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2017-05-19

ルジャンドルフランスウラン(Oullins)に生まれランス大学およびパリ大学に学んだ[1]。父親のJean-François Legendre-Héralは人物像を得意とした古典主義彫刻家エコール・デ・ボザールの教師[2]。24歳のときニューヨークの著名な弁護士の娘であったクララヴィクトリア・ミュロックブリュッセル結婚した。結婚後すぐに米国移住し、帰化した。

南北戦争[編集]

1861年に南北戦争が勃発すると、ルジャンドルは第51ニューヨーク志願兵歩兵連隊兵士募集に協力し、1861年10月29日に同連隊少佐に任官した。その後ノースカロライナでの戦闘従事し、1862年のロアノーク島の戦いにも参加した。しかしながら、1862年3月14日、ニューバーンの戦いで重傷を負った。

負傷にもかかわらず、ルジャンドルは軍を離れず、同年9月20日には中佐に進級。1863年には第9軍に配属され、多くの戦闘に参加した。1863年3月14日には大佐に進級。ヴァージニア荒野の戦いではユリシーズ・グラント将軍の指揮下にあったが、その最中の1864年5月6日ルジャンドルは再び重症を負った。今回は顔面を撃たれ、左目と鼻を失った。アナポリス病院入院したが、その間にも南軍最後攻撃から街を防衛するための準備を手伝った。その後ニューヨーク移送され、そこで第9軍の兵士募集を手伝った。1864年10月4日名誉除隊したが、1865年3月13日には准将名誉進級した。

中国[編集]

1866年7月13日ルジャンドル厦門米国領事に任命された。7月ニューヨークリバプールに向けて出港し、その後ヨーロッパアジア大陸旅行12月厦門に到着した。領事として、ルジャンドルは5つの条約港、すなわち厦門基隆台北、淡水および高雄責任を持った。そこでは、年季奉公人の不正取引抑制に尽力した。

1867年3月12日米国ローバー号が台湾遭難し、その乗員が台湾原住民殺害されるローバー事件(en)が発生した。ルジャンドルは福州へ赴き、台湾中国側当局問題解決圧力をけるように、福建・浙江総督を説得した。福建総督は自ら行動は起こさなかったが、ルジャンドル台湾に行く許可を与え、台湾知事が協力するように紹介状を書いた。

ルジャンドルは、遭難現場訪問のために米国船アシュロット号を雇い、台湾当局に行動させようとした(これは失敗した)。その後アメリカ合衆国海軍ヘンリーベル少将懲罰作戦実施したが、これも失敗した。さら情報を集めるため、ルジャンドルは再び台湾に出向いた(このときは、紹介状は無しであった)。

中国へ戻ったルジャンドルは、南台湾に軍隊派遣するよう福州の総督を説得し、ようやくこれに成功した。ルジャンドルは400〜500人の規模を希望したが、これよりはかなり小さな遠征隊が、1867年7月25日台湾に送られた。ルジャンドル砲艦派遣ベル提督要請したが、これは拒否された。このため、武装商船ボランティア号が雇われた。ルジャンドル9月4日台湾上陸したが、上司に対しては全くの傍観者として行動したと報告している。

ルジャンドル直ちに本来任務を開始した。南台湾の険しい山岳地帯を通りぬけ、原住民酋長と難破した欧米の船員の安全保証するための条約協議した。

1871年9月6日琉球宮古島)の船が台湾沖で遭難したが、ローバー事件と同様に、多数の船員が殺害された(宮古島島民遭難事件)[3]。1872年2月29日ルジャンドルは先に結んだ条約日本人船員にも適用するよう拡大するため、台湾に出向いた。任務は不成功に終わり、またルジャンドル北京駐在米国公使フレデリックロウ(en)とも不仲になってしまった。

日本[編集]

1872年厦門から米国へ戻る途中、ルジャンドル日本に立ち寄り、明治政府台湾問題武力解決提唱した。これは副島種臣外務卿意見とも一致しており、ルジャンドル米国領事の職を辞し、1872年12月12日外交および軍事顧問として明治政府雇用された[1]。1873年2月、副島は2年前に台湾で起きた宮古島殺害事件の処理交渉特命全権公使外務大臣として北京派遣されたが、ルジャンドルもこれに参加した。この交渉部分的には成功であったが、引き続きルジャンドル1874年台湾出兵の準備を手伝った。台湾問題に関して、ルジャンドル駐日米国公使チャールズ・デロングの支援を受けており、また個人資格でこの遠征に参加するつもりであった[4][5]。加えて、2名のアメリカ軍人が雇用された。ところが、デロングの後任の米国公使ジョン・ビンガムは、ルジャンドルを支持せず、1874年4月19日台湾出兵は一旦延期とされた。ルジャンドルらは長崎で出征準備を整えていたため、大久保利通長崎に向かった。結局遠征部隊5月18日長崎を出港したが、ルジャンドル大久保と共に東京に戻った。その後、ルジャンドル交渉のため福州に派遣されることとなったが、アメリカ総領事職場放棄の罪に問われ、短期間ではあるが上海収監されてしまったため、遠征には参加できなかった。1875年には日本政府から勲二等旭日重光章を授与されたが、これは外国人としては最初のものであった[1]。その年の末には顧問を辞任した。

ルジャンドル1890年まで日本滞在し、大隈重信個人的顧問を務めた。

韓国[編集]

1890年3月ルジャンドル日本を離れ、朝鮮王高宗顧問となった。1899年9月1日漢城(現 ソウル)で卒中により死亡するまで、その職を務めていた[6]。

原因・背景[編集]

1871年(明治4年)10月宮古島から首里年貢輸送し、帰途についた琉球御用船が台風による暴風遭難した。乗員は漂流し、台湾南部に漂着した。船には役人と船頭・乗員合計69名が乗っていた。漂着した乗員66名(3名は溺死)は先住民現在台湾先住民パイワン族)に救助を求めたが、逆に集落拉致された。

先住民とは意思疎通ができなかったらしく、12月17日遭難者たちは集落から逃走。先住民は逃げた者を敵とみなし、次々と殺害し54名を斬首した(宮古島島民遭難事件)。12名の生存者は、漢人移民により救助され台湾府の保護により、福建省の福州経由で、宮古島へ送り返された。明治政府清国に対して事件の賠償などを求めるが、清国政府は管轄外として拒否した。翌1872年明治5年琉球を管轄していた鹿児島県参事大山綱良は日本政府に対し責任追及の出兵を建議した。1873年(明治6年)には備中国浅口郡島村現在岡山県倉敷市)の船が台湾に漂着し、乗組員4名が略奪を受ける事件が起こった[1]。これにより、政府内外で台湾征討の声が高まっていた。

開戦準備へ[編集]

副島種臣

宮古島台湾遭難事件を知った清国アモイ駐在アメリカ合衆国総領事チャールズルジャンドル(リゼンドル、李仙得)は、駐日アメリカ公使チャールズ・デロングを通じて「野蛮人懲罰するべきだ」と日本外務省提唱した。

初代龍驤台湾出兵旗艦であり副島種臣大久保利通をそれぞれ、中国に運んだ。

孟春(砲艦)は三本マストスクーナー型鉄骨木皮の小型砲艦で、台湾出兵に参加した。

外務卿副島種臣はデロングを仲介しルジャンドル会談、内務卿大久保利通ルジャンドル意見に注目し、ルジャンドル顧問として外務省雇用されることとなった。当時の明治政府では、朝鮮出兵を巡る征韓論などで対立があり、樺山資紀や鹿児島県参事大山綱良ら薩摩閥は台湾出兵を建言していた。これらの強硬意見の背景には、廃藩置県によって失業した40万人から50万人におよぶと推定される士族の不満のはけ口を探していたことがある[2]。

1873年、特命全権大使として清国に渡った副島外務卿は随員の柳原前光を用いて宮古島台湾遭難事件などの件を問いたださせたが[注釈 1]、清朝の外務当局は、台湾先住民は「化外」であり、清国統治のおよばぬ領域での事件であると回答して責任回避した[1]。その後、日本ではこの年秋、朝鮮使節派遣をめぐって政府が分裂し(明治六年政変)、また、翌1874年1月の岩倉具視暗殺未遂事件、2月の江藤新平による反乱(佐賀の乱)が起こるなど政情不安が昂じたため、大久保利通を中心とする明治政府国内の不満を海外にふり向けるねらいもあって台湾征討を決断し、1874年明治7年)4月、参議大隈重信台湾蕃地事務局長官として、また、陸軍中将西郷従道台湾蕃地事務都督として、それぞれ任命して軍事行動の準備に入った[1]。

明治六年政変における明治天皇勅裁は、ロシアとの国境を巡る紛争を理由とした征韓の「延期」であったため、ロシアとの国境が確定した際には、征韓派の要求が再燃する可能性が高かった。政変下野した副島にかわって外交を担当することとなった大久保としては、朝鮮よりも制圧が容易に思われた台湾出兵をむしろ積極的企画したのである

台湾での戦闘[編集]

西郷従道

台湾出兵に対しては、政府内部やイギリス公使パークスやデロングの後任のアメリカ公使ジョン・ビンガム(John Bingham)などからは反対意見もあった。特に参議木戸孝允らの長州系は征韓論否定しておきながら、台湾への海外派兵をおこなうのは矛盾であるとして反対の態度をくずさず、4月18日木戸参議辞表を提出して下野してしまった。そのため、政府は一旦は派兵の中止を決定した。

台湾出兵時の日本人兵士

水門の戦 最も激しい戦いであった。当時の日本人による版画[3]

国立公文書館が所蔵している公文書によると1874年4月4日三条実美により台湾蕃地事務局が設置される。(以後の任命は当時太政大臣であった三条実美からの奉勅となっている)同年4月5日台湾蕃地事務都督に西郷従道が任命される。[4]同年4月6日谷干城赤松則良に台湾蕃地事務局参軍と西郷従道を輔翼し成功を奏する事を任命される。[5]同年4月7日海軍省から孟春艦、雲揚艦、歩兵第一小隊、海軍砲二門と陸軍省から熊本鎮台所轄歩兵大隊砲兵一小隊出兵命令が命じられる。[6]という経緯になっている。

5月6日台湾南部上陸すると台湾先住民とのあいだで小競り合いが生じた。5月22日台湾西南部の社寮港に全軍を集結し、西郷命令によって本格的な制圧を開始した[1]。6月3日には牡丹社など事件発生地域を制圧して現地の占領を続けた。戦死者は12名であった[1]。しかし、現地軍は劣悪な衛生状態のなか、亜熱帯地域風土病であるマラリアに罹患するなど被害が広がり、早急な解決が必要となった。マラリア猖獗をきわめ、561名はそれにより病死した[1]。

収拾への交渉[編集]

明治政府は、この出兵の際に清国への通達をせず、また清国内に権益を持つ列強に対しての通達・根回しを行わなかった。これは場合によっては紛争の引き金になりかねない失策であった。清国の実力者李鴻章イギリス駐日大使パークスは当初は日本軍事行動に激しく反発した。その後、イギリス公使ウェードの斡旋で和議が進められ、8月、全権弁理大臣として大久保利通北京に赴いて清国政府交渉した。大久保は、ルジャンドルフランス人法学者ボアソナード顧問として台湾問題交渉し[7]、主たる交渉相手総理衙門大臣の恭親王であった[1]。会談は難航したが、ウェードの仲介や李鴻章の宥和論もあって、10月31日、「日清両国互換条款(zh)」が調印された[1][7]。それによれば、清が日本軍出兵を保民の義挙と認め、日本は生蕃に対し法を設ける事を求め、[8]1874年12月20日までに征討軍を撤退させることに合意した。 また日清両国互換条款互換憑単によると清国遭難民に対する撫恤金(見舞金)10万両(テール)を払い、40万両[注釈 2]を台湾の諸設備費として自ら用いる事を願い出費した。[9]また、清国日本軍の行動を承認したため、琉球民は日本人ということになり、琉球日本帰属国際的に承認されるかたちとなった[1]。

帰結[編集]

日本清国との間で帰属がはっきりしなかった琉球だったが、この事件の処理を通じて日本に有利に働き、明治政府は翌1875年明治8年)、琉球に対し清との冊封朝貢関係廃止明治年号使用などを命令した。しか琉球は清との関係存続を嘆願、清が琉球朝貢禁止に抗議するなど外交上の決着はつかなかった。

1879年明治12年)、明治政府のいわゆる琉球処分に際しても、それに反対する清との1880年明治13年)の北京での交渉において、日本沖縄本島日本領とし八重山諸島宮古島中国領とする案(分島改約案)を提示したが、清は元来二島領有は望まず、冊封関係維持のため二島琉球に返還したうえでの琉球王国再興を求めており、また、分島にたいする琉球人の反対もあり、調印に至らなかった。

また、明治政府兵員輸送英米の船会社を想定していたが拒否され、大型船を急遽購入して国有会社の日本国郵便汽船会社に運航を委託したがこれも拒否され、大隈重信はやむなく新興の民間企業である三菱を起用することに決定したが[10]、この協力により、以降、三菱政府からの恩恵を享受できることとなり、一大財閥になるきっかけとなった[11]。

台湾出兵と熱帯病[編集]

被害[編集]

日本軍の損害は戦死8名、戦傷25名と記録されるが、長期駐屯を余儀なくされたため、マラリアなどの感染症に悩まされ、出征した軍人軍属5,990余人の中の患者延べ数は1万6409人、すなわち、一人あたり、約2.7回罹病するという悲惨な状況に陥った。

軍医部の対応[編集]

1871年(明治4年)、兵部省は、陸軍省海軍省に分かれ、軍医寮は陸軍省に属し、軍医頭は松本良順(のちに順)であった。台湾出兵当時、軍医部は創立より日が浅く経験不足であったが、総力を挙げて事態にあたった。出征軍の医務責任者は桑田衡平二等軍医正(少佐相当)、隊付医長は宮本正寛軍医大尉相当)であった。他に24名の医官を従軍させた。医官は全員奮闘したが、極悪の環境と猛烈な伝染病で病臥する者が多く、西郷都督からは薬だけでも兵士にあたえてほしいと要請された。医官の多くは漢方医で、熱帯病の治療にはまったく経験がなかったという。かれらは交代の22名が到着したため、ようやく帰国できた。宮内省から外国人医師が派遣された。ドイツ出身のセンベルゲル(Dr. Gustav Schoenberg)は、東京大学医学部前身にあたる大学東校お雇い外国人医師レオポルト・ミュルレルの推挙であったが、能力がなくトラブルを起こした。しかし、彼とともに送られた6台の製氷機械は大いに役に立ったといわれている[12]。

2016-09-13

台湾蓮舫記事翻訳

台湾蓮舫記事

  蓮舫台灣不是國家 李大維:謝長廷會適當處置

  http://udn.com/news/story/1/1958121

  http://b.hatena.ne.jp/entry/udn.com/news/story/1/1958121

これの excite 翻訳

   ※ 固有名詞の「蓮舫」の箇所だけ、誤訳を直した。

 


 

蓮舫台湾国家ではないと言います 李大維:謝長廷は適切に処理しま

 

 2016-09-13 11:59 連合報の記者の徐偉真は?ただちに報道しま

 

外交部長の李大維は、私達の現在の22の国交の首都はとてもしっかりしていて、警戒する赤色がなくて、日本大野党「民進党」党の主席立候補人の蓮舫についてメディア報道台湾国家ではないと公言させられて、李大維は駐日謝長廷に適切な処置ができるように代表するのを信じると言います行政院院長の林全は親民党主席宋楚瑜おそらく我が国APECに出席する代表に尋ねられて、と今日します、すべて彼が今このことに対して異なる意見を耳にするのがないと言います

 

国民党の立法院党と団がいつも廖国棟を呼んで今日回答を求める時蔡政府現在外交の状況まで(に)尋ねて、林全に外交が今1番悪い状況に着いたのを聞きましたか?林全が応対して未来に対してだらけるのを維持することはでき(ありえ)なくて、永遠に最も保守的方法で見て、廖国棟は引き続いて副大統領に陳建仁がちょうどバチカン訪問するのを帰って来る聞いて、台の古代インドの国交は保ちましたか?林全は応対してすべて成功して、現在いかなる奇形を見抜いていません。

 

廖国棟は現在外交赤色の警戒があるかどうかを聞いて、李大維は現在の22の国交の首都がとてもしっかりしていると言います

 

廖国棟は、蓮舫中華民国国籍を諦めると声明して、声明中華民国国家ではなくて、訓令の謝長廷を要して抗議に行くべきで、しか謝長廷2013年7月に鄭弘儀を受けて訪問する時むせて「私の国家中華民国と言う」と言いに帰って、謝長廷は今同じく大声で彼を表現するのに行くべきな国家中華民国のこの立場です;李大維は応対して、と言います、彼の訓令を使って、代表に礼を言ってとても明らかでどのように作りを信じます

 


 

蓮舫発言http://www.sankei.com/politics/news/160911/plt1609110014-n1.html

 また日本台湾国家として承認していない現状を踏まえ、「『一つの中国』論で言ったときに、二重国籍と(いう言葉を)メディアの方が使われることにびっくりしている」とも述べた。

 

「『一つの中国』論」は、意味的には「日本台湾国家だと認めていない」ということだが、別に直接そう言ったわけではない。まして、「台湾国家だと認めていない」ということではない。

2016-02-23

65海里

「65カイリ基準」米軍否定 普天間県外移設断念の根拠

 2010年に鳩山由紀夫首相(当時)が米軍普天間飛行場沖縄県宜野湾市)の県外移設を断念する判断材料となった政府内部文書朝日新聞が入手した。米軍の「基準」としてヘリコプター部隊と訓練場との距離を「65カイリ(約120キロ)」以内と明示しているが、在日米軍司令部朝日新聞取材に「そのような基準はない」とした。

特集沖縄はい

 文書は「普天間移設問題に関する米側から説明」。10年4月19日付で「極秘」と押印されている。「65海里(約120キロ)の問題」として「回転翼航空部隊拠点と同部隊が(陸上部隊と)恒常的に訓練を行うための拠点との間の距離に関する基準であり、米軍マニュアルに明記されている」と説明している。

 普天間飛行場の県外移設模索した鳩山氏は、この時期、鹿児島県徳之島への移設検討。だが、沖縄海兵隊のヘリ部隊の訓練が行われる沖縄本島中北部と徳之島とは約104カイリ(約192キロ)離れ、「65カイリ基準」を満たさない。

じゃあこれ↓何なのよ?

海兵隊の地上とヘリ「120キロ以内」 米が日本に伝達

2010年4月22日3時3分

 米軍普天間飛行場沖縄県宜野湾市)の移設問題で、政府が、海兵隊の地上部隊ヘリコプター部隊について「65カイリ(約120キロ)」以内の距離に配置する必要があると日本側に伝えていたことがわかった鳩山政権移設先として検討している鹿児島県徳之島は、地上部隊駐留する沖縄本島から200キロ弱離れており、この要件を満たしていないことになる。

 政府高官が21日、明らかにした日本政府はヘリ部隊の大部分を徳之島に移す案を検討しており、岡田克也外相ルース駐日大使が話し合いを続けている。米政府筋によると、米側は沖縄本島移設候補地の距離などをもとに技術的な検討作業に入っていた。同高官は「(65カイリは)徳之島との距離の半分だが、米国がそこをどうするかだ」とし、今後の調整の焦点になるとの見方を示した。

2015-07-25

[]

ナザルアハリ大使は「イランは有数の原油輸出国。(核開発疑惑を巡る)制裁で輸出額が半減し、これから輸出を増やそうとしているのに、なぜ海峡を封鎖する必要があるのか」と強調。

駐日イラン大使ホルム機雷敷設例示に「全く根拠ない」 - 毎日新聞

http://mainichi.jp/select/news/20150724k0000m030046000c.html


赤嶺委員 日本共産党赤嶺政賢です。

 政府六月九日に提出した見解について質問します。

 見解の内容は、これまでの政府の説明を繰り返したものにすぎません。いろいろ書いていますが、憲法解釈変更の根拠として挙げているのは、結局のところ、安全保障環境根本的な変容という抽象的な言葉だけであります。午前中から議論でも、変化の中身についていろいろと議論がありましたが、具体的な説明はありませんでした。

 そこで、政府集団的自衛権行使の具体的な事例として挙げている、ホルムズ海峡における機雷掃海問題で聞きます

 まず、この議論自体は今に始まったものではありません。イラン革命以降、イラン政府ホルムズ海峡の封鎖に言及したことは数え切れないほどありますしかし、実際に封鎖したことはありません。イラン自身石油輸出に致命的な打撃を与え、みずからの首を絞めることになるからです。

 中谷大臣に伺いますが、ホルムズ海峡問題をめぐって具体的にどのような変化があったんですか。

中谷国務大臣 一九七〇年代の半ばに日量約五百万バレル弱あった原油の輸入量は、オイルショックを契機とした石油代替政策また省エネルギー政策の推進によりまして、一九八〇年代の半ばには日量約三百二十万バレルまで減少しました。その後、一九八〇年代後半には原油価格の下落に伴って原油輸入量は増加に転じましたが、一九九〇年代の半ば以降は石油代替エネルギーの利用進展などによりまして減少基調で推移いたしました。

 二〇一〇年代には日量約三百六十万バレルとなっておりまして、石油需要は近年減少傾向にありますが、今後もその傾向は続くと考えておりますが、非常に我が国にとりましては中東に対する原油依存度は高いままで来ているということでございます

赤嶺委員 いや、私が聞いたのは原油の話じゃなくて、ホルムズ海峡をめぐって、イラン機雷の封鎖ということは今まで何度も言ってきたけれどもそれを実行に移さなかった、なぜならイランにとっても自分の首を絞めることになるからだと。安全保障環境の変化と言うのなら、何があったのか、どんな安全保障上の環境根本的な変容があの海峡であったのかということを聞いているんです。

中谷国務大臣 現在も、中東情勢というのは混沌といたしている現実がございます

 冷戦ときは、アメリカソ連という超大国の力のバランスによって、いろいろな地域紛争宗教紛争民族紛争、こういうことは如実に出なかったわけでありますが、冷戦崩壊した途端に湾岸危機が発生をいたしました。また、グローバルなパワーバランスも変化してきておりますし、弾道ミサイルの配備、中国の台頭、そしてアルジェリアシリアチュニジアにおきまして邦人犠牲となった国際テロの脅威などが挙げられるし、海洋宇宙サイバー空間に対する自由アクセスなどいろいろなリスクというものが深刻化しているということで、こういった国際情勢が変化をしてきているということでございます

 現に湾岸戦争が発生したときは、イランクウェートイラクに対して機雷をまいたという事実もございます

赤嶺委員 私がホルムズ海峡安全保障環境をめぐる根本的な変容は何かと聞いたら、宇宙サイバーの話まで飛び出してくるものですから。私が聞いているのは、ホルムズ海峡機雷が設置されて、日本集団的自衛権行使して機雷掃海に至るような根本的な変容。まさにあの海峡にとって。中東の話でもないんです。やはりイランをめぐる国際社会の話だと思うんですよね。

衆議院会議情報 第189回国会 我が国及び国際社会平和安全法制に関する特別委員会 第10号

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/189/0298/18906150298010c.html

2014-03-04

もし日本ロシア軍が入ってきて同じ目に遭ったらどうか、考えてみてほしい

時事ドットコム:「白昼堂々の侵略」=ロシアを強く批判-駐日ウクライナ大使

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2014030400823

一方、ニッポニアサヨクは「中国日本に攻めてこないよ(キリ」と言っていた。

安保抑止力があると言ってる人に「中国日本に攻めてこないよ」と言ってみた。 - Togetterまとめ

http://togetter.com/li/632792

2013-11-26

http://anond.hatelabo.jp/20131126024144

はてサ息してんの?な感じ。

はてサとは別だけど、駐日新聞社説いかしてるぜ。

http://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2013112602000105.html

今求められているのは、尖閣問題を、日本領有を前提に外交上の「係争地」とするなど、対話のテーブルに着く知恵だ。

知恵じゃなくて単なる一方的な譲歩じゃんそれ(笑)。盗人に追い銭?脅したら譲ってくれるんなら、そりゃ次々と脅してくるよね。次は沖縄も「係争地」になるよ。

2013-11-16

池田大作氏はなぜ五井博士排斥するのか?

http://ameblo.jp/don1110/entry-11695197467.html

2013年5月4日 東京日比谷公会堂での講演から 五井野 正   

 1997年3月に、ロシアヤリスラヴリ州立医学アカデミーで、私が末期がんの臨床実験を行なっていたことをお話しましょう。そのアカデミーの下に大学があり、そして日本でいうホスピスのような州立オンコロジー病院があります。私はその病院糖尿病重症患者や、発病して最終末期のエイズ患者さらに は末期がんの人たちに、私が発明したGO Pで臨床実験をし、多くの患者を治して生還させてきました。(1997年4月1日発行『ウィッピータイムス』7号に掲載)

 当然、むこうでは大きく新聞にも掲載され、テレビでも30分と1時間ドキュメンタリーが放送されましたが、日本では報じられてはいません。なぜかというと、私は某宗教団体創価学会から実に40年近く、みなさんが信じられないほどの驚くほどの圧力がかけられて、さまざまな妨害や中傷を受けているからであり、しかも何度も殺されそうになったこともありました。

 ですから現在おいても、政党公明党) までも持つこの某宗教団体創価学会から支配されているほとんどのマスコミからシャットアウトされているために、私が日本のため人類のためにどんなに国際的な活動をしても、日本ではそうしたことが報道されないのです。私は40年来ずっとそういう立場に置かれているのですが、日本の人々はそれを知りません。

 それはたとえば、私がチェルノブイリの子供たちを助けているときにも、私を拉致するためにマフィアまで使ったのです。しかロシア国家サイドがそれ から必死に護ってくれたので、逆に誰の指図であるかの悪事が次々と明らかになりました。その結果、エリツィン大統領はその宗教団体創価学会)をオウムと同じくカルトと判断し、宗教法まで改正しました。

 私の医学芸術活動は旧ソ連邦の国々だけではなく、当然、ヨーロッパでも大反響を起こしました。南ヨーロッパ地中海に浮かぶマルタ共和国では、私を サポートしてくれているメリック博士が私の絵の展覧会を開催する前に、GOPで重病の子どもを治してしまいました。その結果、ビザが取り消しになってしま い、それを知ったガン患者家族がその扱いに騒ぎ立ててそれが現地の新聞の1面に出たことがありました。(写真13)

 というのは、 今までラトビアロシアウクライナなどでは、厚生省病院とウイッピ総合研究所で臨床実験契約をした後に、病気治療をしていたからです。ところが メリック博士マルタで、悲しんでいる患者家族に同情して思わずGOPを使ってしまったのです。しかマルタでは、GOPを使用させてくれるようにと国民の約8%が署名し、大統領に嘆願書が出されました。(写真14) このようなことからリック博士ビザ下り、私はマルタで、博士と一緒にマルタ国の英雄として新聞一面扱いでした。(写真15) しかしそうであるのに、空港の入国審査ではストップされて、GOPの持込も、治療も禁止されてしまいまし た。

 このようなことがあるので、某宗教団体創価学会) のメンバーたちが厚生労働省を牛耳っているような状態の日本では、GOPがどんなに効力があっても治療として使うことができません。ですから国内の重病患者家族からも頼み込まれていますが、どうすることもできない現状にあるわけです。ですから頼むのなら、某宗教団体創価学会) が私に圧力をかけないように頼んでください。

 そこで薬として認可してもらうためには、旧ソ連での臨床実験では弱いために、ヨーロッパでのスタンダードな臨床実験必要になってきます。そのためにはまず、 効力があることを証明するために細胞実験から始めなくてはなりません。ロシアラトビアウクライナなどでの臨床実験データによって1999年に、デンマークコペンハーゲン大学でGOPの細胞実験を行なうことができました。その結果、がんに効く画期的治療薬として証明されたために、ヨーロッパテレビラジオで取り上げられ、スウェーデンデンマークでは新聞一面に掲載されました。(P.81) そしてこれから世界的にGOPの活躍がすごいことになるのですが、それは次の機会に話しましょう。

 私がGOPを完成させたのは1992年頃ですが、その効能のすごさに私自身が驚いてしまいました。しか自然薬ですから副作用というものがありません。健康体の人が常用すれば若々しくなります。しいて言うと、元気になりすぎるのが副作用とでもいえるくらいです。そこで1996年頃には難病の人を何と かしてあげたいという気持ちでいっぱいでした。そんなときオーストラリアから私の事務所へ、「ガンを治してください」という内容のファックスが来たこと があります。そこで50万円かけて、スタッフである北村君をオーストラリアまで派遣し、GOPでガンを治したことがあります。もちろん無料です。

 その後、その女性がよくなってヨーロッパ旅行に行ったとき、かつて彼女が働いていたラトビア病院に寄ったのです。そしてその後偶然にも、その病院ラトビア国立科学アカデミー、それにラトビア政府とウィッピー総合研究所合意により、幸運にも初めて臨床実験が進められることになったのです。ラト ビアの臨床実験はすぐに、驚くべき効果を出したので、それが新聞に掲載されて大騒ぎになりました。この記事では取材のとき患者は6人と記載されていまし たが、残り3人は奇跡的に病状が回復して退院してしまった後だったからです。さらテレビドキュメンタリー番組として放送されたので、現地では大騒ぎに なりました。(写真18)

 ところが、日本外務省に巣食っている某宗教団体創価学会) のメンバーがこちらで暗躍し、病院は突然に患者要望を放り出し、GOP の臨床試験を突然中止してしまったのです。しかもそれまで我々の通訳をしていたラトビア通訳が、ラトビア駐在日本大使館人間と一緒にいるところを見 かけて以来、その通訳は一方的に我々の通訳仕事を断ってくるようになりました。

 それから後の話ですが、エリツィン大統領1996年の9月頃に危篤状態になっていたことがありました。それでラトビアでの私のGOPの臨床実験の成果を大統領府が聞きつけ、ある日特別な使いが私のところに来ました。それというのもクレムリン病院には100人くらいの医者がいますが、エリツィン病気秘密になっていたようで、医者たちにもわからなかったのかもしれません。しかも状況は、「エリツィンを治すな。治すならその主治医の親を殺す」という脅迫があり、両親を殺された主治医アメリカに逃げてしまっているという状況にありました。そんな中で私に声がかかったのです。

 彼らの知りたいことは、「エリツィン大統領の病状は何か? GOPで治せるか?」ということでした。そこで私は、危篤状態にあるエリツィン大統領の病 名とその理由を手紙に書きました。すると折り返し、「エリツィン大統領を必ず治せるか? 呼んだらすぐ来られるか? 返事をして書名できるか?」とファッ クスして来たので、両方とも「イエス」と書名して送り返したのです。

 モスクワに出発する前日、東京ロシア大使館で新任の駐日ロシ ア大使の就任パーティがあって参加しました。その時、前に述べた友人が新任のパノフ大使に、「五井野さんがこれからエリツィン大統領を治しに行きます」と 興奮して言ってしまったことがありました。突然なので、パノフ大使は何のことかよくわからなかったようでした。次の日、私はモスクワ行きの飛行機に乗りま した。そして飛行機モスクワ空港に着くと、なぜか軍人が2~3人乗って来ました。すると飛行機はそのままバックしてタラップで降りることになりました。

 私が立ち上がると、美しいキャビンアテンダントが私を静止させ、日本の都甲(とごう)ロシア大使が先にタラップを降りることになりましたが、下では迎 えの大使館の人たちが大声で叫んでいるのです。次に私がタラップを降りるとメリック博士が出迎えてくれて、私を一般用のバスに案内するのです。私がどうし て「VIPじゃないの?」と言うと、私のスタッフ全員がタラップを降りるのを確認すると、突然、「ドクター、急げ!」と言って、都甲大使のVIP専用車に スタッフとともに案内してくれました。

大使の専用車に私たちが乗っても、日本大使館員たちは何も話しかけてきません。

 私がエリツィン大統領の招待を受けているのに、じっと黙っているだけです。後で考えたことですが、その時、私が狙われてはいけないと言うことで大使館側の人がわざと大声を出して、大使を先に降ろさせて私の身代わりになってくれていたのかもしれません。空港の案内室に入ると大使館側の人たちはサッといな くなり、私たち花束を持ったロシア国立芸術アカデミー総裁事務局長など一行の歓迎を受けました。

 私がアカデミーの人たちと話 していると、私を送迎するはずのボルボがいなくなり、しばらくして再びやって来ました。メリック博士が、「長く駐車していられないので、急いであなただけ乗りなさい!」と言います。「どうして?」とモタモタしていると、またボルボはいなくなる。そんなことを何度か繰り返して、最後に私とスタッフだけを乗せ てボルボは走り出しました。ほとんど渋滞なしで突っ走りましたが、後でわかったことですが、メリック博士によるとモスクワ空港には私の安全のために40人のKGBが守っており、私が重要人物であることを知らせないために素早く乗車させたということでした。(当時はボルボ新車はVIPしか乗れなかった) 

 また渋滞がなかったのは、左右の道路をすべてストップさせていたからだと説明されました。しか私たちの後ろには、替え玉のまったく同じ色のボルボがついて来ていた。泊まるホテルにも、重要人物とレストランで会う時にも、常にKGBの人たちが従業員として警備していたことも後でメリック博士から聞かさ れました。そうしてやっとエリツィン大統領にGOPが渡され、大統領奇跡的に回復したのです。そんなことがあって、私はエリツィンに信頼され、親しく なったのです。

エリツィン大統領は「北方四島日本と共同で芸術の島にする」と、ロシアテレビで語った

 その後 1ヶ月くらい後の1996年11月頃に、日本ロシアで日ロ国交回復40周年記念集会がありました。そのとき日ロ協会の会長三塚大蔵大臣外務省東郷 次席公使、それにペンクラブ代表日本相撲協会理事長なども出席し、私も特別ゲストとして出席しました。ロシア側は教育大臣など9名くらいが出席しまし た。私はその時にロシア教育大臣に、北方四島返還に関する平和条約10項目の提案書を渡し、その後もちろんエリツィン大統領にも渡しました。

 エリツィン大統領は、北方四島返還に関する平和条約10項目が、提案書の中で「一番最高で実現性が高い」と支持してくれました。というのもこの日に、 日本ロシアアメリカから300もの提案書があったのだそうです。私の北方四島返還に関する平和条約10項目の提案というのは、簡単に言うと四島にすで に住んでいる地元の人々のことを考えて、北方四島にまず日本インフラ整備をすることでした。どうせ戻ってくるのですから日本は10年間で1兆円かけて もいいでしょう。10年間はロシア領土のままで、10年後には日本に戻る。しかし戻ってからも10年間はロシアも使えるというものです。(1997年11 月15日『ウイッピタイムス』発行。写真19)つまり20年間かけて、北方四島芸術の国、文化の国をつくろうという話です。

 エリツィン大統領も賛成し、外務省を通じて当時の橋本首相にも知らされました。ですから外務省が知らないわけがありません。しか日本国民には何も知らされず、コントロールされているマスコミは何も報道しなかったのです。(略)

 ところが某宗教団体創価学会)の票と政治協力を再び自民党に呼び戻すために、暗躍した某国会議員外務省が何度も邪魔しました。もし私の活動が彼らによってぶち壊しさえされなければ、日本ロシア平和条約を結び、北方四島は戻ったはずなのです。(ネットで「五井野正・ あおぽ」で検索し、『あおぽ』のホームページ五井野正博士特別寄稿の記事から北方四島は戻るはずだった!!”の記事を開いてください)。

 そのことを、当時のロシア問題の関係者外務省筋の友人、当時の真樹会の事務局長に述べたら、「そんな重要なことが日本ニュースになっていないとはどういうことか」と驚いていました。そうしたことからもわかるように、日本マスコミは某宗教団体創価学会からアメとムチで支配されており、某宗教団体創価学会) の会員たちがマスコミ社員や幹部として送り込まれているだけでなく、日本の政治家や官僚など隅々まで彼らに牛耳られているという現実があります

    (日本の某宗教団体創価学会) の政治的妨害で、日本境界線だけ引いてくれればいいと逆提案をして、結局、北方四島返還も日ロ平和条約反故(ほご)になってしまったという事実は、日本マスコミ界では今でもタブーとされています。)

   book 『今、知らなければいけない重大な真実を語るメジャーな人々 Vol1』 

              五井野正・池田整治・滝沢泰平・増川いづみ著  ヒカルランド

                         抜粋したもの

http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/1275318/1293328/91560568?page=1

2013-03-14

日本マスコミ韓国に乗っ取られてるんだ!(ソースもあるよ)

元は中韓テレビ局日本テレビ局内にある、という噂を検証してみようと思ったのね。デマだと思ったから。でも、むしろ証拠の方を見つけてしまったよ。

まずは在日韓国人の団体、在日本大韓民国民団、略して民団サイトを見ましょう。

http://www.mindan.org/shokai/map_koukan.html

真ん中より少し下辺り、駐日韓国報道機関という欄に注目です。

そして次。日本新聞社の住所をまとめてくださっているこのページと見比べてみましょう。

http://www.ee-tokyo.com/ichiranhyou/houdou/shinbunsya.html

かるた感覚で色々と結びつきます

結論だけ言うと、

さて、新聞社編はここまで。

残るはテレビ局ですが、ここから先はご自分の目で確かめてください。民団のページに乗ってる住所でぐぐってみるだけでいいんです。

その住所には、きっと皆さんがよく知ってる会社があるはずですから

2011-03-24

アメリカルース駐日大使ツイートを見ていると意図はどうであれ「助けます」という思いに満ち溢れてる。

そのわりに

日本国総理大臣仕事してるのか?

総理動向を見ているとほとんど取り巻きしかあっていないようだが

2010-04-15

岡田外相、実務者協議断られたので、実務者協議否定_普天間移設問題

岡田外務大臣   「まず徳之島案からご説明させていただき・・・」

ルース駐日大使 「ちょ、その前に住民の合意あるの?」

岡田外務大臣   「えっ?いや」

ルース駐日大使 「いやだからあるの同意?俺言ったよね?同意がないと聞かないって言ったよね?よね?」

岡田外務大臣   「・・・」

ルース駐日大使 「俺がいったこと理解してなかったの?忘れたの?おぼえられないならどうしてメモしねぇの?馬鹿なの?ヤル気あるの?」

岡田外務大臣   「・・・すいません」

ルース駐日大使 「チッ・・・使えねぇなぁ・・」

岡田外務大臣   「・・・すいません」

ルース駐日大使 「・・・帰れ・・」

岡田外務大臣   「えっ」

ルース駐日大使 「帰れって言ってんだよ早く帰れよ!」

岡田外務大臣   「でも・・話をまとめないと帰れないんです」

ルース駐日大使 「なめんな帰れ」

岡田外務大臣   「・・ハイ・・」

ルース駐日大使  バタン!(ドアの閉まる音

岡田外相、実務者協議断られたので、実務者協議否定_普天間移設問題

http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/liveplus/1270917912/l50

2010-04-11

http://anond.hatelabo.jp/20100410064212

乾いた笑いしか出てこないな。

普天間「八方ふさがり」…首相責任論、不可避に

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100411-OYT1T00254.htm

基地移設

 沖縄米軍普天間飛行場移設問題は10日、日米間の実務者協議の開催が見送られるとともに、政府案で移設先となった沖縄鹿児島両県で反発が広がり、暗礁に乗り上げた。

 鳩山首相米国地元自治体与党の同意を得て決着させる、と公約した「5月末」まで1か月余りで政府は「八方ふさがり」に陥った。厳しい首相責任論が強まるのは避けられない情勢だ。

 「交渉のボール日本にあるに決まっている」

 米政府関係者は10日、こう声を荒らげた。

 岡田外相は先月末、ルース駐日大使らとの会談で、沖縄県名護市にまたがる米軍キャンプ・シュワブ陸上部鹿児島県徳之島などを柱とする移設案を米側に説明し、日本側は「ボール米国に投げた」と楽観視していた。

 だが、米側は不信感を募らせた。安定的な基地運営に不可欠な地元合意がないばかりか、示された資料は「素人同然の内容」(日米外交筋)。専門知識を持つ外務、防衛両省が深く関与していないためのようだ。

 首相は12日(日本時間13日)にワシントンで開かれる「核安全サミット」の夕食会でオバマ大統領の隣に座り、普天間移設について働きかけたい意向だが、「話題は、米側の関心の高いイラン核開発問題などが中心になる」(日米外交筋)との見方が強い。

 地元対策では、平野官房長官が8日、徳之島が含まれる衆院鹿児島2区選出の徳田毅衆院議員自民党)に電話し、「何か知恵を貸してくれ」と要請したが、徳田氏は「徳之島は絶対に駄目だ」とにべもなかった。

 普天間問題の行方は、鳩山政権の命運を左右しかねない事態となってきた。読売新聞社が先に実施した全国世論調査では、5月末までに決着しない場合、「首相は退陣すべきだ」と答えた人は49%に達した。

 連立離脱をちらつかせながら沖縄県外・国外移設に固執する社民党との調整も大きな波乱要因だ。最終的に、与党党首クラスでつくる基本政策閣僚委員会に諮る必要があるためだ。社民党福島党首は10日、宮崎市内で記者団に、徳之島について「地元の反対が強いので難しい」と語るとともに、「(米領)グアムテニアンで今、頑張っている」と述べ、あくまでも国外移設を目指すと強調した。

2010年4月11日10時01分 読売新聞

2010-04-02

中国日本人3人を死刑

大使に懸念表明へ 

岡田外相日本人3人の死刑執行方針の通告を受け、駐日中国大使を呼び、懸念を表明する意向。

2010/04/02 16:32 【共同通信

中国日本人3人を死刑執行すると伝達 

岡田外相は、中国麻薬密売の罪で日本人3人に死刑を執行すると伝えてきたことを明らかにした。

2010/04/02 16:27 【共同通信

日本バリバリ不良中国人死刑にすればいいのにな~

2010-03-12

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/157892

普天間の現行計画容認を一時明言 首相、米大使

 米軍普天間飛行場沖縄県宜野湾市)の移設問題をめぐり、鳩山由紀夫首相が昨年12月にルース駐日大使と会談した際、日米で合意したキャンプ・シュワブ沿岸部(名護市辺野古)への現行計画を容認していたことが分かった。複数の日米外交筋が11日、明らかにした。

 だが1月の名護市長選での反対派当選で情勢は一変。政府与党は現行計画以外の検討にかじを切り、調整は大詰めを迎えている。首相の「口約束」が不信感を強め、現行計画の履行を求める米側と日本の溝が拡大する背景になった。

 「しかるべき時期になれば、日米合意に戻したい。任せてほしい」。12月15日午後7時半すぎ、官邸5階の執務室。首相は、急きょ訪れたルース大使に言い切った。この日は鳩山政権の迷走を象徴する1日だった。

 政府は朝、普天間問題の結論を10年に先送りし、現行計画を排除せず移設候補地を検討する方針を決定したが、これを受けて動いた大使は、関係閣僚の見解の大きな隔たりに大使は驚き、首相との会談を要望した。

12月15日ポッポアリバイを調べてみたら…

http://www.asahi.com/politics/update/1215/TKY200912150449.html

首相動静―12月15日

 【午前】9時2分、官邸。18分、予算編成に関する閣僚委員会。32分、閣議。10時31分、障がい者制度改革推進本部。55分、成長戦略策定会議。11時25分、ものづくり日本大賞表彰式。57分、公邸民主党新人議員らと昼食懇談会。

 【午後】1時、官邸。34分、岡田外相外務省の薮中事務次官、佐々江外務審議官、斎木アジア大洋州局長。2時6分、岡田、佐々江、斎木の各氏残る。18分、オーストラリアのラッド首相と首脳会談。56分、「核不拡散・核軍縮に関する国際委員会」報告書提示セレモニー。3時19分、民主党田中慶秋衆院議員。4時10分、岡田外相、直嶋経産相、野田財務副大臣大谷環境政務官ら。57分、前原国交相。5時55分、カンボジアテロ対策特別部隊国家司令部のフン・マネット司令官兼特別局長。西村外務政務官同席。6時40分、岡田外相7時34分、米国ルース駐日大使岡田外相同席。49分、岡田氏残る。8時17分、公邸

岡田も同席してんじゃねえかよ!

2010-03-06

3/6 どちらが信用できるかと言われば  平野or由紀夫さん

ttp://nihon9999.blog77.fc2.com/blog-entry-4521.html

平野官房長官も「トラスト・ミー」 米大使に、5月決着巡り

平野博文官房長官が2日夜のルース駐日大使との会談で、普天間問題の決着期限を5月末とする政府方針に関して「トラスト・ミー(私を信じて)」と伝えていたことが4日、分かった。

昨年11月の日米首脳会談で鳩山由紀夫首相オバマ大統領に使ったのと同じフレーズ

米側が「現行案での年内決着」と受け止め、首相への不信感につながったいわく付きの言葉だ。

大使は何も応えなかったという。

2009-12-19

民主党の山岡、日米関係日中関係は「等距離」

ttp://chiraurasouko.blogspot.com/2009/12/blog-post_1086.html

296 日出づる処の名無し sage ▼ New!2009/12/18(金) 00:05:03 ID:ZYUtk3IS

「日米中は正三角形の間柄」山岡氏が米公使

 民主党山岡賢次国会対策委員長は17日、国会内で米国のズムワルト駐日公使と会談し、日米中の

3国関係について、「それぞれ同じように良好な関係を結んでいくということで、正三角形の間柄だと考えて

いる」と述べ、日米関係日中関係は「等距離」だとの考えを示した。

 沖縄米軍普天間飛行場移設問題については「日米関係(の問題)はそのほかにもたくさんある。普天間

問題は一時棚上げしよう」と語った。

 ズムワルト氏は「普天間問題だけが日米関係ではない。そのほかで良好な関係が築けるようなことをして

いきたい」と応じたという。

2009年12月17日21時43分 読売新聞

ttp://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20091217-OYT1T01206.htm


( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \ / \ / \

307 日出づる処の名無し sage ▼ New!2009/12/18(金) 00:09:00 ID:gUPqtkoh

»296

すごーい

同盟国に面と向かって、非同盟国と距離は同じだって言っちゃったんだ___

2009-12-13

日本人海兵隊尊敬していない

ことを嘆かわしいと思っている少数派の意見

普天間のことは書かない。どれほど日米同盟を痛めつけてくれたか、書き始めたら平常心を失いそうだ。ここ20年くらいの歩みがご破算にされ、時計の針が戻されてしまった。

普天間の海兵隊に出て行かせていいのか

米比両軍、毎年恒例の軍事演習を実施 - フィリピン

 問題は乱暴者、狼藉者の如くに言われ、とっとと出て行けと言われる普天間の海兵隊マリーン)である。あれは邪魔者なのか。

 居なくていいのか。少し減るのはやむを得ないのだとしても、居てくれないと困る。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/2332

 もう1つの考え方は、彼らマリーンを日米をつなぐ血の紐帯とみることだ。若い米国人blood poolが沖縄にあり、日本の各所にある。これくらい、米国日本防衛に示した堅いコミットメントの証拠はない――沖縄マスコミも、少しはこういう観点からモノが見られないものかと思う。(同上)

海兵隊日本を守るために戦って血を流したのですか? 知りませんでした。詳細を教えて下さい。

 米国シーファー駐日大使は「日本マスコミ沖縄マリーンを『檻に入れておくべき野獣』みたいに扱う」ことに、「表立ってこそ言わないが、常々極めて不当だと思ってきた」と打ち明けたことがある。(同上)

扱いはともかく、日本人の多くが(暗黙のうちに)そう思っているのは事実でしょう。もちろんそれは海兵隊にとって失礼なことですから、この機会に日本国移転という解決策を考えてもいいのではないでしょうか。

http://anond.hatelabo.jp/20091113080916

いつまでもいつまでも負け犬ペニスを舐めつづけるのか? 」の関連記事

2009-12-11

海兵隊がお嫌いのようですが

ttp://jbpress.ismedia.jp/articles/-/2332?page=2

米国シーファー駐日大使は「日本マスコミ沖縄マリーンを『檻に入れておくべき野獣』みたいに扱う」ことに、「表立ってこそ言わないが、常々極めて不当だと思ってきた」と打ち明けたことがある。

米国人マリーンに寄せる尊敬の念を踏みにじった

アフガニスタンタリバンの掃討作戦を展開する米海兵隊員〔AFPBB News

さもありなん。米国人マリーンに寄せる尊敬と信頼の情は深く、常に誇りとしてきた存在だからで、それをならず者の集団であるかの如く言われることに内心腹立たしく思っている米国人はたくさんいるはずだ。

マリーンが鉄の規律を誇るのも、誰より早く敵弾の雨を浴びなくてはならないからで、そんなマリーンには、他の3軍にない一家意識が生まれた。

そのことを、麻生太郎氏が外務大臣当時、小泉純一郎官邸メルマガに書いている。

マリーンが「大挙グアムへ移っていきます」と結んだ一文は、普天間移設とグアム移駐がすぐにでも進みそうな書きぶりで、情勢認識が大甘だ。けれどもそこに紹介されている海兵隊独特の「ある伝統」の一件――、これを日本で知っている人は極めて少数だろう。今もって読むに値する。

これ以上のことは、前々回紹介したリポートを今翻訳中なので、そこででも付け加えて書いておきたい。米国日本に寄せる期待値が、20年、いや30年分ぐらい、後戻りしてしまったという事実についてである。

2009-11-13

来た!オバマ大統領演説会招待…小浜市

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091113-00000381-yom-soci

痛々しくて目も当てられないな…。

オバマ大統領の訪日に向け、松崎市長は同市への来訪を求める手紙を8月にジョン・ルース駐日大使に送付。同大使からは「大統領多忙を極めるため、訪問できない」とする返事を受け取ったが、10月には西川知事とともに米国大使館東京都港区)を訪れ、同大使に直談判していた。

空気読めない馬鹿中学生社会科見学みたいなことやってやがる。

これ以上世界生き恥晒す前に死んだ方がいいんじゃねーの?

 
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