はてなキーワード: ゴッサムとは
増田アラサーなんだけど昔からかなりジャイアンのママに似ててまあ言っちゃうとブサイクなんたけど、電車通学が始まった高校生の時から二児の母になった今も痴漢だの変質者だのに指だけじゃ数えきれないくらい被害にあってるのね。うち2回はあまりにも悪質だったので警察呼んだこともあるのね。
でも可愛い友達(本音が言えない仲なんでしょ、じゃなくて若い頃旅行行きまくったり結婚式で役目振り合うような仲の友達ね)は全然被害にあったことがなくて、増田はブサイクなのになんでだろ〜と思って発言小町とかで質問してみたんだけども「本当は可愛いから痴漢にあうと思ってますよね。自虐風自慢ですか。見苦しいですね」とかいうゴッサムシティも真っ青の答えが返ってきて終わっちゃったわけ。
だからこの間顔見知り程度のオッサンに「旦那じゃイったことないでしょ」「俺なら満足させてあげられるからね」とかいうキモキモ言葉囁かれながら押し倒された時から一生懸命なぜこんな目にあうのか考えてみました。(ちなみにオッサンに強姦まではされてませんのでご安心ください)
で、たどり着いたのが「若い女にはムラムラするけど、ブサイクにならそのムラムラをぶつけても罪悪感が無い」からかなという理由でした。合ってる?
可愛い子には多分罪悪感と、俺なんかがあんな可愛い子に何かしちゃって良いのか...?みたいな葛藤が発生するんじゃないかしら。でもブサイクには全然そういう葛藤を抱かなくて済むし、なんならブサイクの性欲を俺が発散してやってくらいに思ってるんじゃないかなと思う。
だから可愛い友達は被害にあわず、増田みたいなブサイクとか、私たちとうとう大人になっても可愛くならんかったよね...とよく若い頃一緒に悩んでいた友達が結構被害にあってたりするのかなと思いました。
書いてて若干悲しくなってきたけど(笑)、もしこれを見てるよく被害にあう女性、もしお金があるなら本当は趣味とかに使って欲しいけど、可愛くなれる手段があればとことんそれらを使って可愛くなるべきだと思う。増田はもう自分にかけるお金がないので諦めていますが。
オンラインCo-op専用のライブサービス型ルーターシューター。一人でやるゲームではない。一人でやったが。
スパイダーマンのマップとシナリオを10倍くらいに薄めて、あちこちで湧く雑魚敵を延々と倒していくだけのゲームにした感じ。
動きはもっさりしているが、壁を駆け上がったりなどの自由度や、シューターとしてのアクション性は高い。
四人チームで操作キャラを切り替えることができるが、一人でプレイしているときでも他の三人がオートで動くのはとても良かった。
「せっかくチームなのに単独行動になってしまう」というゴッサムナイツに感じていた不満を解消してくれた点だけは称賛したい。
でも次はジャスティスリーグのほうを操作するゲームを作ってくれ。シングルプレイでな。
オンラインCo-op専用のライブサービス型海戦ゲーム。一人でやるゲームではない。一人でやったが。
海のグラフィックは綺麗だし、自分の船を自由に駆る楽しさは確かにあるが、とにかく内容が薄い。
「ライブサービス」を名乗ってはいるが、その実態は完成形をうすーく切って、小出しにしているだけである。
海戦メインと割り切っているのかゲームプレイの幅が狭く、探検要素や交易要素を期待するとがっかりする。
フィールドが狭い。ほとんどの街に入れない。現時点では船種や装備が少なくてカスタマイズも物足りない。
これから買うとしたら全てのアップデートが完了するまで待ったほうがいいのではないか。
シングルプレイ用に作り込めばどれだけ面白くなったか…と残念に思う。
スースクとあわせて「オンライン専用」「ライブサービス型」というのがどれほど足枷になるかを痛感した。
なぜ「Marvel's Spider-Man 2」は失敗したのか
移動の自由度は低く、オープンワールドとしては前世代的なつくり。
それ以外は平均点で、全体として卒なくまとまっており、飽きずにラストまで辿り着けた。
またぞろディストピアSFか、とは思ってしまったし、気持ち悪いアートワークもあまり好みではないが。
ウルトラハンドの面白さをゼルダというフォーマットでは活かしきれないというか、
初見で「ウルトラハンドすげえ!いろいろ出来るじゃん!」と期待したほどいろいろ出来なかったというか、
このシステムならぶっちゃけ完全にクラフトゲームにしたほうが面白くね?と思ってしまったな。
要素が増えたせいで操作がかなり煩雑になっているし、それが「自由度」よりは「縛り」に感じた。
まあブレワイ・ティアキンって結局はオープンワールドに大量にミニゲームを散りばめているだけで、
それが任天堂クオリティで完成度が高すぎるから成り立ってるにすぎないんだよな。
『指輪物語』の世界観をベースにアサクリと無双を足して2で割ったようなゲーム。
システム的にはハクスラなのでスースクと似ているが、遥かに出来が良くて爽快感がある。
高速で走りまわり、城壁を駆け上がり、物陰に隠れ、さまざまな攻撃手段で敵を圧倒する。
ステルスで一匹ずつ倒すこともできるし、オークの大群を相手に大立ち回りもできる。
似たような敵をひたすら倒し続ける作業ゲーになりがちなところで、敵に個性を持たせるシステムも面白い。
ただ、ストーリーに興味が湧かないせいか途中で止まってしまった。続きをやりたい気持ちはある。
2の前座としてやってみたが、シリーズの一作目として足りないところはあるものの、順当に面白かった。
Ubisoftはやはりオープンワールドの作り方を知っている(スカボンから目を逸らしながら)。
身体能力の高いナヴィを操って(不気味な極彩色の)大自然を駆けまわり、さらに翼竜に乗って自由に空を舞えるのが魅力。
戦闘はかなりクセがあり、敵が強すぎて正面から撃ち合うとまず負けるので、敵の多い基地では高難度ステルスを強いられる(それはそれで面白いが)。
あとはUIデザインが酷くて、メニューまわりは何だか古くさくてダサいし、説明文などもわかりづらい。
サブクエで「〇〇を××しろ」と言われても、どこに行って何をすればいいかわからない、という事態が頻発する。
良い部分と悪い部分がはっきりした尖ったゲームではあった。
こういうのでいいんだよという順当な面白さ。
どちらかというと変則的な前作ヴァルハラのほうが個人的には好みだったが、今作ミラージュのスタンダードな作りも悪くない。
どの入口からでも、どういう順路でも、どんな手段を使ってもいいので目標を達成する、という自由度が、
アサクリの、ひいてはオープンワールドの魅力であって、今作はその面白さをシンプルに実現できている。
もちろん、実際のところは「複数の順路を用意してプレイヤーに選ばせている」だけだったりするので、まだまだ改善の余地はあるのだが。
前作のショボい悪役が今回の主人公なのでぜんぜん魅力を感じないのが最大の短所。
このDLCのために本編から新しくやりなおしたが、いま一度言おう、神ゲーである。
DLCのメインシナリオ部分はややリニア感が強かったものの、全体としては非常に満足できる。
ひとつひとつのサブクエストが短編小説のように気が利いていて決してミニゲーム的ではなく、
・全体的に眠かった
特に劇のくだり
本当に伴侶と出会って子育てして幸せで〜の価値観、世間一般として「正解」なのはわかるがじゃあ共感して自分もやりたいかと言われるとピンとこないのでひたすら眠かった
・上から吊るされてくる神様の顔がキモくてさすアリ〜(さすがアリ・アスター監督だぜ)ってなった
あの屋根裏のくだりも何?あのモンスターは何?おじさんは何?つまりPTSDニキは奥さんが言ってた通り(結果的には)ヒーローだったってこと?暗喩なんだろうがわからん
・腹上死ネキの遺体が硬直してるからドア通す時若干角度工夫されてるのおもろ
お母さん訃報→入浴→上におじさんの一連の流れ目茶苦茶ハジけてた
あの街は更生?街的な感じなの?
・かわいそうなボウ
・医師夫妻がいい人すぎていつ裏切るんじゃ…とビクビクしてた
アリ・アスター監督のヘレディタリー的な「終点はすでに決まっててそれに向かって進んどるのじゃ…」感を端的に感じされられてGoodだった
・あの暴挙達が押し寄せた後の部屋のミキサーの茶色い中身、不穏 顔をしかめてたのがまた
・カウンセラーの好々クソ爺の顔つきよ
・女子の会話って内容とか声色とかこええよな…
・でも目的→ポリコレでなく、監督の「家族」へのネットリしたマイナス感情を煮詰めた映画だったのでよかったです
クリエイターの自我は知りたくないけどここまでなるアリ・アスター監督の家庭環境とは…?となる
アジアのアイドルとかマンガ絵が「イカしてる」価値観の欧米人ヤング世代…!と
・上映時間3時間の映画で頭からお尻までちゃんと面白かった映画、
某映画しかなかったから無理して長くしなくてもいいんじゃ…?と思った
ケーブルテレビSTBでは見られない場合が多いようなのでBSパススルーとか
地域によってはSTBで見られるようになったかもしれないので最新情報要確認
・02 『ブラック・ジャック』
・03 フランス
・04 [3択]3(番
・06 [すべて][順番]バタフライ 背泳ぎ 平泳ぎ 自由形
・07 二階から)目薬
・09 [近似値]81
・12 RISING SUN (ROCK FESTIVAL
・13 [酒][3択]ジン
・15 ジャッキー・チェン
・16 [ふるさとクイズ][和歌山県][那智勝浦町]おみくじ
・18 チタン
・19 いわさきちひろ
・25 [3択]ゴボウ
・26e TM NETWORK ティーエムネットワーク
前回:PS5を買ってからプレイしたオープンワールドゲームの評価
序盤で脱落した。
パルクールを売りにしたゾンビゲー。しかしゲームをする以前の問題で、小一時間のプレイで激しく3D酔いする。
一人称視点で動きがもっさりしていて画面がよく揺れる、というあたりが要因なのだろうが、とてもプレイしていられない。
人為的に3D酔いを誘発するために開発されたゲームだと言われたら信じる。
ただ序盤の時点で「酔いを我慢してでも続きをやりたい」とは思えなかったのも事実である。
序盤で脱落した。
GTAは「オープンワールド」という形式を普及させた偉大なゲームシリーズだが、やはり現在では時代遅れになっている部分が多くある。
たとえば敵の拠点に潜入するクエストがあるとしたら、潜入ルートは決まっているし、途中で敵に見つかるのも決まっている。
見つかったあとの逃げ道も決まっていて、途中の壁を乗り越えて逃走したりはできないようになっている。
GTAにおけるオープンワールドとは「ミニゲームをプレイする順番を選択できる」というだけにすぎない。
序盤で脱落した。
GTAフォロワーである「セインツロウ」シリーズのリブート作品。問題点もGTAと同じ。
中盤で止まっている。
起伏に富んだフィールド。自由な移動。かわいらしい野生のポケモンたち。
新しいポケモンを求めて寄り道してしまうような探索の楽しさがある。
理想的にはポケモンの生態シムみたいなところまでやってほしいわけだが。
あとエリア間の移動を禁止するために高い山で区切ったりするのは論外。
作り手の都合だけでオープンワールドの自由度を破壊する最悪のやり方だ。
どこが優れているというわけではないが、オープンワールドに求める必要最低限を確保している。
広大な街を飛び回って頭上からマフィアたちを急襲。敵を倒したらさっと飛び上がって次の現場へ。
こういうのでいいんだよ、こういうので。
ただメインクエストで「ステージ」のなかに入ると一気に作りがリニアになるのは難点。
せっかく操作キャラが4人いるのに同時に出撃できないというのも残念だった。
あくまで「最低限」であってリッチなオープンワールド体験ができるわけではない。
オープンワールドはゲーム内に昼夜があってもだらだらとプレイしがちなところがあるので、
「準備の昼パート」と「実戦の夜パート」を分けてサイクルを設けたのは効果的だったと思う。FF15を思い出した。
超大作というわけではないが、限られたリソースをやりくりして上手く作ったという感じ。
スパイダーマンのように高速で飛び回るようなことはできないが、
高低差のあるビル街を活かしたゲームプレイが楽しめるようになっている。
オープンワールドは負荷対策やコスト削減のために「人がいない世界」を舞台にしがちなのだが(撲滅すべき悪習だ)、
そこでコミカルな「幽霊」を出したり、口の悪い「相棒」を用意したりと、賑やかになるよう工夫しているのも良い。
FF15のスタッフが製作したアクション寄りのファンタジーRPG。
売りである「魔法パルクール」という移動システムは本当に素晴らしい。それを活かした戦闘も非常に楽しかった。
また、こちらの作品でも口の悪い「相棒」が効果的に機能していた(まあFF15の複数人パーティのほうが楽しかったが…)。
基礎はよくできているのだから、あとはその上に優れたシナリオを構築するだけだ…と思ったら、
それ以外ではひたすら従来のゲーム作りを踏襲している感じなのが残念だった。
まずメインシナリオは極めて単線的である。ボスを倒す順番すら決まっている。
そして、そのボスを倒すごとに強制的に状況が悪化するので、物語を進めていくモチベーションがひたすら下がっていくのである。
そんなところまでFF15を踏襲しなくていいんだよ。もっと他の美点を踏襲しろ。
フィールド上に本当に人がいないので魅力的なサブクエストが存在せず、シナリオが横に広がっていかない。
入手できるアイテムが汎用の強化アイテムばかりなのもフィールド探索のつまらなさに拍車をかけている。
ハクスラ的な装備のランダム生成とオープンワールドとの相性の良さを再確認した。
あとエリアを高い山で区切るのやめろって言っただろ。
いや、無限に文句が出てくるんだが、それは悪いところが明確だからで、それさえ直せば傑作になるとわかっているからだ。
FF15とForspokenは、どちらも魅力的な長所と致命的な短所とが明確な「傑作になりそこねた作品」だった。
次回作こそは…次回作こそは真の傑作を…国産のオープンワールドゲームを…頼んだぞ…。
同時期に発売されたことで何かと比較されたForspokenと比べるとアドベンチャー寄りのつくりである。
とにかくアートワークが素晴らしい。ファンが想像するホグワーツをそのまま再現したかのようだ。
だが…この作品は「ホグワーツでの学校生活」を再現してはいない。
「ホグワーツを再現したテーマパークでひたすらミニゲームをさせられる」と表現するのが正しいだろう。
「広大なフィールドで自由に行動する」オープンワールドと、「限定された空間で正解パターンをなぞる」ミニゲームの相性は悪い。
フィールドをミニゲームで埋めるよりも、もっとシナリオにコストをかけるべきだった。
標榜してねー、は全然合意とれないけど、そこはもう平行線だからいいや。
でも、元増田=お前の批評は無価値ってことも合意取れちゃうけどいいんか。
いいならいいけど。
お前がやるって言ってたゴッサムがオープンワールドではあるものの駄作ってことが、普通にありえるということだぞ。目先のレスバのためにそんなこと認めちゃうんだ。ふーん。
エルデンリングは優れたアクションゲームであるが、俺の好きなゲームとしては完全に失敗している。
どこが失敗しているのか、なぜ失敗しているのかを以下に述べる。
俺の好きなゲームにとって最も重要な問題は「壁に登れるかどうか」である。
この「壁」とは、建物の壁だけに限らず、崖、岩、草木、あるいは「見えない壁」まで、あらゆる障害物を指している。
「ここは通ってほしくないから壁を置いておこう」
そうしてゲームクリエイターがプレイヤーをコントロールしようとして設置されるものが「壁」である。
俺の好きな「どこまでも自由に行けるゲーム」とはまったく正反対の性質のものであることがわかるだろう。
しかしその「壁」を登ることができるならば、障害物だった「壁」は、すべてが立体的な「道」へと変貌する。
たとえるなら、
お化け屋敷です、決められたルートを決まった順番に進んでください、
運営がそのルートに沿っていろんな怖い演出を用意しています、というのがリニア(一本道)なゲームだとしたら、
肝試しです、どの道を進んでも、あるいは道から外れても、崖を登っても、空を飛んでもいいので、
とにかく山の頂上の神社にある御札をとってきましょう、というのが俺の好きなゲームなのである。
どちらのほうがより良いとか正しいとかいうわけではないが、この二つを両立することは難しい。
エルデンリングは、俺の好きな仕組みを導入しながらも、リニアなゲームから脱却することができなかった。
見た目は俺の好きなゲームでありながら、ゲームデザインは極めてリニアである、というアンバランスな作品だった。
屋根にのぼって高所から敵を倒すとか、城の裏手から侵入して敵の手薄なところを探すとか、そういった自由度はない。
あるとしてもそれは開発者があらかじめ用意しておいた「ルート」の一つでしかなく、
自由な移動を保証した俺の好きなゲーム化の結果として可能になったものではない。
またエルデンリングでは、マップ上に点在する特定のポイントでしかリスポーンできない。
非常に死にやすいにもかかわらず、「死んだところだけやりなおす」ことができず、「最初からまた順番にやりなおせ」と強制される。
これは単体の戦闘ではなく、リスポーンポイントから始まる「ルート」をゲーム体験の最小単位として意図しているからだろう。
リスポーン地点から遠く離れるほど、死んで元の地点に戻されたときの徒労感は大きくなる。
死んだときに落としたルーンは、リスポーン地点から離れているほどそれを回収するのが難しくなる。
というかフィールドは広くてもイベントやクエストはスカスカだし敵を倒してもロクなアイテムを落とさない。
「あちこち適当にボスだけ置いたんで、寄り道して倒しにいってもいいですよ。それって俺の好きなゲームっぽいですよね?」
くらいにしか考えていないのだろう。
まあ開発陣はなんとなく流行りに乗っただけなんだろうが、
エルデンリングは優れたアクションゲームであるが、オープンワールドゲームとしては完全に失敗している。
どこが失敗しているのか、なぜ失敗しているのかを以下に述べる。
オープンワールドゲームにとって最も重要な問題は「壁に登れるかどうか」である。
この「壁」とは、建物の壁だけに限らず、崖、岩、草木、あるいは「見えない壁」まで、あらゆる障害物を指している。
「ここは通ってほしくないから壁を置いておこう」
そうしてゲームクリエイターがプレイヤーをコントロールしようとして設置されるものが「壁」である。
オープンワールドという「どこまでも自由に行けるゲーム」とはまったく正反対の性質のものであることがわかるだろう。
しかしその「壁」を登ることができるならば、障害物だった「壁」は、すべてが立体的な「道」へと変貌する。
たとえるなら、
お化け屋敷です、決められたルートを決まった順番に進んでください、
運営がそのルートに沿っていろんな怖い演出を用意しています、というのがリニア(一本道)なゲームだとしたら、
肝試しです、どの道を進んでも、あるいは道から外れても、崖を登っても、空を飛んでもいいので、
とにかく山の頂上の神社にある御札をとってきましょう、というのがオープンワールドなのである。
どちらのほうが「より良い」とか「正しい」とかいうわけではないが、この二つを両立することは難しい。
エルデンリングは、オープンワールドという仕組みを導入しながらも、リニアなゲームから脱却することができなかった。
見た目はオープンワールドでありながら、ゲームデザインは極めてリニアである、というアンバランスな作品だった。
屋根にのぼって高所から敵を倒すとか、城の裏手から侵入して敵の手薄なところを探すとか、そういった自由度はない。
あるとしてもそれは開発者があらかじめ用意しておいた「ルート」の一つでしかなく、
自由な移動を保証したオープンワールド化の結果として可能になったものではない。
またエルデンリングでは、マップ上に点在する特定のポイントでしかリスポーンできない。
非常に死にやすいにもかかわらず、「死んだところだけやりなおす」ことができず、「最初からまた順番にやりなおせ」と強制される。
これは単体の戦闘ではなく、リスポーンポイントから始まる「ルート」をゲーム体験の最小単位として意図しているからだろう。
リスポーン地点から遠く離れるほど、死んで元の地点に戻されたときの徒労感は大きくなる。
死んだときに落としたルーンは、リスポーン地点から離れているほどそれを回収するのが難しくなる。
というかフィールドは広くてもイベントやクエストはスカスカだし敵を倒してもロクなアイテムを落とさない。
「あちこち適当にボスだけ置いたんで、寄り道して倒しにいってもいいですよ。それってオープンワールドっぽいですよね?」
くらいにしか考えていないのだろう。
まあ開発陣はなんとなく流行りに乗っただけなんだろうが、
『ELDEN RING』ディレクターの宮崎英高氏にインタビュー! 著名な作家とのコラボレーションなどについて語っていただきました! – PlayStation.Blog 日本語
宮崎氏:プレイヤーには主に、今回私たちが注力した自由度の重要さを感じてほしいと思っています。ゲームをプレイヤーそれぞれの方法で楽しんでもらい、自分のペースで探索できるこの新しいオープンワールドで解放感を味わってほしいと思っています。
宮崎氏:はい、これは意図的なものですが、必ずしもゲームを明るくするためではありません。『ELDEN RING』では、広大なオープンワールドを探索することを考えると、鮮やかな色使いが必要でした。
フロム・ソフトウェアの宮崎英高氏が語る『ELDEN RING』開発の秘密 - Xbox Wire Japan
オープンワールドのデザインは、これまでの作品と創作のプロセスにおいてどのような違いがあったでしょうか。
宮崎氏:ゲーム全体のデザインで言えば、『DARK SOULS』などから変わらぬテーマである達成感に加え、未知と脅威に満ちた広大な世界に、自由に挑む「冒険感」を重視したことが大きかったと思います。
また、他オープンワールドゲームにインスパイアされた点はありますか?
宮崎氏:特定のゲームに特にインスパイアされた、ということはありませんが、ユーザーとしても、名作と呼ばれるオープンワールドゲームを多くプレイし、それぞれから素晴らしい刺激を受けました。
単なるゲームメディアではなくPS/Xboxの公式ブログにおいてもオープンワールドだと喧伝され、ディレクターもとい宮崎社長もオープンワールドだと言っているのに、「エルデンリングはオープンフィールドだからオープンワールドじゃない!プレイヤーが勝手に勘違いしただけ!」というのはさすがに詭弁ですね。
映画オリジナルの勝手な捏造が組み込まれた結果がこれなんやで。くやしいのうwww
カンヌ映画祭 2021年7月17日 パルム・ドール 濱口竜介 ノミネート [27][28]
アジア太平洋映画賞 2021年9月11日 作品賞 ドライブ・マイ・カー 受賞 [29]
ゴッサム・インディペンデント映画賞 2021年11月29日 国際長編映画賞 ドライブ・マイ・カー 受賞 [30]
ニューヨーク映画批評家協会賞 2021年12月3日 作品賞 ドライブ・マイ・カー 受賞 [31]
ワシントンD.C.映画批評家協会 2021年12月6日 外国語映画賞 ドライブ・マイ・カー 受賞 [32]
ニューヨーク映画批評家オンライン賞 2021年12月12日 外国語映画賞 ドライブ・マイ・カー 受賞 [33]
ボストン映画批評家協会賞 2021年12月12日 作品賞 ドライブ・マイ・カー 受賞 [34][35]
シカゴ映画批評家協会賞 2021年12月15日 作品賞 ドライブ・マイ・カー ノミネート [36]
外国語作品賞 ドライブ・マイ・カー 受賞
ロサンゼルス映画批評家協会賞 2021年12月18日 作品賞 ドライブ・マイ・カー 受賞 [37]
セントルイス映画批評家協会賞 2021年12月19日 脚色賞 濱口竜介、大江崇允 ノミネート [38][39]
外国語映画賞 ドライブ・マイ・カー 受賞
ゴールデングローブ賞 2022年1月9日 非英語映画賞 ドライブ・マイ・カー 受賞 [24][25]
全米映画批評家協会賞 2022年1月9日 作品賞 ドライブ・マイ・カー 受賞 [40]
サンフランシスコ・ベイエリア映画批評家協会賞 2022年1月10日 作品賞 ドライブ・マイ・カー ノミネート
国際長編作品賞 ドライブ・マイ・カー 受賞
トロント映画批評家協会賞 2022年1月16日 作品賞 ドライブ・マイ・カー 受賞 [41]
女性映画ジャーナリスト同盟賞 2022年1月25日 非英語圏作品賞 ドライブ・マイ・カー 受賞 [42]
インディペンデント・スピリット賞 2022年3月6日 外国映画賞 ドライブ・マイ・カー 未決定 [43]
放送映画批評家協会賞 2022年3月13日 外国語映画賞 ドライブ・マイ・カー 未決定
サテライト賞 2022年3月18日 外国語映画賞 ドライブ・マイ・カー 未決定 [44]
日本国内の賞
賞 セレモニー開催日
第13回TAMA映画賞 2021年11月21日 最優秀作品賞 濱口竜介及びスタッフ・キャスト一同 受賞 [45]
ELLE CINEMA AWARDS 2021 2021年12月18日 ベストディレクター賞 濱口竜介 受賞 [46]
第34回日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞 2021年12月28日 作品賞 ドライブ・マイ・カー 受賞 [47]
第34回毎日映画コンクール 2022年1月20日 作品賞 ドライブ・マイ・カー 未決定 [48]
美術賞 徐賢先 未決定
録音賞 伊豆田廉明 未決定
第43回ヨコハマ映画祭 2022年2月6日 日本映画ベストテン ドライブ・マイ・カー 3位 [49]
第64回ブルーリボン賞
ジョーカーのコスプレをした切りつけ魔が出たという。以下では、昨年書いてお蔵入りになったジョーカーについての文章を掲載する。
2019年に公開された映画「ジョーカー」についての話をしたい。この映画は、一人の男がジョーカーという、バットマンに対するヴィラン(敵役)へと「堕ちる」様子を描いたものである。その男・アーサーは、治安が最悪なゴッサムシティ(1980年頃のニューヨークを元にしている)に住む白人の中年であり、不適切な状況でも突然笑いだしてしまうという障害を抱えており、コメディアンを目指しているものの現在はピエロの仕事で食いつなぐ貧困状態にあり、同居している母親の介護で疲れ果てており、その母親は大富豪がいつか自分たちを助けてくれるという話を繰り返すばかりであり……。さらにはあるとき市の緊縮により福祉サービスが打ち切られ、仕事もクビになる。しかし、だから彼は社会への反発として犯罪者になる――といった話ではない。こればかりは2時間の映画本編を見てもらうしかないのだが、アーサーは映画の中で徹頭徹尾、孤独――きわめて社会学的な意味において――であった、ということは指摘しておいてよい。映画の中盤および終盤において、殺人ピエロ=ジョーカーの信奉者たちによる熱狂の暴動のさなかにあっても、アーサーは孤独であった。群衆は彼の孤独を理解せず、単に自らの社会への怒りを投影した。
その結果として起こる暴動の映像を2020年現在において観賞することは、今年5月にミネアポリスで一人の黒人男性(ジョージ・フロイド)が白人警官によって殺された事件に端を発した一連のデモあるいは暴動を否が応にも想起させる。街のあらゆるところで火の手が上がり、ショーウィンドウは粉々に割られ、警察車両すらも攻撃の対象となる――。両者の映像を並べて類似性を端的に示した映像がSNS上で拡散するばかりでなく、映画の中で使われたピエロのマスクを被って警察車両に放火した男が逮捕されるにいたっては、陳腐な言い方ではあるが、どちらが現実であるかわからない有様であろう。黒人男性の弟やガールフレンドが暴動を止めているにも関わらず、状況が悪化の一途を辿っていることもまた、映画中においてアーサーの意志とは無関係に暴動が拡大していったことと相似形である。
この映画に対してあり得る最も愚かな感想の一つは「こうした犯罪者を生まないために、福祉を充実させよう」というものである。かりに、国が無限の利用可能な財源を持ち、そのことによって経済が破綻したりしないという条件下であってさえも、その愚かさは変わらない。そうした主張は第3アプリオリの骨子である「社会は不平等な諸要素からなる構成体である」(ゲオルグ・ジンメル,1994『社会学(上巻)』居安正訳 白水社 :52)という事実を見逃しているからである。社会がどうであれ、政策がどうであれ、社会は常に不平等でありつづける。福祉を充実させればさせたなりの形で、社会は〈下〉の人間を生み出し続ける。そのことはOrdnungとかOrderといった語が、秩序と順序を同時に意味することからも理解可能であろう。たとえ社会がいかに変わろうとも、誰かがババ(ジョーカー)を引かざるを得ない。
アーサーからジョーカーへの変化を、映画では長い階段を用いて効果的に描いている。その階段はアーサーのアパートへと向かう途中にあり、序中盤ではその階段を彼がしんどそうに登る様子が繰り返し映される。しかし終盤、アーサーがジョーカーになることを決意した後のシーンで彼は、煙草を吸い踊りながら軽やかに階段を下りていく。このシーンは映画中唯一といってもよいほど明るく祝祭的な雰囲気に満ちている。しかし、である。画面に騙されて、アーサーは社会的な重荷を脱ぎ捨てて、彼という人間本来の姿であるジョーカーについになりえたのである、などと考えてはならない。彼は今まさに幼少期からずっと目指していた存在、コメディアンになるために、わざわざピエロのメイクを施し、一張羅を着込んでいるのである。ここで描かれている祝福は、「これこそが自分の天職である」という勘違いに、残酷にも気がついていない男の主観によるものである。我々はそれが勘違いであることを、映画の全体を観ることによって知ることができる。では、もし我々自身が勘違いの中で軽やかに階段を下りていくとき、それを止める論理は存在しうるものだろうか?
ここに至って私には召命や天職という概念が、社会のなかに自分の居場所があるはずであるという観念が、いや、あるいは社会という存在そのものが、ひとつの呪いであると思える。それらに一度囚われれば、抜け出すことはほとんど不可能である。その中で少しでも幸福に生きていこうとすれば、「置かれた場所で咲きなさい」式の諦念に達するか、時として「祝福の有無は稼ぎ出す貨幣の多寡によって判別可能である」というような突飛な結論に着地しさえする。
世間が夫婦別姓に注目してることはわかるけど、ツイッターを眺めてたら「この人たちが(強制的夫婦同姓を)合憲って言ってました」「この人たちが違憲って言ってくれました」みたいなツイートが流れてきて、普通に怖かった
当の裁判官の力不足(司法権を行使する立場にふさわしくない)を嘆くならまだしも、(元から公開情報だったとはいえ)文脈的には「特定」とか「晒し」とかだったし
自由心証主義での判決が司法的には理想らしいんだけど、「特定」や「晒し」なんかはそれの真逆を後押しするような行為じゃない?
最高裁判所の裁判官に関しては仮にも審査する立場であるはずの国民が、司法権の濫用につながりかねない行為に積極性を示すのってどうなの?
(裁判官の実態がどうあれ、というか実態に問題があるなら、国民はむしろそれを批判すべき立場なのでは?)
そもそも昨今の価値観に不相応っぽい制度が違憲判決にならないとき、問題は裁判官より憲法自体にありそうだし、改憲までいかなくてもより現代的な(都合のよい制度を推してくれる)政治家を国会に連れて行くべきだと思うんだが
(政治家相手なら「特定」「晒し」行為に走ってもいいっていう話じゃないけど、まあもしかすると俺が知らないだけで裁判官たるもの政治家たるものいかなるときも脅迫に屈さぬ鋼の心を常備せよとかいう法律がどこかにあるのかもしれない)
何にせよ俺は鋼の心の持ち主じゃないので、傍から見ていただけでも怖かったって話
リモワで夫も家にいるし子どもを寝かしつけたらコンビニに甘いものを買いに行きたいなと思っていたけど眠くて疲れていてとてもこの寒い中外に行く気力などわかず。
家に買い置きのお菓子は全部子供が食べてしまったのでトースターでパンを焼いてチョコレートジャムを塗って食べた。夜なのに。
昼間は子供の好きなYouTubeの動画を垂れ流しで自分の見たいものは見させてもらえないので子供の寝てるこの隙に何か見ようかとテレビをつけたけど、ニュースは全然頭に入ってこないし、とにかく色んなことで気持ちが荒んで仕方ないのでジョーカーの良いところから見始めることにした。
良いところというのはランドルと同僚がジョーカーの部屋を訪れるシーンあたりからぶっ壊れた車の上で踊るシーンあたりまでです。本当は正しくない楽しみ方なんだろうけど燃えるゴッサムシティは美しくてとても癒やされる。私の代わりに暴れてくれてありがとう。おやすみなさい。
少なくともデータ部分、つまりか機械に責任割合を持たせる線はなくて、その場合はデータを作ったやつの割合になるね。
あと、今は運転者と被害者の2つで責任を分割してるとこ、運転者と被害者とAIメーカーの3つで責任を割ることになるわけだから、普通の人にとって今より責任は軽くなると思われる。
あとはメーカーが政府に対してどれくらいの影響力を持ってるか、あるいは技術力がどれくらいかによる。
これがゴッサムシティだったらきっとメーカーの責任は常にゼロだし。
あるいはメーカーに事故をゼロ件にできる絶対の自信と能力があるなら、常に10の責任を取ってもなおおつりが出るかもしれないし。
まず、『ダークナイト』は、フロイトの「自我・超自我・イド」の図式に当てはめると解釈しやすい映画です。
そもそもジョーカーってなんなの?というと、病院のシーンでハービーに言っていたように、「混沌の使者」(Agent of chaos)です。
ゴッサムに秩序をもたらそうとするハービーやバットマンに対して、人々の怒りや不安(防衛本能)を煽り、本能的衝動にしたがって行動させることで街の秩序を崩壊させようとするのがジョーカーです。
ここでの秩序とは何かというと、「父権制的な権力」を指します。
これは、明治時代など、近代以前の家父長制でも見られる、父親や「家」といった道徳や社会的信用に基づいて人々を従わせる権力を指します。
近代以前の社会では、家長同士の信頼によって地域コミュニティに必要な産業や社会制度が賄われており、それらの秩序を犯した者がいた場合、例え家族であってもその命を差し出す必要がありました。
父親のもたらす権力・秩序が個人の自由に優越していた時代です。
一方、近代の市民革命以降は、主権者が一般市民(国民)に移ったことで、上記の「父権制的な権力」に個人の自由が優先されるようになります。
コミュニティの構成員の間でも格差があったり、それぞれ価値観は異なります。
するとどうなるかというと、それぞれの権利の拡大やコミュニティの方針を決める上で争いが起きるようになります。
この原動力が、ジョーカーの象徴する「人間の生理的欲求・本能的衝動」です。
『ダークナイト』の公開された2009年はアメリカがイラク戦争の泥沼にどっぷりハマっていた時期で、ジョーカーの爆破などテロ行為と合わせて、この映画をイラク戦争批判と見る人もいました。
私はこの映画がイラク戦争批判だとは思いませんが、「人々の防衛本能によって事態が混沌に陥った」という点では共通していると思います。
イラク戦争の発端は、アメリカを攻撃する大量破壊兵器がイラクにあり、「先制攻撃」の対義名分で侵攻、泥沼に陥りました。
この映画でもそうで、人々が防衛本能によって親しい人物を裏切り、ジョーカーに加担することで一連の計画・悲劇は進みます。
終盤もジョーカーが市内に仕掛けた爆弾から逃げるために船に乗り込んだ一般市民が船内の爆破を免れるために、囚人船の爆破との二択を迫られる展開となります。
終盤の二択のシーンは、人々が社会的信頼や道徳(善)に基づいた振る舞いをすることで危機を免れるわけですが、ここでも生存本能を脅かす不安(本能的衝動)と社会的信頼(父権制的権力)の葛藤が起きているわけです。
この二者の葛藤を説明する概念が、フロイトの「自我・超自我・イド」です。
これらの概念は、父親のしつけを通じて内面化された父権制的権力と動物的欲望・本能的衝動の葛藤の間で揺れ動く人間の自我のありようを表すものです。
この三者の関係を表すものとしてよく触れられるのが、ギリシア悲劇の「オイディプス王」やこの寓話を受けた「エディプスコンプレックス」の概念です。
エディプスコンプレックスの概念によると、幼児期の男児は母親との結婚を望むが、父親と結婚しているため、その願望が叶うことはない。この時、男児に母親との結婚をタブーとする父権的な「規範」(秩序)が生まれ、男児は精神的な去勢を経験するとされます。
要は、母親と結婚したい男児の欲望と、それを男児のモラルとして彼の心の中で禁止する父権制的な権力との間で葛藤する男児の自我の揺れ動きを表しているという話です。
実際、この映画では、ハービーは社会的信用を守る地方検事で、ブルースの幼なじみであるレイチェルの恋人役です。
ブルースのレイチェルへの性欲を抑圧し、彼自身が望む秩序を体現する存在で、ブルースの「超自我」の象徴と言えます。
一方で、ブルース自身に目を向けると、幼い頃に両親を奪ったギャングに、自分自身の幼児期のトラウマである「コウモリ」のコスチュームで私刑を加えることで、彼らに自分と同じ畏怖(トラウマ)を植え付けようとしています。
ブルースが「コウモリをシンボルに選んだ理由」と「なぜシンボルが必要か」(逐次制裁では模倣犯が出るため、模倣犯が出ないよう、悪漢を怖がらせる、畏怖の対象となるシンボルが必要と考えた)は、前作の「バットマンビギンズ」でブルースによる上記そのままの説明があります。
つまり、「ブルース自身が彼の超自我(父親の象徴)であるコウモリになろうとしている」という話で、先述のエディプスコンプレックスにある、父親の座につこうとする男児の精神と合致します。
また、ブルース自身の葛藤として、彼は街に秩序をもたらすという公益性とは別に、Mob(ギャング)への個人的な恨みで制裁を加えている側面があり、この個人的な恨みが暴走してしまうのではないか、そもそも自身の行動はただの私刑(リンチ)ではないかという懸念がついて回っています。
ジョーカーが焚きつけようとしているのは、ブルースのこの個人的な怒りです。
ブルースがMobの制止と社会秩序の実現という社会道徳ではなく、個人的な怒りでバットマンの活動を行なった瞬間、彼はただの犯罪者になります。
ジョーカーの目的は、このバットマンの大義名分を取り払い、自分やスケアクロウなどの怪人や、Mobのようなゴロツキと変わらない存在に陥れることです(この企てに成功したのがハービートゥーフェイス)。
取調室でのバットマン・ジョーカーの尋問シーンで“You complete me.”(プロポーズの慣用句です)と言っていることからも分かる通り、ジョーカーはバットマンが半ば自分と同じ本能的衝動で動いていることに気付いています。
(だから、“You and I, are destined to do this, forever.”となる。)
長くなりましたが、パーティーシーンについて。
このシーンでは、老紳士が父権制的道徳を象徴する形でジョーカーに反抗したため、ジョーカーから“You remind me my father, I hate my father!”(お前見てると俺の父親を思い出すんだよ、大っ嫌いな父親をな!)と反感を買います。
ここでレイチェルが止めに入り、ジョーカーが口元の傷の由来を話しているのが、この場面の一番重要なポイント。
ここで何をしているのかというと、レイチェルを象徴的な意味で自分の女にしようとしています。
というのは、上に書いた通り、ジョーカーはバットマンの片割れです。
すると、ジョーカーにもレイチェル的な存在がいてよい、いるはず、という話になります。
それがジョーカーが”D’you know how I got these scars?”で始める「傷の由来の話」に出てくる「ジョーカーの悪妻」です。
レイチェルをこの悪妻に重ねているのは、逸話に入る前に“I had a wife, very beautiful, like you.”と言っていることから分かります。
ではその悪妻がどのような女性かというと、レイチェルのように慈愛に満ちている反面、ギャンブル狂で、口を裂かれた彼女に寄り添おうとしたジョーカーを拒絶した女性です。
ハービーと同じ検事職にあり、貞淑さを象徴するレイチェルとは真逆の存在です。
ジョーカーのしようとしたのは、レイチェルを自分の別れた悪妻と重ね、彼女と同じ傷をつけることで、レイチェルをその悪妻と同じ側に落とすことです。
おそらくこの逸話自体は嘘です。この場面以前にもGambolのシーンで傷の逸話がありますが、別の話をしています。病院のシーンでハービーに「俺が計画して動く男に見えるか?」(”Do I look like a guy with a plan?”)と言っていることからも、彼がポジショントークしない人間であることが分かります。
レイチェルを殺したり、ただ傷物にするのではなく、その前にこの逸話を挟むことで、その傷は彼女へのマーキングの意味を持つようになり、シンボル的な意味でレイチェルはジョーカーの女に堕落します。
彼女はやがてジョーカーにさらわれて殺されてしまいますが、面白いのは、その時ジョーカーが指定した彼女の居場所です(実際にいたのはハービーですが、言葉の上で彼女と結びついていたのが重要)。
ジョーカーは彼女の居場所を“She’s at avenue X, in Cicero.”と指定しています。
Ciceroとは、共和制ローマ末期の弁論家・政治家・哲学者で、彼の政治思想で理想とする統治機構は「共和制」でした。
「共和制」は、国家主権が人民に存する統治機構で、国家元首(王)により支配する独裁制とは対立する統治機構です。つまり、父権的制的権力とは対立する概念。人民の動物的本能に公共善による秩序をもたらそうとするもので、超自我とイドの調和が取れた状態と見ることもできます。
つまり、超自我とイドの葛藤に揺れるブルースが、本来身を委ねるべき安息の場所にレイチェルがいた、と比喩的に表現されているのです。
(その場所にハービー(父親)を置いとくあたり、徹底してジョーカーは底意地が悪い)
とまぁ、パーティーシーンは、これらの葛藤の舞台となる場面です。
直前でスリロ判事・警察長官が殺されて、ハービーが殺されればゴッサムの司法庁崩壊でその王手がかかっていたり、それを阻止すべく大急ぎで対応するブルースと迫るジョーカーのサスペンスだったり、ヒースレジャーのセリフ回しだったりで見所がいっぱいある、個人的にも好きなシーンです。