はてなキーワード: ヴィジョンとは
前回の地方統一選挙以降、当選した議員のツイッターやブログを定期的にみている。
若手の議員は、SNSを利用して市政を積極的に伝えていくと言っていたにもかかわらず、週に2,3回呟くだけで、FBの更新もほとんどしていない。
たまに写真を上げるのだが、地区の運動会や公民会での挨拶の写真ばかり。
そんな中、50代の市議会議員(当選1回)のツイッターが地味ながら面白い。
ちゃんとその日の活動を報告し、事実と評価をしっかり分けて伝えようとする努力が見える。
毎朝地元の写真を上げ、スポーツの結果に一喜一憂し、健康に配慮しつつも時に羽目を外して大酒飲んでは二日酔い。
そのおっさんは、10年先の市のヴィジョンみたいな未来のことはあまり考えていないように見える。
どこどこの道路が劣化して危険だ、イノシシが酷い、保育園のための駐車場が欲しいといった感じで、今市民が困っていることを地道に解決しようとしている。
先の若手の議員は、若者の政治参加や人口減少対策といったデカい仕事に熱心である。
いや、まぁしっかりやってくれているし、若手の議員がダメってわけじゃないんだけどね。
こういう人の本心は
彼女ほしい(でも、定期的に会うのめんどくさい、連絡とるのもめんどくさい)
彼女ほしい(でも、ブスは嫌)
このように漠然と彼女を欲しがっているだけで、具体的なヴィジョンがない上に否定的なのである
可能な限り具体的に、彼女がいる日常を想像してみるといいだろう
しかし、気をつけて欲しいのは、特定の異性を対象に妄想すること
彼女のいない童貞野郎は妄想が膨らみ過ぎて、突然行動に移しかねない
気を付けろ
変にロマンチックな恋愛は想像してはいけない。それをしていいのは乙女だけだ
自分が日曜暇じゃなかったら、想像の異性のために暇を作る(ここで作れないやつは、付き合ったとしても暇をつくれない)
このようにイメージトレーニングをこなし、このイメージに沿ってくれそうな女の子を探すのだ
間違っても、気に入った子を一方的に好きになって、毎晩その子をオカズにオナニーしたらだめだぞ
その子に会うたびに、なんとも言えない気恥ずかしさを感じて、まともに話せなくなる
退職から一年が経過し、新しい職場(WEBベンチャー企業)での仕事に慣れたこと、
また、富士通の同期入社の友人から頻繁に転職の相談を受けるようになったこともあり、本エントリを執筆する。
はじめに、筆者の退職理由を簡単に述べると、富士通という会社に未来を感じなかったことと、やりたい仕事はできないだろうと判断したためである。
参考までに、筆者は公共機関向けのシステム開発部門に所属していた。
担当していた業務は様々で、小規模なシステム開発や、子会社・下請企業の管理であった。
富士通には、人材キャリアフレームワークという社員評価制度があり、現場には、入社何年目はこのレベルの仕事、といった暗黙の了解がある。
本人の能力や意欲とは全く無関係に、入社後の経過年数で、仕事の裁量の幅が大きく制限される。
このことはいわば、学習指導要領ならぬ、業務指導要領があるようなものだ。
このような枠組みや暗黙の了解が存在すること自体が問題なのではなく、その枠組から逸脱した人材を想定しない・評価しないことが問題なのである。
筆者がお世話になった優秀な先輩方は、この業務指導要領の要件を満たして手に余った人、
いわば天井にぶつかった人から先に、より大きな仕事がしたいという理由で辞めていった。
筆者もその一人である。
既存産業の大きな成長が望めなく、社員個々の多様性が重要視される昨今の経済情勢において、
高度成長期における横並び思想をもとの作られたやり方が未だに社内を謳歌しているのは時代錯誤というほかない。
富士通への提言として、これからの時代は、年齢も在籍年数も関係ない人材評価制度を作っていくべきである。
そして重要なのは、会社の既存事業でいかに利益を上げたかについての評価ウェイトを下げ、
いかに新しい発想で新しい事業を提案したか・実現したかという評価項目を設立するべきである。
なお、富士通には社内ベンチャー制度があるが、これはうまくいかない可能性が高い。
なぜなら、社内ベンチャーを承認するのは旧式の人材の典型例である高齢な経営層であるからだ。
いままで数十の社内ベンチャーの審査結果を見てきたが、彼ら経営層に事業の将来性を判断する能力はないと痛感した。
また、他の理由としては、富士通の既存事業と衝突すると社内ベンチャーが潰されるということがある。
将来性のない既存事業を残して、将来を託すべき社内ベンチャーを潰すという企業風土なのだ。
富士通という会社には多数の既得権益集団がいる。そして、社内のルールは彼らが決して不利にならないように作られている。
なぜなら、ルールを作る権限は、先頭を走る集団、1980年代に大成功を収めた既得権益層がガッチリ握っているからだ。
いわば、前を走る人を抜かしてはいけないレースのようなものだ。
このような出来レースで若手社員のモチベーションが続くはずはないことは明らかだ。
筆者は、決して年功序列主義を批判したいのではない。
既得権益層が年功序列を悪用して、部下の手柄を自分の手柄にし、部下の失敗を部下に押し付けている実態に対する批判である。
ノブレスオブリージュ、権利を有するものには義務がある、という思想がある。
富士通の既得権益集団には会社の技術力や社員を率先することで、企業としての地位を向上させていく義務がある。
実態は、社内の後進に抜かされることを恐れるあまり、後進の他社に抜かされている。
ちなみに、この既得権益集団に有利なルールが生み出した現状については、
同じく富士通OBである城繁幸氏の著書「若者はなぜ3年で辞めるのか?」(光文社新書)が詳しい。
経営学において「ヴィジョナリーカンパニー」という名著がある。
この本によると、会社が永続的に成長・発展していくためには企業理念(ビジョン)を社員ひとりひとりが持つことが必要不可欠であると指摘している。
富士通の企業理念は、変革に挑戦し続ける姿勢や、よりよいICT社会づくりに貢献することを掲げている。
しかし、富士通という会社の現状として、このヴィジョンを失っている社員、とくに管理職がとても多い。
30代を過ぎて会社に定住することを決めた社員に変革に挑戦しようという熱意ある人物はひとりもいなかった、
そういう人々にとってICTで社会づくりなどどうでもいいのだ。
ただ顧客の要求を聞いて、それを子会社や下請けに作らせて予算や利益を達成することにしか興味がない管理職が大半であった。
元GEのCEOであるジャック・ウェルチ氏は、たとえ成果を出していようと企業ビジョンを共有しないものはクビにしろと自著で語っている。
このポリシーを導入したら、富士通の管理職の80%はクビになるであろう。そのくらいに富士通の管理職は夢や熱意のない人物ばかりであった。
そのような人材が将来的に会社を破壊する、というウェルチ氏の指摘の正当性を、富士通という会社の惨状が示しているのは皮肉という他ない。
富士通への提言として、ウェルチ氏のやり方を実行すればよいのだ。
成果によって管理職のクビを決めるのではなく、ヴィジョンを共有できているかでクビを決めるのだ。
このやり方を実行すると既得権益を握って離さない経営層や管理職が一掃される。
既得権益にしがみつくだけの人物こそ、ヴィジョンを持たない人物である割合がとても多かったことを付け加えておく。
経営コンサルタントの大前研一氏は、日本の生産性がアメリカの半分しかなく、もはや発展途上国にすら負けていると指摘している。
その原因について、日本では業務標準化が全く進んでいないためであると述べている。
自分の住む自治体と異なる自治体のマイナンバーのITシステムを比較してみてほしい。
ここで、自治体が異なればITシステムも異なることに気づくはずである。
はたして自治体ごとに個別のマイナンバーシステムを作る必要があるのだろうか?
答えはもちろんノーである。全国どこでも一律の業務であるべきであり、同じITシステムを導入するべきである。
自治体ごとに業務フローが異なるために、別のITシステムを使用した時に業務がこなせないという事態が発生する。
そのため各自治体が個別にITシステムをITベンダーに発注することになる。
そこでITベンダーは各自治体ごとに個別のITシステムを作ることになる。
ITベンダー側からすると一度作ったことがあるものをカスタマイズして、業務の順番を入れ替えたり、扱うデータを多少変更するだけで済む。
それなのに膨大な金額を請求するわけだ、ITベンダーとしてはボロ儲けである。
(なお、主要ITベンダー決算書を見ていただくとわかるが、ITベンダーの利益率が高いわけではない)
特に自治体のITシステムは国民の税金で作られているわけである。
各自治体は、このような現状を放置していて、国民に申し訳ないと思わないのであろうか?
このことは、決してITベンダーにのみ責任があるわけではない。
総務省が陣頭指揮をとって各自治体の業務標準化・統一化を進めなくてはいけないのに、それが全くなされていないのは監督官庁としての責任放棄である。
このように業務標準化が全く進んでいない現状は自治体に限らず、民間企業においても同様である。
会計パッケージにおいて、世界のデファクトスタンダードになりつつあるSAP導入に失敗する事例を数多く見てきた。
失敗する理由は、個々の企業の業務に合わせてSAPをカスタマイズしており、そのカスタマイズでは対応できない業務フローが存在するからである。
問題なのは、そのような業務フローは、決して必然的な業務ではなく、過去の慣習から存在しているだけであることがとても多い。
ここにおいて、ITシステムが業務に合わせるのではなく、ITシステムに合わせて業務の方を変えていかなくてはいけないのだ。
このことは、サービス・流通業の顧客からSAPのカスタマイズで無理難題があがってくることが特に多いことと無関係ではないであろう。
富士通は、既存顧客の業務標準化およびデファクト・スタンダードとなるITシステムの開発の陣頭指揮をとる役割を果たすべきだが、その望みは期待できない。
なぜなら関係が深い企業において、業務が効率化すると大量の社内失業者を出すことになるからだ。
そのような"顧客との良い関係"を崩すようなことはやらない会社である。
日本という国のあるべき姿を長期的に考えた際に必然的なことであるにもかかわらずである。
富士通の企業理念である、よりよい社会づくりに貢献するとは、まさにこの業務標準化を推し進めることなのではないのか。
富士通には外国籍の社員が相当数在籍している。しかし、彼らに求められる日本人への"帰化圧力"がとても強い。
同期入社の中国籍の友人は、対外発表会のために完璧な日本語の発音の練習をさせられていた。
完璧な日本語の発音は日本人に任せるべきで、中国に精通しているというメリットを活かせる部署に配置転換するべきである。
なお、残った外国籍社員をみると、小学生から日本にいるなど、生まれたのが海外というだけのほぼ日本人だったりする。
外国籍社員の離職率が高いことに対して、本部長が提示した対策が、
長く働きたい会社とはどのような会社か、というテーマで外国籍社員を集めランチタイムにディスカッションさせるというものだった。
この席で「無能な人が本部長にならない会社で長く働きたい」という大喜利でもすればいいのだろうか。
富士通はグローバル企業を表明しているが、このような組織で海外進出などできるはずもない。
なぜならば富士通の利益構造では、海外において利益を上げられないからだ。
このカラクリの解説は大前研一氏が詳解されているので、参考にしていただきたい。※1
6.富士通の良いところ
ここまで富士通に対する批判と改善の提言を述べてきたが、富士通の良いところについても触れておきたい。
まず、個々の社員の仕事力や組織力といった点では、他の大企業と比較して遜色ない。ただし、富士通の主要グループ企業に限るが。
数十を超える大企業および中小企業と仕事をしたが、やはり大企業は個々の社員のレベルが高く、組織力も高い傾向にある。
顧客として他社と仕事を進めていくうえで、大企業の方が優秀な担当者に遭遇することが多く、仕事がとても進みやすかった。
この理由について、大企業の社員育成能力が高いことはもちろん、社内チェック体制が整っているからではないかと思う。
社内で質の悪いものは弾いており、社外に出さないようにしているのだろう。
また、富士通は顧客主義がきちんと徹底されている会社であると感じた。
筆者と富士通の顧客主義が異なっていた点はあるものの、顧客起点に立つという考え方は大事なことである。
柔らかい人が多く、職場の雰囲気はとても良かった。お世話になった直属の上司や先輩方は、優しく丁寧なご指導をいただいたことに感謝している。
7.おわりに
最後に、立花隆氏の著書「東大生はバカになったか」(文春文庫)から名文を引用したい。※2
「いま、この辞めたい気持ちを逃したら、この会社に骨を埋めて、あそこにいる連中と同じになってしまうと思った。」
結局、筆者の退職理由は、偉そうな顔をしているがロクなビジョンも打ち出せない富士通の上層部のような人間になりたくなかったからである。
富士通という会社に必要なのは、優秀な若手の育成などではなく、無用な老害の排除である。
筆者には、富士通という会社は、沈みゆく泥船にしか思えなかった。
※1「産業突然死」の時代の人生論、第44回 談合をなくす二つの妙案-"便利なゼネコン"はいじめの温床
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/a/46/
(この記事のゼネコンをITゼネコン(ITベンダー)に置き換えていただきたい。)
※2 引用にあたり、語尾を改めた。
補足1.城繁幸氏の著書「内側から見た富士通」(光文社)についてのコメント
この本は富士通が先んじて導入した成果主義が、名ばかりで社員のやる気を奪う結果に終わったという実態を告発した本である。
この本について、いくつか述べたい。
まず、本題である、成果主義が経営層のご都合で導入されて、社員のモチベーションを奪うという最悪の結果に終わったという指摘はまさにその通りである。
また、この本が出版されてから10年以上経つが、実態は改善されていないし、する気もないのだろう。
(そもそも経営者のご都合成果主義の導入を失敗だと気づく能力が欠如しているのかも知れない)
管理職の仕事は、部下の成果を評価することではなく、予算内におさまるように部下の評価を調整することであった。
なお、成果主義の導入を評価している現場社員は誰もいなかった。
(成果主義を批判する幹部社員はいなかった。おそらく批判すると何らかのペナルティがあるのではないかと邪推している。)
補足2.転職について
筆者の転職について、考慮したことをいくつか述べる。
まず、次の会社・仕事の選び方および交渉の進め方については、山崎元氏の著書「会社は二年で辞めていい」(幻冬舎新書)を大いに参考にした。
転職は考えていなくとも、今の時代を働く考え方、人材価値のセルフマネジメントなどは一読の価値がある。
富士通という大手を辞めたはいいが、次の会社で苦労している人が多いという意見についてコメントしたい。
筆者に言わせれば、それは転職のツメが甘いのだ。
現職のどこに不満を持っていて、そのうち、どこが改善の余地があり、妥協するべきであり、次の職で改善を期待するのか、についての思慮が浅い。
社会のルールをわかっていないで転職したとしか思えないケースもある。
そもそも富士通という会社に勤めているにもかかわらずITゼネコンの生態系を理解していない社員がとても多い。
下請け企業にいけばもっとやりがいのある仕事ができる、などという浅い考えで転職する人はいる。
ITゼネコンの下請けを生業とする会社の社長は、中間管理職と何一つ違いはない。
上の指示(元請けの発注)を受けて下に伝達するだけであって、自身で新しい事業を生み出す能力のない企業である。
新しい会社は、自社で新しい事業を生み出す能力があり、きちんと利益を上げている。
転職において改善したかったこと、専門的な業務ができること、自分のアイディアを事業に活かすことができること、それらがすべて達成できた。
<当記事は『バットマン vs スーパーマン』の重大なネタバレを含みます>
男「……どうだった?」
女「……いや?」
男「……ん?」
女「だめでしょ……完全にだめでしょ……『バットマン・フォーエバー』よりダメだったでしょ……映画版『DOOM』よりダメでしょ……」
男「客あんま入ってなかったね」
女「むしろ観るべきでしょ。みんな観るべき。オススメしてもいいくらい。汝が敵を知る目的のために観ろと」
男「俺ならオススメされてもいやだね。単につまんないってだけじゃない。おれこれ嫌い。大嫌い」
女「上映中寝てなかった?」
男「寝れないでしょ。だってうるさすぎだし」
女「お酒でも飲んでたらアイゼンバーグの演技もすこしは真に迫って見えたかもね」
男「各所でいじられてるようだけど、バットマンを演じていたベン・アフレックは悪くなかったよね」
女「そうそう。ベンアフは悪くない。髪型もキマってたし、何より雰囲気がいかにもブルース・ウェインって感じだった。
演技よりは脚本がひどかった。
キャラクターが浅薄すぎ。登場人物全員。『マン・オブ・スティール』に出演した面々でさえそう。
初登場のバットマンについては前からファンの注目を浴びることはわかってたはずでしょ。絶対に『ダークナイト』三部作と何が同じで何が違うのか、比較されるのは避けられない。
それが何? あっちにふらふら、こっちにふらふら。『おれは孤独だー地下にひきこもるぜー」とかなんとか基地でやってた次のカットには、パーティで社交してる。スターク社長かっつーのお前は」
男「スタークのプレイボーイキャラはアル中の素でやってるけど、ウェインのは演技だよね。社交用の仮面をかぶってる。だからさ、アフレックが悪いんじゃないんだってば」
女「そう、全然悪くないんだけど」
男「そもそも俺、ザック・スナイダーの作品嫌いなんだよね。『エンジェル・ウォーズ』もクソだったし。何あのメンヘラの妄想。
今回のBvSには彼の監督としての弱点がほぼ全面に駄々漏れてしまっているように思う。
そりゃ、いいところもあるよ。ときどき素晴らしいアクションシーンを取るし、火の表現にはこだわりを感じる。観てて時々はいい映画に思えてくることもあるんだ」
男「そう撮影監督が良い。スーパー・ビーイング同士のバトル描写は新鮮だったし、ダークな雰囲気にもしっくりハマっていた。この暗いトーンというのがくせ者で、ノーランのときはちゃんと機能してたんだよね。
ところがワーナーはノーラン以外にもノーランみたいなトーンで描くことを求めてしまった。ジョークは入れるな。笑えるようにするな、ってね。『グリーン・ランタン』はその最たる犠牲者だよ。
ワーナーは、250億ドルもの予算を任せるにあたってスナイダーならノーラン路線を継承できるだろうと考えた。そして脚本家たちに今後シェア・ユニヴァースを展開できるように膨らみをもたせたホンを書かせようとした。
一方で、出資者たちが求めたのはマーベル/ディズニーみたいなヒーロー映画だったのさ。そして……」
女「ちょっと待って。『アベンジャーズ:AoU』も似たようなもんでしょ。AoUは『やらなきゃいけないこと』が多すぎた。ちょうど、マーベル・シネマティック・ユニバースが次のフェイズに移行するための大事な試金石だったから、AoUはむりくりなプロットにならざるを得なかった」
男「そうだな、たしかに同じ問題を抱えていた。
けど、AoUはなんとかそれを乗り切ってそれなりの支持を集めただろ。
理由は二つある。
一つ、AoUの監督だったジョス・ウィードンがザック・スナイダーより優れた監督だったってこと。
二つ目、各キャラクターが均等に、特に彼らの感情が均等に仕込まれていたってこと。
なんたって、どのキャラクターも『自分の映画』でキャラを掘り下げてきたんだからね。
ストーリーが多少薄かろうが、誰だってアイアンマンを知ってるし、ソーを知ってるし、ホークアイを、フューリー長官を知っている。
事前に他の積み重ねてきたキャラ造型を"収穫”すれば、『アベンジャーズ』ではキャラの説明に要する時間を節約できる。ところがBvSときたら……」
女「しょうがないところもあるよ。ここ十年のマーベルとDCのシネマティック・ユニヴァースを比べてみてよ。マーベルが順当に年輪を刻んできたのに対して、DCはリブートや路線変更や主役俳優の交代が相次いで、積み重ねなんかほとんど残らなかった。
DCはBvSただ一作品だけでマーベル映画十六年分の歴史においつこうとしているのよ」
男「そうだね、マーベルは長い時間をかけて準備してきた」
女「マーベルには一つの確かなメソッドが確立されている。新キャラが紹介されて、今後どう他のキャラと絡んでくるのか、そういうのが映画全編を通しで観なくてでさえわかっちゃう。セリフやカメオを拾ってるだけでもね。マーベルは観客を巻きこむ術を心得ている。
女「BvSの冒頭はすごくクールだった。
『マン・オブ・スティール』のバトルシーンをウェイン目線の別アングルから再解釈する。これはすごい良いアイディアだったと思う。そこまではほんと良かったんだけど、その後がもう陳腐の極み。
恍惚とした表情で天国に召されるブルース少年を観た瞬間、がっくりきたでしょ」
男「脚本がとにかく浅いし弱い。ファンは批評家の『暗すぎるトーン批判』を批判してたけど……」
女「だって楽しくないんだもん」
男「いやそれは問題じゃなくて」
女「問題でしょ」
男「いや『バットマン・ビギンズ』も楽しくはなかったよ」
女「あれは楽しいものだったたよ。『楽しい』の定義が違うな。『ビギンズ』はいっぱいアクションシーンがあったし、エキサイティングだった。次から次へといろんなことが起きて観ていて飽きないんだ。
でもBvSは『楽し』くない。キャラがお互い見つめ合ってるだけでしょ」
男「うんああまあ確かにそうだな。トロいんだよな全体的に。いらないシーンが多すぎるし、なおにプロットは穴だらけ。ワンダーウーマンが登場してからはアクション映画としてすごかったけれど」
女「それは本当に『すごい』と形容していいものかな。単にその前の部分より『マシ』だったってだけじゃない?
アフリカの村で大量虐殺事件が起きました。それでスーパーマンはみんなを救えるわけじゃないんですってんならまだわかるけど、『おい! スーパーマンが村人を撃ったらしいぞ!」ってのはどういうこと?
スーパーマンが銃で人を撃ったりするわけないだろが!
なに疑ってんのあの世界の人らは。
だいたいフィンチ議員が意味不明すぎるんだよ。なんであんなキレてるの? 彼女はレックス・ルーサーに対してどういう感情を持ってるの? 結局何がやりたくて動いてるの?
マーベル映画のキャラたちはそれぞれの拠って立つところが明確なのに」
男「ストーリーも感情も描写不足。演出もそんなによくない。まあ、結局しかし脚本なんだよな」
男「一番がっかりしたのはメインイベント――つまりタイトル曰くの『バットマン vs スーパーマン』のバトルだ。
バットマンが優勢で――スーパーマンを負かしつつあったんだけど」
男「いいんだよ。いいんだけど。
よし、このままバットマンがスーパーマンの野郎を吊るして処刑だ! ってなったところでさ、いきなりバトルを中断するわけ。
それでバットマンが『マーサって俺のママの名前じゃん! お前、ママを知ってるのか! じゃあ……友達ってことだな!』――仲直り!
……おいおいおい待てよ、と」
女「(爆笑)」
男「××すぞと思ったね。さすがにね。そして始まる例の回想シーン」
女「ほんともうかんべんして欲しいよね。もういいじゃん。もう観たくないよ。だってみんな知ってるでしょ? 『バットマンのクソ両親は殺されました』って。何回それやれば気が済むのって話。バットマンには悪いけど」
男「ドゥームズデイ倒したあとさ、二つの葬式が平行して描かれるじゃん。映画の演出の方向性としては、観客にあたかもスーパーマンがマジで死にましたみたいに誘導してるんだろうけどさ。
観てるほうは『ねーよ』ってハナから白けるよな。
スーパーマンの死で終わるスーパーマン映画がどこの世界にあるっていうんだよ。
いいか、アメコミの世界には絶対生き返らないキャラが三人いる。
そのうち二人はブルース・ウェインのお父さんとお母さん。
残りの一人はスパイダーマンのベンおじさんだ」
女「その三人、ほんとうんざりするくらい死ぬよね」
男「必要な死ではあるんだよ。そのヒーローのオリジンの深い部分に関わる死なんだから。この三人以外の奴らは逆に死んでも生き返りまくる。スーパーマンも当然生き返る。
だいたい『ジャスティス・リーグ』の予告見てるんだから、スーパーマンが死なないことくらいわかるだろ!!!
それなのに十分そこいらもちんたら葬式やって悲しいですね、って何の茶番だ!1!!」
女「『ジャスティス・リーグ』の前準備としてもガタガタだよね。
何あの十五年前のドラマみたいなしょぼいインターネット描写は」
男「おじいちゃんにとっては電子メールはいつも秘密めいてみえるんじゃないんですか」
女「ダイアナ・プリンスがバットマンを出しぬいてハイテク機器を盗みとるじゃん。それでいて、『あら大変。これわたしじゃ解読できないわ』ってなんだそれ女子か。写真をバットマンから送ってもらうために盗みを働くってどんだけ遠回りなのよ。いまどきアマゾネスでも Amaazon.com で買い物できるっつーの」
男「あー」
女「で、さあ、その機密ファイルにアクアマンが出てくるじゃん。沈没船から出てきてトライデントを振りかざしてワーっなるやつ。観てて、ほんとくっだんねーと思った。
あの場面にDC映画のひどさが凝縮してたね。脚本家の怠慢の象徴だよ。マーベルだったらクビ間違いなし。
繰り返しになるけど、マーベルのキャラはどこへ向かって収斂していくのかはっきりしているし、一方でファンが喜ぶ要素をよくリサーチしてる。だから私たちはネットで話題をシェアしたりリツイートしたりいいねしたりするんだよ」
男「もちろんマーベルだって完璧じゃない。現場と上層部がクリエイションの方向性の相違から何度もトラブルをおこしている。エドガー・ライトやウィードンが去ったのもその一端だ。それでも比較的いいものを作り続けている」
女「一番不出来なマーベル映画でさえ、一般的には『良い出来』だよね」
男「公平性を期して言うなら、DCはテレビドラマだと面白いエンタメを作れるんだよね。
いっそ、ドラマをそのまま映画にもってくりゃあいいのに。俳優もさ。そっちのほうが断然いいものが撮れるはずだよ」
女「アメリカではテレビの俳優は映画に出演しちゃいけないって不文律が存在するっていうよね。真偽はわかんないし、都市伝説みたいなもんだけど。
でも、もしDCがそのルールを自社の作品に適用してるんだったら……こんなにアホなことはないよ。
DCがモタモタしてるあいだに、ここのところマーベルもNetflixとのタッグを組んで『デアデビル』を筆頭にすばらしいドラマを量産しはじめた。
マーベルならテレビと映画をクロスオーバーさせるくらいのことは軽くやってのけるだろうね」
男「マーベルドラマはマイナーキャラも上手く扱っている印象があるね。『ジェシカ・ジョーンズ』なんか知名度のわりにはよく練られた、丁寧なドラマだよ」
女「ルーサー役のジェシー・アイゼンバーグの演技はどう思う?」
男「なんであんないけ好かないガキになっちまったのかな。レックス・ルーサーじゃなくて『レックス・ルーサー・ジュニア』に変更されたのは何か説明があってしかるべきだったんだけど、そういうのもなかったし」
女「パパに虐待されて育ったから、スーパーマンにコンプ持つようになったみたいな感じだったよね」
男「アメコミの悪役っていうのは前もって完成されたキャラクターだから、実は性格俳優とあまり相性がよくない。良い役者と人気キャラの両立はむずかしいんだ。
アイゼンバーグがどんなにがんばって悪役を演じてみても、観客は『ああ、いつものジェシー・アイゼンバーグだな』って思っちゃう。
一番の問題はロン毛のまま出しちゃったことだよな。
まるで『バットマン vs スーパーマン vs マーク・ザッカーバーグ』ってかんじ」
女「わたしが懸念してるとこもそこ。BvSのアイゼンバーグは一人だけ別の映画で演じてるみたいだった。腰抜けぞろいの他のキャラクターと比べて明らかに浮きまくってたわよ」
男「シリコンバレーで調子こいてるIT起業家を悪役にしてみるか、程度の発想でしかないよね」
女「アメコミ映画のヴィランとしはキャラが貧相だった。ダークサイドに落ちるほどの動機もなければ、ヴィランとしてのヴィジョンも備わってない。
男「たしか、DCのライターで……ジェフ・ジョーンズだったかな? が言ってたんだけど、
『レックス・ルーサーがスーパーマンを憎む理由はこうだ。(ルーサーによれば)スーパーマンのせいで人類は自信をなくし、堕落してしまった。人類は自分たちが作り出した問題の後始末をスーパーマンに任せっきりにしている。
それこそが、ルーサーが『スーパーマンは危険だ』と主張する理由なんだ。ルーサーはスーパーマンを打倒することで人類に強さを取り戻させようとしているんだ。彼はヒューマニストなんだ』」
女「なるほど」
男「ところがこの映画では……」
女「あんまり頭もよく見えないよね。思わせぶりに暗躍しといて、バットマンとスーパーマンを対峙させるお膳立て以上のことはなんもやってない。どんな隠し玉が出るかと期待させといて、四十分前に観客に見せたもの以外は何も出てこない」
男「まあ、さすがにバットマンとスーパーマンがマザコントークでもりあがるなんてのはルーサーも僕達も予想できなかったけどね」
女「おもわずふたりともクリプトナイトで刺したくなったわ……」
男「ドゥームズデイとのバトルシーンはかっこよかった。ワンダーウーマンが登場した瞬間は『これこそ俺が見たかった映画だ!』と興奮したよ。二時間映画を観ていて初めてグッと来た瞬間だった」
女「ワンダーウーマンは余計な描写がないのがよかったよね。『ジャスティス・リーグ』が今から心配だな。DCのクリエーターたちって、自分たちがどこへ向かって何をしてんのか理解できてるのかな? 現場から上層部含めてさ」
男「最初の計画どおり、ジョージ・ミラーに監督させりゃあよかったんだよ。ジョージ・ミラーの『ジャスティス・リーグ』……想像しただけでワクワクしない?」
女「するする。私としてはベン・アフレックでもよかった。でもバットマン役として参加することになったからって、監督からは降りちゃった。もったいない」
男「周囲の非難を恐れたんだろうね。自分で監督して自分で主演するスーパーヒーロー映画って、どうしても嘲笑を免れないだろうし」
女「気にすること無いのに。ベン・アフレックはバットマンのキャラメイクを繊細に達成していた。声もちゃんとバットマンやってたし、演技もすばらしかった。そういや、ジェレミー・アイアンズのアルフレッドはどうだった?」
男「そこそこって感じ」
女「でも、そこそこ止まりでしょ。アルフレッドにしては暖かみに欠けていた。アイアンズがやるとアルフレッドってよりかはルシアス・フォックスっぽいよ」
男「あー、『GOTHAM』は観てる? ドラマの」
女「いや?」
女「『ゴッサム』はねえ……観たかったんだけどさ。CMでウェインの両親が死ぬシーンをやってるのを観てさ……ちょっと耐えられなかった」
男「三十分前からお前そればっか言ってるな」
女「別に言いたくて言ってるわけじゃないっての」
男「批評家から叩かれまくってる反動か、BvSを過剰に擁護する人たちがいるね。『人生で最高の一本』だとか」
女「何言ってんだか」
男「そういう人には『君はもっと映画を観る必要があるね』としか言えないね。人生で他に観た映画がこの前の『ファンタスティック・フォー』だけなのか? 『市民ケーン』を観てみなさいよと。どっかからダークスリラーの名作リスト探してきてさ、かたっぱしから鑑賞すればいいよ。そうすれば暗い世界観に相応しいキャラ造型やストーリーメイクが理解できるはずだよ
世の中にはもっとすばらしい映画があるんだって、増田にも知ってもらいたいな」
参考:
https://soundcloud.com/rottentomatoes/batman-v-superman-is-rotten
はっきり言ってしまえば、虐殺器官のトリックもハーモニーのアイディアも、SF的観点からするとさして目新しいものではない凡庸なものだ。
にも関わらず、「夭逝の天才作家」として祭り上げられる以前から○○おじさんを含むめんどくさい連中に評価されている理由は何かと考えると、ディティールの積み上げる圧倒的なリアリティにあるのだと思う。
虐殺器官に出てくる心理的マスキング処理、ハーモニーに出てくるアマゾンめいた個人評価のスター、これらは今現在からの延長線上の未来として演算される現実的なもので、一部の組織や企業内では既に現実のものとして実装されているものであろう。
彼の死から早6年、彼の最後の作品である屍者の帝国が、Project itohの最初の映像作品として公開される、それも彼が最も愛した映画という形をとってだ。
6年間、それはあまりにも長い時間でした。僕らの好きだった計劃さんは、どうしようもなくめんどくさい(そして愛すべき)はてダの映画おじさんという存在から、いつの間にかに「夭逝の天才作家」という世間を騒がすアイドルになっていてProject itohなるものが始動してしまう始末。
それでも、それでも、Projectに苦虫を噛み潰したような表情で立ちすくむ○○おじさんたちも、御大の小説が映像化されることには公開される前は素直に喜んで胸のときめきを抑えきれなかったはず、そう公開される前は。なんなんですか、いざ公開されたとなればハダリーたんのおっぱいとか階差機関に対する言及はあれども映画そのものに対しては皆口をつぐみ、挙句の果てに「地獄はここにあるんですよ」と指差す始末。
はっきり言おう、○○おじさんたちは生前の計劃さんから何も学んでいないと。
映画批評っていうのはレビューではない。もっと体系的だし、少なくともウェブに溢れる「面白い」「つまらない」といった感想程度のゴシップではない。
批評とはそんなくだらないおしゃべりではなく、もっと体系的で、ボリュームのある読みものだ。もっと厳密にいえば「〜が描写できていない」「キャラクターが弱い」「人間が描けていない」とかいった印象批評と規範批評の粗雑な合体であってはいけない。厳密な意味での「批評」は、その映画から思いもよらなかったヴィジョンをひねり出すことができる、面白い読み物だ。
だから、こいつは映画批評じゃない。まさに印象批評的で、規範批評的で、それはすべて、ぼくが紹介する映画を魅力的に見せるためにとった戦略だ。
このページでいろいろ書いていることは、結局そういうことだ。
「おかえり、フライデー」
人間は死亡すると、生前に比べて21g体重が減少することが確認されている。それが霊素の重さ、いわば魂の重さだ。我々は魂が抜けた肉体に擬似霊素をインストールすることによって死者を蘇らせる。
原作は我らが伊藤計劃、そして円城塔。といってもたった30枚の遺稿は映画化にあたってオミットされている。メディアミックスなるものは今日当たり前のものになりつつあるのに、なぜかこと映画化に関しては地雷であるという評価が当然のものになりつつある、特にマンガやアニメの原作付きのものに関しては顕著だ。本作もその類に漏れず、○○おじさん達から大変な不評を買ってしまっているが、伊藤作品の映像化という観点からすれば私は十二分に楽しむことができる傑作だと思った。
原作付き映画に何を期待するかは人によってそれぞれ違うが、原作のストーリー通りに話が展開するだとか、セリフを忠実に再現するだとか、冒頭の30枚を残すだとか、少なくとも私はそういったことには重みを置かない。小説には文字の、映画には映像の文法がそれぞれあるのだから、単に忠実に再現するだけでは翻訳として成り立たないし、少なくともメディアミックスとしての価値はない。それは原作ファンを称するクラスタに向けた言い訳に過ぎず、怠惰な姿勢だと思う。
文字とはすなわち情報であり、映像もすなわち情報である。その違いがどこにあるかというとtxtファイルとwmvファイルの容量を比べるまでもなく、圧倒的な情報量にある。つまり同じシーンを描写するにあっても、映像化のためには不足する情報を画面に徹底的に描き込まなければならない。では不足する情報をどこから補ってくるかといえばやはり原作であるのだが、単に帰納的演算に基づいて情報を付加すると、あたかもjpeg画像を拡大したように荒く違和感を感じるものになってしまう。そこで映像化にあたっては、原作を入念に読み込み世界観を理解したうえで、原作に存在しなかった情報を加えることでディティールを明確にする。一方でその情報量が過剰であるが故に、人は文字を3時間追うことができても、映像を3時間観ることは困難なのもまた事実(現実的には予算だとか尺の問題だが)。そこで行われるのは物語の圧縮である。先に述べた情報の付加と異なり、如何に情報量を減らさずに短い時間に収めるか、如何にディティールを残したまま圧縮できるかが肝になる。
こうして完成した映像作品は、個々人の頭の中に存在する「原作」とは違ったものとなっているので、ほぼ確実に違和感を与えることになる、場合によってはそれが不評の原因になるかもしれない。だが、ここであえて言わせてもらえば、その違和感こそがメディアミックスとしての醍醐味であって、映画を見る楽しみの観点であろうと。
私はかつて植民地だった地域によくある上海の租界のような場所が好きだ。それは現実の宗主国の建築物を現地にある材料で模したまがい物に過ぎないのだけれども、望郷の念からか過剰に演出されたそれらの建物は本物のフランスやイギリスの建物より本物らしく見える。例えるなら歌舞伎の女形が女性より女らしいようなものだ。
映像化された屍者の帝国に、私は原作より原作らしいもの、あるいは書かれることがなかった、この世界線には存在しない真の原作の面影を感じることができたと思う。
ボンベイにたむろする屍者の労働者、○○おじさんにも大好評だった圧倒的なディティールの階差機関、白く荒涼としたカザフスタン、目黒雅叙園に相撲の浮世絵ジャパン、映像化に際して付加された情報量についてだけでも映画として申し分ない。かつて彼が愛していた世界観型の映画のように、産業革命の時代に屍者技術なるものが存在した場合どんな世の中になるかというSF的観点なif、たったひとつの嘘による世界構築がなされている。
「あなたにもう一度逢いたかった、聞かせて欲しかった、あなたの言葉の続きを。」
原作ではフライデーが円城塔で、ワトソンが伊藤計劃にあたる。彼が残したテキストを読み足りない情報を補って、作家伊藤計劃を脳内にエミュレートして続編を書くという行為を考えれば当然の配役である。小説のエピローグで、彼岸に渡ったワトソンを思ってフライデーは自らの意思を持ち動き出す。一方、映画ではその立場が逆転して、ワトソンが円城塔でフライデーが伊藤計劃にあたり、旅の目的は伊藤計劃の復活である。映画の文法としては旅の目的の明確化だが、○○おじさんにとっての不評の元凶となる改変だ。BLだノイタミナだとdisる気持ちもわからなくはないけど、ヴィクターの書記を手に入れて伊藤計劃を復活させるという話が映像化第一弾として公開されることに意味を感じる。
冒頭にも書いたが伊藤計劃の小説は言ってしまえばそんなでもないし、同じようなものを書ける人は出てくる。けど、彼の映画批評のような愛と薀蓄に溢れた文書を書ける人はもう出てこないような気がする。それでも彼がもし生きていればこの映画をどう評論しただろうか、死んだ彼がこの映画を見たらどう評論しただろうか。
何がしたいのかわからん。
一刻も早く復興して欲しいってんなら、ポンと何十万か寄付して好きに使ってもらった方が効果的だろうし、
何がどうなったら良いと思ってるのかヴィジョンとか目的が全然見えない。
追記
CD1枚2500円で買うとして、買ってくれるお客さんはその2500円でできた色々な可能性を失うだろ?
他の人のCDを買った方が良かったかも、ランチに使った方が良かったかも、どっかに遊びに行った方が良かったかも。
その可能性を全部捨てて、俺にその2500円使ってください!って、ミュージシャンがCD売るってそういうことじゃん。突き詰めて言えば。
旅費の分、他のことに使ってもらった方が良い。ってなったら、それはミュージシャンとしては敗北でしょ。
http://jmatsuzaki.com/archives/14158
よくこういうことをいう人がいて若者は思わずそれに目を輝かせてしまいますが、お待ちください。それは火車です。
そこそこ好きなことをやるってのはいいと思うんです。俺もそれで未だにプログラミングしてるし。
けどそれに一生をかけたいみたいなものを選ぶと不幸です。
まず妥協ができない。なぜなら好きだから。つまり己との争いに消耗するわけです。
つぎに全然稼げなくて金がないときに、とんとん拍子でうまくいく人を見るとマジで死にたくなる。金がないと視野が狭まり、完成度は低くなり、余裕がなく、評価も気になります。負のスパイラルに陥るともうだめ。死にます。
おなじようなもんとして、やっぱり芽が出なかったってなった時に、他に自分の芯になるものがないとやっぱり死にます。ありますか?なら大丈夫です。好きなモノは二つ三つあってよい。一つしか好きなことがないなら、好きな道で食ってくのは諦めましょう。マジで死にます。
結構食えません。むしろ食っていこうと思ったら好きでないことを絶対にしなきゃいけない。妥協だってしなきゃいけない。あと食っていくにはスキルと人脈です。どちらも必要です、むしろ人脈が必要。
人脈作れますか? 好きでないことができますか? できるなら大丈夫です。
好きは滲み出るものです。炙りださなきゃ出てこないなら、それはやんなくても大丈夫なことです。
もしくは追い抜いたら全然しょうもない奴だったことがわかってしまう。人へのあこがれで歩を進めるのは危険です。まぁアドバイスもらうくらいはわるかないけども、信奉するのはいくない。そしてね、アドバイスする側になるとわかると思いますけど、結構しょーもないことしか言えないもんです。ちゃんとしたこと言おうとしたら準備が必要だし、めんどくさいし、時間もすごくかかる。ただでやるには労力がかかりすぎ→結果しょーもないことに。なんてのが関の山です。
お金は心の余裕。
人間には二種類います。心の余裕がなければ仕事を成し遂げられない人と、追い込まれて絶体絶命にならないと真価を発揮しない人です。あ、もういっこあった。常にすごいやつ。
ま、天才は置いておきましょう。
お金は大事です。道具を揃える必要がことなら、お金がないと始まりません。お金を稼ぐのは時間がかかりますし、余裕がなければ質の悪いものに手を出してしまいます。食うものを削るととたんに人間の力は半減します。どれだけいいものをもっていても、食べなければやっていけないのです。
なおサービス残業などが常態化している状態はよろしくないと思いますが、たまに超残業がいっぱいあるくらいならまぁいいかなと僕は個人的に思います。もとに戻すまで三ヶ月とか半年とかかかるけども。
バイトは結局損です。正社員で働いたほうがガッポガッポ入りますし定収入はでかい。あとバイトは休むと生活に響いてくるから余裕なくなります。余裕がなくなると好きは擦り切れます。
やめるつもりで常日頃から腕を磨き、人脈を作りましょう。会社で作る人脈も時には役に立つし。
世界で随一くらいのスキルがないならある程度体裁は整えておいたほうがよいでしょう。まぁ昇進とか結婚とかは諦めてもいいと思いますけども
共有する価値観がある仲間がいるのは幸せですが、ビジョンに振り回されるといつの間にか崖っぷちということもあるので気をつけましょう。あぶなっかしいな。
ビジョンは自分で持っていればいいんです。そのために日夜コツコツと積み重ねていけばいいんです。直接的ではなくとも間接的に身を助けてくれることがあるかもしれない。むしろまったく違う視点を求めに全然知らないところへ行ってもいいし、金を稼ぐためと割りきって居心地のいい場所に行ってもいい。いずれにせよ、自分で決めることです。他人と一緒で安心してはいけません。
まぁいずれみんな死ぬんですけどね。
仕事ではないからできることもある。仕事だからこそできることもある。そのバランスを上手く取れないと、墓場にダンプで突っ込んでいくことになりかねません。引き止めてくれる友達を持ちましょう。お金を生む人脈はなくても、心配してくれる友を持ちましょう。友はなくても気持ちを吐き出せる場所を作りましょう。そして毎日、小さな進歩と喜びを噛み締めましょう。
山には一歩ずつ登るしかありません。駆け上れば途中で力尽きます。しかし動かなければ登れません。動かないのはたしかにもっともリスクが低いふるまいですが、ついつい足を進めてしまうのなら、もう腹をくくって登りましょう。安全に、一歩ずつ、焦りをなだめ、恐怖に打ち勝ち、すすむだけです。
いのちだいじに。
昨日、数年ぶりに大学時代の友人に会った。級友といっても私の方が何歳も年上だ。高校卒業後、数年間働いたあとで大学に入学したのだ。その級友とは連絡をとったのも数年ぶりで、向こうから連絡をしてきた。そのときはちょうど私の誕生日で、数年ぶりの連絡にも関わらず、彼は突然Facebookで「誕生日おめでとう。感謝がどうたら」とか訳のわからないことを言ってきた。私がやんわりと「大丈夫か?宗教/自己啓発/マルチにでもハマったか?」と返したところ、彼は「好きな居酒屋のフレーズだ」と言う。あぁ、貧困か、いずれにせよ、貧困だ、と私は小さく呟いた。私の心配をよそに彼は続けて「今度会えないか」と誘ってきた。
駅前のカフェで彼を待った。ときおり道行く人を眺めつつ勉強していると、ふいに見知った影が目の前に現れた。大学を卒業してから数年経ったが、彼はそのときとあまり変わりなかった。私もそれほど変わりはないだろう。席に着いてひととおり互いの近況を報告しあった。他の級友達についても軽く触れた。彼の口からは、ヴィジョン、グノシー、シャカイコウケン、横文字が並んだ。私は「ライフハック系の記事にでもあたったかか?」と軽く返した。貧困の気配がさらに強まる。
彼は学部の頃から教師になると言っていた。大学院も教育系だったが、抑うつ状態に陥り、1年休学したあと中退してしまったとのことだった。その後、現在勤務している中学校に非正規の教員として入った。その彼が「学校を建てたい。現在のキョーイクはどうたら」。うん、うん、そうだね、と相槌を打つ私の喉の奥には貧困の2文字。「今年の教員採用試験は見送った」「セブン-イレブンを建てたい人がセブン-イレブンでバイトをするだろうか」「金持ち父さんがどうたら」「現在、経済の師匠とでも言うような人に師事している」たまらず私は「でも飯を食べていかないとね。デカいヴィジョンも結構だけれど、成功するためには上手く早く失敗を重ねる必要がある。食うや食わずやでは成功/失敗以前に挑戦することすらままならない。歩けばコケる。コケまくってもいいけれど、死ぬようなコケ方をしてはいけない。足を骨折するようなコケ方もしばらく歩けなくなってしまう。今年はもったいなかったけど、来年は教員採用試験を受験したらどうだろうか。正規で教師として勤務しながらヴィジョンに向けて一歩一歩 地に足をつけて進んでいくことはできないだろうか。デカいヴィジョンは遠くの風景だ。方向を定めるときは遠くを見やる必要がある。だが、遠くを見やっていてばかりでは足元の落とし穴に気づけない。ヒドいコケ方をする。遠くの風景へはまっすぐは進めない。右往左往、行きつ戻りつしながらしか進めない。まっすぐに続いている道は善意で舗装された地獄への道しかない。耳触りのよい言葉で舗装された道だ。指標を持とう。意思決定にさいして自分なりの指標を持とう。定性的な耳触りのよいカタカナだけでなく、定量的な指標も参照しよう。この職業は平均年収いくらだ。マンガ家の年収分布は偏っているから平均という統計値は当てにならない。マンガ家の年収の最頻値はいくらだろう?たぶん0円だ。ワナビーどもが夢のあと。休暇日数は何日だろう?例えば、マルチ商法なんかは、子供をたくさん増やしていく必要がある。子供が孫を、孫が玄孫を、とネズミ算式に増えていってようやくまとまった金が入るようになる。けれども、孫を産んでくれる子供なんてほんの一握りなんだ。多産多死のネズミ。だから、子供をたくさん増やしていく必要がある。とても効率が悪い。0.0x倍だ。そうやって、営業活動をひたすら精力的に続けていってようやくまとまった金が入るようになってくる。でも、それはもう不労所得ではないよね。だって、営業活動してるんだもん。ひたすら毎日何時間も。例えば、学校を建てます、会社を建てます、っていう人がマルチやネットワークビジネスでそれに挑戦したとして、何人の子供を産みまくればいいんだろう?悪いやつっていうのは、病気、貧困、弱っている状態に付け込んでくる。そういう悪いやつは世の中にたくさんいる。私も昔マルチに何十万円と騙されたことがある。そのときは正規で働いていたから骨折するようなコケ方にはならなかったけれど、非正規だったら骨折していたかもしれない。上手くコケるには食うや食わずやではダメだ。飯をちゃんと食っている必要があるんだ。今年はもったいなかったけど、来年は教員採用試験を受験したらどうかな?」
見た目に関してはお察し。
Windowsをバカにするんだけど、さりとてMacの利点を聞いても答えられない感じ。
それでいて自己顕示欲は強いらしく、開発サークルなどで積極的に活動している。
しかし、コーディング力もマネージメント能力も無いので一向にプロダクトができてこない。
情報隠蔽を「チームメンバにコードを読ませないこと」だと思っていた。
絶句した。
そしてプライドが異常に高い。
だから、それは違うよ、と言おうにも、まるで受け付けない。
どうにも自分のことを、具体的なコードは書かないが画期的なヴィジョンを作り、
チームを率いてプロダクトを作る指導者タイプだと思っているふしがある。
つまり、自分のヴィジョンは完璧なのに、周りがそれについてこれないせいで失敗していると思っているふしがある。
自分でまとめていて、なんかもう、絶望的だなと思わないこともないのだけど、
方向はさておきがんばっている姿は本物だと思うので、なんとか良い方向に向かわせてやりたいのだが。
ちなみに彼女は俺のことをブサい口だけの男だと思っているようで、まったく尊敬していない。
だから搦め手というか、本人にそれと気づかないやり方で意識を変えてやりたい。
どうしたらいいと思う?
佐村河内とか小保方とか、文字通り恥を知らないわけで、行動・言動にブレーキがかからない。
おそらく今の今になっても顔から火が出るほど恥ずかしいとかそういう感情はなくて、
ちょっと不利になっちゃったな、畜生、くらいにしか思ってないだろう。
だが、日本社会は(というか他の国の事情は知らないんだけど)、
結構こういう奴らに甘い気がする。
学校でも会社でも、なんでこんな奴がパージされてないんだろうと思うような
厚かましい人間が意外とのさばっている気がする。
彼らは常に自信たっぷりで、批判されてもまったくブレない。
一部の人からは避けられるが、逆に信者のような取り巻きがつく。
異常なくらい自分を好きになり、自分が口にしたでまかせを誰よりも強く信じること。
嘘がばれたり、色々整合性がとれなくなってきたら、自分に嫉妬する誰かが
自分を嵌めようとしてやってるんだと考えること。
何かが人より優れているから、とかそういう偉さの根拠はいらない。
そもそも他人より自分のほうが偉いんだと信じること。
嫌そうなそぶりを見せても、それは相手が悪いと思うこと。
そして、なるべくでかいことをぶち上げる。
一応誰もが「そりゃ、そうなったらいいよね」と頷くようなこと。
で、そのためにいろいろとしなければならない作業が生まれるが、
そのいろいろな実行を、自分ではなく少しメンタルの弱そうな相手に
やらせるようにする。いかにその人が泥臭いことをすべきか、熱っぽく語る。
嫌がったりしたら、その人が崇高な目的に対して後ろ向きであることを
非難する。
自分は、一番最初に「やろう!」と言った人、ヴィジョンを示した人としてふんぞり返る。
こんなところだろうか。
先ほども書いたが、あなたが思っているよりもみんなはこういう奴に甘い。
相容れない人間は、こういう奴を嫌っても潰しにはこない。
よほど自分が害を被りそうにならなければ、陰口を叩いたりはするかもしれないが、
「いるよね。ああいう人。ほんと困るよね」とか言ってそれで終わりだ。
ここの作業員の質が悪くなると協力する為のコストが人数が増えるメリットを上回るのは良くある話。
そして、コーディング以前の問題として設計が悪いと大規模なプログラムはまともに動かないのも常識。
で、まともに設計できる人間ていうのは別に「天才」ではない。ただし、そこら辺に転がってるわけでは断じてない。
きちんと色々なモノを自分で作成したことがあって、その上で自分が設計したものを大人数に作らせたことがある、そういう経験の積み重ねをしてきた人間。
日本の下請け構造が最悪にクソなのが、製作の経験がなくて設計()だけ出来るつもりになってるSEもどきが、製作経験のある下請けになんとなくモノを作らせてるとこ。
作業員、作業員というが、システムの設計はコーディングが理解できない奴に出来るはずがない。
優秀な設計者にきちんと設計者としてのポジションを用意した上で、きちんとしたヴィジョンを描ける人間がプロジェクトを導かないと、大規模なプロジェクトはうまく行かない。
ちなみに、土建業界でも下請け依存の体質は問題視されていて、日本のゼネコンは優秀な下請けが使える国内では高品質な仕事ができるが、海外に行くと途端に悪化するという事例が知られてる。
つまり技術的にキチンとした指示を出す能力が足りないという事。
下請けにやらせりゃいいんだよw なんて言ってるやつは本当に時代遅れ。
かといって、天才なんて言葉で簡単に片づけて、本当に個人に必要とされる技能とチームが作るべき仕組みについて考えられない奴もバカ。
ここの作業員の質が悪くなると協力する為のコストが人数が増えるメリットを上回るのは良くある話。
そして、コーディング以前の問題として設計が悪いと大規模なプログラムはまともに動かないのも常識。
で、まともに設計できる人間ていうのは別に「天才」ではない。ただし、そこら辺に転がってるわけでは断じてない。
きちんと色々なモノを自分で作成したことがあって、その上で自分が設計したものを大人数に作らせたことがある、そういう経験の積み重ねをしてきた人間。
日本の下請け構造が最悪にクソなのが、製作の経験がなくて設計()だけ出来るつもりになってるSEもどきが、製作経験のある下請けになんとなくモノを作らせてるとこ。
作業員、作業員というが、システムの設計はコーディングが理解できない奴に出来るはずがない。
優秀な設計者にきちんと設計者としてのポジションを用意した上で、きちんとしたヴィジョンを描ける人間がプロジェクトを導かないと、大規模なプロジェクトはうまく行かない。
ちなみに、土建業界でも下請け依存の体質は問題視されていて、日本のゼネコンは優秀な下請けが使える国内では高品質な仕事ができるが、海外に行くと途端に悪化するという事例が知られてる。
つまり技術的にキチンとした指示を出す能力が足りないという事。
下請けにやらせりゃいいんだよw なんて言ってるやつは本当に時代遅れ。
かといって、天才なんて言葉で簡単に片づけて、本当に個人に必要とされる技能とチームが作るべき仕組みについて考えられない奴もバカ。
表題の通りで、話によると1位と2位の得票数に有意の差はなかったとのこと。という訳で、歴代の受賞作品の得票数を調べてみました。表記はグッドデザイン大賞公式サイトのままですが、便宜上一部改変しているところもあります。ただ、2008年度以前のものについては、
「大賞選出および表彰式」に出席いただいたグッドデザイン賞受賞者ならびにグッドデザイン賞審査委員、審議委員の投票により行いました。
とあるのみで、具体的な数字を公開していないようでしたので、載せていません。ご了承ください。また、総投票数が公開されているのも2011年度以降のみです。ご注意ください。
この年はあくまでも余興の一つだったようです。グッドデザイン大賞は4位の岩見沢駅が受賞しており、あくまでも参考結果と言えます。
一般投票の結果
1位 三菱電機株式会社/主軸モータ[SJ-Dシリーズ]:886票
2位 GREEN TOKYO ガンダムプロジェクト実行委員会/GREEN TOKYO ガンダムプロジェクト:783票
(省略)
4位 株式会社ワークヴィジョンズ+岩見沢レンガプロジェクト事務局/駅舎および複合施設[岩見沢複合駅舎]:654票 (グッドデザイン大賞受賞)
(2回目の投票)
1位 ダイソン/エアマルチプライアー AMO1、AMO2、AMO3:437票
差は1.45倍
1位 本田技研工業株式会社/カーナビゲーションシステムによる情報提供サービス2920票
2位 パナソニック株式会社/LED電球 Panasonic LDAHV4L27CG:2492票
差は1.17倍
2位 NHN Japan株式会社/モバイルアプリケーション [ライン]:1373票
差は1.63倍
さあ、以上を踏まえて今年度の結果を見てみましょう。
1位 グーグル株式会社/Google マップ:2,752票
2位 独立行政法人宇宙航空研究開発機構/ロケット [イプシロン]:2,232票
差は1.23倍
んー、過去の結果を見る限り、きわどいですが、この票差で僅差とみなすには無理があるのではないでしょうか。ただ、サンプルが少ないので、どなたか過去の得票結果をご存知の方は教えてください。
絶賛ばかりですが正直な感想を申しますと、「おもしろくなかったけど、何度か観たい映画」というところでした。
批判的な感想をあまり目にしないので、この一週間、絶賛に対して指摘したい部分を時々考えました。それを時間書けずに一発で書きます。荒くてごめんなさい。
・ストーリーに波がない。
「生きねば」と書いてあるポスターや、ボロボロに燃えてしまった後の戦闘機っぽいものと、それを見て呆然と佇む主人公の絵に、
「戦争に揉まれながら、どんな恋や葛藤があるのかな〜!」と思ってしまいますが、はじめからわかってた展開をただ踏まえてるだけな気がしました。
予告編では泣けましたが、本編では泣こうとおもっても、、、、?なかなか泣けない。
とにかく長いです。一緒に行った人は寝てました。最後のユーミンの歌の、長い長いPVみたいでした。
幼少の頃から非凡な存在として描かれていて、そのままです。しかもお坊ちゃま。
人格も優れている主人公がどんな壁を経験して、奮起するドラマなのかと思いましたが、、、右肩上がりのまま、、、右肩上がりにフライ。
これは厳密には違う指摘ですが、菜穂子と再開する避暑地の重要なシーン。
あれも「なんで今は仕事しないの?オフでも飛行機のこと考えてるキャラが何してんの?」と内心思いながらでした。しかも、これも長い。
それを消してくれる説明も無かったような気がします。
・SEが口
これはなんかの朝のニュースでやってたのを着替えながら見たので知ってましたが、どうやらSEのほとんどは口で人が作ってるようです。
でも、それが耳障りなんです。なんの意図があったのか知らないので残念ですが、その意図を知らない私からすると違和感で集中できないのです。
途中から、製作者側が「今回のSEは人の声が作ってるんですよ」とドヤ顔で言ってたらと思うと、それをどうやって論破するか。。。そんな怒りの妄想に集中力がいってしまいました。
・庵野秀明の声
幼少期が終わって、いきなり声が変わります。それで「『ジブリの主人公の声をエヴァ監督の庵野秀明が担当』なんていうニュースを何かで見たが、これか・・・」とその時に思い出しました。
とにかく、びっくりするほどスムースな口調で人間らしさゼロ。10のテンションで話してきたキャラに対して、4くらいのテンションで返す主人公。しかし、相手は自然に10のテンションを保ったまま会話している不自然さ。
例えて言えば、片方は大男が体をうねらせて豪速球を投げているのに、それを受け取る主人公は直立不動でボールをキャッチし、腕だけ動かして投げて緩いボールを返している感じ。その不自然なキャッチボールはラストの一言まで続きます。
製作者の意図としては「理系の人っぽさを出したかった」ということですが。理系独特のドライさってのは違うと思います。
成功に仲間や上司が昂ぶっている時にタバコ吸ってどっか見てたり、菜穂子が王子様アピールしてるのに「晴れてきました」とかいってるだけで理系っぽさは出たと思います。
その点、同じ理系でも今放映中の福山雅治のやつとかは、たしかに理系っぽい感じはします。
百歩譲って、理系な人が抑揚のない声で話すとしましょう。でも、見る側としては少なくとも僕は違和感で集中できないんですね。不自然なコミュニケーションを意図的に作ってドヤ顔してる制作側に本当にいらっとした。
ヒロインが嫁入りするシーンで、嫁が高橋留美子の漫画のキャラにしか見えない。
そもそも、結核の嫁が病院抜けだして来て嫁入りを済ませるっていうのはとてもむずかしいと思う。
ただの美談ですよね。ちび上司が普段と違ってお祝いしてる方が胸を打たれました。
これは単純すぐり僕の勘ぐりでもあるのですが、いちいち飛行機とか鯖の骨とかに「美しい・・・」とかいうところに、デザインに対して強いこだわりを思っていたジョブズを投影させてたのかなって思っちゃいました。
シンプルに美しい見た目=優れてる、という考え方を持っている二郎アピールが多いんですよね。
もしジブリもジョブズに敬意を表すなら、普通に「敬意あります」とか言えばいいんであって、作品にわざとらしく言わなくてもいいんじゃないでしょうか。
とにかくうるさいんですよね。忘れた頃に出てくる。「また!?そんな(にデザイン好き)なの?」みたいな
でも、まあ、ジョブズが話題になる前からsimple is the best的な価値観はありましたので、あんまり強気で言えることじゃないです。
以上を踏まえて「風立ちぬ、傑作!」みたいな空気は、なんかつっこみたくなります。
「ジブリがやったことならすべて良し!たとえ理解できなくても良しと言う!白も黒と言えば諸手を上げて黒に賛成」みたいなダサい空気です。
確かにジブリの過去作は素晴らしかったです。でも、今作はどうでしょう。ほんとうにそうおもってますか?と。いや、過去作も実は「良さげ」雰囲気だけの作品だったのかも… ?
なんちゃって、それは言いすぎな気がしますが、否定なんかしたら自分がバカっぽい立場になるって思ってませんか?
僕もそうゆうのが怖いのですが、これを書いた反響とかを楽しみたくてネットに書きました。
以上です。
ちなみに、個人的に一番良かったシーンは、幼少期の夢の中で雑誌に出てた有名なイタリアの設計士と出会い、刺激をうけるところです。
あの夢の中には、生まれや、能力や、物理法則すらも超越した、ピュアな(実現したい世界としての)夢だけでした。
そしてあの空間にいる間は、「自分のヴィジョンは世界の偉人と共有できる程のものなんだ」という高揚感は、とてもこんなことを言うのは憚られますが、僭越ながら共感できました。
色々文句もありましたが、終わってみると、確かになんだかスッキリした映画でした。
それが何かは、わかりません。それが不思議な魅力でしょう。
自分はジブリと育ってきたような年代で、現在は「アラサーw」と自虐を言う時期に入った年代です。
「風立ちぬ」は今回の作品で初めてです。
一番好きなジブリ映画は「もののけ姫」。理由は興奮するからで、メッセージ性などはあまり気になりませんでした。
一番心躍った映画は「バトルシップ」。一番泣いたのは「アイ・アム・サム」。という単純な人間です。
俺は有名私立中高一貫校出身で、周りのブルジョワジーたちに揉まれつつエリート街道らしきものをここまで登ってきて、
なんとなくで文系にして、そのまま文科一類に入って、今一年生なんだけど、
将来のヴィジョンが全く見えない。
考えてみれば自分には21世紀前半を生きるための付加価値(具体的に言えば英語、IT、その他資格?)が全くない。
もちろん学歴と、そのバックグラウンドと、大したことをしなくても得られる人脈がある、っていうのはそれなりに長所なんだろうけど、
で不安なら何か努力してるかって言われると何もしてなくて、ひたすらダラダラしてる。
周りには官庁志望の奴とか、弁護士になる!とか決めてる奴もそれなりにいて、
そいつらはヴィジョンがはっきり見えてるから、やるべきこと分かって努力も出来るんだろうけど、
少なくとも「お前何やった?具体的に」って問いに全く答えられない。
もちろん周りには学生団体とか頑張ってる奴らもいるんだけど、
一回片足突っ込んでみて「あ、自分には合ってないな」って思った(はてなにはそういう人多いかもしれない)。
それで、結局何もしてない。
なんちゃって自己分析しちゃうと、下手に高学歴歩んできたから無根拠に全能感抱いちゃってんじゃねーの、俺、って思う。
不安で不安で仕方ないので、夏休みに何個かインターンとか入れてみたけど、迷走してる気しかしない。
ていうかとりあえず留学みたいな、とりあえずインターン感がハンパじゃない。
いろいろやってる内に将来の夢とか、人生を賭す価値とか見つかるだろうと大学入る前は思ってたけど、本当に見つかるんだろうか。
p.s.どうでもいいけど「ディスチミア親和型うつ病」ってニュースかなんかで見て「あ、俺じゃん」って思った。思っただけ
(13.7.11追記) うわああああ気持ちわりーブクマいっぱいついてるううううー。
伊藤計劃の幻視したヴィジョンをJ・G・バラードの手法で描く、というが読後に感じたのはバラード的なものを読んだというよりは、90年代に読んだいくつかのサイバーパンク小説に通徹していた一種の非情や無常をはらんだ物語たちのことであった。バラードのテクノロジー3部作や『ウォー・フィーバー』に近いものがあることも確かだがそれらと比較するのは野暮であろう。これは21世紀に生きる我々の問題を扱った「今」を生きる小説なのだから。
政情不安、内戦、グローバリズムの暗部、といった人類の憂鬱な現在と未来。そこで生きる人々の日常とともに、「未来ガジェット」をも魅力的に描き出す。現代日本SFにとって亡霊のような存在になってしまっている伊藤計劃が、代表作『虐殺器官』で実現したこのスタイルを、宮内悠介はこの『ヨハネスブルグの天使たち』で踏襲しています。
テロが頻発し、持つ者と持たざる者が極端に現れつつある現代社会の延長線上に待つものは何か?それを問うているのが本書である。(略)どのような宗教、民族、イデオロギーといった価値観は対立するものと表裏一体であることを、強く意識させられる。
「今を生きるための小説」「グローバリズムの暗部」「イデオロギーの対立」「民族紛争」「考えさせられた」…。
SF小説それ自体が社会を語るものであることは否定しないけど、
「とにかく作品を通じて社会を語らなければならない」という強迫観念が、同調意識として
ここ最近増しに増してるのはなんなんだよ。あー気持ち悪い気持ち悪い。
伊藤計劃の『虐殺器官』『ハーモニー』といった大天才の大傑作があって、以後立て続けに批評家・レビュワーによる伊藤作品を踏まえた社会評が発表されて、
あーやべーSFスゲーじゃんめっちゃ社会語れんじゃん、俺が社会語れんじゃん!といった風潮ができて。
虐殺の文庫版が10万部を超えるベストセラーになり、SF野郎のみならず意識高い学生たちもここぞとばかりに殺到し、ぼくのわたしの社会評を発表する最高にダルい場所ができあがった。あー気持ち悪い。
しかしその死後気鋭の作家がポンポン表れるはずもなくて、ラノベ作家による駄作JA・Jコレの連発にガッカリしながらも
いかに救いようのないゴミを褒めちぎるかとか、イヤミスブームに乗っかったどうしようもない駄作でコミュニケーションを図ったりといったあたらしい遊びで時間を潰したり新時代を体現する新人作家を探していたのは読者も恐らく出版社も同じこと。
そこにようやく以後を書けそうな作家が現れた。それが「盤上の夜」で創元SF短編賞山田正紀賞を受賞した宮内悠介。
小説の腕それ自体は処女作がいきなり直木賞候補にノミネートされたことで折り紙つき。
そんな奴が地域紛争と911をテーマに連作短編集を出したもんだから既存の社会語りたいおじさんはもちろん、伊藤ウェーブに乗り遅れたぼくも社会を語りたいぼくがわたしが殺到して、結果こんなんになるよねーって感じ。
おまけにそのムーブメントを煽るような帯。”伊藤計劃が幻視したヴィジョンをJ・G・バラードの手法で描いた”。
何が言いたいのかさっぱりわからないが社会語りたいマンにはこれが何かの免罪符に見えるんでしょうかね。
やるせない。そういう思いが読後、胸の中を占め尽くす。登場する高層建築物と言語、宗教の問題はバベルの塔を彷彿とさせて。間違いなく、9.11後、世界の在り様は変わってしまったのだろう。作中で言うところの分岐点だったのかもしれない。DX9はそのままLARsの運用問題を問うているように思える。DXに人格をコピーすることは果たしてその一つの解になり得るのか・・・考えさせられる良作だった
こういう輩は「意識させられました」「考えさせられました」をいくら繰り返したところでなんの意味もないことを社会科見学で学ばなかったんだろうか。
んなもん「あなたの恋人が突然死んでしまったら、どうしますか?」系クソ映画の感想にでも垂れ流しとけばいい。
お前は著者が丁寧に羅列してる参考文献の一冊にでも手を伸ばしたのか?
せめてタイトルで検索をかけるくらいのことはしてるんだろうな?
最後に賢そうなことを言おうとして一番アホっぽく見える、最大公約数な感想を引用して終わる。あーイラつく全員死ね。
まず舞台がねー、ヨハネスブルグ、ニューヨーク、ジャララバード(アフガニスタンの都市)、ハドラマウト(南アラビアの一地域)、それから西東京とバリエーションに飛んでいるがそのいずれもがアフリカやら中東あたりのなんかとっても危なそうな地域と絡んでいる(すげー知能の感じられない把握の仕方だが)まずこの舞台設定が珍しいよね。
これは凄い。『ヨハネスブルグの天使たち (Jコレクション) http://d.hatena.ne.jp/huyukiitoichi/20130525/1369463211
追記。
補足で言いたいことはだいたいブクマで書いてもらってると思うんで、
ところで他人の感想をこき下ろした本人は”ヨハネスブルグの天使たち”を読んでるのかね?そしてなぜ自分の感想を書いて勝負しないの?作者である宮内先生にではなく、近親憎悪的に他の読者に当り散らすのはなぜ?つまり一番語りたがってるのは自分なのに、口に出すのが怖いの?やり返されるから?
青の零号 @BitingAngle https://twitter.com/BitingAngle/status/354620359674298368
A2.えっ…感想で勝負?wwwwしょwwwか、かか、かんそうで、しょ、しょうぶ?
感想ってあの?か、かんそうでww??しょうぶwwwwか、感想でしょwwww勝負www
ブハーッwwwwプッ…クハッ…ゲェェェェーッwwwww
褒めちぎり野郎が互いのレビューを舐め合うためのセルフプロデュース会場での相互オナニーの作法なんざ知るか。
小説はてめえの装身具でも承認欲を満たすためのツールでもねえんだよ。本から出てけ。
A3.俺が気持ち悪いと思っているのは作者でも作品でもなく読者だからです。
ブクマで「SF小説はそもそも社会を語るものだから~」とかいってるバカ共もそれくらい読み取ってください。
「お前は本当に気持ち悪い」という文章から「SFは昔からそうなんだ」とか「お前はどうなんだ」を導きだして「感想で勝負しろ!!!」とか抜かしちゃう人すごいなー。ボーグバトルじゃねえんだぞ。
あー気持ち悪い。
継続的なインフレに寄っかかった経済成長モデルって意味では、リーマンショックも土地バブルも変わらんよね。
それを詐欺だと断じるなら、緩やかなインフレが10年単位で続く前提のもとに立てる政策は基本的に詐欺だよね。
その理屈でもって自民党がダメっていうのはひとつの見方として正しいと思うけど、
それにしたって「実体経済の強化」ってのは「強者と弱者の対立」と抽象度で言ったらほとんど変わらんと思う。
実体経済を強化したいのはもちろんだけど、じゃあそのために何したらいいの?
強化すべきは内需なのか、それとも外需を獲得できるようにしたいのか。
外需を獲得できるようにする方策として円安を誘導したいなら、それって結局今の自民党の経済政策じゃないの?
僕も「こうしたモデルが理想」ってのを描けるほど明確なヴィジョンを持ってるわけじゃないけど、今の選挙の状態を見ると「日本の未来を選ぶ」とか言いながら誰もまともなモデルを示さない、噴飯物の超グデグデな選挙だよね。
1・消えるわけねーじゃん。
「消えて欲しいなあ」だろ。
願望と現実を分ける癖つけろよ。
でないと統失一直線だぞ。
2.アジをやりたいなら
「自民ではダメだから〇〇党に政権をとらせよう!」まで言えよ。
日本を背負える党はどれなのか超真剣に考えたうえでのお前のヴィジョンを示せよ。
3・前項までの準備が出来たら
ネットの政治オタクの間であーだこーだ言っても現実変らなかっただろ。
ましてお前と同じような意見のお仲間とチンチンしごき合っても票が動くわけもなかっただろ。
お前がやるのは、お前とぜんぜん意見が違い、お前と全然関心が違う人達に呼びかけることだよ。
そこまでやって初めて票が動いたり自民が消えたりする可能性が出てくるんだよ。
平日昼間からネットで政治の話をする程度の情熱と暇な時間が有るなら
現実に向き合って変えてみろよ。
お前の全知力と全体力を絞ってみろよ。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-4b86.html
という声もあるようですが、そこでいう「経済学の知見」って、どんなものなのでしょうかね。
ケインズはいうまでもなく、ポランニーもアダム・スミスもアマリティア・センも、いわんや権丈善一も経済学者ではないのでしょう。「殆ど無い」というくらいなので。
プロフィールより
http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/profile/
「市場のダイナミズムを享受しながら、そこに生きる人たちが、尊厳をもって人間らしく生きていくことができ、かつ、ひとりの人間として生まれたときに備えもっていた資質を十分に開花させることのできる機会が、ひろく平等に開かれた社会はいかなるものであるか?」という問いを意識して研究している。 この問いに対して、現在のところ、医療・介護サービス(高齢者・障害者を含む)、および保育・教育サービスを、あたかもみんなが自由に使って良い共有地のように、所得、住んでいる地域、まして性別などにかかわらず、利用することができる、すなわちダイナミックな市場を共有地で囲いこんだような社会を作ればよいのではないだろうか。そしていまひとつ付け加えるとすれば、働き方を自由に選択しても不当に不利にならない、すなわち就業形態選択の自由が保障された社会を作ればよいのではなかろうかと考えている。 こうしたヴィジョンが、現代の社会経済がかかえるさまざまな問題と、具体的にいかなる関係をもっているのかについては、わたくしの仕事を参考にしてもらいたい。いま起こっている問題の多くは、人間が人間らしくない環境で生きているゆえに生まれているのであって、環境を整備すれば、多くの問題は自然と解消すると思っている。
もしかして、こういうことを考えるのは「ケーザイ学」じゃないのかな?
どういうことを考えているかだけでは経済学の知見を持った人であるかどうかは分からない。どんなに素晴らしいことを考えていますと言ったところで実績がともなわないのであれば、その人は経済学の知見を持った人であるということは言えない。学問なぞ一人でできるものではなく、これまでの多くの積み重ねの上に成り立つものであるから、思想信条がどうであれそれだけで経済学の知見を持った人であるとは第三者からは不明である。そして、客観的に経済学の知見を持った経済学者であるということを担保するものは、現代においては経済学の博士号と一流雑誌の査読付き論文しかない。本当に経済学の知見を持っているのであれば、これまでの研究を一流雑誌に投稿してもアクセプトされるであろう。それは本人にとって役にたつものであると同時に、所属する大学にとっても価値のある行為である。大学から禄を食む身であるならば、投稿すればアクセプトされる論文があるなら投稿するのは責務であろう。それをしないということは、つまり一流雑誌にはアクセプトされるような論文ではないということである。
権丈善一氏が「経済学の知見」を持った経済学者であるとみなされないということは、ある意味で当然であり仕方ない。いかに彼の目指すものや思想信条が優れていようと実力がなければ意味がなく、そしてその実力は誰からも見える形での実績として表れていないのだ。「経済学のものは殆ど無い」ということは「経済学のものは少しはある」ということであり、その少しに入るのはケインズ、ポランニー、スミス、そしてセンだけであろう。
オウムの信徒制度には、在家のほかに出家がありました。オウムの出家とは、世俗的な関を一切絶ち、麻原に全生涯を捧げ、人類の救済―最終的には解脱させること―と自己の解脱に専念することでした。
出家者は教団施設内で共同生活をすることになります。家族とも絶縁の形になり、解脱するまでは、会うことも、連絡することも禁止でした。財産はすべて教団に布施し、私物として所有できるのは、許可されたもののみでした。飲食は禁止でした。本、新聞、テレビ、ラジオなど、教団外の一切の情報に接することも禁止でした。これらの戒は、苦界に転生する原因となる執着を切るためのものでした。
入信時、私は出家をまったく考えていませんでした。長男という立場上、親の老後を見たいと思っていたからであり、また私が出家すると家庭が崩壊しかねないとも思っていたからです。そもそも、入信前に読んだ麻原の著書によると、在家でも解脱可能だったので、そのような無理をしてまで出家する必要を感じませんでした。
自分が培ってきたものを崩すのは真に恐いことです。入信間もないころ、私はある在家信徒と話をしました。彼は出家の準備のために定職を捨て、アルバイトをして暮らしていました。その話を聞き、私は恐怖心を抱いたのです。実際、昭和六三年十月の私について、母は「就職の内定を喜び、安心している様子だった」旨法廷証言しており、その時点で出家の意志は皆無でした。
ところが、私は出家することになりました。私の入信後、勢力拡大のために、オウムが出家者の増員を図ったのです。私の入信前の一年半の間に約六十人が出家したのに対し、入信後の一年間には約二百人が出家しました。
「現代人は悪業を為しているために来世は苦界に転生する。世紀末に核戦争が起こる。(本文二十一頁)」
―麻原は人類の危機を叫びました。そして、その救済のためとして、信徒に布教活動をさせたり、さらに、出家の必要性を訴え、多くの信徒を出家させたりしました。
このように、一般社会は苦界への転生に至らせる世界として説かれていましたが、それを聞いているうちに、そのとおりの体験が私に起こりました。
私の公判において、友人が次の証言をしました。昭和六十三年晩秋か初冬に私が話した内容です。
町中を歩くとバイブレーションを感じること、電車内のいかがわしい広告を見ると頭が痛くなること、繁華街の近くにいると体調がおかしくなるという話がありました。
当時、私は街中を歩いたり、会話をするなどして非信徒の方と接したりすると、苦界に転生するカルマが移ってくるのを感じました。この感覚の後には、気味悪い暗い世界のヴィジョン(非常に鮮明な、記憶に残る夢)や自分が奇妙な生物になったヴィジョン―カンガルーのような頭部で、鼻の先に目がある―などを見ました。この経験は、カルマが移り、自身が苦界に転生する状態になったことを示すとされていました。さらに、体調も悪くなるので、麻原がエネルギーを込めた石を握りながら、カルマを浄化するための修行をしなければなりませんでした。
また、一般社会の情報は煩悩を増大させて、人々を苦界に転生させると説かれていました。そのために、情報によっては、接すると頭痛などの心身の変調が起きたのです。
他方、当時、日常的に麻原からの心地よいエネルギーが頭頂から入って心が清澄になり、自身のカルマが浄化されるのを感じました。
これらの経験によって、一般社会が人々のカルマを増大させて苦界に転生させるのに対して、麻原だけがカルマを浄化できることをリアルに感じました。そのために私は、麻原の説くとおりに一般社会で通用する価値観は苦界に至らせると思うようになり、解脱・悟りを目指すことにしか意味を見い出せなくなりました。
この状況に関連することとして、検察官の「広瀬から出家の原因、理由を聞いたことがあるか」との確認に対して、私の指導教授は「結局、神秘体験だと言っていた」と法廷証言しています。(当時、私は教授にも入信勧誘していたのです。)また、出家することが、苦界に転生する可能性の高い親を救うことになるとも思うようになりました。子供が出家すると、親の善業になるとされていたからです。出家にあたり一番の障害は親子の情ですが、それを除くために、オウムではそのように説かれていたのです。
こうして、私は出家願望を抱くようになりました。世紀末の人類の破滅というタイム・リミットをにらみながら、家族の説得に要する期間や就職が決まっていた事情なども考慮して、二、三年後の出家になると思っていました。
このような昭和六三年の年末、私は麻原から呼び出されました。麻原は救済が間に合わない、もう自分の都合を言っていられる場合ではないと、出家を強く迫りました。私は麻原に従い、大学院修了後に出家する約束をしました。そして、平成元年三月末に出家しました。
私の出家後、平成元年の四月から、麻原は「ヴァジラヤーナ」の教義に基づく救済を説きはじめました。現代人は悪業を積んでおり、苦界に転生するから、「ポア」して救済すると説いたのです。「ポア」とは、対象の命を絶つことで悪業を消滅させ、高い世界に転生させる意味です。この「ポア」は、前述(二十一頁)のように、麻原に「カルマを背負う―解脱者の情報を与え、悪業を引き受ける―」能力があることを前提としています。
その初めての説法において、麻原は仏典を引用して、「数百人の貿易商を殺して財宝を奪おうとしている悪党がいたが、釈迦牟尼の前生はどうしたのか」と出家者に問いました。私は指名されたので、「だまして捕える」と答えました。ところが、釈迦牟尼の前生は悪党を殺したのです。これは殺されるよりも、悪業を犯して苦界に転生するほうがより苦しむので、殺してそれを防いだという意味です。それまでは、虫を殺すことさえ固く禁じられていたので、私にはこの解答は思いつきませんでした。しかし、ここで麻原は、仏典を引用して「殺人」を肯定したのです。
ただし、このときは、直ちに「ポア」の実践を説いたわけではありませんでした。最後は「まあ、今日君たちに話したかったことは心が弱いほど成就は遅いよということだ」などと結んでいます。私も、実行に移すこととは到底思えませんでした。
ところが、麻原は説法の内容を次第にエスカレートさせていきました。その後の説法では、「末法の世(仏法が廃れ、人々が悪業を為して苦界に転生する時代)の救済を考えるならば、少なくとも一部の人間はヴァジラヤーナの道を歩かなければ、真理の流布はできないと思わないか」などと訴えています。それに対し、出家者一同は「はい!」と応じており、「ポア」に疑問を呈する者は皆無でした。(『ヴァジラヤーナコース教学システム教本』―教団発行の説法集より)
前述(二七~二八頁)のように、私にとっては、現代人が苦界に転生することと、麻原がそれを救済できることは、宗教的経験に基づく現実でした。ですから、私は「ヴァジラヤーナの救済」に疑問を抱くことなく、これを受容しました。なお、麻原は、私が述べたような宗教的経験を根拠として、この教えを説いていました。
さらに、私はいわゆる幽体離脱体験(肉体とは別の身体が肉体から離脱するように知覚する体験などもあったので、私たちの本質は肉体ではなく、肉体が滅んでも魂は輪廻を続けるとの教義を現実として感じていました。そのために、この世における生命よりも、よりよい転生を重視するオウムの価値観に同化していました。このことも「ヴァジラヤーナの救済」を受容した背景だと思います。
このような説法が展開されていたとき、私は解脱・悟りのための集中修行に入りました。第一日目は、立住の姿勢から体を床に投げ出しての礼拝を丸一日、食事も摂らずに不眠不休で繰り返しました。このときは、熱い気体のような麻原の「エネルギー」が頭頂から入るのを感じ、まったく疲れないで集中して修行できたので驚きました。
この集中修業において、最終的に、私は赤、白、青の三色の光をそれぞれ見て、ヨガの第一段階目の解脱・悟りを麻原から認められました。特に青い光はみごとで、自分が宇宙空間に投げ出され、一面に広がる星を見ているようでした。これらの光は、それに対する執着が生じたために、私たちが輪廻を始めたとされるものでした。その輪廻の原因を見極めることは、輪廻から脱した経験(=解脱)を意味しました。
解脱・悟りを認められた後は、以前は身体が固くてまったく組めなかった蓮華座(両足首をももの上に載せる座法)が組めるようになりました。教義によると、これはカルマが浄化された結果と考えられました。また、食事が味気なく、砂でも噛んでいるように感じ、食事に対する執着が消えたように思えました。さらに、小さなことにこだわらなくなり、精神的に楽になりました。
以上は麻原の「エネルギー」を受けた結果のように思われたので、彼が人のカルマを浄化して解脱・悟りに導くことの実体験になりました。
平成二年四月、麻原は古参幹部と理系の出家者計二十人に対して、極秘説法をしました。冒頭、「今つくっているもので、何をするか分かるか」と私に問いました。しばらく前から、何らかの菌の培養を指示されていたのです。目的は聞かされませんでしたが、指示の雰囲気から危険な菌らしいことは分かりました。私は、「ヴァジラヤーナの救済」とする旨を答えました。一年間説法されて、その実行が当然のことのようになっていたのです。
麻原は、「そうか、分かっていたのか」と言い、「ヴァジラヤーナの救済」の開始を宣言しました。
「衆院選の結果―平成二年二月の衆院選に、麻原ら教団関係者二十五人が出馬し、全員が落選―、現代人は通常の布教方法では救済できないことが分かったから、これからはヴァジラヤーナでいく」
そして、麻原が指示したのは、猛毒のボツリヌストキシンを大量生産し、気球に載せて世界中に散布することでした。私たちは、その場で各人の任務も指示され、直ちに作業に取りかかったのです。私はボツリヌス菌の大量培養―容量十立方メートルの水槽四基―の責任者でした。
作業は過酷でした。ヴァジラヤーナの救済になると麻原は血道を上げるので、指示を受ける私は寝る暇もないことがありました。私は約三か月間教団の敷地に缶詰めにされ、風呂にも二度しか入れませんでした。それも関連部品の購入のために業者を訪問するときなどに、指示されての入浴でした。そして、安全対策も杜撰で、非常に危険な状況での作業でした。結局、種菌さえできていなかったことが後で判明したのですが、できていたら私たちが真先に死んでいたと思います。
私たちは、一般社会では無差別大量殺人とみなされる行為を指示され、しかも厳しい作業が続きましたが、誰も疑問を口にすることなく、淡々と行動していました。外部の人が見たら、殺人の準備をしているとは思えなかったでしょう。
それは、私たちにとって、「ヴァジラヤーナの救済」が宗教的経験に基づく現実だったからです。(本文三十一頁)そして出家後も、次のように、そのリアリティは深まるばかりでした。
一般社会が苦界への転生に至らせることに関しては、出家後初めて外出したときに、以前に経験のないほど厳しくカルマが移ってくるのを感じて(本文二十七、二十八頁参照)、危機感を覚えました。出家者に対して外部との接触を厳しく制限するなど、教団が外部の悪影響を警戒していたことが暗示になったのだと思います。また、テレビ・コマーシャルを視聴したところ、その音楽のイメージが頭の中でぐるぐると繰り返されるようになり、集中力が削がれる経験がありました。それは、選挙運動中に、麻原の指示でオウムに関する報道を録画したときのことでした。私の変調に気づいた麻原が、「現世の情報が悪影響を与えている」と作業の中止を指示したので、一般社会の発する情報への警戒心が強まりました。
一方、麻原の救済能力に関しては、その「エネルギー」によって解脱・悟りに導かれたと感じる経験をしたために、さらに奥深さを知った思いでした。
ボツリヌストキシン散布計画が中止された後、私は集中修行に入りました。そして、自分の意識が肉体から離れ、上方のオレンジ色の光に向かう経験などをして、ヨガの第二段階目の解脱・悟りを麻原から認められました。また、認められたその場で、毒ガスホスゲンの生産プラントの製造計画(平成二年十月から三年八月、中止ーオウムでは、次の計画の指示が入り、前の計画が中止されることが多かった)に加わるよう指示されました。その後も、プラズマ兵器、レーザー兵器の開発(同四年十一月から五年十二月、中止)、ロシアにおける武器調査(同五年二月と五月)、炭疽菌の散布計画(同五年五月から六月、失敗)、オーストラリアにおけるウラン調査(同五年九月)、自動小銃AK七四千丁の製造(同六年二月から七年三月、一丁完成、逮捕のため中止)などを麻原から指示されました。
このように、オウムにおいては、「ヴァジラヤーナの救済」の実践は日常的なことでした。
そして、平成七年三月、私たちは地下鉄にサリンと散布する指示を村井秀夫から受けました。麻原の意志とのことでした。その指示は、当時の私には、苦界に転生する人々の救済としか思えませんでした。一般人が抱くであろう「殺人」というイメージがわかなかったのです。
地下鉄サリン事件に関するある共犯者の調書を読むと、私たちが事も無げに行動している様子が散見されます。そのような記述を読むと、残酷な事件を平然と起こしたことについて、自らのことですが戦慄さえ覚え、被害関係者の皆様に対しては心から申し訳なく思います。誠に愚かなことでしたが、オウムの宗教的経験に没入している状態でした。
[ただし、私は決して軽い気持ちで事件に関与したわけではありませんでした。救済とはいえ、「ポア」の行為そのものは、通常の殺人と同様に悪業になるとされていたからです。それまではカルマの浄化に努めてきたのですが、救済のためにカルマを増大させる行為をすることが「ヴァジラヤーナの救済」と意味付けられていたのです。そのカルマは、修行によって再び浄化する必要がありました。さもないと、「カルマの法則(本文二十一頁)によって、自身にも返ってくるとされていたからです。実際、地下鉄から下車した後、私は突然ろれつが回らなくなく、サリン中毒になったことに気付いたのですが、そのときは「カルマが返ってきた」と思いました。]
以上のように、オウムにおいては、非現実な教義が宗教的経験によって受容されました。そして、その教義が社会通念と相容れないものだったために、逸脱した行動がなされました。
他方、「禅」も宗教的経験を起こす技法を用いますが、「悟了同未悟―悟り終われば凡夫に立ち返る―」という教えがあります。これは「禅」の瞑想技法によって起こる日常生活への不適応(本文二十五頁)を防ぐ安全装置ではないでしょうか。何代にもわたって存続している宗教には、問題が起こるのを回避する知恵の蓄積があるのだと思います。
宗教的経験を起こす技法やその経験に基づく思想に係わる場合は、その弊害の予測が困難なので、このように経験的に安全性が保障されていることを確認する必要があるでしょう。
また、私は宗教的経験によって教義の検証が可能と思いオウムに関心を持ったのですが、それは大きな誤りでした。人間の感覚は決して常に真実を反映しているわけではありませんでした。神秘的体験の心理状態は次のようにいわれており、幻覚を真実と認識してしまうこともあるのです。
神秘的な状態は比量的な知性では量り知ることのできない真理の深みを洞察する状態である。それは照明であり、啓示であり、どこまでも明瞭に言い表されえないながらも、意義と重要さとに満ちている。そして普通、それ以後は、一種奇妙な権威の感じを伴うのである。(前出ジェイムズ)
幻覚的な宗教経験によっては、決して“客観的”な真実は検証できません。できるのは“主観的”に教義を追体験することだけです。それ以上のものではありません。
ですから、宗教的経験はあくまでも“個人的”な真実として内界にとどめ、決して外界に適用すべきではありません。オウムはそれを外界に適用して過ちを犯したのです。
【vol.4「恐怖心の喚起」】へ続く。
宗教的経験
カルトの「超越的世界観」によって、現実世界においては解決の困難な問題が解決することと述べました。他方、この類の世界観は非現実的であるために、受容が困難なのも事実です。ところが、「神秘体験」、「超越体験」などと呼ばれる幻想的な宗教経験は、その受容を著しく促進します。
オウムにおいても、教義の妥当性の根拠は、その種の宗教的経験でした。つまり、多くの信徒は教義の世界を幻覚的に経験しており、その世界を現実として認識していたのです。地下鉄サリン事件への関与は誠に愚かであり、心から後悔しておりますが、この事件についても、宗教的経験から、私は教義上の「救済」と認識して行いました。
このように、宗教的経験は、「殺人」を肯定する非現実的な教義さえ受容させる原因となります。したがって、宗教的経験を根拠とする思想やこれを起こす技術の使用には注意すべきです。
以下、宗教的経験の検討のために、私の経験を述べさせていただきたく思います。
前述のように、高校三年生のときに、私は、「生きる意味」の問題を意識するようになりました。しかし、その後、私は目を引いた本を読んだり、簡単な瞑想を指導する団体に入会したものの、その問題は棚上げ状態でした。大学で学ぶことが将来の職業に直結するので、学業や学費のためにアルバイトに忙殺されていたのです。
そのようなとき、偶然、私は書店で麻原の著書を見かけたのです。昭和六十三年二月ごろ、大学院一年のときでした。その後、関連書を何冊か読みましたが、彼の説く解脱。悟りが気になりました。
最終的な解脱・悟りは、絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜の境地であり、本来、私たちはその状態に安住していたにもかかわらず、煩悩にとらわれたために、輪廻して苦界をさまよい続けているとされていました。ここで、絶対自由とは、カルマ(業。転生する原因)から解放され、どの世界に転生するのも、最終解脱の状態に安住するのも自由という意味でした。絶対幸福とは、金、名誉など自分以外の外的存在を必要としない幸福という意味でした。絶対歓喜とは、自己が存在しているだけで歓喜状態にあるという意味でした。
不明な点が多いものの、何らかの絶対的に幸福な境地の存在が事実であれば、その追求は「生きる意味」に値するのではないかと思いました。
また、麻原は修行を完成させて最終解脱の境地にあり、弟子を指導して彼らをも解脱させているとのことでした。麻原や弟子たちの体験談を読むと、解脱への確かな道が存在しているように思えました。彼らの体験には普遍性が感じられたからです。さらに、麻原は自身の体験の妥当性を、ダライ・ラマ十四世をはじめとするチベット仏教やインドの聖者たちと交流して確認したとのことでした。
前述の解脱のような教義の話だけならフィクションを読んでいるようなものでしたが、このような実証的な姿勢は理解できることでした。この点は、私がそれまでに接した斯界のものとは違っていると思いました。
しかし、事はそう簡単に運びませんでした。麻原が主宰するのは、宗教団体「オウム真理教」だったのです。(なお、当時、オウムはほとんど無名の団体でした。)
私は新宗教に対して拒絶反応が起こるのを禁じ得ませんでした。「輸血拒否事件」、「霊感商法」…新宗教に関するマスコミ報道は、決まって言いようのない不快感を催すものでした。とりわけ、「輸血拒否事件」は、高校三年生のときに話を聞いた団体のことだったので、新宗教に対する問題意識が高まりました。
この事件の報道では、事故に遭った子供が「生きたい」と言っていたのにかかわらず、両親が教義に従い、輸血を拒否したとされていました。この団体の聖書の解釈が正しいという保証はないのだから―私にはほかの解釈も可能に思えました―、そのような不確実なことに基づいて命を犠牲にすることが信じられませんでした。ですから、この事件で、私の新宗教に対する不信は決定的なものになっていました。
このようなわけで、私は本を読む以上にオウムに近づけなかったのです。
ところが、本を読み始めた一週間後くらいから、不可解なことが起こりました。修行もしていないのに、本に書かれていた、修行の過程で起こる体験が、私の身体に現れたのです。そして、約一ヶ月後の、昭和六十三年三月八日深夜のことでした。
眠りの静寂を破り、突然、私の内部で爆発音が鳴り響きました。それは、幼いころに山奥で聞いたことのある、発破のような音でした。音は体の内部で生じた感覚があったものの、はるか遠くで鳴ったような、奇妙な立体感がありました。
意識を戻した私は、直ちに事態を理解しました。爆発音と共にクンダリニーが覚醒した―読んでいたオウムの本の記述が脳裏に閃いたからです。クンダリニーとは、ヨガで「生命エネルギー」などとも呼ばれるもので、解脱するためにはこれを覚醒させる、つまり活動する状態にさせることが不可欠とされていました。
続いて、粘性のある温かい液体のようなものが尾底骨から溶け出してきました。本によると、クンダリニーは尾底骨から生じる熱いエネルギーのことでした。そして、それはゆっくりと背骨に沿って体を上昇してきました。腰の位置までくると、体の前面の腹部にパッと広がりました。経験したことのない、この世のものとは思えない感覚でした。
「クンダリニーの動きが正しくないと、くも膜下出血を起こす」、「指導者なしの覚醒は危険だ」―オウムの本の記述は別世界の話でしたが、今や、我が身に起こりつつある現実でした。私はクンダリニーの動きを止めようと試みました。しかし、意志に反して、クンダリニーは上昇を続けました。
クンダリニーは、胸まで上昇すると、胸いっぱいに広がりました。ヨガでいうチャクラ(体内の霊的器官とされる)の位置にくると広がるようでした。クンダリニーが喉の下まで達すると、熱の上昇を感じなくなりました。代わりに、熱くない気体のようなものが上昇しました。これが頭頂まで達すると圧迫感が生じ、頭蓋がククッときしむ音がしました。それでも、私は身体を硬くして耐えるしかなす術がありませんでした。
突然の出来事に、どうなることかと思いましたが、それをピークに一連の現象は収束しました。どうやら、無事に済んだようでした。
オウムの宗教的世界観が、一挙にリアリティを帯びて感じられました。麻原をグル(修行と指導する師)として、解脱・悟りを目指すことが私の「生きる意味」であると確信しました。麻原の著書を読み始めて以来相次いだ体験に、彼に強い「縁」を感じていたからです。クンダリニーが自然に覚醒したのは、前世のグルの著書を読んだために、修行者だった私の前世の記憶が甦ったからだと思いました。
このように、急激に宗教観念を受容して、思考体系が一変する心理現象は、「突然の宗教的回心」と呼ばれています。これと漸進的な宗教観念の受容との違いについて、研究論文には次のように述べられています。
突然の回心は、被験者そのものが全く変えられるように思われる経験として定義した。つまり、その変化は、被験者が生じさせるのではなく、彼にもたらされるように思われた。また、その変化は、被験者の生活様式、道徳的特性を形成する態度におけるものだった。
漸進的な宗教的発達は、上で説明したような回心経験がないという特徴のもので、そして被験者が自身を無信仰と識別したことがないものである。
すべての回心者は、疑いの余地なく、無信仰の状態から信仰深い状態になった。
二つの集団の特色をかなりよく示す、二つの自伝を下に引用する。一人の突然の回心者は、彼の経験を次のように記述した。
この経験は、私が一四歳の秋に起きた。私は畑を耕して働いていた。突然、嵐が近づいたように思われ、そしてあたかも私の周りの全てが止まったようだった―私は神の存在を感じた。馬たちは完全に止まった状態になった。真っ黒な空がとどろいたので、私は祈った。嵐はすぐに通り過ぎたが、この瞬間だった、―私は祈りながら―主が望むならば、クリスチャンになり、主に仕える決心をしたのは。
漸進的な宗教的発達をした集団の一員は、彼の経験を次のように記述した。
私が信仰深いと自覚したときを説明するのは難しい。それに対し、何年か前に私は十ポンドで生まれ、そして現在はそれよりかなり重いという事実を説明するのは、全く簡単だろう。この成長には、出来事の印象がないわけではない。しかし、少なくとも回想では、そのプロセスはあまりに完全に連続したように霞んでいる。だから、私が自身の認識に現れた時点を思い出せる以上に、私は“信心深く”なった時点を分離できない。私はその二つの出来事はほとんど同時に違いないと思う。
このような宗教的回心は、人が葛藤状態にあるときに、幻覚的な超越体験と共に起こることがあり、このとき葛藤が解決するとされています。また、突然の宗教的回心においては、常識から非常に逸脱したビリーフ・システム(思考体系)が受容される場合があるとされています。そして、「カリスマグループの一つの注目せざるを得ない特徴は、入会の特徴がしばしば劇的な回心の経験であることだ」といわれています。
私の場合、「生きる意味」に係わる葛藤のために、回心が起き、オウムの教義体系が受容されました。このように、非現実的な世界観が突然現実として感じられ、それが受容されることがあるので、超越体験に基づく世界観には要注意でしょう。後述のように、それが日常生活との間に摩擦を生じる場合は問題が起こるからです。
オウムの宗教的世界観が現実となった私に、入信以外の選択はありませんでした。また、新宗教うんぬんといっていられる状況ではありませんでした。クンダリニーが覚醒した以上、指導者は不可欠だったからです。私はクンダリニーをコントロールできず、頭蓋がきしんでも、なす術がなかったのです。この状況について、ある共犯者は「広瀬君は、本を読んだだけでクンダリニーが覚醒して、困って教団に相談に行ったと言っていた。ある種の困惑を広瀬君から感じた。」と法廷証言しています。
こうして、オウム真理教の在家信徒としての生活が始まりました。在家信徒は、社会生活しながら、教義の学習、守戒など教義の実践、ヨガの行法、奉仕などの修行をすることが基本でした。
オウムの教義と修行の目的について、あとの話の理解のために必要な部分のみ説明致します。
教義において、修行の究極の目的は前述の最終解脱をすること、つまり、輪廻から解放されることでした。なぜ解脱しなければならなのか―それは、輪廻から解放されない限り苦が生じるからだ、と説かれていました。これは、今は幸福でも、幸福でいられる善業が尽きてしまえば、これまでに為してきた悪業が優住になり、苦しみの世界に転生するということでした。特に、地獄・餓鬼・動物の三つの世界は三悪趣と呼ばれ、信徒の最も恐れる苦界でした。
それに対して、解脱はすべての束縛から解放された崇高な境地でした。解脱に至るには、次のように、私たちが本来の最終解脱の状態から落下していった原因を除去していくことが必要と説かれていました。
私たちは自己が存在するためだけで完全な状態にあったにもかかわらず、他の存在に対する執着が生じたために輪廻転生を始めたとされていました。それ以来、私たちは煩悩(私たちを苦しみの世界に結びつける執着)と悪業を増大させ、それに応じた世界に転生して肉体を持ち、苦しみ続けているとのことでした。たとえば、殺生や嫌悪の念は地獄、盗みや貧りの心は餓鬼、快楽を求めることや真理(精神を高める教え=オウムの教義)を知らないことは動物に、それぞれ転生する原因になるとされていました。
これらの煩悩と行為は過去世のものも含め、情報として私たちの内部に蓄積しているとのことでした。この蓄積された情報が「カルマ(業)」でした。そして、「悪業に応じた世界に転生する」というように、自己のカルマが身の上に返ってくることを「カルマの法則」といい、これも重要な教義でした。
カルマの法則から考えると、解脱、つまり輪廻からの開放に必要なのは、転生の原因となるカルマを消滅(浄化)することになります。ですから、オウムにおいては、カルマの浄化が重視され、修行はそのためのものでした。
[なお、前述の「殺生」は、虫を殺すことも含みます。ですから、そのほかに挙げた行為もそうですが、一般人の日常的な行為はほとんどが悪業となります。したがって、信徒についても、入信前は悪業を為してきたことになり、それらを浄化しない限り苦界に転生することになります。だから信徒たちは必死に修行していました。また、家族など周囲の非信徒たちは苦界への転生が避けられないことになり、それを信徒たちは案じていました。後述しますが、日常生活と相容れないこの教義のために、一般社会は苦界への転生に至らせる世界とみなされました。そのために、信徒は一般社会を離れて出家していきました。さらに、苦界へ転生する現代人を救済する目的で、殺人まで犯すことになりました。]
また、オウムの教義において、麻原は「神」といえる存在でした。それは、最終解脱者であり、様ざまな「神通力」を有するとされていたからです。特に麻原は、人を解脱させたり、高い世界(幸福な世界)に転生させたりする力があると主張していました。私たちに「エネルギー」を移入して最終解脱の状態の情報を与え、代わりに、苦界に転生する原因となる悪業を引き受ける―「カルマを背負う」といっていました―と説いていたのです。カルマを浄化していないと苦界に転生するのですから、カルマを背負ってくれる麻原は、まさに「救済者=神」でした。
麻原の指示が絶対だったのも、そのような「救済」の能力を有するためでした。オウムの世界観においては、苦界への転生の防止が最優先であるところ、麻原の指示の目的は、苦界へ転生する人類の救済とされていたのです。
回心による教義の受容の後、入信後は、私の身の上に個々の教義の体験が現われ、教義の世界観に対するリアリティがますます深まりました。たとえば、入信の一週間後に、麻原の「エネルギー」を込めたとされる石に触れたところ、気体のようなものが私の身体に入ってきました。そして、胸いっぱいに広がり、倒れそうになったのです。そのときは、ハッカを吸ったような感覚がして、私は自身の悪業が浄化されたと思いました。
その後も様ざまな形でこのような体験を重ねたので、私にとって、麻原が「カルマを背負う」能力を有することは現実でした。そのために、麻原は「神」であり、その指示は絶対だったのです。
なお、現在は、この種の経験は暗示の機制による幻覚と理解しています。つまり、以前に接していた「エネルギーを移入してカルマを浄化する」という教義(二十一頁)が暗示になり、「エネルギーを込めた」とされる石に触れたところ、教義どおりの幻覚が現れたものと思います。(このように、回心後は幻覚的経験が極めて起きやすい状態になっていました。)
なぜあの男が―麻原の地位が教団内で絶対だったことに対する疑問の声をよく聞きます。その理由の一つは、私と同様に、信徒にとっては麻原を「神」とする教義の世界観が現実だったことでしょう。ヨガの行法によって、多くの信徒が教義どおりの宗教的経験をしていたのです。
現役の信徒は、今も、麻原の力でカルマが浄化されると感じる経験をしているようです。だから、麻原が法廷でどんなに見るに堪えない振る舞いをしても、彼は「神」であり続けているのです。私もそうでしたが、信徒が帰依しているのは生身の麻原ではなく、宗教的経験によって知覚した麻原です。「現実」よりも「宗教的経験」のほうがリアリティがあるのです。
このような宗教的経験の作用について、文献には次のように述べられています。
アメリカで(そしてしばしば国際的に)現在見られる多くのカルト様のビリーフ・システムを概観することは、臨床医が特定のセクトを正しく評価するにあたり役に立つ。ビリーフ・システムは、一般に部外者を困惑させるもので、多くは超越体験や神秘体験に基づいている。あるものは、なじみのない東洋の伝統から得ている。あるものは、教義を再構築する程度にまで、既存の宗教を粉飾する。
超越体験あるいは神秘体験は、回心のプロセスにおいてしばしば重要だが、このことはジェイムズとフロイトが注目した。葛藤の解決における超越体験は、非精神病者と精神病者の両方に急性の幻覚的エピソードが起こる程だが、この重要性も強調されてきた。これらの経験はまた、カリスマセクトの多くの全員にとって、グループの全員をを続けされる総体である。これらの出来事は、類似した現象を経験したことのある他の人たちとの友好関係を、最高潮に高める強力な感情的経験になる。
宗教的経験のコンテクストにおける精神病様超越現象が生じることを説明できるモデルは、まだ開発されていない。しかし、注目すべきなのは、かなり注意を引く知覚現象を、これらのセクトの全員が普通に報告することである。たとえば、一つのグループの百十九人の全員のうちの三十パーセントが、瞑想中に幻覚様経験を報告した。明らかに、このような現象は、心理学者が正常な精神的プロセスのみならず病的プロセスを理解するのにもかなりの影響があるはずだ。それらはたぶん、精神病といわれる人に幻覚状態を起こすあるコンテクストの性質を、心理学的に理解する助けになるだろう。
(A教団は)夢さえも「お父様(教祖)の夢を見ますよ」などと暗示を与えて教祖の夢を見やすいように誘導したりする。それらのプライミングの結果、信者は身辺でおきる現象がすべて神やサタンといった心霊現象ととらえることになっていると思われる。さらに、こうした経験が西田のいう個人的現実性を高める。つまり体験や推論が教義と整合しているという認知を与え、ビリーフは強化される。
(西田公昭 一九九五年 ビリーフの形成と変化の機制についての研究(4) 社会心理学研究、一一、一八-二九)
(プライミング―特定の情報に接触させることによって、人間の情報処理を一定の方向に誘導すること)
瞑想のより高い段階は多くの経験を含む。これは、伝統的な文献によく載っており、明るい光のヴィジョン、身心の喜びに満ちた陶酔感、静けさ、明晰な知覚、および愛や献身の感情を様ざまに含む。“超意識”、“超越体験”、“神秘体験”、あるいは“クンダリニーの覚醒”と名付けられており、これらの状態は、人を引き込む影響を及ぼす。この影響は、瞑想の伝統によれば、非常に深刻になるものだ。
※「輸血拒否事件」1985年6月に神奈川県川崎市高津区で起こった事件。ダンプカーにひかれた当時小学5年生の男の子が、両親の輸血拒否にあい、約5時間後に死亡。「大ちゃん事件」とも。
そうしないと、流れ流され、自分でも不本意なところへ漂流してしまうかもしれない。
もう、万人に通用する幸せのモノサシが与えられる時代じゃなくなったんだと思う。
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良い高校に入って、良い大学に入って、良い企業に就職して・・・
サークルに入ってる間は、サークルの目指す価値に身を捧げてきた。
でも、これも自分で考えついた目標ではなく、与えられた目標だったように思う。
良い企業に就職して、というのには失敗してしまったかもしれない。
もちろん、このご時勢に仕事にありつけるだけ、ありがたいことだとは思う。
でも、今すごく危機感を持っている。私は、目指すべき指標を失ってしまった。
来春からの仕事は、私の中では「食うための仕事」として納得された。
やってみないと分からないが。でも、今の段階では生きがいとか、幸せ、とは結びつかない。
そもそも、仕事に過剰に「自己実現」だの「自己成長」だの言うのが変なんじゃないか。
多くの人にとって、おまんま食うための手段だろうし、それでもいいと思うんだ。
みんながみんな、ジョブズやら、孫正義のように、リーダーになりうるヴィジョンを持ってるわけじゃない。
「お前が消えて喜ぶ者にお前のオールをまかせるな」
誰かのモノサシによっかかって、『自分は不幸せだ』と嘆くよりも、
個人の時代なんだな。辛いけど、強い個人であらねば。