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2022-06-22

ハシモトホームパワハラ案件ヤバすぎ

ここまで頭おかしいと人災というより何らかの地理的因縁を感じる

八戸といえば天保飢饉で大打撃があったところか

天明天保の大飢饉

八戸藩は、天明の大飢饉で深刻な打撃を受け、百姓一揆も起き、年貢の増徴による藩財政改善も見込めない状況に陥っていた。このため、八戸藩の運営は御用商人からの借り入れに頼らざるを得なくなっていた。そんな中、時の藩主南部信真は野村軍記を登用し、文政2年(1819年)、「国政御主法替」と称する藩政改革に乗り出した。その一環として、八戸藩最大の産物である大豆専売制を開始。もともと大豆流通に力を持っていた商人たちを排除し、あらたな御用商人を登用した。その過程で、従来最大の権勢を誇っていた七崎屋を取り潰した。文政6年には大野鉄山を藩営とし、実際の運用西町屋に任せて利益を藩に収めさせた。天保3年(1832年)、天保の大飢饉が発生。八戸藩では領知高2万石のうち1万1千石が損毛となる大凶作となった。翌年も8割の減収となった。藩は財政に窮し、御用商人西町屋や美濃屋に銀札を発行させ、預かり小切手も発行して米や食糧の買占めを行おうとした。しかし、インフレが急激に進行し経済が大混乱となり、天保5年には久慈農民一揆をおこし、民衆八戸城下へ押し寄せる事態となった。いわゆる「稗三合一揆である。これは、藩が1人1日稗三合の食糧を残して、残りを全て価値の激減している銀札や小切手で買い占めようとしたことから、このように呼ばれた。一揆に対して野村軍記は武力鎮圧を主張したが採用されず、一揆側の主張をほぼ受け入れる形で決着した。そのため野村軍記が進めていた藩政改革ほとんどが否定されることになり、野村自身も失脚。幽閉され間もなく死去した[2]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%88%B8%E8%97%A9

自殺社員侮辱の「賞状」 遺族が勤務先の住宅会社提訴

2022/6/21 18:48

新年会男性に渡された賞状を模した書面。翌月、男性自殺した(画像の一部を加工しています

青森県八戸市の住宅会社「ハシモトホーム」が、青森市40代男性社員平成30年に自殺=に、賞状を模し侮辱する内容の書面を渡していたことが、遺族側への取材で分かった。遺族は20日、パワハラ長時間労働自殺につながったとして、会社などに約8千万円の損害賠償を求め、青森地裁提訴した。会社側は「表彰の一環」と説明している。

原告側によると、関係会社も参加した30年1月の新年会で、男性課長が作った「症状」と題した書面を渡された。文面には「今まで大した成績を残さず、あーあって感じ」などと書かれていた。上司から「おまえはバカ」とのショートメッセージを受け取るなどした男性は翌2月、重度の鬱病発症自殺した。

男性の妻は、代理人弁護士を通じ「こんな『症状』を渡して、家族が見たらどう思うのか、何も想像しなかったのかと不思議でなりません」とのコメントを出している。

https://www.sankei.com/article/20220621-SAR4XBLCPVNZNEDYKGDZKZPR74/

被害者に合掌

2022-06-20

黒田騒動は、江戸時代前期に福岡藩で発生したお家騒動

黒田長政は世継ぎ継承にあたり長男・忠之の狭器と粗暴な性格を憂い、三男の長興に家督を譲ると決めて忠之に書状を送る。書状には2千石の田地で百姓をするか、1万両を与えるから関西商人になるか、千石知行で一寺建立して僧侶になるか、と非常に厳しいものであった。これに後見役の栗山大膳は、辱めを受けるのなら切腹をとの対応を忠之に勧める。そして600石以上2千石未満の藩士嫡子たちを集め、長政に対して廃嫡を取りやめなければ全員切腹すると血判状をとった。この事態を重く見た長政は嘆願を受け入れ、大膳を後見役に頼んだ後に死去した。そこで大膳は忠之に諌書を送ったが、これが飲酒の心得や早寝早起きなど子供を諭すような内容だったため、忠之は大膳に対し立腹し、次第に距離を置くようになる。忠之は寛永元年(1624年)に藩主就任早々、忠之及びその側近と、筆頭家老であった大膳はじめ宿老達との間に軋轢を生じさせ、生前の長政が憂いていたとおりに御家騒動へと発展した。忠之は小姓から仕えていた倉八十太夫(くらはち じゅうだゆう。名は正俊、または家頼)を側近として抱え、1万石の大身とした。そして十太夫に命じて豪華な大船鳳凰丸」を建造。さらに200人の足軽新規に雇い入れるなど、軍縮時代にあってそれに逆行する暴政を行った。これにより遂に藩は幕府より咎めを受けるに至った。

ほんとお家騒動の模範みたいな筋書きだな・・・

これを幕府がとりなすシステムを構築したのはさすが家康しか言えない。

まさに久能山東照宮から日本中を今も監視している存在である

2022-06-02

黒田騒動(くろだそうどう)は、江戸時代前期に福岡藩で発生したお家騒動栗山大膳事件(くりやまだいぜんじけん)ともいう。伊達騒動加賀騒動または仙石騒動とともに三大お家騒動と呼ばれる。他の御家騒動では処分時に死者が出ているが、黒田騒動ではお預けなどはあったものの、死者は出なかった。

経緯

黒田長政は世継ぎ継承にあたり長男・忠之の狭器と粗暴な性格を憂い、三男の長興に家督を譲ると決めて忠之に書状を送る。書状には2千石の田地で百姓をするか、1万両を与えるから関西商人になるか、千石知行で一寺建立して僧侶になるか、と非常に厳しいものであった。これに後見役の栗山大膳は、辱めを受けるのなら切腹をとの対応を忠之に勧める。そして600石以上2千石未満の藩士嫡子たちを集め、長政に対して廃嫡を取りやめなければ全員切腹すると血判状をとった。この事態を重く見た長政は嘆願を受け入れ、大膳を後見役に頼んだ後に死去した。そこで大膳は忠之に諌書を送ったが、これが飲酒の心得や早寝早起きなど子供を諭すような内容だったため、忠之は大膳に対し立腹し、次第に距離を置くようになる。忠之は寛永元年(1624年)に藩主就任早々、忠之及びその側近と、筆頭家老であった大膳はじめ宿老達との間に軋轢を生じさせ、生前の長政が憂いていたとおりに御家騒動へと発展した。忠之は小姓から仕えていた倉八十太夫(くらはち じゅうだゆう。名は正俊、または家頼)を側近として抱え、1万石の大身とした。そして十太夫に命じて豪華な大船鳳凰丸」を建造。さらに200人の足軽新規に雇い入れるなど、軍縮時代にあってそれに逆行する暴政を行った。これにより遂に藩は幕府より咎めを受けるに至った。

大膳も寛永9年(1632年)6月、忠之が幕府転覆を狙っていると幕府に上訴した。藩側は「大膳は狂人である」との主張を行い、寛永10年(1633年)2月将軍徳川家光が直々に裁いた結果、忠之の藩側の主張を認め、所領安堵の触れを出し、10年に及ぶ抗争に幕を閉じた。大膳は騒動の責を負って陸奥盛岡藩預かりとなり、十太夫高野山追放された。なお、十太夫島原の乱黒田家に陣借りして鎮圧軍に従軍したが、さしたる戦功は挙げられず、黒田家復帰はならなかった。のち上方で死去したという。十太夫の孫・倉八宅兵衛に至り、ようやく再仕官を許されている。なお、この時に盛岡藩へ預かりとなった栗山大膳は、藩祖・黒田如水所用の兜も一緒に持参した。現在、もりおか歴史文化館に所蔵されている。

題材にした作品

江戸時代中期には江戸中村座などにて黒田騒動を題材にした歌舞伎が数多く上演された。最初瀬川如皐作、外題『御伽譚博多新織』。のちに河竹黙阿弥により狂言『黒白論織分博多』として加筆集約化された。また幕末には合巻としては最長編である『しらぬひ譚』も歌舞伎化され、こちらも大好評を博した。

また、この事件森鷗外小説栗山大膳』において、改易を危惧した大膳が黒田家を守るために尋問の場で訴えたとして脚色して描いている。十太夫は、島原の乱一揆軍に加わり戦死したことになっている。滝口康彦小説『主家滅ぶべし』では、利章は真面目で実直なものの、その忠義独善的であるため主君家中からまれしまい、忠臣としての自身を保つために引き起こしものとして描かれている。

1956年には東映映画黒田騒動』が公開されている。監督内田吐夢、主演の栗山大膳役は片岡千恵蔵

1965年海音寺潮五郎が「列藩騒動録」新潮社上梓、のち講談社文庫化

2022-05-31

anond:20220530201601

徳川 斉順(とくがわ なりゆき)は、清水徳川家第3代当主、のち紀州藩11藩主江戸幕府第14代将徳川家茂の実父である

親族

江戸幕府11代将軍・徳川家斉の七男。母は家斉の側室・妙操院。12代将軍・徳川家慶の異母弟であり、13代将軍・徳川家定は甥にあたる。正室紀州藩10藩主徳川治宝の五女・豊姫、側室は実成院を含め3人。紀州藩13代藩主・14代将徳川家茂(慶福)の父であるしかし、家茂が生まれる前に没したため、家茂は実父の斉順に会ったことがない。また、水戸藩徳川斉脩の正室峰姫は同母姉にあたる。

生涯

当初は異母兄敦之助の夭逝後に空跡となっていた清水徳川家を継いだが、紀州藩10藩主徳川治宝の娘婿となっていた異母弟虎千代が早世したためこれに代わって、治宝の五女豊姫と結婚して治宝の婿養子となり、紀州藩主を継いだ。重倫、治宝の2人の隠居を抱えていながら贅沢な生活を送っていたので、藩の財政は傾いてしまった。また『和歌山市史』によると、治宝が政治の実権を握っていたため、山高石見守などの斉順側近と山中俊信などの治宝側近との間で深刻な対立が生じた。

先述のとおり、慶福が出生する前に死去し、他に嗣子がいないために、治宝は松平頼学を、附家老水野忠央将軍家慶の十二男で自身の甥(妹お琴の所生)である田鶴若を擁立しようとしたが、結局異母弟の斉彊が家督相続した。紀州藩主としての治世は21年11か月であり、この間の江戸参府8回、紀州帰国8回、紀州在国通算は6年4か月であった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E9%A0%86

2022-05-19

anond:20220519153204

問註所氏(もんちゅうしょし/もんぢゅうじょし)は、筑後国生葉郡国人領主筑後十五城の一つ。 大友氏被官で、その没落後は小早川氏、次いで柳河藩藩主立花氏に仕官柳河藩時代に成立した分家に町野氏がいる。

本姓: 三善氏

家祖: 問註所康行

2022-05-12

anond:20220512210626

見た目がおっさん・お姉さんでもゴールデンカムイみたいに中身が中学生黒歴史ノートに書いた人物じゃどうにもならなくね?

見た目が若い方がまだいいんじゃないか?中学生に戻った気持ちになれて

 

徳弘正也殺し屋・・・・では無いけれど、藩主に言われるまま人を斬り殺してきたが

何もかもに嫌気が差し江戸で夜回りをやっているヤツが主人公人情コメディ描いてるけど、

人を殺せるのはやはり狂人として描いてるよ、なんでも力でスパッと解決出来る爽快感提供しつつもね

 

まぁ、好みの問題かと

自分は絆がテーマにあるのに厨二病設定で子供向けを明確に打ち出していない作品コメディであっても苦手

2022-04-10

ジジババの家がある町は、牧場草原が豊かで引退者が住むには良いが、交通不便で開発業者が手を出さな

1990年代は別荘ブームがあったが、このごろ急に自治体サイト空き家の売り出しがどっと増えた

30年経過して、購入者死亡の物件が増え、折から不況子供には古いデザインの別荘を維持する経済力がないということだろう

  

ただ、なぜ高齢者たちがそれほど使わない不動産に金を出したか広告戦略か、競争心か

別荘なんて知人を自分でもてなせる(ちょっとマウンティングできる)というメリットしか思いつかないが

きっと購入者は、藩主でも大名でも領主でも政治家でもない小金持ちで、彼らの子供はそれより経済支援が欲しかたかもしれない

 

このごろここで話題ピカチュウ指輪を思い出しちゃったよね

ブームに弱いひとたちは一定数いて、買った本人たちは満足だったろうというやつ

カネはどのように使うべきか?という授業

 

自治体も30年後の空き家林立リスクを避ける方策を立てればよかったと思う

貸別荘や介護施設やその他施設転用できる設計なら、いずれ町が買い上げますとかね

 

2021-09-20

テレビ高知城やってた

今日高知藩主山内一豊を学んだが

どっかで聞いたなと思ったら貧乏なのに奥さんが戦にお馬さん用意してくれた人か。

2020-12-15

西郷隆盛って主人公だよな

フィールドRPGでも戦略SLGでも主人公になれるポテンシャルを秘めている。織田信長主人公としたゲーム創作物は多数存在するけれど、西郷隆盛織田信長以上に主人公にふさわしいと思う。

人物

薩摩藩地政学的要素

ライバル要素

オマケ要素

でも…

2020-10-30

anond:20201029182524

しかし、自分の両親、親戚、同級生が、都会の人と比べて収入教養も低レベルという現実があるんだよな。

結局、優秀な地方エリアというのは、レアなんだよ。

ほとんどの地方は、クソ、カスみたいな集団なんだよ。

もっと言うと、優秀な地方というのは、江戸時代藩主がしっかり国づくりしてたところは、今でもその影響が残ってる?かもしれん。

2020-10-16

anond:20201016075022

>>小学校社会科の授業「田沼意次無能でした」←いや、普通に名君です

これ自体が嘘やろ。田沼意次無能だったなんて小学校はもちろん中学でも習ったことないぞ。

そもそも有能・無能なんて評価義務教育でやるか?

そもそも君って何や?田沼老中だろうが。藩主として名君だったとかそんな話?そんなん学校でやるか?

2020-08-16

質素倹約の中でも鍋島直正のように外国から学んだら競争力つくものなのか

知らない人向けに簡単に紹介すると、鍋島直正という江戸時代明治時代にかけて、佐賀県藩主をしていた人物がいる。

財政難の中でも、海外技術積極的に学ぶよう働きかけ、他の藩よりも技術的に進んでいた。

芝浦製作所(後の東芝)の創業者でもある発明家 田中久重など優秀な人材を育てた。


現代の話をすると、国も地方財政が悪いという話ばかりだ。

統計的には米中と比べれば金額は少ないものの、全体で比べれば研究費は多い方のだが、現場の声からすると足りてないのだろう。

アメリカを手本に学ぼうとするわけだが、国のGDPが数倍のアメリカに追いつこうとしても、毎年の予算が数倍違うのだから、毎年引き離されていくのが普通だ。

アメリカから買ってくることはできるが、国産できなければ、日本よりインフレしているアメリカからの物は高くなっていく。


国が金を出すのを増やせばいいんだ、という結論はわかるが、やらないんだから仕方ない。

外国からどうやって学ぶかがもう一つの方法だろうが、スパイ活動で取ってくるわけにもいかない。良い方法があればいいが。

2020-06-26

先の副将軍の先って何だよ

そんな役職ないだろただの藩主だろ

anond:20200626232843

2019-03-30

anond:20190330232332

藩主がいた都市地方でも文化的なんだよねえ。東大を目指す子が入るような伝統的な名門校藩校前身だったりするし

近代に入って人口が急増した地域産業のためによその土地の者を集めた土地ヤンキー的なんだよね

2019-03-08

「過ぎたるものが二つあり」集

家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八

「唐の頭」とは唐物中国製)の珍しい兜のこと。

追記:指摘があったので訂正します。「唐の頭」とは正確にはヤクの毛の兜飾りのことです。武田信玄石田三成が描かれるときに、よく兜に付いているカツラみたいなやつのことですね。珍しくて高価なものではあるのですが、三河武士あいだでやたらと流行っていて、十人いたら七・八人はヤクの毛をつけていたらしいです。というのも、ヤクの毛を大量に積んだ貿易船が難破して三河に漂着したから、棚ぼたで手に入れたんだとか。そら「過ぎたるもの」と言われますわ。

本多平八」とは徳川四天王のひとり、本多忠勝(1548生)のこと。

三方ヶ原の戦いに先立つ一言坂の戦いで、退却する徳川軍の殿を本多忠勝がつとめた。

家康に過ぎたるものが」はその活躍を称賛した落首である

治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近佐和山の城

治部少は石田三成(1560生)のこと。

島左近」(1540生)はもともと筒井氏に仕えていた武将で、一説には当時の三成の禄高の半分である二万石で召し抱えられた。

関ヶ原の戦いで討ち死にしたが、敵の足軽が後々まで悪夢に見たというほどの戦いぶりだったという。

佐和山城」は三成が改修した城で、五層の天守閣を備えた立派なものだったが、中に入ってみると極めて質素な造りだった。

駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠

富士のお山」とはもちろん富士山のこと。

白隠」とは「臨済宗中興の祖」と言われる高僧・白隠慧鶴(1686生)のこと。

大量の書画を残しており、その作風は荒々しくバランスの崩れたものだが、それが逆に迫力を生んでいるとして現代でも人気が高い。

本所に過ぎたるものが二つあり 津軽屋敷に炭屋塩原

本所とは東京都墨田区地名

津軽屋敷」とは、本所にあった津軽藩の広大な江戸屋敷のこと。

火災ときに版木ではなく太鼓を叩くのが「本所不思議」として知られている。

「炭屋塩原」とは、炭団を改良して一代で豪商となった炭屋の塩原太助(1743生)のこと。

明治期には「塩原多助一代記」として立身出世物語が語られ大人気となった。

亀山に過ぎたるものが二つあり 伊勢屋蘇鉄に京口御門

亀山とは、現在三重県亀山市にあった、東海道亀山宿のこと。

伊勢屋蘇鉄」とは、亀山宿の旅籠伊勢屋の庭にあった蘇鉄の名木のこと。

現在亀山市の文化会館移植されている。

京口御門」とは、亀山宿の西端、つまり京へ向かう道に作られた門のこと。

坂の頂上に建てられ、下から見上げると壮観だという。

岩槻に過ぎたるものが二つあり 児玉南珂と時の鐘

岩槻藩は埼玉県さいたま市にあった小藩。

児玉南珂」(1746生)は高名な儒学者

祖父江島生島事件江島の弟だったため甲斐流罪となり、南柯は甲斐で生まれ岩槻藩士養子となった。

儒学を学んだ南柯は、藩の要職歴任し、隠居後は私塾・遷喬館を立ち上げて子弟教育に努めた。

「時の鐘」とは、城下に時を告げるために1671年に設置された鐘のこと。

改鋳されたもの現在まで残っていて市指定有形文化財となっている。

青山に過ぎたるものが二つあり 鳶の薬缶に原宿山車

青山東京都港区の地名

「鳶の薬缶」とは「薬缶平」と呼ばれた幕末の火消し・平五郎のこと。

本職は鳶職人で、頭がハゲていたので「薬缶」と綽名されたらしい。

原宿山車」とは、青山熊野神社の祭りで使われる山車のこと。

都座に過ぎたるものが二つあり 延寿太夫鶴屋南北

都座とは江戸にあった歌舞伎劇場の一つ。

「延寿太夫」とは、歌舞伎伴奏音楽として発展した浄瑠璃清元節」を創始した、初代・清元延寿太夫(1777生)のこと。

鶴屋南北」とは、「大南北」とも呼ばれる歌舞伎狂言作者、四代目・鶴屋南北(1755生)のこと。

一ノ関に過ぎたるものが二つあり 時の太鼓建部清庵

一関藩は、仙台藩から分知されて成立した小藩で、現在岩手県一関市にあたる。

「時の太鼓」とは、城下に時を告げるための太鼓のことだが、これは幕府から特別許可されたもので、鐘ではなく太鼓が設置されるのは非常に珍しかったらしい。

建部清庵」(1712生)は蘭学を学んだ名医で、『解体新書』で有名な杉田玄白の盟友であった。

八代に過ぎたるものが二つあり 天守屋根乞食の松

これは加藤家が改易されたあとに熊本藩に入った細川忠興の評らしい。

八代城は、熊本県八代市にあった城で、1622年に完成したもの地名から松江城」とも言う。

熊本藩本城はかの熊本城であり、一国に二城あるのは特例である

その気兼ねもあったのか、城は未完成放置されており、天守閣だけは壮麗だったというが、それも1672年落雷消失した。

乞食の松」とは、「浜のお茶屋」とも呼ばれる松浜軒庭園にあった松のことらしいが、詳細は不明

保土ヶ谷に過ぎたるものが二つあり 苅部清兵衛に花見寿司

保土ヶ谷とは、現在神奈川県横浜市にあった、東海道程ヶ谷宿のこと。

「苅部清兵衛」とは、その程ヶ谷宿本陣・名主・問屋を務めた苅部家の当主が名乗る名跡のことで、地元の名士として代々慕われたという。

花見寿司」は程ヶ谷宿名物で、現在でもその伝統を引き継ぐ店があるとか。

挙母には過ぎたる物が二つあり 大手御門に海老名三平

挙母とは、現在愛知県豊田市にあった小藩のこと。

挙母城は、三河尾張美濃信濃遠江伊勢近江が見えるということで七州城とも呼ばれ、「大手御門」とはその立派な正門を指している。

海老名三平」とは、挙母藩の剣術師範役に代々指名された海老名当主名跡で、落語家のことではない。

岸和田に過ぎたるものが二つあり だんじり祭りに千亀利のお城

岸和田とは、現在大阪府岸和田市にあたる岸和田藩のこと。

だんじり祭り」は全国でも有名なお祭りで、1703年から始まったという。

「千亀利のお城」とは岸和田城の別名で、五重の天守に総構えの立派なものだったが、天守閣1827年に焼失している。

鴨方に過ぎたるものが三つあり 拙斎 索我 宮の石橋

鴨方藩は備中の小藩で、現在岡山県浅口市にあたる。

「拙斎」とは、儒学者西山拙斎(1735生)のこと。

松平定信に「昌平坂学問所朱子学を教えるべき」と訴え、これが「寛政異学の禁」の原因となったという。

「索我」とは、絵師田中索我(1742生)のこと。

京都に出て絵を学び、仙洞御所の屏風を描いている。西山拙斎とは親友同士だった。

「宮の石橋」とは、鴨神社参道にある石橋のこと。

川ではなく道に掛かっていて、立体交差となっているのが特徴。

京極に過ぎたるものが三つあり にっかり茶壺に多賀越中

京極とは、讃岐丸亀藩主の京極家のこと。

「にっかり」とは、刀剣乱舞でも有名となった名刀「にっかり青江」のこと。

「茶壺」とは、二代目藩主京極高豊が好んで収集した、陶工野々村仁清の茶壺のこと。

多賀越中」とは、京極家の筆頭家老を代々務めた多賀当主名跡

三原には過ぎたるものが三つあり

三原とは、広島藩の支城である三原城があったところで、現在広島県三原市のこと。

その「過ぎたるもの」とは、まず石高のわりに壮麗な「三原城」。

三原城主であり広島藩筆頭家老であった浅野忠真(1618生)に、徳川家光の娘・月渓院が一目惚れし、駄々をこねて彼の側室に入ったために使用許可された「葵の御紋」。

日光東照宮工事にあたって、難所をわずか十日で仕上げて称賛を集めた家臣「鈴木方衛」の三つだそうな。

安中に過ぎたるものが三つあり

安中とは、現在群馬県安中市にあたる安中藩のこと。

「過ぎたるもの」とは、藩政を改革して名君と謳われた藩主の「板倉勝明(1809生)」。

現在も名所とされる「安中杉並木」。

第六代安中藩主板倉重形のときに作られたという、城下に時を知らせるための「安中様のお太鼓」(一ノ関だけの特別扱いだったはずでは…!?)。

桜田に過ぎたるものが二つあり 火ノ見半鐘に箕輪の重兵衛

桜田東京麻布のあたり。

「火ノ見半鐘」は江戸で最も高いと言われる火の見櫓があったから。

箕輪の重兵衛」は桜田町の名主を代々務めたという家の名跡

永坂に過ぎたるものが二つあり 岡の桜と更科蕎麦

永坂は現在東京麻布永坂町のこと。

「岡の桜」は、御番医師・岡仁庵の屋敷に植えられていた大きな枝垂れ桜のこと。

更科蕎麦」はそのまま更科そばのことで、蕎麦御三家の一つである蕎麦処・更科が永坂にあったことにちなむ。

保科には過ぎたるものが二つあり 表御門に森要蔵

保科とは上総国飯野藩主の保科家のこと。

「表御門」は、三大陣屋と呼ばれる飯野陣屋の門のこと(か?)。

「森要蔵」(1810生)は幕末の著名な剣豪で、保科家に剣術指南役として仕えていた。

この飯野藩保科家の江戸屋敷麻布網代にあった。

森要蔵は藩に召し抱えられたあと、近所の麻布永坂・岡仁庵の屋敷の一部を間借りして道場を構え、

更科そばの初代も、この屋敷に反物商として出入りしていたところ、

蕎麦を打つのが上手いということで藩主から蕎麦屋になることを勧められ、

同じく麻布永坂に店を出した、という縁がある。

高取に過ぎたるものが二つあり 山のお城に谷の昌平

奈良まれ儒学者森田節斎の言葉であり、高取とは現在奈良高取町にあたる高取藩のこと。

「山のお城」は高取城のこと。

日本国内では最大規模の山城で、その白漆喰が輝く様を「巽高取 雪かと見れば 雪ではござらぬ土佐の城」と評した言葉が残る。

「谷の昌平」とは、幕末儒学者・谷三山(1802生)のこと。

若年の頃に聴力を失うが、勉学に励んで大成し、高取藩に召し抱えられて尊王攘夷を説いた。

新城に過ぎたるものが二つあり 前の小川太田白雪

新城は、現在愛知県新城市にあたるが、「新城藩」は藩主安中藩に移封されたため1645年に消滅、代わって旗本の菅沼氏が入った。

「前の小川」とは、新城陣屋の堀へ水を引き入れるために作られた運河のことらしいが、現在存在しない。

太田白雪」(1661生)は、地元名家の生まれで、松尾芭蕉門下の俳人となった。

土浦に過ぎたるものが二つあり 刻の太鼓と関の鉄砲

土浦藩は、現在茨城県土浦市にあたる小藩。

「刻の太鼓」は、例によって城下に時を知らせるための太鼓のこと。

「関の鉄砲」とは、関之信が開いた「関流砲術」のことで、その宗家土浦藩の鉄砲指南を代々務めていた。

下総に過ぎたるものが二つあり 成田不動に久保木蟠龍

下総下総国のことで、現在千葉県北部茨城県西部のあたりを指す。

成田不動」とは、言わずと知れた成田山新勝寺のこと。

久保木蟠龍」とは、儒学者久保木清淵(1762生)のこと。

伊能忠敬と親交が深く、忠敬亡き後は大日本沿海輿地全図の完成を手伝った。

金沢に過ぎたるものが二つあり 刀正次 兜興里

金沢はもちろん現在石川県金沢市、加賀藩金沢城下のこと。

「正次」と「興里」はどちらも鍛冶師で、刀を打たせれば正次が、兜を拵えれば興里が優れていると言われていた。

そこで正次の刀で興里の兜を斬ったところ、兜は両断できなかったが欠け、刀には刃こぼれがなかったため、引き分けということになった。

しかし実のところ、興里は兜が割られないよう小細工をしており、それがなければ正次に負けていただろうと分かっていた。

悔しがった興里は刀を打つようになり、後に「長曽祢虎徹」として知られる名工となった、という伝承があり、歌舞伎演目になっている。

「正次」は志摩兵衛正次という名らしいが、こちらはよく分からない。

番町に過ぎたるものが二つあり 佐野の桜と塙検校

番町とは、東京都千代田区地名

佐野の桜」とは、旗本佐野政言の屋敷にあった見事な枝垂れ桜のこと。

「塙検校」は塙保己一(1746生)のことで、盲人として検校にまでなりながら、著名な国学者でもあった。

秋元に過ぎたるものが二つあり 無の字の槍と岩田彦助

秋元とは、現在埼玉県川越市にあたる川越藩主の秋元喬知のこと。

「無の字の槍」とは、藩祖・泰朝が家康から賜った十文字槍のことで、鞘に「無」の金文字があった。

岩田彦助」(1658生)は、川越藩家老を務めた儒学者のこと。

松山に過ぎたるものが二つあり 河原布衣徒に千秋の寺

松山は、現在愛媛県松山市にあたる伊予松山藩のこと。

河原布衣徒」は河原にいる乞食のことと思われるが、芸が上手かったことを言っているのか、よくわからない。

千秋の寺」はそのまま千秋寺のことで、昔は二十余棟からなる大伽藍があったが、戦火で失われたらしい。

谷田部に過ぎたるものが三つあり 不動並木広瀬周度 飯塚伊賀

谷田部は現在茨城県つくば市にあった谷田部藩のこと。

「不動並木」とは、谷田部藩主細川興昌(1604生)が植えたもので、沿道に二百本ほどの松が並んでいたというが、現在はない。

広瀬周度」(1782生)は、杉田玄白門下の蘭学医でありつつ、画家としても活躍したという人物

飯塚伊賀七」(1762生)は発明家で、自宅の向かいにある酒屋まで往復するからくり人形や、人力飛行機などを作っていたという。広瀬周度から蘭学知識を得ていたとも。

徳山に過ぎたるものが三つあり 藩主墓所と桜の馬場奈古里人

徳山は、長州藩支藩で、現在山口県周南市のあたりにあった徳山藩のこと。

藩主墓所」は、徳山毛利家の菩提寺である福山大成寺にある歴代当主墓所のこと。

「桜の馬場」とは、初代藩主毛利就隆によって作られた藩士の調馬場のことだが、数百本の桜が植えられて名所となった。

奈古里人」(1671生)は、万役山事件に伴う徳山藩改易の際に活躍し、徳山藩再興運動の中心となった人物

2017-07-27

秋田県知事

台風来た時にゴルフしたり酒飲んだりして、県庁に長らく不在だったことを批判されている。

ニュースをじっくり全て見ているわけじゃないけど、秋田県行政としての災害対応は、首長が不在でも瑕疵なく機能したんでしょ?

自分がいなくてもしっかり職場機能させるなんて、むしろ有能じゃない? 

嘘ついてたのはダメだけれどさ、行政の初動やその後の対応は、知事がいるorいないでどうだったのか。

ここがはっきりさせて、叩いて欲しい。

しか戦国武将あるいは藩主みたいな名前知事だな。

2017-05-19

田代 陣基(たしろ つらもと、延宝6年(1678年) - 寛延元年(1748年))は、江戸時代武士佐賀藩士。通称左衛門。『葉隠』の筆記者口述山本常朝、その師であった湛然和尚石田一鼎等と共に「葉隠の四哲」の一人に数えられている。

略歴[編集]

延宝6年(1678年)、田代左衛門宗澄の子として生まれた。 元禄9年(1696年)19歳の時より鍋島藩3代藩主鍋島綱茂、4代吉茂のもとで祐筆役として仕えたが、宝永6年(1709年)に御役御免となった。

宝永7年(1710年)、山本常朝の庵を訪れ、同じく失意の中にあった常朝と語らい合う内に常朝の言葉口述筆記を始め、7年後の享保元年(1716年)に『葉隠』として完成させた。

5代藩主宗茂時代の享保16年(1731年)54歳で再び祐筆役となる。 寛延元年(1748年)71歳で没し、佐賀市田代の瑞龍庵に葬られた。

墓所[編集]

瑞龍庵で葬られた際の墓碑には「松盟軒期酔之墓」と刻まれていたが、後、墓所存在は忘れ去られた。(その法名から浪花節語りの墓と考えられていた。) 昭和13年に再発見され、昭和19年に有志により瑞龍庵に顕彰碑が建立された。その碑文には「田代陳基先生葉隠纂述記念之碑」と刻まれている。「陣」は「陳」の俗字で戦乱の際などに使われるものであるため、田代陣基への思いを込め本来の字を使用した。

山本常朝

山本常朝

山本常朝の墓(佐賀市

山本 常朝(やまもと じょうちょう、万治2年6月11日(1659年7月30日) - 享保4年10月10日1719年11月21日)は、江戸時代武士佐賀藩士。『葉隠』の口述者。「じょうちょう」とは42歳での出家以後の訓で、それ以前は「つねとも」と訓じた。通称神右衛門、俳号は古丸。

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1 略歴

2 隠居晩年

3 史料

4 参考文献

5 関連項目

6 外部リンク

略歴[編集]

万治2年(1659年)に、佐賀城下片田江横小路現在佐賀市水ヶ江二丁目)で、佐賀藩山本神右衛門重澄の次男として生まれた。母は前田左衛門女。

常朝が自分の生い立ちのことを語っている項が『葉隠』・聞書第二にあり、それによると、自分は父70歳のときの子で、生来ひ弱くて20歳まで生きられまいと言われたので、塩売りでもやろうと父は思ったが、名付親の多久図書(茂富、重澄の大組頭)の「父の血を受け末々御用に立つ」という取りなしで、初名を松亀と名づけられ、9歳のとき鍋島光茂(佐賀藩2代藩主)の小僧として召し使われたという。

11歳で父に死別し、14歳とき、光茂の小々姓(いわゆる児小姓・稚児小姓)となり、名を市十郎と改める。延宝6年(1678年)20歳元服して権之丞と改名、御傍役として御書物役手伝に従事する。この年に、田代陣基が生まれている。

この間、私生活面では20歳年長の甥・山本常治に厳しい訓育を受けたが、権之丞が、若殿綱茂の歌の相手もすることが光茂の不興をかい、しばらくお役御免となった。失意のこの頃、佐賀郡松瀬の華蔵庵において湛然和尚仏道を学び、21歳のとき仏法血脈けちみゃく(師から弟子に法灯が受けつがれること)と下炬念誦あこねんじゅ(生前葬儀の式、旭山常朝の法号を受けた)を申し請けている。

葉隠』で慈悲心を非常に重んじている素地はこのとき涵養されたといえよう。さらにこの前後、神・儒・仏の学をきわめ藩随一の学者といわれながら下田現在佐賀県大和町)松梅村に閑居する石田一鼎を度々訪れて薫陶を受けた。このことも後の『葉隠』の内容に大きな影響を与えている。

天和2年(1682年)24歳のとき6月山村六太夫成次の娘と結婚、同年11月御書物役を拝命。28歳のとき江戸で書写物奉行、あと京都御用を命ぜられている。帰国後の33歳のとき、再び御書物役を命じられる、命により親の名“神右衛門”を襲名した。

5年後の元禄9年(1696年)、また京都役を命ぜられ、和歌のたしなみ深い光茂の宿望であった三条西実教よりの古今伝授古今和歌集解釈の秘伝を授かること)を得ることのために、この取り次ぎの仕事京都佐賀を奔走した。古今伝授のすべてを授かることは容易ではなかった、が元禄13年(1700年)ようやくこれを受けることができ、隠居後重病の床にある光茂の枕頭に届けて喜ばせ、面目をほどこした。

隠居晩年[編集]

同年5月16日藩主の光茂が69歳の生涯を閉じるや、42歳のこの年まで30年以上「お家を我一人で荷なう」の心意気で側近として仕えた常朝は、追腹禁止により殉死もならず、願い出て出家した。5月19日藩主菩提寺たる曹洞宗高伝寺の了意和尚より受戒、剃髮して名を旭山常朝と改めた。7月初旬に佐賀城下の北10キロ山地来迎寺村(現在佐賀市金立町)黒土原に朝陽軒という草庵を結び、「尋ね入る法のりの道芝つゆぬれてころも手すずし峰の松風」と詠じて隠棲した。

田代陣基が、常朝を慕い尋ねてきたのはそれから10年後、宝永7年(1710年3月5日のことである。『葉隠』の語りと筆記がはじまる。

のち、朝陽軒は宗寿庵となり、光茂の内室がここで追善供養し、自分墓所と定めたので、常朝は遠慮して、正徳3年(1713年)黒土原から西方11キロの大小隈(現在佐賀市大和町礫石)の庵に移り住む。正徳4年(1714年)5月、川久保領主神代主膳(光茂七男、のちの佐賀藩五代藩主鍋島宗茂)のために、藩主たる者の心得を説いた『書置』を書き、翌5年、上呈する。

享保元年(1716年)9月10日田代陣基が『葉隠』全11巻の編集を了える。山居すること20年、享保4年(1719年10月10日、61歳で没した。翌日、庵前において野焼、墓所八戸龍雲寺。

辞世の歌:

重く煩ひて今はと思ふころ尋入る深山の奥の奥よりも静なるへき苔の下庵

虫の音の弱りはてぬるとはかりを兼てはよそに聞にしもの

枝吉神陽

枝吉 神陽(えだよし しんよう、文政5年5月24日(1822年7月12日) - 文久2年8月14日(1862年9月8日))は、江戸時代後期の幕末活躍した佐賀藩思想家教育者国学者藩校弘道館教諭外務卿内務大臣を務めた副島種臣実弟本名は経種。贈従四位佐賀の尊皇派の中心的存在

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1 経歴

2 影響

3 同時代評価

4 関連項目

5 参考資料

経歴[編集]

佐賀藩藩校弘道館教授であった枝吉南濠種彰の長男として生まれる。幼児期より神童と賞され、20歳の時には江戸の昌平黌に学んでいるが、ほどなく舎長に推されている。また、漢学に偏重した内容に異議を唱え、国学を学ぶことを認めさせた。

早くから儒教朱子学の教えに疑問を抱いており、佐賀藩哲学である葉隠』をも否定したといわれる。

26歳で帰郷してから弘道館教諭や什物方などを務める傍ら、父南濠の唱えた「日本一君論」を受け継ぎ勤王運動を行った。1850年には「義祭同盟」を結成。天皇を中心とした政治体制である律令制などの知識を伝授するなど、藩論を尊王倒幕に向かわせようとしたが藩主鍋島直正を動かすことは出来ず失敗している。なお、この義祭同盟から実弟副島種臣のほか、大隈重信江藤新平大木喬任島義勇明治維新に大きな影響を与えた人材を多数輩出しており、「佐賀吉田松陰」とも言える人物である。また、水戸藤田東湖と「東西の二傑」と並び称された。

1863年、コレラに罹った妻を看病するうち自身罹患し、死去。享年41。墓所佐賀市本庄町の高伝寺。

影響[編集]

神陽は律令制を学ぶことを奨励したが、彼の教えを受けた江藤新平(初代司法卿)や大木喬任(2代司法卿)は法整備活躍した。また、明治政府が当初導入した太政官制副島種臣が起草したものであるが、ここにも神陽の影響がみられている。

副島 種臣(そえじま たねおみ、文政119月9日1828年10月17日) - 明治38年(1905年1月31日)は、日本江戸時代末期(幕末から明治時代佐賀藩士、政治家書家。勲一等、伯爵。初名は竜種(たつたね)。通称は次郎(じろう)。号に蒼海(そうかい)、一々学人(いちいちがくじん)。

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1 生涯

2 書家

3 栄典

4 参考文献

4.1 伝記

5 登場作品

6 脚注

7 関連項目

8 外部リンク

生涯[編集]

文政11年(1828年)、佐賀藩士・枝吉南濠(忠左衛門、種彰、30石)の二男に生まれる。父は藩校である弘道館教授を努める国学者で、兄は同じく国学者枝吉神陽。母は木原宣審の娘・喜勢。父と兄の影響により、早くから尊皇攘夷思想に目覚める。弘道館で学び、この間に江藤新平大木喬任と交わる。

嘉永3年(1850年)、兄・神陽が中心に結成した楠公義祭同盟に加わる。嘉永5年(1852年)、京都遊学、漢学・国学などを学ぶ。この間に矢野玄道らと交わる。さらに、神陽の命を受けて大原重徳に将軍廃止天皇政権による統一を進言する意見書を提出して青蓮院朝彦親王から藩兵上洛を求められるが、藩主鍋島直正に退けられた上、藩校での国学教諭を命じられた。

安政6年(1859年)、父の南濠が死去し、同年3月には同藩士の副島利忠の養子となる

元治元年(1864年)、長崎に設けた藩営の洋学校・致遠館の英学生監督となって英語等を学ぶ。慶応3年1867年)、大隈重信脱藩するが、捕らえられて謹慎処分を受ける。

明治維新後は慶応4年1868年)、新政府参与制度取調局判事となり、福岡孝弟と『政体書』起草に携わる。明治2年(1869年)に参議、同4年(1871年)に外務卿となり、マリア・ルス号事件において活躍する。マリア・ルス号事件では、助けを求めた中国人奴隷解放したことで、正義人道の人と国際的に支持された。

明治6年(1873年)2月には前々年に台湾で起きた宮古島島民遭難事件台湾出兵も参照)の処理交渉特命全権公使外務大臣として清の首都北京派遣され、日清修好条規批准書の交換・同治帝成婚の賀を述べた国書の奉呈および交渉にあたった。この間、清朝高官との詩文交換でその博学ぶりを評価をされている。同年10月征韓論争に敗れて下野し、明治7年(1874年)には板垣退助らと共に愛国公党に参加、同年には民撰議院設立建白書を提出したものの、自由民権運動には参加しなかった。西南戦争中は、中国大陸中南部旅行滞在している。

明治12年(1879年)、宮内省一等待講。明治17年(1884年)、伯爵明治20年(1887年)に宮中顧問官、明治21年1888年)に枢密顧問官明治24年(1891年)に枢密院副議長になり、明治25年(1892年)には第1次松方内閣において内務大臣を務めた。

明治38年(1905年)、脳溢血のため死去[1]。

2017-05-14

[] 長生殿

長生殿(ちょうせいでん)は、石川県金沢市の森八で作られている和菓子である

金沢市名物であり、落雁の最高級品とされる。

新潟県長岡市の越乃雪、島根県松江市山川と共に、日本三名菓の一つにも数えられる。

  

紅白落雁一種であり、材料四国産の和三盆糖北陸産のもち米を用いる。

昔は落雁の中に胡麻も入れていたが、現在は入れていない。

出来上がった落雁は、小堀遠州の直筆の“長生殿”と彫り込まれた木型で打ち上げられている。

ちなみに、菓子名前は唐の白居易長恨歌」の末章:「七月七日長生殿、夜半無人私語時。」より、唐玄宗楊貴妃

七夕に愛を語りあった場所である長生殿から由来しているとされる。

  

長生殿は加賀藩3代藩主前田利常より七夕のための落雁を作ることを命ぜられた三代目森下屋八左衛門(森八の前身)によって

作られた。茶道遠州流開祖である小堀政一遠州)の助言により、菓子に篆書で「長生殿」の文字が彫り込まれている。

命名も小堀による。

後水尾天皇にも献上され、前田から徳川将軍家にもしばしば献上された。明治以降もしばしば宮内省に収めた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%94%9F%E6%AE%BF_(%E8%8F%93%E5%AD%90)

[] のし

のし梅(のしうめ)は、梅をすり潰し、寒天に練りこんだものを薄くのし乾燥し竹皮で挟んだ山形県村山地方代表的銘菓

  

山形藩主の典医だった小林玄端が長崎での遊学中、中国人から梅を原料とする秘薬の製法を伝授され気付け薬として作ったのが

現在の『のし梅』の原型とされる。その後は夏場の民間薬の胃薬ないしは気付け薬として各家庭で製造されていた。

  

現在の形の「のし梅」を製造した祖とされているのが、創業文政年間の『乃し梅本佐藤屋』(山形県山形市十日町)。

日本三大修験山として江戸時代に盛り上がりを見せた『出羽三山詣』の参拝客の宿場町として山形市十日町近辺は栄えており、

菓子として『のし梅』を売り出したところ人気を博したという。

  

山形県紅花を主要な特産物として生産しており、その紅花口紅着物の染料として京都大阪方面を中心に高値取引されていた。

その紅花から赤い染料を取るのに梅の酸が使われていた為、山形市周辺は紅花と同時に梅も盛んに生産されていた。

梅は酸をとるためには青梅が良いが、完熟している梅だけを使用して作っている点では、農産物無駄なく使用できるために

のし梅は非常に理に適った特産品といえる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AE%E3%81%97%E6%A2%85

[] 梅不し

(うめぼし)

高知県高知市創業元禄初年(1688年)である西川屋老舗が製造販売する銘菓。梅餡を求肥で包み団子状にしたもの

土佐藩初代藩主である山内一豊」もこの梅不しを好んで食べたとされる。

https://kotobank.jp/word/%E6%A2%85%E4%B8%8D%E3%81%97-696516

http://korekao.com/archives/1658

2017-05-12

[] 玉椿

姫路銘菓「玉椿」を製造している伊勢屋は、元禄年間(1688年~1703年)に開業し、天保年間(1830年~1843年)に家老河合寸翁の

推挙により、江戸菓子を学び、姫路に戻った後、藩の御用菓子商となりました。

代表商品の「玉椿」は、藩主酒井忠学と11代将徳川家斉の25女・喜代姫との婚礼に当たって作られ、河合寸翁が命名したと

いわれています。その後、姫路藩の御用菓子に用命されました。

  

紅色求肥(練って作る餅の一種)で、しっとりした黄身餡を包み込み、粉糖をまぶし「椿の花」に見立てています

  

小豆の中でも栽培の難しい「白小豆」を原材料として用い、香り豊かな風味と上品な甘みは、菓子としての風格を

一層際立たせています上品な甘みと柔らかな食感が上品お菓子です。

http://seiban.jibasan-shop.jp/?pid=39677110

2017-04-30

[]

岡崎城に行ってまいりましたわ。

城内は公園化しつつも売店や神社が散在しておりカオスな状況でした。

わたしくの行ったことのあるお城では博多城に似ていますわね。

展示施設は「三河武士のやかた家康館」と「復興天守」がメインになります

三河武士のやかた家康館は、増田先駆者である家康公と

彼を支えた三河武士を展示の中心に据えている建前になっています

ところが目玉的な展示は、ジオラマ映像関ヶ原の戦いを描くものですの。

東軍の主力は外様で、三河武士の精鋭は秀忠と一緒で間に合っていませんわ・・・・・・

井伊直政の抜け駆けと本田忠勝の働きはありましたけど、正直物足りなかったですわ。

長篠なら大久保兄弟酒井が、姉川なら榊原康政活躍しますのに--

三河武士全員が活躍する合戦を探すのは難しいですわね。

あえて言えば三河一向一揆でしょうか。

家康が陣を前に押し出して全軍の士気を高めたことが

強調されていたのは展示側にもその自覚があるからでしょうか。

あと大谷吉継隊の模型が回転しきらずに止まってしまっていて非常に気になりましたわ。

本来は壊滅して盤面上から消えるはずのシーンで、

やっと回転しきって残っていましたわ。

復興天守の方では刀剣甲冑の展示が目立ちました。

甲冑レプリカも含めて三河武士のやかたにも多数あり、

甲冑好きには良いところだと思います

フレームストラクチャーを思わせる刃紋が浮かんだ刀剣武蔵藤原永道が気に入りました。

鞘に緑のラメが入っていましたの。

加茂一揆ジオラマ展示があり、農具に毛の生えた武器をもった一揆勢を

岡崎藩兵が弓矢鉄砲を使って容赦なく鎮圧する様子が描かれていました。

おそろしいおそろしいですわ。

城下町の一日というジオラマシアターもあって、

江戸時代宿場町で横行した強引きわまる客引きを見ることができますの。

女性がやっていても強盗誘拐との区別がつきませんわ。

家康生誕の岡崎城最後に治めたのは本多忠勝系の本多家ですけど、

幕末には最終的に徳川家を裏切っています

ただし、それを決断した藩主養子だったとか。

三河武士のやかたと謳いながら、ちょっと後味の悪い話ですわ。

陽気と有名な藤の花のおかげもあって結構な人出でしたわ。

追記

id:hilda_i様 マリー・アントワネット様にあやかるのは、すでにやったのですわ

http://anond.hatelabo.jp/20161217235117

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