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2019-11-14

批判からみた宇崎ちゃん日赤炎上事件その1

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/plumyogamat/status/1193810840807362562

ここでも触れらているがきっかけの一つとなった当該弁護士への誹謗中傷セクハラ(以下誹謗中傷等)がひどすぎる。

以前からジェンダー性差別からみで当該弁護士批判するとそれに対して誹謗中傷等が大量、特にオタクカルチャー分野だとさらに多くの誹謗中傷等がよせられる。

擁護側は「法も論理も弁えなず、自己の信じる正義を盲信して感情的な行動をとる」と批判者側を解釈したがってるけど、実態擁護側の人間がそうなんだよ。

ブコメの反応でも不当な侵害行為への法的措置の予告をやくざ脅迫に例えるのは二次加害といえる。

さらに、DD論であるが、誹謗中傷等と批判区別がつかないのは、衆を頼んで無理を通すなら格別理性的議論をする資格がないので、排除した方がいいと思うよ。

火をつけたのは向こう、とか、最初に攻めてきたのは向こう、とかも批判誹謗中傷等の区別がついてないので本当、リアルでは気をつけてね。

で、そんなのは一部だと切断処理したがってる人いるけど、有象無象の零細アカウントのみならず擁護側の複数アルファツイッタラー弁護士政治家大学教授までが誹謗中傷等をなしており、さらにリプも賛同あるいは面白がって付和雷同するのが大半という末法状態

たとえば今回の件にかんして献血ボイコットを訴えた批判者は、同調するものもいたがそれ以上の批判者側の人間にそれはおかしいと指摘されていても、今だにフェミ献血ボイコットしたとか擁護側が騒いでいるのに、これじゃ切断は無理じゃない?(なお、朝日報道後、擁護側にも日赤攻撃献血ボイコットを主張するものがいたが、なぜかぜんぜん話題にもなってないね

大学教授はさすがにアカンと思ったのか「侮辱的と捉えうる発言をした」とぼやけた謝罪をしてたけど。

当該弁護士写真(そういえばこれ、肖像権著作権侵害になるうるんじゃない?)を示して顔がどうだとか、胸がどうだとか、人間性を疑われても仕方ないよ。

直接面向かってなら言ったらいけないと分かるような誹謗中傷等も、ネット越しだと気楽に言えちゃうのかね?

あるいはエコーチェンバー内にいると周りがみんな同じ様だからしたことないと誤認しちゃうのかな?

まあ、擁護側の人間は平気で面識もない人間誹謗中傷等をして、それをおかしいと思うものもあまりいない。とは言えるんじゃないかな?

第三者から見たら議論以前にアカン奴ら扱いされかねないよ。

まあ、何度負けても何も学ばず同じことを繰り返すのは勝手しろだけど、誹謗中傷等をはしゃいでやるのはドン引きだよ。

大学時代、若くて魅力的なバイトだけに選択的に肩を触ったりするセクハラ店長いたけど、それを見てるのと同じ気分。

あと、当該弁護士賛同者を「ファンネル」呼びするのも、意見対立する相手個人として扱わず、誰かの指令で機会的に行動するものと言う印象を与えたいんだろうけど、これも「ファンネル」呼びする人間が誠実に議論相手になりうるかについて深刻な疑問を感じさせるのであんま良くないよ。

その2の「セクハラ無理やり条文限定解釈」へつづく

2018-12-01

東京国立博物館地域博物館とかで経塚やそれに関する遺物を見かけることは多い。

経塚は、昔の人が末法の世になってもお経が伝わるように、地面にお経を埋めたものだ。

経文と共に仏像なんかも安置される。

埋められた経文を埋納経という。金属などで出来た容器は経筒という。

埋めたものが何かの拍子で出土することがあるのだ。

埋める際には、当然末長く伝わることが目指された。

経筒を密封することはもちろんだが、まわりを石で作った入れ物でさらに封をする場合が多い。

お経は紙で、溶けてしまって今に伝わらないが、後世にはお経を石に掘って埋めたり、石に墨書して埋めたものもある。

いつまで仏法を伝えればいいのか? それは56億7000万年後だ。

弥勒菩薩が現れて再び衆生を救済するまで、末法の世は続くのだ。


経塚関係資料を見ながら、埋めた人々の想いはいかばかりだったか想像する。

色んな苦しみが今よりずっと多い時代

拠り所とするお経というか仏教がなくなるかもしれない。伝わらないかもしれない、という想い。

金と権力がある人が示威的にやっている側面ももちろんあるだろうけれど、それだけで切りとれない要素もある。

未来に向けて伝える、という何か意気込みのようなものが実物資から伝わってくる。


ところで、私たちは銅鐸の使い方を知らない。

多分こうだろうというのはあっても、精確なところは解らない。

銅鐸に限らず弥生時代祭祀具は、使い方がわからないモノが多い。

さらに前の縄文時代祭祀具(と思しい)考古学資料も、やっぱり精確なところの使い方は解らない。

土器がどうしたあの形状なのか。土偶がどう使われたのか。

皆忘れてしまったのだ。歴史のどこかの段階で、忘れてしまった。知る人が一人もいなくなってしまった。ある種の絶滅だ。

銅鐸に替わって登場する祭祀具は鏡だ。こちらは解る。今も神社奉納してある。ご神体のような使い方をする。伝わっている。

このあたりから何となく使い方が実感としてわかる資料が出てくる。


さて、経塚の資料はそういう意味ではめちゃくちゃ良くわかる。

例えばいきなり経塚から石板に刻まれたお経が出てきたとして、その名前考古学的な背景が解らなくとも「うわなんかお経が書いてあるぞ」くらいはわかったりする。

あるいはそこまで行かなくても、「何か文字が書いてあるぞ」とわかる。

この辺りで「これは何か重要ものかもしれない」と多くの人は感じとることができるだろう。密封されてもいるわけだし。

専門的な仕事に携わってなくとも、例えば土木工事や農作業で経塚が今に姿を現したら、「なんか仏教関係ぽいのがでてきた」と思えると言うわけだ。

私たち仏像なりお経なりを見たら、直観的にどんな分野のものである理解できる社会に(今も)生きている。

科学が発展しようが、未だに路傍には地蔵があり、葬式でなんだかわからんままお経を唱えたり、する。

仕組みを何となく掴んでいる。

私たち仏教になじんでおり、仏教を今から未来に伝える一翼を担っている。

銅鐸とはここが違う。


そういう意味では、古えの人々の想いは伝わっている。

それが直感的に何かわかるからだ。

平成が終わろうとしているが、その時代にあっても仏教にまつわるものだと素人でも判断できる社会からだ。

難しいけど、科学が発展した時代だけれど、こうした直観でわかる宗教的バックグラウンドは大切なものと思う。

今はかなり色々なことがわかる時代だが、そうじゃなかった時代に人々の心のよりどころになった考え方とその資料

その価値や意義、と言ってしまうと大仰だが、何となくかるというふんわりとした知識

学者研究者じゃなくたって何となく生活の中にある要素。

ふんわり未来に伝わって、それで56億7000万年後にも伝わればいいと思う。

2018-11-17

anond:20181117225233

平和になる、で平成と、小渕恵三は言った。

その実とんでもない騒乱動乱ばかりだった。

次の元号はむしろ末法とか地獄とかつけてほしい

2018-04-07

anond:20180407012453

※詳細版

神話時代天照大神岩戸に隠れて真っ暗!!この世の終わりだ!

7世紀白村江の戦いに負けてしまった!唐の大軍が攻めてくるぞ!!

10世紀平将門藤原純友の反乱で日本オワタ!!

11世紀末法の到来だ!!平安京では疫病が流行してる!

13世紀蒙古が攻めてくるぞ!日本は滅亡だ!

15世紀応仁の乱で京の都オワタ!!乱世で世も末だ!

19世紀黒船キター!!日本欧米列強植民地にされるぞ!!

1904年日露戦争に負けたら日本滅亡だー!!

1920年代不況で娘は身売りせんとあかん昭和維新せな日本は滅亡や!

--

1945年大東亜戦争が敗北に終わるなんて!日本はもう滅亡だぁああああ

1950年日本でも共産革命が起きるぞ!ヤバイヤバイヤバイ

1960年:米ソ核戦争が起きて日本も巻き込まれるぞ!ヤバイヤバイヤバイ

第2次ベビーブーム:このままじゃ人口増加で資源と食料がヤバイヤバイヤバイ

1973年石油ショック高度経済成長が終わった!日本はもうおしまいだ!

1980年代ソ連アカが攻めてくるぞ!!攻めてくるぞ!!

1989年:今のバブル景気まやかしだ!道徳的堕落した日本は滅亡する!

1991年:そら見ろバブル崩壊した!!驕った日本人に罰が当たったんだ!!

1995年阪神大震災地下鉄サリン事件日本滅亡が始まったぞ!!

1998年北朝鮮弾道ミサイルを開発した!今すぐ戦争になるぞ!!

1999年ノストラダムスの大予言ガー

2001年911テロガー

2003年イラク戦争が第3次世界大戦のはじまりだー!!

2011年福島原発事故ガー

2017年4月4月中に北朝鮮戦争が始まる!!

2017年5月5月中に北朝鮮戦争が始まる!!

2017年6月以降:年内に北朝鮮戦争が始まる!!

2017年12月以降:来年北朝鮮戦争が始まる!!

2020年:○○で日本は滅亡する!!

2033年:××で日本は滅亡する!!

2050年:△△で日本はもうおしまいだー!!

2100年:■■が起きた!今度こそ日本は滅亡だ!!

3000年:◇◇で今度こそ日本オワタ!!

無限に続く予定

2017-10-19

anond:20171019132406

単純でない部分を最後に割り切るために多数決原理がある。

はいえ、それは最後の手段で、基本はディベート

議論やって、問題についてステークホルダーの全員が十分に理解した上で多数決とればまちがいなかろう、ってのが民主主義だな。

見解の相違とか誤解とかによる被害を最小限に食い止められる。

そういう本質とはまったく無関係に、「そっちでトクする奴がどっちの方に多いか」みたいな多数決が横行してるのが、末法時代の「民主主義」だよなあ。

2017-07-26

日蓮宗について

日蓮宗では、本迹一致を立てている。この本迹一致論は、

天台大師が『法華玄義』に説いた「本迹異なりと雖も不思議一なり」との解釈によるもので、

大聖人様の御教示ではないのです。

また、天台の「不思議一」との意味は、

迹門という小さな川も、本門の大海に収まれば同じ海水となるという、

法華経開会の法門を説き示したものであり、

決して身延のような本迹二門を対等に見た上での「一致」を説くものではないのです。

大聖人様は『治病大小権実違目』に、

「本迹の相違は水火・天地の違目なり」と、

また『妙一女御返事』には「迹門は理具の即身成仏

本門は事の即身成仏なり」と法華経の本迹の相違を明確に御教示されています

日蓮宗はその区別がついていない邪宗教です。

法華経本迹二門は、

久遠実成の本仏と始成正覚の迹仏という仏身においても、

その説かれる法体においても勝劣があり、

その相違は水火・天地のごとくであると言えます

しか日蓮宗では、「実相一体」や「本迹未分」という勝手解釈を加え、

「本迹一致」の邪義を主張していますが、

これらは宗祖の御教示にはないものであり、

宗祖の正意に背く謗法の論となることは明らかです。

仏像本尊は、宗祖の本意にあらず」

日蓮宗では、信仰の根幹である本尊について、

未だに宗祖の正意が何であるかが理解出来ず、

本尊に関する御書を集めて候補を選び、

その中から適当形式相談して決めるという、

極めて杜撰見解を発表しています

それを要約すれば、

御書に現れた本尊形式は、

一、首題本尊 

二、釈迦一体仏 

三、大曼荼羅 

四、一尊四士 

五、二尊四士があり、

このうち一、と三、を法本尊

二、四、五、を仏本尊とし、

その中心は三、の大曼荼羅と、

四、の一尊四士であるが、

祖書の教示等に照らし、

一尊四士を日蓮宗本尊と定めるのが至当である

(趣意・大崎学報)というものです。

日蓮宗では、本尊の依文として「観心本尊抄」の、

『此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有(ましま)さず。

末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか』との御文を挙げ、

仏像出現」の語句によって本尊仏像が正意であるとしています

しかし「仏像出現」の御文意味は、

文中の正像の本尊に対する「造り画けども」という語句と、

末法仏像に対する「出現」という表現を対比してみなければなりません。

「此の仏像出現せしむべきか」の意味は、

後の「此の時地涌千界出現して」の御文と同じく、

仏像の造立」という意味ではなく、

あくま現実に現れるということを示されたと拝すのが正しいでしょう。

すなわち、この御文真意は、

末法に地涌千界が出現して「本門の釈尊」を脇士とする

未曾有の本尊を顕わすことを明かされたものです。

また、日蓮宗では同じ『観心本尊抄』の、

「此の時地涌千界出現して、

本門の釈尊を脇士と為す閻浮提第一本尊

此の国に立つべし」との御文について、

「本門の釈尊を脇士と為す」を「本門の釈尊を脇士と為る」と誤読し、

一尊四士が正意であるとしている。

しかし、宗祖が御在世中に一尊四士の仏像を自ら造立された事実はなく、

観心本尊抄』の御文も一尊四士を本尊とせよ、

との御教示ではありません。

それは日蓮大聖人様が佐渡以後、

本尊について御教示された御書に照らして見ればいっそう明らかです。

「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり(草木成仏口決)」

妙法蓮華経の御本尊供養候ひぬ。此の曼荼羅文字は五字七字にて候へども、

三世諸仏の御師(中略)此の曼荼羅仏滅後二千二百二十余年の間、

一閻浮提の内には未だひろまらせ給わず(妙法曼陀羅供養事)」

法華経題目を以て本尊とすべし(乃至)釈迦大日総じて

十方の諸仏は法華経より出生し給えり。故に全く能生を以て本尊とするなり(本尊文答抄)」

これらの御文と『観心本尊抄』の文を合わせて拝する時、

日蓮大聖人様の御真意は一尊四士などの仏像本尊にあるのではなく、

まさしく大聖人様が顕された大曼荼羅こそ、

正像未曾有の観心の御本尊であることは明らかなのです。

【補足】

(一、)首題本尊題目のみを書いたもの

(二、)釈迦一体仏

(三、)大漫荼羅(宗祖日蓮大聖人様が紙幅に御図顕された御本尊様)

(四、)一尊四士(釈迦一体仏と上行菩薩等の四菩薩像)

(五、)二尊四士(釈迦・多宝の二仏像四菩薩像)

※この記事未完成です。続きはいつか。

2016-03-20

女性器がタブー扱いされている理由

男性器がカジュアルに「ちんちん」「おちんちん」「ちんぽ」「ちんこ」と呼ばれているのに対し、女性器の呼称は人前で口に出すのを憚られる言葉となっている。

よくよく考えれば不思議なことだ。誰もが一度は疑問に思うところだろう。

実はその理由はいたってシンプルだ。

それは女性器がカジュアルに呼ばれることによって、人々は邪淫に染まってしまうからだ。

人間とは元々淫らな生き物である

ちんちんという淫らな概念が人前で平気で口に出せてしま存在となっているのは、人間の耐え難い煩悩の発露なのである

そこにもし、「おまんこ」という呼称が補完されてしまったらどうなるだろう?

人間男性器はおろか女性器を積極的意識するようになる。

男性器と女性器を常に意識した人間は当然、ある一つの考えに取り憑かれる。

そう、セックスだ。

おちんぽに加えおまんこをも日常的に意識してしまえば、人間など淫らな煩悩が抑えられず、セックスのことしか考えられなくなる。

そうなれば結果は目に見えている。老いも若きも年がら年中セックスをするだろう。当たり前だ。

まりおまんこという呼称一般化していないのは、人間の理性がギリギリ踏みとどまっている結果なのだ

おまんこという呼称カジュアルに使われだした時、そのときはもうおそらく末法の世となっているだろう。

2016-01-31

末法の世とバーチャル死後の世界

現代の我々は、盆になれば墓石に水をかけ、手を合わせているが、その行動自体無意味だと知っている。

死んだ人間意思などなく、故に墓に参ったところで喜ぶこともないと理解している。

極楽天国煉獄地獄もなく、最後の審判閻魔様の裁きもないとわかってしまっている。

正確に言えば、ずっと前から、みんなそんなことはわかっていたのだろう。

ただ、わかっていないふりをしていただけで、いずれはそのふりもやめるのではないかと思う。

どんな人間もいずれ死に、その心が消えてなくなるというのは、ある意味で救いでもある。

しかし、現代日本では、それが悪い方向にばかり影響している気がする。

どうせ死ぬのだから、金を儲ける気にもなれない。

家族を作ったところで何の救いにもならない。

下の世代ことなど知ったことではない。

そして、宗教がその説得力を失いつつある今、これに対抗するための代用品も存在しない。

ただ、その辺を深く考えても仕方がないから、努めて触れないようにしているだけである

私の考えはこうだ。ならば、その代用品を作る必要がある。

この界隈に詳しくないので、どういう仕組みでやるかは予想もつかないが、

いずれさらに発展する技術で個人の人格仮想化し、ネットワークに送る。

言わばバーチャル死後の世界というべきものを構築するのである

現実人生生活費必要なように、仮想世界生活にもいくらかの維持費が必要だろう。

そして、生きている間はなんだかんだで政府が面倒を見てくれるが、

死後はそうもいかないかもしれない。

あの世の沙汰も金次第である。結局、頼れるものが己の金(と子供)だけとなれば、

金を稼ぐ気にもなるというものだろう。景気回復一助になるかもしれない。

何より重要なのはシステムの維持には未来世代文明を永続させること、

そして、彼らの手と意思により、自分たち存在を維持してもらう必要があるということだ。

こうなれば、否が応でも下の世代配慮せずにはいられない。

子供がいなければ将来の担い手もいなくなるのだから少子化も一気に解決である

関係が悪ければ放り出されるだろうから虐待もおそらく減る。

政治家有権者も、少しは下の世代のことを考えるようになるかもしれない。

「死んだらしまい」という考えから世代倫理が生まれることはない。

2014-04-11

諦める事が当たり前の世界

現代私たちが持つ恋愛への心的表象について

別れる事を、終わる事を、破局する事を、壊れる事を、不信感を抱く事を前提としたリスク/リターンバランスの予測不可能な行為であると受け止めている

私たちは悲しくなったり、苦しくなったり、みっともなかったり、怒ったり、不幸になる例を見せられ過ぎて、恋愛に良いイメージを抱けていない

どうしたものだろうか、諦める事が当たり前の世界

付き合う前からそのイメージが先行する

期待できず、リアルに成れず、冥いまどろみの中で日々の生活と、安全に生きていけるだけの精神的保給を得るだけの人生

誰も生きる事に真剣ではないし、誰も死の瞬間ですら自分を生きられない

そうだ、今や生や死ですら直面化できる題材ではないのだ

生きる究極の目的ですらぼやけてしまうこの世の中で、一体誰が自己実現が、誰が"今、ここで"を体感できるのだろうか

今際の淵すら娯楽に過ぎない、ここは末法の世であるとも言える

2013-01-22

創価学会が他の宗教より優れている5つの理由

http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20130121001007

id:alloreverything が、

宗教ほとんどライフハックみたいなものなのに、ネット上にレビュー記事が少ないなあ。誰か「○○教に入信してみた」とか「××教が△△教より優れている5つの理由」とかってエントリあげてくれないかな。

と言ってたのでリクエストの答えてみたよ。

 

 

 

外相

 キリスト教とか仏教以外の宗教は今世のことばかり考えて他者に救いを求めてるよね! でも輪廻因果の理を説いて過去世未来世のことを考えないと世界を説明したことにはならないよね。だから仏教以外はここで落選

 

大小相対

 小乗仏教の人たちは自分悟りを開いて解脱することを目的としてるけど、大乗仏教仏陀となって世界を救うことを目指してる。どっちがいいかは明らかだよね? 上座部のみなさんはここで脱落。

 

権実相対

 仏典はたくさんあるけど法華経が一番なんだ。なぜかって、おしゃかさまが最後に書かれた経典からね。その他の経典では明かされなかった秘法があるんだから、これを最上のものとしなくてどうするというのだろう? 日蓮宗天台宗以外のほとんどの宗派の皆さんは、ここでさよならだ。

 

本迹相対

ウソも方便」って言葉は知ってると思うけど、法華経にも方便があるんだ。それが前半の14巻。特に2巻なんかはそのまんま「方便品」って名前からね。方便は大事だけど、本当の教えと仮の教えとどちらが大事かは言うまでもないよね? 日蓮宗一致派のみなさん、残念でした!

 

種脱相対

 末法衆生には成仏をする機縁がないから、事の一念三千である本尊題目を唱えることによってしか成仏ができないんだよ。そうして下種を受けていない衆生はゴールが見えているけど道順が分からない迷子のようなものだね! え、何を言ってるのか分からないって? つまりおしゃかさまは末法でオシャカなっちゃった、ってことさ! 日蓮大聖人末法本仏としない日蓮宗身延派のみなさん、惜しかったね!

 

 

 

 あと、現状の日蓮正宗は血脈が途絶えているから、大変残念なことになってるよ! そうなると、もう創価学会に入るしかいね

 それからこれネタからマジレスはやめてね!

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E9%87%8D%E7%9B%B8%E5%AF%BE

2012-04-11

オウム真理教ナウい教化法”を実践した広瀬死刑囚手紙 vol.3

【vol.2「宗教的経験(前半)」】はこちら。

 オウム信徒制度には、在家のほかに出家がありました。オウム出家とは、世俗的な関を一切絶ち、麻原に全生涯を捧げ、人類の救済―最終的には解脱させること―と自己解脱に専念することでした。

 出家者は教団施設内で共同生活をすることになります家族とも絶縁の形になり、解脱するまでは、会うことも、連絡することも禁止でした。財産はすべて教団に布施し、私物として所有できるのは、許可されたもののみでした。飲食は禁止でした。本、新聞テレビラジオなど、教団外の一切の情報に接することも禁止でした。これらの戒は、苦界に転生する原因となる執着を切るためのものでした。

 入信時、私は出家をまったく考えていませんでした。長男という立場上、親の老後を見たいと思っていたからであり、また私が出家すると家庭が崩壊しかねないとも思っていたからです。そもそも、入信前に読んだ麻原の著書によると、在家でも解脱可能だったので、そのような無理をしてまで出家する必要を感じませんでした。

自分が培ってきたものを崩すのは真に恐いことです。入信間もないころ、私はある在家信徒と話をしました。彼は出家の準備のために定職を捨て、アルバイトをして暮らしていました。その話を聞き、私は恐怖心を抱いたのです。実際、昭和六三年十月の私について、母は「就職内定を喜び、安心している様子だった」旨法廷証言しており、その時点で出家意志は皆無でした。

 ところが、私は出家することになりました。私の入信後、勢力拡大のために、オウム出家者の増員を図ったのです。私の入信前の一年半の間に約六十人が出家したのに対し、入信後の一年間には約二百人が出家しました。

 「現代人は悪業を為しているために来世は苦界に転生する。世紀末核戦争が起こる。(本文二十一頁)」

 ―麻原は人類の危機を叫びました。そして、その救済のためとして、信徒布教活動をさせたり、さらに、出家必要性を訴え、多くの信徒出家させたりしました。

 このように、一般社会は苦界への転生に至らせる世界として説かれていましたが、それを聞いているうちに、そのとおりの体験が私に起こりました。

 私の公判において、友人が次の証言をしました。昭和六十三晩秋か初冬に私が話した内容です。

 町中を歩くとバイブレーションを感じること、電車内のいかがわしい広告を見ると頭が痛くなること、繁華街の近くにいると体調がおかしくなるという話がありました。

 当時、私は街中を歩いたり、会話をするなどして非信徒の方と接したりすると、苦界に転生するカルマが移ってくるのを感じました。この感覚の後には、気味悪い暗い世界ヴィジョン(非常に鮮明な、記憶に残る夢)や自分が奇妙な生物になったヴィジョンカンガルーのような頭部で、鼻の先に目がある―などを見ました。この経験は、カルマが移り、自身が苦界に転生する状態になったことを示すとされていました。さらに、体調も悪くなるので、麻原がエネルギーを込めた石を握りながら、カルマを浄化するための修行をしなければなりませんでした。

 また、一般社会情報煩悩を増大させて、人々を苦界に転生させると説かれていました。そのために、情報によっては、接すると頭痛などの心身の変調が起きたのです。

他方、当時、日常的に麻原からの心地よいエネルギーが頭頂から入って心が清澄になり、自身のカルマが浄化されるのを感じました。

 これらの経験によって、一般社会が人々のカルマを増大させて苦界に転生させるのに対して、麻原だけがカルマを浄化できることをリアルに感じました。そのために私は、麻原の説くとおりに一般社会で通用する価値観は苦界に至らせると思うようになり、解脱悟りを目指すことにしか意味を見い出せなくなりました。

 この状況に関連することとして、検察官の「広瀬から出家の原因、理由を聞いたことがあるか」との確認に対して、私の指導教授は「結局、神秘体験だと言っていた」と法廷証言しています。(当時、私は教授にも入信勧誘していたのです。)また、出家することが、苦界に転生する可能性の高い親を救うことになるとも思うようになりました。子供出家すると、親の善業になるとされていたからです。出家にあたり一番の障害は親子の情ですが、それを除くために、オウムではそのように説かれていたのです。

 こうして、私は出家願望を抱くようになりました。世紀末人類の破滅というタイムリミットをにらみながら、家族の説得に要する期間や就職が決まっていた事情なども考慮して、二、三年後の出家になると思っていました。

 このような昭和六三年の年末、私は麻原から呼び出されました。麻原は救済が間に合わない、もう自分の都合を言っていられる場合ではないと、出家を強く迫りました。私は麻原に従い、大学院修了後に出家する約束しました。そして、平成元年三月末に出家しました。

 私の出家後、平成元年の四月から、麻原は「ヴァジラヤーナ」の教義に基づく救済を説きはじめました。現代人は悪業を積んでおり、苦界に転生するから、「ポア」して救済すると説いたのです。「ポア」とは、対象の命を絶つことで悪業を消滅させ、高い世界に転生させる意味です。この「ポア」は、前述(二十一頁)のように、麻原に「カルマを背負う―解脱者の情報を与え、悪業を引き受ける―」能力があることを前提としています

 その初めての説法において、麻原は仏典引用して、「数百人の貿易商を殺して財宝を奪おうとしている悪党がいたが、釈迦牟尼前生はどうしたのか」と出家者に問いました。私は指名されたので、「だまして捕える」と答えました。ところが、釈迦牟尼前生悪党を殺したのです。これは殺されるよりも、悪業を犯して苦界に転生するほうがより苦しむので、殺してそれを防いだという意味です。それまでは、虫を殺すことさえ固く禁じられていたので、私にはこの解答は思いつきませんでした。しかし、ここで麻原は、仏典引用して「殺人」を肯定したのです。

 ただし、このときは、直ちに「ポア」の実践を説いたわけではありませんでした。最後は「まあ、今日君たちに話したかったことは心が弱いほど成就は遅いよということだ」などと結んでいます。私も、実行に移すこととは到底思えませんでした。

 ところが、麻原は説法の内容を次第にエスカレートさせていきました。その後の説法では、「末法の世(仏法が廃れ、人々が悪業を為して苦界に転生する時代)の救済を考えるならば、少なくとも一部の人間はヴァジラヤーナの道を歩かなければ、真理の流布はできないと思わないか」などと訴えています。それに対し、出家者一同は「はい!」と応じており、「ポア」に疑問を呈する者は皆無でした。(『ヴァジラヤーナコース教学システム教本』―教団発行の説法集より

 前述(二七~二八頁)のように、私にとっては、現代人が苦界に転生することと、麻原がそれを救済できることは、宗教経験に基づく現実でした。ですから、私は「ヴァジラヤーナの救済」に疑問を抱くことなく、これを受容しました。なお、麻原は、私が述べたような宗教経験を根拠として、この教えを説いていました。

 さらに、私はいわゆる幽体離脱体験(肉体とは別の身体が肉体から離脱するように知覚する体験などもあったので、私たちの本質は肉体ではなく、肉体が滅んでも魂は輪廻を続けるとの教義を現実として感じていました。そのために、この世における生命よりも、よりよい転生を重視するオウム価値観に同化していました。このことも「ヴァジラヤーナの救済」を受容した背景だと思います

 このような説法が展開されていたとき、私は解脱悟りのための集中修行に入りました。第一日目は、立住の姿勢から体を床に投げ出しての礼拝を丸一日、食事も摂らずに不眠不休で繰り返しました。このときは、熱い気体のような麻原の「エネルギー」が頭頂から入るのを感じ、まったく疲れないで集中して修行できたので驚きました。

 この集中修業において、最終的に、私は赤、白、青の三色の光をそれぞれ見て、ヨガの第一段階目の解脱悟りを麻原から認められました。特に青い光はみごとで、自分宇宙空間に投げ出され、一面に広がる星を見ているようでした。これらの光は、それに対する執着が生じたために、私たちが輪廻を始めたとされるものでした。その輪廻の原因を見極めることは、輪廻から脱した経験(=解脱)を意味しました。

 解脱悟りを認められた後は、以前は身体が固くてまったく組めなかった蓮華座(両足首をももの上に載せる座法)が組めるようになりました。教義によると、これはカルマが浄化された結果と考えられました。また、食事が味気なく、砂でも噛んでいるように感じ、食事に対する執着が消えたように思えました。さらに、小さなことにこだわらなくなり、精神的に楽になりました。

 以上は麻原の「エネルギー」を受けた結果のように思われたので、彼が人のカルマを浄化して解脱悟りに導くことの実体験になりました。

 平成二年四月、麻原は古参幹部と理系出家者計二十人に対して、極秘説法をしました。冒頭、「今つくっているもので、何をするか分かるか」と私に問いました。しばらく前から、何らかの菌の培養を指示されていたのです。目的は聞かされませんでしたが、指示の雰囲気から危険な菌らしいことは分かりました。私は、「ヴァジラヤーナの救済」とする旨を答えました。一年間説法されて、その実行が当然のことのようになっていたのです。

 麻原は、「そうか、分かっていたのか」と言い、「ヴァジラヤーナの救済」の開始を宣言しました。

 「衆院選の結果―平成二年二月の衆院選に、麻原ら教団関係者二十五人が出馬し、全員が落選―、現代人は通常の布教方法では救済できないことが分かったから、これからはヴァジラヤーナでいく」

 そして、麻原が指示したのは、猛毒ボツリヌストキシン大量生産し、気球に載せて世界中に散布することでした。私たちは、その場で各人の任務も指示され、直ちに作業に取りかかったのです。私はボツリヌス菌の大量培養―容量十立方メートル水槽四基―の責任者でした。

 作業は過酷でした。ヴァジラヤーナの救済になると麻原は血道を上げるので、指示を受ける私は寝る暇もないことがありました。私は約三か月間教団の敷地に缶詰めにされ、風呂にも二度しか入れませんでした。それも関連部品の購入のために業者を訪問するときなどに、指示されての入浴でした。そして、安全対策も杜撰で、非常に危険な状況での作業でした。結局、種菌さえできていなかったことが後で判明したのですが、できていたら私たちが真先に死んでいたと思います

 私たちは、一般社会では無差別大量殺人とみなされる行為を指示され、しかも厳しい作業が続きましたが、誰も疑問を口にすることなく、淡々と行動していました。外部の人が見たら、殺人の準備をしているとは思えなかったでしょう。

 それは、私たちにとって、「ヴァジラヤーナの救済」が宗教経験に基づく現実だったからです。(本文三十一頁)そして出家後も、次のように、そのリアリティは深まるばかりでした。

 一般社会が苦界への転生に至らせることに関しては、出家後初めて外出したときに、以前に経験のないほど厳しくカルマが移ってくるのを感じて(本文二十七、二十八頁参照)、危機感を覚えました。出家者に対して外部との接触を厳しく制限するなど、教団が外部の悪影響を警戒していたことが暗示になったのだと思います。また、テレビコマーシャルを視聴したところ、その音楽イメージが頭の中でぐるぐると繰り返されるようになり、集中力が削がれる経験がありました。それは、選挙運動中に、麻原の指示でオウムに関する報道を録画したときのことでした。私の変調に気づいた麻原が、「現世の情報が悪影響を与えている」と作業の中止を指示したので、一般社会の発する情報への警戒心が強まりました。

 一方、麻原の救済能力に関しては、その「エネルギー」によって解脱悟りに導かれたと感じる経験をしたために、さらに奥深さを知った思いでした。

 ボツリヌストキシン散布計画が中止された後、私は集中修行に入りました。そして、自分意識が肉体から離れ、上方オレンジ色の光に向かう経験などをして、ヨガの第二段階目の解脱悟りを麻原から認められました。また、認められたその場で、毒ガスホスゲンの生産プラントの製造計画(平成二年十月から三年八月、中止ーオウムでは、次の計画の指示が入り、前の計画が中止されることが多かった)に加わるよう指示されました。その後も、プラズマ兵器レーザー兵器の開発(同四年十一月から五年十二月、中止)、ロシアにおける武器調査(同五年二月と五月)、炭疽菌の散布計画(同五年五月から六月、失敗)、オーストラリアにおけるウラン調査(同五年九月)、自動小銃AK七四千丁の製造(同六年二月から七年三月、一丁完成、逮捕のため中止)などを麻原から指示されました。

 このように、オウムにおいては、「ヴァジラヤーナの救済」の実践日常的なことでした。

 そして、平成七年三月、私たちは地下鉄サリンと散布する指示を村井秀夫から受けました。麻原の意志とのことでした。その指示は、当時の私には、苦界に転生する人々の救済としか思えませんでした。一般人が抱くであろう「殺人」というイメージがわかなかったのです。

 地下鉄サリン事件に関するある共犯者の調書を読むと、私たちが事も無げに行動している様子が散見されます。そのような記述を読むと、残酷な事件を平然と起こしたことについて、自らのことですが戦慄さえ覚え、被害関係者の皆様に対しては心から申し訳なく思います。誠に愚かなことでしたが、オウム宗教経験に没入している状態でした。

 [ただし、私は決して軽い気持ちで事件に関与したわけではありませんでした。救済とはいえ、「ポア」の行為のものは、通常の殺人と同様に悪業になるとされていたからです。それまではカルマの浄化に努めてきたのですが、救済のためにカルマを増大させる行為をすることが「ヴァジラヤーナの救済」と意味付けられていたのです。そのカルマは、修行によって再び浄化する必要がありました。さもないと、「カルマ法則(本文二十一頁)によって、自身にも返ってくるとされていたからです。実際、地下鉄から下車した後、私は突然ろれつが回らなくなく、サリン中毒になったことに気付いたのですが、そのときは「カルマが返ってきた」と思いました。]

 以上のように、オウムにおいては、非現実な教義が宗教経験によって受容されました。そして、その教義が社会通念と相容れないものだったために、逸脱した行動がなされました。

 他方、「禅」も宗教経験を起こす技法を用いますが、「悟了同未悟―悟り終われば凡夫に立ち返る―」という教えがあります。これは「禅」の瞑想技法によって起こる日常生活への不適応(本文二十五頁)を防ぐ安全装置ではないでしょうか。何代にもわたって存続している宗教には、問題が起こるのを回避する知恵の蓄積があるのだと思います

 宗教経験を起こす技法やその経験に基づく思想に係わる場合は、その弊害の予測が困難なので、このように経験的に安全性が保障されていることを確認する必要があるでしょう。

 また、私は宗教経験によって教義の検証が可能と思いオウムに関心を持ったのですが、それは大きな誤りでした。人間感覚は決して常に真実を反映しているわけではありませんでした。神秘的体験の心理状態は次のようにいわれており、幻覚を真実認識してしまうこともあるのです。

 神秘的な状態は比量的な知性では量り知ることのできない真理の深みを洞察する状態である。それは照明であり、啓示であり、どこまでも明瞭に言い表されえないながらも、意義と重要さとに満ちている。そして普通、それ以後は、一種奇妙な権威の感じを伴うのである。(前出ジェイムズ

 幻覚的な宗教経験によっては、決して“客観的”な真実検証できません。できるのは“主観的”に教義を追体験することだけです。それ以上のものではありません。

 ですから宗教経験はあくまでも“個人的”な真実として内界にとどめ、決して外界に適用すべきではありません。オウムはそれを外界に適用して過ちを犯したのです。


【vol.4「恐怖心の喚起」】へ続く。

2009-12-30

http://anond.hatelabo.jp/20091230063637

末法思想というのがあってだな、平安時代の終わり頃、仏教でいう末法解釈は色々あるけどノストラダムスの大予言みたいなもんだ)が来たという考えが広まって庶民はムチャクチャをやったのさ。

2009-04-05

なんか突然冊子をわたされた

無料でさしあげてるんで読んでください。」

女性がポンと置いていって去っていった。

本の表題は「日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ」

・・・。

なんだこれ。

創価かなんかか?

と思ってペラペラめくてみたら池田という名前が、やっぱり創価学会か?

なんか池田猊下猊下って連呼。

どうしちゃったの??

とおもったら創価じゃないのか???

顕正会だって。

数ページ読んでものすごい怖いものを感じました。

つか宗教戦争じゃんねこれ。

創価学会vs共産党vs日蓮宗

P200もあるので、まとめる気はないけど面白いのでタイトルだけ紹介しておく。

序章 日本国はいま亡びんとす

第一章 日蓮大聖人とはいかなる御方か

1 末法下種の本仏

(略)

6 「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」

第二章 亡国の二因

1 日本一同の仏法違背

2 創価学会仏法違背

結章 日本に残された時間は少ない

いや、ほんと宗教家が国を語るのは勘弁してほしい。

2008-03-31

 

 レッテル社会といわれる現代では、より安定した生活を送るためには有名校を卒業して大(だい)企(き)業(ぎょう)や官公庁(かんこうちょう)に入り、重要ポストにつくことが幸福の要件と考えている人があります。

 これについて二点から考えてみましょう。

 第一の点は、はたして社会的な地位につくことが幸福の条件なのか、ということです。

 最近、四十代、五十代の、いわば社会的に重要な地位にある年代のエリートが、仕事上の行きづまりや人間関係の悩みによってノイローゼになったり、自殺に走るケースが頻繁(ひんぱん)に起こっています。

 現代の熾烈(しれつ)な競争社会の中で責任のある地位につくことは、それだけ大きな負担(ふたん)となり、身心ともに苦労も多くなることは当然です。

 ではなぜ人々は苦労の多い地位を望(のぞ)むのでしょうか。その理由は、ひとつには人に負けたくない、人の上に立ちたいという本能的な願望(がんぼう)であり、もうひとつには地位が向上すれば経済的に豊かになる、周囲から敬(うやま)われることなどが挙(あ)げられると思います。

 もし願いどおりの地位についたとしても、それに適合(てきごう)しない性格であったり、負担に堪(た)える人間的な能力がなければ、その人は苦痛(くつう)の毎日を送ることになるのです。

 第二の点は、学歴(がくれき)至(し)上(じょう)主義(しゅぎ)がもたらす弊害(へいがい)と不幸がいかに大きいか、ということです。

 たしかに一流大学卒業した人は、それだけ幼(おさな)いころから勉学に励(はげ)んできた努力によって、能力的に優(すぐ)れています。深い学識と幅(はば)広い教養による英知(えいち)はいずこの社会職場にあっても、知的(ちてき)資源(しげん)、人的(じんてき)資材(しざい)として重要視されることは当然でしょう。

 しかし誰もが一流校には入(はい)れるわけではなく、ごく一にぎりの人だけが許(ゆる)される狭(せま)き門を目指(めざ)して、過酷(かこく)な受験戦争がくり広げられ、子供は友情を育(はぐく)むどころか、同級生を敵視(てきし)する状態(じょうたい)に追いやられています。

 毎年受験シーズンになると受験に失敗して自殺するという悲惨(ひさん)な事件が相(あい)つぎますが、幼いころから親や先生の「有名校に入る人は優秀、入れない人は敗北者(はいぼくしゃ)」という言葉を聞いて育ったならば、受験の失敗がそのまま人生の破滅(はめつ)になると考えるのは当然です。

 まさに誤(あやま)った学歴偏重(へんちょう)の風潮(ふうちょう)が生む不幸の一面であり、その風潮の中で育った子供は、またさらに学歴偏重人生観を増幅(ぞうふく)していくのです。

 このような教育制度や教育行政(ぎょうせい)のゆがみは教育の部分だけをとり上げて改革(かいかく)しようとしても根本的な解決にはなりません。

 なぜならば、教育問題は時代や社会機構(きこう)全体と深く関(かか)わっており、さらには人生観・価値(かち)観(かん)ともつながっている事柄(ことがら)だからです。

 釈尊は現代を予言して、末法は五(ご)濁(じょく)の時代であると喝破(かっぱ)されています。五濁とは時代が濁(にご)り、社会が乱(みだ)れ、人間の生命も思想も狂(くる)うことを指(さ)しており、その原因は誤った宗教にあると説いています。

 したがって健全人生観や社会思想は、ひとりひとりが正しい宗教に帰依(きえ)し、しかも正法が社会に広く深く定着(ていちゃく)したときに醸成(じょうせい)されるのであり、真実幸福は表面的な学歴や肩書きによってもたらされるのではなく、真実の仏法を信仰修行することによってもたらされるのです。

 以上の二点だけを取り上げてみても、学歴社会的地位がそのまま個人の幸福の絶対的条件になるわけでもなく、社会の福祉(ふくし)につながるわけでもないことがわかるでしょう。

 真実幸福とは、いかなる負担や困難をも悠々(ゆうゆう)と解決して乗り越えていくところにあります。

 個々の人間生命力を与え、勇気希望と智慧(ちえ)をもたらす道は、真実にして最勝の仏法を信仰修行することに尽(つ)きるのです。

 身につけた学識(がくしき)と教養、そして大きな責任をもつ社会的な地位、それらをより充実したものとし、より価値あるものとするために、正しい信仰が絶対に必要なことを知るべきです。


とりあえず、学歴や地位が幸福をもたらすのが現実、まで読んだ。

2008-01-10

anond:20080103005810

なんか98年あたりから00年代初頭の言説を思い出したよ。あの頃も「日本は終わりだ」って話がはやったよね。でも実際には終わってないし、まだ一応世界有数の先進国のまま。

そういえば1000年前には末法思想流行ったようだし。江戸時代の終わりには「ええじゃないか」が流行ったし。こういう言説がなかなか消えないということは、今が変革期にあるということの表れなのかな。「新しい中世」だっけ?

 
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