はてなキーワード: 明治21年とは
大阪に出たあと「立志堂」という薬屋を立ち上げて一財産を築いた。
1888年(明治21年)には、海水浴や釣りなどが楽しめる温泉リゾート「天保山遊園」をオープンし、
天保山遊園は物珍しさがなくなると閑散として、わずか九年で閉鎖されてしまった。
さらに、茂平が結核に効くとして売り出した「肺労散」が偽薬であると、宮武外骨から糾弾されてしまう。
外骨は、自身の新聞上で二年間にわたって茂平への批判を展開し、
「肺労散」が売られた患者を突き止めてその効果を検証までした。
後に、花見の席で外骨に面会した茂平は謝罪し、「肺労散」の販売を停止したため、
外骨も「自分もやりすぎた」と言って許したという。
副島 種臣(そえじま たねおみ、文政11年9月9日(1828年10月17日) - 明治38年(1905年)1月31日)は、日本の江戸時代末期(幕末)から明治時代の佐賀藩士、政治家、書家。勲一等、伯爵。初名は竜種(たつたね)。通称は次郎(じろう)。号に蒼海(そうかい)、一々学人(いちいちがくじん)。
目次 [非表示]
1 生涯
2 書家
3 栄典
4 参考文献
4.1 伝記
5 登場作品
6 脚注
7 関連項目
8 外部リンク
生涯[編集]
文政11年(1828年)、佐賀藩士・枝吉南濠(忠左衛門、種彰、30石)の二男に生まれる。父は藩校である弘道館の教授を努める国学者で、兄は同じく国学者の枝吉神陽。母は木原宣審の娘・喜勢。父と兄の影響により、早くから尊皇攘夷思想に目覚める。弘道館で学び、この間に江藤新平や大木喬任と交わる。
嘉永3年(1850年)、兄・神陽が中心に結成した楠公義祭同盟に加わる。嘉永5年(1852年)、京都に遊学、漢学・国学などを学ぶ。この間に矢野玄道らと交わる。さらに、神陽の命を受けて大原重徳に将軍廃止と天皇政権による統一を進言する意見書を提出して青蓮院宮朝彦親王から藩兵上洛を求められるが、藩主・鍋島直正に退けられた上、藩校での国学教諭を命じられた。
安政6年(1859年)、父の南濠が死去し、同年3月には同藩士の副島利忠の養子となる
元治元年(1864年)、長崎に設けた藩営の洋学校・致遠館の英学生監督となって英語等を学ぶ。慶応3年(1867年)、大隈重信と脱藩するが、捕らえられて謹慎処分を受ける。
明治維新後は慶応4年(1868年)、新政府の参与・制度取調局判事となり、福岡孝弟と『政体書』起草に携わる。明治2年(1869年)に参議、同4年(1871年)に外務卿となり、マリア・ルス号事件において活躍する。マリア・ルス号事件では、助けを求めた中国人奴隷を解放したことで、正義人道の人と国際的に支持された。
明治6年(1873年)2月には前々年に台湾で起きた宮古島島民遭難事件(台湾出兵も参照)の処理交渉の特命全権公使兼外務大臣として清の首都北京へ派遣され、日清修好条規批准書の交換・同治帝成婚の賀を述べた国書の奉呈および交渉にあたった。この間、清朝高官との詩文交換でその博学ぶりを評価をされている。同年10月、征韓論争に敗れて下野し、明治7年(1874年)には板垣退助らと共に愛国公党に参加、同年には民撰議院設立建白書を提出したものの、自由民権運動には参加しなかった。西南戦争中は、中国大陸中南部を旅行滞在している。
明治12年(1879年)、宮内省一等待講。明治17年(1884年)、伯爵。明治20年(1887年)に宮中顧問官、明治21年(1888年)に枢密顧問官、明治24年(1891年)に枢密院副議長になり、明治25年(1892年)には第1次松方内閣において内務大臣を務めた。