はてなキーワード: 道義とは
ハチミツに精液を混入させた事例って、現在の刑法でも性犯罪にカウント出来ると思うけどね
次々新犯罪を増やしていたらキリがないじゃん
実際の適用は必ずしも杓子定規ではなく、条文の解釈を加えた上で柔軟に適用されている
「暴行を加えた者が人を傷害するに至らなかったときは、2年以下の懲役若しくは30万円以下の罰金又は拘留若しくは科料に処する。」
となっていて、「暴行」の定義は一般的には「人の身体に対する不法な有形力の行使」とされている。
だけど、
判例は狭い室内で日本刀を振り回した事例でも暴行の成立を認め、過失致死罪ではなく傷害致死罪を成立させている。
https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/665/050665_hanrei.pdf
そして、刑法174条以下のわいせつに関する罪では「わいせつ」という言葉が用いられているけれどこの言葉の定義も条文上は明らかではない。
判例は、「徒らに性慾を興奮又は刺戟せしめ且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいう。」と言っている。
https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/650/054650_hanrei.pdf
この定義で言うならば、他人が飲食するハチミツに精液を混入させる行為は、普通人の感覚からすれば、「わいせつ」に当たるのが妥当だろう。
だって普通の人が見たらどう見ても、「正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する」行為なんだから。
あと、強制わいせつ罪の成立について、判例は以前は行為者の性的意図を必要としていたけれど、
https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/256/087256_hanrei.pdf
広告はウザいが、それでも広告を閲覧させられることはそのサイトのコンテンツを楽しむ上での対価であり、それを一方的に踏み倒す行為は道義に反する行為で、もし広告に対して許容できないレベルの不満があるならそのサイトは使わないというのが筋の通った行いだと思っている。
だけど、じゃあ俺は広告ブロッカーは許されざる邪悪と思っているかと言えば、そういうわけではない。
俺は昔ながらのインターネットの「(法に反さない限りなら)ハックしてなんぼ!」みたいな価値観を内面化している人間なので、広告ブロッカーが道義に反することは認めた上で、それもまた"アリ"だと思っている。
俺自身か広告ブロッカーを使わないのは、ただ無料コンテンツ提供者にも対価を返したいという自分のこだわりでしかない。
別に他人が広告ブロッカーを使っていても、それを責めようなんて気持ちは毛頭ない。
……で、この前ふと「広告ブロッカーと同程度の罪悪度のモノは他に何があるだろう?」「道義には反するけど、それもまたインターネットって風に受け入れられるモノは?」って考えが浮かんだ。
それで、その時に一番しっくりきたのは「淫夢ネタでゲラゲラ笑うこと」だった。
言うまでもなく、あの手のホモネタは現代ではポリティカルコネクトレスの観点から明らかに道義的アウトだ。
でもその上で、俺は淫夢ネタを「まあそれもまたインターネットっしょ!」って目で見てきた。
(MAD動画でしか見たいことがなくて本編未視聴のにわかだけど)
「倫理的是非で言えば非だけど、インターネットという空間でならまあそのくらい」という存在として、広告ブロッカーと淫夢ネタは同じラインに立っているように感じられた。
以来、「私は広告ブロッカーを使ってます」って人を見ると、「こいつもホモガキと精神性は変わらないんだな~」って思うようになってしまった。
たしかにそうなんだけど、報道の場合、事実を伝えるという社会的道義上の縛りがある
どんなに誠実であってもそんなのは不可能だから、報道の自由の範囲を広く取って報道しやすいようにする
まずわいせつ物について、最高裁判所は「その内容がいたずらに性欲を興奮又は刺激せしめ、かつ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する」ものと判示しました。(最高裁判所昭和32年3月13日判決・刑集第11巻3号997頁)。
他人を性的に興奮させたり、刺激させるような文書であることが認められれば、性的羞恥心を害しないなどの事情(芸術品等でしばしば問題となります。)がない限り、「わいせつな文書」等に該当する可能性が高いです。
わいせつ物であるかどうかの判断基準は非常にあいまいです。本人がわいせつ物ではないと思っていても捜査の対象となるケースもあるため、注意する必要があります。
これについて、最高裁は、刑法第175条にいう「わいせつ文書」が如何なるものかを判断する基準として、「わいせつ三要素」を示しました。
①いたずらに性欲を興奮または刺激
そして、ここで重要となるのが、わいせつ性は芸術的作品であることや作者の主観的意図に左右されることがないという点です。
「芸術作品だから、わいせつ性がなくなる」というわけではなく、わいせつか否かは「社会通念」によるというわけです。
最高裁は、これらの見解を述べたうえで、「公共の福祉」論を展開します。
「しかしながら憲法の保障する各種の基本的人権についてそれぞれに関する各条文に制限の可能性を明示していると否とにかかわりなく、憲法12条、13条の規定からしてその濫用が禁止せられ、公共の福祉の制限の下に立つものであり、絶対無制限のものでないことは、当裁判所がしばしば判示したところである。この原則を出版その他表現の自由に適用すれば、この種の自由は極めて重要なものではあるが、しかしやはり公共の福祉によつて制限されるものと認めなければならない。そして性的秩序を守り、最少限度の性道徳を維持することが公共の福祉の内容をなすことについて疑問の余地がないのであるから、本件訳書を猥褻文書と認めその出版を公共の福祉に違反するものとなした原判決は正当であり…」
すなわち、すべての基本的人権は絶対無制限ではなく、公共の福祉の制約の下にあるとの立場を示します。
これは、いわゆる一元的外在制約説という考え方です。
もう電燈もガスも鉄道もある、道義も人情も仁愛もある、法律もあり統制された秩序もある、だから中世じゃない、こう考えて、そのカミシモを疑うことを知らなかった。
このカミシモが今日まで伝承完成するに千年ほども時間がかゝっているのだから、これはもうカラダの一部分だというぐらいに誰しも考えていたのであったが、
アニはからんや、戦争が二三年つゞくと、千年の時間がアッサリ消えてもとに戻り、我々はもうカミシモを身につけていないことに気がついたわけだ。
正しい思想というものは、オレと大衆の優劣感のあるところから生れたものではあり得ない。
つまり、たゞ人間、キリストは原罪をとき、孔子は生活の原理に仁を見た。
何千年逆転してもかまわぬ。
モロモロの何千年の時間、カミシモはすべてムダであったと見なければならぬ。
人間性は万人に於て変りはない。
罪人に於ても聖人に於ても変りはない。
この自覚の行われざる社会に於て、いかなるカミシモをつくりだしても、折あれば中世の群盗精神へ逆転する、それだけのものにすぎないのである。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42811_26156.html
炎上覚悟でいわしてもらうと、女性からの告白に加害性など無い。普通に告白すればよい。告白されて嬉しくない男などいない。(いたらそれは単なる勘違いの痛い男だから別れたほうが正解)ただし付き合えるかどうかは別だ。男の側にも諸事情があるからね。
世界が完全に勘違いしているが(あるいはわかっていながらあえて無視しているが)男女の性は対等ではない。ヤル側(法律上道義上の責任以上のものは生じない=その気になればいつでも逃げられる)と、ヤラレル側(=命を懸けて妊娠出産子育てをする義務が強制的に生じ、逃げられない)の性に対称性などない。
したがって男女は「区別しなければならない」のが正解であって、これは「差別」とはわけが違うのだ。男女は不平等なのではなく非対称なのである。
刑法175条は、「わいせつ」な表現は罰する、としか規定していません。
モザイクが有れば合法などということは全く関係ないです。モザイクが有ろうが無かろうが「わいせつ」ならOUTです。
モザイクが有ろうが無かろうが警察が「わいせつ」だと決め付ければ、そのままOUTになるのが現状です
モザイクをガッツりかけていても「わいせつ」だと判断された例もあるし、逆に無修正でも(芸術だから)「わいせつ」でないと判断されて無罪になった例もる。
法律で「わいせつ」とは何かが全く示されておらず、警察の恣意的に運用されてるけれど、
「わいせつとは、徒らに性欲を興奮または刺激せしめ、かつ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」
とある。
一方、着衣の上からの無断撮影が「羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する」行為で迷惑行為防止条例違反で逮捕されたりしてるから。
知己の死に触れ、告別式に向かう。死体を見る必要を特に感じなかったので受付を済ませ弔いの花と香典を渡しそのまま席に腰を下ろそうとすると、喪主が顔を見てやってくれと2度言ってきた為に顔を見に行く。(己は喪主と面識は無かったのだが花を渡したから促されたのだろうか?)
棺桶を覗き込むと生前と然程変わらぬ穏やかな死に顔を整えてあり、さもありなん(生命活動を終えた肉体がそうなっている状態として自然な様子である、特に感慨はない。肉親を含み、過去2回見ている)と思ったが、悲しむのが礼儀と認識はしているため、心掛けて悲しい顔をした。
焼香を済ませ、棺に蓋をする手前、仏花を全て棺に入れていく旨あり、列に並び、係員によって盆の上に盛られている花達を手に取り遺体に添えていく。
人々の泣き声を聞きながら何度かその行為を行っていると別の知己が傍にやってきて、悲しい、残念だと涙を流すので、本当に、言葉もない、残念なことだと同意して心掛けて涙を滲ませ労る為に相手の肩をさすった。
夏目漱石の「思い出すことなど」を読んでいると、地球という天体はそも一塊の瓦斯から発生した程度のもの、宇宙の歴史から見れば人の一生はほんの瞬く間、その構造を鑑みると本来は生死を一喜一憂するまでもない事象といった事を述べた直後に知己の死への弔いの句を認めている為、システムとしての生死と、道義としての生死を別枠で認識している、せねばならんと能動的に意識しているのだろうと感じ、共感を抱いた。
他者が人の生や死に一喜一憂するのを無駄とは言わないが、己が同様にそう出来るかどうかはまた別の話である。己以外の他者も或いはそんなものかもしれないが、確認のしようはない。
悲しくない訳ではない。本来なら人前にそれをわざわざ出す必要を感じない、というだけの事で。他者の目があるので奇異に映らぬよう意識して外に出す努力はするが。
ジャニーズ問題、所属タレントの起用を取りやめたりするジャニーズパージが広がっている。
当然、今までこの問題に対し隠蔽し無視し圧力をかけたジャニーズ事務所に対する制裁として正当なもので、取引を続ける企業があるとすれば道義を弁えない企業だと思われるのも当然だ。
ジャニーズ所属タレントの仕事が激減することに対して「見て見ぬふりをしたタレントもまた共犯だから制裁されるべきだ」と言われているのは少々辛い物がある。
事務所で良い地位に行く打算があったとするのは、性加害とグルーミングで自由意志が奪われた彼らに対してそう言えるのか?
それは「レイプされたくなければ抵抗したはずだ抵抗しなければ同意があった」とするセカンドレイプと同じ理論ではないか?
自分が受けた虐待を心の安寧のために「いいことだ。」正当化するしかこともある。
事務所が壊されると、「せっかく虐待から生き残ったのに自分の人生は何だったのか」という気持ちに耐えられず、逆に事務所を擁護することもある。
これが洗脳の恐ろしさだ。
そのためにはファンと他の事務所が新たな居場所を作るべきなんだろうが、ファンはファンで事務所というブランドに執着してて、加害を否定及び加害を肯定する勢力を執拗にバッシングしていて、間接的な加害は今も続いている。
今回の件でファンが離れるどころかより一層ファンとジャニーズの絆深まってたな❗️❗️❗️❗️ジャニオタ舐めんな❗️❗️❗️❗️❗️❗️❗️❗️❗️❗️❗️❗️❗️
もっと悪辣な、告発者を中傷したりマスゴミ呼ばわりしたりネトウヨ陰謀論者とのハイブリッドみたいなやつもたくさんいるので、
ここに上げたのはほんとうに中庸の層と思われる。
タレントに対する性搾取構造がなあなあのまま温存されることへの危惧、
性加害者の「名誉」が公に守られ続けることによる性被害者への悪影響、
そんな諸々は彼女たちにとって全く眼中にない。
彼女たちを支配しているのは、タレントを推すという活動の快楽のみである。
彼女たちを浅はかと嘲笑うのは簡単だが、ただ、一般的な日本人より特別に愚かなわけでもない。
日本社会において、社会的な道義や自分なりの正義に基づいて行動できる人はほとんどいない。
逆に行動動機として、社会的道義や正義を掲げようものなら笑いものにされる。
アニメーターが搾取されているのを知りながらアニメを貪り見る人、
ユニクロがウイグルの奴隷労働による綿を使っていると知りながらユニクロの服を着る人、
外国人技能実習生が低賃金で重労働をさせられていると知りながら農作物を食べる人。
みんな、知っているけれど、自分たちの欲望を満たすために一度棚上げにしているだけだ。
こういった状況をどう打破するか。
セクハラはずっと昔から「やってはいけないこと」ではあったが、
ほんの十年前までは棚上げにされていた。
男性の側はそんなことで怒られちゃたまんないよ笑と言い、
女性の側もそのくらいうまくかわせないほうが悪い、コミュ力の問題、と軽くあしらっていた。
しかし、海の向こうで有名人が見せしめのようにセクハラで仕事を干されバッシングを受けると、
とたんに社会全体の「やってはいけないこと」ラインが大幅に下がった。
体型について口にしたり、なんてことをすれば多くの人に眉を顰められるだろう。
彼らを変えるには、結局は社会的に大規模なバッシングと見せしめに非難される人間、つまりは不利益と恐怖が必要となる。
「ジャニーズいつまでも推します!」という人たちも、その「推し」行為が自分たちに快楽でなく苦しみをもたらすと知ればすぐに身を翻すだろう。
彼女らはそういう「ふつう」の人たちなので、痛みを持ってしか学習しない。
だがこの方法には問題があり、一部のカルトめいた信者層は苦しめば苦しむほど強固に耽溺し、エコーチェンバーの沼に浸かっていく。
セクハラを糾弾する声が大きくなる中、ミソジニーたちが凝り固まって言ったのと同じである。
それはさらに十年も放置すれば社会との軋轢によって身を滅ぼしてはいくのだが
(数々の著名人たちが、差別的言動による身の破滅をもって証明してくれたとおり)。