「朝貢」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 朝貢とは

2021-06-09

anond:20210609102949

アメリカ中国台湾韓国とは勝負ついたか白旗降伏材料製造装置朝貢する奴隷ムーヴで、尻の毛まで抜かれてあいつらが欲かいて自前でやりだすまでは日本愛国者を騙しながら誤魔化して15年くらい暮せば良いんだけど、

比較すべきはイギリスドイツあたりよなASMLオランダだが。こいつらと比べても3周15年くらい遅れてる気がするからやっぱもう敗戦認めて材料製造装置かい価格決定権の低い下請け泥水仕事の面倒作業労働力献上型モノカルチャー衰退国としてやってくしかないんじゃね

CADEU圏でけっこう自前で頑張って世界通用するもん作ってるんだよな

日本にも世界に誇れるJWCADかいうチンカス2D CADならあるけどさ

2020-08-13

俺が中国人だったらもうキレてる

冷やし中華

中華人民共和国中華思想とともにあり、常に繁栄の一途を辿っている。

その道は絶えずして、いる地点はもとの場所にあらず。

そんな我が国朝貢もせず、勝手に冷やすなど言語道断である

燃え盛る炎のごとく発展を続ける我が中華人民共和国に対する無礼嫉妬であり、

尖閣諸島はやはり我が国領土になったほうが島も幸せである

2019-12-08

日本以外のあじあは元気だな

日本はなんか中国の一部と考えた方が

景気が上がる

経済的にはね

朝貢

2019-05-23

anond:20190523101214

「長征」の定義によるんじゃない?

各国に朝貢を求めて大航海した鄭和も長征と言えば長征だし。

2019-04-17

anond:20190417014518

GHQみたいにどこかに支配されてるほうがいい

中国皇帝習近平朝貢すればいいのでは

2019-03-25

anond:20190325130346

とりあえず、知事でも県議でもいいから、訪中して朝貢っぽいことし

始めればいいのに。北京からは驚くほど厚遇してもらえるはず。

でもしない。

そこまでは本気じゃない。本気で東京とコトを構える気はない。

そんなことが見透かされてる。所詮親のカネで暮らしてるニート

2019-03-21

http://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/yujinfuse/status/1108056956529340416

戦争は避けなければならないのか?

いや、分かりやすく言えば、侵略を、侵略こそ避けなければならない。

侵略協調とは違う。相手合意がない。だから避けなければならない。

侵略をしない手段と、侵略をされない手段は違いがある。

侵略をしないためにはガバナンス必要

軍と産業距離感を適度に離さなければならない。

民主的政府が金の流れを管轄することが必要

協調合意を方々から取り付けることが必要

侵略をされないためにはデメリットを強調することが必要

まず継戦能力を高めること。自己完結能力の確保。

安全保障といっても軍備だけではない。

最低限の衣食住の自給自足地産地消。食料、燃料の自立が必要

軍備の自立には製造維持コスト削減のために戦争材の輸出が必要

しかしながら国際社会から孤立は避ける。

まり東シナ海日本海オホーツク海太平洋のいずれかに

腹を見せなくてはならない。

現在日本政府政権運営能力ですべてを上手くこなすことができるか。

自衛隊に、日本技術者に、技術者をまとめる日本組織に、核兵器管理がまともにできるのだろうか。

完全な自立独立にはコストがかかりすぎるので、無理そうに思える。

しわ寄せは民間に降りてくる。確実に仕事家計も厳しくなる。

社会保障年金傷痍軍人?働かざるもの食うべからずの自己責任

米中どちらに付くかのほかに選択肢がなくはないが、無理そうに思える。(大事ことなので)

沖縄含めたアメリカへの朝貢は、それでも安い。

丸腰になんてなれない。

2018-09-01

anond:20180901182534

中国朝貢して「低能先生日本国王」と書かれた金印をもらう 

さすればあなた日本国王だ 

日本のすべての不動産とすべての人とすべての富はあなたのもの

もちろん時間

2018-02-21

東アジア東南アジア諸国歴史的英雄

日本織田信長坂本龍馬か。戦前なら楠木正成とか。他国と比べて「民族独立英雄」「侵略者撃退した英雄」が少ないのが日本の特徴か。北条時宗もそれほど人気ないし。
韓国李舜臣(1545-1598)李氏朝鮮の名将。文禄・慶長の役では水軍を率いてゲリラ的に戦いを進め日本軍を苦しめた。一度は更迭され一兵卒にまで身を落とすも後に復帰し、露梁海戦戦死した。
中国岳飛(1103-1142)南宋の名将。農民出身ながら、私兵を率いて金に対抗し、幾度も勝利を収めた。しか岳飛存在が和議の邪魔になると危惧され、罪を着せられて処刑された。
モンゴルチンギス・カン(1162-1227)言わずと知れた世界史上最凶の侵略者
ベトナム李常傑(1019-1105)大越の名将。特に北宋との戦いに勝利したことで有名。また国政にも関わってその手腕を讃えられ、後に神格化されて崇敬されている。
フィリピンラプ=ラプ(1491-1542)クタン島の領主イスラム教徒世界一周中のマゼランフィリピン上陸し、各部族にスペインへの朝貢キリスト教改宗要求したとき、ラプ=ラプだけがそれを拒否し、その後の戦闘マゼランを討ち取った。ヨーロッパ侵略に対抗した最初フィリピン人であるとされる。
インドネシアガジャ・マダ(?-1364)マジャパヒト王国の名宰相で、その領土現在インドネシアのほぼ全域にまで広げた。そのためインドネシア諸島統合象徴と見なされている。
マレーシアハン・トゥア(?-?)マラッカ王国に仕える無双勇士だったが、冤罪死刑を宣告された。ハン・トゥアが処刑されたと聞いた彼の親友は怒り狂って反乱を起こしたが、実は密かに生き延びていたハン・トゥアによって討たれた。死刑を宣告されても、親友を殺すように命じられても王に従った、ハン・トゥアの絶対的忠誠心が称賛される。
タイレースワン(1555-1605)アユタヤ朝の王にしてタイ大王の一人。ビルマ属国となっていたタイ連戦連勝で独立へと導き、「軍神」として崇められるようになった。ムエタイ創始者とも言われる。
ミャンマーバインナウン(1516-1581)タウングー朝の王。当時の王の乳母兄弟で、その崩御のあとに分裂したビルマ統一した。タイアユタヤ兵糧攻め降伏させて支配下に置いた。ナレースワンの台頭はバインナウンの死後より始まる。
ラオスアヌウォン(1767-1831)ヴィエンチャン王国最盛期の王にして最後の王。当時、ラオス属国としていたタイ独立戦争を仕掛けたが、敗れて獄死した。メコン川岸辺タイに向かって銅像が建てられている。

東南アジアで終わるつもりはなかったんだけど、面白くて掘り下げてたら疲れてしまった。またこんど。

ちなみにホー・チ・ミンスカルノアウン・サン、カイソーン、などの近現代の人は敢えて除外しています

2017-11-03

大体だな

国民血税国民のために使わないってどういうことよ

アベノ朝貢57億円もODAも全部やめろよ

イヴァン基金へアベノ朝貢57億円

財源が外貨準備高から問題ない!とかネトウヨソースもなしにバビバビフーンって鼻息荒くイキリまくってて笑える

2017-06-11

続・白紙に戻せぬ遣唐使教科書の読み比べ)

http://anond.hatelabo.jp/20170611183038

これのつづき。今回も文字数制限にひっかかったので、分割します。

  

桐原書店新日本史B』(日B 011)

一方、インドの僧菩提、林邑(ベトナム中部)の仏哲、唐僧鑑真らの外国人も、遣唐使船に便乗して来朝し、インド西域東南アジア文化を伝えた。

遣唐使船は日本人が唐へ往来するためだけではなく、外国人日本に招くためにも使われていたのです。「遣唐使」「鑑真」というのは中学生レベル用語です。しかし、この2つを結びつけて説明できる人は案外少ないんじゃないでしょうか?

ちなみに、山川の『日本史B用語集』によると、菩提僊那、仏哲という用語を載せている教科書は、唯一これだけみたいです。しか桐原書店は彼らの業績を説明するための註を設けている徹底ぶりです。入試問題になったら難問だと思いますが、大切なのはこういう人名を丸暗記することじゃなくて、東大寺大仏開眼供養会はインドベトナム出身僧侶たちも参加していた国際色のあるイベントだった、それは遣唐使船がもたらしてくれたものだということでしょう。

  

日本がしばしば新羅従属国として扱おうとしたため、両国関係はしばしば緊張した。しかし、日本遣唐使が唐において新羅人に助けられることもあった。」

これもこの教科書に独特の記述です。遣唐使新羅人に助けられたというのは、円仁著作『入唐求法巡礼行記』のことを念頭に置いているんでしょうか?

また、上掲の講談社日本の歴史シリーズから引用すると、次のような話もあります

遣唐使派遣が間遠になり、日本の船が唐まで行かないなか、それでも求法の念止みがたいとなれば、来航する新羅船を利用するしかない。そしてまた新羅商人たちは、概して好意的に彼らを助けたのであった(坂上早魚『九世紀の日唐交通新羅人』)。こうして入唐と研鑽を果たした天台真言の平安仏教旗手たちが、仏教の使命は鎮護国家にあるとする考えに則り、護国の修法による新羅調伏を担うことになったのは、実に皮肉なことであった。

  

坂上康俊『日本の歴史05巻 律令国家の転換と「日本」』

  

  

  

三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)

このころ唐では、みずから世界の中心とみなす中華思想が強まり、周辺の国々を夷狄として見下す考えが生まれていた。この考え方は日本にも影響をあたえ、朝廷新羅や、朝廷に服属しない東北九州南部の人びとを蝦夷隼人とよんで夷狄として蔑視しはじめた。

朝廷東北地方九州南部進出した経緯を説明する際、そこには中華思想の影響があったことを説明しています。それに絡めて新羅との関係にもちょこっと触れているので、先にとりあげた東大入試問題を解くときのヒントになるでしょう。

もっとも、この点はやはり、山川出版社新日本史B 改訂版』(日B018)の方が優れています。私が先に引用した箇所のすぐうしろ([後略]とした部分)では、朝廷が「東北地方蝦夷九州南部隼人異民族夷狄)として服従させ」たことを説明し、「律令国家が蛮夷を服属させる帝国であることを内外に示した」と結んでいるのです。

それに比べると、三省堂教科書は、遣唐使中華思想という2つのものを関連付けて理解することが不可能です。

  

  

  

東京書籍日本史B』(日B 004)

遣唐使8世紀には6回、9世紀には2回派遣され

実教出版にも「奈良時代遣唐使は6度派遣され」たとありますが、東京出版9世紀のことも記述していてグッド。

遣唐使は894年、菅原道真の建議で廃止されました。ですから9世紀末まで遣唐使派遣する制度は残っていたはずなんですが、8世紀と比べるとその回数がめちゃくちゃ減っていることが分かるでしょう。

理由は、日本がもはや唐から学ぶべき必要・意欲がなくなってきたこと、唐が政治的混乱に陥って衰退したことによる国威の低下、商船の往来が活発になったことで日本が唐に朝貢をしなくても舶来品を入手できるようになったこと、などです。

これがさっき桐原書店のところで述べた話にもつながっています時代が9世紀(すでに平安時代)になっても、仏教では唐に確固たる先進性がありました。だから日本僧侶たちは唐に留学することを熱望したのです。しか朝廷遣唐使派遣積極的ではなく、彼らは新羅商人の助力を得なければ、渡航が困難という状況だったのです。

  

[引用者注:702年の遣唐使派遣の再開について] その目的なかには、「日本」という国号を認めさせることも含まれていたと考えられる。

東京書籍教科書にだけある、この一文。「日本」がはじめて国際社会に登場したのがこの時点だったと言っているんです。

これ、すごいことを言っていますよ? 「日本」が太古の昔から存在したという皇国史観に対する強烈な一撃です。

ちなみに、このとき天皇」は国際デビューしていません。倭国はなんとかして「日本」への国号変更を唐に認めさせることはできても、皇帝にあたる「天皇」という称号を用いて唐と対等外交をする力がなかったのです。唐では天皇のことを「日本国王主明楽美御徳」(日本国王メラミコト)と呼んでいたようです。もしかしたら当時の日本朝廷内では、「スメラミコトは唐の皇帝に臣従したが、天皇は臣従していないか日本国王ではなく、したがって日本は唐の朝貢国ではない」という回りくどい官僚的答弁があったかもしれませんが、その点は不明です。このような高度に政治的問題は、国史編纂ときに巧妙な隠蔽がおこなわれるからです。(上掲の講談社日本の歴史シリーズ青木和夫著の中央公論社日本の歴史3巻 奈良の都』を参照せよ)

  

さて、これは東京書籍にかぎらず、多くの教科書でそうなのですが、古代史において「天皇」「日本」という表記を用いるときには慎重になっている様子がうかがえます。例えば白村江の戦いでは、唐・新羅と戦った国が「日本」ではなく、「倭」倭国」「朝廷」等の表記になっています

なぜ教科書がこんな表記になっているかというと、「天皇」「日本」という称号国号は、ある時期の特定政治状況のもと、人為的に作られたものからです。具体的には天武朝(673年~686年)のころ、大王とその国を神格化する目的で、初めてこれらの称号国号使用が開始されました。ですから、もし神と同一であるところのその「天皇」、その神のおさめる国である日本」が、天武朝より遥か昔から存在していたかのように記述するならば、それは皇国史観に他なりません。

無論、教科書では便宜的に仁徳天皇推古天皇というような表記が使われていますけど、古代史における「天皇」「日本」という表記の取り扱いについては一応注記が設けられていたりします。例えば『詳説日本史』は壬申の乱ののち、天武天皇が「強力な権力を手にし」て、「中央集権国家体制形成を進」めていく過程で、そのころに「大王にかわって「天皇」という称号が用いられる」ようになったと書いています。同社の参考書『詳説日本史研究』はそこがもっとクリティカルです。「大王から天皇へ」というコラムで、「天皇」という称号が天武朝に始まることの歴史学的な検証を載せ、唐の皇帝が一時「天皇」と称していたのを知った日本側が模倣したという説を紹介しています

こういう細かな表記へのこだわりからも、各社の教科書がどんな史観に基づいているかを見ることができるはずです。

2017-05-21

李氏朝鮮は清の冊封のなかの属国主体性のない国だった。清に収奪されていて朝貢する品で価値のあるものは女くらいしかなかったそうだ。

朝鮮日清戦争の後日本併合されて、日本となったことで発展した。北朝鮮にある最大のダム日本が作ったものhttps://ja.wikipedia.org/wiki/水豊ダム

日本がなければ朝鮮は貧しいままだった。全世界が知っている歴史事実だ。

2017-05-19

原因・背景[編集]

1871年(明治4年)10月宮古島から首里年貢輸送し、帰途についた琉球御用船が台風による暴風遭難した。乗員は漂流し、台湾南部に漂着した。船には役人と船頭・乗員合計69名が乗っていた。漂着した乗員66名(3名は溺死)は先住民現在台湾先住民パイワン族)に救助を求めたが、逆に集落拉致された。

先住民とは意思疎通ができなかったらしく、12月17日遭難者たちは集落から逃走。先住民は逃げた者を敵とみなし、次々と殺害し54名を斬首した(宮古島島民遭難事件)。12名の生存者は、漢人移民により救助され台湾府の保護により、福建省の福州経由で、宮古島へ送り返された。明治政府清国に対して事件の賠償などを求めるが、清国政府は管轄外として拒否した。翌1872年明治5年琉球を管轄していた鹿児島県参事大山綱良は日本政府に対し責任追及の出兵を建議した。1873年(明治6年)には備中国浅口郡島村現在岡山県倉敷市)の船が台湾に漂着し、乗組員4名が略奪を受ける事件が起こった[1]。これにより、政府内外で台湾征討の声が高まっていた。

開戦準備へ[編集]

副島種臣

宮古島台湾遭難事件を知った清国アモイ駐在アメリカ合衆国総領事チャールズルジャンドル(リゼンドル、李仙得)は、駐日アメリカ公使チャールズ・デロングを通じて「野蛮人懲罰するべきだ」と日本外務省提唱した。

初代龍驤台湾出兵旗艦であり副島種臣大久保利通をそれぞれ、中国に運んだ。

孟春(砲艦)は三本マストスクーナー型鉄骨木皮の小型砲艦で、台湾出兵に参加した。

外務卿副島種臣はデロングを仲介しルジャンドル会談、内務卿大久保利通ルジャンドル意見に注目し、ルジャンドル顧問として外務省雇用されることとなった。当時の明治政府では、朝鮮出兵を巡る征韓論などで対立があり、樺山資紀や鹿児島県参事大山綱良ら薩摩閥は台湾出兵を建言していた。これらの強硬意見の背景には、廃藩置県によって失業した40万人から50万人におよぶと推定される士族の不満のはけ口を探していたことがある[2]。

1873年、特命全権大使として清国に渡った副島外務卿は随員の柳原前光を用いて宮古島台湾遭難事件などの件を問いたださせたが[注釈 1]、清朝の外務当局は、台湾先住民は「化外」であり、清国統治のおよばぬ領域での事件であると回答して責任回避した[1]。その後、日本ではこの年秋、朝鮮使節派遣をめぐって政府が分裂し(明治六年政変)、また、翌1874年1月の岩倉具視暗殺未遂事件、2月の江藤新平による反乱(佐賀の乱)が起こるなど政情不安が昂じたため、大久保利通を中心とする明治政府国内の不満を海外にふり向けるねらいもあって台湾征討を決断し、1874年明治7年)4月、参議大隈重信台湾蕃地事務局長官として、また、陸軍中将西郷従道台湾蕃地事務都督として、それぞれ任命して軍事行動の準備に入った[1]。

明治六年政変における明治天皇勅裁は、ロシアとの国境を巡る紛争を理由とした征韓の「延期」であったため、ロシアとの国境が確定した際には、征韓派の要求が再燃する可能性が高かった。政変下野した副島にかわって外交を担当することとなった大久保としては、朝鮮よりも制圧が容易に思われた台湾出兵をむしろ積極的企画したのである

台湾での戦闘[編集]

西郷従道

台湾出兵に対しては、政府内部やイギリス公使パークスやデロングの後任のアメリカ公使ジョン・ビンガム(John Bingham)などからは反対意見もあった。特に参議木戸孝允らの長州系は征韓論否定しておきながら、台湾への海外派兵をおこなうのは矛盾であるとして反対の態度をくずさず、4月18日木戸参議辞表を提出して下野してしまった。そのため、政府は一旦は派兵の中止を決定した。

台湾出兵時の日本人兵士

水門の戦 最も激しい戦いであった。当時の日本人による版画[3]

国立公文書館が所蔵している公文書によると1874年4月4日三条実美により台湾蕃地事務局が設置される。(以後の任命は当時太政大臣であった三条実美からの奉勅となっている)同年4月5日台湾蕃地事務都督に西郷従道が任命される。[4]同年4月6日谷干城赤松則良に台湾蕃地事務局参軍と西郷従道を輔翼し成功を奏する事を任命される。[5]同年4月7日海軍省から孟春艦、雲揚艦、歩兵第一小隊、海軍砲二門と陸軍省から熊本鎮台所轄歩兵大隊砲兵一小隊出兵命令が命じられる。[6]という経緯になっている。

5月6日台湾南部上陸すると台湾先住民とのあいだで小競り合いが生じた。5月22日台湾西南部の社寮港に全軍を集結し、西郷命令によって本格的な制圧を開始した[1]。6月3日には牡丹社など事件発生地域を制圧して現地の占領を続けた。戦死者は12名であった[1]。しかし、現地軍は劣悪な衛生状態のなか、亜熱帯地域風土病であるマラリアに罹患するなど被害が広がり、早急な解決が必要となった。マラリア猖獗をきわめ、561名はそれにより病死した[1]。

収拾への交渉[編集]

明治政府は、この出兵の際に清国への通達をせず、また清国内に権益を持つ列強に対しての通達・根回しを行わなかった。これは場合によっては紛争の引き金になりかねない失策であった。清国の実力者李鴻章イギリス駐日大使パークスは当初は日本軍事行動に激しく反発した。その後、イギリス公使ウェードの斡旋で和議が進められ、8月、全権弁理大臣として大久保利通北京に赴いて清国政府交渉した。大久保は、ルジャンドルフランス人法学者ボアソナード顧問として台湾問題交渉し[7]、主たる交渉相手総理衙門大臣の恭親王であった[1]。会談は難航したが、ウェードの仲介や李鴻章の宥和論もあって、10月31日、「日清両国互換条款(zh)」が調印された[1][7]。それによれば、清が日本軍出兵を保民の義挙と認め、日本は生蕃に対し法を設ける事を求め、[8]1874年12月20日までに征討軍を撤退させることに合意した。 また日清両国互換条款互換憑単によると清国遭難民に対する撫恤金(見舞金)10万両(テール)を払い、40万両[注釈 2]を台湾の諸設備費として自ら用いる事を願い出費した。[9]また、清国日本軍の行動を承認したため、琉球民は日本人ということになり、琉球日本帰属国際的に承認されるかたちとなった[1]。

帰結[編集]

日本清国との間で帰属がはっきりしなかった琉球だったが、この事件の処理を通じて日本に有利に働き、明治政府は翌1875年明治8年)、琉球に対し清との冊封朝貢関係廃止明治年号使用などを命令した。しか琉球は清との関係存続を嘆願、清が琉球朝貢禁止に抗議するなど外交上の決着はつかなかった。

1879年明治12年)、明治政府のいわゆる琉球処分に際しても、それに反対する清との1880年明治13年)の北京での交渉において、日本沖縄本島日本領とし八重山諸島宮古島中国領とする案(分島改約案)を提示したが、清は元来二島領有は望まず、冊封関係維持のため二島琉球に返還したうえでの琉球王国再興を求めており、また、分島にたいする琉球人の反対もあり、調印に至らなかった。

また、明治政府兵員輸送英米の船会社を想定していたが拒否され、大型船を急遽購入して国有会社の日本国郵便汽船会社に運航を委託したがこれも拒否され、大隈重信はやむなく新興の民間企業である三菱を起用することに決定したが[10]、この協力により、以降、三菱政府からの恩恵を享受できることとなり、一大財閥になるきっかけとなった[11]。

台湾出兵と熱帯病[編集]

被害[編集]

日本軍の損害は戦死8名、戦傷25名と記録されるが、長期駐屯を余儀なくされたため、マラリアなどの感染症に悩まされ、出征した軍人軍属5,990余人の中の患者延べ数は1万6409人、すなわち、一人あたり、約2.7回罹病するという悲惨な状況に陥った。

軍医部の対応[編集]

1871年(明治4年)、兵部省は、陸軍省海軍省に分かれ、軍医寮は陸軍省に属し、軍医頭は松本良順(のちに順)であった。台湾出兵当時、軍医部は創立より日が浅く経験不足であったが、総力を挙げて事態にあたった。出征軍の医務責任者は桑田衡平二等軍医正(少佐相当)、隊付医長は宮本正寛軍医大尉相当)であった。他に24名の医官を従軍させた。医官は全員奮闘したが、極悪の環境と猛烈な伝染病で病臥する者が多く、西郷都督からは薬だけでも兵士にあたえてほしいと要請された。医官の多くは漢方医で、熱帯病の治療にはまったく経験がなかったという。かれらは交代の22名が到着したため、ようやく帰国できた。宮内省から外国人医師が派遣された。ドイツ出身のセンベルゲル(Dr. Gustav Schoenberg)は、東京大学医学部前身にあたる大学東校お雇い外国人医師レオポルト・ミュルレルの推挙であったが、能力がなくトラブルを起こした。しかし、彼とともに送られた6台の製氷機械は大いに役に立ったといわれている[12]。

2016-07-06

宇宙人

出会いたい。出会ったら冥王星あたりへ連れて行ってほしい。冥王星では基地を作って宇宙征服拠点にしたい。宇宙征服を達成したあかつきには地球へ帰り各国から朝貢を受けて静かに暮らしたい。

2015-07-24

http://anond.hatelabo.jp/20150724112229

単純な自国age他国sageではないんだけどね。

他国朝貢してきたら王者として気前よく褒美を与えなきゃいけないし。

漢民族」っていうのも特定民族ではなくて「中華文化を受け継いでいる民族」みたいな感じだし。

2014-09-08

http://anond.hatelabo.jp/20140908101850

朝貢のもつれがそもそもの発端で朝鮮日本との和平に消極的だった中で日本軍朝鮮に対して仕方ないから宣戦布告した。

第一次大戦ベルギーにも同じこと言えんの?

そうであるなら、今韓国秀吉恨むのは分かるけど小西行長はむしろ朝鮮救おうとした救世主から称賛して欲しいね

朝鮮を救おうとしたんじゃなく日本にとって益が少ないと思って止めさせようとしただけだろ。

つかどうしたって日本水軍トップだった事実は変わらん。

韓国秀吉恨んでるんなら逆に朝鮮救おうとした小西行長勲章くらい授けるべきでしょ

朝貢のもつれがそもそもの発端で朝鮮日本との和平に消極的だった中で日本軍朝鮮に対して仕方ないから宣戦布告した。

秀吉時代で唯一小西行長けが秀吉が病没する瞬間までずっと朝鮮に対して和平工作を行って来てたわけよね。

そうであるなら、今韓国秀吉恨むのは分かるけど小西行長はむしろ朝鮮救おうとした救世主から称賛して欲しいね

2012-12-12

http://anond.hatelabo.jp/20121212135814

専門ではないと断った上に参考文献も示してるのに、そんな横柄な言い方をされる覚えはないんだが、一応わかる範囲で。

えー

催促するのが横柄なの?

しろ催促するほうがめんどくさいし手間なんだから催促しないでも最初から書いてよ。

しかWikipediaの項目が偏ってるって言っただけでなぜはてなキーワードの手入れまでしなくちゃいけないんだ……?

誰がそんなこと言ってんだ?

確かにはてなキーワードがどうこう言ってる奴がいるけど

意味不明かつ誰へのメッセージかわからないのでスルーした。

なんであんたはあれを自分へのメッセージとして捉えたのかすらわからん

つーかどういう意味なのアレ?

まず、中華思想というのは王権正当性と密接に関係している。王権が正当であれば四海波立たず、季節は穏やかに巡り、作柄も良くなる。

それただの易姓革命の話じゃね?

いきなり中華思想関係ないんだけど…

また中華王権を持つ者は、周辺諸国に対して教化の役割を持つ。

蛮族は無法で無教養なので、中華文化を浸透させてあげなくちゃいけない。

みんなが正当な王権をあがめ、朝貢するようにしなくちゃいけない。

それができない王権は正当な王権と認められない。

で、こうした義務を満たせない王権ダメ王権なので、易姓革命とかされても文句は言えない。

関係ないw

周辺民族が攻め込んでこないなら中原王朝は安泰だよ。

そもそも周辺民族を押さえ込めなくなれば攻め込まれて不安定になって倒れるだけのこと。



あんたの説明はディテールがちょこちょこ間違ってる上に

wikipedia根本的には変わらないと思うんだけど

結局何が言いたいのさ?

http://anond.hatelabo.jp/20121212135350

専門ではないと断った上に参考文献も示してるのに、そんな横柄な言い方をされる覚えはないんだが、一応わかる範囲で。

しかWikipediaの項目が偏ってるって言っただけでなぜはてなキーワードの手入れまでしなくちゃいけないんだ……?

 

まず、中華思想というのは王権正当性と密接に関係している。王権が正当であれば四海波立たず、季節は穏やかに巡り、作柄も良くなる。

また中華王権を持つ者は、周辺諸国に対して教化の役割を持つ。蛮族は無法で無教養なので、中華文化を浸透させてあげなくちゃいけない。みんなが正当な王権をあがめ、朝貢するようにしなくちゃいけない。それができない王権は正当な王権と認められない。

で、こうした義務を満たせない王権ダメ王権なので、易姓革命とかされても文句は言えない。君、君たらざれば、臣、臣たらず。

現代国際社会から見ると、こうした考え方があまり自民族中心主義的に見えるので、行きすぎたエスノセントリズムに対してほとんど揶揄的に「中華思想」という言葉が用いられる。実際の中国政府の考え方となんらかの共通点があるかどうかについての判断は個々にゆだねられる。

 

個人的な見解を聞かれたので、個人的な見解を述べたに過ぎないことを付け加えておく。

2011-04-10

東アジア

俺が思う、差別意識無く語る中韓の印象

中国

自分が一番偉いと思っている

・親分肌

・人には奢らないと気が済まない

不器用

・今の日本のことは、日本人から見た韓国人のように、しつこくてうるさい人種と思っている

欧米田舎ヤンキーくらいにしか考えていない

朝鮮半島韓国/北朝鮮

外国人に優しい(特に欧米に対して)

中国人日本人の中間のような気質(かなり日本人よりな気がするが)

中国人より器用、日本人より不器用

・従うのが上手い

日本人が本当に鬼畜と思っている人も多い(教育の賜物)

・今は“支配”に対するコンプレックスが大きくなっているため、近隣の大国の動きに過敏に反応する

日本

世界一 器用

環境の変化に強い(様々な対応策を短期で形成する)

外国人に優しい

中国人と正反対で 親分肌を一切しない

・根回しがうまい

・従うのも上手いが、ちゃっかり自分利益を得る仕組みにすることも忘れない

共通点

義理に厚い

・支配者は、マンパワーよりも道徳を重視

軍事衝突を好まない

こういうことを書くと、また朝鮮人とか中国人とか言われそうだけど

今までの歴史を見るに こう推察できるんだよね

例えば、欧米圏では活発に侵略、植民地政策が実行されてきたが、

東アジア圏内での軍事衝突は それと比べほとんど見当たらない

日中韓軍事衝突は、5世紀の白村江の戦いが有名だが

それ以外の軍事衝突はほとんど見られず、

中国と隣合わせの朝鮮も、中国宗主国として敬うことで 積極的に軍事衝突を避けている。

また、日本財政が苦しかった足利義満時代に 明皇帝朝貢を行い、逆に莫大な利益を得ていたとされる

属国朝貢してきたらそれ以上のお返しをしないと面子が立たない為、勘合貿易を行えば行うほど日本は儲かった)。

日本朝鮮は 大国である中国をうまく利用しながら利益を得、

中国は それにいい気になって 他国を可愛がっていたという感じ。

このように、東アジア圏の支配構造欧米の支配制度とは本質的に異なり、

道徳により統治するという関係が強く影響していた為、大規模な侵略戦争があまり起きなかった

はなぜ、長年続いてきた良好な関係が今は見る影もないのかというと

19世紀あたりから列強である欧米圏が次々と進出してきたため、

軍事力の無い東アジア圏も、生き残りをかけ富国強兵をせざるを得ない情勢だったからだ

その後に起きた数々の戦争や侵略、支配によって

東アジア民族同士の関係や気質も大きくかわろうとしているのだと俺は思う

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん