との主張に対するエホバの証人の反論については、「ものみの塔出版物索引」の「聖書の信ぴょう性」の項の「聖句間に見られる調和」という見出し以下から資料を探せる。))
信者数は日本で21万人ないし30万あるいは40万とも言われ、2009年現在全世界で731万余の伝道者が活動している。
全世界の統計(公式): http://www.watchtower.org/e/statistics/worldwide_report.htm
エホバの証人の実勢信徒数の数え方: http://jwpc.milkcafe.to/media03.html
機関誌「ものみの塔」や「目ざめよ」などを配っている。最近は雑誌の朗読版(mp3およびaac(m4b))やオーディオブックのポッドキャスト配信、アメリカ手話(ASL)や日本手話(JSL)をはじめとする手話版のビデオキャスト配信、オーディオドラマやPDFによる電子書籍のRSS配信も行っている。
「目ざめよ!」は2006年以後月刊誌となり、「ものみの塔」は2008年から一般大衆向けと研究用(信者向け)とに分かれた。
出版物のダウンロードサイト(公式): http://www.jw.org
モルモン教、統一教会と並び、カトリックの総本山であるバチカンの法王庁(教皇庁)からキリスト教系三大カルト(または異端)の一つとされている。
また、カトリックと対立関係にあるが、プロテスタントではない。プロテスタント諸派もエホバの証人との教理上の相違が大きく、エホバの証人自信も自分たちをプロテスタントであるとは主張しない。
http://www.watchtower.org/j/20091101a/article_01.htm
エホバの証人のスポークスマンによると、ときおり、日本基督教団の牧師が「保護説得」などと称してエホバの証人を拉致、監禁して強制棄教を試みるといった事例が生じており、アメリカ大使館は日本の警察当局に、これを事件として取り締まるよう勧告している。((なお、宗教監禁の実態(統一協会の信者)に関する情報は、こちらの月刊現代の記事を参照。))
参考:2003年 国別人権報告書 http://tokyo.usembassy.gov/j/p/tpj-j20050601-50.html
ただし、SDA―セブンスデー・アドベンチスト教会―はエホバの証人に比較的好意的であり、国によってはセブンスデー・アドベンチスト系の病院がエホバの証人の望む無輸血医療を積極的に提供していることもある。
神の名はエホバであり、敬意を込めてその名を積極的に用いるべきである。
http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_01.htm
なお、「エホバ」であるか「ヤハウェ」あるいは「ヤーウェ」であるかは彼らにとって大きな問題ではない。マタイ福音書の主の祈りの冒頭にあるように、神の固有名を用い、それが神聖にされることが重要である、とする。(マタイ 6:9)
さらに、聖書を翻訳する際、神聖四字(YHWH(JHVH)テトラグラマトン)を「神」や「主」といった称号に置き換えると、読者は一般名詞としての神と固有名であるエホバとの意味の相違が識別できないという弊害が生じる。「神」(エローヒーム)と「エホバ」の違いについて、インペリアル聖書辞典(P・フェアベアン編、ロンドン、1874年、第1巻、856ページ)は次のように例証している。
「それ[エホバ]はどんな箇所でも固有の名であり、人格的な神を、そしてただその方だけを表わしている。一方、エローヒームはどちらかと言えば普通名詞の特徴を帯びており、確かに普通は至上者を表わすが、必ずしも、またいつも一様に至上者のことを指しているわけではない。……ヘブライ人はあらゆる偽りの神々に対立する方のことをthe Elohim、つまりまことの神と言う場合があるが、決してthe Jehovahとは言わない。なぜなら、エホバとはまことの神だけの名だからである。また、わたしの神とは再三言うが……決してわたしのエホバとは言わない。というのは、わたしの神と言う場合、エホバのことを意味しているからである。また、イスラエルの神について語りはするが、決してイスラエルのエホバについて語ることはしない。それ以外のエホバはいないからである。さらに、生ける神について語りはするが、決して生けるエホバについて語ることはしない。生きている方ではないエホバなど考えられないからである」。(訳文は、聖書に対する洞察、第一巻、「エホバ」の項より。)
ヘブライ語聖書中に「サタン」が登場するすべての箇所において、定冠詞が使われており、悪魔は固有の実在者であって、人の心に内在する抽象的な概念などではない。(ヨブ 1:6 脚注)
http://watchtower.org/j/20091001a/article_01.htm
神は愛の動機からすべての良いものを創造された。生きる喜びを分かち合うため、み使い(天使)や人間を、倫理的に自由な行為者、つまり神に仕えるか仕えないか、どのように仕えるかを能動的に選択できるものとして創造された。
やがて天使のある者が自由意志を誤用・悪用して神に反逆し、神の主権の正当性、妥当性、義にかなっているか否かに疑念を差し挟むようになった。その天使は、ヘビを使ってエデンの園にいた最初の男女アダムとエバ(イブ)を罪へといざなった。こうして、完全だった人間は不完全になり、原罪を受け継いで死ぬようになった。
悪魔となったその天子が投げかけた問いは、もっぱら倫理的な論争であった。つまり、悪魔は神の力を否認していたのではなく、宇宙の主権者としてエホバがふさわしいか否かを問題にした。したがって、悪魔と叛逆した人間を即座に滅ぼしても、この種の問題の解決とはならなかった。
神からの独立を望む人類社会には、神から倫理的に独立してやっていけるかどうかを試す時間が与えられた。そして、数千年の歴史の中で、君主政治、軍国主義、全体主義、共産主義、自由民主主義などあらゆる政治形態を試みることが許された。
神を愛する人には人間の政治に希望を寄せるのではなく、エホバによる神権政治を支持する機会が差し伸べられている。人間一人一人は、エホバの側につくか悪魔の側につくかを選ばなければならず、エホバの主権を受け入れることによって神の心を喜ばせることができる。―箴言 27:11。(←この側面は「忠誠の論争」とも呼ばれる。)
http://watchtower.org/j/bh/article_11.htm#q10_src
http://watchtower.org/j/bh/article_12.htm#q6_src
なお、悪魔の投げかけたこの論争は、当初から矛盾(論理破綻)していた。悪魔は、自分が論争に勝つなら、エホバは自分を生き続けさせる義務を感じるであろうと考えていたからである。神の公正に疑念を差し挟む一方で、神の公正をあてにしていたのである。(聖書に対する洞察、第一巻、「主権」の項を参照。)
イエスは、人類を罪と死から救済するために天から地に遣わされた。イエスの贖罪死と流した血によって、罪の許しの法的根拠が据えられ、人類には永遠に生きるみこみが差し伸べられた。
http://www.watchtower.org/j/bh/article_05.htm
http://watchtower.org/j/bh/appendix_04.htm
http://www.watchtower.org/j/20091101/article_05.htm
http://www.watchtower.org/j/20090401a/article_01.htm
http://www.watchtower.org/j/20091101/article_02.htm
http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_07.htm
http://biblia.milkcafe.to/21-ec-12-07.html
クリスチャンは天に設立された神の王国の国民であるゆえ、地上の政治論争には一切「内政干渉」せず、神の王国の大使また公使として振舞うことが期待される。―ヨハネ 17:16。
http://www.watchtower.org/j/bh/article_15.htm#q12_src
神を愛する者は暴虐を憎まなければならない。―詩編 11:5。
http://www.watchtower.org/j/kn37/article_01.htm
(誤解されがちな点だが、彼らはいかなる戦いをも否定する絶対的平和主義者ではない。旧約聖書(ヘブライ語聖書)にある数々の戦いの記録は、将来神があらゆる悪に報復されることを表しており、「復しゅうは神のもの」と聖書にもある。また、クリスチャンは各自「信仰の戦い」をしなければならない。なお、戦争には不参加となるが、政治的な中立の観点から、戦争反対のデモなどの活動に加わることもしない。)
http://www.watchtower.org/j/hb/index.htm
地抜きされていない肉を食べてはならないという聖書の禁止事項は、イエスの流した贖罪の血に敬意を示すべきであるという考えを根底にしている。したがって、これはもっぱら宗教的な性質のものであり、物理的な意味で1ミクロンも血を摂取してはならないという意味ではなく、血抜きのための合理的な努力が払われていればそれでよしと彼らは考える。
日本臨床麻酔学会誌Vol. 26 http://www.jstage.jst.go.jp/browse/jjsca/26/3/_contents/
http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_10.htm
エホバの証人はユダ王国の滅亡を西暦全607年に起きたと考えている。考古学の主流の学説とは意を異にしているが、この点は、「聖書に対する洞察」というものみの塔協会発行の聖書百科事典の「年代計算、年代学、年代記述」の項で、かなりのページを割いて論じられている。
http://www.watchtower.org/j/20051115/article_02.htm
http://www.watchtower.org/j/20051201/article_02.htm
裁くのはイエスであり、誰が救われ、誰が救われないかを決めることに、エホバの証人は関与しない。―ヨハネ 5:22。
http://watchtower.org/j/jt/article_08.htm#saved
週に2回ある集会への参加および非信者への証言活動が求められる。(ヘブライ 10:24-25; マタイ 28:19-20。)また、年に1回、地域大会、巡回大会、特別一日大会という、より規模の大きな集まりがある。(詩編 35:18。)
http://watchtower.org/j/rq/article_14.htm
唯一の式典として、年に1回、キリストの死の記念(主の記念式)が行われる。これは、いわゆる最後の晩餐(最後の晩さん)を記念するもので、カトリックのミサ(聖体祭儀)に当たる。―ルカ 22:19。
http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_06.htm
彼らは「新世界訳聖書」という独自に翻訳した聖書を用いている。
オンラインバイブル(インターネット聖書)新世界訳: http://www.watchtower.org/j/bible/
「恣意的な翻訳だ」「自分たちに都合の良い内容に改竄している」という批判もある。
また、エホバの証人側はこれに反論している。
公式: http://www.watchtower.org/j/20080501a/article_01.htm
個人サイト: http://biblia.milkcafe.to/
機関誌・書籍などで、しばしば古今の有名人の発言・著作を引用するが、前後の文脈を無視して極めて恣意的な引用をする傾向にある。(例えば、有名な古生物学者であるスティーブン・J・グールドの著作を、あたかも彼が進化論を否定しているかのような形で引用する)
しかし、この点は近年改善されてきており、2010年に発表された創造を指示する小冊子では、相当の配慮が示されている。
近年では全人類の平等を謳っているが、同協会に批判的な主張によれば、ローマカトリックを始め、他のキリスト教諸派よりもずっと後(1970年代)まで「黒人は神に呪われた種族であり、知的にも劣っており、終わりの日に遂に彼らが救済される時、彼らの肌は白くなるだろう」と主張してきたという。(下部の参考リンク「エホバの証人情報センター」の記述による。同センターは論証的な立場に立っているが、エホバの証人に対する論調は全般に批判的。1970年代およびそれ以前の、エホバの証人における有色人種の扱いについて、より信頼性の高い情報源があればご教示ください。)
世界各国に支部があり、信者のうち白人は1/3程度と推測される。「統治体」と呼ばれる最高指導部は、設立以来多年にわたり白人男性のみで構成されてきたが、1999年にメンバーにサミュエル・F・ハードが加わったことにより、統治体にも有色人種が加わることとなった。
1933年、ドイツで政権を握ったナチスがエホバの証人の弾圧を始めると、協会のドイツ支部は大会を開催して(ベルリン大会)、ナチスの政策を支持し、自分たちとユダヤ人は無関係だと主張する「事実に関する宣言」を全会一致で採択した。この大会には、当時のものみの塔協会の会長ラザフォードも出席している。しかし、世界各国に支部があり、本部がアメリカにあるエホバの証人は、この「宣言」以後もナチスの弾圧の対象となり続けた。
しかし、エホバの証人側は、ナチスを政治的に支持していたわけではないと反論する。
公式: http://www.watchtower.org/j/19980708/article_01.htm
個人サイト: http://biblia.milkcafe.to/07-jg-11-40.html
1985年、ダンプカーに轢かれたエホバの証人の子供大ちゃんが、両親の輸血拒否にあい、死亡。輸血をしても助からなかったとの見解もあるが、マスコミに大々的に取り上げられた。大泉実成著「ASIN:4768455646」に事件の様子が描かれている。
1994年、過剰な体罰、虐待によりエホバの証人の信者の子供が死亡した。
参考:http://www.jwic.com/abuse.htm
エホバの証人である高専生が宗教上の理由で剣道実技を許否した結果、退学処分を受けたが、1996年3月8日、最高裁判所は、この退学処分は違法であるとの判決を下した。
判決文(PDF): http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/js_20100319123008290359.pdf
なお、これは教育と信教の自由に関する日本国憲法下における重要な憲法判断である。
エホバの証人の婦人が、事前にいかなる場合においても輸血を施さないでほしい、なおかつ輸血しないことによって障害を負っても医師に責任を問うことは一切しないとの合意書に署名していたにもかかわらず、医師たちはひそかに、事前に示し合わせて、当初から輸血を断行することにしていた。手術後、内部告発によってこのことが明らかになり、裁判となった。2000年2月29日、最高裁判所は患者の人格権を侵害したと判決した。
ここでの問題は、強制的に輸血を施したことの是非ではなく、また緊急事態には輸血を施すというその病院の方針が裁かれたのでもない。むしろ、病院はそのような方針をもっているならば、密約をしたりダブルスタンダードをとったりするのではなく、誠実に病院の方針を説明し、患者の信条に沿う別の医療機関を紹介すべきであった、ということである。
エホバの証人のプレスリリース(英語): http://www.jw-media.org/jpn/20000229.htm
判決文(PDF): http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/js_20100319120604218580.pdf
このほかにも、エホバの証人は国内外で、後に重要な判例となる裁判を起こしている。
参考:衆議院議事録―第159回国会 憲法調査会基本的人権の保障に関する調査小委員会 第2号(平成16年3月11日(木曜日)) http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/010715920040311002.htm?
エホバの証人は小児性愛の被害者が虐待者を仲間の間で訴えた場合、他に証人がいなければ不問とする。
告発されても、もし当人がそのような事実はないと言うなら、長老たちは告発した人に審理措置は何も講じられないことを説明すべきです。 そして会集は告発された人を引き続き潔白な人とみなすでしょう -ものみの塔95年11月1日 28~29頁
被害者「わたしが7歳のとき、あの兄弟がパンツに指を入れてきて、」
加害者「してません」
監督者「ということなので調査するわけにはいきません。ほかに見た人がいれば別ですが」
たとえ二人以上の人が、同じ人から虐待を受けた"覚えがある"としても、 その種の記憶は至って当てにならない性質のものであるため、 裏付けとなる他の証拠がない限り、審理上の決定を下す根拠になりません
被害者B「わたしも数年前にあの兄弟からパンツに手を突っ込まれたことがあるんです」
監督者「ということなので調査するわけにいきません。証拠があれば別ですが」
実はエホバの証人は内部の問題を外部の法廷に持ち出すのは「神の御名に疵をつけること」として禁じられている。
自分たちの信教の自由のためにはしょっちゅう争っているのだけれど、信者が信者を、特に監督者を訴えるのは原則禁止。
→被害者は警察へ。刑事訴訟で虐待者は有罪に。そして組織を排斥される被害者
ということがアメリカのNBCで放映されたドキュメンタリー・ニュース番組で特集されたが、日本のエホバの証人のほとんどはこのことを知らない。
https://www.youtube.com/watch?v=8psxo0s1MXk
ものみの塔聖書冊子協会に好意的でないニュースは背教者の手によるものなので、絶対に見てはならないと警告されているからだ。
見たり聞いたり読んだりした内容を、仲間に話したり、監督者に質問したりすると背教者として排斥される恐れがある。
1. 母親がエホバの証人である37歳の男性。エホバの証人の間での立場 奉仕の僕 開拓者
「その人はそうせずにいられなかったんじゃないかな…」
「だから責めるのはかわいそうっていうこと?」
「そう」
「…」
仲間の信者を世の法廷で訴えることは情状酌量の余地があるとはいえ、重大な悪行である。
だから彼らの多くは被害者になっても沈黙を守るし、守らなければ信者の間で反逆者として敵意を買う。
2. 28歳でエホバの証人になった43歳の女性 エホバの証人の間での立場 開拓者
「え…でも世の法廷に出したらいけないんじゃない?」
「じゃあ、私があなたのお母さんを目の前で殺したらどうする?」
「どうするって…悲しい」
「それを見たのがあなただけで他に証人がいなかったとするよね。
私が容疑を否認したら協会内部ではお咎めなしということになる」
「そうだね」
「警察へは行かないの?」
「ああ、そりゃ、殺されたら警察行くよ」
「じゃあ強姦は?」
「…え、強姦だったら…どうかなあ」
「あ…まあ、そうか」
ちなみにエホバの証人内部の性暴力が明らかになったのは皮肉なことに性暴力被害から身を守る記事を「目ざめよ!」で特集したことがきっかけだった。
記事の反響として全世界から子供時代に協会内部のレイプされたという声が寄せられたのだ。
本部はこれを隠蔽しようとして、「証人が必要」「記憶はあてにならない」「世の法廷に持ちだしてはならない」という記事を次々に出した。
結果的にはアメリカでの裁判に惨敗して空前の慰謝料を支払うことになり、ニューヨーク本部を引き払うことになったんだけどね。
http://www.jwstudy.com/ja/candace_conti_summary/
「その話、どこで知ったの?」
「インターネット?そういうの見ると霊的に影響受けるよ」
「会衆で発表がないことなら、私達が知る必要のない情報なんじゃないの?」
こうしてインターネットを介してエホバの証人やものみの塔協会関連の犯罪を知ることは背教行為として厳しく調べられる。
長老と呼ばれる監督者に呼び出され、潔白が証明されないなら「排斥」または「戒め」として文字通り一切口を利くことを禁じられる。
これを書いたことがバレたら自分も教者リスト入りすることになる。
■日本のエホバの証人が「信者が増えない国ランキング」1位になった理由 ※追記あり
http://anond.hatelabo.jp/20080723030022
を書いた増田です。
ちょっと今度は内輪向けの話かも。
早速だけど本題▼
素朴な質問なんですが是非知りたいので元エホバの証人や古本屋の方は教えて下さい
他宗教で本沢山もってた方でも構いません
本当は人力検索使いたいんですが捨てアカウントとりたくないしまだ現役でなるべく匿名でいたいので
エホバの証人になると、「ものみの塔」や「目覚めよ」という雑誌を毎月もらうし「洞察」とか「聖書」とか重たくて場所をとる本が大量にたまりますよね?
エホバの証人を辞める時、みんなは本をどうしたの?
親や現役信者に渡した?
それとも忌々しいからと捨てたの?
昔聞いた噂(エホバの証人同士の噂)ではエホバの証人の本は資料的価値があり、例えば「洞察」というエホバの証人専用の百科事典などは10万の買取り値がついたため、それを売ろうとしていた゛奥さんが信者で反対してた旦那゛はビビってエホバの証人の教育の高さに感心して後に信者になったとかどうとか。
ちなみに一般の方に事情説明しますがエホバの証人の書籍って普通の印刷会社を通さずに全部自分達で印刷してます。勿論、生産者も信者。給料はありません。住み込みでやってるそうです。
ちなみに、確か二年ぐらい前に日本の印刷施設は日本だけじゃなくアフリカ圏やアジア圏の印刷も担当するようになるため設備強化のために何億か忘れたけど大型のドイツ製の最新印刷機を購入したはず。
まあそんなわけで普通の流通経路使わないからISBNとかついてないしAmazonなどでも売ってない。
そもそも信者の寄付で賄われていて本自体は無償でもらえる(もし良かったらあなたがふさわしいと思う額だけ寄付して下さいねと言われる)から本には値段が書かれてない。
著者は教団名だけで個人名はない。初版発行日や第何版だとか改訂日などの履歴もない。
そんな本ばかりなんだけどこんな本を古本屋さんは買い取ってくれるんでしょうか?
いい加減、この宗教を辞めようと思うのですが大量の(ユニークな)本の処分に地味に困ってます。
信者にあげるのも気持悪くて顔合わせたくないし(考え直せとか言うし辞める人間と接触を禁ずる教義だし)、捨てるにも地域住民に「現役の」エホバの証人と誤解されて眉を潜められるのが嫌です。業者に来てもらって捨ててもらうにもお金かかるし…
いいアイデアや古本屋さんの見解や経験談(他宗教の元信者さんでもOK)を教えてもらえると嬉しいです。
よろしくお願いします。