はてなキーワード: 使節とは
戦国時代から現代まで、多くのアフリカの人々が、さまざまな理由で日本を訪れています。この章では、その一部を取り上げ、日本との関わりをたどります。
戦国時代、ポルトガルやスペインなどヨーロッパの船が日本を訪れた際に、黒人が従者や奴隷として連れられていたことが、アフリカの人々が日本を訪れた最初の事例であると考えられています。
織田信長の伝記である『信長公記』には、イエズス会司祭ヴァリニャーノが従者として連れており、その後信長に仕えることとなった「黒坊主」が登場します。
「彼男健やかに器量也爾も強力十之人に勝タリ」と描写されており、信長をはじめ、当時の人々に高く評価されたことがうかがえます。
日本では「弥助」と呼ばれたそうですが、アフリカでの本当の名前はどのようなものだったのでしょうか。
また、第一章の冒頭で触れた天正少年使節団も、『天正年間遣欧使節見聞対話録』【226-29】によれば、アフリカを訪れた際に「今迄にもあの黒い者らが我々の方へ渡つて来るのを沢山に見た事はあるが」と発言していることから、日本へと渡ってきた黒人を知っていたことが分かります。
しかも、使節団を派遣した大名のひとり、有馬晴信は、その軍がアフリカ人とマラバル(インド)人に助けられたという、次のような報告もあります。
フロイスの『日本史』【GB315-21】に、有馬・島津軍と竜造寺軍の戦いにおいて、日本人の砲手がいない中で大砲を「一人の(アフリカの)カフル人が弾丸を込め、一人のマラバル人が点火して」発射し、「千人の兵隊を有しているよりもそれらはより効果的に役立った」と書かれています。
天正少年使節団も、『天正年間遣欧使節見聞対話録』によれば、アフリカを訪れた際に「今迄にもあの黒い者らが我々の方へ渡つて来るのを沢山に見た事はあるが」と発言していることから、日本へと渡ってきた黒人を知っていたことが分かります。しかも、使節団を派遣した大名のひとり、有馬晴信は、その軍がアフリカ人とマラバル(インド)人に助けられたという、次のような報告もあります。フロイスの『日本史』に、有馬・島津軍と竜造寺軍の戦いにおいて、日本人の砲手がいない中で大砲を「一人の(アフリカの)カフル人が弾丸を込め、一人のマラバル人が点火して」発射し、「千人の兵隊を有しているよりもそれらはより効果的に役立った」と書かれています。そのほかにも豊臣秀吉が「カフル人」の踊りを見て褒美を与えたなど、さまざまな記録にアフリカの人々の姿が残されています。
ケーブルテレビSTBでは見られない場合が多いようなのでBSパススルーとか
地域によってはSTBで見られるようになったかもしれないので最新情報要確認
・02 タートル(ネック
・03 『リトル・マーメイド』
・04 [3択]ブロッコリー
・05 インド
・06 [すべて]成人の日 春分の日 昭和の日 敬老の日 秋分の日 文化の日
・07 中森明菜 なかもりあきな
・08 54(か国)
・09 海上保安(庁
・13 モリエール
・14 東
・15 層雲(峡 そううんきょう
・18 シチリア 島
・19 冬
・22 『鋼の錬金術師』
・23 [3択]90(個
・25 オーロラ
・26 番付(表
・27e [3択]木南《きなみ》
・yy 背水(の陣
我仍然不清楚為什麼中國共產黨如此反對佩洛西訪問台灣,但美國可能已經決定,無論如何,這將是有效的。
春秋時期的五霸不會接受地位較低的對手的使節,如果使節的地位較低。
我想這是一種意識,即對方的地位=忠誠度的高低。 反過來也是如此。
當秀吉與中國明朝談判時,他的回答是'我承認你是日本的國王'這樣的話。
然而,它在今天的國際社會中是否有任何意義,令人懷疑。
然而,這是一個困難的問題,因為如果它放棄了霸權意識,中國/中國的想法也會消失。
中國的等級制度或地位可能是一種身份,就像日本的神道教和武士道。
通過www.DeepL.com/Translator(免費版)翻譯
福岡で司祭をやっていたが宗教弾圧で長崎に逃れ、1年後に病死。享年43
弾圧から逃げながら各地を流浪し20年間布教活動したが捕縛され、「穴吊るしの刑」で逆さに吊るされ4日目に死亡。享年65
弾圧から逃れマカオへ移住し以降は平和に暮らし15年後に死去。享年60
・千々石ミゲル ←墓の奴
皆と共に神学を学ぶも奴隷制に疑問を持ち棄教、キリストアンチと信者両方に命を狙われる。享年64
時の大名、宗教洗脳が儲かるけど仏教はもう既得権益があって新規参入が難しいのでキリスト教に目をつける
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大名に自分も棄教したいと相談され、キリスト教はゴミカス人身売買組織だからそうしろと発言 一緒に宗教弾圧
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長年の布教で藩はキリスト教に感化された者が大量におり反発が多く、大名は信仰を続けることにしてミゲル追放
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伝承ではミゲルの墓は「憎い大名を睨みつけられるように大名の土地を向いて建てられた」
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https://anond.hatelabo.jp/20211212125107
おそらくはありえない。
簡単に言わないでほしい。
あのとき中国大返しと言う大胆な機動を見せた秀吉以外の誰があれほど鮮やかに明智を滅ぼせるのか。
一番近い摂津にいた信孝?
変の報せだけで逃亡兵が相次ぐぐらい求心力のない男だ。
秀吉が中国から帰ってこないなら兵力は自前の5,000程度しかない。
信孝軍団からはより多くの逃亡兵が出るし反対に明智の勢力は膨らむ。
信雄?
信孝より更に遠いところに居て兵力も更に少なく合戦の腕も似たり寄ったり。
はっきり言ってこんな奴等では光秀の動きを制限することも出来ない。
光秀は勝家が戻ってくるまでの3週間近くを京での政治的運動や宣伝に使えることになる。
明智側勢力が大いに動揺したし、明智の与力や姻族まで様子見を決め込んでしまった。
そういうファクターが一切なくなるということは
・遺された信孝信雄は弔い合戦を挑むことも出来ない
と言う状況が現れるわけで、
これを見たら筒井順慶だって洞ヶ峠から這い出てきて明智に従う。
そもそも光秀に与えられてる畿内軍団は信長に冷酷に追放された佐久間の与力で
信長を討って主替えすることにいまさら抵抗感なんかない。利害が合えばついてくる。
それぐらい勢いが出たら細川すらやっぱり明智側に来るかもしれない。
これまで織田家の軍団に圧迫されて存亡の危機に立ってた各地の大勢力は
事情わかってる毛利に追いすがられながら撤退なんかそうそうできない。
毛利の追撃で散り散りにされたらどこで再起すればいい?姫路城まで戻れてもそこは安全か?
信孝を討って光秀助けに京までのぼってくる。
そこまで織田の情勢が悪いとわかれば
例えば滝川なんか史実では北条と一当たりして敗れたあと真田に諏訪まで送られてるけど
「もう織田の再起の目は薄いな」と思われてたら同じ待遇になると思う?
昌幸「滝川を首にして光秀に送ってご褒美に上野を安堵してもらお」ってなるでしょ。
もともと主家を滅ぼした織田に好感情持ってるやつなんか甲斐信濃にはいないんだから。
史実ですら河尻とか逃げ帰る事すら出来ずに殺されてる。
光秀の主殺しに公的な認可が下る。
鞆まで逃れてた将軍様が戻って来て「大義である」って言い出すかもしれないし
もともと朝廷と繋がりが強い光秀だから帝の内意があった説すらある。
「よくやりました」「各地の大名に号令を出して織田残党を討ちなさい」なんて宣下が来る。
英雄秀吉は中国から出られないまま肝心の時に決断しなかったことを悔いながら殺されていくし
柴田は雪の中で滝川は信濃の山中で状況が分からないまま討ち死にして
ただ高齢でデカい子供もいない光秀はどうやっても次世代に残す基盤は作れない。
衰え次第天下は再度荒れる。
毛利かな。
大政治家が出現することはなかっただろうから織田家が存続する形になる。
そうなったとしても結局は信長の統率力を失った家臣団によって
(どうやるんだかわからないが)信孝が光秀を討って信長の葬儀をやれば
信孝という当主がいるのにそれを蔑ろにするほど抜きん出られる家臣がそんな必ず現れるの?
なんか全体に言えるのは
秀吉の中国大返しをめちゃくちゃ過小評価してるってことなんだよね。
あれは素晴らしく冴えた勝負手であって、
あれ以外のルートで光秀があんな早く打ち滅ぼされるなんてことはあり得ないし
その光秀成敗がなければ有力家臣に過ぎなかった秀吉があそこまで強引なイニシアチブ取れることもあり得ないんだよね。
ただそんなことを時間をかけて長々と展開してる間に
織田豊臣や徳川の支配とは比べられないってことをわかってないよね。
秀吉の四国九州関東東北の成敗がどんなだったのかもわかってないんじゃないの。
フワフワしたイメージでモノ言わないでほしいんですよね。
織田勢力と地方勢力の生産力や兵力をちょっと数字で比べてみたらいいと思います。
秀吉であれ信孝であれ信雄であれ、あれを相続されちゃ勝ち目なんかないから。
70年ぶりの識字調査実施へ 未就学者や外国籍の増加受け | NHKニュース
調査を指示したのは、GHQ=連合国最高司令官総司令部が戦後の日本で教育改革を行うためアメリカから派遣された使節団です。使節団は「漢字とひらがなを使う日本語は難しすぎて負担となっている」と考え、当初、ローマ字の採用を検討していたといいます。
そこで、日本語が国民にどれだけ定着しているかを把握するため行われたのがこの調査でした。全国の15歳から64歳までの男女およそ1万7000人を対象に行われ、読み書きや文章の理解など合わせて90もの問題が出されました。
マジかよ。
これじゃ全然当てにならないじゃねーか。
( 2018夏アニメ1話ほぼ全部観たから感想書く その2 からの続き )
中間管理職のお仕事アニメ。制作マッドハウス&キャラデザ:高田晴仁なので、実質カイジ。特に会長がしゃべるシーンだけ観ると完全にカイジ。悪魔のような上司と萎縮する部下の間に挟まれる中間管理職の苦労をコミカルに描いていて、テーマの凡庸さに比べてすごく斬新で面白い。
1話では冒頭9分くらい使ってトネガワさんの紹介があるけど、ぶっちゃけ観なくていい。大抵の人はカイジを何らかの形で観たことがあるか、もしくはマンガもアニメも実写映画も観たことがないけど、ストーリーだけは全部知ってると思うので。
☓ナレーション◯実況:川平慈英の「他人事だと思って楽しそうに実況しやがってこの野郎」感がとても好き。部下のボケ→トネガワさんのツッコミ→実況の「くぅ~ww」(ボケ)という流れなので、みんな画面に向かってツッコミを入れよう。
ロンドンの日常アニメ。国際色豊かなおじいちゃん自警団の日々を描く。世界設定が
矢野俊策(TRPGの人)から分かる通り、日本におけるお化けみたいな連中がテーマの作品。タイトルも黄昏時のなんちゃらっていう意味なのだろう。似たモチーフを扱った作品でいうと「ゲゲゲの鬼太郎」(特にいま放送してる作品)は社会の闇、「化物語」は闇の心、「魔法使いの嫁」は良き隣人としての人外を描いているけど、本作は魔法使いの嫁に近い。さすがロンドンの日常。そして意外とアクションシーンの熱量が高い。さすがライデンフィルム。
アニメで観る元寇、下っ端視点@対馬。6度目の使節団が日本に来たけど、結局日本が元に服従しなかったので元の皇帝は侵略することを決定、900艘の軍船を準備し終わった頃から始まるお話(1274年)。基本的に基本的に史実ベースで進んでいく感じみたい(Wikiみながら)。
アクションシーン(特に剣戟)が多く、めっちゃ動く。SEも良い(音響効果:今野康之)し、出血表現も好き。
アニメで観る「軍師になろう」。紀元前の青銅器時代が舞台?戦記モノ+スマホチート。「天は赤い河のほとり」みたいな感じ?あっちは主人公が軍師じゃないけど。実際にあった(ググると出てくる)戦術や心理戦術が解説付きで登場する。これで君も明日から軍師だ!
1話にして1話の内容ではない。異世界転生プロセスでグダるのを回避していくスタイル。あくまで「スマホチートを使った古代の戦争」を描くのがメインなのかな。
スマホチートの描き方が面白い。忠実にggrksを実行していくスタイルで、ググっても出てこないことは出来ない。また現世と何らかの方法(で使えるスマホ)でつながっていて、元の世界に帰るという目標設定がある。現世と異世界を行き来できるわけではないけれど、「犬夜叉」みたいに「主人公にとってどっちが現実なのか問題」がそのうちテーマになるのかも。
リアルのこの時代は子作りし放題だったのだろうけれど、どうなんだろう(一応そういう描写あり)。
スプラッターギャグアニメ。調子に乗りすぎたイカ娘ちゃんが裁かれる(物理)みたいなノリのアニメ。かわいい。
ノリとかキャラデザとか演出とかいろいろ懐かしさを感じる不思議。
おねショタ。男性向け?ショタがリードするのではなくお姉さんがリードする方。
主人公が可愛い。ツッコミ役だけど子供っぽさがあって、お姉さんをリードしたいという願望があるけど現実と乖離しているギャップがかわいい。そろそろ男扱いされたい、でもまだ子供、そして性の目覚め等忙しいお年頃である。なお私はおねショタを観たことがないので、おすすめを教えてほしい。
ところで寮母さん=ママの化身みたいなモチーフっていつ頃からあるテンプレなのだろう。最近でも「スロウスタート」「こみっくがーるず」でおっとり寮母さんが出てきたので、すごく一般的なのかな。
銃と戦争のアニメ。20xx年、世界は核の炎に包まれた→ブラザーフッド・オブ・スティールが世界の秩序を支配→レジスタンスが古銃で対抗 みたいな感じの話。
銃の擬人化ソシャゲ原作なので、めちゃくちゃニッチな古銃がたくさん出てくる。現代銃を装備したブラザーフッド・オブ・スティールvs古銃というアツい戦い。戦闘シーンではちゃんと古銃特有の射撃前儀式も描いていて好き。あと射撃音にびっくりする。火薬多めかつ薬室の気密性が低い古銃の特性を表現してるのかな。
戦いがテーマとはいえ、ファンタジー要素が多い。戦争を描く作品はたいてい不条理がテーマなので、どんどんgdgdになっていくあの陰鬱とした雰囲気が強くなる仕様だけど、本作は「高貴になったら勝ち」という特殊ルールのおかげでいい感じのエンタメになってる。生き様で敵をやっつけるとかかっこよすぎない?
レーティングによって、漫画ほど表現のギリギリを攻める必要がなくなった幽奈さん。無修正版がどんだけ攻めてるのか気になる。幽奈さんかわいい。シリアス要素のあるラブコメなのだけれど、ToLOVEるもシリアスなんだっけ。
幽奈さんはコガラシくんと同年代っていう雰囲気を出してるけど、あの子幽霊だからもしかして(生きていれば)100歳くらいだったりして。その場合、コガラシくんとの関係はおねショタになるのだろうか。「夏のあらし!」っておねショタ?
今週の悲劇。スクエニのアケゲー原作バトルアニメ。同じくスクエニのアケゲー原作アニメに「ガンスリンガーストラトス」があるけれど、あっちはチーム対戦シューティング、こっちはリアルタイム対戦トレカ(アニメにカードは出てこない)。アニメとしては両方共スクエニ感のある厨ニっぽさ全開のキャラデザになっていて好き。内容も共に殺し合いがメインのバトルアニメ。ちなみにガンストの監督・江崎慎平は今期はねバドの監督を務めている。
シェイクスピアの引用や世界の異変というシナリオは「絶園のテンペスト」を思い出す。あっちの作品は妹の謎を解き明かす話なので、こっちのほうが血なまぐさい。絶園のテンペストの監督・安藤真裕は今期の天狼で監督を務めている。
スペースノイドとアースノイドが宇宙で遭難する話。シナリオは地球を目指して宇宙を漂うSFの王道なので、マジで先が見えない。
ピクサーみたいな3DCGアニメを30分枠で1クールやるの?マジで?な作品。めちゃくちゃ動くので観るほどに「マジで1クールやるの?」ってなる。すごい。ディズニー・チャンネルを観ているようなノリかつBGMも良い作品。
コント「天才バカボンを2010年代らしくリメイクしたら」。壮大に何も始まらないので、1話は実質0話。
0話は旧作オマージュ(というかそのまんま)を非常に高い再現度で作っていて、本作への愛を強く感じる。絶妙に荒い4:3のあの感じが観れてよかった。内容としてはかつての「おそ松さん」1話のように、旧作リメイクに係るあらゆる懸念をネタに昇華していくスタイル。現代っぽさがあるかどうかはさておき、バカボンパパのヤバさが際立っていて逆に新鮮に感じる。バカボンパパのヤバさは普遍的だった。旧作知らんけど。
タカラトミーの新しいおもちゃアニメ。今回は野生解放機能付き。男の子がゾイドに出会って旅に出る話。
本作のゾイドがめっちゃ小さい。でもゾイドはゾイド。動きもゾイドだし、モチーフも動物、昆虫、恐竜等なんでもあり。おもちゃコンテンツとして無敵じゃん!
ストーリーの中でもゾイドは畏怖の対象であったり、ゾイドを利用した軍隊や帝国があったり野性味あふれる生き物だったりは旧作のまま。登場するキャラクターは全体的に、子供向けのわかりやすいデザインになっている。
旧作のゾイドは「ビビったら負け」というシステムだったけれど、本作は「動かなくなったら勝ち」になってる。わかりやすいね。戦闘シーンはあのゾイドの動きがまた見れるのでやっぱり面白い。
異世界転生から始まるRPG。ファンタジー系の王道ストーリー。とはいえ異世界転生要素は薄味、かつ「こんな感じの魅力的な世界ですよ」的な演出も控えめ。原作がソシャゲなので、王子様集めが縦軸。かつ王子様同士の会話や戦いがメイン。
中国版ゴーストバスターズ。ゲゲゲの鬼太郎みたいな社会派。でも日本のお化けと比べてずっと生々しいモチーフ。「伊藤潤二コレクション」みたいな。でも1話完結でもなければSSでもないのでのんびり観るやつ。
まさか、天才はみんな体に悪偶を宿していたなんて。絶対に許せない。ついにアニメで真実に気づいてしまった。気になるのは「悪偶を宿した天才を加工した悪偶を宿した天才」みたいな入れ子構造というか天才ロンダリングがあるのかどうなのか。
キングレコード謹製の、アイドルのお仕事アニメ(実質星色ガールドロップ続編)。1話はほぼキャラ紹介だけ。おそらく「アイドル活動の中で一番楽しいであろう時期」を舞台にしてる感じがある。業界最大手の事務所に主人公がスカウトされるわけでもなく、金の問題で事務所の社長が夜逃げするわけでもなく、長年の活動が実を結ばず、雰囲気が最悪の状態から始まるわけでもなく。みんななんだかんだ楽しそう。
観ていて思うのは、「ファンってすげーな」という点。アウトプットに対するあらゆるリアクションが得られるのはファンのおかげで、協力して良いものを作っていこうという上昇志向を共有している姿はまるで運命共同体みたい。すごいね。
冒頭こそ3DCGアニメーションによるライブシーンがあるけど本編のライブは作画アニメーション。今後どっちを使うのかな。
中国発信のショートアニメ。駆け抜けるテンポ感。化物語の阿良々木家みたいな、しょーもない兄貴と手癖の悪い妹の掛け合い好き。
AmazonPrimeVideoとNetflixの囲い込みが11作品とかなり多い。加えてAmazonは「dアニメストア for Prime Video」というd'アニメストアニコニコ支店みたいなサービスを開始、さらにスカパー版やキッズステーション版なども展開している(それぞれのチャンネルで見れる作品はまだ少ないらしい)ので、そのうちAmazonとNetflixだけでほとんどのアニメを網羅できるようになるかも。一方独占配信で言うと、スカパー、FOD独占配信に加えて今期からはあにてれ(テレビ東京のサービス)独占配信アニメもある(けもフレ新作もこれ)ので、アニメ視聴のVOD縛りに限界を感じる。これからは「今期は何のアニメ見てる?」じゃなくて「普段何使ってアニメ見てるの? TOKYOMX? BS? FOD? それともアマプラ?」から会話を始めたほうが良いのかもしれない。
新作1話全部視聴はおすすめできない。とか言いながらこれを書くのも3回目だけれど、なんでまた書いたのかといえば、単純に「アニメを観るため」だったりする。最初は「もっと最新アニメの面白さを知ってほしい一心でレビューを書くため」という大義名分があったおかげで沢山のアニメを観ることができたし、今は「たくさんアニメを観るほどもしゃもしゃするから、これを増田にでも投げて気分転換しよう」という良いガス抜きの手段になっているのだ。おかげで多くの面白い作品を知ることが出来たし、同時に多くの時間を失った。そう考えると、やはり新作1話全部視聴はおすすめできない。
こんな覚え書きでも、誰かのモチベにつながれば嬉しいな。
志明館便り
・2016/6/13 橋田代表、山口副代表、八尋副代表の三者鼎談
・2016/6/27 谷井宗像市長の思い
「宗像市は古くから教育のまち」「高い教育理念を掲げる志明館小中学校の開設に最適の地」「今後、地元や議会の理解を得ながらできる限り協力したい」
・2016/6末 寄付金総額3088万円
・建築分科会報告。建築設計をシーラカンスK&Hに決定。工藤和美代表は国家戦略特区WG委員。ほか、宗像市都市計画課、清水建設(造成)交え協議中。
・スクールカラーを山桜の色「志紅色」に決定。桜は武士道の象徴。
・ホームページ開設。
・独自設定科目「国学」を設定。日本人四要素である「和、誠、礼、勇」を身につけ、新しいものと伝統の共存を目指す。
・2・3・3・1制の9年制
・3-5年生 オーストラリア教育使節。皇居清掃。英語GTEC GRAED(※)2、漢字検定3級を必取得。
・6-8年生 希望制で部活開始。寄宿教育スタート。英語GTEC GRAED(※)3を必取得。
・9年生 卒業論文、自主研修計画書作成。英語GTEC GRAED(※)4を必取得。
・校舎レイアウト
子供達の「知 徳 体 志」を育む。宗像市河東に拡がる悠久の森。
瞑想の部屋(国学室):落ち着いた部屋で、暗転するなどICT等に対応した国学の部屋。
・寄付金・財務分科会報告。橋田代表、両副代表が、東京電力数土会長や数学者の弘中平祐氏、伊藤哲郎元警視総監らと東京で面談。
・2016/9末 寄付金総額3704万円
【平成29年春 第3号(2017/4)】
A4裏表カラー
・幹事会副代表の八尋氏が開設準備室室長として陣頭指揮を執る。
・「志明会」を創設し、賛同者の拡大を図る。
・武田薬品会長長谷川氏、フォーバル会長大久保氏、九州国際大学学長西川氏、イメージプラン代表取締役田口氏、中村学園教授占部氏の応援メッセージ。
・2017/3末 寄付金総額4144万円
【平成30年新春 第4号(2018/1)】
A4裏表カラー
・2017/12 費用見積もりが見込みを大きく上回るため、開校予定地を宗像市市有地から変更し、宗像市・福津市周辺の用地を調査中。2022年4月開校を目指す。
・2017/12 東京志明会発足。共同代表の石原JR九州相談役が開会挨拶。
・台湾志明会の結成準備。
原因・背景[編集]
1871年(明治4年)10月、宮古島から首里へ年貢を輸送し、帰途についた琉球御用船が台風による暴風で遭難した。乗員は漂流し、台湾南部に漂着した。船には役人と船頭・乗員合計69名が乗っていた。漂着した乗員66名(3名は溺死)は先住民(現在の台湾先住民パイワン族)に救助を求めたが、逆に集落へ拉致された。
先住民とは意思疎通ができなかったらしく、12月17日、遭難者たちは集落から逃走。先住民は逃げた者を敵とみなし、次々と殺害し54名を斬首した(宮古島島民遭難事件)。12名の生存者は、漢人移民により救助され台湾府の保護により、福建省の福州経由で、宮古島へ送り返された。明治政府は清国に対して事件の賠償などを求めるが、清国政府は管轄外として拒否した。翌1872年(明治5年)琉球を管轄していた鹿児島県参事大山綱良は日本政府に対し責任追及の出兵を建議した。1873年(明治6年)には備中国浅口郡柏島村(現在の岡山県倉敷市)の船が台湾に漂着し、乗組員4名が略奪を受ける事件が起こった[1]。これにより、政府内外で台湾征討の声が高まっていた。
開戦準備へ[編集]
宮古島民台湾遭難事件を知った清国アモイ駐在のアメリカ合衆国総領事チャールズ・ルジャンドル(リゼンドル、李仙得)は、駐日アメリカ公使チャールズ・デロングを通じて「野蛮人を懲罰するべきだ」と日本外務省に提唱した。
初代龍驤は台湾出兵の旗艦であり副島種臣と大久保利通をそれぞれ、中国に運んだ。
孟春(砲艦)は三本マスト・スクーナー型鉄骨木皮の小型砲艦で、台湾出兵に参加した。
外務卿の副島種臣はデロングを仲介しルジャンドルと会談、内務卿大久保利通もルジャンドルの意見に注目し、ルジャンドルは顧問として外務省に雇用されることとなった。当時の明治政府では、朝鮮出兵を巡る征韓論などで対立があり、樺山資紀や鹿児島県参事大山綱良ら薩摩閥は台湾出兵を建言していた。これらの強硬意見の背景には、廃藩置県によって失業した40万人から50万人におよぶと推定される士族の不満のはけ口を探していたことがある[2]。
1873年、特命全権大使として清国に渡った副島外務卿は随員の柳原前光を用いて宮古島民台湾遭難事件などの件を問いたださせたが[注釈 1]、清朝の外務当局は、台湾先住民は「化外」であり、清国の統治のおよばぬ領域での事件であると回答して責任を回避した[1]。その後、日本ではこの年秋、朝鮮使節派遣をめぐって政府が分裂し(明治六年政変)、また、翌1874年1月の岩倉具視暗殺未遂事件、2月の江藤新平による反乱(佐賀の乱)が起こるなど政情不安が昂じたため、大久保利通を中心とする明治政府は国内の不満を海外にふり向けるねらいもあって台湾征討を決断し、1874年(明治7年)4月、参議の大隈重信を台湾蕃地事務局長官として、また、陸軍中将西郷従道を台湾蕃地事務都督として、それぞれ任命して軍事行動の準備に入った[1]。
明治六年政変における明治天皇の勅裁は、ロシアとの国境を巡る紛争を理由とした征韓の「延期」であったため、ロシアとの国境が確定した際には、征韓派の要求が再燃する可能性が高かった。政変で下野した副島にかわって外交を担当することとなった大久保としては、朝鮮よりも制圧が容易に思われた台湾出兵をむしろ積極的に企画したのである。
台湾出兵に対しては、政府内部やイギリス公使パークスやデロングの後任のアメリカ公使ジョン・ビンガム(John Bingham)などからは反対意見もあった。特に、参議木戸孝允らの長州系は征韓論を否定しておきながら、台湾への海外派兵をおこなうのは矛盾であるとして反対の態度をくずさず、4月18日、木戸は参議の辞表を提出して下野してしまった。そのため、政府は一旦は派兵の中止を決定した。
水門の戦 最も激しい戦いであった。当時の日本人による版画[3]
国立公文書館が所蔵している公文書によると1874年4月4日、三条実美により台湾蕃地事務局が設置される。(以後の任命は当時太政大臣であった三条実美からの奉勅となっている)同年4月5日、台湾蕃地事務都督に西郷従道が任命される。[4]同年4月6日、谷干城と赤松則良に台湾蕃地事務局参軍と西郷従道を輔翼し成功を奏する事を任命される。[5]同年4月7日、海軍省から孟春艦、雲揚艦、歩兵第一小隊、海軍砲二門と陸軍省から熊本鎮台所轄歩兵一大隊砲兵一小隊の出兵命令が命じられる。[6]という経緯になっている。
5月6日に台湾南部に上陸すると台湾先住民とのあいだで小競り合いが生じた。5月22日、台湾西南部の社寮港に全軍を集結し、西郷の命令によって本格的な制圧を開始した[1]。6月3日には牡丹社など事件発生地域を制圧して現地の占領を続けた。戦死者は12名であった[1]。しかし、現地軍は劣悪な衛生状態のなか、亜熱帯地域の風土病であるマラリアに罹患するなど被害が広がり、早急な解決が必要となった。マラリアは猖獗をきわめ、561名はそれにより病死した[1]。
明治政府は、この出兵の際に清国への通達をせず、また清国内に権益を持つ列強に対しての通達・根回しを行わなかった。これは場合によっては紛争の引き金になりかねない失策であった。清国の実力者李鴻章、イギリスの駐日大使パークスは当初は日本の軍事行動に激しく反発した。その後、イギリス公使ウェードの斡旋で和議が進められ、8月、全権弁理大臣として大久保利通が北京に赴いて清国政府と交渉した。大久保は、ルジャンドルとフランス人法学者ボアソナードを顧問として台湾問題を交渉し[7]、主たる交渉相手は総理衙門大臣の恭親王であった[1]。会談は難航したが、ウェードの仲介や李鴻章の宥和論もあって、10月31日、「日清両国互換条款(zh)」が調印された[1][7]。それによれば、清が日本軍の出兵を保民の義挙と認め、日本は生蕃に対し法を設ける事を求め、[8]1874年12月20日までに征討軍を撤退させることに合意した。 また日清両国間互換条款互換憑単によると清国は遭難民に対する撫恤金(見舞金)10万両(テール)を払い、40万両[注釈 2]を台湾の諸設備費として自ら用いる事を願い出費した。[9]また、清国が日本軍の行動を承認したため、琉球民は日本人ということになり、琉球の日本帰属が国際的に承認されるかたちとなった[1]。
日本と清国との間で帰属がはっきりしなかった琉球だったが、この事件の処理を通じて日本に有利に働き、明治政府は翌1875年(明治8年)、琉球に対し清との冊封・朝貢関係の廃止と明治年号の使用などを命令した。しかし琉球は清との関係存続を嘆願、清が琉球の朝貢禁止に抗議するなど外交上の決着はつかなかった。
1879年(明治12年)、明治政府のいわゆる琉球処分に際しても、それに反対する清との1880年(明治13年)の北京での交渉において、日本は沖縄本島を日本領とし八重山諸島と宮古島を中国領とする案(分島改約案)を提示したが、清は元来二島の領有は望まず、冊封関係維持のため二島を琉球に返還したうえでの琉球王国再興を求めており、また、分島にたいする琉球人の反対もあり、調印に至らなかった。
また、明治政府は兵員輸送に英米の船会社を想定していたが拒否され、大型船を急遽購入して国有会社の日本国郵便蒸汽船会社に運航を委託したがこれも拒否され、大隈重信はやむなく新興の民間企業である三菱を起用することに決定したが[10]、この協力により、以降、三菱は政府からの恩恵を享受できることとなり、一大財閥になるきっかけとなった[11]。
日本軍の損害は戦死8名、戦傷25名と記録されるが、長期駐屯を余儀なくされたため、マラリアなどの感染症に悩まされ、出征した軍人・軍属5,990余人の中の患者延べ数は1万6409人、すなわち、一人あたり、約2.7回罹病するという悲惨な状況に陥った。
1871年(明治4年)、兵部省は、陸軍省と海軍省に分かれ、軍医寮は陸軍省に属し、軍医頭は松本良順(のちに順)であった。台湾出兵当時、軍医部は創立より日が浅く経験不足であったが、総力を挙げて事態にあたった。出征軍の医務責任者は桑田衡平二等軍医正(少佐相当)、隊付医長は宮本正寛軍医(大尉相当)であった。他に24名の医官を従軍させた。医官は全員奮闘したが、極悪の環境と猛烈な伝染病で病臥する者が多く、西郷都督からは薬だけでも兵士にあたえてほしいと要請された。医官の多くは漢方医で、熱帯病の治療にはまったく経験がなかったという。かれらは交代の22名が到着したため、ようやく帰国できた。宮内省からは外国人医師が派遣された。ドイツ出身のセンベルゲル(Dr. Gustav Schoenberg)は、東京大学医学部の前身にあたる大学東校お雇い外国人医師レオポルト・ミュルレルの推挙であったが、能力がなくトラブルを起こした。しかし、彼とともに送られた6台の製氷機械は大いに役に立ったといわれている[12]。
この条約が締結される頃の東アジア世界は、近代的国際法を掲げながら、実際には弱肉強食を旨とする西欧列強が浸透してくる時期にあたる。当時朝鮮は清の冊封国であったが、鎖国政策を国是としていたため、国際交流は非常に限られていた。しかしそのような朝鮮にも1860年代以降国際化の波(外圧)が押し寄せ、海上から西欧諸国が訪れるようになる。朝鮮と西欧列強との出会いは、概ね芳しいものではなかった。たとえば1866年にはフランス軍がキリスト教徒虐殺事件(丙寅迫害)の報復として軍艦7隻総兵力1000人で朝鮮の江華島を攻撃・占領する丙寅洋擾が発生し、1871年にはアメリカ合衆国もジェネラル・シャーマン号事件(1866年発生)の報復として軍艦5隻総兵力1200人艦砲85門で朝鮮の江華島に攻撃・占領を行っている(辛未洋擾)。丙寅洋擾と辛未洋擾は朝鮮と通商を行うための侵略であったが却って斥和碑を建てるなど攘夷につながった。
当時朝鮮の政権を担っていたのは高宗の実父興宣大院君である。清朝から西欧列強の情報を得ていた大院君は、断固として鎖国を維持する姿勢を貫いた。これは中国における西欧側の非道を知ったこともあるが、朱子学以外を認めない衛正斥邪という思想政策を積極的に推し進めたことから分かるように、大院君は中華思想的発想の持ち主であり、その点から西欧諸国を夷狄視していたことも理由の一つである。その強い姿勢は「西洋蛮人の侵犯に戦わない事は和議をする事であり、和議を主張することは売国行為である」と書かれた斥和碑を朝鮮各地に建てたことに窺うことができる。このように当時の朝鮮では攘夷熱が高まっていた。
また朝鮮では、文禄・慶長の役時に、中国が朝鮮を守ったため、今回も中国が朝鮮を守ってくれるに違いないという立場であり、小島毅は「中国は東アジア全体にとっての親分だというのが朝鮮の認識ですから、親分である中国に自分を守ってもらおうとするわけですね」と述べている[2]。
他方、西欧列強が迫っていた東アジア諸国の中で、いちはやく開国し明治維新により近代国家となった日本は、西欧諸国のみならず、自国周辺のアジア諸国とも近代的な国際関係を樹立しようとした。朝鮮にも1868年12月に明治政府が樹立するとすぐに書契、すなわち国書を対馬藩の宗氏を介し送った。江戸時代を通じて、朝鮮との関係は宗氏を通じ行われてきたためである。しかし国書の中に「皇」や「奉勅」といったことばが使用されていたために、朝鮮側は受け取りを拒否した。近代的な国際関係樹立は、はなから躓いたといえよう。
この問題は、日朝双方の国交に対する思惑がすれ違ったことが原因である。日本側は従来の冊封体制的な交隣関係から、条約に基礎づけられた関係へと、日朝関係を変化させることを企図したのであるが、一方朝鮮側はこれまでどおり冊封関係にとどまり、その中で日本との関係を位置づけようとしていた。前近代における冊封体制下において、「皇上」や「奉勅」ということばは中国の王朝にのみ許されたことばであって、日本がそれを使用するということは、冊封体制の頂点に立ち朝鮮よりも日本の国際地位を上とすることを画策したと朝鮮は捉えたのである。
征韓論を唱えた西郷隆盛。ただし江華島事件及びその後の日朝修好条規締結に対して義に悖ると批判していた。
1868年以来、何度か日本からの国書がもたらされたが、日朝双方の思惑の違いから両国の関係は円滑なものとは言えなかった。書契問題を背景として生じた日本国内における「征韓論」の高まりに、大院君が非常な警戒心を抱いたことも一因である。また釜山においては日朝両国の官僚同士が険悪となっていた。長崎の出島のごとき釜山の倭館に限定した国交を望む朝鮮側と、対馬宗氏から外交権を取り上げて外交を一元化し、開国を迫る日本との間に齟齬が生じたのである。釜山の倭館は朝鮮側が日本、特に対馬藩の使節や商人を饗応するために設けた施設であったが、明治政府は対馬藩から外交権を取り上げ、朝鮮との交渉に乗り出そうとした。その際、倭館をも朝鮮側の承諾無しに接収し日本公館としたことから事態が悪化したのである。結果、必要物資の供給及び密貿易の停止が朝鮮側から宣言される事態となった。
日本側も単に国書を送りつけるだけだったわけではない。版籍奉還という日本国内の難問を無事に乗り越えた1870年、朝鮮との国交交渉を有利にするため、冊封体制の頂点に立つ清朝と対等の条約、日清修好条規を締結した。これにより冊封体制の維持を理由に国交交渉を忌避する朝鮮を、交渉のテーブルに着くように促したのである。
1873年に対外強硬派の大院君が失脚し、王妃閔妃一派が権力を握っても、日朝関係は容易に好転しなかった。転機が訪れたのは、翌年日清間の抗争に発展した台湾出兵である。この時、日本が朝鮮に出兵する可能性を清朝より知らされた朝鮮側では、李裕元や朴珪寿を中心に日本からの国書を受理すべしという声が高まった。李・朴は対馬藩のもたらす国書に「皇」や「勅」とあるのは単に自尊を意味するに過ぎず、朝鮮に対して唱えているのではない、受理しないというのは「交隣講好の道」に反していると主張した。これにより朝鮮側の対日姿勢がやや軟化した。
国交交渉再開の気運が高まり、1875年に交渉が行われた。日本側は外務省理事官森山茂と広津弘信、朝鮮側は東莱府の官僚が交渉のテーブルに着いたが、やはり書契に使用される文字について両者の認識に食い違いが生じた。この他森山の洋服着用など欧米スタイルを貫こうとする姿勢に朝鮮側が嫌悪感を示したことで交渉ははかばかしくなかった。交渉の停滞に業を煮やした森山は4月には砲艦外交を行うことを日本政府に上申した[3]が、三条実美の反対があり、川村純義の建議により日本海軍の砲艦二隻(雲揚および第二丁卯)が5月に派遣され朝鮮沿岸海域の測量などの名目で示威活動を展開した。その後雲揚は対馬近海の測量を行いながら一旦長崎に帰港するが、9月に入って改めて清国牛荘(営口)までの航路研究を命じられて出港した。
詳細は「江華島事件」を参照
9月20日、首都漢城に近い江華島付近で、雲揚所属の端艇が朝鮮砲台から砲撃を受ける事件が発生した(江華島事件)。雲揚は反撃し、永宗島の要塞を一時占領、砲台を武装解除し、武器、旗章、楽器等を戦利品として鹵獲した。この事件における被害は、朝鮮側の死者35名、日本側の死者1名負傷者1名(のち死亡)であった。事件は朝鮮側が日本海軍所属の軍艦と知らずに砲撃してしまった偶発的なものとされ[4]、この江華島事件の事後交渉を通じて、日朝間の国交交渉が大きく進展した。
明治政府のお雇い外国人ボアソナードは、事件を処理するために派遣される使節への訓令について、以下を決して朝鮮に譲歩すべきではないと具申した。
またこれらが満たされない場合、軍事行動も含む強硬な外交姿勢を採ることをも併せて意見している。これらの意見はほとんど変更されることなく、太政大臣三条実美を通じて訓示に付属する内諭として使節に伝えられた。さらに朝鮮に対する基本姿勢として、三条はこの江華島事件に対して「相応なる賠償を求む」べきとしながら、使節団の目的を「我主意の注ぐ所は、交を続くに在るを以て、・・・和約を結ぶことを主とし、彼能我が和交を修め、貿易を広むるの求に従ひときは、即此を以て雲揚艦の賠償と看做し、承諾すること」だと述べていた(強調、加筆者)。これは欧米列強の干渉を招かないよう配慮すべし、という森有礼の言が容れられたものである。
さらにボアソナードのいう軍事行動も含む強硬な外交姿勢も、日本は忠実に実行に移している。使節団一行には軍艦や兵士の護衛がつき、威圧効果を朝鮮側に与えようとした。また交渉が決裂した場合に備え、山縣有朋が山口県下関に入り、広島・熊本両鎮台の兵力をいつでも投入できるよう準備していたのである。さらにいえば、日本の砲艦外交的姿勢は無論朝鮮の屈服を促すものであったが、同時に日本国内の「征韓論」を唱える不平士族の溜飲を下げることも狙ったものであった。
ただこのように軍事的高圧な姿勢を表面上見せながら、当時の日本は軍費の負担という点からいって、戦争が好ましいとは考えていなかった。また戦争の発生がロシアや清朝の介入を許すきっかけになるかもしれず、その点からも極力戦争は避ける考えであった。
以上をまとめると日本側の交渉の基本姿勢は、以下の二点に集約される。
砲艦外交を最大限推し進めながら、実際には戦争をできるだけ回避すること。
江華島事件の問罪を前面に押し出しながら、実質的には条約を締結し、両国の懸案で長年解決しなかった近代的な国際関係を樹立すること。
また対朝鮮政策は、実質的には朝鮮の宗主国である対清朝政策でもあり、清朝の干渉をなくすべく事前に清朝の大官たちと折衝を重ねることも日本は行っている。19世紀、欧米列強のアジア侵略に対抗するため、清朝は朝鮮やベトナム、琉球などの冊封国を保護国化あるいは併合することによって皇帝を中心としたアジアの伝統的な国際関係をそのまま近代的国際関係へと移行させて清の地位と影響力を保持しようとし、冊封国に対して保護国化、モンゴル、チベット、新疆などの保護国に対しては植民地化を強めようとしていた。
この時期の東アジアは、日中朝そして西欧列強の間における複雑な絡み合いが相互作用する場が形成されつつあった。日朝間の国交交渉再開もその結果としてもたらされたものであると同時に、また別の歴史事象の原因でもあったのである。