はてなキーワード: 政府軍とは
合言葉やカラーリングで敵と味方を識別するという手段はあるが、充分なものとは言いがたい。声真似をされたり、服装を模倣されたらおしまいだ。もっともそれは生者にとっても同じことだが、屍者には融通というものが徹底的に欠けている。
実際、昨年の日本の内乱時には、明治政府の屍兵団が、政府軍に偽装した叛乱軍の田原坂通過をまんまと許すという事態も起こった。錦の御旗と呼ばれる識別旗をクリーチャが誤認したのが原因ときく。
屍兵はその名に反して兵員ではなくただの兵器で、運用は生者の器量に依存する。銃が意思を持たないのと全く同じく、敵の手に落ちればそのまま兵器として転用される。一定期間指令がなければ自爆する──そんな物騒な機能をインストールする部隊もある。
年 | 名称 | 概要 |
---|---|---|
1531年 | 享禄・天文の乱 | 浄土真宗本願寺派の権力闘争である享禄の錯乱。管領・細川晴元が一向一揆を利用したら暴走してしまったので本願寺を討伐した天文の錯乱。 |
1532年 | 北部九州天文の乱 | 大内氏と大友氏が北九州を巡って抗争を行うなかで、大内義隆が大友氏の支援を受けた少弐氏を滅ぼし、豊前・筑前・肥前を平定した。 |
1533年 | 稲村の変 | 安房里見氏当主・里見義豊が、叔父の里見実堯を誅殺したところ、その息子の里見義堯が謀反を起こして義豊を殺し、自らが当主となった。 |
1536年 | 花倉の乱 | 駿河守護・今川氏輝と弟・彦五郎が急死、その他の弟で出家していた玄広恵探と栴岳承芳が後継を争った。栴岳承芳が勝利し今川義元を名乗った。 |
1537年 | 河東の乱 | 北条氏と今川氏は長く同盟を結んでいたが、今川氏が武田氏と手を結んだため、武田氏と争っていた北条氏が今川領に攻め込み河東地域を占領した。 |
1542年 | 天文の乱 | 伊達氏当主・稙宗とその息子・晴宗の内紛。婚姻外交が進んでいた奥州を二分する大乱に発展した。最終的に晴宗が当主となったが伊達氏は衰退した。 |
1550年 | 二階崩れの変 | 豊後の大名・大友氏において、嫡男の義鎮を支持する勢力が、当主の義鑑と三男の塩市丸を襲撃して殺害した。事件後に義鎮が当主となった。 |
1551年 | 大寧寺の変 | 周防の大名・大内義隆に対して、家臣の陶晴賢が謀反、義隆は自害に追い込まれた。後継は大友氏から迎えられ、陶晴賢が実権を握った。 |
1565年 | 永禄の変 | 畿内で勢力を誇る三好氏が、将軍・足利義輝を襲撃して殺害した。その後、将軍の後継争いから、三好氏の内紛へと発展していった。 |
1568年 | 本庄繁長の乱 | 越後上杉家臣・本庄繁長が上杉謙信に対して反乱を起こした。繁長がよく戦い、謙信の被害も大きかったので、繁長は降伏して帰参を許された。 |
1569年 | 本圀寺の変 | 本圀寺にいた将軍・足利義昭を三好三人衆が襲撃した。幕府軍がよく守るあいだに畿内の織田方の勢力が救援に駆けつけたため、三好三人衆は敗れた。 |
1569年 | 大内輝弘の乱 | 九州に侵攻した毛利氏の後方撹乱を狙った大友氏が、大内氏再興を目指す大内輝弘を周防で挙兵させた。毛利元就は九州侵攻を諦めて引き返し鎮圧した。 |
1570年 | 元亀の変 | 伊達晴宗と伊達輝宗の父子が対立するなかで、晴宗に重用されていた中野宗時が謀反の疑いをかけられ、中野一族は粛清・追放された。 |
1574年 | 天正最上の乱 | 出羽最上氏の当主となった最上義光と、その父・義守が対立し、伊達氏が義守に味方して内乱となった。最終的に義光有利で和睦した。 |
1576年 | 三瀬の変 | 伊勢北畠氏は織田氏に降伏し、織田信雄を養子に迎えて家督を譲っていたが、その後も叛意が残っているとされ、そのため北畠一族は粛清された。 |
1578年 | 御館の乱 | 上杉謙信の死後、その甥の景勝と、北条氏から迎えた景虎という、謙信の養子二人で後継争いがあり、武田氏を味方につけた景勝が勝利した。 |
1578年 | 天正伊賀の乱 | 伊勢を掌握した織田信雄が続いて伊賀に攻め込んだが敗退、数年後に織田氏はあらためて大軍で侵攻し、伊賀を平定した。 |
1582年 | 本能寺の変 | 織田家臣・明智光秀が謀反を起こし、本能寺に宿泊していた主君・織田信長を襲撃した。信長は自害した。 |
1582年 | 天正壬午の乱 | 織田信長の死去により武田旧領から織田軍が撤退し、空白地帯となった武田旧領を巡って徳川・北条・上杉が三つ巴で争った。 |
1585年 | 粟ノ巣の変 | 伊達氏に降伏した畠山義継が、前当主・伊達輝宗を拉致した。追いかけた伊達軍により、輝宗ともども義継は討ち果たされた。 |
1591年 | 九戸政実の乱 | 南部晴政の死去に起因する後継争いから南部家臣・九戸政実が反乱を起こした。南部当主・信直は豊臣秀吉に救援を求め、諸大名軍により平定された。 |
1599年 | 庄内の乱 | 島津忠恒が重臣・伊集院忠棟を誅殺した。伊集院氏は籠城して徹底抗戦したが、秀吉死後に実権を握った徳川家康の調停により、最終的に降伏した。 |
1637年 | 島原の乱 | 島原・天草の苛政に耐えかねた領民が、旧領主に仕えていた浪人たちを中心として一揆を起こした。一揆勢は籠城して戦ったが、幕府軍に鎮圧された。 |
1651年 | 慶安の変 | 軍学者の由比正雪が、教え子の浪人たちと共に、幕府転覆の計画をしていたが、事前に幕府側に露見して失敗した。由比正雪は自決した。 |
1652年 | 承応の変 | 軍学者の別木庄左衛門が、仲間の浪人たちと共に、幕府転覆の計画をしていたが、事前に幕府側に露見して失敗した。別木庄左衛門は磔にされた。 |
1837年 | 大塩平八郎の乱 | 腐敗した大坂町奉行所や、飢饉でも米を買い占める豪商に失望した元・町与力の大塩平八郎らが決起し、豪商などを襲撃した。半日で鎮圧された。 |
1837年 | 生田万の乱 | 国学者の生田万が、大塩平八郎の乱に感化され、仲間とともに越後桑名藩の陣屋を襲撃したが、長岡藩によって鎮圧された。 |
1860年 | 桜田門外の変 | 攘夷派の水戸脱藩浪士たちが、安政の大獄を引き起こして水戸藩を圧迫していた開国派の大老・井伊直弼を襲撃し、暗殺した。 |
1862年 | 坂下門外の変 | 攘夷派の水戸脱藩浪士たちが、公武合体を推し進めていた開国派の老中・安藤信正を襲撃し、負傷させた。 |
1863年 | 朔平門外の変 | 破約攘夷派の公家の代表格であった姉小路公知が暗殺され、薩摩藩の田中新兵衛が逮捕されたが、新兵衛が自害したため真相は不明。 |
1863年 | 天誅組の変 | 尊攘派公家による倒幕計画に基づき、尊攘派の「天誅組」が大和国で挙兵したが、幕府に鎮圧された。同時に京では政変があり尊攘派公家が失脚した。 |
1863年 | 生野の変 | 長州の支援を受けた尊攘派浪士らが、天誅組と同様に但馬国で挙兵をしたが、幕府に鎮圧された。 |
1864年 | 天狗党の乱 | 水戸藩内の尊攘過激派「天狗党」が急進的な攘夷を求めて筑波山で挙兵したが、幕府に鎮圧された。この内乱により水戸藩の影響力は低下した。 |
1864年 | 禁門の変 | 前年の政変により京から追放されていた長州藩が、復権を目指して京で挙兵、会津藩や薩摩藩らと戦ったが敗れた。これにより長州征伐が決まった。 |
1874年 | 喰違の変 | 征韓論で失脚した不平士族たちが、征韓反対派の右大臣・岩倉具視を恨みに思い襲撃、負傷させた。下手人らはすぐに逮捕され処刑された。 |
1874年 | 佐賀の乱 | 征韓論で失脚した江藤新平らが中心となって不平士族が佐賀県で挙兵したが、政府軍により鎮圧された。 |
1876年 | 神風連の乱 | 熊本県の不平士族が結成した「敬神党」が廃刀令への反発から挙兵したが、政府の熊本鎮台軍により鎮圧された。 |
1876年 | 秋月の乱 | 神風連の乱に呼応して、福岡県で不平士族が挙兵したが、政府の小倉鎮台軍により鎮圧された。 |
1876年 | 萩の乱 | 神風連の乱に呼応して、山口県で不平士族が挙兵したが、政府の広島鎮台軍により鎮圧された。 |
1877年 | 福岡の変 | 西南戦争に呼応して、福岡県で不平士族が挙兵したが、福岡城に残っていた政府軍などに鎮圧された。 |
1878年 | 紀尾井坂の変 | 石川県の不平士族たちが、内務卿・大久保利通を襲撃、暗殺した。下手人らは自首し、処刑された。 |
(Wikipediaで立項されているものだけまとめた。「〜の変」「〜の乱」という別称があっても、その呼称で立項されていなければ除外している)
明確な定義は決まっていないという前提で、だいたい以下のような基準だと思う。
〜の変:大きな戦闘を伴わない政変。謀反・暗殺・粛清・失脚など。権力の上下は関係ない。成功したか失敗したかは関係ない。
〜の乱:大きな戦闘を伴う内乱。反乱・暴動・後継者争いなど。国家同士の戦争を指すことはほぼ無い。成功したか失敗したかは関係ない。
こういった呼称は「絶対にいずれかに統一しなければならない」というものではないので、「これって乱というより変じゃね?」と思うような事件は、だいたい「変」「乱」どちらで呼んでも通じたりする。たとえば蘇我氏と物部氏の戦いである「丁未の乱」は他に「丁未の変」や「丁未の役」とも呼ばれる。将軍・足利義教が暗殺された事件は、その暗殺の部分だけを見れば「嘉吉の変」と呼ばれ、その後の赤松討伐戦も含めれば「嘉吉の乱」と呼ばれる。
あとついでに。
〜の役:大規模な軍役。必然的に辺境への遠征や対外戦争が多い(がそれに限らない)。例として前九年の役・後三年の役・富山の役・文禄の役・慶長の役など。
〜の陣:長期間の在陣。遠征・戦線の膠着・包囲戦など。例として鈎の陣・志賀の陣・天正の陣・大坂の陣など。
という感じだと思う。「役」と「陣」はなんとなく互換性があり、「小田原の役・小田原の陣」「朝鮮の役・朝鮮の陣」「大坂の役・大坂の陣」などはどちらも用いられる。
問題のまとめはこれ。
定期的に話題になる「科学的に存在しうるクリーチャー娘の観察日誌」の「女社会の消滅」のシーン
https://togetter.com/li/1885038
cinefuk 🌀 @cinefuk
5日前
「社会の仕組みはエロ漫画で学んだ。やっぱりフェミニズムは間違っている事を理解した!」と言う奴、本当にいるんだなあ。これフェミが普段主張している「男性読者向けに男性作家によって描かれた女性像。思い込み・ステレオタイプを強化する表現によって、女性蔑視を強化する」の典型じゃないの?
cinefuk 🌀 @cinefuk
5日前
「愚かな女たち」というモブキャラを「かしこい主人公(作者の分身)」が論破する。これ #青識亜論 じゃん。同じことを「おっさんの主張」としてテキストで書いてあったら、自分はどう受け取るだろうか?と立ち止まって見るべきじゃないのかな
これに対してまとめ主の返答
よしき @yoshiki_anime
5日前
cinefuk 今回はcinefukさんの言ってることに同意です。なのであえてこのタイミングで発動しますがあなたのことはブロックします。はてなブックマークユーザーでさんざん私のブログに嫌がらせみたいなコメントをしてた人に私のtogetterのコメント欄使わせる義理はないんでね。 文句があるならよそでの自分の振る舞いを呪え。図々しすぎて引くわ。
よしき @yoshiki_anime
5日前
あとそもそも、cinefukの感想は間違いではないが、それ言うなら「ミステリというなかれ」でも同じこと言えるだろうにミステリの方のまとめではそういう発言一切してなかった。結局cinefukのいうことは「一見正しそうだがただのポジショントーク」にすぎないしコメントさせる価値もあんまりない。
これを見るとtogetterから追い出された噂は本当なんじゃないかと邪推したくなる。
西方政府軍兵士@ノクターンノベルズ&ノベルアッププラス @Lkpi8dEIKmF7bi1
5日前
これ、コメント欄でも既に出てるように、あくまでもこの漫画の架空種族のミノタウロスの女子の主張で、こういうのが常識の種族がいて、そいつにこいつの常識を語らせてるだけなんですが、ツイ論客の名前出したり、漫画の作者の思想がヤバいと言ってる人は、ゴブリンスレイヤーのゴブリンとか、異種族異民族女性への性暴行を肯定する()作者とかめちゃくちゃな受け止め方してるんですかね。
シロクロ @BlancNoir_nanto
5日前
cinefuk 媒体よりも内容が大事なんじゃないでしょうか?別に「『漫画だから』正しくない」って事は無いかと。 この漫画がどうかはまた別の話ですが。 でも「女社会が無いから子育てがしづらい」の話は一理あるように私は感じましたが… ヴァンパイア族の話については現実よりも飛躍した極論の社会なのでフィクションの範疇かと思いますが。
前々からcinefukさんの国語能力を怪しむ声はあったけど、「社会の仕組みはエロ漫画で学んだ」のは自分自身だったんでは。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/ishikawataiga/status/1478664032702054402
ちょっと調べただけで、
って情報がすぐ出てくるのになぜそうしようとしないのか。
https://news.yahoo.co.jp/articles/7c0363c38ce03c2937d3d0e75e8dc901195b684a
今年2月下旬、品川で起きたクラスターでコロナに感染して以降、体調不良が続くなか、ジャヤンタさんはこの10月、職員による制圧でケガを負った。その後、ようやく仮放免が認められたものの、わずか2週間で再収容された。
今年2月下旬、品川で起きたクラスターでコロナを発症したジャヤンタさん。2カ月で体重が13キロ減少した彼は、その後も体調不良が続き、7月には2度目のコロナを発症した。
8月以降、脚の痺れから歩行が難しくなり、車椅子を利用するようになり、食事を摂っても吐いてしまうため、弁護士や支援者との面会にも、バケツを持参するようになっている。
「一緒の部屋には、熱がある、咳をしている、血圧が上がっているなど、コロナの症状が見られる人がいました。私も熱や喉の痛みがあり、普通の食事を出されても食べられないので、具合が悪いからおかゆにしてもらいたいと頼みましたが、そのときに出されたのはお湯をかけただけで煮てもいない、塩も振っていないごはんでした」
ジャヤンタさんが再収容されたと聞いた石川議員は、11月29日に品川に足を運んでいる。
「車椅子で現れたジャヤンタさんは面会中も、時折バケツに嘔吐していて、再収容によって体調が悪化していることは明らかでした。外にいる間は温野菜やフルーツ、うどんなど、胃に負担の少ない食事をし、リハビリもおこない、少しずつ回復していたけれど、この日の昼食は冷めたハンバーグとあじフライだったそうです。
今の彼はこういうものは食べられないし、食べても吐いてしまう。まずは体力を回復させるべき人を食べられない状態のまま収容し続けている。入管がやっていることは拷問に近いと思います」
https://news.yahoo.co.jp/byline/shivarei/20211129-00270226
今回、筆者の取材に応じたのは、スリランカ人男性のジャヤンタ・マルダケ・スガット・クマラさん(47歳)。2000年に来日し、日本で結婚したが、その後、離婚したために在留資格を失ってしまった。また、母国スリランカ内戦では現在の政府と応戦していた勢力に属していたため、帰国すれば迫害される恐れがあるとして、難民認定申請を行ったが、昨年3月に東京入管の収容施設に収容されてしまった。
https://news.yahoo.co.jp/byline/kanaedoi/20201013-00202884
1983年から26年間続いたスリランカ内戦は2009年、政府軍が「タミルイーラムの解放の虎(LTTE)」を武力制圧させて終結しました。その際、スリランカ国軍は反政府勢力LTTEの戦闘員だとして人びとを次々に拘束して連れ去りました。そうして連れ去られた夫や兄、弟、息子は音信不通となり、多くは二度と戻ってきていません。当時の大統領は、マヒンダ・ラジャパクサ大統領。そしてその弟のゴタバヤ・ラジャパクサ氏が国防次官。この兄弟が率いていた当時のスリランカ政府は、国軍が関与した失踪を認めず、失踪者の行方や消息を明らかにすることも拒んだのです。失踪者家族は、恐怖と暗闇の中にいました。
実は2020年現在、希望があった時代は過去のものになってしまいました。失踪者家族はまた絶望の淵に追い込まれているのです。2019年11月、弟のゴタバヤ・ラジャパクサ氏が大統領に選出され、兄マヒンダ氏を首相に指名し、再びラジャパクサ兄弟政権が誕生したことがきっかけでした。
第二次ラジャパクサ政権は、前シリセナ政権の国連人権理事会での約束をさっそく破棄。さらに戦争犯罪の疑いがかかる将校たちを出世させ、内戦の中でも特に悲惨な残虐事に対して行われていた国内調査を中断したり、スリランカで有罪を宣告された数少ない国軍兵士の1人(子どもを含む民間人8人を殺害した罪)に恩赦を与えたりしました。
それだけではありません。社会は再び分断されつつあります。現ラジャパクサ政権は、人口の4分の1を占めるタミル人とムスリムへの敵意をむき出しにしています。そして、ジャーナリストや人権活動家、弁護士はもちろん、私が会った失踪者家族さえもが、監視や脅迫を受けるようになりました。第一次ラジャパクサ政権に蔓延していた恐怖の空気が戻ってきてしまったのです。
内戦終盤から内戦終結後も、第一次ラジャパクサ政権は全土で強権的弾圧を続けました。首都コロンボでも、政権に批判的だった著名なジャーナリストたちが路上で暗殺されたり、拉致されて今も行方不明のままになっている事件が起きています。スリランカではかつては表現や結社、集会の自由がおおむね認められていました。しかし第一次ラジャパクサ政権下では、恐怖が社会を支配していました。
ラジャパクサ兄弟が2019年末に政権復帰を果たした結果、スリランカの私の友人たちは、弾圧を避けるために、あらゆることをしなければならなかった時代に戻ってしまったといいます。
パンジシール州に副大統領(暫定大統領を宣言)が逃げ込んで政府軍を糾合している
なお、タリバンはとりあえず静観する構えという海外記事の翻訳ツイートも見かけた
自分の想像では、暫定大統領が声明を出したのはタリバンとアフガン支配の正当性を争って
虐殺の危険にさらされている元政府軍や少数民族の人々に駆け込み寺の存在を知らせたつもりなのではないか
勢力がなければ全周を囲むタリバンに揉み潰されるのでそれも生き残るための計算と表裏一体である
北部同盟もアメリカ他各国の支援がなければ政権をとれなかったわけで独力で主権を奪い返せると考えるほど楽観的ではあるまい
タリバンが何かをやらかしたときにカブールから追われる切っ掛けになる喉元に突きつけられた匕首というか
銀英伝ラストのイゼルローン要塞みたいな存在になって、タリバンの暴走に歯止めを掛けられれば理想的だろう
避難民は最初からカブールでなくパンジシール渓谷を目指すべきだったのかな
割とカブールから距離が近いらしいので向かっている人はいるだろう
補給のあてもないのに人が集まりすぎると飢餓の恐怖も出てくるが・・・・・・
タリバンとしては自ら手を汚さずパンジシールに難民を追い立てて
暫定大統領の責任で人々を餓死させるのがベストと判断するかもしれない
それ1つとっても恐ろしいことだ(アフガン人口3804万人なので一気に失業率を0.8%以上上げる(追記:労働人口が2021年で10,657,912人らしい。ざっくり3%UP?))
実際には30万人いなかったとしても、相当な人数はいただろうに、大半が無職になる
タリバンも全員を吸収しきれるとは思えない
仮に吸収したら、彼らの給料は麻薬から出ることになるので、それも世界にとっては脅威である(現実に麻薬での支払いを目指したら、たぶん作りすぎて麻薬が値崩れする)
(2020年で全体の失業率11.7%の数字が出てきた。ちなみにイランが10.82%)
女性の地位向上において、世界大戦で女性が働きに出た影響が大きかったことを考えれば
アフガンの女性の地位を向上させるにも戦場は無理でも仕事に出てもらうことが近道なのだが
若年男性すら職にありつけていない状況では非常に厳しいだろう
そして女性の地位が向上しないと出生率が下がらず若年人口が増え続ける地獄のループ
ここで中国がアフガンの雇用対策に有効な手立てを打てば(一帯一路関係の土木事業など)
追記:自分は2行目で「実際には30万人いなかったとしても、相当な人数はいただろうに」と断っているのだが……流石に半数の15万人はいた、よね?まさか実質は特殊部隊の1万人だけ?(https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-58219196)タリバン側は6万で支援部隊加えれば20万(かも)とかの数字もみた(https://www.jiji.com/jc/article?k=2021081600710&g=int)。ただ給料未払いはキツイですね。
croissant2003 たぶんここ数日での聞きかじりの知識で書いてるんだろうなぁ。
もう少し前から追っているつもりだが否定はできない。すまんな。ちなみにアフガンとソ連が戦争していた頃まで遡ると物心ついていなかった。
追記2:アフガン政府軍5万人ってマ?さすがにその人数でガニ大統領が抗戦を選択するとは想像できなかった。実際に動いた人数で給料を受け取った人数とはズレがあるとかかもしれんが、その給料も未払いだったりするんじゃ何も言えんなぁ。
Wafer 内乱終結後の敗北側兵士の復員方法は古今ろくなものがなくて、南宋の残兵が元寇の主力に再構成されたり、朝鮮戦争に参戦した中国人民軍の兵士は元国民党軍だったとかさんざんですな
イラン・イラク戦争でイランが革命前からの軍隊をすり潰したり、その戦争で軍隊が膨れ上がったイラクがクウェート侵攻に走ったり、もっとアフガンに近い時代・地域の例もありますね。
公共事業の雇用もほしいけど、そもそも国民全体の基礎教育が要るっぽいなとここ数日での聞きかじりの知識で思いました。
追記3:アフガン政府軍の実数は、最盛期に20万人、最近は7.5万人~9万人だったという記事をみつけた。https://grandfleet.info/us-related/where-did-the-300000-afghan-troops-claimed-by-president-biden-disappear/
アフガン政府軍に比べると南ベトナムの共和国軍は実態があったしフエ陥落までは健闘したっぽい。サイゴン陥落に例えるのは南ベトナムに失礼?
タリバンは少なくとも、政府軍やアメリカに追い詰められ様とも、異国に銃を向けて追い払ったわけだよな
これは普通の反応なわけだよ。お前も自分の家に他人が入り込んで勝手に掃除し始めたら追い払うだろ
だけど空港に逃げたアフガン人は違ったわけだよ。タリバンがやってきたことをアフガン人は出来なかった。「左派」のアフガニスタンは彼らにとって家ではなく、
居候して蜜を吸うだけの国だったわけだ。彼らは銃を持って戦うんじゃなくて、空港に行って故郷を捨てに行ったんだよね。
「世界はアフガニスタンを見捨てた」なんて言ってた市民が居たけど、彼らにとって自国は自分で守るものじゃなく、他国に守ってもらうものだったんだね。
そりゃ負けるしアメリカも見捨てるわ
たぶん皮肉で同じこと書いてるのいくつか見たけど、私は本気でこう考えてる。
結局のところ負けたら死ぬか死んだ方がマシな人生になると確信してる人間しか命を掛けて戦わないから。アフガニスタンでその立場にいるのは女性だよね。
政府軍の軍人がさっさとタリバンに降参した理由は家父長制の部族社会に逆戻りしても男である彼らは大して困らないから。
むしろタリバンが勝った方が占領地の女性を戦利品としてもらえたり、就労を禁止されて困窮した女性を第二、第三、第四婦人にできるメリットすらある。
そんな地獄に戻りたくないと願う女性を訓練して武器を与えれば必ず死ぬまで戦う。異教徒の侵略者(米軍)に訓練された女性兵士なんてタリバンの教義からすれば絶対に許されないから降参しても死刑だろうし。
腰抜け男しかいない中、女性が自分と家族と仲間を守るために今も戦い続けている。軍司令官や大統領まで逃げ出してもカブールの市街で最後の一人が死ぬまでゲリラ戦を続けると悲痛な叫びを上げている。
捕縛された女性兵士がタリバンにレイプされて公開処刑されるあり様がスマホ動画で世界に流れる。
これは世論が盛り上がる。
世界は、アメリカはなぜこのような悪を見過ごしているのだ? いったい男はどこで何をしているんだ?
徒労に終わった二十年間の戦争にウンザリしているアメリカ市民でさえ再派兵を求めるようになるかもしれない。
アフガニスタン政府には一応女性閣僚もいるみたいだから、亡命政府の暫定大統領にするのも良さそう。
大統領は女性、軍最高司令官もゲリラを率いる女性、政府高官のポストはタリバンに下った男どもに代わって亡命政府に参加した女性たちで占められる。
アフガニスタンのジェンダーギャップ指数は日本などぶち抜いて一気にトップ集団へ。現地ではイスラム過激派が女性にヴェールを被せて家に押し込める神権政治なのだが……
見てみたいなあ、女の戦争。
予言しておくと、こういう筋書きのハリウッド映画はきっと作られる。
さすがに米軍が女性を救う歴史改変はアメリカ人も恥ずかしいと感じるだろうから、アメコミ映画とかになるだろう。
もちろん敵もイスラム過激派ではない。
特に意味無く女性を虐めるキチガイ白人男が集まった架空の国際ミソジニスト過激派『インセル・プライド』に支配された小国で抵抗を続ける女性主体のレジスタンス。
彼女たちが追い詰められたその時、アイアンマンとキャップが降臨し非モテ男どもを蹴散らす!
そういうものを私は観たい。
学生のころアフガニスタン専門の日本人研究者やジャーナリスト、現地人の人権活動家や留学生の講演会に何度か行った。
「タリバンというのはイスラム原理主義で、支配地域で異教徒や言論の自由を認めずに公開処刑するわ女性の教育を禁止してブルカを強制するわのろくでなし連中であります」
という説明を、昔の美しい街並みや綺麗な花畑やタリバン支配後の同じ場所の廃墟のスライドと一緒に聞かされて(実は街が破壊されたのはソ連侵攻で、花畑が荒れ地になったのは大旱魃のせいと後で知ったが)、
「へぇ、酷い連中がアフガニスタンを支配してたんだな。アメリカの援助で民主的で平和な国になるといいな」と初心な自分は素直に思ったのだった。
だけど、ちょっと深くあの国の歴史を勉強するとそんな単純な善悪の図式じゃないことにはすぐ気づいた。
タリバンが出てくる前から、王党派やソ連の援助を受けた共産勢力や軍閥が内戦を繰り返していて、それぞれのグループの内輪でもさらに小さな部族単位での小競り合いが絶えないカオスがアフガニスタンだった。
そんな中でイスラム主義による世直しを掲げた学生や知識層の運動としてタリバンは生まれた。
自己利益しか考えない腐敗した各軍閥に比べて、イスラム法に基づくある程度は公平でクリーンな統治を行うタリバンは草の根の支持も集めてアフガニスタンの支配勢力になった。
アメリカはタリバン政権を打倒して形式としては民主的な選挙で選ばれた政府を建てたが、中身は昔の腐敗した軍閥のままで、地域ごと、官庁のセクションごとに部族が利益誘導をする、全くバラバラの政府だった。
侵攻から20年かけても日本の明治維新のような国民国家の建設ができなかった。
「タリバンのような暴力的な組織に対して同じように暴力的に反撃するなどできません」
この他人事感!
そこは現実には無力だとしても「私は女性ですが武器を取って最後まで祖国を守ります!」と言うべきだろうと。
こんなことになる前に彼女は、「女子供の人権が守られる世俗国家を防衛するために戦って! 私たちを守って!」と夫や兄弟や息子たちの尻を全力で叩くべきだった。
世俗国家の恩恵を一番受けるであろう都市部の知識階級の女性という立場ですら国民意識が無い。政府軍の兵士がすぐに逃げ出し、司令官があっさり降伏して無血開城したのも当然というもの。
動画の女性のこの後の運命が、西側への協力者としての処刑か、戦利品としてタリバン兵士の第二婦人として分配されるのか、かなり幸運なケースとしてブルカを被り家族の男たちに庇護されて静かに暮らすのかは分からない。
なんにせよ、もうすぐタリバンが正統な政府となるのだから、アフガン人は民主主義と世俗主義よりも、イスラム法と部族の慣習への回帰を願って戦って勝利し、彼らの国を取り戻したということだ。
笑うしかない。
政府軍がすべての州都を守ろうとして兵力を分散させすぎて各個撃破を許したと想像した
だが短期間で次々とタリバンが州都を落としていったことを考えると
タリバン側も兵力を分散させていて、他の州都を落とした兵力を大きく移動させることなく
それだけ兵力に余裕があって全体攻勢に出るメリットがあると判断したらしい
攻撃される政府軍側としては、防御を集中する場所がわからなくなるし
せっかくの航空優勢も爆撃を集中する場所がうまく判断できなかったのではないか
タリバンが彼我の戦力を読み切っていたのも凄いけど
どうも政府軍の情報が漏洩していたみたいだと下記記事を読んで知った
https://note.com/takeuchi_kazuto/n/n4ad464899888
あとはカブール防衛戦だが、ベルリンみたいに空輸で兵站を支えられないなら、
戦線が持ちこたえても一種の攻城戦でいつかは落ちるんじゃないかな
https://anond.hatelabo.jp/20210708183653が字数制限に達したので書ききれなかった分はここに付け足します
ISILに関する記述もありますが、テロを賛美する意図は一切ありません。あくまで事実として記載しただけです。無論、ISILが惨敗した戦闘もあります。決してISILを格好いいと思わないでください。
・ペルシス門の戦い
B.C330 アレクサンドロス大王の東方遠征 ペルシア軍700vs★マケドニア軍1万7000
マケドニア軍の大軍に対し、ペルシス門を少数の守備隊が1か月守り抜いた。マケドニア軍は現地の住民から得た情報を元に挟撃することでようやく勝利を収めた。
・マリツァの戦い
1371年 オスマン・セルビア戦争 ★オスマン軍800vsセルビア軍2万~7万
セルビア軍は大軍を率いて、オスマン帝国の首都エディルネへの奇襲を試みた。しかし、オスマン軍の夜襲に遭い敗退した。
・ペンコの戦い
1550年 アラウコ戦争 ★スペイン・ピウンチェ連合軍500vsマプーチェ族1万5000~2万
スペイン軍はペンコに砦を築いた。マプーチェ族は大軍で包囲するが、攻城兵器もなく砦を突破できなかったため、兵を引いたところをスペイン軍に追撃される。マプーチェ族は4000人が戦死し、捕らえられた200人は鼻と耳をそがれた。
・チャカンの戦い
ムガル軍がマラータ軍を包囲。1ヶ月の攻防戦の末にマラータ軍は包囲した。マラター軍の死傷は300人、ムガル軍の死傷者は3000~5000であった。
・スラトの戦い
1664年 ムガル帝国1000vs★マラータ王国8000~1万
スラト市をマラータ軍が襲撃、3日間の攻撃の末、同市は6日間略奪の対象となった。ムガル軍の死傷者は28人、マラータ軍の死傷者820人であった。
・サラタの戦い
1699~1700年 マラター王国300vs★ムガル帝国1万
サラタ市をムガル軍が包囲、数ヶ月にも及ぶ包囲戦の末に陥落させ、守備隊も玉砕したが、ムガル軍は3500人が死傷した。
・トルナの戦い
1704年 マラータ王国700~800vs★ムガル帝国1万5000
ムガル軍がマラータ軍を包囲、トルナ市を陥落させた。マラータ軍の死傷者は170~180、ムガルの死傷者は300であった。
・コーレーガオンの戦い
1818年 第三次マラータ戦争 ★東インド会社750vsマラータ王国2万8000
マラータ軍とイギリス軍が交戦、丸一日の激戦の末にマラータ軍が撤退した。イギリス軍の死傷者175人に対し、マラータ軍の死傷者は500~600人であった。
1838年 グレート・トレック ★フォールトレッカーズ664(200人が非戦闘員)vsズールー軍1万5000~3万
フォールトレッカーズ(英領ケープ植民地から南ア北部へのブーア人移民)がズールー族の大軍と交戦し撃退した。ズールー族3000人以上の戦死に対し、ブーア人はわずか3人が負傷したのみであった。
・ヴェコプの戦い
1836年 グレート・トレック ★フォールトレッカーズ35vsマタベレ軍5000
マタベレ軍がフォールトレッカーズを襲撃するも、撃退された。マタベレ184名の戦死に対し、ブーア人は2名が戦死した。マタベレは戦闘には5万500頭の家畜を強奪することに成功した。
・チンハットの戦い
1857年 インド大反乱 東インド会社700vs★反乱軍7000
イギリス軍が反乱軍と鉢合わせし、敗退するが、全滅は免れた。イギリス軍の死傷者は200人ほどで、反乱軍の死傷者は589名であった。
・トゥエンクアン包囲戦
1884~1885年 清仏戦争 ★フランス軍630vs清・阮朝1万2000
フランス軍が清軍に包囲されるが、4ヶ月持ちこたえた末に撃退した。フランス軍の死傷者274名に対し、清軍の死傷者は3000名以上であった。
・ドガリの戦い
1887年 エリトリア戦争 イタリア軍550vs★エチオピア軍1万5000
エチオピア軍の大軍がイタリア軍の大隊を襲撃。イタリア軍はほぼ全滅したが、エチオピア軍も1071名が戦死した。
・サポティラルの戦い
1927年 サンディーノ戦争(アメリカのニカラグア占領)・バナナ戦争 アメリカ軍・ニカラグア政府軍20vs★サンディニスタ400人以上
アメリカ軍・ニカラグア政府軍は撃墜された米軍パイロット2名の救出に20名派遣する。救出隊は途中でゲリラの待ち伏せに遭い、奮戦するも撤退し、作戦は失敗した。救出隊は4人が死亡したが、ゲリラは40~60名が死亡し、1人捕虜となった。
・フォルネブの戦い
1940年 ノルウェーの戦い 第二次世界大戦 ノルウェー軍7vs★ドイツ軍70~80
ノルウェー航空部隊がドイツ空軍と交戦。ノルウェー軍は戦闘機1機、ドイツ軍は4機撃墜されたが、ノルウェー軍の燃料が尽きたため、戦闘はドイツ軍の勝利に終わった。
1942年 北アフリカ戦線 第二次世界大戦 自由フランス軍3703vs★ドイツ・イタリア軍4万5000
ロンメル将軍指揮下の枢軸軍が自由フランス軍の籠城する砦を包囲、16日間の激戦を経て、砦を占領した。フランス軍の死傷者369名に対し、枢軸軍の死傷者は3300名に及んだ。この戦いはイギリス第8軍の撤退と再建のための時間を稼ぎ、エル・アライメンの戦いでの連合軍の勝利につながった。チャーチル、ド・ゴールは勿論のこと、ヒトラーですらフランス兵の勇気を称えた。
・ヴェロニク作戦
1955年 アルジェリア戦争 FLN359vsフランス軍5000+航空支援
フランス軍はFLNの活動を鎮圧するため爆撃を伴った大規模な掃討作戦を実施する。FLNはゲリラ戦で1か月以上抵抗した後に撤退した。ゲリラ側の死者は9名で、鎮圧の失敗はFLNの影響力を大いに高め、アルジェリア独立につながった。
・ヴェラノ作戦
1958年 キューバ革命 ★7月26日運動300vsキューバ軍1万2000
バティスタ政権は反乱軍鎮圧のために軍を差し向ける。しかし、カストロ、チェ・ゲバラ指揮下の反乱軍に返り討ちに遭った。この戦いで反乱軍の指揮は大いに上がり、バティスタ打倒に繋がった。
・サンタクララの戦い
1958~1959年 キューバ革命 ★7月26日運動340vsキューバ軍3900
反乱軍はヒジャ・クララ州の首都サンタクララを攻撃、4日で占領した。その直後バティスタはドミニカへ亡命し、キューバ革命が成功した。
・ドゥヴロブニク包囲戦
1991年から1992年 クロアチア紛争 ★クロアチア軍480~1000vsユーゴスラヴィア軍7000
ユーゴスラヴィア軍はクロアチア軍を7ヶ月に渡って包囲するが、陥落できず撤退した。この戦いで1万5000人以上の難民が出た。
・サパティスタの反乱
1994年 サパティスタ民族解放軍3000vsメキシコ軍3万~4万
メキシコ最貧州チアパスで先住民たちが北米自由貿易協定NAFTAによる貿易関税の撤廃に反対、一斉蜂起した。政府はゲリラを包囲し、徹底的な鎮圧を試みるが、反乱が世間の注目を浴びると、一転、停戦を呼び掛けた。両者の間で先住民の権利と文化を尊重するサンアドレアス協定が結ばれた。
・ファルージャ陥落
ファルージャ市をISILが襲撃。1週間足らずでイラク軍を撃退し、同市を占領した。
・モスル陥落
2014年 ★ISIL800~1500vsイラク軍1万2000
ISILがモスル市を襲撃。1週間足らずで陥落させた。イラク軍は6万人で防衛に当たったと主張しているが、実際にはその2割ほどの兵力しか無かったと推定される。
・バイジ奪還
2014~2015年 ISIL1500以上vs★多国籍軍1万5000+米英加の航空支援
イラク軍は1年弱にも及ぶ激戦の末にバイジ市をISILから奪還した。ISILは2000人以上が戦死したが、イラク軍も2500人以上が死傷した。
・ラマディ陥落
【定期post】①慰安婦像の作者の主題は戦時性暴力の否定で日本を侮辱するヘイトではありません
②大浦作品は自己の中に昭和天皇が内面化されていることを表現したところ右翼の抗議で作品が燃やされたことをきっかけとする作品で日本侮辱の要素はないです
とりあえず①についてのみ。
それを自国内ならともかく、普遍的な戦時性暴力がテーマだと偽装して、世界各地に建てまくっている。
だが、もし普遍的な戦時性暴力に反対する像なら、なぜそこに日本の蛮行に加え、各国の戦時性犯罪が列挙されてないの?
日本以外の国は、韓国にせよドイツにせよ、ビタイチ自国の戦時性暴力を認めていないよね?
NJやNYの碑文に至っては「日本帝国政府軍により誘拐された」で始まるなど、明らかな虚偽を含むものがある。
そんなものを韓国人が世界中に建てまくることに日本政府が抗議することと、日本政府が慰安婦制度の構築者であった責任を認め、元慰安婦に心からのお詫びと反省を示すことには、何の矛盾もない。
・韓国が被害者である以上「日本を侮辱するヘイト」とは言えない。
・しかし日本の慰安婦問題だけをピンポイントで指摘し、他国の戦時性犯罪については無視する極めて民族主義的性格の強いものであり、普遍的な戦時性暴力に反対するための像というには程遠い。
汚い連中は、何とかして「日本政府は慰安婦制度そのものを否定している」とミスリードしようとするが、それネトウヨ並みの雑な主張だよ。
慰安婦の真実を追い求めて https://www.newyorker.com/culture/annals-of-inquiry/seeking-the-true-story-of-the-comfort-women-j-mark-ramseyer-japanese-translation
これなー
AFPなんか
シリアでは現在、AFPは首都ダマスカス(Damascus)に支局を持つ唯一の国際通信社だ。シリア人のジャーナリストたちが常駐しており、隣国レバノンの首都ベイルート(Beirut)から政府軍が支配している地域に記者を送ることもある。反体制勢力の戦況についても、地元の記者から情報を得たり写真や動画を送ってもらったりしている。
ただ昨年の8月以来、私たちは、反体制派が支配している地域に記者を送ることはやめた。危険すぎるためだ。外国のジャーナリストがそうした無法地帯に飛び込めば、誘拐や殺害されるリスクが高い。AFPに定期的に動画などを提供していた米国人ジャーナリストのジェームズ・フォーリー(James Foley)氏が8月に、ISに殺害されたような悲劇が起こり得るのだ。反体制派が支配する地域では、外国人ジャーナリストはもはや地元住民の苦しみを外部に伝える目撃者としては歓迎されておらず、攻撃のターゲット、あるいは身代金のための「商品」として見られている。
そのため、AFPはフリーのジャーナリストが、私たちが足を踏み入れない地域で取材してきた素材を受けつけないことにした。これは明確な決定であり、周知するためにもここで念を押しておきたい。フリーの記者がシリアに行って取材してきた情報も写真も映像も、私たちは使わない。
フリーランスはシリア内戦で大きな犠牲を払ってきた。大きすぎる犠牲だ。そのようなリスクを背負おうとする彼らの背中を、私たちは押したくはない。
こうやってきちんとしている