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2022-06-22

anond:20220622145532

出生

天文14年(1545年)、猿楽師の大蔵信安の次男として生まれる。長安祖父春日大社奉仕する猿楽(現能)金春流猿楽師で、父の信安の時代大和国から播磨国大蔵に流れて大蔵流を創始した。この頃に生まれたのが長安であったという。

武田家臣時代

父の信安は猿楽師として甲斐国に流れ、武田信玄お抱えの猿楽師として仕えるようになったという。長安信玄に見出されて、猿楽師ではなく家臣として取り立てられ、譜代家老土屋昌続与力に任じられたという。この時、姓も大蔵から土屋に改めている。長安蔵前衆として取り立てられ、武田領国における黒川金山などの鉱山開発や税務などに従事したという。

武田信玄没後はその子・勝頼に仕えた。天正3年(1575年)の長篠の戦いでは、兄・新之丞や寄親の土屋昌続は出陣して討死しているが、長安は出陣していない。天正10年(1582年)、織田信長徳川家康連合軍の侵攻(甲州征伐)によって武田氏は滅亡する。

ただし一説では、武田勝頼からまれたため、武田氏を自ら離れて猿楽師に戻り、三河国に移り住んでいたとも言われている。

徳川家時代

遠江国佐野郡懸川宿の年寄に対する掟書(『德川家奉行連署傳馬掟書』慶長6年1月個人蔵)[2]。伊奈忠次彦坂元正連署しており、「大久保十兵衛」[3]と記され黒印が押されている

甲斐武田家が滅んだ後、長安徳川家康の家臣として仕えるようになる。家康甲州征伐の際に逗留用の仮館を長安建設したが、この時に家康がその館を見て長安の作事の才能を見抜き、仕官を許したといわれている。また、一説では家康の近臣で、旧武田家臣の成瀬正一を通じて自分信玄にも認められた優秀な官僚であり、金山に関する才能に恵まれていることを売り込んで、家康に仕えるようになったともいわれている。

長安大久保忠隣の与力に任じられ、その庇護を受けることとなる。この際に名字を賜り、姓を大久保に改めた。天正106月本能寺の変信長が死去して甲斐家康の所領となる。しかし当時の甲斐は、武田家滅亡後の混乱から乱れていた。そこで家康本多正信伊奈忠次を所務方に任じて、甲斐の内政再建を命じた。ただし、実際に所務方として再建を行なったのは長安であるとされている。長安釜無川笛吹川堤防復旧や新田開発、金山採掘などに尽力し、わずか数年で甲斐の内政を再建したと言われている。

天正18年(1590年)の小田原征伐後、家康関東に移ることになる。この時、長安青山忠成(江戸町奉行)、伊奈忠次長谷川長綱彦坂元正らと共に奉行代官頭)に任じられ、家康関東に入った後の土地台帳の作成を行なった。これは家康が後に関東で家臣団に所領を分配する時に、大いに役立ったと言われている。

また、関東250万石のうち、100万石は家康の直轄領となったが、この時に長安長谷川長綱彦坂元正伊奈忠次と共に関東代官頭として家康直轄領の事務差配の一切を任されている。

天正19年(1591年)には家康から武蔵国八王子(後に横山)に8,000石の所領を与えられた。ただし、八王子を以前に支配していた北条氏照の旧領をそのまま与えられた形となったらしく、実際は9万石を与えられていたという。長安八王子宿(現・東京都八王子市)に陣屋を置き、八王子十八人代官を置き、宿場建設を進め、浅川の氾濫を防ぐため土手を築いた。石見土手と呼ばれている。

長安はまた、家康に対して武蔵治安維持国境警備重要さを指摘し、八王子五百人同心の創設を具申して認められ、ここに旧武田家臣団を中心とした八王子五百人同心誕生した。慶長4年(1599年)には同心を倍に増やすことを家康から許され、八王子千人同心となった。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、長安は忠次と共に徳川秀忠率いる徳川軍の輜重役を務めている。戦後豊臣氏支配下にあった佐渡金山生野銀山などが全て徳川氏の直轄領になる。すると長安は同年9月大和代官10月に石見銀山検分役、11月佐渡金山接収役となる。

慶長6年(1601年)春に徳川奉行補佐にて甲斐奉行8月石見奉行9月には美濃代官に任じられた。これらは全て兼任の形で家康から任命されている。異例の昇進と言ってもよく、家康長安経理の才能を高く評価していたことがうかがえるものである

慶長8年(1603年)2月12日家康将軍に任命されると、長安特別従五位下石見守に叙任され、家康の六男・松平忠輝の附家老に任じられた。7月には佐渡奉行に、12月には所務奉行(後の勘定奉行)に任じられ、同時に年寄(後の老中)に列せられた。

慶長10年(1605年)、大久保長安普請奉行として武蔵御嶽神社の本社普請

慶長11年(1606年)2月には伊豆奉行にも任じられた。つまり長安家康から全国の金銀山統轄や、関東における交通網の整備、一里塚建設などの一切を任されていたのである現在知られる里程標、すなわち1里=36町、1町=60間、1間=6尺という間尺を整えたのも長安である

これら一切の奉行職を兼務していた長安の権勢は強大であったと言われる。また、7人の息子を石川康長や池田輝政の娘と結婚させ、忠輝と伊達政宗の長女・五郎八姫の結婚交渉を取り持ち、忠輝の岳父が政宗となったこから政宗とも親密な関係を築いていたと言われている。そのため、その権勢や諸大名との人脈から「天下の総代官」と称された。この頃、長安の所領は八王子8,000石(実際は9万石)に加えて、家康直轄領の150万石の実質的支配を任されていたと言われている。

慶長17年(1612年)7月27日、中風にかかり、家康から烏犀円を与えられている(『駿府記』)[4]。

しか晩年に入ると、全国の鉱山からの金銀採掘量の低下から家康の寵愛を失い、美濃代官を初めとする代官職を次々と罷免されていくようになる。さら正室が早世するなどの不幸も相次ぐ中で、慶長18年(1613年)4月25日中風のために死去した[5]。享年69。

長安の死後に生前不正蓄財が問われ、また長安の子は蓄財の調査拒否したため、慶長18年(1613年)7月9日、長安嫡男藤十郎(37歳)、次男外記(36歳)、三男・青山成国(30歳)、四男・達十郎(29歳)、五男・内膳(27歳)、六男・右京長清(23歳)、七男・安寿(15歳)、以上7人は切腹となった。また縁戚関係の諸大名も改易などの憂き目にあった(大久保長安事件)。

人物逸話

ほとんど外様に近い立場から[6]老中(加判)に就いた唯一の人物であり、その謎めいた生涯は多くのフィクション対象となっている。

無類の女好きで、側女を70人から80人も抱えていたと言われている。

金山奉行などをしていた経緯から派手好きであり、死後、自分遺体黄金の棺に入れて華麗な葬儀を行なうように遺言したという[7]。

一説に長安は、家康より政宗のほうが天下人にふさわしいと考え、政宗幕府転覆計画賛同していたと言われている。

2021-12-12

君は全体的に秀吉の偉業を過小評価しすぎ

https://anond.hatelabo.jp/20211212125107

1.その場合誰が光秀に勝てるんだよ

まずそのことで明智勢力を温存できたのかどうか?

おそらくはありえない。

秀吉がやらなくても他の織田家勢力によって滅ぼされていただろう。

意味わからん

簡単に言わないでほしい。

 

そもそも当時の織田家の最も強力な軍団長は羽柴と明智であって

あのとき中国大返しと言う大胆な機動を見せた秀吉以外の誰があれほど鮮やかに明智を滅ぼせるのか。

 

一番近い摂津にいた信孝?

変の報せだけで逃亡兵が相次ぐぐらい求心力のない男だ。

秀吉中国から帰ってこないなら兵力は自前の5,000程度しかない。

一方明智史実ルートでも1万から1万五千の兵がいる。

2,3倍の兵力抱える歴戦の戦上手の光秀にどうやって勝つの

 

しか史実と違って秀吉軍がいないなら

信孝軍団からはより多くの逃亡兵が出るし反対に明智勢力は膨らむ。

おそらく山崎合戦自体が起こらない。

  

信雄?

信孝より更に遠いところに居て兵力も更に少なく合戦の腕も似たり寄ったり。

   

はっきり言ってこんな奴等では光秀の動きを制限することも出来ない。

光秀は勝家が戻ってくるまでの3週間近くを京での政治的運動宣伝に使えることになる。

 

  

2.秀吉が帰ってこないことで生じる余裕

史実では秀吉が信じられない速さで帰ってきたことや

「上様中将殿ともにご無事!」などと触れ回ったことで

明智勢力が大いに動揺したし、明智与力や姻族まで様子見を決め込んでしまった。 

 

そういうファクターが一切なくなるということは

明智光秀は見事に逆臣織田信長信忠を討ち取った

・遺された信孝信雄は弔い合戦を挑むことも出来ない

と言う状況が現れるわけで、

これを見たら筒井順慶だって洞ヶ峠から這い出てきて明智に従う。

 

そもそも光秀に与えられてる畿内軍団信長に冷酷に追放された佐久間与力

信長を討って主替えすることにいまさら抵抗感なんかない。利害が合えばついてくる。

それぐらい勢いが出たら細川すらやっぱり明智側に来るかもしれない。

 

 

3.雪崩を打って織田が滅ぶ

何より毛利上杉北条長宗我部という

これまで織田家軍団に圧迫されて存亡の危機に立ってた各地の大勢力は

こぞって明智に祝賀の使節を送ってきて恭順と連携を申し出る。

 

こうなったらもう秀吉ですら後の祭り

事情わかってる毛利に追いすがられながら撤退なんかそうそうできない。

毛利の追撃で散り散りにされたらどこで再起すればいい?姫路城まで戻れてもそこは安全か?

そもそもその状況で中国播磨大名が従い続けると思う?

  

明智と縁の深い長宗我部なんかは俄然張り切る。

信孝を討って光秀助けに京までのぼってくる。

 

そこまで織田の情勢が悪いとわかれば

北条上杉も余力を考えずに全力で追撃出来るから

滝川も森も柴田もいよいよたたでは戻ってこれない。

 

例えば滝川なんか史実では北条と一当たりして敗れたあと真田諏訪まで送られてるけど

「もう織田の再起の目は薄いな」と思われてたら同じ待遇になると思う?

昌幸「滝川首にして光秀に送ってご褒美に上野を安堵してもらお」ってなるでしょ。

もともと主家を滅ぼした織田好感情持ってるやつなんか甲斐信濃はいないんだから。 

史実ですら河尻とか逃げ帰る事すら出来ずに殺されてる。

 

 

4.信長殺しにお墨付きがくだる

織田が滅びていくのと前後して

光秀の主殺しに公的な認可が下る。

 

鞆まで逃れてた将軍様が戻って来て「大義である」って言い出すかもしれないし

もともと朝廷と繋がりが強い光秀だから帝の内意があった説すらある。

京をがっちり固めて将軍を戴けばそれより先か後かに朝廷から

「よくやりました」「各地の大名に号令を出して織田残党を討ちなさい」なんて宣下が来る。

 

英雄秀吉中国から出られないまま肝心の時に決断しなかったことを悔いながら殺されていくし

柴田は雪の中で滝川信濃山中で状況が分からないまま討ち死にして

信孝達はまあ降伏ののちに不審死三法師出家? 

 

ただ高齢デカ子供もいない光秀はどうやっても次世代に残す基盤は作れない。

衰え次第天下は再度荒れる。

国をまとめるはずだった織田もその後継勢力ももう居ない。

このルート日本てどうなるのかね。

毛利かな。  

吉川小早川がまだ生きてて若いのがいいよね。

  

 

おまけ

しかし、史実秀吉ほど狡猾に主家乗っ取りを出来るような

政治家が出現することはなかっただろうから織田家が存続する形になる。

そうなったとしても結局は信長の統率力を失った家臣団によって

勢力争いが展開され信長の遺児たちが神輿として担ぎ上げられて

結局は織田家を脅かす家臣が誕生して織田家乗っ取りが行われるのは

戦国時代によく見られた光景であり実際そのとおりに進むのは間違いない。

意味わからん

当主頓死したあとの家は必ず乗っ取られるのか?

 

(どうやるんだかわからないが)信孝が光秀を討って信長葬儀をやれば

それは何の問題もなく信孝が家督を継ぐ形でまとまるだろう。

信孝という当主がいるのにそれを蔑ろにするほど抜きん出られる家臣がそんな必ず現れるの?

  

なんか全体に言えるのは

秀吉中国大返しをめちゃくちゃ過小評価してるってことなんだよね。

あれは素晴らしく冴えた勝負手であって、

あれ以外のルートで光秀があんな早く打ち滅ぼされるなんてことはあり得ないし

その光秀成敗がなければ有力家臣に過ぎなかった秀吉があそこまで強引なイニシアチブ取れることもあり得ないんだよね。

 

ただそんなことを時間をかけて長々と展開してる間に

九州中国四国統一した地方勢力が力をつけており

その後の日本統一という意味での天下取り

現実的展望ではなくなっており

そのレベル地方統一なんてもの

織田豊臣や徳川支配とは比べられないってことをわかってないよね。

支配体制なんか確立してないか中央勢力と戦うとなった時に

滅ぼした大名勢力を手勢に使えるわけでもない。

基本的には勝負になんないよ。

 

秀吉四国九州関東東北の成敗がどんなだったのかもわかってないんじゃないの。

地方勢力に準備期間があったら対抗できたと?

フワフワしたイメージでモノ言わないでほしいんですよね。

 

織田勢力日本中央部を勢力図としての

限定的な天下政権となったことが予想される。

その政権地方政権戦国の世を続けるのか?

織田勢力地方勢力生産力や兵力ちょっと数字で比べてみたらいいと思います

秀吉であれ信孝であれ信雄であれ、あれを相続されちゃ勝ち目なんかないから。

光秀が勝って織田勢力を壊滅させつつ無責任老衰で死んで瓦解、

のようなひでえルートの時のみ地方勢力にチャンスが生まれると思うよ。

2021-01-03

信長は筆マメだった

信長というと、短気で気分しだいで人を殺していたとか思われがちだが、

しろ逆で、すべて緻密な計算政治を行っていた。

20年来の宿老の佐久間信盛を解任する際も、暴君なら理由もなしに追い払ってしまものだが、

信長は以下の長文をわざわざ直筆で書いている。

信長による19ヶ条の折檻状(現代語訳)

一、佐久間信盛・信栄親子は天王寺城に五年間在城しながら何の功績もあげていない。世間では不審に思っており、自分にも思い当たることがあり、口惜しい思いをしている。

一、信盛らの気持ち推し量るに、石山本願寺を大敵と考え、戦もせず調略もせず、ただ城の守りを堅めておれば、相手坊主であることだし、何年かすればゆくゆくは信長の威光によって出ていくであろうと考え、戦いを挑まなかったのであろうか。武者の道というものはそういうものではない。勝敗の機を見極め一戦を遂げれば、信長にとっても佐久間親子にとっても兵卒の在陣の労苦も解かれてまことに本意なことであったのに、一方的な思慮で持久戦に固執し続けたことは分別もなく浅はかなことである

一、丹波国での明智光秀の働きはめざましく天下に面目をほどこした。羽柴秀吉の数カ国における働きも比類なし。池田恒興は少禄の身であるが、花隈城時間も掛けず攻略し天下に名誉を施した。これを以て信盛も奮起し、一廉の働きをすべきであろう。

一、柴田勝家もこれらの働きを聞いて、越前一国を領有しながら手柄がなくては評判も悪かろうと気遣いし、この春加賀へ侵攻し平定した。

一、戦いで期待通りの働きができないなら、人を使って謀略などをこらし、足りない所を信長に報告し意見を聞きに来るべきなのに、五年間それすらないのは怠慢で、けしかぬこである

一、信盛の与力保田知宗の書状には「本願寺に籠もる一揆衆を倒せば他の小城一揆衆もおおかた退散するであろう」とあり、信盛親子も連判している。今まで一度もそうした報告もないのにこうした書状を送ってくるというのは、自分のくるしい立場をかわすため、あれこれ言い訳をしているのではないか

一、信盛は家中於いて特別待遇を受けている。三河尾張近江大和河内和泉に、根来衆を加えれば紀伊にもと七ヶ国から与力をあたえられている。これに自身配下を加えれば、どう戦おうともこれほど落ち度を取ることはなかっただろう。

一、水野信元死後の刈谷を与えておいたので、家臣も増えたかと思えばそうではなく、それどころか水野の旧臣を追放してしまった。それでも跡目を新たに設けるなら前と同じ数の家臣を確保できるはずだが、1人も家臣を召し抱えていなかったのなら、追放した水野の旧臣の知行を信盛の直轄とし、収益を金銀に換えているということである言語道断である

一、山崎の地を与えたのに、信長が声をかけておいた者をすぐに追放してしまった。これも先の刈谷と件と思い合わされる事である

一、以前からの家臣に知行を加増してやったり、与力を付けたり、新規に家臣を召し抱えたりしていれば、これほど落ち度を取ることはなかったであろうに、けちくさく溜め込むことばかり考えるから今回、天下の面目を失ってしまったのだ。これは唐・高麗南蛮の国でも有名なことだ。

一、先年、朝倉をうち破ったとき(=刀根坂の戦い)、戦機の見通しが悪いとしかったところ、恐縮もせず、結局自分正当性を吹聴し、あまつさえ席を蹴って立った。これによって信長は面目を失った。その口程もなく、ここ(天王寺)に在陣し続けて、その卑怯な事は前代未聞である

一、甚九郎(信栄)の罪状を書き並べればきりがない。

一、大まかに言えば、第一に欲深く、気むずかしく、良い人を抱えようともしない。その上、物事をいい加減に処理するというのだから、つまり親子共々武者の道を心得ていないからこのような事になったのである

一、与力ばかり使っている。他者から攻撃に備える際、与力に軍役を勤めさせ、自身で家臣を召抱えず。領地無駄にし、卑怯な事をしている。

一、信盛の与力や家臣たちまで信栄に遠慮している。自身の思慮を自慢し穏やかなふりをして、綿の中に針を隠し立てたような怖い扱いをするのでこの様になった。

一、信長の代になって30年間奉公してきた間、「信盛の活躍は比類なし」と言われるような働きは一度もない。

一、信長の生涯の内、勝利を失ったのは先年三方ヶ原へ援軍を使わした時で、勝ち負けの習いはあるのは仕方ない。しかし、家康のこともあり、おくれをとったとしても兄弟・身内やしかるべき譜代衆が討死でもしていれば、信盛が運良く戦死を免れても、人々も不審には思わなかっただろうに、一人も死者をだしていない。あまつさえ、もう一人の援軍の将・平手汎秀を見殺しにして平然とした顔をしていることを以てしても、その思慮無きこと紛れもない。

一、こうなればどこかの敵をたいらげ、会稽の恥をすすいだ上で帰参するか、どこかで討死するしかない。

一、親子共々頭をまるめ、高野山にでも隠遁し連々と赦しを乞うのが当然であろう。

右のように数年の間ひとかどの武勲もなく、未練の子細はこのたびの保田の件で思い当たった。そもそも天下を支配している信長に対してたてつく者どもは信盛から始まったのだから、その償いに最後の2か条を実行してみせよ。承知しなければ二度と天下が許すことはないであろう。

また、秀吉浮気したときに、奥さんの禰禰にこのような手紙も送っている。

私の命に従い、この度、この地(安土城)にはじめて尋ねてくれて嬉しく思う。

その上、土産の数々も美しく見事で、筆ではとても表現できない程だ。

そのお返しに、私の方からも「何をやろう」かと思ったが、そなたの土産があまりに見事で、何を返せば良いのか思い付かなかったので、この度はやめて、そなたが今度来た時にでも渡そうと思う。

そなたの美貌も、いつぞやに会った時よりも、十の物が二十になるほど美しくなっている。

藤吉郎(秀吉)が、何か不足を申しているとのことだが言語同断けしかぬことだ。

どこを探しても、そなたほどの女性を二度とあの禿ねずみは見付けることができないだろう。

これより先は、身の持ち方を陽快にして、奥方らしく堂々と、やきもちなどは妬かないように。

ただし、女房の役目として、言いたいことがある時はすべて言うのではなく、ある程度に留めて言うとよい。

この手紙は、羽柴(秀吉)にも見せること。

又々 かしく藤吉郎 女ども

のぶ

2018-05-03

第一回 ゴールデンカムイ

ゴールデンカムイ」見てますか? 面白いですよね! 原作全部読んじゃって「もっと・・・状態

そんなあなた明治維新前後(18世紀20世紀前半)の北海道舞台にした伝奇/アクション作品を紹介してみようと思います

1)

「地の果ての獄」

 言わずと知れた山田風太郎大先生明治もの

 ”北海道一般の人にとって地の果ての島だった明治19年。薩摩出身青年有馬四郎助は月形の樺戸集治監の看守に着任した。そこは刑期12年以上の凶徒を集めた人間運命の吹きだまりであった。正義感あふれる四郎助は、個性的囚人たちが起こす奇怪な事件に厳しく対しようとする。だが、元与力キリスト教教誨師・原胤昭との出会いがその運命を変え始め...。明治に生きる人々の姿をつぶさに拾い上げた圧巻の人間ドラマ。”

 原さんは『明治十手架』にも出てきます

2)

「旋風(レラ=シウ)伝」

 北海道出身朝松健先生作品。本作はクトゥルーネタあんまりない。

 ”明治二年、箱館五稜郭は陥落し、戊辰戦争最後の戦いは終わった。南部藩出身の若き遊撃隊士・志波新之介は、古参兵士たちのはからいで死をまぬかれ、榎本武揚から手渡されたスペンサー・カービン銃を手に北へ向かう。前途に広がるのは、コロポックル邪悪な罠を仕掛け、犬神が姿をあらわし、淫魔が歌声を響かせる、いまなお伝説が息づく蝦夷の大地。残虐きわまりない北海道開拓使・仙頭左馬之介が率いる討伐隊と死闘を繰り広げながら、新之介は自由の地を目指して歩を進める。” 

 現代北海道ものでは「魔犬召喚」「凶獣幻野」がお勧めです。北海道こわい!

3)

五稜郭残党伝 」「婢伝五稜郭

 こちらも北海道出身佐々木譲氏の作品

 ”戊辰戦争もあと二日を残し、五稜郭で幕を閉じようとしていた。「降伏はせぬ。」と、陥落前夜、自由を求めて脱出した旧幕府軍の凄腕狙撃兵、蘇武と名木野。逃げのびる二人は、アイヌ土地を蹂躪する新政府の画策を知り義憤燃えた。だがその背後に迫る、新政府軍残党狩り部隊足音酷薄執拗な追撃戦が開始された…。広大な北海道を血にそめて追われる者と追う者が、男の誇りを賭けて戦う冒険小説。”

 佐々木氏北海道舞台キング風の現代ホラー「白い殺戮者」で「アイヌ・ライケ・ウパシ」=「人を殺す雪」というアイヌ民話について登場人物に語らせていたりします。

4)

蝦夷地別件」

 船戸与一氏の作品

 ”十八世紀末蝦夷と呼ばれるアイヌ民族は和人の横暴に喘いでいた。商人による苛烈搾取、謂れのない蔑みや暴力、女たちへの陵辱…。和人との戦いを決意した国後の脇長人ツキノエは、ロシア人船長に密かに鉄砲三〇〇挺を依頼する。しかし、そこにはポーランド貴族マホウスキの策略があった。祖国を狙うロシア南下政策を阻止するべく、極東に関心を向けさせるための紛争の創出。一方で、蝦夷地を直轄地にしようと目論む幕府と、権益を死守しようとする松前藩の思惑も入り乱れていた。アイヌ民族最後の蜂起「国後・目梨の乱」を壮大なスケールで描きだす超大作。”

  脇長人て何?って思って検索したら 夷酋列像 が はてなキーワード登録されていました。

5)

天動説

 山田正紀作品山田氏の北海道舞台作品というと「謀略のチェスゲーム」「人喰いの時代」なんかがすぐ思い浮かぶけど、昭和なんですよ。時代を合わせると「ツングース特命隊」「崑崙遊撃隊」あたりになるんですが…

 本作は第一部が江戸編(ザ・”江戸時代”)、第二部が蝦夷編の伝奇小説ラストはむりくり明治維新期まで到達。あんまりアイヌは出てきません。

6)

カムイの剣

 矢野徹作品アニメもある。

7)

王道の狗」

 安彦良和のまんが 全編北海道ってわけではない。

 ”明治時代中期、北海道開拓使役させられていた若い囚人二人は脱獄し、それぞれの道を歩み始めた……。壮大なスケールで描く歴史長篇漫画

どうでしたか? アフィサイト並みに読んでない作品も挙げてみました。

ちなみに「ゴールデンカムイ」読んでません! ごめんなさい!!

2017-09-05

伝統好きと伝統ぎらい

伝統伝統とはやし立てる一方、伝統距離を置きたがる人は大勢いる


さてこれを正確に音読できる人はどのくらいいるのだろう

天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス



ちはやふる」と書いて「ちはやぶる」と音読できる人にはたわいもないことだろう

同様に


テンノウハシンセイニシテオカスベカラズ



である。「オカスカラス」などと読んではいけない


では歴女大人気の伊達家塵芥集を引用してみる

けんくわ・こうろんにより人をきる事ハ,ておいおほきかたのりうんたるへし。たゝしておい・しにんおほくとも,かゝり候ハヽ,かゝりてのをつとたるへき也


喧嘩口論で人を斬った場合、怪我人が多い方の言い分を優越させなさい。ただし、怪我人や死人が多くても最初に手を出した場合にはそちらの罪である




戦国時代は怪我人や死人が多数出るほどの「喧嘩」「口論」が絶えなかったので、大名がこういった法を出さざるを得なかったわけだ

喧嘩」「口論」といっても現代感覚では理解できない規模だったと想像できる

戦乱に明け暮れていた大名が、地元喧嘩口論仲裁に頭を抱えていたとか、あれこれ想像するのもまた一興ではないか



伝統嫌いのあなた食わず嫌いもったいない

伝統アクセスできる力をつけて伝統を大いに語ろう

  

追記



塵芥集のケースでは喧嘩両成敗の原則はとられていないが、今川国内場合は以下の通り

喧嘩に及輩、不論理非、両方共に可行死罪也、将又あひて取かくるといふと

も、令堪忍、剰被疵にをいてハ、事ハ非儀たりといふとも、当座をんひんの

はたらき、理運たるへき也、兼又与力の輩、そのしはいにをいて疵をかうふ

り、又は死するとも、不可及沙汰のよし、先年定了、次喧嘩人の成敗、当座

その身一人所罪たる上、妻子家内等にかかるへからす、但しはいより落行跡

においてハ、妻子其咎かかるへき歟、雖然死罪迄ハあるべからさるか


喧嘩に及ぶ輩は理非を論ぜず両方ともに死罪を行うべきなり、さてまたあえて

取りかかるというとも、堪忍せしめ、あまつさえ疵こうむるにおいては事は非儀たり

というとも、当座穏便のはたらき、利運たるべきなり、かねてまた与力の輩、その支配において疵をこうむり、

または死するとも、沙汰に及ぶべからざるのよし、先年定めおわんぬ、次に喧嘩人の成敗、当座その身一人所罪たる上、

妻子・家内などにかかるべからず、ただしはいより落行跡においては、妻子その咎かかるべきか、しかりといえども死罪まではあるべからざるか


喧嘩に及んだ者は「理非を論ぜず」、つまり正当か否かにかかわらず双方死罪である



同じ戦国大名でも、喧嘩に対する裁判に臨む姿勢が異なることがわかる

これで戦国時代知識は飛躍的に深まるはず


伝統情報強者に君もなろう

2015-07-04

http://anond.hatelabo.jp/20150704073058

後日、奉行所に出向き与力に事の次第を伝えるとその日の捕り物は無きと。

当方も混乱し沙汰は無いのかと訊ねると帳簿にも記載してない忙しいので

町人が侍を煩わせるなとけんもほろろに追い出そうになる。

確かにと昨日の同心の特徴を語ると

次第に与力も青ざめて曰く、御真理さんという怪異ににて候

 
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