はてなキーワード: 根底とは
白ハゲマンガなんてのが今あるらしいんだけど、大体の場合は「私の話を聞く=旦那が変わる」という大前提のもとに話が書かれているが、言いたいことは「私の話を聞いていない=旦那は私をなめている、バカにしている、差別している」という方向の話になっている。
この根底にあるのは「私は正義だから言い方や会話のスタイル、内容に関わらず旦那は私がどんなつもりでいるかをきちんと読み取って言うことを聞いて反省して自分を変えるべき」という思想だ。
要はラディカル・フェミニズムだし、白ハゲマンガがひた隠しにしているポイントでもある。
多くの女性はこの根底にある思想に気づかないで話をするので旦那が硬直して言うことを聞くことができなくなっていることに全く気が付かない。
なめてて言うことを聞いてないんじゃなくて、場が攻撃的になりすぎて以下にダメージ少なくその場を乗り切るかに注力するのだから本来話したいことなんか聞いている場合じゃないっていうことに気づかない。
いくら言っても聞いてくれないんだから攻撃的になるのは仕方ないという人もいるが、ちっとも仕方無くないし、こういうときはのっけから攻撃的に話が始まっている。
これまでの蓄積があるというが、蓄積なんかないふりをしてひたすらに鬱憤を溜め込んでいるからある日いきなり攻撃的になったように見えている。
聞いてくれないなら聞いてくれるように工夫するというのが大事だ。
本人たちは工夫していると思いこんでいるかもしれないが、攻撃的になるのは工夫ではないし、男性を叩いてしつけるタイプの動物かなんかと思っているからそっちに行くのだ。
白ハゲマンガの中の男性が女性をなめていない、ということは言わないが、余計にそう見えるような演出がなされていることは明白だ。
全体的な構図はいくら訴えても聞いてもらえない被害者の主婦と自分をなめて馬鹿にしているからちっとも聞き入れてくれない加害者の旦那、で固定されており、コミュニケーションに問題がある、問題は妻の側に解決の責任があるという視点はまったくない。
確かに旦那の言うように「俺のものはそのまま洗うか別にしてくれりゃいいよ」が実は解決策だ。
吐いていく靴下がなくなろうがワイシャツがなくなろうがそんなことで嫁を責める人はいないだろうが、想像の中の色んな人に責められているのでもうどうしようもない。
あの手の漫画に出てくる男性は、いろんな女性が持ち寄ったクズ男エピソードの集合体なので、どうあがいても悪者にしかならない。
上司は怒っていたからその分だけ不幸になって、世界の80億人の幸福・不幸ランキングの順位は落ちたことだろう。
相対的にそれ以外の79億9999万9999人は幸福・不幸ランキングは優位になったことだろう。
さらに、その様子を目の前で見て楽しむことができたオレは79億9999万9999人の中でもかなり幸せな方だったはずだ。
上司はいったい全体何をそんなにもピリピリと怒りっぽくなるんだろうな。
一応管理職だからそれなりに金はもらってるだろうけど、年齢的に取締役はまず無理だからしょせんはオレと同じく労働者という立場だから会社の経営にそこまで必死になることもないのに。
まあでも感謝しなくちゃな。
上司が勝手に怒って幸福・不幸ランキングを自ら下げていて、その無様な醜態をオレに見せるというエンタメを提供してくれるんだからな。
人間怒ると感情的になって、まともな人でも変なことを口走るよな。
具体的なことを書くと特定されるから書かないけど、語句とか口調とかリズムとかその人ならではのオリジナリティにあふれているよな。
そこが作られたお笑いとは違ってていいよな。
お笑いなんて台本に従って作られたものだし、アドリブでもある程度のパターンが決まっているからな。
怒って感情的になった人間は予測不可能だし、笑わそうという意思もない。
『バクマン。』作中で提唱された『シリアスな笑い』ってのが近いと思う。
作者はギャグのつもりでは描いてないけど、シリアスな場面なのに笑えてしまうってやつ。
身近な例だと、葬式で笑ってしまうってのも似たようなものだと思う。
身内の死という悲しい場面で、高い教養を身に着けた僧侶が、鎌倉時代から連綿と伝わるお経や念仏を唱える。
その非日常さと、常人には理解の届かぬ言葉や作法の数々は、作られた笑いをはるかに凌駕するエンターテイメントだ。
人が死んだらなぜかスキンヘッド・モンクが訪問してきて、日本語かどうかもわからぬ言葉でのゲリラライブを強要するんだからな。
駅とかで知らない人から怒鳴られたら誰だって怖いしオレだって怖いよ。
でも怒る人がオレの上司で、知識も教養もあってメチャクチャ仕事のできる人で、普段は優しい人だもん。
そんな人が怒ると感情的になって、普段の理路整然とした言葉遣いや立ち振る舞いからかけ離れたことをしでかすんだからな。
笑いをこらえるのに必死だったよ。
さっき、「具体的なことを書くと特定されるから書かない」って書いたけど、やっぱり書きたくなったからちょっとだけ書く。
出川の定番芸といえば、落とし穴に落とされて「頭おかしいだろ!」と叫ぶこと。
上島なら、熱湯風呂に後ろから突き落とされて「殺す気か!」と叫ぶことだ。
成人男性が上記の言葉を叫んだら大抵は人を怯えさせることになるけど、出川や上島はしゃべり方や所作振る舞いで笑わせてしまよね。
あれに近いけど、上司はその場に応じた臨機応変なアドリブを入れてくるし、その言葉の根底にはオレのためを思ってのことっていう思想もあるんだもん。
面白いに決まってるよ。
今日も一日、あの社会に疲れ果てたわ。ワイのことを理解しようともしない、冷たい世界で何とか生き延びてる感じやで。低学歴で定収入、そんで気持ち悪がられるおじさんやってのがワイの立ち位置。正直、こんな生活、誰が望むんやろうな。
ある意味で、ワイとは正反対の存在がフェミちゃんや。彼女は生粋のフェミニストで、男を根底から憎んでる。女性が常に男性より優遇されるべきだという考えを持っているんや。ワイらがどんなに話し合おうと、根本的な部分で決して理解し合えないんやろうな。それが社会や世の中の全てに対するワイの憎しみをさらに深めるんや。
でも、こんな日々の中でも、ふとした瞬間に見える光がある。例えば、ワイとフェミちゃんが、たとえ一時的でも共通の敵に対して同じ立場に立つことがある。それが社会の不公平さに対する怒りや、権力の乱用に対する反感なんかや。そういう時、ほんの少しでも「ワイらも同じ人間なんやな」と感じる瞬間がある。
だけど、結局のところ、その一時的な連帯感もすぐに霧散する。ワイは再び社会や世の中への憎悪に回帰する。フェミちゃんもまた、自分の信じる正義のために戦い続けるんやろう。
今日もまた、この日記を書きながら、ワイは自分の居場所を探しているんや。誰かに理解されることを望むわけじゃない。ただ、この世界でワイがワイであるための意味を見つけたいだけや。
安倍派(カルト最強硬過激派)と、その他有象無象では大分温度差があるような気がする。
安倍派は安倍を神格化し、安倍の全てを肯定し、意味を見出す、文字通りの気狂い宗教だが、
その他有象無象はそこまで気が狂ってないと言うか、「自分達に恩恵があるから拝んでおこう」とか、
岸田首相が建設業界に賃上げを要請したニュースが飛び込んできました。
まずは岸田首相,ありがとうございます。
しかし,事情はもっと複雑で,労務単価の引き上げで救えるのは全国規模のゼネコンと全国規模の専門業者だけです。
そもそも「労務単価」とは何か。ざっくり言えば,現場で作業している人たちの1日分の給料の基準です。
公共工事はこの基準をもとに金額を計算するので,労務単価が上がれば公共工事をやるときに建設会社がもらえる金額が増えます。
だから「労務単価を5.9%上げたから,その分給料も上げてくれ」と言っているわけですね。
ごもっともです。素晴らしい。おそらく全国規模の業者は初任給がかなり上がることでしょう。
しかし真に人手不足に苦しんでいる地方の中小建設企業は助かりません。
技能者の不足も深刻なままでしょう。
中小建設企業が人手不足なのは,単純に「給料が低いから」ではありません。
私は田舎の中小建設会社で監督をやっていますが、建設業は比較的賃金が高い部類です。おそらくこの傾向は都会でもそう変わりません。
加えて,近年の建設業界は未経験者に優しい傾向にあります。施工管理技士の試験制度が改正され,資格取得の際に学歴がほぼ関係なくなりました。
試験に受かれば,現場で必要な経験年数は高卒も大卒も建設学科出身者もそれ以外も皆平等です。
人材にわがままを言える全国規模の建設会社は別として,中小の建設会社は未経験者や畑違いの人間も大抵は採用しています。
しかしながら求人は埋まりません。新卒が毎年入社するのはもはや珍しい事態です。
非正規雇用や正規雇用でも給料の低さに苦しむ方はいる。建設業はそこそこ給料が良く未経験者でも採用される確率が高いのに人手不足に苦しんでいる。
結論から言うと,全国規模の大企業は別として,多くの中小建設企業や技能者は「労力に給料が見合ってない」から不人気なのでしょう。
建設業の給料は相対的に高いが,「こんなきつい仕事はその程度の給料でやりたくない」というのが実態ではないでしょうか。
ではどうすればよいのか。
法外なほど給料を上げれば建設業は息を吹き返すでしょう。しかし,国の予算は有限で,ある程度は公共工事を安くしないと文字通り国が滅びます。
給料を上げると同時に,もう1つの要素をなんとかしなくてはなりません。
これから先建設業界が生き延びるには,労力を下げ,給料を上げなければならない。
労力を下げ,給料を上げなければならない。しかし,建設業界は労力を下げる努力を怠っていました。
資料によると,建設投資は平成4年をピークに平成23年まで下がり続け,それ以降は上昇に転じています。
一方,建設業就業者数は平成9年をピークに平成23年まで下がり続け,それ以降はほぼ横ばいです。
平成9年から平成23年までの間は,「仕事は少ないが人は多い」状態にありました。
10ある仕事を5に減らせる技術があったところで今は20人いますから必要ないです,と省力化は進みませんでした。
業界全体が真面目に省力化を始めたのは,建設投資が増加に転じたここ10年くらいの話です。
しかし遅すぎました。15年のビハインドを取り返せる体力は中小建設企業にはもう残っていません。
他業が5年〜10年前には既に使っていたような技術を最新技術のように持て囃す有様です。
「建設業は安全第一だから枯れた技術を使う」とか関係ありません。単純に公共工事の基準の整備や業界の人間の知識が遅れているだけです。
そして人手不足がさらに技術の導入を遅らせる,負の連鎖から抜け出せていません。
建設業の現場を地獄に等しい状態にしている黒幕は民間工事です。民間建築工事は地獄です。
国の工事は土・日・祝日を休む前提で工期の計算や賃金の計算が行われています。
都道府県レベルでも少なくとも土・日は休む前提です。ですから,国や地方自治体が発注する工事は,かなりホワイトな工事です。
やばいのは民間企業の建築工事です。発注する人の頭には「いつから建物が使えるか」しかありません。
発注者も営利企業である以上,早く建物を使いたい,工期を短くして安くしたいというのはごく自然な考えです。
しかし4週間で6日休みを前提で考えています。「ちょっと頑張ってもらって日曜以外は工事してもらおうか」なんて考えてます。
自社の社員にはやらせないことを,平気で建設業に要求する奴らです。
「不当に短い工期設定の禁止」などと言われていますが,仕事を頼む側が圧倒的に強い力を持つ以上,どうしようもありません。
建設業自身の問題や建設業を取り巻く環境の問題が建設業を崩壊へと導いています。
今までの建設業界の怠慢と,建設業を軽んじる風潮とが原因ですが,これらは今さらどうしようもありません。
建設業が少しでも長く生き延びることを祈ってください。
A:
量子力学では「測定問題」または「波動関数の崩壊」として知られており、量子の世界が私たちが経験する古典的な世界とどのように相互作用するかについての基本的かつ非常に不可解な側面です。
量子力学では、電子のような粒子は、測定または観測される前に、複数の可能な状態を重ね合わせて存在します。
この重ね合わせは、すべての可能な状態とそれぞれの確率を含む波動関数によって記述されます。
しかし、観測や測定を行うと、重ね合わせが崩れ、粒子の状態は可能な状態の 1 つに「崩壊」します。
したがって、たとえば、測定前にスピンアップまたはスピンダウンできる電子がある場合、その波動関数は両方の状態の組み合わせになります。
しかし、そのスピンを測定すると、波動関数が崩壊し、スピンアップかスピンダウンという 1 つの明確な結果が得られます。
この「崩壊」、つまり測定時の状態の決定は、量子システムの進化にランダムで確率的な要素を導入しているように見えます。
また、測定後にその明確な状態が分かるようになったため、システムに関するエントロピーや不確実性も減少すると考えられます。
このことの意味は深く、物理学者によって何十年にもわたって議論されてきました。
1) 不定の量子領域を明確にする何か特別なことが測定や観測にあることを示唆しています。 しかし、「測定」とは何でしょうか? 私たちの意識的な認識は? それとも環境との相互作用でしょうか?
2) 古典物理学を支配する決定論的法則と矛盾する固有のランダム性または予測不可能性を量子事象に導入しているように見えます。
3) 観測とは独立して存在する客観的な現実についての私たちの概念に疑問を投げかけます。 観測するだけで結果が変わるようです。
4) 巨視的な世界では、このランダム性は通常平均化されます。 しかし、ランダムな瞬間に起こる自然放射性崩壊のような小さな観測可能な影響はあります。
コペンハーゲン解釈や客観的崩壊理論のような解釈は、このランダム性を自然の基本的な側面として受け入れています。
多世界解釈のような他のものは、波動関数の崩壊を完全に排除しようとします。
しかし、この測定問題が量子力学と現実そのものの理解に深刻な課題を投げかけていることに全員が同意しています。
A:
意識と量子力学における測定問題の関係は深い謎であり、物理学ではまだ完全に解決されていません。
ただし、あなたの質問に対するいくつかの視点は次のとおりです。
意識とは、認識し、認識された現実を持つという主観的な一人称の経験を指します。
量子の用語では、意識は、測定/観測が行われる前に、可能な重ね合わせ状態の範囲のうちの 1 つの明確な状態のみを経験するように見えます。
意識が重ね合わせをどのように解決するかについては、いくつかの解釈があります。
1) フォン・ノイマン・ウィグナー解釈は、意識が客観的な波動関数の崩壊を引き起こすことを示唆しています。 私たちの心は、重ね合わせから何らかの結果を特定します。
2) コペンハーゲンの解釈は、波動関数の崩壊が起こったとき、観察者の意識は単に確率的結果の 1 つを目撃しているだけであり、波動関数の崩壊を引き起こしているわけではないことを意味します。
3) 多世界解釈では、真の崩壊は存在しないとされています。 考えられるすべての結果は、現実の別の枝として存在し続けます。 意識は実際に選択することなく、それらの分岐のいずれかに留まるだけです。
4) 意識自体は、観察された状態を引き起こすのではなく、根底にある量子状態から生じる高レベルの創発特性である可能性があると主張する人もいます。
正確なメカニズムは不明ですが、ほとんどの解釈は、意識は測定後に可能な状態のうちの 1 つを主観的に経験するだけであることに同意しています。
観察者兼参加者として、私たちは単に自分の意識が枝の 1 つにあることに気づきます。
重要な謎は、意識が分岐を選択する際に積極的な役割を果たすのか(フォン・ノイマン・ウィグナー)、それとも多数の同様に現実的なもの(多世界)の中の 1 つの分岐に単に自分自身を見出しているだけなのかということです。
これを解決すれば、意識の形而上学的性質と量子力学との関係が解明される可能性があります。
A:
量子力学の多世界解釈 (MWI) では、意識が特定の枝または世界に「留まる」または持続するように見える理由は、デコヒーレンスの概念と、枝がどのように本質的に相互作用せず、それぞれの枝から孤立するのかという考えと関係しています。
1) MWI では、測定が行われるとき、普遍的な波動関数は実際には崩壊しません。 代わりに、それは直交成分に分解され、それぞれが異なる可能性のある結果を表します。
2) これらのコンポーネントは時間の経過とともに進化し続け、より多くの差別化された状態、つまりさまざまな結果が実現される「世界」に分岐します。
3) ただし、これらの分岐コンポーネントは、環境の相互作用やもつれにより、非常に急速に動的にお互いからデコヒーレントになります。 これにより、異なる世界は相互に干渉する能力を失います。
4) したがって、すべてのブランチが異なる既存の現実として共存しますが、動的デコヒーレンスは、それらが相互作用しなくなり、それらの間に測定可能な相互作用や遷移が存在しないことを意味します。
5) あなたの意識は、コヒーレントな量子状態自体で構成されており、デコヒーレンス後の 1 つの枝の中に完全に存在します。 別のブランチと再結合したり、別のブランチに移行したりすることはできません。
6) 実際には、すべての枝が等しく現実であるにもかかわらず、デコヒーレンスプロセスにより意識がその枝内に閉じ込められ、他の枝の並行現実を体験できなくなります。
したがって、意識は積極的に分岐を「選択」するのではなく、デコヒーレンスのプロセスによって、最終的には完全に 1 つの分岐した現実の中に存在することになり、多重性を直接経験する能力はありません。 このため、意識は一貫した 1 つの軌道だけをたどっているように見えます。
まず、やつらの根底にある考え方は「勝ち」だけだということを言っておく。「負け」はない。
例えば、あるクズの学生が万引きしたと仮定しよう。学生は、どうしても学校や親には知られたくない。なので、その場で土下座したり、泣いたり、喚き散らしたり、プライドも何もなく、とにかくその場で収めてもらうように足掻く。
さて、では、無事に学校や親に連絡はいかず、解放されたとしよう。その学生が思うのは「助かった」ではなく、「勝った」である。自分は店長に許されたんだとか、学校や親にバレずに済んで良かった〜ではなく、「店長に勝った」みたいな、そういう考え方をしている。
いや、待ってくれよ。学校や親に知られたくなかったんじゃないの?だったら、バレずに済んでよかったと思うんじゃないの?
違うんだよ。学生にとって、それは、あくまでも「勝ちの条件」を設定してるだけで、本当にバレたくないわけではない。バレたら恥ずかしいから、バレたら怒られるから、みたいなそんな子供じみた理由すらない。学生はそういうゲームをしてるんだよ。もちろん、万引き自体、「バレなかったら勝ち」なわけなんだが。
では、逆に、店長に許されず、学校または親に連絡がいったとしよう。これは「負け」だろうか?いや、違う。これは「たまたまこの店長の性格が悪いから、自分は損をした」になる。つまり、店長のせいである。そして、学生はあろうことか、次のゲームを始める。例えばそうだなぁ…親に怒られずに済ます、とかね。
すると、学生は「受験でストレスが溜まっていた」や「周りの友達がやっていて、やらないと仲間はずれにされるから」のような、相手に「仕方ない」と思わせるような嘘をつく。あ、もちろん嘘ね。ストレスなんてないし、そんな友達もいない。
そうして、親に軽く怒られはしたが、最終的には「もう、こんなことするなよ」や「次からは相談しろよ」のような、円満な解決を迎えたとしよう。はい、これ学生の「勝ち」です。親にそんな怒られずに済んでよかった〜ではなく、「はい、俺の勝ち」です。
さて、では、すべてがうまくいかず、親にもこっぴどく怒られて、険悪な雰囲気のまま自宅へ戻ることになったとしよう。残念ながら、こればっかりは流石の学生も「どうやっても勝ちにはならないな」と考えてます。しかし、それは「負け」ではない!
「あーあ、運が悪かったな。あの店の店長もクソだったし、親の機嫌も悪かった。タイミングも悪かったかもな。今度やりたくなったら別の店でやるか。次は絶対にうまくいく。ほんと、酷い1日だった」
これです。負けなんか認めるわけがない。
たまたま、うまくいかなかっただけ。店長がもっとマシだったら、親の機嫌が良ければ、何か漠然とだがタイミングが悪かったように思う。こういうことしか考えない。反省もしないし、負けも認めない。
でも、加害者の中にはちゃんと反省してる人もいるじゃないかと、そういう意見もあると思う。確かにそういう人もゼロではないと思うが、ほとんどは、とんでもなく本当に酷い目にあって、「2度とこんな目にあいたくない」と思ってるだけだということを俺は主張したい。
例えば、さっきの話でいくと、親にボッコボコに殴られて本当に死ぬかと思ったとか、avみたいに店長に体を要求されて初体験を奪われて、精神的に大きなダメージを負ったとか。逆に言えば、そこまでしないと、何度も加害を繰り返す。
元より、人の痛みが分からないから加害者になるんだから、痛みを分からせてやれば加害をやめるかもしれないということ。それが良いこととは思わないが。
最後に。ふと、自分の人生を振り返って、本当に酷い目にあったな、と心が沈んでしまうことがある。そういう時、俺が元気でいられるのは俺に寄り添ってくれる人がいた、という記憶があるからだ。
もし、周りで何かつらい思いをしている人がいたら、加害者を責めることよりも被害者に寄り添うことを優先してほしい。加害者っていうのは、どれだけ優しい言葉で諭しても、そう簡単には反省しない。創作みたいにうまくはいかんのだ。
でも、被害者はちゃんと救われるし、助けてくれたといういい記憶があると、自分もいつか助ける側になるかもしれないから、と奮起させることもできる。だから、加害者を責めるのをやめて(誹謗中傷をやめて)、被害者に寄り添うことを優先してほしい。
後、別に体罰を復活させろー!みたいな立場でもないです。子供に対する体罰はほんとにダメだと思うし。
ほな、さいなら。
あの国は「AIがけしからんのでお上の一声で規制する」という事態が発生しない社会という話だ。
まず第一に自由な市民の活動で生まれたAIをお上が一方的にどうこうして、それに市民が大人しく従うということがない。
なぜならアメリカという国はそもそもお上に唾吐いた者同士の集まり、移民国家だからだ。でもそういう人間でも最低限のルールを守って力を発揮すれば自由に経済活動できる。そうして生まれる化学反応こそがイノベーションの原動力なわけで、ここに国が口を出すということは基本的にやりたがらない。物申したければ各人が裁判所でやれ。そういう国だ。まぁそういう国だから未だに銃規制すら満足に進まないわけだが。
じゃあ倫理的にはどうなのか? もちろんアメリカ人にも倫理はある。奴らの倫理の根底にあるのはキリスト教だ。アメリカという国は日本人が思うより遥かにキリスト教の影響が強い。それはもうどんな小さい田舎町にも教会があるし、日曜の礼拝堂は地域の社交場みたいな感じでメチャクチャ人がいる。大統領の締めの言葉はいつだってGod Bless Americaだ。
で、キリスト教における労働とは基本的には神が与えた罰だ。だからアメリカ人は仕事自体をどうこうする施策には基本そんなに頓着しない。仕事自体をどうこうした結果によって発生した損害は訴えて勝ったら請求はできる。その勝ち負けはAIがもたらす将来的な公益や機会との天秤にかけられることになるだろう。
「20代のうちにこれ読んどけ」とか「本を読んでない俺が薦める本」とか、そんなの見てたら俺も本紹介したくなったからするわ。
1999年に埼玉県で発生した桶川ストーカー殺人事件を追った週刊誌記者のルポルタージュ。事件が事件だけにこういう言い方は不適切かもしれないが本当にとんでもなく面白い。こんな酷いことができる人間が本当に存在するのか、警察はここまで人間の命を軽んじるのか、マスコミは面白おかしく報道できれば事実なんてどうでもいいのか……、とにかく最初から最後までずっと衝撃を受けっぱなし。この世界の見え方がぐわんぐわんと歪み、最終的に気持ち悪くなってくるほどの恐怖や憤りを覚えた。また、文庫版あとがきにも言葉を失った。打ちのめされる読書体験がしたい人は読むべき。
「人間って生き方下手すぎるだろ、ちょっと動物見習ってみろよ」みたいな本。半分漫画、半分解説文で猛烈に読みやすいから気軽に何度も読み返すうちに大好きになっていた。゛「生存戦略」がテーマのビジネス書”と紹介されているが、バリバリのビジネスマンから完全なる無職まで、老若男女誰もが普遍的に楽しめて勇気づけられる内容になっているのがすごい。
世の中なんてクソくらえ、と思っている人にはこれを読んでほしい。世の中には「世の中なんてクソくらえ」と思っている人が割と大勢いて、その中でも哲学者中島義道はかなりクソくらえパワーが強い人間。中島が嫌いなのは「常に感謝の気持ちをわすれない人」や「自分の仕事に誇りを持っている人」、「けじめを大切にする人」など。普通だったら良いこととされる考え方の中にある欺瞞や建前を丁寧にあぶりだしてすさまじく罵倒する。「わが人生に悔いはないと思っている人」に対して「ああ、そう思いたければそう思いなさい!そう思って、さっさと死んでいくがいい!」とブチギレまくっている。中学生の頃にこの本を読んで価値観を根底からひっくり返されるような衝撃をうけた。
はいきました、直木賞作品。小説には゛奇妙な味”という、まあ今ではほとんど死語になりつつあるジャンル?があって、阿刀田高はその名手。なんとも後味の苦いブラックユーモア満載の短編が13話入っているのだけれど、文章とオチのキレがすごい。ありふれた日常風景から導入して途中に「おや?」と思い、その違和感がいつの間にかとんでもない事態になっている。やっぱり短編小説は読みやすいよね。作品世界に慣れて没入し始めた時に終わってしまうので物足りないこともあるけれど、これはどの作品も大体最後は破局的な結末でスパっと終わるので読後感が爽やか。
めっちゃふざけたタイトルだが、中身はめっちゃ理系!マジで想像以上に理系。文系の私にはさっぱりわかりませんし、もはや何が書いてあったのかすら全然覚えておりません!しかし何というか、宇宙人と出会った時に恥をかかないためにはどういう教養を身に着けどんな会話をすればよいのか、その会話の先に何が待ち受けているのか。そんな考えたこともないようなシチュエーションを解説してくれる宇宙会話ハウツー本として不思議な魅力がある。講談社ブルーバックスという自然科学、科学技術系の新書シリーズの中の一冊。
光文社古典新訳文庫。その名の通り『カラマーゾフの兄弟』とか『方丈記』とか古今東西の古典的名著を、今生きている言葉でとても読みやすく出版してる神シリーズがあり、その中から出会った一冊。一言でいえば若い男女が愛の炎に燃えて駆け落ちする話、なのだがとにかくエネルギーがすさまじい。ああ、お互いのことが好きで好きで堪らないけどとにかく金がないから親から金借ります、その金使っちゃったので友人騙して金借ります、だめだ金足りないから詐欺します、どうやら彼女が浮気してるぞこのビッチめ、ごめんやっぱり愛してるよチュッチュ♡、そうこうしてるうちにまた金なくなったから人殺します……、最初から最後までやりたい放題でものすごい疾走感、最高に面白い。驚くのはこれが300年前の小説だということ。
小学生の頃図書館で読んで不思議な気持ちになった漫画。猫と人間が同じことをしゃべる世界で、性格が終わってるデブ猫ヒデヨシとその友達のテンプラやパンツたちの日常の話。最近久しぶりに読み返しているがヤバい、毎回最後のコマで泣きそうになる。降る雪の上を歩ける靴を履いて「ほんとうに・・・粉雪は冬の散歩身だね」って……(´;ω;`)。別に感動的な話ってわけでは全くないんだけれど美しくて。余韻って言葉はこの漫画のためにあるんじゃないのかってくらい、毎話余韻がすごすぎる。
無人島に一冊だけ持っていくとしたらこの本を選ぶ。40年近く前の本だが、この本はそれだけ長い間日本全国津々浦々、大都会の本屋で、片田舎の図書館で、おじいちゃんちの本棚で、様々な人にひっそりとけれど強烈に衝撃を与えてきた名著。「ものぐさ精神分析が本当に面白くて」みたいな話を、全く別々の3人から聞いたことがある。日本人について、歴史について、性について、すさまじい筆力でぐいぐいと独自の理論が展開されていく気持ちよさ。今読み直してもその理論が社会にピタッと当てはまってしまうような鋭さ。今後もずっと読み続ける一冊。
小学生の頃に殴り合いの喧嘩をした相手と同姓同名(年齢も合致、居住区もほぼ合致)の男が殺人で逮捕されたというニュースを見て朝から萎えてる。
2月25日に札幌のコンビニで3名を死傷させる犯行に及んだ宮西浩隆容疑者に思うことを書く。
彼とは小学校の同級生だった。当時から彼は攻撃性が高く異様な雰囲気だったので、クラスメイトからも敬遠されていた。
孤立している彼を可哀想に思った私は、たまに彼と一緒に下校したり(彼の実家は小学校の
近所で小さな店を営んでいた)遊びに誘ったりした。
彼のどこが変わっていたかというと、たとえばさ行をうまく発音できなかったり協調性がなかったり、言動がやや過激だったりした。おまけに体格がよかったので、大人も手を焼いているように見えた。
たまに暴力事件を起こすこともあったが、とりわけ
問題児だったわけではない。
ただ、少なくとも当時の彼にとって唯一の友達と言っても過言でなかったであろう私にさえ、彼は暴力を働いた。応戦したものの私は小柄な子だったので、彼に簡単に突き飛ばされてしまった。その時、彼が「なんだ、たいちたことないじゃん」と言い
放ちにやにやしていたのを覚えている。私にはとても不気味な光景だった。あまり覚えていないが、それから疎遠になったと思う。彼はいっそう孤立した。
似たような出来事が彼の人生で繰り返されたのは想像に難くない。
宮西容疑者には何かしらの障害があったのだと思う。それだけでなく
生育環境も良くなかったかもしれない。彼の実家の様子(店頭)は殺伐としどこか荒んでいたし、理由は忘れたが(少なくとも私は)彼の家族や両親の話題をタブーだと当時は思っていた。私が勝手にそう思っていた可能性があるし、どこかで彼の複雑な家庭環境を小耳に挟んだ可能性もある。
いずれにせよ、
小学生の時点で既に異様だった彼が健常者とは考えにくいと思う。授業中にいきなり立ち上がって絶叫したこともある。行動がもはや健常者のそれではなかったのだ。
一方、実は冗談が好きでよく笑う男でもあった。
彼の犯行は許されるものではないし、彼を擁護する意図もない。ただ、もし彼の生育環境が
少しでも違ったり、十分に表面化されていない“見えない障害”に対する社会的な理解やサポートが整備されていたりすれば、犯行に及ばなかったのかもしれない──と思うと残念でならない。
「狂った男の凶行」として処理してしまうのは、問題の根底にある真の課題をみすみす見過ごす粗末なやり方だと
私はどうしても感じてしまうのだ。
被害者やご遺族の無念を晴らすためにせめてできることがあるとすれば、それは「同じ悲劇を繰り返さないように皆で努めること」ではないだろうか。
この問題の根底には、見えない(あるいは見えにくい)障害や問題に対する無理解や無策があるように思う。
障害だけでなく、介護や片親、精神疾患など複雑な事情を抱えるご家庭も然り。様々な世帯に通じる課題が潜んでいるように思うのだ。だからこそ考える価値があると思う。
宮西容疑者は確かに狂っていたのかもしれない。しかし彼をいっそう狂わせたのは、もしかすると社会の無理解と無策かもしれない。
彼をただの狂人として糾弾するのでなく、些細ではあるがこの投稿を参考に社会的問題として考えてくれる人が一人でも増えてくれればと思う。
お亡くなりになった方のご冥福をお祈りするとともに、被害者の方々の一日も早いご回復を願っております。また、ご遺族の方々には心よりお悔やみ申し上げます。
そもそも人をけなすということは難しい行為である。まず相手を知らなければならない。ここではその相手のことを敵と表現しよう。
敵の情報を知らずしてけなせば、的はずれな批判だったときに敵はノーダメージとなる。敵がダメージを得るかわりに自分が仕掛けた技によって自分が自爆する。それはもう惨めなものだ。
そしてまた「なぜ自分はこいつをけなそうと思っているか」という感情についても注意を払うべきかもしれない。
明らかに相手が自分よりも格下であり、あえて自分の中で言うまでもなくそうなのであれば、あえてけなす必要はない。けなすことで変に敵対されて足を引っ張られては困るからだ。それでも相手をけなしたいと考えるとき、多くは自らに強いストレスがかかっている状態である。けなしたいと考えることの根底はストレスである。
敵をけなすことで得られる利得は自らのストレスをやわらげること、それから敵が苦悶の顔をしているのを見て世界の正当さを確認することであると思う。
つまりけなすことで「敵に打撃を与え破滅させることで、自分の利益を拡大すること」を狙っていると言い換えられるかもしれない。
そのためにわざわざこちらが強制的に「お前は愚かだ」と伝える必要はない。「自分はもしかすると愚かかもしれない」と気付かせることが重要なのだ。その大きな恥こそが強い打撃であり、相手の自己破壊につながる。
しかしこれはけなしではない。そうした覚醒の機会を提供することは別に悪徳ではないからだ。
したがって、何も言わずけなさないこと、そして相手を知っておくこと、もし敵を知ろうと思わなければ敵とはまるごとそういうものなのだと納得することが肝要になる。それによって相手は愚かであることに永久に気付かない愚かであり続ける人間でいられる。それこそが強い処罰なのだ。
何も言わず相手をよく知るだけで「お前はそういう人間でありたいと考えているのか」というシンプルな問いを突きつけることになる。
この問いによって人間は容赦のない攻撃にさらされる。自らが持つ刃を全身で自分に向けることになる。
けなさずして相手は自然と萎縮し、あたかもけなされたかのような振る舞いをする。そしてそうした状況を是とする。これがけなすことの極意であると思う。
二次元規制を声高に叫ぶ思想の根底って他人をバカだと思ってるところだと感じる
そりゃ一部とんでもないキチガイは居るし創作の性暴力とかを実現可能って考えちゃうかもしれないが、全体でみたら何%なの?って話で
ソースないけど1%に満たないんじゃないの?
そんな極一部のあたおかを一般像扱いする事自体が創作を楽しむ人に対する蔑視であり、分別つく人にとったら不愉快極まりない
そして実現しようとするあたおかに必要なのは表現の規制じゃなくて創作の内容を実現したら大変な事になりますよ、って教育なり指導なんじゃないのかな
規制って臭いものには蓋っていう対処法だから、根本的な解決を目指したいなら先にやるべきは分別をつけさせる事なんじゃないかなと、頭の悪い私は思うのです
多くの日本人にとって宗教は「必要のないもの」という感覚が共有されているように思う。
しかし、本当にそうだろうか。
あるいは、「宗教は必要のないもの」という認識が宗教問題について冷笑的な態度を生み出し、本当にその問題について考えることを無意識的に避けてしまうのではないだろうか。
もともと、この語源となるラテン語における「Religio」は、「(精神的な)深い絆や繋がり」を指す言葉であり、もしくは今日においても「Religious」が指すように「信仰深い態度」そのものを指す言葉として使われていた。今日における「○○教」といったような言葉は、単に「○○の弟子たち」あるいは「○○の後を追う者」といったような言われ方がされてきたし、日本においても「茶道」「武道」などの言葉に残るように「仏道」など「○○道」という言葉があてがわれていた。近代に入るまで「信じる」ということが、より実践的な行為と不可分なものとして扱われていたことがうかがえる。
私なりに「宗教」という問題が何を指すのかを考えてみるところ、それはおそらく「生き方(a way of life)」そのものなのだ。
このように言うと、「ならやっぱり必要ないじゃないか。現に私たちは宗教に頼らずとも、自分たちの生き方に不満がないのだから」と言いたくなるかもしれない。それもひとつの「生き方」だ。
しかし、もう少し俯瞰してみると、これには以下のような構造が見て取れる。つまり、日常生活においては必要のないものもいるかもしれない。しかし、自身の生きる目的や指針などが根底から揺らいだ時にも果たしてそうだろうか。宗教的契機は必要なときに必ずや立ち現れるものなのかもしれない。
少したとえ話をしよう。
人類史における長い間、「地球は平だ」とする見方が優勢だった時期があった。しかし、当時に生きる人々はそもそも、大半が一生を自分の村で過ごす農民だ。たとえ貴族であっても交流の範囲は限られていた。シルクロードを通じて、遠くから物品が運ばれてくるとしても、それは「遠くから運ばれてきたもの」であり、具体的にどのような道を通ったのか、その間に地平線を意識することもなければ、時差について説明する必要もあまりなかったはずだ。つまり、「丸いと考える必要がなかった」のだ。
しかし、時代は移り変わり大航海時代。領域国家なども生まれ、人々の交流範囲がどんどんと全地球規模に発展していった。その過程で、例えば「他国より手短にインドに行ける方法」を知らなければいけなくなったし、「離れた地域の人と連絡を取る方法」を考えなければいけなくなったし、「大規模な航海を行う必要」にかられた。その過程で、新たな発見を迫られ、徐々に「地球は丸い」という考え方が受け入れられてきた。
これは、地動説VS天動説にしろ、アリストテレス目的論VSニュートン力学にしろ、ニュートン力学VSアインシュタイン量子力学にしろ、パラダイムシフトというのは、往々にしてこのように「新たな問題に気付き、これを解決する過程で、認識全体が変容する」ことによって起こってきた。
宗教においてもおなじことがいえる。
つまり、「宗教」というものも、そのようにより深い、目の前の生計や、人間関係、さらには政治や技術、そういった問題を超えた「自分自身は何のために生まれて、何のために生きているのだろう」「この世界は何のためにあるんだろう」といったような問題に対処するための、プラグマティックな実践論といえる。
そして、「自身の生き方に行き詰ったとき」「自身の生き方を見直さなければならない時」に、必ずこうした宗教的問題に取り組む契機が訪れるのだ。
これは、「既存の伝統宗教や新興宗教は信じるに値するか」といったような問題とは異なる、より根本的な「宗教的契機の構造」の話をしている。その上で、「どんな信仰体系がその個人にとって意味があるのか」は、その個人のマインドセットや、置かれている社会的・文化的環境によって異なってくるだろう。もちろん、その人が置かれている社会的・文化的環境によっては、特定の信仰体系が反社会的であるとされることも容易に想定できる。それこそ、人々が宗教的契機に恵まれる、「自身の生き方の根底が揺さぶられるショック」を受けた状態に、巧みな言葉を投げかけ、献身的な信者を作ろうとする商業主義的宗教は、必ず唾棄されなければならないと考えているし、宗教のもつ「強固な集団形成力」が誤った方向に向けられ多くの不幸を生み出した事例は人類史を見ても枚挙にいとまがない。伝統宗教に価値を見出すとすれば、それは「長年生き残ってきた風習」であることに意味を見出す保守主義的観点からだと言えるかもしれない。いずれにしても、それが「生き方」の問題である以上、ひとりひとり、さらに状況によっても異なって当たり前だし、多様な実践が見られて当然だろう。
「宗教は我々の生き方(a way of life)を根底から見直すときに必ず立ち現れる根本的な認識論であり実践論である」
みんな、信じられますか?
いま僕40歳で、今年息子が小学生にあがるんですけど、30年以上前に自分が小学校の算数で使った「算数セット」なるものを今も小学校では使ってるみたい。
しかも、こんなちっちゃいものに、全部名前を書くか、お名前シールを貼らなきゃいけない。 ※写真のおはじきにはピンセットで名前シールを貼りました。名前は消しています。
みんな、信じられますは大仰です。ものが小さいがために名前を書かなくてはいけません。
親業をやってきているのであれば、このほかにもこのような作業は当然たくさんあって、
40歳で親業がそこそこになっているのに、それを幾度となく感じずに過ごしてきているわけではないので、
それを思い出して欲しいです。
ちなみに、このおはじきは算数セットのほんの一部で、他にも小さいものがたくさん入ってて、その全てに一個一個名前を記す必要が。
先ほどと同様に親業として行なってきた、
同種の名前書き作業についてのこなしかたの選択を思い出せば良いかと思います。
https://x.com/xusa2023/status/1758005370973454495?s=20
そのほか多くの方がこの問題との自分なりの折り合いについて付けられていて、
それを親業を日々こなされているのであれば、
ネットや日々の親業でつながるネットワークの中でお話を聞いてると思います。
思い出して欲しいです。
名前なんて書かなくてよくね?
どれほど助かることか。
名前を書くことで自身のものが戻ってきた経験を思い出しましょう。
そんな、なくす?
そんな、落とす?
そんな、無くすし、落とします。
親業をされているうちに目にしたことはありませんか。
それを思い出しましょう。
仮に、1つや2つ落としたり無くしたとて、そんな困る?
授業に支障でる?
1つや2つ落としてたり、無くしたりしたとて、
ただし、ここでいう支障を支障と呼称することは
少し待って欲しいものです。
というのも、この落としたり無くしたりという事象が
そういって学校現場ないし学校という世界観は形作られています。
2017年の出生数は94万人ちょい、2018年の出生数は91万人ちょい。なので、今年日本で小学校に上がる子、つまり2017年度生まれの子はおそらく91〜4万人の間。
その保護者が日本中で日々の暮らしだけでも忙しい中、貴重な時間を削り出して、夜な夜なシール貼ったり名前書いてると思うとマジで無駄。愚の骨頂。日本人の生産性が低いって言われてるのそゆとこじゃないの?って思う。
「データは嘘をつかないが、詐欺師はデータを使い嘘をつく」という言葉があるように、
発言でデータを持ち出すときは、その奥にある何が言いたいのかという意図に
目を向けなければならないように思います。
効率を重視したいというのであれば、
今までのその日々の暮らしの中で悩んできた中で
それを思い出して欲しいです。
もちろん、同じように考えている人もいるのか、自治体によっては算数セットが学校にあらかじめ置いてあって、貸し出してくれるところもある。ただ、僕が居住している自治体では買わされた。
30年前も同じような状況があったように思います。
どういった事情が背景があり、貸し出すのか否かは個別具体になります。
が、
その地域の貧困率とそれに対する向き合いかたが昔ながらの事情というのであればあります。
現場サイドとして、どう解決していくのかということ中で生み出されたこともあります。
発言者はお住まいの自治体のすべての小学校で買わされることを確認された上での発言のようです。
ここにも、親業として今まで培ってきた情報が生かされていません。
児童の教材についての選定は各学校の実態に応じて、校長の裁量で行われます。
校長が変わり校長が貸し出しが必要であると判断し、校長が判断を起こせば、貸し出しにできるのです。
お住まいの自治体すべての小学校は算数セットは購入となっていることを確認することだったのか、
それとも、校長の現状の判断を変えるように働きかけることだったのか。
「みんなで知恵出し合って解決してこーぜ」
誰に対してどんな知恵をあなたは出し、隣の親や目の前の担任やその他の先生に知恵を出してもらうのを促すのか、
「サンデーモーニング」ではなく、当事者性の高いことなのだから、頑張っていきましょう。
あんま使った記憶も残っていないこの算数セット。日本中で毎年何十万セット買わされている人がいるのか、正確な数字は分からないけど、使われなくなった算数セットはきっと毎年数十万セット捨てられてるんだよね?
「データは嘘をつかないが、詐欺師はデータを使い嘘をつく」を繰り返しが行われているように印象付けられます。
意図的に自身が有利になるようにデータの提示をするのはあまり褒められたことではないと思います。
それってかなりのプラゴミの量だし、もう日本中の小学校に必要な数だけ置いといて、レンタルにして欲しいって思うのは自分だけ?
大雑把にプラゴミの量を減らせばいいという発言を無批判に垂れ流すには注意が必要な発言です。
レンタルにして欲しい、どなたからか借りたいという要望はあり、その具体的な解決の方途については返信で行くつも示されている通りです。
ご自身がコスパ、タイパが高いと思われるものに各自の判断で使えばよろしいかと思います。
すごい通知くるなぁと思ってミュートしてたら、ちょびっとバズってましたww
お疲れ様です。
親業として貴重な経験でこのような苦労を親にもかけていて、
その上で自分が今我が子に手間暇をかけてやれると思えて幸せな時間だったと思います。
多すぎて全部は見れてないものの、リプやら引用などをざっと見た感じ、結局算数セットを毎年各家庭に買わせて、名前を書かせることに関して納得できる合理的理由を述べているものは一つもなかったです。
何を持ってご自身が「納得できる合理的理由」と判断されたかを示されていないのでその部分については、なんとも言えませんが、
「納得できる」というところをわざわざ付けておられるところから、首肯しそうになってしまったリプや引用があったのでしょう。
親業って本当にそんなことばかりですよね。そして、通り過ぎると確かにその通りかもなあということ本当に多いです。
親業をやって数年経ち、就学前を終えようとしているステージならば、実感がこもって首肯できることのように思うのですが、
親業における子どもとの関わりって「納得いかない非合理なこと」しかないですよね。
子どもは非合理でしかないですよね。その非合理の最中の中でどうにかこうにか合理的だったり最適化されたりしたものに
日々そんな物心ともに周りとの関わりでどうにかこうにか生かされていることを実感する日々です。
まず、「算数セットをなくすに反対」については、僕は算数セット自体をなくせとは一言も言ってなくて、むしろ肯定派。算数セットが担っていたことをタブレットにしちゃうのも反対。手を使うのって大事だから。なくすべきは毎年各家庭に買わせることと名前書きという主張でした。学校に人数分プラス余分に算数セットを揃えておいて、貸し出すのがいいと思っています。
文脈としては、「算数セットをなくす」という思いを持ちながら書いていると読めます。
「手を使うのって大事だ」は返信等を読んだ上で、先ほど書いた通り、うっかり首肯してしまいそうになったものの中から取り入れ、
「なくすべきは毎年各家庭に買わせることと名前書きという主張でした」
書き始めを大仰に書くのでなく、修正でないのならば、上記の主張をはじめに明示してから始めると
先に述べた印象は薄らいだと思われます。
「学校の先生が忙しすぎて、今のあり方を変える余裕がない」については、そもそも算数セットを採用することを誰主導で(文科省なのか、自治体なのか、校長なのか、現場の先生なのか)決定してるのかよく知らないですが、文科省主導で貸し出し統一すればいいと思っています。僕は教師じゃないので現場のことはよく知らないし、「知らないお前が偉そうなこと言うな」というのもごもっともですが、教師ではない以上現場レベルの問題解決策までは提案しようがないです。そこまで提案しないと問題提起しちゃだめってなると、たぶん世の中何も好転しない。それは「みんなで知恵出し合って解決してこーぜ」かなと思っています。
ここがいただけない部分の根幹にあり、「サンデーモーニング」です。
算数セットを採用するのは、誰主導の選択肢から言えば、現場の先生の意見を吸い上げた校長です。
親業の中で情報を収集してきた中でそれはご存じであるかと思います。
無知を装うのは、卑怯だと思われかねないので宜しいことではないと思います。
文部科学省からの貸し出しの通知文を出すように要請をしているように見受けられますが、
通知文については効力がどの程度あるのかは不確かなところがあります。
お住まいの自治体の状態を具に調べるほど、親業としての手腕をお持ちのようなので、
「なくすし、おとすし、盗まれるから名前書きが必要」に関しては、だからこそ学校から貸し出すほがメリットは大きい。貸し出しなら各家庭で膨大な量の名前を書く必要もないし、先生たちの名前のない落とし物の持ち主探しの時間も節約できる。盗むに関しても対学校になるので、生徒間・保護者間のいざこざもない。
親業をやられている数年というところなので、
今までご自身の経験の中から「自分の落とし物があったら、名乗り出ることができる」ことや
「友人が落とし物をしたら、一緒に探してあげる」ことなどいわゆる非認知スキルの大切さについては、
実感しきりなところかと思います。それを思い出して欲しいです。
親業をやられていればこれも感じることかと思いますが、
自身の子どもが「盗まれる」だけでなく「盗む」側になるかもしれないということ。
また、その「盗む」ということをする場合に、早期にその行動について変容を促さなければならないことに
そして、「生徒間のいざこざ」が発生し、それを未然防止するために集団の一員としてどうするのか、
どのように全体最適を集団の一員として寄与するのか学ぶこと。これこそが、公教育の公教育たる意味です。
親業をしていく中で育児方針等を立てる上で、目にしたかと思います。
それらを思い出しましょう。
「保護者間のいざこざ」という部分については、まさに「子育ては、自分育て」なのだと思います。
蛇足ですが、小学生のことは「生徒」とは呼称しません。「児童」です。
「消毒云々、数年で足りなくなる云々」の運用上の問題は確かにあるとは思うけど、そもそもみんなで共有してる学校備品なんて他にもあるわけだし、どんな方法を選択するにしろ問題ゼロはありえないので、そこは運用しながら問題解決していくしかない。
学校備品ではなく、消耗品になります。そこは民間と理解は変わりません。
多くの学校では、予算が厳しくなっていることはありますが、消耗品になるので、必要性を論理的に主張することができ、
且つ校長と事務官のモチベーションが高ければ通りやすい部類になるかなあというのが実感としてあります。
もう一つは、良くも悪くも地域からの熱い要望があれば、通りやすいです。
あと珍リプ的なとこで言うと「名前書き不要=お前は子供が嫌いな人間」にまで飛躍したものもあった。そもそものスタートが名前書きに膨大な時間を奪われて、子どもとの時間が奪われていることに起因する主張だったんだよなぁ...って感じ。
語勢からそう読み取るのは容易でありました。子供との時間の中で名前かきをしている方も大勢いるのが返信からもわかったのではないかと思います。
親業をやっているのであれば、知り得る情報についても意図的になのか隠されているところもそう読み取らせることを容易にさせることに寄与しました。
もし、意図的に隠したのでなく、情報を得ていなかったのであれば
「子どもが好き嫌いかはわからないが、パートナーとともに一緒の目線に立って育児をしていない人なのだろうな、パートナー大変そうだな」
ということは言えるかと思います。どちらにしても、ざんねんな感じです。
私も残念なところばかりで、「余計なお世話だよ」と言いたくなることも他人から言われます。一緒に頑張っていきましょう。
「子どもの持ち物に名前を書く余裕もないのか」については、ひとり親世帯数の推移はひとまず確認した方がいいと思う。その主張はひとり親世帯ではない人のものだったけど、僕の姉はシングルマザーで働きながら二人の子育てをしてて、本当に大変そうな姿を見てるから「そんな余裕あるわけねーだろ」と声を大にして言いたい。
姉が睡眠時間を削ってこんな膨大な量の名前書きをやっていたかと思うと...言葉にならない。てか、それが根底にあったから怒り爆発したってのはある。
当事者としてそこに切実なニーズがあることを感じているところのようですので。
頑張って欲しいです。
ただ、結構たくさんの人から「学校から貸し出しでした」という声をお寄せ頂いたので、それは素晴らしいと思いました!ちょっとずつ変わってることを感じました。
学校教育に関する認識の誤解あるあるで十人十色経験は違うのに、自分の経験が絶対だと思うのはよしてほしいです。
30年前から貸し出しのところは貸し出しだし、そうじゃないところはそうじゃないです。それだけです。
算数セットを各家庭に買わせるか否か決定する立場にある人に、この一連のポストが届き、来年以降に小学校入学を控える子を持つパパさんママさんの負担が減り、家族の時間が増えると嬉しいです
自戒を込めて、
「半径0mの世界を変える」には
俺には経済はわからんが官僚とかその周辺の大学教授とかは世の中が経済的に貧しい方が相対的に自分たちが有利になるからそっちへ誘導したがる、みたいなことを山崎元さんは言ってたな。
それ陰謀論
そのほうが資産、株価があがるから。資産や株価さてあがればいいというのが民意。その根底には貧しいものから富めるものへ資産を逆移転したい、という日本人独特の気質がある。
そうだろうか?だったらもっと岸田の支持率は高くなるはずでは?
「公務員を増やすとギリシャになってしまうぞ!」「赤字国債を減らすために増税しないとギリシャになってしまうぞ!」とアベノミクス頑張ってきた結果が貧富格差と観光立国。日本はギリシャになってしまいましたね
アベノミクスってそういうもんだっけ?
俺の知ってるアベノミクスではない
関連:anond:20240220230654 anond:20240213160050
弁護士がにじさんじの炎上を分析する動画:https://www.youtube.com/watch?v=h_5I3JS_k40
リーガルマインドセット(以下、リーガル):アメリカ人弁護士。日本や韓国で仕事をしたことがあり、日本の法律についての知識がある
リーガル:
ひどい慣習だ
そんなことをすればa legal nightmareを呼び寄せるようなものだ
大企業で法人弁護士を務めたことがあるが、こんなことは絶対にしない
通知が行くのは、本人とその弁護士だけ
ゲーター:
セレンの場合は本人に通知すら行かず、友人に教えられてツイートを読んで知った
リーガル:
人々はそういうことをやっていいと思ってしまっているんだ
ディズニーもそれをやっていいと思って、ツイートを介してジーナ・カラーノを解雇した
ゲーター:
本来、契約解除ツイートは1ページだけで、もっと漠然とした内容になっている
こんなに細かく描かれているのは普通じゃない
Vtuberはアイドル文化が根底にあるため、文化的な違いもあるだろう
リーガル:
問題は英語圏での観点を理解していない日本人によって運営されているという点
こういう声明を出すのであればよく吟味する必要があるし、こんな情報を出してもみんなが受け入れると思ってはいけない
契約違反に関する法律はわりとインターナショナル(全世界共通)
ただし、ドキバードがカナダから日本では適用されない法について提訴することは可能
日本の問題について分析する際にはこの点について極めて注意しなければならない
多くの人はこの点を誤解してしまう
例えば外配信をしていて誰かが画面に写ったとして、その人が抗議した場合、即座に修正しなければ大変なトラブルになるので、モザイクを掛けたほうがいい
そういうわけなのでこの言葉はアメリカのそれよりも強い響きがある
1ページ目だけを見ても内容は中傷的だ
日本や韓国では、普通の職場であってもブラックである傾向がある
これをしなければ罰するぞ、評判を下げるぞ、VISAを打ち切るぞ、というような権力構造がある
日本の企業はどこも共に働くのが難しいが、最悪なのがブラック企業だ
日本や韓国で働いた経験からすると、彼らは外人をあまり気にかけない
しかしこのレベルのコントロール下に置かれるのあればほとんどの場合ライバーは社員とみなされる
この時点ではセレンはこのことについてコメントしていないため、問題になりうる
ゲーター:
この点はカナダの法律(健康情報や個人情報保護に関するPIPEDA)に抵触する
アメリカにはHIPPAがあるが、カナダのPIPEDAはそれより厳しく、健康情報の他、住所やローン、年齢、精神状態、障害、職歴に至るまで、本人の同意なしには公開できない
リーガル:
つまり、この点をプライバシー侵害としてカナダで提訴することができる
日本での裁判は大企業相手なので不利な戦いになるが、カナダでの裁判はかなり楽なものになるだろう
この箇所では他のライバーを話題に上げているため、特に問題がある
ハラスメントと他のライバーとが結び付けられているが、もしこれが間違いであれば、他のライバーに対する多大な損害となる
マネジメントに問題があるように見受けられるのに、他のライバーが問題としてやり玉に挙げられていることから、他のライバーがにじさんじを提訴する可能性もある
実際にその合意を読んでみないと確かなことは言えない
ちなみに私はセレンの弁護士から有責性を完全に取り払いたいとは思わない
その合意の中身を読まない限り、セレンの弁護士がやらかしたのか、にじさんじの弁護士が合意を侵害したのか、はたまたそれ以外なのか、わからない
カナダの弁護士が日本の法律には同様の守秘義務がないことを知らなかった可能性もある
国際法を扱ったことがないアメリカの弁護士の多くはよくこの点について勘違いをしてしまい、他国も同じだと思いこんでしまう(が実際はそうではない)
ゲーター:
リーガル:
セレン側は日本の法律には同種の守秘義務がないことを知らなかったかもしれない
そこはドキの弁護士が上手くやったんだろう
「あらゆる発言は自分にとって不利な形で使われる可能性があるから気をつけなさい」と
すべての発言は不利な形で使われる可能性があるのに、べらべらと喋り続けている
私からすれば狂ってる
にじさんじの声明を取り上げたあとにCEOの声明も取り上げるよ
「私たちNIJISANJI ENが非常に明確にしておきたい重要なことがあります」
違法かと言われれば必ずしもそうではないが、でも間違っている
既に色々指摘されているだろうが
・「キャラも嫌がっている」という体で作品・作者、ひいてはオタク文化・男全体を批判している
この辺りであっ、コイツ完全に女だなって思った。
いない、とまでは言わないがかなりの少数派であり、いたとしてもそいつは「変態」「頭おかしい」奴扱いだろう。
また架空のキャラの気持ちを勝手に代弁して多数の属性を批判するのは、「私では無く『皆』がこう思っているからお前が悪い!悪いのー!」
女性キャラの胸の大きさ云々についても、そんな下らない事で「生き辛い」と思う様な男性はほぼいない
何故なら男性は仮に自分の好みに合わないとしてもNot for meをする事が多い。
男オタク界隈で解釈違いが発生してもNot for meでスルーして終わり。
「自分に合わないから止めろ!」と騒いで叩く奴は頭おかしい我儘なキチガイ扱いされる。
注意書きをして何重にもフィルターを書かないと解釈違いカプ違いだと叩かれる女オタク界隈特有の学級会文化とは根底が違うのである。
大抵の男がスルーして終わりの話に食いつき「生き辛い」などと自嘲するアホは、人生概ねハードモードの男性からしたら「何言ってんだコイツ?頭おかしい」となる。
つまり仮に増田が俺男だったとしてもこんなキモい上に自分勝手なお気持ち構文を垂れ流す奴は男だとしても頭がおかしいアホ野郎である。
指摘通り俺は男だけど増田が真に女であるとするならば、男になりすましお気持ち構文で作品・作者・男性全般に糞リプをぶつけて悦に浸っている頭がおかしい女である。