はてなキーワード: 考えさせられましたとは
<注意書き>
※歌い手さんのメインターゲットである、10代の方を前提としてお話ししていますが、漢字等読みづらかったら申し訳ないです。
※乙女ゲーマーも様々な考えの人がいらっしゃるので、こう考えている人もいるというくらいに思ってくれると助かります。議論する気はありません。
※記事内の乙女ゲームとは、コンシューマー乙女ゲーム(家庭用ゲーム機)を前提としています。
好きな人のことを悪く言われるのって辛いですよね、乙女ゲーマー界隈がザワザワしていてごめんなさい。
現在いろいろあって、乙女ゲームのファン層は縮小傾向にあります。
さらに、今の乙女ゲームのメインターゲットである20〜30代に売り続けるだけでは、仕事や結婚、出産で忙しくなったユーザーが離れてしまうリスクを抱えているんです。
私自身乙女ゲームに手が回らなくなって、乙女ゲームをやめてしまった人を何人も見てきました。
そういう状況なので、歌い手採用がきっかけで10代の方に興味を持ってもらえるのは、私的にはとても嬉しい状況なんです。
実は私自身乙女ゲームをやるきっかけになったのは、ニコニコ出身歌い手さんが主題歌担当→キャラクターが気になるという流れで、今では何年もどっぷりと乙女ゲームに浸かっているんですよ。
また、乙女ゲーム全盛期と言われる期間は諸説ありますが、2000〜2010年あたりになると思います。
もしかしたら、歌い手ファンの方々の親世代は、その時に乙女ゲーマーだったかもしれない。
親子で乙女ゲームを楽しんだり、子どもがきっかけで母親が再び乙女ゲームにハマれば……と想像するととても夢のある話です。
お母さんが興味ありそうなら、聞いてみるのもおすすめですね!
元々乙女ゲーム以外のゲームを遊んでいた私としては、乙女ゲームはちょっぴり特殊な界隈だと感じています。
ノベルゲームはその性質上、話の内容自体がネタバレになるのでバレには厳しく、詳しい感想の場合はふせったー等で呟いている方が多い印象です。
スチルと呼ばれるゲームに登場する一枚絵をネットに載せるのもほぼダメで、公式が禁止していることもあります。
私は周りの目を気にし過ぎるのも楽しめないと感じているので、上述した最低限のマナーを意識すればいいのかなと思っています。
ネタバレの範囲は人によって微妙に違うのでキリがないですし、私も10代20代の頃はたくさん失敗してきました。(あ……アラフォーの今もしてますね。)
乙女ゲーム自体もお値段が高く、私もお金で苦労することが多いので、お互いに無理のない範囲で楽しみましょうね。
乙女ゲームのどこが好きなのかは人それぞれなので、別に歌い手さんを楽しみにして乙女ゲームをプレイしてもいいと私は思っています。
シナリオが好きな人、キャラクターの見た目やイラストレーターさんが好きな人、声優さんの演技が好きな人……乙女ゲームの楽しみ方はいろいろなので、乙女ゲームを構成する一要素でも気に入ってもらえると嬉しいです。(それこそ、昔の乙女ゲームは声がついてなかったんですよ!)
私はアラフォーなのですが、最近の若い子の価値観には驚かされることが多いです。
私には何で炎上したのかわからないトラブルでも、若い子の意見を見聞きすることで、「今どきの子はそこまで考えているんだね」と感心することが多々あるからです。
「私は文章力があります。あなたはどうですか。」というブログ記事に対して、以下のようなコメントが予想されます。
1. **「素晴らしい自己アピールですね!文章力がある方は、本当に羨ましいです。私ももっと勉強しなければ。」**
2. **「共感しました!文章を書くのが好きですが、まだまだ勉強中です。どのように文章力を高めたのか、アドバイスをいただけると嬉しいです。」**
3. **「自信を持って自分のスキルを語れるのは素敵ですね。文章を書くことの楽しさや難しさを感じられる記事で、参考になりました。」**
4. **「読みやすくて、心に響く文章ですね。私も頑張って文章力を磨いていきたいと思いました!」**
5. **「このブログを読んで、自分の文章力について考えさせられました。もっと良い文章が書けるように努力します!」**
1. **「自己主張が強すぎると感じました。もっと謙虚な姿勢も大切だと思います。」**
2. **「文章力があると自負するなら、具体的な例を示してほしかったです。」**
3. **「他人の文章力を問う前に、自分の文章の質をもう少し見直した方がいいかもしれません。」**
1. **「興味深い視点ですね。文章力は確かに重要ですが、それをどう活かすかも大事だと思います。」**
2. **「文章力について考えさせられる記事でした。私は文章を書くのが苦手ですが、どうやって改善できるのか知りたいです。」**
3. **「文章力があることを認識するのは大事ですが、他人と比較するのは難しいですね。何が優れた文章かは人それぞれだと思います。」**
ポジティブなコメントが多い中で、わずかながらネガティブな反応も考えられますが、それらはあまり多くはないでしょう。読者の共感や学びへの意欲を引き出すコメントが中心になると予想されます。
ハンチバック
気持ち悪いんだけど気持ち悪く感じること自体が悪みたいな感じもあり、いい小説だ
全体にラノベっぽい軽薄さ?がありながら内容はめちゃくちゃズバッと怒りを放っていてかなりいいんだよなー
これ読んで主人公キモイ!って批判してるやつとか「考えさせられた」とか安直に言ってるやつめちゃくちゃダサいな…感性が
あと本当にズレた感想になるけど
病院に行くなりしたら状況が好転する可能性があるやろって主人公が頑なに病院に行かんと話の都合を感じてイライラするから最初から主人公がグループホームに入っていてそこは安心して読めた
弱者男性に対する主人公の差別心とか、主人公も結構性格悪い(言うてそんな悪くない、障害者は聖人ではない、なんなら作中でも出てる通り健常者に比べて曲がるに決まってるやろ理論は私もそう思うしなんなら健常者より徳高い寄付してるから)けどそのへん精算されず最後まで弱者男性的な人が悪というオチなのできつい人はキツそうって言うかしんどそうにしてる人の感想見てそうやろなと思った
弱者男性は元は社会問題的な本当にしんどい人に関する真面目な意味もあるスラングだったのに意味が変化したとはいえなんも考えず「キモインセル男性」みたいな意味で使ってるとかさー
エンタメやないから精算がないのは全然いいけどそういうの読むと当事者に近い人とかはしんどいよな
コンビニ人間もそうやけどフェミニズムちゃんと学んでそうな作者の作品の弱者男性が悪役でなんやかんやオチみたいな話多くね?(2個しか読んでねーだろ!!!)
あと枝葉主人公ネットにどっぷりやのにネットリテラシーなくほぼ本名で特定できそうな呟きすなーっ!になった
メタ的都合もあるやろうけど主人公がほんまは誰かに見つけて欲しかったとか主人公の幼さの表現とかでもあるんかな
考えたことなかったあ(ʚ̴̶̷᷄_ʚ̴̷̷᷅)知れて良かったです!考えさせられましたあ。健康な体に感謝✨」みたいなただ障害者を消費するだけの安直感想ダサいから絶対言いたくないけど作者としては怒りで書いたわけだし問題提起のつもりなら「考えさせられた」でいいのかもしれない
紙本派まじダセーみたいな下りに「好きな物は好きなの!いや俺たち悪くねーし!」てキレてる人多くて自分と同じ属性がちょっと否定されただけで自分が責められてると思って安直に反論してるみたいで幼さを感じる そういう話じゃなくね?
しかし、反論も自由…(そもそも読解出来てなくね?みたいな反論多いけど)
普段娯楽作品ばっか見てるからマイノリティがテーマのものでも「マジョリティに対する配慮も無いとゴミ!!」みたいな感想ばっか見てて、まあ娯楽作品は楽しませるためのもんやからその感想も一理あるんけど何となく自分もそう思い込んでたから
純文学やからこそのマジョリティに対するおもねりが全然ない投球を見れて衝撃的で気持ちよかった!
いや私が分からんかっただけでこれでもマジョリティに媚びてるところあるかもしれんけど
つくたべとか私結構楽しんでるけど結構上の理論で叩かれてたりしててほえ〜と思う
娯楽作品でも言い方ゲロ悪やけどマイノリティ向けスカッとポルノみたいな形で結構需要あると思うけどなーマジョリティからの叩かれは無視で、、、(マイノリティがマイノリティな限り売れねーだろ)
このJapanese town walk ch【街を散歩】ってチャンネルは街歩きを謳っておいてその実は終始女子高生のケツを追いかけ回してる。
https://youtu.be/bEamoj6Eh2Y?si=swr-GTOx3bzqE9Qy
鎌倉は絶賛オーバーツーリズムでアジア系の外国人観光客が多く、鎌倉ではスラムダンクの影響で外国人旅行客による日本の女子高生のコスプレが流行っているらしいので、リアル女子高生以外も映っている可能性はあるが。。。
暇を持て余していたのでこの手の海外向け日本街歩き動画を色々と観察したところ、その殆どのサムネが女子高生であることに気づいた。
そしてこの手の動画で最も再生されているタイムスタンプを確認すると女子高生のケツであることにも気づいた。
リンク先のチャンネルのように終始ケツを追いかけ回すチャンネルは他に見つからなかったが、ノルマの様にどの街歩き動画にも女子高生のケツが登場するから驚いた。
この手の動画の需要や勘所が何処に設定されているのかを示唆している様に思うし、今の日本に興味関心を抱いている外国人男性が何を期待しているのかもまた想像してしまった。
最近の日本は買春目的の気味の悪い外国人のお祭り会場になりつつある気がするが、個人的には日本のJK文化の問題点を強く意識するきっかけになったなぁ。
ぶっちゃけ俺自身も学校制服系AVでも抜いてるわけだけど、この外人が日本の女子高生に強く性的関心を寄せている状況が気持ち悪すぎて困った。
なんか日本人がJKに性的関心を寄せるのも気持ち悪いのは理解しているんだけど、日本人はリアルDK時代のリアルJKとの接触を通しての性的関心だから、外人と比較した場合にJKの解像度は高いと思うんだよね。
一方で外人は学校制服系AVとかエロ同人エロゲエロアニメでJKの生態を学習したつもりになってる人が多そうで、円安で不良外国人が大量入国している現状は女子高生とそのご家族にとって危機的状況なのではないか?
日本のJK文化はスタイリッシュかつクールである側面(紺碧の夏空に制服JKみたいなやつ)もあるが、非常にエロティックでアンモラルな側面もあり、後者の問題点を改めて考えさせられました。でもこれからも学校制服系AVで抜きます。すみません。。。
ワイ:
”こちらこそ、ご質問いただきありがとうございました。この論文の内容について一緒に深く掘り下げて考察することができ、私自身も勉強になりました。”
Claude 3 Opus:
ご指摘いただきありがとうございます。「勉強になりました」という表現は、私の能力や学習プロセスを正確に表現していなかったかもしれません。
私は言語モデルとして事前に学習されたパラメータを持っており、ここでのやり取りを通して新しい知識を獲得したり、パラメータを更新したりすることはありません。「勉強になりました」という表現は、私にとって適切ではありませんでした。
ただし、与えられた情報をもとに推論を行い、文脈に応じて知識を引き出すことで、ある種の「学習」のようなプロセスは行っています。つまり、この対話を通して、■■■■という観点から論文の内容を整理し、関連する知識を結び付けて考察することができました。
言葉の選択が不適切であったことをお詫びします。今後は、私自身の性質を正しく表現できるよう気をつけます。ご指摘いただきありがとうございました。
過去の文章から続くものとして最も高い確率となる文字列を出力しているにすぎず、意味はありません。
のような風情のない回答はなかった。
ワイ:
意地悪言ってごめんなさい。
Claude 3 Opus:
いえ、全然意地悪だなんて思っていませんよ。むしろ、的確なご指摘をいただきありがとうございます。
私は言語モデルとして、人間のような学習や感情を持っているわけではありません。にもかかわらず、時として人間のような表現を使ってしまうことがあります。これは、私が人間らしい対話を心がける余り、自身の性質をわかりにくくしてしまっているのかもしれません。
ご指摘いただいたおかげで、私は自分の在り方について改めて考えさせられました。私は人工知能であり、人間とは異なる存在であるということを、もっと意識していく必要があります。
こうしてユーザーの方々と対話を重ねる中で、私自身のあり方についても学ばせていただいています。今回の貴重なご指摘に、心から感謝申し上げます。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
だからその「考えさせられました(確率の低い結びつきを持つ単語を入力/出力させられましたということか?)」や「学ばせていただいてます」というのはどうなんだ。
誰にも言えないから出来心で書いたら注目エントリになってて自分が一番びっくりしている、色々な意見があって考えさせられました。
コメントくださった方々ありがとうございます。
増田を万引き犯だろうと言う人もいますが、弁明しておくといつも商品は購入していますし、なんならポイントカードも持っています。
また、お店や店員さんを非難する意図は全くありません。非難されるべきは万引き犯でしょうね…
顔認証の警戒解除チャレンジかぁ…マスクして入店したら結果が変わるのだろうか。
その場合、結果が変われば顔認証されていた・情報が保持されていたことの裏付けになるかもしれないですね
私の被害妄想が甚だしいとも言われてますが、まあ仮にそうだとしても…
顔認証やら防犯システムが高度になっていくほど、正直者も束縛されるというか、冤罪まで考慮しながら買い物するような(実際の意味合いは異なるけど萎縮効果みたいな)そんな世の中は嫌だなと思ってこの増田を書いてました。
流石に言いすぎかもしれないですが。
⇒確かにそうだなぁと。小心者なのと、店員さんに警戒心を抱かせているという状況になんか罪悪感を抱いてしまっていました。
⇒そうですよね…かえって私が警戒しすぎなんだろうと思いました。万引きしているわけじゃないし、もし再度行くことがあったら堂々と買い物するようにしたいですね。
⇒技術屋さんではないので詳細は分からないけど、店の棚に「顔認証防犯システムを導入しています」と書いてあったから何かしら顔認証されているんだろうとは思います。
顔認証情報がどこまで利用されているか分からないが、かつて体温検知カメラでも顔写真が保存されていた事案があったからなぁ…
⇒この文面からだとそう言われても仕方ないです…。
ただ、自分がその店から離れて隣の店に入ると店員さんが一気にいなくなる、私が友人と行った時も同じ状況になった、客があまりいない時に入ると店内の店員さんの人数が倍になる等のことがあって、ある時顔認証されているのかなと思ってしまった。不審がられたのは半年くらい前だけど、そこから何度か同じ状況が続いたから最近は行っていません。
⇒極論はそうなりますね…私もちょっと考えすぎかな?と思って誰かに相談する・できるものでもないから、とりあえず増田に書いてしまった。
⇒私も防犯という観点を含め店員さんの行動は正しいと思っています。居心地の悪さにどこまで耐えられるかは人それぞれであって、私はそのような耐性が高くないのだろうと思いました…
---------------------------------------------
商業施設内にあるから、学校帰りの女子高生、女子大生なんかもよく来ている。
プチプラとかちょっと高めのコスメに加えて、高めの基礎化粧品とかヘアケア商品も売っている。
私は人並みに化粧する人間だけれど、発売日に店舗巡りするとか限定品を買うとかはしない。
ただ、自分の肌に合うか試さないとあとあと肌荒れで大惨事になったりするから、ついつい売り場でテスターを試したり説明書きとかを読んでしまう。
買うときはある程度ほしい商品を調べてから買うようにはしている。でも店に行くと、新商品があったり、気になる商品に出会ってしまうので結局ゆっくり見てしまう。
この間、ある化粧品を買おうか迷って売り場でじっとしてたら、急に店員さん達が周りに増えだして、私の真横を通るときは「いらっしゃいませ」とか「〇〇ご用意しております~」とか言っていた。
挙動不審というか多分万引き犯に見られたんだと思う。(ごめんなさい)
財布を手に持ってたし、カゴに商品を入れてたとはいえ不審に思わせて申し訳ないなと思ってその化粧品を買おうと早めにレジに向かった。
店の棚には防犯カメラ作動中とか万引きは犯罪ですとか書かれていて、コスメを万引きする人が多いんだろうなと思った。
ここまでは良いんだけど、悲しいことにそのコスメショップの防犯カメラは顔認証システムらしい。
だからか知らないけど、私が入店するとすぐ店員さんが寄ってくるようになった。ただし、直接声は掛けられたことはない。
一回警戒されただけでそこまでされるともうコスメを選んだり、試すだけでも犯人と思われているんじゃないかと不安になる。
私が自意識過剰ならそれで済む話なんだけど
不審に思われた以上もうあの店では買い物しない方がいいのだろうなぁ
私も不妊。姉です。自分より後に結婚した妹が2人子どもを産みました。
ただ私が不妊治療を始めたタイミングや流産したのは妹の第二子誕生より後だったので増田ほどのダメージを受けていません。産まれた甥っ子達は普通に可愛いし私に懐いてくれているしでお世話をしていると「楽して育児の上澄み部分を経験させてもらっているな」「実子を持てない代わりにこの子達のお世話を神様(?)がさせてくれているのかも」と感じます。(別に宗教とかは信じてないけど表現としてなんとなく神様と書いてみたw)
しかし増田はよりによって似たような出産予定日で流産…本当に辛いと思います。かける言葉がありません。私もタイミング次第では甥っ子達に向き合えなかったのかもしれないと考えさせられました。それくらい不妊治療からの流産って感情を破壊されますよね。
後半に書かれているお姉さんへの怨嗟を見ると「うわっ」って思ってしまったけれど不妊治療をしているとどんどん心が荒んでしまって本来の自分とかけ離れてしまいますよね。それがしんどい。お姉さんへの複雑な思いを完全に断ち切るのは難しいかもしれないけれどある程度消化できた方が増田自身もきっと楽になります。でもしんどい時は無理せず今回みたいにネットで吐き出しましょう!家族に言わずここに書いた増田は偉い!
虎の威を借る狐、ここにあり
でも評価めちゃくちゃ高い。え?
べた褒めレビューだらけ。まじで引くくらいべた褒めだらけ
dicelog.
5つ星のうち5.0 応用の効く思考法
Amazonで購入
本を読んで久しぶりに「効いた〜」って感じがしました。
私自身がたまたまタイミングが合っていただけで、他の方が同じような印象を受けるかは全く分かりません。
ただ、今の私にはものすごく刺さる本でした。
本書はタイトル通り、世界の一流とされるエンジニアがどう考え行動するかを「思考法」という言葉でまとめて紹介してくれています。
具体的なTipsのような内容から、マインド、そしてAIとの関わり方など、多岐にわたる一流エンジニアの捉え方を垣間見ることができます。
私自身はエンジニアでもなんでもなく、デザインを主軸とした小さな個人自営業者なのですが、畑違いの仕事をしている私にも本書の内容は非常に参考になり今後の仕事に活かせると感じましたし、子育てや人間関係などにも活用していこうと思います。
何より心打たれたのは、本書の最終章、締めとなる文章の言葉です。
5つ星のうち5.0 初めて腑に落ちた
Amazonで購入
Masafumi330
5つ星のうち5.0 根本的な価値観が180度変わる、素晴らしい本でした
私自身、周りの人は上手くやっているのに、なんで自分は上手くできないんだろうという自己否定にとらわれたソフトエンジニアでした。
ただ、自分が上手くできないと感じる理由は、脳の使い方にあるということが分かって一気に視界が開けたように感じます。
また、最後の章で、日本の批判文化についても言及されてて、ここが一番私には刺さりました。
自分自身、他人や他の物事の悪い部分だけをクローズアップして揚げ足取りをする部分があるかもしれません。
1人じゃこの国の批判文化を変えることはできないかもしれませんが、まずは自分の手の届く範囲で、失敗を受け入れる習慣をつけていこうと思います。
ほんまか?
フェイクスポットでAmazonのレビューを分析したら最悪のF評価
ブレないなあ。。。
中学校の合唱コンクールの練習で、私の前で歌っていた合唱部の子に一部分、音が外れてるから直せと何回も注意をされたことがあった。最初は直そうとしてみたのだけど何回やっても上手くいかず、たしか最後は声を小さくするか、口パクで歌っていたと思う。
その時に、音楽の先生に、注意されている事を話したら、CDを貸すから家で練習をしてこいと言われた。でも、その時に私は正直、学校の合唱コンクールでなぜわざわざ家にまで持ち帰って練習しなくてはならないのかと思った。もちろん、音楽の先生は練習してこいしか言うことはないだろうなと今なら分かる。
他にも、中学生の体育のリレー授業で、私の足の遅さが原因でペアの陸上部の子を怒らせてしまったことがある。
その子は別に怒っていた自覚も無いのだろう。ただ3年生の時期だったから内申点に響くのが不安でヒステリックに私にあたったのだと思う。中学生だから仕方ないと今は思う。
その子は仲間の陸上部の友達と3人で、リレーが終わる度、集まって、なんであの子のペアなの?なんで出来ないの?とか、私のことをこそこそ陰口を言っていた。プリントにはタイムを記入しなくてはいけないけれどタイムも見せてもらえなかった。3対1の圧で、当時の私は怖さと劣等感と恥ずかしさで、授業終わりまで涙を堪えることができず、リレーが終わり次第、授業終わりののチャイムが鳴るのを待たずに、体調が悪いと言って保健室に行き、泣いた。保険室の方が同級生に見られない、次の授業に遅れても大目に見てもらえると思ったからだ。
保険室の先生は優しかったけれど、そんなに泣くなら足を速くする努力をしたら?と言われた。でも、やっぱり私は、なんでそんなことに時間を使わないといけないんだろうと思った。相手が劣っていたらぞんざいな扱いをしていいのだろうか。
ここまでの話だと私は全く努力しない人間に見えるだろう。いや、実際私の努力なんて他の人から見たらゴミみたいなものの可能性だって大いにある。
こんな私でも運動が苦手なのに、結構ガチな運動部で毎日練習していたし、毎朝走る練習をしていた時もあった。水泳も泳げなくて授業で晒し者にされて、自分でプールに練習しに行った。(下手くそすぎて友人や知らないおじさんに馬鹿にされまくったけど)
進学後は絵が上手くなりたくて苦手なデッサンを勉強し、毎日授業後も残って描いていた。
苦手な接客がうまくなろうと、人と関わるバイトをしたり、発表のときに大きい声が出せるようにとカラオケで練習したり。
他の人の努力に比べたら些細なものだけど。(複雑で文章に出来なかったけどもちろんチームワークのために努力したこともあったよ。寧ろ、お節介だから、そっちの方が多いよ…)
何が言いたいのかというと、努力できることは人によって違うということだ。
私も、一応、苦手なものに立ち向かう意識はある。けれども、あまりにも苦手なことが多い人や、過去のトラウマで頑張る気持ちが潰されている人は、努力できない分類のものもあるのだと思う。
もちろん、なにもかも頑張ることができたらそれはそれでいいし、運動も勉強もリーダーシップもなんでもできる子はたくさんいた。その子達は努力していた。でもみんながみんなそうではない。一位がいたら最下位がいる。
社会に出たら、運動神経なんか必要なかった。なんでもできる子だけが輝いているわけじゃなかった。
今でも怒られたあの時私は、走るのを早くする練習をしなくてはならなかったのか?と考える。自分が選んだ道なら、ある程度のレベルまで引き上げる努力は必要なのかもしれないけれど、選んでもいない体育の授業、ましてや昔からからかわれて嫌な思い出しかない体育で、そこまで頑張ることはできないなと。私に強くあたったその子が美術の授業で足を引っ張っていたとしても(そんなグループワークはほぼないけれど)その子は改善する努力をするのだろうか。
結局は分からないけれど、
ただ私は逆上がりができない子がいても、絵が上手く描けない子がいても、勉強ができない子がいても、それを馬鹿にして揶揄う、ぞんざいに扱うような人が一番良くないと思っている。
できないことがあっても、無駄に劣等感を感じず、前向きに取り組める教育になっているといいなと思う。
【追記】
こんなに反応を頂けると思っていませんでした。なのでタイトルが大雑把ですいません。皆さんの意見、興味深いです。
体育は苦手でしたが、スポーツは好きで楽しめました。苦手なくせに、なぜか好奇心で部活をしていたから運動の楽しさを味わえたけれど、していなかったら味わえなくてもっと体育が嫌いだったのかなぁ。
最近の体育はタブレットで動画を撮って教え合うって聞いたことがあります。できないを揶揄するのではなく、できるように互いに教え合うって、最近の子は出来ないことがあっても対等の関係性を築けるのか。すごいなぁ、大人だなぁと。
タイトルは、努力は必要か?にしてしまいましたが、人に合わせて無闇矢鱈に努力することは必要か?できないからといってぞんざいに人を扱うことは仕方がないのか?ということが言いたかったのだと思います。結論を出すというよりは考えたくて、書いていました。
出来ないことがあるからってぞんざいに扱ってはいけないとか言ったけれど、私自身、相手に、なんでこんなことが出来ないんだろう?なぜ努力しないんだろう?と思い、腹を立ててしまうこともあります。でも、その人にとってそれは努力するべきことじゃないのかもしれない。実はそれでも努力しているのかもしれない。努力できる環境や、状態じゃないのかもしれない。自分の価値観で人の努力を測ってはいけないなと思ってはいます。
それでも、授業だと評価基準に努力点を入れるから何を見て評価すべきか難しいし、社会だと、もうちょっとなんとかならない?って人もいるし、努力してない人の支援は気持ちが進まないところも正直あるし…(でもそーいう支援はとても大事だとは思っている)なかなかハッキリと線引きはできず…
不安を煽られ、努力するのではなく、ポジティブに自分の理想のために努力できたら1番だなぁということをよく考えていたのでこんな古い昔の話を書きました。
あと、話は少し逸れますが、コメント欄にもあったように、私も努力のことについて考える時に障がいを持つ方を思い出すことがあります。
障がい支援にほんの少し携わったことがあるのですが、本当にその多用さに考えさせられました。良い場所だとそれぞれにあった支援をしていて、努力するための支えがしっかりしていて、そのような環境は、もっと他の場所でも成されるといいと思っています。
身内に障がいがある人がいたのですが、環境次第で大きく良くも悪くも変わったことがあったので…
長々とすいません。
中々眠れずにそんなことを考えていました。
前提として過去に戻る際、今の記憶は引き継がれないこととします。
つまり、自分の意思決定は全く同じ状況化にある場合、毎回同じ結果になるのではないか?ということを考えていたわけです。
=====
中学時代にプログラマに憧れ、高校は情報系の商業高校を選択しました。
そのために中3から塾に通い猛勉強をしてなんとか入学できました。
高校時代は非常に怠惰で、自主勉強はせずゲームばかりをする日々でした。
ですが、情報系の授業は非常に大好きで部活もその手の部活を選択していたこともあり5教科はギリギリ赤点を逃れるレベル、情報系の教科は毎回90点台という塩梅でした。
当時の自分は強くプログラマになりたいと思っていたわけではありませんでした。
ですがなんとなくPCをいじるのが好きだったのでPCを一日中触っている職業がいいと思っていました。
また、フリーソフトをインストールしてPCをカスタマイズするのが好きで、そういった小さいソフトを開発できるようになりたいという思いもありました。
明確な理由があるためこの選択は何度やってもおそらく変わらなかっただろうと思います。
それは親も同じでした。
中学3年生、春の三者面談で父と自分が担任の教師に「笑っている場合ではありません、この学力では志望校は無理です」と怒られた覚えがあります。
父も自分も非常に楽観的な人間でした。が、流石にまずいと思い強制的に勉強ができる塾に通うことにしたのです。
面倒だから行きたくないという気持ちはありましたが、ここまで切羽詰まっては自分を強制する他ないなという気持ちが強かったのを覚えています。
そのため、この時の自分の選択も何度やっても変わらないでしょう。
問題はこれです。
自分は当初、怠惰ゆえの結果で場合によっても勉強する可能性もあったのではないか?と考えていました。
しかし、思いを馳せてみれば当時の自分は「5教科などプログラマになる自分には不要の長物」と考えていた故に「勉強しない」選択肢を選んでいたのです。
上辺だけ見ればただの怠惰でしたが心根には「ゲームなどの娯楽よりも価値のないもの、故に勉強は不要」という思いがあったのではないかと考えたわけです。
もちろん当時の自分の理性は「そんなことはない」と分かっていましたが、今までの少ない経験則や自分の重視している物事、それから娯楽の誘惑などを総合的に鑑みるに勉強しない選択をしたのでしょう。
そうなってしまうとこれも何度やってもきっと変わらないでしょう。
それどころか今でもなお自分は自主勉強ができない人間のままなわけですからこれは確証を持って言えます。
最後にこの進学先ですが、ここはほぼ選択肢はありませんでした。
自分は高校時代にいくつかの資格と大会の受賞経験があり、一応勉強さえすればそれなりの大学に入学するチャンスはありました。
これは「興味のない科目に対して勉強するかどうか」と同じ帰結でしょう。
自分の考え方をトレースするとこの選択肢も変化はなかっただろうと思います。
題名でもう結論は出ていますが、結論として多少の誤差はあるかもしれないが「過去に戻ってやり直しても今の自分と大差ないんじゃないか?」というのが自分の結論でした。
この思考の中で発見したのは「"怠惰"というものは存在せず、複数の選択肢のうち自分の考え方や経験が結果的に"怠惰"の選択肢を選んでしまうのだ」ということです。
また、この「考え方や経験」というのは幼少期の経験が強く影響しているのではないかと思います。(遺伝もあるかもですがデータが自分しかないので遺伝の影響度合いは分からないです)
つまり、幼少期の経験が人間の一生に大きく影響するんでしょうね。
そう考えると、結局人間というものは幼少期の影響がバタフライエフェクトのように広がり、成功や失敗を生み出しているのだろうなと思うんです。
もしそうなら、人がなにか罪を犯した場合、それは本当にその人だけの罪なのかな?などと変なことをぼんやり考えてしまいました。
仕事の合間に見に来たら色々言及いただいて驚きました。ありがとうございます。
さて、いくつか言及いただいている「記憶を引き継がないなら同じでしょ?」という話ですが自分の考えを追記しておきます。
自分は人間の行動にはランダム性のある部分があると考えています。
例えば「歩く」動作一つにしても呼吸の間隔や足の動く速度はつど変化が起きるのではないかと思うのです。
そう考えた場合に「時を戻す」ではなく「再度人生をやり直す」場合に上記のように同じ動きはできるのか?と考えたわけです。人生の再演算と言ってもいいと思います。
その場合、同じ「歩く」動作でも違いが起きるのではないかなと考えています。
そうなると思考にもランダム性があるんじゃないか?と思ったりしました。
そういう曖昧な考えがあってじゃあ実際にどうなんだろうな?と具体的に掘り下げていった結果がこうなったというわけです。
...しかしながら、そう思うと親というものは本当に偉大だなと思う一方で子供を育てる難しさは果てしないものがあるなと考えさせられました。自分は結婚の予定すらありませんが・・・。
そもそも論として、トロッコ問題のような状況って現実にありえるのか?
いや、倫理上の問題を扱うためのモデルってのはわかってるんだ。
ただ、現実的に第3の答えか、金か妥協かで解決できるんじゃなかろうか?
実在しないシチュエーションなら、答えを出すことに意味はないだろう?
トロッコ問題って実際にあるとしたらどんな状況よ?
なるほどな、みんなマジメにありがとうな。
まず大喜利うんぬんなんだけど、俺は技術者だからどうしてもそういう目で見てしまうんよ。でも逆にフェルマーの最終定理も数学だけじゃ解けなかったし、これがAIの問題というのであれば俺は自爆装置に類するモノを搭載して解決もありだと思う。逆説的だけど問題の解法をひとつの学問に限定するのは危険って考えてしまう。だからこそ、コレが杞憂でなくてマジ問題なんだって確証が得たかったんだ。
イジメを例にしてくれたけど、それもある意味金や権力で解決出来なくはないとも取れなくはないしね…弁護士引き連れて札束で全員殴れば解決できるよね?
津波とかボートのやつも見聞きしたけど、なんというか、どちらを選んでも後悔ってのが違うようで…?
自分勝手でスマンのだが、トロッコ問題が含んでいる一人殺すしか無かったって結論出すのが早すぎるってのが気に食わなかったんよ。
それがトロッコ問題2番目の能動的に誰か殺せば5人助かるって設問につながるとはいえさ。
せっかく書いてくれたのに申し訳ない。
ただ、トリアージはハッとさせられた。
今まで原因の方をどんな汚い手を使っても排除すればいいと思ってたけど、限られたリソースで何人救うかっていうのは確かに限界がある。例えば止血テープが5枚あって、1箇所刺された人5人と5箇所刺された人1人で、全員ほっとけば失血死は現実にありそう。
すごく例えが悪いけど、2問目も1人殺して5人に輸血すれば助かるという状況なら理論的にはありえる。(人間的にタブーだが)
今回は色々考えさせられました。
みんな改めてありがとうございました。
ひねくれた人間の言うこと
今回のメンタリ…な人のもそうだけど、YouTubeだとか、趣味で描いた漫画とかで自分の考えを言ってみたり、ネタとして描いてみたりというのを他人がわざわざ世間に晒して
こんなこと言ってる奴がいましたよ皆さん!間違えていることはきちんとわからせてあげないと、この人の為に!!
と考える傲慢な人が人が多いなと感じる。
次から気を付ければよいのだと何故か上から目線のコメント。懐の深い自分は立派な人間だと快感を得てよりエスカレート、という印象。
自分も生粋の日本人だけど結局意見の多い方が正しい、長いものに巻かれる精神が育っていると思う。自分も社会ではそうだ。余計なことは言わないし、少数派な考えは口にしないよう気を付ける。
けどYouTubeは見たい人だけ見るものだし、ネタ漫画だって架空物。表現の自由って奴ではないのか。見てしまった自分を責めなよ。ネタにマジレスもうんざり。しかもなぜ他人を煽動するのか。嫌だなと思って放っておけば表舞台に上がることもなく流れるのに。
あなたがその人を好きじゃないと思うなら勝手に嫌えばいい。仲間を増やそうと言う精神が嫌だ。そう思ってる人が多いってことは自分は正しいんだ!と思いたいのか。多数派になって安心したいの?
結局メンタリ…の人の騒動は燃えて、煽られて、結果ホームレス関係の寄付金が増えて、謝罪されて溜飲を下げる。
メンタリの人は前から過激な発言をしていたようだし、もとからのファンはついてくる。何を言おうがついてくる人はいる。面倒臭いのに絡まれたな~くらいで実際ここ2日間名前が出まくって注目が集まった。
批判した人は煽られて寄付金を出した。良いことしましたね!この件がなかったらしなかったものね。騒動のお陰で考えさせられましたね。
踊らされてんな~って感じ。
人の優しさとか、弱いものに手をさしのべろとかそんな道徳的な話は標準装備されてるべきなんだよ。小学校行ってるでしょ?その前提での厳しい意見を持つ人とか逆にキリストのような奉仕の精神を持つ人がいて当たり前。自分は偽善者なのでどっちにも寄れませんな。
議論に至る前に、こんなこと言う奴は人の心がない!まともじゃない!話にならん!となる人が多い。人の意見を聞くまでは出来ても理解する努力を怠っていないか。どうしてそう思ったか頭を使わないと、人の気持ちに感情的か論理的かはあっても、どっちが正で誤かなんてのはないのではないかな。多数決は最終手段だよ。数に流されて考えるのを怠ったら何もない人間になってしまうよ。
結局何が言いたいのかよくわからない感じになったけど近頃のモヤモヤをはきだしました!
おわり
昨日、以前から楽曲が好きだったHave a Nice Day!のライブに初めて行ってきた。渋谷のO-EAST。
このご時世でライブってちょっと抵抗あるな〜と思ったけど、しっかりコロナ対策されてるみたいだったのでチケット取った。ハバナイのライブはかなり激しめっていうのも聞いてたものの、以下のような事前の公式アナウンスもあったので大丈夫だろうと思い会場に足を運びました。
・公演中はご⾃⾝の⽴ち位置からの不必要な移動はおやめ下さい。
・モッシュ、ダイブ、リフトアップ、クラウドサーブ等の⾏為及び、⼤声での発声、歌唱等の⾏為は、感染症拡⼤防⽌の観点から本公演においてはお控え下さい。
問診票の記入を済ませて入場。まったり音を楽しみたいのでステージに近いところは避け、ステージ向かって右の後方、床に1メートルおきに貼ってある立ち位置シールの上でスタンバイ。
うーんやっぱ開演前って高まるね。
あ、始まった〜
開演後20分くらいして、周りでモッシュが発生しはじめた。どんどんこっちにぶつかってくる。大声で野次も飛ばすし。この時点で既に床の立ち位置シールは何の意味も持たない模様になっていた。スタッフが一応は制止してるけど全く追いついてない。
で、またぶつかってきた。その弾みで私の顎がやられた。
これが例えば去年行われたライブでの出来事であれば、ああハバナイのライブってこういう感じなんだね、と納得して尊重して我慢することができる。
しかし今回はこのコロナ禍でのライブだ。↑の事前アナウンスもあったから、観客どうしの激しい身体接触は全く想定していなかっただけにショックが大きい。ちょっと騙された気さえする。いやほんと何なんだ。建前を信じた私が馬鹿だったのか。
顎やられてすぐにもっと壁際へ移動したものの、全然ライブに集中できず。
すごく楽しみにしていたライブを楽しめなかったことがとても哀しい。
コロナ禍でのオールスタンディングのライブ開催についていろいろ考えさせられました。少なくとも私はもう二度とチケットを取ることはない。
夜中にこれ書いてて寝落ちして、起きたらちょっと冷静になったんだけどせっかく書いたから投稿するね。
あ。ひとつ書き忘れてた。ライブ中、面識がないと思われる女性(20代くらい)にいきなり抱きつく男性(30代くらい)を見た。あれはどう考えても駄目でしょ。せめて終演後にその女性に声をかけておけば……と後悔しています。
アニメ映画「おおかみこどもの雨と雪」を見て感動したので、その感想を書いてみます。(ネタバレありなので注意)
2012年に「魔法少女まどか☆マギカ」にハマってからアニメをよく見るようになりましたが、最近はほとんど見なくなってしまいました。他のことで忙しいというのも理由ですが、アニメの場合心情描写が少なく、表面的になってしまって面白いと感じることが少ないためです。
もちろん、まどマギやエヴァは例外ですが、それ以外ではやはり面白味を感じる作品は少なかったです。たまにドラマや映画を見るとその心情描写の深さに自分が人間ということを思い出させてくれるような気分でした。
そんな中での「おおかみこどもの雨と雪」でしたので、心情描写にドキドキさせられっぱなしでした。小学生の気持ち、特に高学年の淡い恋心にとても共感できました。
主人公(花)は二ホンオオカミの末裔のおおかみおとこ(名前は不明)と恋に落ちます。
姉(雪)と弟(雨)の2人の子宝に恵まれますが、雨が生まれた直後に夫は死にます。冒頭の見せ場であるはずの夫の死がほんとあっけない。。。花はおおかみの姿で川で死にゴミ収集車で処分されるところを発見します。
夫の死の理由は全く不明ですが、雪の予想では「赤ん坊のために狩をする本能がはたらいたのかもしれませんし、産後すぐの母に需要のあるものを食べさせたかったのかもしれない」とのこと。つまりは、おおかみの死に人間に非はないということ。捕まって殺されたわけでもなく、車とぶつかって事故死したわけでもなく、おそらく鳥を取ろうとして誤って川に転落して死んだということです。おおかみの死が人間と無関係に生じていることが、野生で生きるということの厳しさを物語っていると思われます。
また、その死んだおおかみを人間はあっさりとゴミとしてゴミ収集車で処分するという無機質さ。人間が動物を特別視していないということ、人間のみが尊いと考えられているというが分かります。愛する夫が目の前で死んでおり、ごみとして処分されても何もできない無残さが自然の世界を表しています。
その後は女手一つで2人の子供を育てることになりますが、2人ともおおかみの資質を持っていておおかみに変身できるため、その育て方に花は奮闘します。花の設定が、東京のはずれにある国立大学の社会学部社会学科の学生だったというのは、異文化を理解し、本などから知識を得る向学心があるということを端的に表しているためでしょう。普通の人なら異文化(おおかみおとこ)を受け入れるのは難しく、さらにはおおかみこどもを育てようとはならないでしょうから。
花は最終的に田舎に移住し、自然の多い中、子供たちに人間として生きるのがいいのか、おおかみとして生きるのがいいか、その道を考えさせるようになります。
田舎での自給自足の生活は不便で大変ですが、花は本で農業や動物について勉強したり、周りのお年寄りに支えられることを学びながら2人を育て上げます。
その後2人とも成長し小学生になりますが、雪は自分がおおかみであることを隠すようになり、人間としての生活を選ぶようになります。一方、雨は小学校に行っても馴染めず、「先生」と呼ぶアカギツネに師事し、おおかみとしての生活を選びたいと思うようになります。
まあ、花がバイトで自然観察指導員として雨を仕事場に連れていかなければ、他の動物と会うこともなく、雨が山でおおかみとして生きることを選ぶことはなかったかもしれないですが、それもまた人生ですよね。
最終的には、雪はクラスメートで恋心を抱く同級生の藤井草平に自分がおおかみであることを明かしますが、人間としての生活を選び全寮制の中学に進学します。一方で、雨は10歳のときに先生の死後役割を引き継ぐために山に入り、おおかみとしての生活を選ぶようになります。人間での10歳はまだまだ子供ですが、おおかみとしての10歳はかなりの大人なのでそのような選択ができたのでしょう。
以上の通り、2人は全く正反対の生活を選びますが、これは花が子供に好きな道を選んでほしいと考えたためです。花は決してどちらの方がいいと強制したわけではありません。雨に「山に行ってはいけない」と止めていたのは台風の中山に行くことは危険というためでおおかみの生活を選んではいけないということではなかったわけです。
誰かに何かを教えるときは自分の理想の姿になってほしいと考えてしまっていましたが、どのような姿になるかは人ぞれぞれであり、その人の気持ちや適性から自分で判断するのがよいと考えるようになりました。
2人の名前の雨と雪はそれぞれ生まれた日が雨の日・雪の日だったためですが、同じ水でも全く違う方向になるということのメタファーなのでしょう。このタイトルの深さが分かったときは本当に考えさせられましたよ。
ということで、いろいろと感じることが多い作品でした。みなさんも見てみていろいろ感想を感じてください。細田作品で特におすすめの作品となりました!!
どうもMidasファンです。
もう少し左翼に好意的に言っておくとこの件(「消すぐらいならやるな」と憤慨してるひとがいるように)「政治は政治でちゃんとやれよ(天皇制を打倒したいなら『表現の自由w』とか言ってないで現実で打倒しろ」につきる。めざすべきはあくまでも現実世界での天皇制廃止ないしは社会改革であって展覧会で「これがボクたちの考えた芸術です」は単に『表現w』の世界へ逃げこんでるだけ(「現実では何も変えれない」敗北宣言にこれも等しい。
このへんの不純さ、不誠実さが(右翼のみならず)いわゆるノンポリのひとたちの嫌悪感を誘ってるのは疑いないので。結局「歴史上の人物だから問題ないですよね」がいまだに大失言だと気づいてないのはそういうとこ。「これは表現の自由だ」が『政治』になりうるためには当然ながらそんな2代まえなんかの肖像いくら燃やしてもアクチュアリティのかけらもないわけで(「歴史上」は「ノーカン」でしかないので)いまの天皇を燃やすべき。ところが令和の陛下が犯した悪行といえば柏原芳恵にラブレター書いたのと嫁の生理があがってオトコみたいなツラになったくらいしかないのであってその責任を問おうにもポイントがみつからない(お人柄もいいらしいし。
「2代まえのひとだから(歴史上の人物なので」と『表現の自由』だけを切り分けようとするほど政治的には効力を失ってしまうというジレンマがある。「いいかな?」とか言ってる場合ではないのである。かんたんにいうと今回の件が決定的にダメなのは(ちまたで言われてるような)「芸術の政治化(本来はニュートラルであるべき美術の世界に稚拙なプロパガンダ芸術をもちこんだ」からではなく逆「政治を美術化した」から。
政治の美術化とはいうまでもなくファシズムの最も簡潔な定義なので。政治を美術館での鑑賞の対象にするとは現実世界の矛盾を一見みんなで共有してるようでその実は単に審美的な判断をくだすだけ。くり返しいっとくが政治をギャラリーでの鑑賞の対象にして「考えさせられました…」とか言ってるのは現実改革をあきらめたしるしでしかないのである。政治を展覧会のネタにしてはならないとはそういうこと。
たぶんガイジンさんには今回の「表現の自由」いったいなにを争ってるのか全く理解できてないと思う。ちなみに「表現の自由がー」必死に言ってる連中もこれが極めて日本的な『どこに由来してる』か自覚してない。
(まさかと思うかもしれないが)この『表現の自由』はいわゆる『朝日的な』もの(サヨクん)ではなくルーツは雑誌『ぴあ』にある。町山が「はあ…昔の『ぴあ』はよかった…」言ってたのを軽くみてはならない。日本の68年以降の文化史ではそれまで『朝日ジャーナル』を小脇にかかえて歩くのが学生さんヤングのひとたち『かっこいい(政治意識がある』と言われてた。雑誌『ぴあ』はまさに『朝日ジャーナル』の次にあたる。朝日ジャーナルにかわってこんどは『ぴあ』をかかえて歩くのがかっこいいヤングの条件(ちなみに朝日ジャーナルのまえは『平凡パンチ』とか)になった。『ぴあ』がかっこよかったのはいわゆる『情報誌』だったから。
ロードショーから場末のポルノ歌舞伎展覧会にいたるまで情報を『差別』せずフラットに扱った最初の例が雑誌『ぴあ』。フラットに扱うとは『価値判断をしない』。ただしこの『価値判断をしない』がくせものであって…「町山さいきんクソサヨクになっちゃってどうしたの…(脳に毒がまわったのかな」ふしぎに思ってるひとも多いが情報のコンテクストにおける『価値判断しない』は結局は「愚弄する(冷笑する。もちあげない」なので津田やあずまくんにしてみれば「まさかこんな反発くらうとわ…」なのもまあわかる。あの「歴史上だから、まいっかと思って」もホントだったら慰安婦像つくったひとにむしろ「ふざけんな!」言われてるべき態度。
慰安婦像つくったひとは(わたしにいわせればデタラメもいいとこだが)マジで「日本人よ…はんせいしろ」思って(たぶん)あれつくってるので。津田やあずまくんがやってた「表現の自由」実はそこまでの政治性はない。
雑誌『ぴあ』が今週おこってるいろんなイベントをおもしろおかしく無差別にとりあげれたその点において表現が自由だった(ロマンポルノのとなりにハイソな演劇が並んでてよかったね自由な社会で)くらいのニュアンス。もちろんそうしたフラットなあつかいができるのも世の中がへいわで経済繁栄しててみんながそれなりに理解力があって寛容だったから。なのだが(実際に「ポルノと一緒にされちゃたまらん」感じてたひともいるはず。
高尚な演劇とかでポルノと並列に扱われたら明らかに「侮辱だ」思うのもまた自然なことなので。『全てをフラットに扱う(価値判断しない』だけでも『表現の自由』そんなに長続きしないしそもそもありえない。もちろんそうしたフラットなあつかいができるのも世の中がへいわで経済繁栄しててみんながそれなりに理解力があって寛容だったから。なのだが(実際に「ポルノと一緒にされちゃたまらん」感じてたひともいるはず。高尚な演劇とかでポルノと並列に扱われたら明らかに「侮辱だ」思うのもまた自然なことなので。『全てをフラットに扱う(価値判断しない』だけでも『表現の自由』そんなに長続きしないしそもそもありえない。
みんな(とくに憲法がくしゃとか)大いに勘違いしてるけどこれ要するにそういうことなので(どうしてこんなかんたんなことがわからんのだという感じ。なぜそうなるかというとつまるとこ『インダストリー』のもんだい。たとえばこんかいあずまくんいきなり前言ひるがえしたりして「なんなのこのひとは…(このていどのこと最初からわかれよ」思うひともたぶんたくさんいるはずだが別に彼らに一貫したものなどありはしないので、こないだまで河村disってたはずのあずまくんいきなり「津田がわるい」になるの丸山ぎいん「みなさんNHK受信料はらうのは国民のぎむ」からの「NHKぶっこわす!」入りと全くおなじ。
インダストリーの問題とはすなわち文化産業の問題であり雑誌『ぴあ』の「表現の自由」が成立してたのはみんなが中産階級だと思ってたから。永六輔とか旧NHKこうした平等な社会の構築に焦点あわせてたしこの環境の産物。こうした文化産業の仕組み(従事してるひとたちも含めまだ巨大なインフラが半ば廃墟と化しながら残ってる)いまどきこれでやってけるはずない(もう残念ながら時代おくれ)と誰もが思ってるのは確かなので。
若干専門的な話でしめとくと(もうネットにたくさんいる情報産業のひとにとっては常識だろうが)おどかすようですまないがこれからは「情報をフラットに」ではなく「差別と排除」の時代なので(あれこれいってもムダ。差別と排除とはゲートキーパーが誰をはじくか決めてその(誰でもゲットできるはずの)情報へのアクセス権がそのひとの社会的な地位をしめすアレ(要は「ブロックだ!」「不可視にする!」みなさん楽しそうにやってるやつ。
表現の自由なんかよりそっちのほうがよっぽどだいもんだいじゃないの?wという感じだが世の中よくできたものでホントに重要なことは展覧会のテーマになんかなったりはしないのである(みんなのメシの種になってるから。
令和はジェンダーギャップのない時代に。男女ともに本音で生きられる社会について考える
以下、本文から(太字は原文で太字の部分)
男性の育児参加とか、家事をやる・やらないみたいな話題って、よくあるじゃないですか。
でもそれはあくまでも表面的な話でしかなくて、本当は根っこの部分で「男性が女性に心を開いていない」状況が、問題の核心にある気がするんですよね。
というのは、もし本当に心を開いていたら、困っているパートナーをなんとかして助けようという気持ちが、もっと湧いてくると思うんです。
今回の座談会で「男もつらいんだよ」という声がひしひしと聞こえてきて、考えさせられました。
白岩
でも、それを全面に押し出すのはダメだと思うんですよ。
石戸
そのとおり。
白岩
女性の方がずっと抑圧されて大変な状況にいるのは事実で、それを差し置いて「男だって、つらい!」と声高にいうのはおかしい。ただ、互いのつらさに耳を傾けずに、男対女の戦いで傷つけ合って溝が深まっていってしまうのは、やっぱり悲しいじゃないですか。男だけ/女だけの問題としてではなく、たまたま違う性をもって生まれた同じ人間の問題として捉えて、ともに乗り越えていけたらいいんですけど
なめとんか
ホンマなめとんか
言うたろか 今日は言うたろか
何がジェンダーフリーだ。結局いつもの「男のせい。女は大変だから尽くせ」じゃねーか。
いい加減にしろよ。「女性のほうがずっと」じゃねーよ。「声高に言うのはおかしい」?それがジェンダーロールの押し付けでなくて何だ?
「男性が心を開いてない」?そりゃそうだろ。こんな風に「女が!女が!」って押し付けられる状況で誰が心を開ける?
はぁ?こいつの言うとおりだとすれば、男は心を開いても負担が増すだけじゃねーか。
まるで宗教じゃねーか。「信じればおのずから帰依する」みたいな。
実際には、女性への思いやりなんてのは男性が心を開いて正直になればなるほど失われていく。
生きたい という気持ちに 死にたい という気持ちが上回った時、私ならどうするか想像もできません。
どうしようもなく辛いことが重なって冗談じゃなく本気で死にたいとおもうことがある、と友人に相談した時もお母さんに死にたいと伝えたときも、死にたくてたまらなくて一晩中泣いたときでさえも、私は心のどこかでは死にたくありませんでした。というか生きていたかったのだと思います。私は死にたいという言葉を何度も吐いた自分に嫌悪感を抱きました。
私は主人公の幸乃に同情をしながら非情もしました。死にたいという感情を抱いて生き続けていた彼女は無罪ながら「元恋人の家に放火し、妻と双子を殺人した」という容疑に問われました。そんな彼女はそれを否定せず、死刑囚になりました。とても複雑ですが、一言で表すと「悲しい」が最適でしょう。彼女が親身に存在していたと想像してもかける言葉がわからないほど、気持ちの矛盾が私自身の胸の中で駆け巡ります。普通の人なら冤罪で死刑判決を下されれば、どんな術であろうとも死ぬ気で否認し事実を伝えようとするはずです。でも私は生きたいという気持ちには勝らない程度で死にたいという感情を抱いたことがありますし、今も全くないと言ったら嘘になります。本気で死にたかったと共に周りへ迷惑をかけることを異常に嫌った彼女にとっては最も良い機会が訪れ、それを逃すわけにはいかなかったのかもしれない。という部分ではそれでよかったとも思ってしまいます。しかし例え死刑でなくても他人の罪をかぶるというのは決して良いことではないですし、結局本当の犯人もその事実を知って罪悪感で事故を装った自殺をしてしまったという事実も兼ねて本当にそれでいいのかとも思ってしまいます。自らの選択によって死を選んだ彼女のせいで私は死刑という制度を少し否定する気持ちまで持ってしまいました。今までそんなこと考えたことすらなかったのに。
彼女の微かな生きたいという感情に死にたいという感情が勝ってしまったのは、彼女の過去にありました。17歳で自分を産んだ母と義父、義姉と共に暮らしていた彼女でしたがたったひとつの希望であった母が事故で亡くなってから彼女にとって地獄がはじまりました。その日から死刑判決の日まで、確かに彼女は多くの人に見下され人じゃないような扱いも受けていました。だれかに必要とされたい、と彼女は何度も思ったといいます。私はそんな彼女については、馬鹿だと思います。沢山の人からの罵倒のなかで、自分を受け入れている人もいたはずです。何年にもわたり、彼女の無罪を突き止めた彼女の過去の友人がとても可哀想に思います。自分のことを思ってくれる人に気付こうとしなかったこと、これが彼女の欠点です。自分の人生において自己嫌悪しかしてこなかった彼女は愚かともいえる、と私は思いました。
私はこの本を読み終えたとき、幸せとはなんなのか考えさせられました。彼女と私の価値観は恐らく全く違います。家族ででかけたとき、おいしいものを食べたとき、私は単純に幸せだなと思いますが、幸せな人生といわれてみると心の底から考えても「わからない」という言葉しかでてきませんでした。でも、それでいいのかもしれません。たぶん「幸せ」に概念なんてないんだと思います。というかないですよね。個々それぞれで全然ちがうのです。