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2019-03-08

「過ぎたるものが二つあり」集

家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八

「唐の頭」とは唐物中国製)の珍しい兜のこと。

追記:指摘があったので訂正します。「唐の頭」とは正確にはヤクの毛の兜飾りのことです。武田信玄石田三成が描かれるときに、よく兜に付いているカツラみたいなやつのことですね。実は三河武士あいだでやたらと流行っていて十人いたら七・八人は唐の頭をつけていたと言われており、というのも唐の頭を大量に積んだ貿易船が難破して三河に漂着したから棚ぼたで手に入れたんだとか。そら「過ぎたるもの」と言われますわ。

本多平八」とは徳川四天王のひとり、本多忠勝(1548生)のこと。

三方ヶ原の戦いに先立つ一言坂の戦いで、退却する徳川軍の殿を本多忠勝がつとめた。

家康に過ぎたるものが」はその活躍を称賛した落首である

治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近佐和山の城

治部少は石田三成(1560生)のこと。

島左近」(1540生)はもともと筒井氏に仕えていた武将で、一説には当時の三成の禄高の半分である二万石で召し抱えられた。

関ヶ原の戦いで討ち死にしたが、敵の足軽が後々まで悪夢に見たというほどの戦いぶりだったという。

佐和山城」は三成が改修した城で、五層の天守閣を備えた立派なものだったが、中に入ってみると極めて質素な造りだった。

駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠

富士のお山」とはもちろん富士山のこと。

白隠」とは「臨済宗中興の祖」と言われる高僧・白隠慧鶴(1686生)のこと。

大量の書画を残しており、その作風は荒々しくバランスの崩れたものだが、それが逆に迫力を生んでいるとして現代でも人気が高い。

本所に過ぎたるものが二つあり 津軽屋敷に炭屋塩原

本所とは東京都墨田区地名

津軽屋敷」とは、本所にあった津軽藩の広大な江戸屋敷のこと。

火災ときに版木ではなく太鼓を叩くのが「本所不思議」として知られている。

「炭屋塩原」とは、炭団を改良して一代で豪商となった炭屋の塩原太助(1743生)のこと。

明治期には「塩原多助一代記」として立身出世物語が語られ大人気となった。

亀山に過ぎたるものが二つあり 伊勢屋蘇鉄に京口御門

亀山とは、現在三重県亀山市にあった、東海道亀山宿のこと。

伊勢屋蘇鉄」とは、亀山宿の旅籠伊勢屋の庭にあった蘇鉄の名木のこと。

現在亀山市の文化会館移植されている。

京口御門」とは、亀山宿の西端、つまり京へ向かう道に作られた門のこと。

坂の頂上に建てられ、下から見上げると壮観だという。

岩槻に過ぎたるものが二つあり 児玉南珂と時の鐘

岩槻藩は埼玉県さいたま市にあった小藩。

児玉南珂」(1746生)は高名な儒学者

祖父江島生島事件江島の弟だったため甲斐流罪となり、南柯は甲斐で生まれ岩槻藩士養子となった。

儒学を学んだ南柯は、藩の要職歴任し、隠居後は私塾・遷喬館を立ち上げて子弟教育に努めた。

「時の鐘」とは、城下に時を告げるために1671年に設置された鐘のこと。

改鋳されたもの現在まで残っていて市指定有形文化財となっている。

青山に過ぎたるものが二つあり 鳶の薬缶に原宿山車

青山東京都港区の地名

「鳶の薬缶」とは「薬缶平」と呼ばれた幕末の火消し・平五郎のこと。

本職は鳶職人で、頭がハゲていたので「薬缶」と綽名されたらしい。

原宿山車」とは、青山熊野神社の祭りで使われる山車のこと。

都座に過ぎたるものが二つあり 延寿太夫鶴屋南北

都座とは江戸にあった歌舞伎劇場の一つ。

「延寿太夫」とは、歌舞伎伴奏音楽として発展した浄瑠璃清元節」を創始した、初代・清元延寿太夫(1777生)のこと。

鶴屋南北」とは、「大南北」とも呼ばれる歌舞伎狂言作者、四代目・鶴屋南北(1755生)のこと。

一ノ関に過ぎたるものが二つあり 時の太鼓建部清庵

一関藩は、仙台藩から分知されて成立した小藩で、現在岩手県一関市にあたる。

「時の太鼓」とは、城下に時を告げるための太鼓のことだが、これは幕府から特別許可されたもので、鐘ではなく太鼓が設置されるのは非常に珍しかったらしい。

建部清庵」(1712生)は蘭学を学んだ名医で、『解体新書』で有名な杉田玄白の盟友であった。

八代に過ぎたるものが二つあり 天守屋根乞食の松

これは加藤家が改易されたあとに熊本藩に入った細川忠興の評らしい。

八代城は、熊本県八代市にあった城で、1622年に完成したもの地名から松江城」とも言う。

熊本藩本城はかの熊本城であり、一国に二城あるのは特例である

その気兼ねもあったのか、城は未完成放置されており、天守閣だけは壮麗だったというが、それも1672年落雷消失した。

乞食の松」とは、「浜のお茶屋」とも呼ばれる松浜軒庭園にあった松のことらしいが、詳細は不明

保土ヶ谷に過ぎたるものが二つあり 苅部清兵衛に花見寿司

保土ヶ谷とは、現在神奈川県横浜市にあった、東海道程ヶ谷宿のこと。

「苅部清兵衛」とは、その程ヶ谷宿本陣・名主・問屋を務めた苅部家の当主が名乗る名跡のことで、地元の名士として代々慕われたという。

花見寿司」は程ヶ谷宿名物で、現在でもその伝統を引き継ぐ店があるとか。

挙母には過ぎたる物が二つあり 大手御門に海老名三平

挙母とは、現在愛知県豊田市にあった小藩のこと。

挙母城は、三河尾張美濃信濃遠江伊勢近江が見えるということで七州城とも呼ばれ、「大手御門」とはその立派な正門を指している。

海老名三平」とは、挙母藩の剣術師範役に代々指名された海老名当主名跡で、落語家のことではない。

岸和田に過ぎたるものが二つあり だんじり祭りに千亀利のお城

岸和田とは、現在大阪府岸和田市にあたる岸和田藩のこと。

だんじり祭り」は全国でも有名なお祭りで、1703年から始まったという。

「千亀利のお城」とは岸和田城の別名で、五重の天守に総構えの立派なものだったが、天守閣1827年に焼失している。

鴨方に過ぎたるものが三つあり 拙斎 索我 宮の石橋

鴨方藩は備中の小藩で、現在岡山県浅口市にあたる。

「拙斎」とは、儒学者西山拙斎(1735生)のこと。

松平定信に「昌平坂学問所朱子学を教えるべき」と訴え、これが「寛政異学の禁」の原因となったという。

「索我」とは、絵師田中索我(1742生)のこと。

京都に出て絵を学び、仙洞御所の屏風を描いている。西山拙斎とは親友同士だった。

「宮の石橋」とは、鴨神社参道にある石橋のこと。

川ではなく道に掛かっていて、立体交差となっているのが特徴。

京極に過ぎたるものが三つあり にっかり茶壺に多賀越中

京極とは、讃岐丸亀藩主の京極家のこと。

「にっかり」とは、刀剣乱舞でも有名となった名刀「にっかり青江」のこと。

「茶壺」とは、二代目藩主京極高豊が好んで収集した、陶工野々村仁清の茶壺のこと。

多賀越中」とは、京極家の筆頭家老を代々務めた多賀当主名跡

三原には過ぎたるものが三つあり

三原とは、広島藩の支城である三原城があったところで、現在広島県三原市のこと。

その「過ぎたるもの」とは、まず石高のわりに壮麗な「三原城」。

三原城主であり広島藩筆頭家老であった浅野忠真(1618生)に、徳川家光の娘・月渓院が一目惚れし、駄々をこねて彼の側室に入ったために使用許可された「葵の御紋」。

日光東照宮工事にあたって、難所をわずか十日で仕上げて称賛を集めた家臣「鈴木方衛」の三つだそうな。

安中に過ぎたるものが三つあり

安中とは、現在群馬県安中市にあたる安中藩のこと。

「過ぎたるもの」とは、藩政を改革して名君と謳われた藩主の「板倉勝明(1809生)」。

現在も名所とされる「安中杉並木」。

第六代安中藩主板倉重形のときに作られたという、城下に時を知らせるための「安中様のお太鼓」(一ノ関だけの特別扱いだったはずでは…!?)。

桜田に過ぎたるものが二つあり 火ノ見半鐘に箕輪の重兵衛

桜田東京麻布のあたり。

「火ノ見半鐘」は江戸で最も高いと言われる火の見櫓があったから。

箕輪の重兵衛」は桜田町の名主を代々務めたという家の名跡

永坂に過ぎたるものが二つあり 岡の桜と更科蕎麦

永坂は現在東京麻布永坂町のこと。

「岡の桜」は、御番医師・岡仁庵の屋敷に植えられていた大きな枝垂れ桜のこと。

更科蕎麦」はそのまま更科そばのことで、蕎麦御三家の一つである蕎麦処・更科が永坂にあったことにちなむ。

保科には過ぎたるものが二つあり 表御門に森要蔵

保科とは上総国飯野藩主の保科家のこと。

「表御門」は、三大陣屋と呼ばれる飯野陣屋の門のこと(か?)。

「森要蔵」(1810生)は幕末の著名な剣豪で、保科家に剣術指南役として仕えていた。

この飯野藩保科家の江戸屋敷麻布網代にあった。

森要蔵は藩に召し抱えられたあと、近所の麻布永坂・岡仁庵の屋敷の一部を間借りして道場を構え、

更科そばの初代も、この屋敷に反物商として出入りしていたところ、

蕎麦を打つのが上手いということで藩主から蕎麦屋になることを勧められ、

同じく麻布永坂に店を出した、という縁がある。

高取に過ぎたるものが二つあり 山のお城に谷の昌平

奈良まれ儒学者森田節斎の言葉であり、高取とは現在奈良高取町にあたる高取藩のこと。

「山のお城」は高取城のこと。

日本国内では最大規模の山城で、その白漆喰が輝く様を「巽高取 雪かと見れば 雪ではござらぬ土佐の城」と評した言葉が残る。

「谷の昌平」とは、幕末儒学者・谷三山(1802生)のこと。

若年の頃に聴力を失うが、勉学に励んで大成し、高取藩に召し抱えられて尊王攘夷を説いた。

新城に過ぎたるものが二つあり 前の小川太田白雪

新城は、現在愛知県新城市にあたるが、「新城藩」は藩主安中藩に移封されたため1645年に消滅、代わって旗本の菅沼氏が入った。

「前の小川」とは、新城陣屋の堀へ水を引き入れるために作られた運河のことらしいが、現在存在しない。

太田白雪」(1661生)は、地元名家の生まれで、松尾芭蕉門下の俳人となった。

土浦に過ぎたるものが二つあり 刻の太鼓と関の鉄砲

土浦藩は、現在茨城県土浦市にあたる小藩。

「刻の太鼓」は、例によって城下に時を知らせるための太鼓のこと。

「関の鉄砲」とは、関之信が開いた「関流砲術」のことで、その宗家土浦藩の鉄砲指南を代々務めていた。

下総に過ぎたるものが二つあり 成田不動に久保木蟠龍

下総下総国のことで、現在千葉県北部茨城県西部のあたりを指す。

成田不動」とは、言わずと知れた成田山新勝寺のこと。

久保木蟠龍」とは、儒学者久保木清淵(1762生)のこと。

伊能忠敬と親交が深く、忠敬亡き後は大日本沿海輿地全図の完成を手伝った。

金沢に過ぎたるものが二つあり 刀正次 兜興里

金沢はもちろん現在石川県金沢市、加賀藩金沢城下のこと。

「正次」と「興里」はどちらも鍛冶師で、刀を打たせれば正次が、兜を拵えれば興里が優れていると言われていた。

そこで正次の刀で興里の兜を斬ったところ、兜は両断できなかったが欠け、刀には刃こぼれがなかったため、引き分けということになった。

しかし実のところ、興里は兜が割られないよう小細工をしており、それがなければ正次に負けていただろうと分かっていた。

悔しがった興里は刀を打つようになり、後に「長曽祢虎徹」として知られる名工となった、という伝承があり、歌舞伎演目になっている。

「正次」は志摩兵衛正次という名らしいが、こちらはよく分からない。

番町に過ぎたるものが二つあり 佐野の桜と塙検校

番町とは、東京都千代田区地名

佐野の桜」とは、旗本佐野政言の屋敷にあった見事な枝垂れ桜のこと。

「塙検校」は塙保己一(1746生)のことで、盲人として検校にまでなりながら、著名な国学者でもあった。

秋元に過ぎたるものが二つあり 無の字の槍と岩田彦助

秋元とは、現在埼玉県川越市にあたる川越藩主の秋元喬知のこと。

「無の字の槍」とは、藩祖・泰朝が家康から賜った十文字槍のことで、鞘に「無」の金文字があった。

岩田彦助」(1658生)は、川越藩家老を務めた儒学者のこと。

松山に過ぎたるものが二つあり 河原布衣徒に千秋の寺

松山は、現在愛媛県松山市にあたる伊予松山藩のこと。

河原布衣徒」は河原にいる乞食のことと思われるが、芸が上手かったことを言っているのか、よくわからない。

千秋の寺」はそのまま千秋寺のことで、昔は二十余棟からなる大伽藍があったが、戦火で失われたらしい。

谷田部に過ぎたるものが三つあり 不動並木広瀬周度 飯塚伊賀

谷田部は現在茨城県つくば市にあった谷田部藩のこと。

「不動並木」とは、谷田部藩主細川興昌(1604生)が植えたもので、沿道に二百本ほどの松が並んでいたというが、現在はない。

広瀬周度」(1782生)は、杉田玄白門下の蘭学医でありつつ、画家としても活躍したという人物

飯塚伊賀七」(1762生)は発明家で、自宅の向かいにある酒屋まで往復するからくり人形や、人力飛行機などを作っていたという。広瀬周度から蘭学知識を得ていたとも。

徳山に過ぎたるものが三つあり 藩主墓所と桜の馬場奈古里人

徳山は、長州藩支藩で、現在山口県周南市のあたりにあった徳山藩のこと。

藩主墓所」は、徳山毛利家の菩提寺である福山大成寺にある歴代当主墓所のこと。

「桜の馬場」とは、初代藩主毛利就隆によって作られた藩士の調馬場のことだが、数百本の桜が植えられて名所となった。

奈古里人」(1671生)は、万役山事件に伴う徳山藩改易の際に活躍し、徳山藩再興運動の中心となった人物

2018-09-19

水戸黄門かい暴君を美化したドラマ

徳川光圀

辻斬りを頻繁に行い、家臣もその場で斬り殺す。

御三家の見栄のために石高を多めに申告し、そのために領民に重税を課す。

さら大日本史編纂などという暴挙を始める。

これがために藩の財政さらに逼迫させただけに留まらず、水戸学を生み出し尊皇攘夷震源地となり桜田門外の変引き起こし

その精神薩長に受け継がれついには太平洋戦争引き起こし日本破滅へ進み、現在もその負の遺産を引きずっている。

水戸藩自体天狗党と諸生党に別れて内ゲバを繰り返して優秀な人材は悉く失われ、茨城県の発展は遅れに遅れ、現在最も魅力のない都道府県ワースト1位に甘んじている。

このような現在に至るまでなお悪影響しか残していない暴君暗君の極み徳川光圀

これを水戸黄門などと称して正義の味方のような扱いをするなど狂気の極みではないか

例えるならヒトラー正義ヒーローにしているようなものだ。(後世への悪影響という点ではヒトラーよりもタチが悪いかもしれない。現在右翼団体ルーツ徳川光圀だ。)

2018-09-10

anond:20180910173039

長期入院すると安くなる(=病院側が長期入院させないよう促している)ってのを

高齢者負担がより低くなるようにしている、流石高齢者ファーストの国」とか言い出す奴とかいそう

2017-06-05

続・山川出版日本史の何がすごいのか、さっぱり分からない

http://anond.hatelabo.jp/20170604204919

これの続き。(文字数制限にひっかかったので分割します)

  

三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)

1183(寿永2)年、義仲軍は京都に入り、食糧不足もあって狼藉を続けた。京都にとどまった後白河法皇後鳥羽天皇即位させ、寿永二年の宣旨頼朝東国での支配権を認めるとともに、義仲軍の乱暴ぶりを口実にして頼朝上京要請するなど、政治力の強化につとめた。しかし、頼朝東国支配を固めるために鎌倉を動かず、かわりに弟の範頼・義経上京し、1184(元暦元)年、二人は義仲を打ち破った。

義仲が京都乱暴狼藉を働いたという記述があるのは、意外にもこの教科書だけでした。

兵糧不足のまま進撃して首都占領しても、どうせ軍規が乱れて略奪しまくるぞというのは、日中戦争における南京事件南京大虐殺)のことを言いたいのかなと思いましたが、それは深読みのしすぎかもしれませんね。どうなんでしょう?

  

また、これは下記の引用部分になりますが、頼朝が初めて上京したタイミングがいつだったかを明記しているのは、この教科書だけだと思います

(この点はとりわけ山川の『詳説日本史』が最悪です。頼朝西国での平家追討の仕事をすべて弟の範頼・義経らにやらせ自分はその間ずっと鎌倉にひきこもって地盤を固めていたという基本的事項すらも把握できない書き方がされているんです。)

頼朝挙兵以来、北条氏三浦氏などの東国武士たちと主従関係を結んで、彼らを御家人として組織した。そして1180(治承4)年、御家人の統率と軍事警察担当する侍所を設けて、有力御家人和田義盛別当長官)に据えた。さらに1184(元暦元)年、一般政務をつかさどる公文所(のち政所)と問注所を開設し、実務に優れた下級官人らを側近にして職務を分担させるなど、支配機構の整備を進めた。

頼朝後白河法皇要請を受け、範頼と義経平家追討を命じ、1185(文治元)年、長門壇ノ浦平氏を滅亡させた。後白河法皇頼朝権力拡大を恐れて義経を重用し、頼朝の追討を命じたが失敗した。逆に頼朝は、親鎌倉派の公卿九条兼実藤原兼実)らを朝廷重要政務担当する議奏につかせ、反鎌倉派の貴族追放し、義経の捜索を名目に国ごとに地頭を置くことを認めさせた。さらに1189(文治5)年、頼朝義経をかくまったことを口実に藤原秀衡の子の泰衡を攻め、奥州藤原氏を滅ぼした。こうして頼朝東国西国の多数の武士御家人として組織しながら、主に東国支配確立していった。

1190(建久元)年、頼朝挙兵後はじめて京都に入り、右近大将に任命され、後白河法皇没後の1192(建久3)年には、法皇の反対で就任できなかった征夷大将軍に任命され、名実ともに鎌倉幕府が成立した。」

当然ながら『詳説日本史』にも、侍所政所問注所地頭というキーワードは出てきますしかし、治承・寿永の乱とは別項に記述されているため、時系列が分かりづらくなっています

それに比べて、この教科書歴史の流れの中にキーワードを配置しています。だから時系列に即してこれらの言葉意味理解することができるはずです。

  

結びが「名実ともに鎌倉幕府が成立した」という記述になっているのも、味わい深いです。

鎌倉幕府の成立が何年かという論争を垣間見ることができます名目的には1192年に幕府が成立したと言えるが、実質的にはそれ以前から幕府政治機構ができあがっていたというニュアンスを含ませているのでしょう。

  

  

  

あとは、上記引用中の「義経の捜索を名目に国ごとに地頭を置くことを認めさせた」という記述が最高にクールです。

一般には1185年、義経の捜索を名目にして守護地頭が設置されたとされていますし、国ごとに置かれた役職地頭ではなく守護だと暗記している人が多いんじゃないでしょうか?

例えば山川の『詳説日本史』はそうなっています。それによると、頼朝は1185年に「諸国には守護を、荘園公領には地頭を任命する権利」を獲得したとされています守護は「おもに東国出身の有力御家人から選ばれて「原則として各国に一人ずつ」任命され、「大犯三箇条などの職務を任とし」て国内御家人を指揮統率し、とくに東国では在庁官人支配することで「地方行政官としての役割も果たし」ました。いっぽう、地頭は「御家人のなかから任命され、任務年貢徴収・納入と土地官吏および治安維持」です。「頼朝は主人として御家人に対し、おもに地頭に任命することによって先祖伝来の所領の支配保障したり(本領安堵)、新たな領地を与えたりした(新恩給与)」わけですが、このことが御恩と奉公関係となって封建制度の基礎となりました。

  

ところが、三省堂の『日本史B 改訂版』(日B 015)によると、ここの説明がこれとまったく異なります。私が先に引用した項では、1185年の出来事として守護の設置には言及せず、地頭の設置だけが記述されていますしかもその"地頭"は国ごとに置かれたものだとされているのです。

私は最初にこれを読んだとき、わけがからなくて混乱しました。それでがんばって自力で調べてみて(独学なので苦労したナァ)ようやく理解できたのですが、1185年の文治の勅許守護地頭が置かれたとする『吾妻鏡』の記述には疑いがあり、実はこれがかつて学者の間でも論争になったテーマだったらしいのです。

1960年石母田正が新説を発表したのですが、おおざっぱに言うと、新説では、この時点で置かれたもの守護地頭ではなく、地頭(国地頭)だったとしています。それはわれわれが普通一般に知っている地頭(荘郷地頭)とは異なり、一国を統括する強大な権限を持つ存在です。この国地頭はすぐに廃止され消滅しましたが、守護前身となりました。

三省堂教科書は、次項でそのことが説明されています頼朝がはじめは国ごとに"地頭"を派遣して荘園国衙領のいずれからも兵糧米を徴収させていたこと、そのやり方がひどすぎたから反発を招いて、以後は"地頭"に代わるものとして守護を置いた、という記述になっています。またこれに続いて、頼朝は「荘郷地頭と呼ばれる地頭を任命し」、平氏没官領や謀反人の所領跡で「年貢公事徴収治安維持に当たらせた」としています

このように、三省堂教科書では、「国地頭」と「荘郷地頭」をはっきりと区別しているのです。

  

実教出版もこの新説を採用していますこちらも合わせて読んでおくと、国地頭のことが大変よく分かります東京出版は本文の記述が旧説に拠っていますけど、欄外では国地頭が惣追捕使とならび、守護前身として存在していた話をちょこっと説明しています。これらの教科書は「国地頭」論争の成果を取り入れており、学問的に誠実だと思います

それに対して山川の『詳説日本史』は旧説を採用し、1185年に守護地頭の設置が認められたとする断定的な記述になっています。これが他の教科書とのあいだに無用矛盾を生じさせているのです。私と同じようにこの点につまづいて、困惑してしまった高校生が少なからずいるんじゃないでしょうか。

  

なお、山川参考書『詳説日本史研究』にもこの新説の紹介はありません。同社『日本史B用語集』には「国地頭」という用語掲載されていて、そこでは一応説明がされているんですが、あたかも国地頭が荘郷地頭前身だったと思わせるような記述です。

地頭(じとう)⑪:1185年、頼朝要請後白河法皇諸国公領荘園地頭を設置することを認めた。当初は1国単位荘園公領支配する国地頭を設置したが、まもなく平家一族の所領として没収された平家没官領と謀反人跡地に限定した荘郷地頭となった。しかし、公家寺社の強い反対で、一時縮小、承久の乱後に全国化した。任務土地管理年貢・兵糧米の徴収治安維持など。

地頭⑤ 荘郷地頭

  

山川出版日本史B用語集』より

ですが三省堂実教出版東京書籍教科書によると、国地頭はむしろ守護へと発展的解消を遂げたという記述なんですから、『日本史B用語集』のこの説明とはやはり若干の矛盾が生じています

「国地頭」を教科書に載せている上記の主要3社の文脈に従うなら、この用語独立の項目として取り扱うか、せめて「地頭」の項目じゃなく「守護」の項目にいれて取り扱うべきじゃないでしょうか。

  

(追記 これはインターネット上の情報なので私は未確認ですが、現在は『詳説日本史』にも国地頭掲載されているそうです。近年改訂されたんでしょうか。

予防線として言っておくと、私は高校日本史Bを履修しなかったし、大学歴史学勉強したわけではありません。高校時代文転して受験するかと生半可に考えていて(結局やめたけどね)、興味本位教科書を読んでみただけの素人です。

さいしょの方でも書いたとおり最新版教科書を持ってません。はてブでバズっていてびっくりしましたが、このエントリ専門家レベルのものとして受けとるのは、恥ずかしいのでやめてください。

再追記。id:HRYKtbykさん、確認をしてくださり感謝。)

  

  

  

(追記2

複数教科書を読み比べすることで、『詳説日本史』を読むだけでは見えないポイントが浮かび上がってきます

『詳説日本史』では、前九年合戦後三年合戦のところで、「これらの戦いを通じて源氏東国武士団との主従関係を強め、武家棟梁としての地位を固めていった」とあります。これが後の頼朝挙兵につながるわけですが、それは時代を経てからのことだから教科書のページが離れすぎていて、この関連が把握しづらくなっています

ここで例えば山川出版社新日本史B 改訂版』(日B 018)のような他の教科書と読み比べてみると、『詳説日本史』がこの簡潔な一文を通して伝えたかったことを理解することができるのです。(上述参照)

  

つぎは例えば、貫高制・石高制を見てみましょう。

『詳説日本史』によると、戦国大名性格は次のように説明されています戦国大名は「新たに征服した土地などで検地をしばしばおこなっ」て、それにより「農民に対する直接支配」を強化しました。そして国人地侍を取り込むため、貫高制を導入しました。これは戦国大名が彼らを「貫高という基準統一的に把握」して軍役を課す制度でした。それでここからすこし時代下り、別のページで豊臣秀吉太閤検地説明しています太閤検地により石高制が確立しました。それは「荘園制のもとで一つの土地に何人もの権利が重なりあっていた状態を整理」し、「一地一作人」を原則とするものです。農民は「自分田畑所有権を法的に認められることになった」わけです。

このような記述だけでも表層的な理解はできると思いますが、実教出版日本史B 新訂版』(日B 014)は、貫高制について「荘園の複雑な土地制度は貫高に組み込まれ大名統一的な国内政治を推進」するものとしています。『詳説日本史』ではせいぜい石高制と荘園制の関係しかからないでしょうが、本書はこのように貫高制と荘園制の関係を明示しているのです。

この視点を最もわかりやす記述しているのが、三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)です。本書は貫高制、石高制、荘園制の全部を一つの項目に入れて記述しています。それによると、秀吉太閤検地を行い、「戦国大名の貫高制にかわって、それを発展させて全国に広げた石高制」を導入、その結果「荘園制を完全に崩壊させ」ました。このポイントを把握しておけば、中世から近世への社会の変化を、土地一元的支配確立荘園制の衰退・消滅という視点で見ることができます。本書の特徴は、貫高制・石高制をともにこの視点から語っていることと、しかもそれが荘園制を「完全に崩壊させ」たと言い切っていることです。

ちなみに、東京書籍日本史B』(日B 004)では、石高制を「近世封建制体制原理」と書いています。これがまったく新しい制度であることを強調しつつ、近世という言葉を使ってその射程を江戸時代にまで広げているのです。)

2016-12-17

[]

今日豊田市結構な車出ですこと。

豊田市郷土資料館に行ってきましたわ。

川上から寄贈された土蔵が敷地の対角に二つも移設されています

カマド跡の野外展示はプラスチックカバーに大量の水滴が付着して

砂漠で水を得る方法状態でした。

民俗資料館煙突付きアイロン(炭を入れます)が可愛らしいです。

変わったところでは戦艦の36cm砲弾が置いてありました。

常設展示はとても綺麗に展示されていて、

石器時代から江戸時代までよくまとまった展示物がありました。

酒呑ジュリン遺跡のお名前から同族匂いを感じてしまいました。

展示されている石棒が、火山岩の岩脈を首元に使ったもので、

はじめてみる形状でしたわ。

でも、わたくしのような淑女はじっくり見てはいけませんわ。

自慢の収蔵品らしき大塚古墳の装飾付須恵器は、

壷の上に四つの壷が寄生した形状で、丸みが連続する様子からは、

縄文時代土偶に通じるものを感じました。

同様に豊穣への祈りが込められていたのでしょうか?

江戸時代豊田市は小規模な大名旗本などに分割統治されていたそうです。

その中では大きな尾張藩家老の寺部渡辺家(徳川十六将の渡辺守綱が祖)が一万四千石で、

大名挙母内藤家が一万石(のちに一万五千石)と

地位石高が逆転した関係にあったようで、

近所づきあいが多少ぎくしゃくしたかもしれませんわね。

はてなのみなさんは好きそうですけど。

特別展には昔の輸送道具が置かれていました。

藁や柳、竹という素材から様々な道具を作り出す昔の人の手技には感心しきりです。

わたくしは鰭で箸より重いものを持ったことがありませんので・・・・・・おほほほ。

2016-06-28

学校テストはみんなが同じテストを受けてる

そんな区別も付かないバカなのか

石高卒だけあるよ

てかなんで大学行かなかったの?公認会計士とか税理士資格取れないの?

頭悪いから?

他人パスワード盗んでハッカー気取りか?

2016-06-23

[]23(完):増田の眺望

 北方異民族を追い払ったことで増田島に泰平の世が訪れる。

共通の敵と戦ったことで各家にくすぶっていた敵愾心は冷却された。

それ以上に効果的だったのは増田家(八)が他の三家に送った軍目付の存在だ。

いざとなれば暗殺されるだけの存在みえて、彼らには赴任先の軍を「まじめに訓練する権限」が与えられていた。

増田家(五)の強硬な反対を押し切って付与されたこの権限によって、各家の軍隊雑魚ナメクジ化した。

 戦争を起こそうとしても雑魚ナメクジ同士のにゅるにゅるしたナメクジ試合になると悟って、

次世代当主たちは軍事面での野望を抱かなくなった。一方で海外から侵略者増田家(八)の戦略を洗練させた戦い方で、にゅるにゅると迎撃される事になった。

 最終的に増田島は以下の形に落ち着いた。

アルファマスダ家当主領国石高
増田家(八)大便公方(八)(六)半国(七)(九)560万石

 増田島の統一に中心的な役割を果たした増田家(八)は、石高にして全体の半分近くを領する。

増田島の中央位置するのをいいことに島中から名産品をかき集め、みやこの人間を飽食させる島最大の人肛を誇るうんこ生産国でもある。

 旧増田領(九)に運河建設して南と北の交流活性化平和の中でのさらなる発展を目指している。

 当主意向公衆便所の整備が熱心に進められ、多数抱える人口密集地が衛生的なことは海外商人にも感心されている。

 増田匿兵衛は自分戦争向きの人材だとして引退し、増田家(四)から預けられた増田五郎などの育成にあたっている。

 増田騎馬軍団は馬の機動力を活かして各地をむすぶ伝馬に新しい役目を発見した。

ベータマスダ家当主軍目付領国石高
増田家(四)鎮寇将軍(鎮北将軍あらため)増田出羽守(四)(一)(二)北半国(三)290万石

 増田家(四)は連合軍から制圧した旧増田領(一)を預けられる代わりに、(二)南半国を増田家(五)に、(六)半国を増田家(八)に割譲した。

ただし、海上の交易利権はより広く得ており、増田家(四)の廻船は大洋側でも盛んに活動している。

 当主北方異民族の来寇にそなえる意味公式に鎮寇将軍の名をたまわった。

狄人には和戦両様で対応し、彼らとの交易や旧増田領(三)を中心とする金山銀山の開発で豪華絢爛な文化を興した。

金製の馬糞ウニ模型など「出来は素晴らしいけど、なんで作ったの?」と言われる日々である

 増田家(八)はこの芸術品への対抗に金の雲細工を作らせた。後の金のうんこである

ガンママスダ家当主軍目付領国石高
増田家(五)東上管領増田金吾(五)(二)南半国(六)半国290万石

 まったく動かずに北と西から半国ずつ奪った増田家(五)は増田島全体の穀倉となった。

収穫期が訪れるたびに大量の穀物が北や西に送られ、ここでの穀物の出来が相場に大きな影響をあたえた。

 穀物の形で西に流出する栄養素を補うため、漁業によって得た魚を肥料にする方法が開発された。

その魚の栄養増田家(五)の穀物を食べた人々のうんこの形で海に流出し、潮に乗ったものであり、

ここに穀物うんこと魚(とプランクトン)を媒体とした元素の循環が完成した。

 また、受け入れたカラトラヴァ騎士団との交流増田家(五)を海の果ての国々との取り次ぎ役にした。

彼らは居住制限されながらも、布教と皮膚病を治す薬草の探査にあたっている。

 緯度が異なる旧増田領(二)の半分を手に入れたことは増田家を気象変動に強くして、飢饉の防止に貢献した。

なお、石高増田家(四)と互角ながら、鉱山商業収入では大差があり、文化的には他からゆっくりと遅れて行った。

デルタマスダ家当主軍目付領国石高
増田家(十)西国大宰相増田大学(十)(士)210万石

 増田家(十)は他の増田家に比べて独立性が低く、増田家(八)から干渉を強く受けている。

しかし、増田家(四)(五)の思惑もあって、第四の増田家として存在できている。

二位から四位の三家を足せば、石高では増田家(八)を上回るのである

 増田家(八)も西の外様大名を削るよりも、強い藩屏に育てる選択をした。

また、大陸との取り次ぎ役には歴史的増田家(十)が適任であった。

 歴代当主は気性のあらい増田家(士)の武士制御するのに苦労する。連中の雑魚ナメクジ化が増田大学最大の功績であろう。

その他

大名格の増田旗本格の増田商家になった増田消滅(吸収された)増田
(三)(九)(二)(士)(七)(一)(六)


 役目を終えた忍者たちは、走狗として煮られない自衛のために、集まって一つの村を作った。

文化背景の異なる彼らを結びつける手段として、俳句が盛んに利用された。

俳句でなくても「決まりきった単語」を用いて100文字以内で伝えるのが作法であった。

 より荒っぽい忍者コミュニケーション手裏剣を投げつけあった。

帰農した忍者が増えてから野良仕事に使う手斧活躍することもあったという。

 また、村内の政治的対立回避するためカラトラヴァ騎士団からもらった異国の犬が名目的な村長に推戴された。

村民独身おっさんばっかりだったので、将来性には乏しかった。

 ひとつの戦乱の果てに増田家は以上のように整理されたが、勝ち残った増田家が次々と分家増田家をつくったことは言うまでもない。世に増田の種は尽きまじ。

 なぜならこの世界未来のマースだ。

 そじゃーな!

前回

http://anond.hatelabo.jp/20160622000404

2016-06-20

[]20:増田の大望

 最後まで主体性をたもって生き残った二つの増田家。

増田典厩の尽力により、その当主会談が旧増田領(六)で開催される運びとなった。

 二人はそれぞれ供をひとりだけ連れて、竹林にしつらえられた厠の中へ入る。

 帯を解くと、コの字型に並べられた便器にむきあう形で腰掛けた。

「見事な海綿じゃのう」

 増田匿兵衛があたりさわりなく厠の設備を褒めた。

増田家(四)が用意した厠には天窓から竹林を通した光が入り、ほのかに緑色づいて見えた。風も緑に香る。

尻の下から聞こえるせせらぎは大きすぎず小さすぎず、意識リラックスさせてくれる。

自然石のモザイクヘクソカズライヌノフグリなど、野草の絵が壁に描かれ、密室でありながら開放感を演出していた。

 遙か西から伝わった公共トイレ文化増田島で洗練を極めた結果うまれた「便道」、その粋を凝らした厠と言えた。

 便道は権力者にとって便利であり、内密の話をするため多用された。

帯をほどいて便器にまたがるという無防備状態晒し合うことで親密さを高めることもできる。

出シニケーションである

 実際、漏らしても粗相にならずに済む増田家(八)当主は落ち着いた様子だった。

まずは互いの大勝利を称え合う。繊維製品交易を通して二人の間には面識があった。

思えば最初から国境が接していた二家が生き残ったのも不思議めぐり合わせである

 増田家(四)当主が連れ込んだ小姓の増田五郎は固唾を呑んで交渉を見守っていた。

どちらも淡々とした様子で、天下の未来を決める事柄に触れていく。

増田中弐殿はお忙しいようだ」と一方が言えば、

他方は「いきなり領国が三倍にも増えて大変でしょう」と皮肉った。

「三倍……?」

増田五郎は首を傾げた。国数でも石高でも彼らの領地は三倍よりも四倍の増加と言う方がふさわしいはずだ。

 しかし、増田家(四)の当主は小姓にしかからないレベルで表情を強ばらせていた。

「前から提示した条件を受け入れていただけないのなら、代わりに増田領(一)の平定は我らが引き受けましょう」

 増田匿兵衛は膝をつめて核心に触れた。

「……ッ」

 内外に秘密にしていたこであるが、増田家(四)は未だに増田島最北部を平定できていなかった。

 増田家(一)の遺臣が抵抗しているわけではない。

実はかつて傭兵に呼ばれた北方異民族が混乱につけ込んで大量に流入し、容易には討滅できない状況になっているのだ。

 激戦と領土の急速な拡大で疲弊した増田家(四)に、この敵の早期撃破は手に余った。

実は彼らは仮装敵以上に講和必要としていたのだ。

 だが、増田家(八)はおおよその真実を突き止めていた。なんのことはない。

カラトラヴァ騎士団国外情報源と彼らを繋げたのである

残念ながら世界的な視野もつことで、増田家(四)は遅れをとっていた。

 とはいえ、増田家(四)当主一筋縄でいく男ではない。

「では……お願いする」

「えっ!?

 ぶりぶりという謎の音と一緒に、素っ頓狂な声を増田家(八)当主があげた。

内情を知っているとの脅しを素直に受け入れられるとは思いもしなかった。

 いやな予感がした増田匿兵衛は尋ねた。

北方異民族の数はいかほどになるのです?」

「十万じゃ」

 増田匿兵衛も漏らした。

 とりあえず持ち帰ると思ったのだが、増田家(八)当主はその場で自分たち言葉責任もつことに決した。

「これからもよろしくお頼みもうす、ちんぽこ将軍殿」

軍師と連れだって、すっきりした顔で厠から出て行く。

本当にこれで良かったのか、増田家(四)の当主が悩む番になった。

 彼はつぶやいた。

「それにしても、本当に致すとはな……」

「便道」は排泄の形をとるものであって、実際に排泄をすることはイレギュラーに近い。

あるいは小だけで済ますものだ。

だが、敵の首脳は手慣れた美しい所作で海綿や和紙を使って行った。

「まさしく「大物」にございますね」

 増田五郎は緊張でカラカラになった口をやっと開いた。当主ちょっと笑うといきんだ。

「ふんっ!」

 彼の下から聞こえるせせらぎが変化した。最強の武将うんこでもって自らが流されないと示唆したのである

聡明な小姓は主君意図理解した。

「お美事にございます

 だが、

「……切れた」

前回

http://anond.hatelabo.jp/20160619002153

次回

http://anond.hatelabo.jp/20160621021245

2016-05-30

大坂城落ちた日本死ね!!!

何なんだよ日本

真田日本一の兵じゃねーのかよ。

日見事に大坂城落ちたわ。

どうすんだよ私活躍出来ねーじゃねーか。

金バラまいて浪人集めて全国に激飛ばして豊臣の世を復活させてやるって言ってるのに日本は何が不満なんだ?

何が元和偃武だよクソ。

子供産んだはいいけど希望通りに天下継がせるのほぼ無理だからwって言ってて子供産むやつなんかいねーよ。

内通してもいいし兄弟で別の陣営付くのもどうでもいいか軍勢増やせよ。

大仏で何百億両無駄に使ってんだよ。

梵鐘とかどうでもいいか城砦作れよ。

有名な坊さんに払う金あるなら城砦作れよ。

どうすんだよ自害しなくちゃならねーだろ。

ふざけんな日本

軍勢増やせないなら石高200万石にしろよ。

軍勢も増やせないし石高も65万石しかないけど徳川なんとかしたいんだよねーってそんなムシのいい話あるかよボケ

大名軍勢集めないでどうすんだよ。

金があれば戦うってやつがゴマンといるんだから取り敢えず金出すか出陣にかかる費用全てを無償しろよ。

内通したり徳川手紙送ってるやつ見繕って家臣団を半分位クビにすりゃ財源作れるだろ。

まじいい加減にしろ日本

2016-03-13

私がソシャゲを心底嫌う理由

モバゲやらGREEやらの全盛期時代から、私はソシャゲというものが大嫌いだった。

しかし、それが何故なのか、言葉にしようとしてもただただ「嫌悪感」という感情論しか片付けられなかった。

さて、某ソシャゲ大炎上し、課金額がゲーム通貨として返還され、その「石高」を巡って祭りが起きたのが2/25のことだ。

あれから既に2週間が経つ。

あの祭りを契機に、改めて考えなおすことができた。

そして、なんとか、この嫌悪感説明することが出来るようになりはじめた。

きっと、私と同様にソシャゲが嫌いな人達も、同じような理由から嫌悪感を持っているのだと信じてこれを書く。

 

第一に、ソシャゲは「ゲームとして面白くない」からだ。

早速感情論か、とは思わないでいただきたい。

この「面白くない」は、客観的事実としての「面白くない」だ。

 

ゲームを「ゲームたらしめている」要素が何か、考えたことはあるだろうか。

ゲームとは、限られた選択肢の中で繰り返される絶え間ない自己決定である

という言葉は私がTRPGGMとなるべく研究をしていたとき出会ったものだが、まさに的を射た一文だと思う。

 

例えば人生ゲームを考えて欲しい。友人たちと遊ぶのは確かに楽しかった。

しかし、それは本当に「ゲームとして」楽しかっただろうか。

残念ながら、人生ゲーム自己決定の介入する機会はほんの数回しか訪れない。ゲーム展開の99.9%はルーレットで決まる。

人生「ゲーム」と銘打っておきながら、アレはゲームではない。

 

ここで誤解しないで頂きたいのは、「運ゲークソゲー」ではないということだ。

綿密な戦略が求められるストラテジーゲームですら、最終的に攻撃が直撃するか否かは乱数に委ねられる。

しかし、私たちは「集中」とか武器補正で、その確率に影響を与えることができる。これは紛れも無くプレイヤー自己決定によるものだ。

人生ゲームも、例えば「1ゲーム10回までルーレットを振り直せる」みたいなルールを足せば、幾分かマシなゲームになるだろう。

仮に全力を尽くしたにも関わらず攻撃がスカったとしても、「命中率を上げようとした」という自己決定自体は確かにそこに存在している。

 

自分の決定が、ゲーム世界にあらゆる影響を与える。これがゲームゲームたらしめている要素だ。

さて、ソシャゲに、そのような自己決定を促すメカニズムが十分備わっているといえるだろうか。

 

典型的ソシャゲには、「ガチャパーティ編成、ちょっとしたゲームらしさ」が備わっている。

ちょっとしたゲームらしさ、というのは、パズドラやらモンストやらにあるパズルらしい要素のことだ。

左下で3コンボを確定させて・・・とか、ダメージ壁を回避するためにこの角度で・・・という作業は、確かに紛れもなく自己決定連続だ。これは「ゲームしている」と認めざるをえない。(裏を返せば、ただ戦闘結果を待つだけの艦これソシャゲはその時点で論外だ)

だが、大勢を決するのはあくまパーティ編成であり、もっと言ってしまえばガチャ運・ドロップである

どれだけ優れた操作ができたとしても、思慮深いパーティ編成を行えたとしても、初期メンバーだけでは一瞬で壁にぶち当たる。

そんな時の解決法は唯一つ。ガチャを引くこと。

これのどこが自己決定なのか?

で、そのちょこっと残ったカスみたいなゲームらしい要素に、何万もつぎ込む価値があるのか?

マクロを組んで放置していればいずれ突破できるような、人間の知性をかけらも必要としない「それ」は、本当に価値のあるゲームか?

 

こう言うと、間違いなくこう反論される。

「何に価値を見出すかは人それぞれ、そこにケチをつけるのはナンセンス」と。

 

ここで、ソシャゲを嫌うふたつ目の理由を示そう。ソシャゲの氾濫はゲーム業界にとって不健全からだ。

悪貨は良貨を駆逐する」という言葉がある。

そこらのソシャゲと最新の超美麗オープンワールドゲーを比較して、後者の方が作るのが簡単だと思う人はいないだろう。

しかし、現実には、超美麗ゲームではなく、前者のような極めて低い技術力・アイデアで作られたゲームに、多額の課金という不当に高い評価が与えられている。

今の市場では、本気の一作をつくり上げるよりもソシャゲに流れる方がはるか安全なのだ

ガチャパーティ編成、ちょっとしたゲームらしさ」という既存システムでがっぽり儲けられるなら、新しい技術システムは生まれない。

それどころか、数十年にわたって蓄積されてきた技術次世代クリエイターに引き継がれず、霧散してしまう可能性すらある。

数年後か数十年後か、もしくは意外とあっさり数カ月後になるかわからないが、とにかくソシャゲブームが終わった時に残っているのは荒廃した大地にほかならない。

これは、パブリッシャー問題というよりは私達ゲーマー問題だ。

 

さて、予め断っておくと、以下は私自身の哲学から主観的な内容だ。しかし、共感は得られるだろうから書いておく。

最後理由

ゲーム世界は我々の世界独立しているべきものだ。

ゲームが私達の金銭状況や感情に影響を与えることがあっても、現実世界の状況がゲームに影響を与えることがあってはならない。

なぜなら、現実世界現象ゲーム世界に影響を与えたその時点で、ゲーム世界現実世界の一部として取り込まれ消滅するからだ。

肉体的・経済的社会的にどれほど劣った人間でも、ルールの下で平等を再配分され、互角に戦うことが出来る、それがゲームというものだったはずだ。

私達が真にゲームに求めているのは、「ゲーム世界内で」可能な限りの自己決定を尽くすことである

 

 

それでいいのかゲーマーよ。我々はもう一度考え直すべきだ。

今の状況は、ゲーム進化の結果とは到底言えない。紛れも無く、プレイヤーを含めたゲームに関わる人々全員の怠慢が産んだ惨状である

ゲームは新しい芸術の形だと信じていた、熱量に溢れた彼らはどこへ行ってしまったのか。

クリエイターになったのは、「自分の信じる最高に面白いゲーム」を沢山の人に遊んでもらうためではないのか。

別に利益度外視無償提供しろと言っているわけではない。露骨に集金に走るのをやめて欲しいのだ。

売れない画家生活に窮して空き缶を拾い集めているようで、見ていて本当に痛々しいから

 

 

わたしのこと、愛してる?

2016-03-04

日本人のここがおかしいよ

在日外国人だが、日本人のここがおかしいと思うことを書く。

自慢野郎にやたら厳しい。めためた厳しい。

冷ややかな目線というのは分かる。分かる。つまらないし、自分が下げられた感じが出るから

こいつ子供だなーという冷ややかな目線は悪くない。その通りだ。

だが

しか社会の敵扱いする感があるよね。調子に乗っていた堀江貴文に対する憎悪のような。

あいつぶっ殺さないと気がすまない恐ろしさのような何か.......

存在自体許せない。外敵を見つけた蟻や蜂状態。臨戦態勢になるよ。

モロ直球な自慢野郎を許容出来る余裕が無いよ。

からそういうのを皆過敏に反応しているから、自分アピールが物凄く宮廷作法的な雅さだよ。

この前のオリエンタルラジオのパーフェクトヒューマンあっちゃんとしんごの自己PR方法は流石だと思った。

優れたダンスが出来たと自慢する代わりに、「スタッフの皆のお陰で素晴らしいダンスが出来ました」とPRと来たもんだ。

石高学歴の人たちは自慢の方法も、素晴らしいとおもったものだ。

フェイスブックを見れば俺は私はリア充です。ツイッターを見れば自分はとても素晴らしい人生を送っているか

謙りながらアピールに専念している。その点を突っ込んでも、自慢をしている気はないという。

でもUPする写真の内容や行動そのものが自慢だよね。発言は謙りながら、写真の内容はリア充で謙っていない。

自慢感を消すために、言葉では自己否定に走る。自分はこんなに馬鹿なんっすよーって言ったりね。

本音をいう人が少ない。

とても奇妙で高度に文明化したダンスに見える。

この辺りの宮廷的な振る舞いがとても、滑稽だし結局のところ自慢したいだろーって見え透いていて

それは許容されているのか、気が付かれていないのか、攻撃されることはまずない。

もっと素直に自慢すればいいし、それを許容すればいいのにと思う。

日本人ここがへんだよ。でした。

日本人でも同じく変だと思っていた人はいる?

2014-07-22

http://anond.hatelabo.jp/20140722040841

ちゃっちゃか移民入れて

フリーター移民ガチバトルで人件費下げる方向で

国がどうにかする方向に動いてるわけないじゃないですかー、面白くない冗談だなー

移民ますよー、間違いなく来ますよー

まぁ、治安悪くなるだろうけど

高級マンション住んどけば問題ないんで

フリータースラムに住む時代になるべきだと思うんですよ

まぁ、現状そっち向かってるし、この先日本リソースをどう振り絞っても

高齢フリーターフリーライドさせる余裕なんてないし

どう転んでもそうなるんですけどねー

だって世論云々じゃなくてカネがないっていうシンプル事情ですからネー

社会なんてとっくの昔に闇に飲まれてて

個人レベルでどこまでのラインが逃げ切れるかって時代に暢気ですね

石高フリーター、あらゆる意味で手遅れ

お疲れさんでした来世にご期待ください

そんじゃーね

2014-05-06

http://anond.hatelabo.jp/20140506073134

同意

日本は「養子に出して不幸になってたらいけない」みたいな

行政の都合的なものが強すぎる。

アメリカだと、女性独身でも財産収入があれば

養子取れるんだよね。

日本もそれに近いくらいになればいいのにな。

 

 

ちなみに江戸時代の話してる人がいるけど、

養子にしてたのは

そもそも跡継ぎがいないと石高取り上げ・お家断絶になるから「やむなく」でしょうが

2014-03-29

なぜ青森県は本土最貧なのか?

地理ネタ

仕事柄、各県の経済指標などを横並び比較しているが、それを見れば

北関東東海北陸は豊かだなあ」

福岡以外の九州四国は貧しいなあ」「さら東北・・・」みたいな差異がくっきりと見えてくる。

東京人は「富山山口青森、みな経済状況はどんぐりの背比べで貧しいんでしょ?」と思っちゃうんだろうが、

富山は格段に豊かで、青森は格段に貧しい。

東京からの距離、という観点なら、青森並に「鹿児島」「北海道」辺りが貧しくても不思議じゃないのだが、

実態青森が(沖縄を除けば)本土最貧だ。

で、「青森が最貧になった理由」の自分なりの推測結果を備忘録メモしておく。

1.東北各県が西日本よりも貧しい理由

  ・瀬戸内海の内洋海運が利用できた西日本は、外洋海運しか利用できない東北より、江戸時代には物流的に有利だった

  ・西日本二毛作が可能。裏作は石高カウントされない。

   だから西日本の諸藩は、表面的な石高よりも、実態は立地だった

   (あと東北だと冷害の影響もある、という意見もあるが、逆に西日本台風の影響がある)

2.その東北の中でも、青森岩手より貧しい理由

  ・たぶん、戦前だと岩手青森の貧しさは同レベルだったと思う。

  ・それがここまで差が付いたのは、「東北新幹線の拠点が、長らく盛岡だった」ということが大きい。

   東北新幹線盛岡まりになったことで、多くの企業が「北東北支店」を秋田でも青森でもなく、盛岡に設置した。

3.東北新幹線が来なかった秋田より、青森が貧しい理由

  ・これは「過去遺産の差」だろう。

   秋田小坂鉱山米代川[能代]の林業秋田油田などの基礎産業豊富だった。

   たぶん、戦前において、北東北で一番豊かだったのは秋田では?[今は岩手の方が豊かだが]

4.東京よりも遠いはずの北海道より、青森が貧しい理由

  ・これは「炭鉱の有無」だろう。

   高度成長まで、北海道経済炭鉱で支えられていたと言っても過言じゃない。

で、秋田北海道みたいに「50~100年前に産業が栄えた」場所というのは、その「正のレガシー」を数世代にわたって継承していけるものである

例えば、炭鉱町に対して、各種のサービス業が付随して発生する。小売も増えるし、公務員数も増える。

また、現役時代炭鉱勤務した人は、リタイア後も炭鉱町年金生活する。

となると、そういう人へのサービス業は、縮小しながらも続いていく。

青森の不幸は、縄文時代は兎も角、近世から現代に至るまで、「なんらかの産業で栄えた経験がない」ことである

2014-03-27

海の優位性

今は亡き軍事評論家江畑謙介氏は、

西側冷戦に勝利した一因は、西側エリア交易に海上ルート・水運を利用できて効率的だったのに対して、

 東側大陸国家の集合体で、陸路しか使えずに物流効率が非効率から」と看破していた。

そう考えると、西洋においてイギリスが、東洋において日本が、域内でもいち早く経済発展した一因に、

「周囲を海に囲まれ、海上輸送に有利だったから」という理由もありそうな気がする。

また、江戸時代において、各藩の「公式石高」と比較して、西日本の諸藩は「実質的にはもっと豊か」だったらしい。

これは、瀬戸内海という内海海運を利用できた西日本の方が、外洋海運しか使えない東日本より、当時の海運技術の制約下では

より海運ができ、経済成長できたからでは?という説もある。

(あと西日本諸藩は二毛作ができたから豊かだった、という説もあるが)

・・・こういう「海運の優位性」というキーワードで、日本史地理の授業を展開してくれたら、

自分もっと歴史に興味を持てたのに・・・

それこそ、小学校の4年とか5年とかで教育カリキュラムに組み込んでは?

2014-02-21

村田の教えに学ぶ、貯められない人でも絶対貯められる貯蓄法

村田惣右衛門という商人を知っているだろうか。

正確に言えば彼は匿名旗本三男坊だ。

幕末ともなれば穀潰しを遊ばせる余裕も世情も無く、結局のところ彼は糊口を凌ぐ為に己の才能を切り売りした。

どうやら武に纏わる技芸はさほど優れたものではなかったようだ。さりとて彼には商売の才能はなかった。

しかし彼には類まれなる発想と、稀有な才能があった。

それは、勘定をし、その勘定結果がどのような未来を描くか、どうすれば違う未来を描けるかを、説明する才能だった。

今で言う、ファイナンシャル・プランナーである

彼が歴史に名を残したのは単なる偶然でしか無く、江戸醤油から東北豪商に至るまでそこここの日記や書付にその偽名が残るのみである

幅広い人脈を築いた結果得られたものが何だったのかも、どこの誰だったのかも結局判らない。

しかし、大店の影にその人ありと実しやかに囁かれた風聞は、今も色褪せることのない伝説として語り継がれている。

今日は、その伝説の一端を開陳しようと思う。

村田の教え

  1. 分は弁え難し
  2. 無いとして考えよ
  3. 如何に使うかが肝要
  4. 数えるだけでは丁稚に劣る
  5. 大風呂敷を広げ、小さく繕え

分は弁え難し

村田は、常にここから始めたようだ。

分を弁えよ、ではない。

弁え難し、つまり弁えることは出来ないと喝破したのだ。

人が贅沢を夢見たり、買えなかったものが買えるようになるのは良いことだとした。

一定石高を常に保証される武士にとっては、倹約を旨とすればその分貯まる。

武士にとっては、勤めを果たすことが上向く方法からだ。後は倹約しか無い。

しかし、町人商人は異なる。己の才覚で事業を行う必要があるからだ。

ケチケチと貯めるばかりでは、生活は全く変わらず何のための商いか分から

しかし、稼いだ分を使ってしまってばかりでは、商いを大きくすることは出来ぬ。

こう、説いたのである

すると、分相応な使い方は出来ないが、使え、と言っていることになる。

これはどういうことか。

無いとして考えよ

貯めてばかりでなく使え、使ってばかりでは貯まらぬ。

そして、その加減は余人にも当人にも図りがたし。

から、そもそも無いものとして考え、ある分を使えば良いと、こう伝えられている。

これは意外なことに好評だったようだ。

元々宵越しの銭は持たない気っ風の良さを心情とする江戸っ子以外にも、粋や趣味には金がかかる。

これを抑えるのではなく、存分に使えと言うわけである

圓朝の芝浜と偶然にも結果は同じことを言っているわけであるが、後世の創作を加味すると、村田の方が時代を先んじていたと言えよう。

如何に使うかが肝要

使うと言ってもここでは、無かったものとした貯めた分のことである

そもそも無いものとして生活せよ、とする場合、言ってみれば稼ぎよりも貧乏になれ、と言っているのと同じである

誰しも貧乏よりは裕福が良い。

程度はあれど銭金があって困ることは少ない。

から、如何に使うかを考え、決してあるものとして勘定してはならぬ、それは無いものだ。

なぜならば、使い処が別にあるからだと、こう言っていたようだ。

この使い方指南こそが村田真骨頂であったようだが、商売の正に秘伝とも言うべき部分の事で、手に入る資料の中にはさほど面白い事由は残されていない。

数えるだけでは丁稚に劣る

さて、よほど複雑なものでもない限り、商売の基本は数を数えることになる。

いくらのものを、いくつ仕入れ、手間賃をいくら払って、いくらで売る。

この管理ができなければ店の維持も難しいが、といって、数を数えてピッタリに合わせるだけではそれこそ丁稚にも出来る仕事である

まず数を数え、その数を増やすのか減らすのか、増やせばいくら儲かり、減らせばいくら損するのか。

安く仕入れ高く売れればそれが一番良いが、なかなかそうはいかない。

手間賃を削れば儲かるが、果たして削って良いものか、

さな損に怯えず、最後に儲かる為には使うことを恐れるなと、指南していたようである

大風呂敷を広げ、小さく繕え

どうやら、村田は積み上げて説明するのが好きだったようである

これは、昨今の結論から話せという風潮からすれば迂遠に聞こえるが、相手には伝わりやすかったようだ。

使う加減は難しい、だから無いものとして使え。

無いとはいえ実はある、だから理由をしっかり考えて手をつけるな。

使い処を考えるのであれば、損することを恐れず最後に儲かるようにせよ。

こう話していけば、ではどうすれば儲かるのか、と、儲かるためには貯めねばならぬということが前提として相手に伝わっている。

先に述べたように、実際の使い方指南は、秘伝として秘されてしまい、伝わっていない。

しかし、その大本の考え方自体はどうやらこういうことのようだ。

  • まず、壮大な夢を描け
  • 壮大な夢をいま実行する絵図を描け
  • すると、どう捻っても、出来ない処、足りない処がある
  • どうすれば出来るか、足りないところはどう補えるか考えろ
  • それに必要な分を貯めよ

大風呂敷を広げるだけ広げてしまい、その穴だらけでボロボロ風呂敷の穴を、繕って埋めていけ、

小さく着実に繕っていけば、いずれ大きな風呂敷が完成すると、こういうことのようだ。

現代に生きる、村田の教え

商売の形態は大きく変わり、今となっては古臭い考え方でもある。

しかし、こと家計に関しては、今も村田の教えを活かす部分は大いにある。

分は弁え難し

コンビニお菓子を買ってしまっても良い、

ボーナスでご褒美を買っても良いだろう、

偶には飲みに行くのも構うまいと、

人は自分がどれだけ使っても良いかを客観的に知り、それを見極めるのが酷く難しい。

高収入でも貯められないのは、その人が自堕落であるというよりも、使い方を知らないからだと言える。

もちろん、低収入でも同じことである

無いとして考えよ

余ったぶんを貯金しようという考え方では、貯められないというのは良く聞く話である

勤労者に対して天引きで貯蓄を促すというのは、財形等で政府が主導した手法でもある。

結局、分相応が難しいのであれば、元々給与が少ないものとして考えるのが良いわけだ。

本当に困窮している人間は、貯めようとは思うまい

貯めようと思って貯められない人間は、困窮してはいないのだ。

ならば、最初からある中でやりくりすることは、出来るはずだ。

如何に使うかが肝要

とは言え、やはり無目的に貯めるのは精神衛生上良くなかろう。

貯めるのが目的なのではなく、使い処を考えろということなのだ。

そして、しっかりと考えた使い処があれば、今月の呑み代に窮して手を付けることは無い。

逆に言えば、手をつける程度の使い処は、余りしっかり考えたとは言えないのだ。

数えるだけでは丁稚に劣る

ここが、昨今の風潮とは一線を画すると言える。

村田は、まずは数えよとは言わなかった。どうやらどんぶり勘定の相手もしていたようである

家計簿をつけて家計を見直すのは、もっとずっと後のことだと、つまりはこう言っているわけである

家計簿をつけるのが目的ではない、無駄を見つけて節約することだ、というのは良く言われることである

村田は、手順としてそれは後のことだと言っているのだ。

無駄を見つけて節約するのは、無いものとして考えた残りで自由にやりくりすれば良い。

最初に、何に使うかをしっかり考え、それは最初から無いものとして意識から外せと、繰り返し言っているのだ。

大風呂敷を広げ、小さく繕え

そして、単純に今欲しい物を考えよとも言わなかった。

大風呂敷を広げよと、こう言っている。

欲しい物のために我慢するのは馬鹿げていると手を付ければ元の木阿弥なのだ

これは、大風呂敷を広げるだけの甲斐性がなければ、貯める必要がないという突き放した目線でもある。

日々の生活に事欠く人間に、夢を描け無いものとして貯めよと言っても虚しく聞こえるのは重々承知の上だろう。

享楽に行き、明日路傍に倒れるとも已む無しという無宿人も多かった時代だ。

これは現代でも変わらない。

小さくとも庭付きの一軒家で犬と子供に囲まれた幸せな家庭を築きたい、今は何もかも欠けている。

その夢を描くには、何が足りないのか、何を足してどうなればそこに辿り着けるのか。

からこそ、使い処のために、給与から天引きして貯める。

無いものとして考え、ある中で使ってやりくりをする。

まずは夢こそが大切であるのだ。

結びに変えて

村田惣右衛門という商人は、夢を描く手助けをし、それを現実に落としこむ手腕が鮮やかだったのだろう。

現代にも通づるそのファイナンシャルの考え方は、まず夢ありきであった。

夢を見つけ、具体的な道筋を立て、その手段として帳簿を使う。

帳簿を使って無駄を探るノウハウを伝授しても、無駄に使ってしまっては何にもならない。

最後までお付き合いいただいた読者諸兄におかれては、

是非、夢を描きその具体的な筋道を考えた後に、定期預金なり財形貯蓄を利用して、風呂敷の繕いを始めて欲しいと思う。

2014-01-11

http://anond.hatelabo.jp/20140111084146

「失敗をおそれるようにさせるのは何か」というのは、日本風景だと言われるし、なるほどおもしろい。

結果で物を言う、という言葉があるけど、もともと結果以外の部分で評価する文化じゃないからだろうか?

でも、平安時代には、どっちかというと「形や名として示せるもの大陸的なモノ)よりも、明確な形に残らない微妙な心の在り方とか(日本的なモノ)を評価する」のが文化的だったはずなんだけど、そういう貴族文化が、「命を惜しむな、名をこそ惜しめ」「働きが石高になる」の武家文化駆逐されて以来、「形として残る物だけが評価対象である」という風潮に変わり、今に至っているような気がするが、どうなのだろう。最近では、更にそれが加速して、「名(ブランド)」や実体すら無意味ものみなして、ひたすら「結果としての形(カネ)」あるいはコマギレになった「情報」だけをむやみに有り難がることこそクール、というふうになってきているようだけど、もう、何のために生きてるの、それ、楽しいの?ってレベル。お互いを、心などないロボット人工知能とみなして「インプットに対するアウトプット」だけを評価する、って話だよね。

から、「失敗をおそれないように」するために、「チャレンジトライする姿勢を評価しよう」なんて主張したら、さっそく「『姿勢』? 『心』の在り方なんて、目に見えないものをどうやって評価するんだ!」とか噛みつく人が出てくるんだろうな、と想像

そりゃ「トライ」したくもなくなるわwww

2013-05-18

風俗が話題になっているようなので俺の中出し体験ログを大放出

増田で30を過ぎたら性欲なんて減退して、風俗に行っても女の子といちゃいちゃするほうが楽しいと聞いた。

だが俺にはその気持ちがわからない。

俺は30にまだなったばかりだし、独身というのもあるが、正直、射精したい欲求がなくなるという感覚がわからない。

俺はセックスオナニーセックスが好きだ。セックスは中で精子たっぷり出すのが好きだ。

安心して中出しできるのは高級ソープ嬢くらいだから、よく行く。

仕事趣味も人並みに充実しているので、金も余っているほうだと思う。

こういう道楽者なので、もし大変な性病にかかって死んでもまあそれはそれでしかたないかなくらいに思ってる。

しか不思議もので、病気は運がいいのか今まで一度もなったことがない。

今までの風俗で印象深い体験をつらつらと書いていく。

初めて風俗に行ったのは20代前半だった。飲み会の後男友達と冷やかす感覚繁華街にあるいかがわしい店に入ったのだ。

いかにも偽物らしいきらびやか内装。照明をたっぷりあててフォトショップで加工したであろう写真と、そこに写る嬢達。

なんとなく薄い感じの顔をした好みの子を選んで、待った。迎えてくれたのはけっこう好みな自分と同い年くらいの女の子

スラっとしててわりとかわいい彼女と別れてだいぶ経っていたから女の身体に触るのも久しぶりだ。

よく言えばフレンドリーというか、サバサバしている子で、風俗とか初めてなんすよーって言ったらへーと軽く返していた。

あの時は抱き合ってフェラとかして速攻で手抜きで射精してしまった。

考えようによっては地雷だったかもしれない。

しかし、そんなのは置いといても金を払えば女と好きにエロいことができるというのが、俺にとってはかなり素晴らしく感じられた。

というのも中途半端人間関係がある女とセックスをしてもロクなことがないというのが俺の信念だったからだ。

20代の俺には一回何万もする性行為は敷居が高かった。

から、俺は金を稼ごうと思った。金さえあれば、より好みして女とエロいことができる。

学生の頃もちょくちょく行ってたが仕事をするようになってからより頻繁に行くようになった。

風俗と言っても下はピンサロから上は高級ソープまで様々に種類があって、様々な階層の人々の様々な需要によって成立している。

ピンサロ(手コキやフェラのみ)

ヘルスデリヘルなど(場合によっては本番あり)

ソープ(本番あり だいたいゴム付き)

・高級ソープ(基本中出し

下に行くほど、値段も行為の内容も上昇していくわけだ。

俺はキャバに行かないからわからないが、容姿風俗嬢よりキャバ嬢のほうがいいと聞く。

だが、高級ソープともなればキャバ嬢ランク容姿風俗嬢がたくさん居る。

例外で、関西飛田新地などは全体的に容姿が良い若いしか居ない通りもある。

最初勝手や仕組みがわからず、色々と苦労した。

これほどネットが身近になり、共有だクラウドだとさかんに騒がれている世の中だが、風俗情報はそうはいかない。

そもそも性行為、本番自体がやってはいけないという体で営業をしているあぶないビジネスなのだ

それでも水商売がなくならないのは、それがあまりにも普通に多くの男に求められているからだろう。

はいネットである程度の情報は手に入る。

2ちゃんヘルス板やソープ板でそれぞれの店舗地域スレでどの嬢が地雷がとかあたりだとかは書かれている。

しかし気に入った嬢、良い嬢の情報はみんな隠す。

風俗関係スレは皆が疑心暗鬼になり、叩き、罵倒しあう殺伐とした空間だ。

馬鹿正直に信じてはいけないがまったく参考にならないわけではない。

どの嬢がその店で一番かわいくてヤりがいがあるのか、というのはなかなかわからない。

しかしどの嬢が地雷なのかというのは比較的わかりやすい。

ある程度あたりを付けて挑めばそうそうひどい目に合うことはない。

積極的に広告を出しているような店舗を中心に探していけば漫画で描かれるようなぼったくり店にあたることはまずない。

だが、一度だけひどいはずれにあたったことがある。

総武線の駅だったか

いかがわしい雰囲気の店や呼び込みで釣れられて、ムラムラしていたのもあって5000円と称されたピンサロに入ってしまった。

狭くくらい店舗内で、壁とも言えぬような布で仕切られた空間に入れられ、文字通り全裸になって待機する。

入ってきたのは「(あ、不細工だ!)」とひと目で思ってしまうような女。

細面でタバコをたくさん吸ってそうな不健康そうな肌。40手前か?謎のソバージュ。まったくかわいげがない。

その上最初に5000円を払ったのに胸を触るのにもう5000円、フェラをするのに一万円とのたまう。

俺は激怒した…と言いたいところだがロクに下調べもせずにホイホイ知らん店に入った俺も悪い。

だまって手だけで射精をさせた。もちろん目をずっとつぶっていた。

あと山手線のある駅付近デリヘルもひどかった。隣のに住んでる若いおばさんみたいな嬢だった。

まあサービスは丁寧だったけど、きつかった。

はずれと言えるのはこの2つくらいか

店舗型のヘルスソープが初めてだったので箱物しかない先入観があった。

からデリヘルの存在に気づいた時は画期的だと思った。

ホテル代を払わなきゃいかんのが厳しいが、怪しい雑居ビル手続きをして、ホテルで逢引して事を致すのはなかなか趣がある。

基本はフェラや素股でフィニッシュだが、嬢との相性が良くてノリがいい時などは本番をやらせてもらえる。

どうせなら本番がしたい。じゃあソープに行けよという話だが、俺は当初はソープ存在も知らなかった。

あとデリヘルでの本番は本当は、やってはいけないのにお互い合意でやってしま感覚がいいのだ。

そこまでもっていく駆け引きも楽しかったりする。

はいえ世の中には嬢に本番をさせてあとで強姦だと訴えるという悪徳な業者もいる。

相手がどんなつもりで本番をさせるのか、しっかりと見極めないといけない。

デリヘルで素晴らしかった本番をさせてくれた嬢は、早稲田付近デリヘルだ。

所要をすませたあと、用もなく駅前をふらふらしてて、近くに風俗がないか検索してそれなりに変な処ではないのをチェックした上で電話

待ち合わせて出てきた子は街中で見たら「おっ」と思うような美人だった。

蛯原友里レベルをワンランク落として気弱にしたような顔だった。

内気な子で照れ照れしながら会話する。ホテルに入ってもいちいち服を脱ぐ動作も遅い。

演技かどうかはまったく問題でない。魅力があった。丁寧に脱がせて愛撫してやると嬉しそうにする。

盛り上がってきたら当然のように「…入れちゃおっか?」という流れに。心の中でガッツポーズ

中もとても良かった。可愛い子とできるとやっぱり気分がいい。

やったあと、なんか会えてよかった、とお互いに話す。デリヘルだと忘れるほどいい子だった。

何度も指名しようと思ったが、店から消えてしまった。本当に残念だった。

もう一人はスザンヌをワンランク下げたような顔のノリのいい子で、エロかった。

車が予定の時間より一時間も遅れて、本当に申し訳なさそうにたくさんサービスしてくれた。

すごくいちゃいちゃ系で、あそこの近くでちんこをこすりつけ続けたらむこうから入れたそうにしてきた。

ゴムしてないよ…いいの?」と意地悪に聞いたら「駄目だけど入れたい…」と気持ちよさそうにエロそうに言う。

結局生で入れてガンガン突いた。流石に外に出したけど、この子はすごく気に入って、何度も指名した。

慣れてきたらシャワーでいちゃついてるときにふざけてうしろから挿入しても嬉しそうにする子だった。当然生。

今はもう居ないけど、デリヘルの値段でいちゃいちゃで生挿入ができて最高だった。

本番のうまみを知ってしまうとやはりそれがしたくなる。

ソープを調べて初めて行ったのはやはり有名なあそこだった。

上野駅から送迎がでるような場所です。

最初行ったのは八枚の所。

ここはデブが出てきてとても悲しかった。

しかし流石高いだけあってサービスはめちゃくちゃ丁寧だった。尻の穴まで舐められた。

で、生挿入なんだよね当然。生で入れてしかもそのまま射精していいの。

腰動かしながら「いいの?中で出しちゃうよ?」って言うと「そのまま出して!中にいっぱい精子欲しいの!」って言ってくれるの。

デブだけどかわいげある嬢だったし、こんなこと言われたら流石に勢いマックス射精ちゃうね。びゅっ びゅーですわ。

エロ漫画二次元世界しか言われないようなセリフ言わせてしかも生で中で精子出し放題。

これはもうね、はっきり言って男として生まれた以上快楽最上位として位置づけざるを得ない快楽ですよ。

これで可愛い子にあたったらどうなっちゃうのかと思って次はもっと細い子で!とボーイに相談する。

高級ソープは嬢だけじゃなくてボーイの対応からトイレから内装から、何から何まで凝っている。

からあるんだろうなーって建物を頑張ってきらびやかに改造しました!

という内装なんだけど。

ボーイも懇切丁寧にお勧めの嬢を選んでくれるわけよ。

顔がどうなのか、性格がどうなのか。体はどうなのか。中出しOKなのか。

高級ソープでもゴム付きの子も居たりする。そういう子はたいていクオリティ高かったりするんだけど。

ゴム無しソープはだいたい嬢がピルをちゃんと医者の処方に従って飲んでいる。

ボーイは客の要望をすっごい腰低くして聞いて、答えてくれる。

ネット情報よりもボーイの情報が断然確実。

高級ソープ場合最初の一回を犠牲にしてもいいから、まずボーイと話して良い嬢の情報を手に入れることから始めたい。

三枚以下のソープだとボーイの対応とかも適当になってきちゃうかも。

歳がちょっと行ってるけどすっごく体つきが良くてエロエロな嬢とか、今時の軽いギャルっぽい嬢とか、ソープにも色んな嬢が居る。

すっごく喋る嬢が居て、その子自体はまあ中の下くらいの良さだったんだけど、その子から色々な情報を聞けた。

で、その子が良いって言ってた店の嬢に行ってみたらこれが最高だった。

ちょっと肉付きがよくて、ふとももがエロい藤原紀香を若くしてアホにしたような子だった。

しかパイパン。毛が無い嬢は初めてだったが、興奮したね。69で俺が下になって舐めまくった。

セックスがとにかく大好きで、エロくて勃起したちんこを見せたら心から喜んでくれる。

の子に行くときはいつも三回ヤッてる。もちろん全部生で中で出す。

締りもちょうどいい具合にきつくて、3日以上精子溜めたギンギンのちんこがギッチリ入るんだよね。

喘ぎ声もいいし、甘甘で挿入までがいつも楽しみで仕方ない。

飛田新地に行った時は一度だけある。

その一日で二回行ったんだけど、最初の子がめちゃくちゃキレイかわいい子だった。

あそこは道を歩きながらずらりと並んだ嬢の顔を見ながら選べるので、顔でハズレることはまずない。

照明がうまく当てられてるから、実物よりかはよく見えるんだけど、写真に比べたら段違いの確実さがある。

若い子ばかり居る通りはみんな綺麗でかわいいから迷っちゃうんだけど、俺は最初の5分くらいで良いと思った子を即決した。

最近AV女優って異常にかわいい子が多いじゃない?

あいう感じで、めちゃくちゃキレイ可愛い子だった。テレビに出てそうな。

茶髪ロングでキツい感じの顔。スレンダーな体に浴衣だけ着てて色っぽい。

新地での行為は軽いゴムフェラと本番のみ。

抜くことに特化していて、それが目的の俺には素晴らしい場所だった。

でもその子はかなりあたりで、キスクンニハグは頼んだらさせてくれた。する前に

「3日以上精子溜めてるからめっちゃ濃いの出るかも」って下品なこと言ったら「じゃあ期待しちゃっていいのかな~?」

笑顔で話してくれた。最高。

新地の二人目の子巨乳制服眼鏡と素敵な格好だったが、対応が悪かった。

挿入の時ちょっと手があそこに触れただけでバシッと手をのけて「あ、そこ触るのはやめてください。」と冷静コメント

胸も、触るのはいいけど舐めたりは駄目。一人目の子と随分対応に差があった。

まあここではこっちのほうがスタンダード対応なのかもしれない。どうなのだろう。教えてエロい人。

とまあひと通り印象的な風俗体験を語った。

俺はこれからも通い続けるだろうが、いつかスナック愛情を求めていくようになるのだろうか。

性欲が減退すれば今の情熱も冷めてしまうのだろうが、今のところその気配はない。

風俗に行かなくなればだいぶ金が余るが、それはそれで他の趣味に全部使えるから楽しみである

ずっと付き合ってる彼女がいるが、お互いの趣味に干渉しない関係で、多分結婚もしないと思う。

別れない理由は付き合っているほうがお互い得が多いからなんだけど、俺の風俗趣味も知っててセックスはしない。

2009-08-04

年功序列起源

2009-08-04 / Economics

城繁幸氏のブログに、台湾メディア日本年功序列が理解できなかったという話が出ている。年功序列儒教の「長幼の序」の影響だと思っている人が多いが、違うのだ。儒教の本場である中国にも台湾にも、年功序列はない。中国科挙は、基本的に試験だけで昇進を決めるので、10年以上受験勉強して中年になってから合格する人も多かったから、年齢で人事を決めることは不可能だった。韓国には日本以上にきびしい年功序列があるらしいが、日本のように入社の年次ではなく年齢による序列だという。

では日本年功序列は、どこから生まれたのだろうか。笠谷和比古氏によれば、徳川幕府にも年功序列はなかったという。武家の序列の基準は石高だったが、幕末には財政が苦しくなり、管理能力の高い下級武士が昇進するようになった。たとえば勘定奉行として日米修好条約を結んだ川路聖謨の家は「御家人株」を買って武士になった町人だった。勝海舟の家も、無役の最下級武士だった。このような能力主義を可能にしたのは、徳川吉宗のつくった足高制度だった。本来の石高とは別に足高として加算され、形式上の序列(石高)とは別に、実質的能力主義による俸給制度になっていた。つまり年功序列は、家柄とは別の経験や功績による序列だったのである。

ところが明治時代官僚制度ができたとき、高等官/判任官の身分制度や15段階の俸給制度ができ、昇給は年次によるものと(非公式に)定められた。これが戦後実質的継承され、Ⅰ種(戦前の高等官)は6級に編入され、「キャリア」と呼ばれる。民間では、長期雇用の定着と年功賃金は、ほぼ並行して広まったと考えられる。特に戦後、労使紛争が激化した1950年代に、安定した賃金を求める労働側の要求に対して定期昇給制度採用したことが年功賃金につながったとする説が多い。

つまり年功序列日本の伝統でも儒教の影響でもなく、官僚制度によって原型がつくられ、戦後の労使紛争の中で両者の妥協として大企業で成立した雇用慣行なのである。これは結果としては若い労働者に「強制貯蓄」させることによって、その忠誠心を高めてモラルハザードを防ぐ役割を果たした。しかし老人に生産性以上の賃金を払い続けることができるのは、企業が成長し、若者が増え続けるときだけである。賃金原資が減り始めると、ノンワーキングリッチに「配当」を払うことはできなくなる。

これは年金財政破綻と同じ構造である。日本企業組織財政も、戦後の高度成長を前提にしてつくられ、それに適応して相互補完的なシステムができ上がっているのだ。その結果、老人と若者の利害の対立する問題では、つねに組織内の権力を握っている老人の既得権を守る決定が下される。この構造の前提となっている成長が止まった今は、官民ともにシステムを見直さなければならないのに、問題を先送りしてきたのが「失われた20年」の根本的な原因である。

 
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