はてなキーワード: 文政とは
文政府「日本哨戒機に追跡レーダー照射しろ」…事実上の交戦指針(1)
https://s.japanese.joins.com/jarticle/294476
文在寅(ムン・ジェイン)政府で、軍当局が低い高度で近接飛行する日本海上哨戒機に対して現場指揮官が追跡レーダーを照射するなど積極的に対応するよう指示をする指針を作っていたことが確認された。2018年12月~2019年1月、相次ぐ日本海上哨戒機低空威嚇飛行に伴う措置だった。追跡レーダーの照射は艦砲やミサイル攻撃の意志を伝えるものだ。ところでこの指針は韓国防空識別圏(KADIZ)を絶えず無断進入する中国や領空を侵したロシアには適用されない。そのため公海で唯一日本との交戦は辞さないという趣旨となる。
https://s.japanese.joins.com/jarticle/293384
消息筋によると、当時国連軍指令部は文在寅政権が漁民送還に向けた開門要請を受けると「送還理由は何か」と尋ねたが、文政権はまともに説明せずに開門と協力を要求した。国連軍指令部は「できない。開門の理由になるか検討できるよう資料でも出してほしい」と要求したが、文政権は拒否したという。消息筋は「これに対し韓国政府は国連軍指令部を飛び超え韓国軍に開門を指示して漁民を送還させ、このため国連軍指令部は漁民が目隠しをされ縄に縛られたまま護送されたことも最初はわからなかった。国連軍指令部では文政権の露骨な国連軍指令部軽視に憤怒し、エイブラムス司令官も報告を受けて憤慨した」と伝えた。
大まかな事の経緯
当時の韓国政府は「当人に脱北の意志はなかったので送り返した」と発表
そこには板門店で必死に抵抗する脱北者と38度線の向こうへ引きずっていく当局関係者の姿が
ここまで頭おかしいと人災というより何らかの地理的因縁を感じる
八戸藩は、天明の大飢饉で深刻な打撃を受け、百姓一揆も起き、年貢の増徴による藩財政の改善も見込めない状況に陥っていた。このため、八戸藩の運営は御用商人からの借り入れに頼らざるを得なくなっていた。そんな中、時の藩主南部信真は野村軍記を登用し、文政2年(1819年)、「国政御主法替」と称する藩政改革に乗り出した。その一環として、八戸藩最大の産物である大豆の専売制を開始。もともと大豆の流通に力を持っていた商人たちを排除し、あらたな御用商人を登用した。その過程で、従来最大の権勢を誇っていた七崎屋を取り潰した。文政6年には大野鉄山を藩営とし、実際の運用を西町屋に任せて利益を藩に収めさせた。天保3年(1832年)、天保の大飢饉が発生。八戸藩では領知高2万石のうち1万1千石が損毛となる大凶作となった。翌年も8割の減収となった。藩は財政に窮し、御用商人の西町屋や美濃屋に銀札を発行させ、預かり小切手も発行して米や食糧の買占めを行おうとした。しかし、インフレが急激に進行し経済が大混乱となり、天保5年には久慈の農民が一揆をおこし、民衆が八戸城下へ押し寄せる事態となった。いわゆる「稗三合一揆」である。これは、藩が1人1日稗三合の食糧を残して、残りを全て価値の激減している銀札や小切手で買い占めようとしたことから、このように呼ばれた。一揆に対して野村軍記は武力鎮圧を主張したが採用されず、一揆側の主張をほぼ受け入れる形で決着した。そのため野村軍記が進めていた藩政改革はほとんどが否定されることになり、野村自身も失脚。幽閉され間もなく死去した[2]。
2022/6/21 18:48
新年会で男性に渡された賞状を模した書面。翌月、男性は自殺した(画像の一部を加工しています)
青森県八戸市の住宅会社「ハシモトホーム」が、青森市の40代の男性社員=平成30年に自殺=に、賞状を模し侮辱する内容の書面を渡していたことが、遺族側への取材で分かった。遺族は20日、パワハラや長時間労働が自殺につながったとして、会社などに約8千万円の損害賠償を求め、青森地裁に提訴した。会社側は「表彰の一環」と説明している。
原告側によると、関係会社も参加した30年1月の新年会で、男性は課長が作った「症状」と題した書面を渡された。文面には「今まで大した成績を残さず、あーあって感じ」などと書かれていた。上司から「おまえはバカ」とのショートメッセージを受け取るなどした男性は翌2月、重度の鬱病を発症し自殺した。
男性の妻は、代理人弁護士を通じ「こんな『症状』を渡して、家族が見たらどう思うのか、何も想像しなかったのかと不思議でなりません」とのコメントを出している。
https://www.sankei.com/article/20220621-SAR4XBLCPVNZNEDYKGDZKZPR74/
被害者に合掌
【追記】追記編と初手編、日常用語編、国際編、人物編、二眼の説明を加えた。
anond:20220131231934にインスパイアされてやってみた。
省力のために一部wikipediaからの引用も交えながら独自の解説を記した。
一手で隅をほぼ専有できてしまう反面、中央から遠く発展力やスピードに欠ける。
江戸時代以前の古くから打たれている手であり三々よりは中央に近く、星よりは地に近いバランスの取れた手。
隅を占めるのに二手かかるのが欠点。
4・4の地点で碁盤の目印のある部分のこと。
後述の昭和の新布石時代からよく打たれるようになった手。それ以前は置碁くらいでしかあまり見られなかった。
地に甘いというのは、相手に三々に入られるとほとんど地を奪われてしまうためである。
碁盤において、この地点がもっとも高い地点であり、端は地面という概念となっている。
後述の厚みが確定地ではない未来への投資であるのに対し、序盤から陣地になる可能性が高い場所を実利という。
実利をとれば厚みを作られ、厚みを作ると実利をとられるという表裏一体な関係にある。
盤上において影響力を及ぼすことのできる、しっかりと連絡して眼形の心配もない強力な石の集団である。
「厚み」は「薄み」に対する対義語である。囲碁で「薄い」というのは連絡が十分取れていない形、眼に不安がある石のことであり、相手に攻撃される可能性を持っている状態を指す。
これに対して強力な「厚み」は相手からの攻撃を受ける可能性が低く、周囲に近づいた敵の石に対して攻撃するための基盤となる。また、相手が近づいてこなければ大きな模様や地を形成する拠点となる。
大きな地になりうる可能性のある勢力圏のことを指す。多くの場合、隅から辺、中央へ広がるものを呼ぶ。
手の順番や形を変え、定石等と比べることで本来の形に対して余計な石があることなどを評価し、効かし効かされを判断する。
1933年(昭和8年)に呉清源と木谷實が発表した、中央・速度を重視する新しい囲碁の布石のスタイル。それまでの小目を中心とした位の低い布石に対し、星・三々で隅を一手で済ませて辺や中央への展開速度を重視し、中央に雄大な模様を構築することを主眼とする。その斬新なスタイルと、これを駆使した呉・木谷の活躍により社会現象とも言えるブームを巻き起こした。
またAlphaGoの台頭以後、新布石時代に負けるとも劣らない布石の変化が囲碁界を席巻している。
例えば星への三々入りを序盤に行うの「ダイレクト三々」は相手に厚みを与えるため不利と言われていたがそれが平然と行われるようになった。
隣り合った隅・辺・隅の星を占める布石である。辺を打たず、隣り合った隅の星を占めるのは二連星と呼ばれる。中央に大きな模様を張ることを主眼としたスタイルで、武宮正樹が有名な使い手である。
安永流ともよばれる。星・小目・辺の星脇を組み合わせた配置である。
小目からシマリを省略して星脇へヒラく手法は、江戸時代初期に本因坊道策が使用している。
本格的な中国流の開祖は安永一とされ、中国には陳祖徳が広めたとされる。1965年の日中囲碁交流の際に非常に注目され、日本に逆輸入された。
右上空き隅、小目、相手の星へのカカリから星脇へのヒラキまでの一連の配置を指す。下図下辺の黒の配置がミニ中国流である。右上隅の着点は必ずしも決まってはいないが、星との組み合わせが最もよく打たれる。平成期に流行した構えだが、すでに400年ほど前に本因坊道策が試みていた。このため道策流とも呼ばれる。
序盤早々、周囲にまだ石がない段階で、相手の星に対して直接に三々に打ち込んでいく手段を指す。かつては全く考えられていなかった戦法だが、AlphaGoなどの人工知能がこの手を打つことから注目され、人間の棋士の間でも広く採用されるようになった。ダイレクト三々の名称は、2018年5月から河野臨によって週刊碁の連載のタイトルに使われ、定着した。
囲碁の基本的な手筋のひとつである。アタリの連続で、逃げる側は盤がある限りは逃げることができるのだが、盤の端まで到達してしまうとどうにもできず、石を取られてしまう状態をいう。逃げきれるつもりでこの手順に入ると非常に大きな被害を受けること、シチョウアタリという攻守が全く逆転する危険な変化があることから、「シチョウ知らずに碁を打つな」という格言もある。
シチョウの追いかける先に相手の味方の石がある場合シチョウが成立しないので、この手を選ぶことが多い。
相手の石にフタをするように斜めに置き動きを封じる。
一旦相手のふところに石を打ち、一度は取られてしまうが取った後の姿がアタリになっていてすぐに相手の石を取り返すことができる。
漢字表記では「追い落とし」となる。 ツグ手を打っても引き続きアタリになり、取られてしまう状態をいう。別名をトントン、ツギオトシ、バタバタとも。
相手の石にも自分の石にも触れないような位置に、文字通り「置く」ように打つ手のこと。動詞では「置く」となる。多くの場合一線や二線など辺の低い位置の、敵陣の急所に打つケースを指す。
相手の二団以上の石を同時にアタリにし、二眼を確保する手段。文字通り相手を押しつぶすイメージであることからつけられた。着手禁止点を利用して生きる手筋である。
相手の石をアタリにし、自分の石を相手に取らせた上でもう一度相手をアタリにする一連の打ち方を指す。途中、さらに捨て石なども交えることもある。多くの場合、相手を凝り形にし、自分が形を整える目的で打たれる。また、攻め合いの場面で相手の手数を詰め、攻め合い勝ちに導く手筋としても用いられる。また、あまり効果のないシボリを「西洋シボリ」と称することがある(前田陳爾の造語)。
ある石のダメが詰まることで、各種の不都合が生じる状態を指す。「ダメの詰まりは身の詰まり」という囲碁格言があるように、不必要にダメを詰めてしまうことは身の破滅につながり、碁において戒められる事柄のひとつである。
駄目については後述。追記編を参照。
ヨセ(終盤のこと)において相手の陣地を侵食するための鮮やかな手筋。
一見繋がってないようなところに打つのだが、見事に繋がっていて相手の地をかなり減らすことができる。
盤上にある石の一団は二眼(空間が2つ)ないとゆくゆくは駄目(呼吸点)が詰まり必ず取られてしまう運命にある。
これはルールとして定められているというよりは、石は呼吸点を有してないと取られる、着手禁止点には打てないという2つのルールから導かれる定理のようなものである。
2つ眼があると、駄目が最低でも2つある状態と着手禁止点が2つある状態が存在するため、着手禁止点を同時に2つ塞ぐことはルール上できないので必ず取られない最強の存在となるのである。
この取られない石の状態のことを「生きている」と言い、この「生きている石」の内側の領域が陣地となる。
この石の生き死にさえ理解できれば、初心者の、どっちがどっちを囲んでるのか、これは内側も外側も囲んでると言えるのではないか、という疑問は消えるだろう。
相手にそこを継がれると眼となる部分に先行して打って欠け目にすること。
「打って欠く」(打ち欠く、あるいは内欠く)の意
相手にそこに打たれると完全な二眼ができてしまう部分に先行して打てなくする、相手の石の一団を殺す必殺の手。
隅に打った既存の石から陣地を確保するためにもう一手かけて領域の守りを固める手
ふたつ隙間を空けて打つ手
●┼┼┼
┼┼┼★
●┼┼┼
自分の石の斜めひとつ空けた場所に置くこと。●から見て★の手のこと。
●┼┼
┼┼┼
┼┼★
相手の石の隣にくっつけて置くこと
相手の石を挟むように置くこと
相手の石の斜めに置くこと
相手の石のつながりを断つように斜めに打つこと
相手の石がそれ以上侵入してこないようにせき止める位置に置く石
相手の石を押すように平行に打たれる石
目外しへのカカリから発生する定石を指す。派生する変化型が多く、複雑な戦いになることから、大斜百変、大斜千変とも呼ばれる、難解定石の代表的なもの。天保頃より特に研究が進み、現代でも多くの変化が生まれ続けている。
小目への一間高ガカリに下ツケする形から発生する定石を指す。最初から接触戦となり、また変化型が多い難解定石の代表の一つ。石が接触しながら戦いになっていく様を「ナダレ」と形容された
小目への一間高ガカリに二間高バサミして生ずる一連の変化を指す。難解で未解明部分も多く、また変化型が多いために誤ると自らも傷を負うところから、村正にちなんでこの名が付いた。大斜、大ナダレとともに三大難解定石とされる。
竹の節のような並び。
一間空けて2:2で平行に並んだ形で、その間をどちらかを相手に打たれたらもう片方で繋がれるので絶対に切られることがない。
仏教用語ではひとつの宇宙が始まって終わるまでの途方も無い長い時間のこと。
囲碁においては、どちらかが譲らない限り永遠に循環してしまう特別な形があり、その形をコウと呼ぶ。
コウの形で石を取られた側はコウをすぐに取り返してはならず、一手別の場所へ打つ必要がある。
通常、白石はハマグリのくり抜きによってできているがそれが語源か。しらんけど
冒頭で説明。
限られた局面、特に序盤においてある程度決まった一連の手の応酬のこと。
定石は手練の碁打ちの長い研鑽、研究により成り立つもので、お互いに必然の手を打ち、双方ほぼ互角のワカレとなるのが定石の前提である
どちらの陣地にもならないどうでもいい地点の事を指すことから日常用語に転じた。
または、石から出ている呼吸点(全部塞がれると相手に取られてしまう)のこと。
囲碁において死活問題とは、相手の石を殺す、あるいは自分の石を活かすための問題(クイズ)のことである。
現代では上手(うわて)が白を持つが平安時代期には強いほうが黒を持っていた。
そのため
と転じたと言われている。
自分が第三者となった視点で戦いを見ると手がよく見える、あるいはそう錯覚すること。
一目は一子(石ひとつ)の意。
囲碁においては強さに差がある場合、相手より多く先に石を置いた状態で始めることから、相手の実力を認め敬意を示す意味に使われるようになった。
手を省くこと。
力を抜くことではなく、相手の打った手に付き合わず、その場所よりも価値の高い場所へ向かうことを言う。
囲碁にはいくつかルールがあり、基本的には江戸期~昭和期まで囲碁の第一人者であり、世界に囲碁を広めた日本のルールが用いられている。
日本ルールは盤上の囲った陣地(目)のみをポイントとするのに対し、中国ルールではそれを含め置いた石の数もポイントになる。
この2つの大きな違いは、日本ルールが自分の陣地に自分の石を置くことがマイナスとなるのに対し、中国ルールではマイナスにならない点である。
このことが死活に関わる局面や終盤の局面での手入れ、手抜きにおいて大きな違いを生む。
日本ルールでは曲がり四目と呼ばれる形が出現した場合、手を入れるのがマイナスになるためそれが死であることの証明を用いないと議論が生じる。
そのため中国ルールのほうが初心者に優しく、コンピューターにも優しい。
他には日本ルールでも中国ルールでも禁止されている自殺手がOK!というルールもある。
碁打衆を保護、「御城碁」の基盤を築く。近世囲碁の発展、振興に絶大な貢献。(日本棋院表彰ページより引用)
永禄2年(1559年) - 元和9年5月16日(1623年6月13日)
江戸幕府における囲碁の最高位だけにとどまらず、将棋の最高位も得た二刀流。
大橋宗桂との将棋対局は将棋の現存する最古の棋譜でもあり将棋界においても重要な人物の一人。
正保2年(1645年) - 元禄15年3月26日(1702年4月22日)
手割りや布石など、数々の発明を生んだ天才棋士。史上最強という呼び声も高い。
文政12年5月5日〈1829年6月6日〉 - 文久2年8月10日〈1862年9月3日〉
ヒカルの碁で著名。
1874年(明治7年)6月24日- 1940年(昭和15年)1月18日
またタイトルとなる前の、「名人は一世に一人」の終身名人制時代の最後の名人でもある。
引退後に本因坊の名跡を日本棋院に譲渡し、選手権制の本因坊戦創設に導いた。2008年囲碁殿堂入り。
「オマ●コ」発言など、昭和の棋士らしい数々の破天荒なエピソードが有名。
棋聖 6期 (1977-82)
名人 2期 (1962・70)
天元 1期 (1975)
ttps://fumikura.net/tool/yakumei.html
まずゴンロクは非常に少なかった(柴田勝家だから?)俺はFGOにやられちまってたんだな
でも権がつく役名は非常に多い
名無しのごんべいという話もあったからようわからんな 脇役はとりあえずゴンベイ(ゴンペイ)といっていいくらいこの2つは多い
関西ではゴンタ、ゴンタクレが悪い意味なのは現在固定みたいだから関西人がそういうならそうなんだろうってことで許してくれ
====
ごん|権|安永0202|坂角|けいせい花絵合・三つ目|戯曲全集02
ごん|権|享和0301|江市村|江戸紫由縁十徳・序幕|戯曲全集06
ごん|権|文化0604|江市村|霊験曽我籬・序幕|戯曲全集35
ごん|権|文化0701|江市村|心謎解色糸・序幕|戯曲全集12
ごんえもん|権右衛門|文化0411|江河原崎|万代不易戯場始・序幕|戯曲全集46
ごんくろう|権九郎|安永天明頃|大坂|双蝶々曲輪日記・序幕|戯曲全集29
ごんくろう|権九郎|寛政0701|坂角|姉妹達大礎・六ツ目|戯曲全集08
ごんくろう|権九郎|寛政0905|江河原崎|関取菖蒲〓・二幕|戯曲全集17
ごんくろう|権九郎|天保0708|坂中|油商人廓話・二幕|戯曲全集21
ごんくろう|権九郎|文化0606|江森田|阿国御前化粧鏡・二番二幕|戯曲全集11
ごんくろう|権九郎|文化0708|江市村|当穐八幡祭・二幕|戯曲全集12
ごんくろう|権九郎|文化1101|江中村|色情曲輪蝶花形・序幕|戯曲全集38
ごんくろう|権九郎|文政0501|江市村|御摂曽我閏正月・二幕|戯曲全集38
ごんくろう|権九郎|文政0807|坂中|艶雙蝶紋日・序幕|戯曲全集38
ごんくろう|権九郎|宝暦0812|坂角|三拾石〓始・三つ目口|台帳集成11
ごんざ|ごん三|享保05二|京万太|傾城八万日|絵入狂言本下
ごんしち|権七|寛政0801|江桐|隅田春妓女容性・二幕|戯曲全集06
ごんしち|権七|文政0111|江中村|伊勢平氏摂神風・一番大詰|戯曲全集13
ごんしち|権七|文政0205|江玉川|梅柳若葉加賀染・一番四建|戯曲全集24
ごんしち|権七|文政0701|江中村|御慶曽我扇・序幕|戯曲全集18
ごんしち|権七|宝暦0701|坂大西|天竺徳兵衛聞書往来・三|台帳集成10
ごんしろう|権四郎|明治前|江市村|ひらかな盛衰記・大詰|戯曲全集37
ごんじ|権次|安政0303|坂中|昔鐙文武功・四幕|戯曲全集33
ごんじ|権次|元治0104|江中村|獅子頭牡丹蝶鵆|戯曲全集27
ごんじゅうろう|権十郎|宝暦09閏07|坂角|大坂神事揃・三祭|台帳集成12
ごんすけ|権介|文政0507|江中村|伊賀越道中双六・四幕|戯曲全集29
ごんすけ|権助|安永0601|坂中|伊賀越乗掛合羽・六幕|戯曲全集08
ごんすけ|権助|嘉永0603|江中村|与話情浮名横櫛・三幕|戯曲全集23
ごんすけ|権助|享和0301|江市村|江戸紫由縁十徳・序幕|戯曲全集06
ごんすけ|権助|天保0104|江中村他|仮名手本忠臣蔵・十段|戯曲全集15
ごんすけ|権助|文化0604|江市村|霊験曽我籬・二幕|戯曲全集35
ごんすけ|権助|文化0703|江中村|勝相撲浮名花触・発端|戯曲全集12
ごんすけ|権助|文化1011|江市村|戻橋背御摂・二番序幕|戯曲全集13
ごんすけ|権助|文化1309|江中村|褄重噂菊月・三幕|戯曲全集41
ごんすけ|権助|文政0608|江森田|忠臣蔵増補柱礎|戯曲全集40
ごんすけ|権助|宝暦0908|坂大西|銀閣寺釿始・四|台帳集成12
ごんぞん|権蔵|文化1101|江中村|色情曲輪蝶花形・五幕|戯曲全集38
ごんた|権太|寛政0601|坂角|けいせい青陽〓・四つ目|戯曲全集07
ごんた|権太|天保1001|坂角|けいせい浜真砂・大詰|戯曲全集23
ごんた|権太|文化0301|江市村|略三五大切・二幕|戯曲全集06
ごんたざえもん|権太左衛門|宝永04二替|京早雲|石山寺誓の湖|上方狂言本06
ごんだろくのしん|誉田六之進|宝暦1112|坂中|秋葉権現廻船話・口明|台帳集成15
ごんない|ごん内|正徳0501|京万太|傾城千尋海|元禄歌舞伎集・続
ごんない|権内|寛政1101|江市村|春姿詠千金・大詰|戯曲全集17
ごんない|権内|享保1701|京早雲|傾城妻恋桜・上中入|台帳集成02
ごんない|権内|享和0201|坂中|けいせい廓源氏・切幕|戯曲全集02
ごんない|権内|年不詳|座不詳|吹雪桜田武士鑑・五幕|戯曲全集44
ごんない|権内|文化0211|江河原|蝶花形恋聟源氏・一番五建|戯曲全集13
ごんない|権内|文化0509|坂中|舞扇南柯話・六幕|戯曲全集36
ごんない|権内|文化0705|江市村|絵本合法衢・三幕|戯曲全集20
ごんない|権内|宝暦1112|坂中|秋葉権現廻船話・二ツ目|台帳集成15
ごんない|権内|宝暦1201|坂中|秋葉霊験道中噺・二幕|戯曲全集49
ごんのかみおきよ|権之頭興世|文化1011|江市村|戻橋背御摂・一番大詰|戯曲全集13
ごんのすけ|こんの介|元禄0707|坂岩井|日本阿闍世太子|上方狂言本01
ごんのだゆうかげなり|権の太夫景成|文化0211|江河原|蝶花形恋聟源氏・一番三建|戯曲全集13
ごんぱち|権八|寛政0804|坂角|艶競石川染・五つ目|戯曲全集03
ごんぱち|権八|天明0603|江中村|猿若万代厦・二番目序幕|戯曲全集01
ごんぱち|権八|明治2105|東千歳|篭釣瓶花街酔醒・六幕|戯曲全集32
ごんべえ|権兵衛|安永0707|江中村|伊達競阿国戯場・七幕|戯曲全集16
ごんべえ|権兵衛|安政0407|江中村|三世相錦繍文章・三幕|戯曲全集21
ごんべえ|権兵衛|天明04閏01|坂中|けいせい倭荘子・三段目|戯曲全集05
ごんべえ|権兵衛|文化0311|江市村|壮平家物語|戯曲全集46
ごんべえ|権兵衛|文化1205|江中村|句兄弟菖蒲帷子・二幕|戯曲全集41
ごんべえ|権兵衛|文政1101|坂角|桜時廓美談|戯曲全集21
ごんべえ|権兵衛|宝暦0908|坂大西|銀閣寺釿始・六|台帳集成12
ごんべえ|権兵衛|宝暦1302|京北|音羽山恋慕飛泉・四・五|台帳集成16
ごんべえ|権兵衛|明和0507|坂竹田|宿無団七時雨傘・口幕|戯曲全集04
ごんぺい|権平|寛政0401|坂角|旧礎花大樹・大詰|戯曲全集34
ごんぺい|権平|寛保0303|坂大西|菊水由来染・口明|台帳集成05
ごんぺい|権平|享保08二替|京北|けいせい袖振山|上方狂言本08
ごんぺい|権平|元文02夏|坂大西|敵討巌流島・二ツ目|台帳集成03
ごんぺい|権平|文化06|坂角丸|敵討巌流島・三幕|戯曲全集39
ごんぺい|権平|文化1003|江森田|お染久松色読販・序幕|戯曲全集12
ごんぺい|権平|文化1308|江河原崎|染替蝶桔梗・一番四建|戯曲全集38
ごんぺい|権平|宝暦0201|坂中|けいせい都富士・四|台帳集成07
ごんぺい|権平|宝暦0407|京南|恋飛脚千束文月・第一|台帳集成09
ごんろく|権六|天明0507|江桐|千代始音頭瀬渡・四立目切|戯曲全集01
安倍政権が他に類を見ないほど外交上手であったのなら彼が最長政権を維持できた理由は説明できるかもしれないが、別にそんなことはなかった。
また、増田自身が「民主党(含む野党)がだらしないから」という論に安易に乗ってしまっている気がするが、安倍政権が時々失敗していたなら、適切な外交政策を打ち出して勢力を伸長する党がその間現れなかったことも不自然である。安倍が外遊に力を入れていたことは事実だが、対露外交の失敗は増田の言うとおりであるし、ヨーロッパ・アフリカに対する中国の派手な外交と比して世界の地勢に橋頭保を築き得たというほどのことはなく、彼方の首脳陣との間に個人的な信頼関係を築くこともできていない。またアメリカ・イスラエルに寄り過ぎて、中東関係では初歩的なやらかしもしている。そもそも身近なアジアにおいても、対韓国では朴大統領との間で交渉を進めた結果、逆に文政権の成立に手を貸したようなもので、文政権成立後何もできていないし、北朝鮮にはトランプから「口を挟むな」とでも言われたのか、結局あれほど課題だ課題だと言いながら8年間何もせず、できなかった。つまり「安倍政権が外交で評価された」という主張自体、事実ベースで見れば成り立たず、実体はただのイメージ論に過ぎない。
よって、安倍政権が例を見ない長期政権を築き得た理由、ファクターXは、これまでの政権とは全く違う、別の部分にある。では、安倍政権がやった、そしてほかの政権がやらなかったこととは何か?
私見では、それは人事統制・情報統制の2点だと思う。内閣人事局による官僚支配、そして、徹底的なメディア管理だ。
2014年に設置された内閣人事局は、菅官房長官・安倍総理による官僚支配の象徴である。これは、安倍政権の、それ以前の政権とは全く違う性質を象徴する。モリカケ問題はその象徴の一つに過ぎない。
一方のメディア管理については、NHKへの露骨な圧力問題(総理就任前の2005年の番組改編問題から始まり会長・経営委員会に自己人脈の人間を多数送り込むなど)をはじめ、強権的な体質を隠す気もない。世界報道の自由度ランキングでは、民主党政権の3年間(2009~2011)は17位、11位、22位だったが、安倍政権2012からは53位に急落し順調に低下。現在は安定して60~70位をキープする、先進国中最低水準の有り様である。
正直な話、第二次以降の安倍政権を象徴するのがこの2つで、この2つを欠いたらあの長期政権は成立しなかったというのが最も正しい判断だろう。
では、「そんな簡単なことを、なぜ他の政権はやらないのか?」という問いがあるかもしれない。それだけのことで長期政権が取れるなら、みんなやればいいのでは? これに対する答えは極めて簡単で、そんな恥知らずな真似は普通できないから、ということに尽きるだろう。議院内閣制における官僚支配、民主主義国家での報道支配は、いずれも政治運営上のタブーであり、これをやれば、誰も政権に歯止めをかけることができなくなり、確実に国家は衰退・弱体化する。それをやったのが安倍晋三という人間である。国民が彼を選んだという説明も、本来は微妙に怪しい。国民はまさに彼を選ぶしかないと、この8年思わされ続けてきたのだから。ただ、そのメッキはコロナで脆くも剥がれ落ちた。「これは自分の手には負えないこと」と引き際を見極めた逃げ足はさすがである。後始末のような面倒は、部下の汚れ専門の実務家に任せればよいと考え、ことが済めばのうのうと再登板の心づもりだろう。ひょっとすると、東京五輪を再登板の舞台とさえ考えているのかもしれない。
新型コロナ禍の世界的な広がりにどう立ち向かうか。アジアを代表する自由主義の主要国として、日本と韓国は共同歩調に乗り出すときである。
文在寅(ムンジェイン)大統領は就任から3年を迎え、今月の演説でコロナ対策の成果を強調した。韓国の徹底した検査と追跡、治療の体制が、国際的に成功例として評価されていることを意識した。
任期5年の韓国の政権は、後半は人気が下がるのが通例だ。文政権も一時は陰りが見えたが、最近の調査では7割以上の支持率へと息を吹き返した。感染症対策への国民の信頼が強い追い風になったのである。
ただ、韓国も偶然に対策を編み出したわけではない。5年前に別のコロナウイルスで起きる中東呼吸器症候群(MERS)が流行し、多くの被害を出した教訓の上に構築されたのが今の体系である。
個人情報の扱い方など、国によって考えや事情は異なる。韓国でも規制の緩和後に再び集団感染が起きるなどしており、最終的な評価はまだできない。
だとしても、韓国の経験と対策が、日本を含む国際社会に重要な実例情報をもたらしているのは間違いない。
ところが今の両国間では目に見える協力が乏しく、嘆かわしい状況が続いている。
協力を阻む背景の一つは相変わらず歴史問題と、それに起因する折からの対立である。
両国間には、韓国から医療物資を日本に送ろうとする動きがある。だが、韓国政府は一部市民による反対運動を意識せざるをえない状況だ。一方の日本政府も、韓国への支援要請に慎重な姿勢を崩さない。
深刻な事態の中で、不毛な駆け引きに陥る余裕はない。両政府は防疫問題の政治化を避けねばならない。体面にとらわれず情報を共有して物資を融通し合い、危機を乗り越えるべきだ。
文氏は今回の演説で、世界の感染症対策をリードする目標を示した。安倍首相も先月、東南アジア諸国連合と日中韓の会議で、「ASEAN感染症対策センター」の設立を提案し、情報共有の大切さを強調した。
中国の感染源に近い最前線の国として、日韓両国が国際貢献を誓うのは評価できる。その実現のためにも、両国間で知見を高め合うために担当閣僚同士の対話を始めてはどうか。
先の韓国総選挙で圧勝した文政権は、残り任期で対日政策での大胆な決断をするべきだ。安倍政権も、昨年導入した対韓貿易規制強化を直ちに取り下げ、関係を立て直す必要がある。
あれだけチョグクだのナッツリターンだのどうでもいいネタで冷笑してた日本で韓国総選挙ガン無視ってすごいな。「文政権のコロナ対応が評価されて圧勝」という現実見るのはつらいもんな。— Sonota (@yuandundun) April 15, 2020
コメント欄では反証(○○紙では一面でしたよ、など)がなされているけれども、それにしたってこの手の「とても重要なニュースなのに、なんらかの理由があって、何故か日本のマスゴミが報じない」フォーマットが便利すぎる。
反証にはコストがかかる。反証のスピードはリツイートの速さには及ばない。初手で仕掛けたほうが圧倒的に有利になる。
「何故かマスゴミが報じない」フォーマットはあまりに便利すぎるので、右でも左でも使うし、そしておそらく芸能人のファンやスポーツファン、特定のブランドの支持者、健康法の実践者、陰謀論者、ありとあらゆる分野で通用する手法だし、実際にしているだろう。
現代では誰もテレビのニュース番組も新聞紙も目にしていない。自分好みにカスタマイズしたタイムラインから情報を摂取する。だから「山の向こうの里(=マスゴミ)では夏なのに雪が降ってる」と言われればみんなそれを信じる。
参照可能な定量的なソースは必要ない。そう信じたい、そうあって欲しいという一人ひとりの心が「何故かマスゴミが報じない」を現実にする。
真田十勇士はまだしも知られてるけど
どんな話だったんだろうと思ってググってみたところ
その内容を簡単にまとめてみることにした。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/891033
Wikipediaによると
十勇士の人物像について始めて具体的に記述された史料は、文化8年(1811年) - 文政4年(1821年)にかけて刊行された『絵本更科草紙』である。
この書は、幸盛の母である更科姫と、尼子十勇士による活躍を描いた物語である。書と共にこの話は全国的に広まったようであり、この後には、十勇士を題材にした浮世絵の描画や歌舞伎の上演、また十勇士が描かれた絵馬が神社に奉納されるなど、世間一般にこの話が浸透していったことが分かる。
明治時代に入ると、先の『絵本更科草紙』と同じ内容で、表題を『尼子十勇士伝』とした書が刊行される。明治44年(1911年)12月、『絵本更科草紙』の内容を簡略化し、大衆向けに噛み砕いた文で表した書、『武士道精華 山中鹿之助』が立川文庫より発行されると、尼子十勇士の名は一躍有名になる。
というわけで簡略版の簡略版ということになるが、
わりと長くなったので短く分けてトラバに書いていく。
1950年代初めからの日韓国交正常化交渉では、日本側が個人への支払いを提案したのに対し、韓国側が政府にまとめて供与するよう求めたことが明らかになっている。
当時の交渉記録によると、日本側が「国民の感情をなだめるためには、個人ベースで支払うのがよいと思う」と主張しても、韓国側は「われわれの国内問題として措置する考えであり、人数や金額の問題があるが、どうかして、その支払いはわれわれの政府の手でする」と譲らなかった。それを踏まえての計5億ドルの支援だったのだ。
もちろん、「三権分立」のもとで、行政府が司法府の判断に介入することは許されない。ただ、韓国最高裁が日本企業に損害賠償を命じたのであれば、韓国政府が日本企業に代わり、元徴用工への賠償金を支払う措置をとる方法もある。
日本政府関係者も「文政権は『三権分立の中で政府はどうしようもない』というが、政府には判決が国際約束(請求権協定)に影響を及ぼさないために国内措置をとる責任がある」と指摘する。
韓国政府は6月、日韓両国企業の出資により元徴用工に慰謝料を支給する案を発表したが、日本企業が資金を拠出する案を日本側が受け入れることはあり得ない。請求権協定の違反は「韓国側も百も承知」(外務省幹部)のはずだが、ここでも大統領府の意向が色濃く反映しているとされる。
あなたや家族やお友達が差別主義者の日本人に嫌がらせを受けて困っているのであれば、周囲の日本人に相談して助けを求めれば良い。
あなたの友達やご近所や職場の同僚の日本人は助けてくれるだろうし、私も相談を受けたならば助ける。
でも、日韓関係の政治については口を出さない方が良い。今ホットな、慰安婦や徴用工、日韓基本条約などは話題にしない方が良いということだ。どんな意見を持っていたとしても。
私がオーストラリアに住んでいた時、オーストラリア人と話していて唯一非常に不愉快に感じた(たぶん相手のオーストラリア人も不愉快に感じていた)話題が、日本の政策、というより捕鯨問題だった。
私の主張は、
「過去の日本のように南半球まで絶滅の危惧があるシロナガスクジラを捕りに行くのはダメだけど、日本の経済水域内で資源量が十分に回復した種類のクジラを捕るなら問題無いだろう? オーストラリアの漁師がロブスターを捕るのと同じように」
という物だった。
ここで私が鯨の資源回復の数字を挙げたように、相手も数字を挙げて反論してくれたなら、良いディベートになったのだと思うけど、オーストラリア人の言うことは、
「とにかく鯨は、牛や豚やロブスターやスポーツハンティングで遊びで狩っているシカなんかとは違うんだ、鯨は知性のある生き物で食べ物じゃなんだ」
(これも差別的な言い方だが)現場仕事帰りのオッチャンとバーで口喧嘩してるんじゃなくて、大学のカフェテリアでもコンピューター・サイエンスやカルチュラル・スタディーズの修士コースの学生相手の議論がこのレベル。
君たち専攻している学問で身に付けた論理や他文化理解のフレームワークはどこに置き忘れてきたんだよ! って絶望的な気分に何度もなった。
普段は気さくで朗らかで本当に「良い人たち」としか言いようが無いオーストラリア人たちの顔が捕鯨の議論をしている時だけは相当にうんざりした表情になっていて、相手も私の話の通じなさに絶望しているのが見えて辛かった。
話が私の自分語りに偏っちゃったけど、あなたが韓国政府の主張を擁護する立場で政治を話題にしたならば、少しは日韓関係の知識を仕入れている日本人の多くから、まるで話が通じないと思われる危険がある。
逆にあなたが文政権に批判的な「保守派」の韓国人だったとしても、わざわざ日本政府の見解を支持するような旗幟鮮明を日本人に対してする必要も無い。
あなたは在日の代表でも韓国政府の代弁者でも無いのだから、ただただ自分や家族や友人が受けている具体的なハラスメントについてだけ、困っている、助けて欲しい、と訴えて平穏な暮らしを得るために行動すべきだ。