はてなキーワード: キャッチボールとは
非常に長文です。読み辛ければ申し訳ない。
昨日、個人の意見や感想が身近な上に大量に見られる現代で、情報の取捨選択ができず、それらの大量の他人の意見に沈黙できないのは病的だ、と書いている人を見かけた。
はっとして、そしてまさに自分のことだ、と思った。
自分は、自身の考えを第三者の前で表明しないと自身が歪んでいくようだと思い込むようになって久しい。
表明する内容も、ジェンダー論や人間性の話など、答えの無い人それぞれ考え方が異なるものばかりだ。
そんなことを発表せずとも幸せに生きている人は多くいるにも関わらず、自信を省みるともはや強迫観念の域に達していると自分でも思える。
「あくまで自分は」を常套句に、ネットの海に放り込まれた誰へ向けるかも明確ではない見知らぬ人の呟きに対して「自分はこう思う」と表明し続けている。
今思うと、今まで表明してきても良い反応も悪い反応も帰ってこなかった。
周りの一生懸命に真っ当に生きて人生を楽しんでいる(ように見える、きっと苦労も経験してきている)人たちは、そんな表明をせずとも健全な精神を得ている。
自分は、交流があまり無い人や関係が続いている親しい人からは元気で親しみやすいと言われる。
場が沈黙するくらいならと、自分から話し始めることは当たり前。
一人での旅行は当然楽しめるし、初めてやる仕事の教えを乞いに上司に声をかけることもどんどんする。
そんな陰キャにしては歪で悩みの種の一因でもある自分の性格を形成する根底にあるものは、家庭環境が大きい。
両親が家にいる事は少なく、父親は仕事で別に住居を構えており、電話もメールも年に数回するかどうかだった。
母親は子育てをしながらも家事を全て一人でこなし、子供の手間が減ってからはパートタイム程度に留めていた仕事を夜勤有りのフルタイム勤務に切り替えた。
上のきょうだいが居るが、訳あって母を伴い施設や病院に行くことも多かった。
そして、五体満足な自分が一人。
自分は基本的に家では一人のことが多く、家に母親が居ても人を呼ぶ余裕など当然無い。
でも小学生の頃の自分は、記憶が曖昧ながらもそれらに悩んだ記憶はあまりない。
なぜならそんな自分には何も与えられなかったわけではなくて、小学生の頃にパソコンを買い与えられていたからだ。
みんなは携帯やスマホで家に帰ってからもゲームをし合っている。
撮った写真をすぐにSNSに載せて、それに反応をして笑っている。
中学生の自分は学校でそれらが行われているのを見ているしかなかったが、急いで家に帰ってパソコンを付ければその輪に自分も加わることができた。
そのためか多少不便を強いながらも自分をハブるような友人はおらず、楽しい生活を送ることができた。
関係がほとんど自然消滅していった今でも、当時の友人達には感謝が尽きない。
問題はその後だった。高校時代から陰りが見え始め、交友関係に失敗する経験をし始めるようになった。
高校生になってしばらくしてから電話機を買い与えられたため、問題はそこではなかった。
きょうだいは居ても、母親が居ない時は部屋が別なのもあり最低限の必要な会話しかしない。
誕生日も年齢も電話番号も覚えていないくらいに関係の薄い父親。
家族に話しかける機会があまりなく、また話しかけた時に相手が迷惑だと考えることを意識してしまい、最低限の会話しかしなくなった。
そしてそのうち、話さないことが当たり前になり、自分も家族への興味が失せてしまって、それ以降話すきっかけを取り戻せていないのを今でも明確に認識している。
家庭での居心地の悪さを自覚しているなら、中学生の頃のように自分から行動を起こせばよかったのに、その発想は頭に浮かばなかった。
家族であるにも関わらず、邪険にされない楽な方へと逃げて、結果的には家族を見捨てたようなものだ。
腹を痛めて産んだ実の子供を邪険にする母親がいるにも関わらず、自分の母親は素っ気ない実子が生きるためにとてつもない努力をしていた。
きょうだいとは喧嘩する事はあれ、きょうだい自身は普通のレールを歩めない体であるにも関わらず心の余裕を持ち、こちらを邪険にすることはなかった。
それらを見てきたのに、自分は自分自身した行動で残った事は、何も行動を起こさず逃げたという事実だけだった。
そんな流れで、学校以外で人と会話をする機会がほとんどなくなった。
家庭で静かに一人で失敗をして学ばず、その孤独感から本ばかり読んで人間関係を学んだ気になりそれを実践していた声の大きい自分は、学校の友人達はさぞ面倒な相手だったことだろう。
鈍感で距離を取られていることに気付かず近寄ってきて、意思のキャッチボールができず一方的に話すことを対話だと思い込んでいて、小説では省略されるリアルの付き合いで起こるやり取りが円滑にできない、そんな人間が煩わしく思われるのは当たり前のことだ。
それでも周りの人達は直接的な何かを言ってくるわけでもなく、それとなくいつものメンツからは省きながらも、さまざまなグループに属する人達がちらほらと自分と浅い付き合いを続けてくれていた。
10代の頃から、10代の頃でも、周りの人達は頭を使い、時にはぐっと我慢をして自分のような化物をいなしながらも人間関係の折衝をしていた。
自分はずっと気付けておらず、当時を振り返って自分の察しの悪さと無神経さを心から反省できるようになったのは社会人になってからだった。
こんな歳になってから自分の愚かさがわかったってどうすればいいんだよ、と思った。
一人で旅行をしても楽しめるのは、目的意識がありそれが一人である必要があるというわけではなくて、一人だと好き勝手できて気楽だから。
周りが緊張している中でも率先して話せるのは、他人の感情を軽視し興味を持てていない無神経さから来ている。
そして悩みに悩んで失敗し続けて今も絶賛落ち込んでいる人間関係の軋轢を作りがちな原因は、自分が人生の中で選択してきた間違いを間違っていると認めるどころか認識すらしてこなかった思い込みの強さと、視野の狭さと愚かさだ。
この日記の冗長さだって、きっと自己保身をしたい気持ちから来ている。
自分を形成しているものがこんなにも身勝手で出来上がっていること、自分自身ですら他人から煙たがられて当然だと感じていることに、今までの人生はなんだったんだと足元が崩れていくような感覚がしている。
自分の自己肯定感が薄く、でもそれをカバーするように間違いを疑わないほどの思い込みで自信を保ち、それを全世界に発信して非難を受けない事で認められたと思い込む。
初対面で自分のことを元気で親しみやすいと感じただろう人達が、その後親しくなっても半数以上に軋轢が生まれ険悪なまま別れることになるのは、相手が誰であれ、こちらのファーストインプレッションと異なる偏りすぎた二面性とそれを隠さなくなっていくことに幻滅したであろうことは確かだ。
家族ですら放り捨てるようなコミュニケーションの取り方、距離感を掴むのが上手くないのに一方的な形で距離感を操作しようとして不安にさせてくる行動、「あくまで自分は」と言って予防線を張りながら自分の偏った意見を非難されないように堂々と述べる。
これをされて、なぜ相手が親しみを感じて喜ぶと思うのか?
さらにそれだけではなく、ただ相手を不安にさせるに留まらず、それを行なった自分自身もそれらの行動に対し利点がほとんどなかった。
その場その場で一時的な自尊心は満たされても、継続しないから自分の立場は悪くはなれど良くはなっていかない。
本で見たような、親しい友達と特別な関係を持ち合い楽しく過ごしたいという自分の理想を得るための行動とあまりにも乖離していることにやっと気付いたのだ。
目標もなく結果も出ない行動は、本当に無益どころか無駄でしかない。
どうしたらいいのかわからなかったが、より落ち込むとしても今までの自分の行動とその意図と、それに対して起きた周りの反応を振り返った結果がこの日記だ。
自分がこのままではいけないと感じ、ではどうするべきかと散々自分の失敗を省みて出した結論は「努力して愚痴を控え、愚痴を言う原因になる交友関係は広く浅くに留め、自分の成果に数えられることに挑戦する」というとりあえずの目標を持つことにした。
これは周りに迷惑をかけず、また他人から自分のことを深く意識されることも減らし、「また自分が同じような失敗をして落ち込まないために自分自身を見つめる必要があるでしょ、またいずれ誰かと深く交流することもあるかもしれないでしょ」と自分に言い聞かせ、自分自身が認められるような形で自分の価値を上げ、自分に合っていそうなその過ごし方に慣れて、余裕のない自尊心の低さからくる失敗をする自分から離れるための挑戦だ。
自尊心が低く余裕がないと、自分を最優先で守ることに固執し、脇目も振らず逃げを選ぶことになって、手元に残るのは周りに不快をまき散らし逃げ回った自分だけだったのは結果が物語っている。
そして徒労をする度に落ち込み、自尊心はどんどん低くなっていくのだ。
孤独感は感じても、自分の言動が人と深く交流することに向いていないのであればその先は失敗しかない。
深い仲の人がいなくとも問題なく生きていける世の中で、それを利用して自分を見つめ直す事ができることを心からありがたいと思う。
もう遅いのではと感じても、生きていくのならば必ず自分のような意志を持った誰かと関わる必要があり、その際に失敗が減ることで友人関係を長く続けられるという経験はいずれ自分の心に余裕をくれることになるのではないだろうか。
「匿名でない自分自身が皆の前で堂々と考えを表明する」ことに固執していた一人の人間が自分の視野の狭さや醜さを認め、自分が変わる挑戦の最初の一歩として、匿名でここに残させてください。
がむしゃらに書き殴ってしまった長文にも関わらず、反応ありがとうございます。
自分はまさにこのような自分は〜だけどといった不必要な主張を、匿名でもない趣味のアカウントでしてしまっていたんですよね・・・自分のことを腫れ物だと考えている人はきっと多い。
自分のための会話ばかりして長文でお気持ちを吐いてしまう所は直したいと強く思っいます。
保身ばかりを考えた会話や主張をせずとも胸を張って生きられるように、この日記以降は吐き出す習慣を無くし、感化されやすい情報の多いSNSを見る時間を減らすなど少しずつ環境を変えていくつもりです。
コメントを読んで、慰めてくれる方や汚点をスルーして付き合いを続けてくれている人達をこれ以上幻滅させないよう意識していこうと思いました。
コメントでご意見をくださった方々、本当にありがとうございました。
これ違うんだよ。
会話には本当に大雑把に分けて2種類あって
増田が言ってるのはキャッチボールタイプで、これはおもろいとかおもんないとかではなく、相手の関心というか場の共感というかそっちが大事なの
変な話「知らない話」でも「興味がない話」でも何でもいいけれど、「場を共有する相手」としてのリアクションが求められている
おもんないと感じるのは、あいてとのコミュニケーションが成立しないからで、話が詰らないからじゃない
私はこれが嫌いで、あまり他人と一緒に居るの好きじゃないし、逆に言えば他人の時間を共有するなら、それ相応のキャッチボールをしろって思う
「的当て」タイプは何かって言ったら
分かり易く言えばオチがある話
怖がらせようでも、笑わせようでも、感心させようでも何でもいいけれど
話すことに目的と落としどころがあって、それを求めて放り投げられる話
これしかできない奴は上手く立ち回らないと「自分の話しかしない奴」って思われる
落ちのある話だから、それを拾われるとインターセプトしちゃってる事になって逆にコミュニケーションが成立しない
このタイプの場合、相手がオチがあると受け取ったのにオチがないとか、そもそもオチにパンチがないとかが
おもんない話になる
的当ての投げ合いが行われるときもあるけれど
そもそもの話の種別が異なっている場合、おもろい話をしてる相手に、筋の違うおもんない批判したりしちゃう
そういう意味で
小2の長男が外で遊びたいというので、公園でキャッチボールをすることにした。昼間は暑いから、少し涼しくなってから。
妻と長女(小5)に話したら、一緒に行きたいと言う。3歳の次男も強制的に連れ出す。
初めは近所の公園にしようかと思ったが、皆で行くということなので、車で10分ほどの少し広い公園へ。
妻のグローブがないので、すこし遠回りして、スポーツ用品店に立ち寄る。
見た目と色で選んだローリングスのファーストミットを買う。やわらか加工。即使用可能な逸品。
夕方4時を過ぎた公園には、遊具に子供たちが10人ほど。芝生の広場はそこそこの広さがあるが、一角でサッカーをする10人くらいの子連れグループがいるだけだった。
柔らかいボールでキャッチボールをしたり、三角ベース風の遊びをしたり。
5人で、バッターと、ピッチャーキャッチャー、一塁とその他の守り。交代で打てば意外と楽しめる。
3歳の次男は打った後、一塁ではなくママの方に全力で走ってしまう。
ママの足に抱きついて「セーフ!」だって。そのあと、両手を膝にあてて、ランナーのポーズ。兄の動きをよく見てマネしてる。
都会で住んでいた頃は公園も人でいっぱいだった。これが地方のいいところ。
芝生は転んでも痛くないし、楽しいね。
1時間半ほど遊んで、だんだんと暗くなってきたので、ファミレスに行こうと声をかけて終了。
充実した半日だった。
(以下追記)
感情的に書き殴ってて申し訳ございません。読みにくかったでしょうに、読んでくださってありがとうございます。
一応補足しておくと、これは身バレというか本人バレを防ぐためにトーンダウンしてますが、実話です。
ざっくり、返していきます。
・「嫁」じゃなくて「妻」では?
→本来の意味を知りませんでした。すみませんでした。追記は妻と記載します。
・なんで結婚したの?
→一言で言うと、守るため。
妻の仕事は、表向きは普通の社員だけど、本当は監視役で下部会社に出向中の身である。
その際中、下手を打ったとして派遣元の(上部の外資系の)会社から責任を迫られているが、問題が露呈しないようにすることを条件にと強請られている……とのことだった。
問題が露呈したら会社での立ち位置が悪くなって辞めざるを得なくなるだろうし…ということだった。
もうそれなら養うから辞めちまえとプロポーズした。そして引っ越して一緒に住んでいる。
・パパ活してたんじゃないの?
→妻からは「友達がパパ活をしていたけどその友達は飛んだ。パパからはその友達のお母さんに連絡が来ており、その相談を受けている」と言われている。
なお、携帯を盗み見た際、(他のエピソードから察するに)実際にやったのは妻なことが確定。連絡は妻の母親に来ているっぽいことが分かった。正直参ってる。
それは置いといて、騙されてたんだよな。そこで俺の気持ちは「体弱いから家事できないのは仕方ないね」から「せめて家事くらいやれや」に変わったのは許して欲しい。
そして、この話については相談の際に「根拠」として見せられるものが乏しい。LINEのやり取りじゃなくてGメールのやり取りの画像のみ見せてくるんだけど、お粗末なんだよな。
あと、この件を話すときと、会社のことを話すときのトーンが一緒だし、スクショ等は一切見た事ないから、会社の方も丸々大嘘か、嘘が混じってるかを疑ってる。
・多重人格?
→これは本物。いわゆる憑依型。憑依中の記憶を主人格は保有していないが、憑依する人格が脳内で言葉で伝えることで共有が可能。
憑依中は全く別の人の振る舞いになるし、あのレベルでの変わり身を演技でやれるとは思えないな。
→転職です。あと運が良かっただけです。
ここまで書いて「なんで離婚しないの?」って思うだろうけど、俺に性欲が無ければ一瞬で切ってると思う。
あと、嘘ばっかついて生きてるのに同情もしてる。
劣等感に苛まされた過去や受け入れがたいトラウマを乗り越えるのには、大量の時間とお金、信頼できる家族が必要で、俺がそれになるのかなとか思ったり「なんで俺がそんな役目押し付けられるんや」となったり「でもセックスの具合が良いんだよな…」となったり様々であり、最終的に出て来た感情が追記前の「自由になりたい」なのかもしれない。
(追記終わり)
嫁の結婚前にパパ活やってたこととか、元パパから3年かけて貢いだ1500万返せと連絡来てるんだけど、まぁそれはどうでもいい。
これ以上に、専業主婦の嫁がメチャクチャ体弱くて多重人格で面倒臭い。
多重人格の方は病気だからもう仕方ない。強いストレスかからないと出てこないし、それはいいや。その人格は俺のことが嫌いで、出てくると罵詈雑言を受ける。
体が弱くて、普段の家事がままならない。朝食作り(パン温めてフルーツ切るだけ)と洗濯、整理整頓以外が何もできない。料理もアイロンがけも出来ない。
お手伝いさん雇おうとしても他人が家に入るのは嫌、とめっちゃ渋る。
独身時代は週1で鍵渡してるお手伝いさんに家事全般を丸投げしてたし、飯はテキトーに済ませて、とにかく仕事に打ち込めてたのに。
てか、昼職もやってた割に家事出来なさすぎな。体弱いとかそういう次元じゃねーぞ。
その割に会話のキャッチボールを一切しない。「夕飯何が良いかな」 「ネイルに失敗したの」 こういうレベル。「この曲良いな」 「お母さんが禁煙に失敗してさ」
お前話聞けよ。俺は聞いてるだろうが。
今は風邪をこじらせて自室に籠っている。10帖の自室が唯一のオアシス。
家自体は200平米以上あるし、シアタールームまであるのにさ、7年前の金の無かった極貧独身ワンルーム生活時代より自由が無いのは何なんだ???
金稼げるようになったのにコレだよ。
ただ、依存体質で月5で体調崩して会話のキャッチボールが絶望的に出来ない嫁だが、容姿がとんでもなく可愛い。
スタイルはモデル顔負け、顔はどんな芸能人よりも可愛い。セックスの具合も最高。
俺は自由になりたい。
元記事を読みました。うちも似たような感じです。つーか、常日頃から「なんにもしなかったよね」「父親じゃないもんね」と言われています。
本当になんにもしなかったかというと、そんなことはなくて、幼稚園のときに奧さんの希望で始めさせた空手は毎週僕がクルマで連れて行って、自分も一緒にやって子供たちが2人とも黒帯を取るまで頑張ったのだけど、それでも奧さん的には「なんにもしなかった」と。
まあ、他は確かに何もしなかったので、そういうもんかなと思っていましたが、先日、「息子とキャッチボールしなかった」ことをやたらと責められて、そこはさすがにムカつきました。なぜか、彼女の中では、正しい父親は息子とキャッチボールするものだったのです。
統合失調症の友人がいる。
双方女。友人歴は約15年。友人になったあと、20代前半に統合失調症を発症し、現在は30代半ば。
20代は頻繁に連絡を取ったり遊んだりしていたが、あまり連絡を取らない期間もあり、
それでも相手が突然連絡をくれたりするので、長く友人でいられているようなところもある。
20代の頃は、安定して仕事が続けられなくて大変そうだな、と思って見ていた。
やりたい職種があるけど、業種的に健康でないときつそうなのも、難しいなと。
普通に病状が悪いと会話のキャッチボールができないし、相手も楽しそうじゃないので、遊ぶの疲れるなと思っていたときもある。
そういうときは、こちらが話しをすると「ふーん」とか「うーん」又は無言、その後相手からの支離滅裂な話が再開されるという感じ。
ただ、メンヘラによくある、こちらを利用してくる感じがなかったので、友達止めようとは思わなかった。
病状が悪めの時の特徴として、恋愛妄想があり、時々恋人ができそうになったりとかしていたけど、正直どこまで本当かわからない。
話を聞いていると、「思わせぶりなことをしてくる」、「絶対自分のこと好き」、「押せばいける」と、妄想っぽいなと思うんだけど、
実際にその場を見たわけでもないし、妄想であったとして逆に否定はいけないかなと思って、感想を述べる程度の受け答えをしていた。
そんな友人も、30代になりマッチングアプリ経由でなんと結婚した。
そのときも、本当にちゃんとした人とちゃんとした関係を築けているのか心配ではあったけど、
話を聞いた感じ趣味や考えが合う相手とのことで、ラブラブで大丈夫そうだったので、これでうまくいくならいいかと思っていた。
だが、やっぱりというのも失礼だが上手くいかなかった。
まず、友人から恋愛妄想が増えてきたあとに性犯罪にあたる事件を起こした。
それで職場ともかなり揉めていた。
そこを、子供作ればおっけー!みたいな思考になって、子供を作った。
大丈夫そうと思った結婚相手もメンヘラをこじらせており、DVモラハラ的なことをされたらしい。
離婚して残ったのは、非常にメンタルが悪化している自分自身と、一人では育てられない子供である。
育休中なので仕事は退職していないが、実家で暮らすしか選択肢がなくなったため、育休が明けても出勤できない。
まだ、人生詰んだとは思わないけど、子供がいることでこの先かなりきつくなったな、という気持ち。
でも、選ぶのも決めるのも友人だから、何を言っても駄目だったな。
恋愛妄想が出ているときに、それって本当に?どういう状況だったの?それは思い込みでは?と言ったとして何の意味もないし、
職場と揉めているときに、完全に「メンヘラ様思考=病気なんだから自分に配慮するのは当然!」になっているのを、
会社の規則の範囲では絶対に無理だよ、この規則はこういう意味だよ、会社の立場からするとこうだよ、というのは実は言っていたけど都合のいい部分しか響かないし、
子供作るのも、親と確執あるんでしょ頼れるの?相手もメンタル弱いのに大丈夫なの?自分のメンタルに関わらず毒親にならないでいられる?とか全く言えないけど言っても意味ないし、
この先も、相談のような愚痴のようなLINEが届いても、こちらの返信は結局独り言なわけで・・・
言葉っていうのは、対話でしか成り立たないんです。相手が何を考えているのか、自分の言葉が通じているのか。やりとりの中で問題が明確になり、気づきがあるんです。
SNSの問題は、思いを一方的に『吐くだけ』だということ。そこにフィードバックはない。
これは麻薬のようなものです。吐き出す言葉の強度を上げていかないと、実感が湧かなくなっていく。
いやいやSNSにもコミュニケーションはある、対話している、と主張する人もいるかもしれない。
しかし所詮は、誰だかわからない相手とのやりとりです。相手の本当の性別だって年齢だってわからない。
これは言葉のキャッチボールとは言えない。壁に向かって球を投げているのと一緒です。
『いいね』だって、反応じゃないんですよ。『あなたの話は商売になりますね』という意味に近い。
対話ではないんです
https://news.yahoo.co.jp/articles/851d718af77f5107b09bad5d76a4ad5bf9e2eaa1?page=3
こういう話をすると彼らはまずこう言ってくる。
「自閉症スペクトラム障害というのはそもそも具体的に誰を指しているんですか?」
「特定の誰かを差しているのではなく、自閉症スペクトラムという診断を受けている人やその疑いを持たれている人全般を差しています」
「だから、その人達は具体的に誰と誰なのかを聞いているんですが?」
「診断を受けた人達全体に対する平均的な意見を述べようとしているだけで、特定個人に対して何かを言おうとしているわけではありません」
「平均的な意見かどうかではなく、誰の話をしようとしているのかを聞いているんですが?」
「特定の誰かを指しているわけではありません」
「あれ?さっきと同じこと言ってませんか?同じことをもう一回聞かないと行けないんですか?」
「こちらは自閉症スペクトラム障害の診断を受けている人達の平均的な行動について話そうとしているだけであって、特定の誰かがこうであるということを言うつもりは最初からないですし、私がこれから話すことについて「特定の誰かは違いましたけど」と言われても、あくまで平均的にはこういう人達が多いですよねという話をしたいわけなんですか」
話にならねえ。
話が進まねえ。
何にもならねえ。
そしてシカトして話を進めると
「都合が悪いから答えないんですか?」
「あの、私の話を聞いてますか?自分の話ばかりして相手の話を聞く気がないってどうかと思いますが?」
みたいに言ってくる。
マジでうぜえ。
つうかキャッチボールってのは投げられたボールの所まで走って追いかけるのがシステムなんだよ。
なんでお前だけ「ここがストライゾーンですよ。ここ以外に投げるとかありえませんからね」と言っておいてこっちに投げ返すときは明後日の方向にぶん投げてくるねん。
あのな、会話のキャッチボールにおいてひたすら走り回るコスト全部こっちもちとかそんなん許されるのガキの頃までやぞ。
なんでお前は明後日にボール投げても「あれれ?走って取りに行かなくていいんですか?」って顔してて、こっちがちょっとズレたら「ちゃんと投げ返してないんだから貴方が走って拾いに行って貰えますか?」みたいな顔してるねん。
ほんまサイコパスやわ。
父親は私のことが大好きだった。父と母と私の三人で、あるいは父と二人で、父の運転する車でいろいろなところに出かけた。ときには父にさそわれて、その仕事についても行き、こんなに大きな娘さんがいるのと客先に驚かれ、父はにこにこしていた。
こういうものが最後まで人生の支えとか指針になるんだろうなと、ネットの色んな文章や身の回りの人々を見ていて思う。
自分にはこれが無いんだよなあ。父や母は自分たち子供のことを嫌いとかでは全くなかったと思うけれど、特に父に関しては、あまり興味がないというかどう接していいのか分からなかったんだろうなと思う。
父に何か積極的に関わってもらった思い出はほとんどなくて、例えばキャッチボールだとかの遊びはたぶん一度もしてもらっていないし、勉強やらを教えてもらったことは確実に一度もない(父自身が勉強できないのもあっただろうけど)。
これは父自身が同じように育ったからなんだと思う。これは後から調べて分かったことだけど、祖父は調べれば分かる程度には社会的に問題のある人間だったからだ。また、兄弟が多くその上何かと問題もあったため、子育てを丸投げされていた母は基本的に疲弊していて個々の子供に深く関わるということはキャパシティ的に無理だったんだと思う。また、母自身も様々な事情から親にまともに育てられていないので、どうしていいか分からないのもあったと思う。
だから何だという話でしかないのだけど、登場人物全員悪くなくて、ただ運が悪かったり能力がちょっと足りなかったりした結果としてそういう風になってしまったんだなあということをよく考える。誰にもどうすることもできなかったと思う。祖父母より前の世代のことは全く分からないけど、祖父母が物心ついた時点、下手すると100年近く前の時点で運命の大まかな方向性は決まっていたんだろうなと思う。
ダメ!と叫ぼうが、どんなに取り押さえようが、叩かれようが、やると決めたことは完遂する。
例えば、途中で雨が降ろうが、途中で弟が転んで頭から血を流していようがいつもの散歩を終えるまでは許してくれない。
どんなに強く怒られても平気だった。
弟もASDだが、弟はなにを怒られてるのかは理解しないくせに、怒られているということは理解して泣く。
例えば、お菓子をもってきて、包装を剝いてくれないと、拒否されたという事実に癇癪を起こす。
一度癇癪を起こすと、とにかくヒトやモノに当たり続ける。
それに対して、長男は、なにを言われても平気だし、何度拒絶されても、取り押さえられても、叩かれても、当然泣きながら訴え続けるが、訴えが通ればケロリだ。
全くもって、恨みという感情がない。
「お前なんか大嫌いだ!」
妻が長男に叫んだことが何度かあるが、全く持って平気だ。
自分にとってあからさまに悪意を向けられても、「ピーマンが嫌い」とか、「ゴキブリが苦手」とかいう嗜好の告白くらいにしか思わない。
少し妻を弁護すると、長男を嫌ってるわけではない。
たぶんなにを言ってもケロリとして、怒鳴られたり叩かれたりしても、次の瞬間キャッキャしてる長男が憎たらしく、なんとかして傷つけたくなってるらしい。
というのも、ほとんど全く質問に答えるということをしないので、知能が測れない。
ひらがなとカタカナ、簡単な英単語は読めてるようだが、どのくらいなのかよくわからない。
ゲームをしてる感じだと、足し算引き算くらいはできてる。
3歳になる手前、のころ、キーボードで「1one 2two 3three 4four」と打った時は天才かと思った。
道を覚えるのが驚異的に速いし、地図も読めてる風だ。
しかし、5歳になった今でさえ、「出かけるよ!」とか「(スーパーのカゴに)欲しいもの入れな」とか、自分の利害と一致する言葉にしか反応しない。
最近ようやく、たまに「Yes!OK!」と反応してくれることがある。
コミュニケーションからではなく、YouTubeから言葉を覚えてるからみたいなのだが。
びっくりすることに、弟に叩かれても、妻に叩かれても、反撃しない。
それでもちょっかい出され続けると「あいつアタマおかしいんじゃないか?」みたいな顔で退散するが、基本的に反撃しない。
玩具を壊され、反撃しない。
ものすごく困難を乗り越えて組み上げたパズルやブロック、お気に入りの変形ロボ、それらを破壊されても、仕返しをしない。
もちろん、壊し始めた弟を引きはがすくらいはするが、黙々と修理しようとするだけで、弟という人格を恨んでる風は全くない。
そりゃ、弟に仕返しをしたところで、崩れたパズルは戻らないし、壊れた玩具は戻らないのだけど、そうしたくなるのが人間だと思うんだが、それをしないのがすごい。
毎日のように、感極まって叫んでる。
弟がどんなに泣き叫んでいようと、部屋に妻の怒気に満ち溢れていようと、そんなのお構いなしに、なにか楽しいことを見つけると、絶叫して喜びを表現する。
毎日がこんな感じ↓
https://www.youtube.com/watch?v=pFlcqWQVVuU
感情のキャッチボールに興味がないのだが、自分からボールを投げるのは大好きだ。
嬉しいことはみんなに伝える。
みんなから投げられたボールを全無視するので、キャッチボールにはならないのだが、ボールを投げる頻度については、他の子よりも圧倒的に多い。
つまり、無敵なんだ。
お釈迦様かよお前は
最近(といっても少し昔から)、発達障害を理由に出来ないことは出来ないと言うべきとか、発達障害を言い訳にしてはならないとか、発達障害に対しての向き合い方は色んな論争を産んでいる(気がする)。私自身も悩んでいましたが、発達障害はご老人と同じように受け取るのが正解なんじゃないか?と思ったので、ここに残しておこうと思う。(もちろん私も発達障害で、かつ、文章を書くのが苦手なので、読みにくい文なのは申し訳ない。)
歳をとってくると記憶力が悪くなったり——いわゆる「ボケる」——、体力が落ちたり、怒りっぽくなったりするとよく言われますが、ご老人のなかにも、もう家族のことすら覚えられない人もいるのに対して、孫もひ孫も覚えているようなご老人もいるし、もう寝たきりで介護されながら生きているご老人もいるし、筋骨隆々で懸垂めっちゃできるお爺さんとかもいる。怒りっぽいお婆さんもいるし、穏やかなお婆さんもいる。
要するに人によるやんけ!ということだが、そう。そうなんよね。でも傾向として、記憶力が悪くなるとか、体力が落ちるというのは必ずある。
それで今思いついたのが、発達障害もこれと同様では?という事。発達障害の人のなかには凄い高難度な大学にいったりめちゃくちゃ成功してる人もいるけど、勉強がとんでもなく苦手な人とか言葉のキャッチボールが難しい人もいる。例示とか話を広げるのは本当に苦手なのでこんぐらいでまとめに入るのは勘弁してほしい
発達障害はマイノリティだから理解しにくいし、エコーチェンバーに陥って何でも障害のせいに思えてきたりするし、厳しい目で見られることも多いけど、発達障害って括りが老人って括りと概念的には同じようなものって考えたら、発達障害への向き合い方の指針にはなるのかな、と。そういう話でした