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はてなキーワード: 板垣退助とは

2020-03-29

遺言が有名になること

自分の死んだあとに最後一言が有名になるのって、本人的にはどんな感じなのだろう。カエサルの「ブルータスお前もか」とか板垣退助の「板垣死すとも自由は死せず」とか、後世に知られるとは全く思ってはいないだろうけど期せずして今日まで名言と伝わってしまった。恥ずかしいのか誇らしいのか。死んでるから答えが返って来ることはないのだけれど。

辞世の句ならまだわかるのだ。有名人からね。かっこつけるためにわざわざそのために前もって考えていた人もいるだろうし、伝わって満足しているのがほとんどだろう。でも地味な人の遺書、たとえば円谷幸吉の「美味しうございました」や藤村操の「不可解」、あるいは名も無きオジサンの「お馬人生アウト」とか、後世に伝わるとは、まさか、だろう。伝わってしまたことについてどんな気持ちでいるのだろうね。

2020-03-21

地歴の先生をやっているから、歴史ジョーク歴史絡めた面白い(と思う)嘘は絶対に言わないようにしている。みんな普通に信じちゃうからだ。

昔、修学旅行奈良東大寺に行った時に「大仏江戸時代の再建だけど、フラッシュ撮影すると塗装や螺髪っていうパンチパーマ部分がボロボロ取れる可能性があるから写真撮影は園内一律禁止されてるんだって」ってバスでみんなに嘘説明してみんなの思い出の一つを奪った経験があるから歴史を教える立場になった以上絶対冗談ダメだなと思う。

コツは、ちょっと本当のことを混ぜることだ。

この他に、板垣退助の弟は進助といい大隈重信のコックをやっていた話とか、今川義元の子息氏真が蹴鞠の名手だったため静岡県サッカー王国になった話だとか、政所の読みを考えながら北条政子の読みを考える話とか。

2019-07-24

28歳女だけど、立憲民主党投票した理由

anond:20190723004058

わーい便乗します。

自民党支持率が高いと言われている20代だけど、20代男性44%、女性33%と10%も差があるらしいので、

女性としてはそこまで少数派でないのかも。

https://webronza.asahi.com/journalism/articles/2018121100002.html

しかにうちも同年代旦那自民党支持

同じ年代を生きてきたはずなのになんでここまで男女で差が…?と気になったのでタイトル性別入れてみました。

はいわゆる無党派層で、選挙当日に30分くらい地域候補者ググってえいやで投票した。

前置きはこのへんで、以下、立憲民主党投票した理由

1.夫婦別姓で「家族崩壊につながる」とか言ってる自民党家族観はなんか嫌

別にすべての政策の中で夫婦別姓議論いちばん大事とは思ってないし、

私自身は納得して旦那の姓に変更済みだけど、

選択夫婦別姓にまで反対する自民党ってなんなの?と思っている。

あと同性婚を認めないのも、当事者ではないけれど「根本的にマイノリティ不寛容なんだろうな」と思えてしまった。

とにかく自民党大事にしようとしている伝統家族観っていうのが、私とは相容れなそうだと思っていたので、

自民党以外の党から消去法で選ぶことにした。

2.自民党以外で選べる野党選択肢がほとんどなかった

ふだん真面目に政治ニュースとか見てないから当たり前なんだけど、

野党のそれぞれの印象がとにかく薄くて、かろうじてあるイメージは以下の感じ。

立憲民主枝野さんの喋り方はわりと好印象だった。演出過剰でなく淡々と語ってくれる政治家のほうが好きだな。

国民民主希望の党とき小池さんリベラル排除して、残ったほうっていうイメージ

共産党共産主義者ではないし…

社民党存在感が薄い

維新長谷川豊さんとか丸山穂高さんとかちょっとアレな人が集まりやすいのかな、というイメージ

れいわ:ちょっとまだよく分からない。偏見だけどタレントさんよりは政治行政経験がある人を応援したい。

3.「民主党政権時代悪夢」と言われてもピンとこない

当時は学生で今よりもっと世の中に関心がなかったので「そんなに自民党と比べて悪かった…?」という印象。

あの規模の震災対応はどの党がやっても要領良くはできなかったのでは?と思うし、

経済のことも正直、生まれからずっと不景気だったから今さら…と思っていた。

リーマンショック民主関係ないし。

生活保護受給者過去最大に」とか言うのも、それまでの長ーい自民党政権下で

非正規雇用ルール整備とかまともにやっていれば、

3年やそこらで生活保護受給者が急増したりはしなかったのでは。

4.はてブの影響

学生時代(~2013年)までは2ch漬けの青春を送っていたのだけど、

社会人になりスマホしかネットする時間がなくなってくるとアダルト広告気持ち悪さが無理になり、

一気にはてブ漬けの生活に。

どちらかというと2ch右寄りはてブは左寄りが多いんだよね?

これの影響が一番大きいかも。

5.現状を変えたいという漠然とした感覚

年齢的にはもういい大人なんだけど、正直貴重な休日政治のことを知るよりは、

はてブデイリーポータルZ記事や猫動画ブクマしているほうが楽しいし、

政治について関心を持つ気力がない。

…のだけれど、そろそろ子供も欲しいと思っているし、未来のことを考えないといけないよなあと。

あと中学校くらいの歴史で習った板垣退助平塚らいてうエピソードにはわりと感動した記憶があって、

やっぱり選挙には行かないといけんよね、という意識だけはあったので投票所に行った。

2019-02-15

anond:20190215115817

『田丸先生追憶寺田寅彦

1948(昭和23)年5月15日第1刷発行

https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2473_9316.html

いちばん最初試験をしたとき問題が、別にむつかしいはずはなかったのであるが、中学校三角問題のような、公式へはめればすぐできる種類のものでなくて、「吟味」といったような少しねつい種類の問題であったので、みんなすっかり面食らって、きれいに失敗してしまって、ほとんどだれも満足にできたものはなかった。その次の時間先生が教壇に現われて、この悲しむべき事実を報告されたのであったが、その時の先生は実にがっかりしたような困り切ったような悲痛な顔をしておられた。あんなやさしい問題ができないのは実に不思議だと言われるのであった。

試験ができなかった生徒に「がっかりした」先生

民主主義織田作之助

1976(昭和51)年4月25日発行

板垣退助こそ民主主義である。彼は仙台へ行った。宿につき女中にきくと、

「誰方とでもお会いになります。いえ、誰方にも名刺を下さいます。私もいただきました」

見せて貰うと、洗濯屋の名刺のように大きな名刺で「伯爵勲一等板垣退助五女……」という肩書れいれいしくはいっていた。

彼はがっかりしてわずに帰った。

板垣退助の娘に「がっかりして」帰った彼。

別に自責他責もなく「何かに対して自分失望する」という言葉だが。

その「何か」には自分欠点もあれば他人行為もあるというだけ。

2017-05-19

副島 種臣(そえじま たねおみ、文政119月9日1828年10月17日) - 明治38年(1905年1月31日)は、日本江戸時代末期(幕末から明治時代佐賀藩士、政治家書家。勲一等、伯爵。初名は竜種(たつたね)。通称は次郎(じろう)。号に蒼海(そうかい)、一々学人(いちいちがくじん)。

目次 [非表示]

1 生涯

2 書家

3 栄典

4 参考文献

4.1 伝記

5 登場作品

6 脚注

7 関連項目

8 外部リンク

生涯[編集]

文政11年(1828年)、佐賀藩士・枝吉南濠(忠左衛門、種彰、30石)の二男に生まれる。父は藩校である弘道館教授を努める国学者で、兄は同じく国学者枝吉神陽。母は木原宣審の娘・喜勢。父と兄の影響により、早くから尊皇攘夷思想に目覚める。弘道館で学び、この間に江藤新平大木喬任と交わる。

嘉永3年(1850年)、兄・神陽が中心に結成した楠公義祭同盟に加わる。嘉永5年(1852年)、京都遊学、漢学・国学などを学ぶ。この間に矢野玄道らと交わる。さらに、神陽の命を受けて大原重徳に将軍廃止天皇政権による統一を進言する意見書を提出して青蓮院朝彦親王から藩兵上洛を求められるが、藩主鍋島直正に退けられた上、藩校での国学教諭を命じられた。

安政6年(1859年)、父の南濠が死去し、同年3月には同藩士の副島利忠の養子となる

元治元年(1864年)、長崎に設けた藩営の洋学校・致遠館の英学生監督となって英語等を学ぶ。慶応3年1867年)、大隈重信脱藩するが、捕らえられて謹慎処分を受ける。

明治維新後は慶応4年1868年)、新政府参与制度取調局判事となり、福岡孝弟と『政体書』起草に携わる。明治2年(1869年)に参議、同4年(1871年)に外務卿となり、マリア・ルス号事件において活躍する。マリア・ルス号事件では、助けを求めた中国人奴隷解放したことで、正義人道の人と国際的に支持された。

明治6年(1873年)2月には前々年に台湾で起きた宮古島島民遭難事件台湾出兵も参照)の処理交渉特命全権公使外務大臣として清の首都北京派遣され、日清修好条規批准書の交換・同治帝成婚の賀を述べた国書の奉呈および交渉にあたった。この間、清朝高官との詩文交換でその博学ぶりを評価をされている。同年10月征韓論争に敗れて下野し、明治7年(1874年)には板垣退助らと共に愛国公党に参加、同年には民撰議院設立建白書を提出したものの、自由民権運動には参加しなかった。西南戦争中は、中国大陸中南部旅行滞在している。

明治12年(1879年)、宮内省一等待講。明治17年(1884年)、伯爵明治20年(1887年)に宮中顧問官、明治21年1888年)に枢密顧問官明治24年(1891年)に枢密院副議長になり、明治25年(1892年)には第1次松方内閣において内務大臣を務めた。

明治38年(1905年)、脳溢血のため死去[1]。

2017-04-25

日本護衛艦人名をつけるとするなら

アメリカだと、ロナルドレーガンとかカールビンソンとか

フランスはシャルルドゴール

かっこいいよね

日本人名絶対つけないことになっているけど、もしつけるなら誰になるか?

お札みたいだなーと思うと、岩倉具視板垣退助とか?

歴代首相なら伊藤博文吉田茂とか?

歴史偉人なら、藤原鎌足楠木正成徳川家康とか?

かっこ悪い!!

なんでだろ?

かが、いずもこんごうベストな気がする

2017-04-19

戦後十傑

維新三傑や十傑、あるいは勝海舟とか板垣退助とか伊藤博文とか

明治維新期に活躍して近代日本を作った英雄的な存在ってのは何人も思い浮かぶけれど

過大評価だったりする人もいるだろうが)

第二次大戦後日本を作ったそういう存在ってなかなかまとめて語られない感じがする

多少盛り気味でもいいから、この10人が凄かった、みたいなのがあると面白いと思う

 
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