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はてなキーワード: バベルの塔とは

2020-05-16

anond:20200516073648

さあなあ。

たぶん、俺らは、またバベルの塔を作りつつあるんだろうな。そして今度も、志し半ばにして崩壊するんだろう。

2020-04-26

ヒューマンコンピュータインタラクション(HCI)への違和感

はじめに

anond:20190329034939

この日記が物議を醸してから1年以上経った。

その頃自分M1からM2に上がりたてで、HCI系の研究室所属していたが特別ブラックというわけでもなく(直接指導にあたる教員との相性は悪かったが)、記事を読んでも筆者の境遇に思いを馳せるぐらいの月並みなことしかできなかった。

それでも、HCIは「一見役立たなさそうなおもちゃのようなものに、理屈をこねくり回して正当化させるのが多いように感じ」るという主張に心から共感したことは覚えている。「おもちゃ」という表現がぴったりだと感じたのだ。「ゴミ」とか「クズ」ではなく、「おもちゃ」。自分も含めて学士修士研究は大半がゴミ同然なのだろうけれど、どうしてかHCI研究の一部は「おもちゃであるように思えてならない。当時その理由漠然と考えてみたりもしたが、結局まとまらないうちにほとぼりが冷めてしまった。

今、自分修士課程を修了して労働をしている……が、このご時世なのでここの所はずっと自宅待機で時間を持て余している。だから、今のうちに寝かせたままのもやもやを整理し、言語化しておきたい。そういうわけで、増田に書くことにした。

一応断っておくと、これから書くことは修士卒の人間主観に満ちたお気持ち表明であり、HCI全体のごくごく狭い領域事情を述べているに過ぎない。HCIの学際的な領域は多岐にわたるが、その中でも自分記憶感情コミュニケーションといった人間精神的な活動コンピュータ技術支援しようという趣のことをやっていたから、余計におもちゃ性の強い研究に触れる機会が多かったのかもしれない。そのあたりを踏まえた上で、読んでもらえると幸いだ。

HCIはどのようなおもちゃ

HCIが立派な研究であるかどうかは、HCIおもちゃ問題を考える上で大きな問題にならないと自分は思う。正しく研究フォーマットに則ってさえいればそれは研究と呼ぶ他ないはずだし、研究質的議論は何もHCIという分野に限られたことではない。

HCIにとって真に重要なのは、人の役に立つかどうかだ。

学問有用性は、例えば人文学の軽視だとか、もっと次元を低くすれば三角関数を習う意味だとかで、これまたよく議論対象となる話題である自分としては、一般的学問に関しては直接的な人間への有用性という観点のみで議論されるべきではないと思っている。学問による間接的な恩恵や将来への投資無視するのはあまりに浅慮であるし、根源的な欲求の充足というのにも価値はあるはずだと考えるからだ。

しかし、HCIは例外だ。HCIは、人を対象とし、大半の場合エンジニアリング的なアプローチによる課題解決を目指しているのだから、人の役に立たなければ意味を持たない。しょうもないHCI研究は、道具・ツールとして失格の烙印を押されたガラクタの「おもちゃなのだ

自分は、ワゴンいっぱいのガラクタおもちゃの中にあって気持ちがみるみる冷めていったし、元増田の筆者もきっと同じだったのだろう。

おもちゃHCIの特徴

ここからは、自分おもちゃだなと感じてしまうHCIの特徴について列挙していく。

継続的使用が望めない、一回限りのモノである

おもちゃHCIは往々にして一発芸の様相を呈しがちである

遊ぶように楽しめる何かを作ること自体結構だが、課題解決を目指す工学において繰り返しに耐えないモノを作るのは全くのナンセンスだ。

それこそ、人間にとってのお役立ち度は、縁日の射的の景品やヨーヨーと全く変わらないということになる。

人間理解していない・理想化しすぎている

HCIの研究プロダクトが役に立つ前提として、人間というのは常に明るく元気で前向きで、人と繋がりたくってしょうがない生き物なんだと考えているんじゃないかと思わされることが何度もあった。確かに現在社会においてそのような人々は理想的で偉いのかもしれないが、現実を見ればそのような前提を掲げられるはずもないことは火を見るより明らかだろう。

また、人々に高度な認知能力要求するような例も多いが、そのような人々がいくらかエンハンスされたとしてもそれに対するHCIの貢献度は、はじめからA判定の生徒を受け持つ家庭教師のような疑わしさが持たれて然るべきだ。

他分野の援用に飛躍がある

これは元増田にも指摘のあったことだが、他分野を無理のある形で援用してトンデモ仮説を作るようなことが見受けられた。逆ソーカル事件といえるようなことが、あちこちで起こっているんじゃないかと思う。

射程が短い、もしくは長すぎる

大いなる研究の礎として失敗した研究存在するという考え方があるが、おもちゃHCIは礎たりえない。それは、そこに積み上げられるものが全くないか、あるいは逆にバベルの塔を建てようとしているからだ。つまるところ、未来が両極端なのだ

おわりに

ある程度もやもやを形にすることで、多少スッキリしてきた。

当たり前のことだが、何もHCI全体を否定しているのではない。優れた研究研究者は数多く存在しており、今後も我々の生活を豊かにしてくれるのだろう。

ただ、おもちゃHCIが存在するのも事実で、それに関わると残念ながら莫大なリソース無駄に終わってしまうからちょっと口出ししておきたかったのだ。

2020-03-18

はてなーってフェミニズムジェンダー論にいろいろうるさい割にはちゃん論文読んだり専門書読んでないんだよな。

から基礎になる考え方や用語が互いにふんわりしてるから無駄ブクマや論及が続く。セルフバベルの塔してどうすんだって話だよ。

こういうことを書くと「いや俺は学者じゃないし」といわれる。そりゃそうだ。俺も学者じゃない。

ただそれは、アニメ大して見てないのにアニメの一部分の表象を語るようなもんだぞ。

それやられたら、アニメファンはいやでしょう。ほかのどの分野でもそう。サッカーしたり観戦したりしないのにサッカー熱心に語ってたらちょっと格好悪いでしょう?

新書くらいは普段から読んで、雰囲気掴んでからブコメしたほうがよほど生産的だ。

学術研究じゃなく社会運動だというひともいると思う。それにしても運動史ってのがある。

やるなら一歩踏み込んだ方がいい。

2020-02-21

anond:20200221034500

「いしのそつうはない......

 ただのバベルの塔のようだ..。」

     ▼

2020-01-14

からもう改革は失敗したと認めてくれ。

バブル崩壊と言われた後、実際には日本の景気は今ほど悪くはなかったのだ。

それでもなお、金持ちは居たし、その辺のおっちゃんは500万を超えて700万程度はあったのだ。650万だとちょっといかな? という程度。

野原ひろしの年収が650万というのは「平均よりちょっと下のうだつの上がらないリーマン」だった。

要するにイケてない中年。そんな中年でも子供二人にマイホーム持ってるってそういう時代

それが今じゃ、バリバリ仕事をこなす、やり手リーマンになってしまった。

バブル崩壊後に、日本支配したのは「このままじゃだめだ。欧米を真似ないと、もっと景気が悪くなって滅ぶ」という漠然とした根拠のない不安だった。

この当時の空気を知りたければ、サラリーマン金太郎を読めばわかる。

バブル崩壊からの、根拠のない危機感と、ことごとく裏目に出た改革案がすべて全巻を通じて載っている。

最後小泉純一郎をもじった大泉なる総理が、派遣解禁を役人必死に止めるのを「ユニオンから合法」に乗っかるシーンで終わるのだが、まさに今から見ると「それをやったからお前、お前、結局雇用の底が抜けちまったじゃねえか馬鹿野郎。お前が悪いんだよお前が!!」と単行本を投げつけたくなる。

いわゆるバブル崩壊以降の改革案というのは、「一切の科学的に分析された知見によって行われたものではない」と断定してよい。

簡単に言えば「バブル崩壊したのは心を失った日本への天罰だ」という謎のオカルティックな思想によって支えられていた。

バベルの塔ならぬバブルの党」というわけだ。

から、「経済に潜む何者かに清貧をささげて悔い改めれば、許してくれるだろう」という謎の思想が支えていた。

この思想でまず一番最初に挙がるのは、石原慎太郎だろう。彼は、東日本大震災の際に「我欲を捨てろ、天罰である」という趣旨発言をした。彼には津波我欲を洗い流すためのノア洪水のように映っていたのだろう。あの空気感。

からバブル崩壊以降の改革案は「痛みを伴う改革」という路線で進められた。つまり、「罰を受けるのだから痛くなければだめだ」という短絡的な思考があったことは間違いない。

まり、「国民に痛みを与えて罰することにより、経済に潜む何者かに許してもらおう」という思想があったのだ。正直そこには「効果であるかどうか?」はあまり意味がない。「痛みを伴うこと」が重要だったのだ。効果があることよりもずっと重要だった。

マジで、今までが甘えていたんだ。これからもっとひどくなるぞ。だから我々は厳しくせねばならんって本宮ひろし顔で主張してる政治家がわんさかいたんだよ。Mr.ビーンなんかも、なんかもその流れで無茶苦茶人気が出た。リストラする俺、非情リーダーで格好いいって時代だよね。

与党野党も左も右も、意見対立し続けてはいたが、「痛みを罰として引き受けること」には一致していた。あらゆる経済的な社会保障を切り詰め、消費税増税し、国債発行高を抑制しようとしても、小泉純一郎の様々な国民をいたぶるかのような社会セーフティーネット規制撤廃するかのような改革を続けて、経済に潜む何者かにいけにえを捧げ続けても、「余計に悪くなった」ということしか起きなかった。

経済マゾヒスト天下一武道会ではない。

このことにいまだに気づいていない人間が山ほどいるのだ。

国債発行は悪」

「消費減税は悪」

バブルは悪で不自然だった」

サービス残業は当たり前」

正規雇用は甘えているかもっと不安定にしろ

「我々が罰を受けなければ、子供が苦しむぞ」

これらを支えているのは、経済的を科学的に俯瞰した法則ではなく、「バブルを罪としてとらえ、罰を受けることによって禊をする」という非科学的な思想だ。

からいつまで経っても成果が上がらない。

必ず「国民に罰を与える」という思想に行きつくからだ。

これは小泉純一郎自民党で顕著だったか民主党も「苦い薬を飲め」と国民に迫り、その内容は自民党以上に強硬だった。

どちらも「罰を受けねばならない」というという、謎の強迫観念から逃れられていない。

このあたりの謎の思想を見たければクニミツの政を読むことをお勧めする。

当時の政治に対する謎の強迫観念がよくわかる。

とりあえず「公共事業という寄生虫が国をダメにしている、あいつらは規制虫だ。我々がこんなことをしていれば子供借金まみれになって苦しむぞ~」というわけのわからん空気感だ。


で、これら改革の行きつく先がもう見えてる。

子供のために借金を残すな、じゃねえよ。

お前らのせいで子供を育てる給料が出ねえだろ。馬鹿か?


ふう。言いたいことを言ったのですっきりした。

飯食って寝る。

2019-08-23

アンチバベルの塔

日韓関係の壁が一向に埋まらないのって、もちろん色んな要因があるだろうけど、言語の壁もでかいんじゃないだろうか。

英語なら多少できるから英語圏で何かが起きてる時はちょっと調べれば現地民の声とか、現地の事情を知る人の生っぽい情報が入ってくる。

個人の発信にあまり重きを置きすぎるのはまずいけど、市民からの直接の発信にはやっぱりニュース経由では掴みづらい実感と温度がある。

一方で一連の日韓問題市民レベルでは韓国の人たちがどう受け取っているのか、直接の声が聞こえてこないし知ろうにも言語の壁があって調べられない。極端なやつばっか目立つ。

で、多分向こうにとっても同じなんだよな。俺たちがどう思ってるのかとか、絶対伝わってない。

おいおいそりゃちがうだろとかツッコミするタイミングももらえんし、そんなこと思われてんだとか省みるチャンスもない、言語が違うと市民レベル対話ができない。

で、国家判断扇動に乗せられるしかなくなって、対立する国家の向こうにも自分とそう変わらん生身の人間生活してることへの実感が持ちづらい。

両国語分かる人は今やきもきしてるのかな、それとも知らんほうが幸せかもしれんくらいもう手の施しようのないとこまで来てるのか?それすらもわからん

例えば今日、米英間の関係悪化したとしたら、多分ネットを介して市民レベルでも両国間でめちゃくちゃ議論が交わされるよな。それでも拗れて戦争突入したとしても、市民レベルでの対話がまるでないままなだれ込むよりずっと健全な気がする。

翻訳技術がめちゃくちゃ発達してマジで垣根がなくなったらまた一つ世界は変わるのかも。共通言語を持たれて困るのって神ぐらいなんじゃないの。

2019-08-07

ワイがバビル2世だと最近知った

超能力かえるんは嬉しいんやけども

毎週末メソポタミアまでバベルの塔の様子見に行かなあかんのがかなわんな

なんにせよヨミさんの世界征服阻止はワイに任せときなはれ皆の衆

2019-03-01

少子高齢化は神(地球)の意思

バベルの塔と同じ

人類は増えすぎたので減らされるのだ

2018-12-28

怪談と隣人―波勢邦生「トナリビトの怪」を読む

【読んだもの】本を購入しようと思ったら、リアル書店ネット書店最近では出版社による直販(弊社もやってます)などさまざまなあるかと思いますが、今回ご紹介したい『アーギュメンツ#3』という評論誌は「手売り」、つまり関係者による直接販売というきわめて珍しい流通チャンネル選択した書籍です。売り方の時点でかなりチャレンジングな企画なのは明らかで、魅力的な論稿も多数収録されているのですが(レイ・ブラシエ(佐藤正尚訳)「脱水平化―フラット存在論に抗して」や、大前粟生さんの小説断崖」もすごかった)、その中の波勢邦生さんの論考「トナリビトの怪」が本当に本当にすばらしかった。ので、今回はそれについて書きます

当該論考のテーマをおおきくまとめると、理性的自己判断できる存在としての近代主体(いわゆる「強い主体」)の淵源にあるものとしてのキリスト教という一般的イメージに対して、ハワイ日本沖縄におけるキリスト教受容史をふりかえることで別の可能性(本書でいう「隣人」)がたちあがる場としてダニエル書・イザヤ書を読みかえすという試みといえます

いろいろ論じたい点はあるのですが、とくに筆が冴えるのは、小原猛『琉球奇譚 キリキザワイの怪』に紹介されている怪談ジーマー」の話です。曰く、ある男性が「ジーマー」という老婆に「神様用事の手伝い」を頼まれる。それは波上宮という砂浜で、彼女三味線に合わせて民謡を歌うというもの。そこで事は起きる。

知ってる歌は歌い、知らない歌は手拍子うつ適当にこなすうちに背後の砂浜に人が集まりはじめるが、おしゃべりの中に英語やうめき声が聞こえるなど、奇妙な何かがそこにあった。徐々に不審なおもいにかられたその男性は後ろを振りかえる。「すると、そこには誰もいなかった」やがて夜も明けて、ジーマーの三味線も鳴り終わったあとに砂浜をみてみると、声が聞こえた場所には子どもをふくめた無数の足あとが残されていたという。こうした情景に、その男性は戦争太平洋戦争のことか?)の傷跡を読みとり、波上宮鳥居を抱きしめて泣く。「みんな死んでしまった。父親も、幼馴染の友達も、学校の恩師も、みんなみんな死んでしまった。自分は生き残ったが、果たしてこれは良いことだったのだろうか。自分のようなくだらない人間が生き残って、優しく勇気のあった友達や、才能のあった人々が死んでしまう。この差は何なのだろうか?」(30ページ)

この「ジーマー」は沖縄固有の物語ですが、波勢さんはここに「死者との交換可能性」という「怪談本質」を見ます。生者と死者の想像力が同時に起動する場所、そこに怪談という物語は立ち上がる。そして同論考にとって重要なのは、この「怪談想像力」はキリスト教テクストにも見出されるという点です。

(「怪談として聖書を読む」というこの箇所は本稿でもっとも屈折し、そして読みでのある所なのですが、そこはあえて飛ばします。気になる方は「アーギュメンツ#3」をお買い求めください)

この怪談という想像力からみて、「西洋近代的自我による主体区分による解釈は、恣意的グロテスクな切断」(34ページ)となりますしかバベルの塔神話が示すように、神は常に「言語文化を奪われたものの側に立ち上がる」。つまり強き主体の側にではない、という点が重要です。

「神は奪われ排除されたものの側に立ち上がる。歴史と非歴史境界で『主体』と『弱い主体』を隔てる壁は消失し、ありうべからざるものが現れた。」「ぼくはそれを『隣人』という言葉に求めたい。なぜなら聖書において隣人とは、まさしく自他の交換可能性を示す言葉からだ。」「隣人が現れるとき、『神を愛せ、己を愛するように隣人を愛せ』というイエスの声が、聞こえ始める。隣人は、神の赦しを伝達するぼくらの似姿であり、またぼくらの赦しを待つ異形のものでもあったのだ」(35ページ)

ここで提示された「隣人」は、大仰で圧倒するような<他者>、私たち理解を拒む絶対的な<他者>ではないでしょう。どこにでもいるあなたであり、わたしであり、そして誰かです。これはブルーハーツの歌に出てくるような、といっていい。そう思います。(すこし恥ずかしいけれど、いや、しかしそう言ってしまっていい)

「隣人の思想」、波勢さんの論考が到達した地点をそう呼んでいいと思うのですが、ここで示された思想の内実とともに、この思想に至る論述あくまでもキリスト者としての波勢さんの信仰に貫徹されている。ここに本稿のもうひとつの傑出した点があります

たとえば「昨年11月、九三歳で祖父が死んだ」ではじまる本稿は、「キリスト教信仰告白せずに死んだ祖父天国でないどこかへ行ったのではないか不安になった」という文章地の文で、鍵括弧抜きで出てきます。たぶん信仰をもたない人にとってこの一文は、理解の遠い、「向こう側の人」の言葉に聞こえるのではないでしょうか。(本稿の最後、註のラスト文章も「神に栄光、地に平和、隣人に愛と怪。感謝して記す」です)

聖書怪談として読む」という本稿の試みをもし信仰をもたない人がするならば、さじ加減をまちがえたとき即座に「他者信仰否定」になるでしょう。でも、波勢さんはあくまでも信じることで聖典を読み替える(またはこれまで読まれなかったものを読み解く)という姿勢を貫く。そこにこのテクスト独特の緊張感と救いがあります

イスラーム法学中田考先生や、このたび『トマス・アクィナス』でサントリー学芸賞を受賞された山本芳久先生などもそうですが、これまで護教論や宗学として避けられがちだった信仰自身による学問考察のいくつかには、相対主義決断主義あいだでさまよう私たち課題を乗り越える何かがあるように思います。私にとって本稿はまちがいなくその一つです。そう断言していいものがこの論稿にはあると考えます

以上、編集Aは自社本を紹介していないどころか本すら紹介していないのではないか疑惑もあるのですが(広報誌とか、雑誌特集号の論稿とか)、これにて「トナリビトの怪」の長文の感想を終わります。ご清聴ありがとうございました。

2018-10-10

わしは神じゃ

ふぉっふぉっふぉ、わしが創設した「はてなーランド」では今日人類不毛で愚かな争いを繰り広げておるようじゃの。

バベルの塔が天に届くまで、あと少なくとも1万年はかかるわい。

かつて種族間の諍いが絶えなかった頃、わしが慈悲深くも魔界人間界とにセカイを分けて人間だけの国を作ってやったというのに、人は結局のところ他者との差異固執し、自分とは異なる存在攻撃し始める。

恐ろしい恐ろしい

2018-10-09

anond:20181008215814

id:wildhog 言語研究価値は直接関係ない。とはいえ世界大学ランキングに役立たないし、留学生海外研究者に対して敷居が高くなるから英語で書いた方が得じゃない?

じゃあランキング気にするのやめるか英語以外の研究も拾えるランキングしろボケ,が前段への返答で,そんならアメリカ人日本人にとって敷居の高い英語やめてくれない? 日本語論文書けよ! が後段への返答っすね.マジあいつら日本史日本社会についての論文や著書すら英語で書きますからね.それを日本人研究者がわざわざ日本語翻訳してますからね(悔しいことに面白いんだこれが).別にそれが悪いことだとはまったく思わない,というかむしろアメリカ人日本研究者が英語で書くのはそりゃ当たり前でしょって感じだけど,広い読者にわかるように日本研究者は英語で書けとか言われたらまずあいつらに日本語で書かせてから言えよくらいは言っていいですよね.日本史の読者のボリュームゾーンはまずもって日本人なわけで.アメリカ人英語日本についての論文を書いても,えー英語論文しかないのー,日本語論文書いてないとかレベル低すぎー,とアメリカアカデミアで冷遇される世界になったら日本語論文書いてる欧米研究者を冷遇してくれて一向に構わないので,そのへんどうかよろしくお願いします.

というか日本語習得して日本語論文博論書いて本も出してる留学生の方だって大勢いらっしゃるわけですよ.私はこれまで,中国人韓国人台湾人モンゴル人・ポーランド人が書いた日本語単著を読んだことがあるし,ウイグル人カザフ人エジプト人アメリカ人日本語論文書いてるひともおられる.琉球方言学とか見ると定期的に日本語論文投稿してらっしゃるニュージーランド研究者もいらっしゃいますね.日本語外国人研究者によっても使われる立派な学術言語です.

モンゴル研究者が日本語で書いた単著の一例(査読つき)> https://www.yamakawa.co.jp/product/67381

id:parosky 論文人類の知の体系に貢献するものからみんながアクセスできる言語じゃないとダメじゃない? という意味英語なことが重要だと思ってたけど、たしかに界隈の人がみんな日本語を読めるなら日本語でもいいね

「みんなが日本語を読める」んじゃなくて,「重要日本語の先行研究がたくさんあるから頑張って日本語勉強する」んですよ……

この辺の感覚理解されてないんですかね? 文系にとって標準言語英語だけではなく,分野によってはいくつかあったりするのが普通なので,頑張っていくつかの言語勉強するんです.西洋古代史なら英語古典語の他にフランス語ドイツ語の先行研究を読む必要があるし,インドネシア近代史人類学を勉強したければ英語インドネシア語の他にオランダ語を学ぶし,中国前近代史なら英語中国語の他に日本語が読めないとね,という要求水準があって,それらの言語を知らない人は勉強する必要があるわけですよ.英語さえ読めれば研究ができるひとたちにはわからない感覚かもしれませんけど.

正直,中国研究してる欧米人が英語論文の中で日本語引用してるのを見て,「あっ,つづり間違ってるな,こいつあんまり日本語得意じゃないな」って思うことはあります.たぶんもともと中国語が専門で,日本語研究必要からいやいや読んでるんだと思いますけど,西洋研究してる日本人は同じことをドイツ語とかフランス語かに対して思ってたりするわけで,まあお互い様っすね.

id:nakex1 自国しかやってないと自国語で形成される村の思考の枠組み(そこから発生する評価の枠組み,師弟関係派閥から出られないんじゃないかという懸念はある。

師弟関係やら派閥やらはともかく、思考の枠組みとか言われても、社会学英語からの輸入学問なんだから英語圏の発想や思考バッチリ取り入れた論文書いてますよ! 英語圏の理論の本とか翻訳されまくってるし,未翻訳の本でも原語で引用してるひとは大勢ますねえ.当たり前だけど,執筆言語自国語であっても,自国語で論文書くために読まなきゃいけない言語はいくつもあるわけで……

id:kanekoshinichiro 日本語学術を述べてもいいけどガラパゴスにならない?どこかで日本人以外に読んで欲しくないのかなと思ってしまうな。もっとオープンになればいいのに。英語できるでしょ。

ドイツ語より母語話者人口が多い言語を捕まえてガラパゴスとか言われても困りますわー.日本語話者世界トップ10に入る大言語なのですが.ちなみに欧州なんかだと日本10分の1くらいの人口しかいない小国にもちゃん日本語学科が設置されて現地語で日本研究論文が書かれてたりします.日本語学習者って世界中にいるので日本語論文書いてもガラパゴスでも何でもないんですよね.日本人勉強して英語論文を読んでいるんだから日本人以外も勉強して日本語論文を読んでください.

id:nt46 ペレルマン論文ポアンカレ予想という関心分野で他の数学者がその正しさを検証たから業績になってるのであって、事実上査読は行われている。

それが査読になるなら日本語の著書や無査読紀要論文出版後に多くの同業者が読んでチェックしてるから事実上査読つきですね.ありがとうございました.

id:steel_eel 本質学問正当性を確保するためのクロスチェックがどう機能してるかであり、その点で現状ベターなのが英語使用査読でチェックを受けるシステムなわけで、それが無いなら代替の何があるのかを示さんとな。

分野によるという話をしています.たとえば日本に関する研究なら別に日本語でもいいですよね.日本史日本社会研究しているのに日本語論文を読めない研究者は三流以下なので,そんなひとに査読を頼んでも別に正確性や信頼性が向上するわけではない……というのは理解していただけますか? 日本以外の地域研究にしたって,前近代中国史を扱うならば,中国人研究者が日本語著作引用したりする世界なので,日本語で書いて査読してもらえばよくないです?

id:operator 日本語英語かではなく、国際学会のトップカンファレンスを目指して研究したこともないのに教授になれるの?というのが理系からみた驚きなんでしょ。日本古典文学研究も、英語文学分野の国際学会に出せるよね。

からなんでその「トップカンファレンス」の言語英語である必然性があるんだと小一時間.確か日本文学については日本語公用語の国際会議みたいなやつはあったはずですし,ロシア文学の国際会議ロシア語でやるはず.英語以外の言語を発表言語指定されたカンファレンスは出たことあるけどまああれはトップカンファレンスではないか.ともかく,その「トップカンファレンス公用語英語」という思い込みをまず捨てやがれください.そんなん理系や一部文系分野のローカルルールでしょ.

id:tarume バベルの塔を折りたい人。なにが"なんとも愉快な未来予想図"だか、英語コンプレックス隠せよ / 知を共有するために論文書いてんだから、まずは一人でも多くの人間が読める言語で書くのは当然でしょ。自国語訳はその後

文系バベルの塔を折りたがってるんじゃなくて,そもそも文系には共通言語がはじめからなかったという話です.なかったもの探究しろと言われても……

2018-08-29

土地を手に入れたら

その土地天井が平面の家を立てて済む

そして、その天井の平面を土地として売りに出す。

 

その天井の平面を買った人は平面の天井の上に、天井が平面の家を立てる。

そして、その天井の平面を買った人は自分が立てた家の天井の平面を売りに出す。

 

最終的にバベルの塔が完成する。

2018-07-17

神々へ挑んだ人々の記録あるいは神話のこと

ユダヤ古代誌を読んで
まとめ
  • 創世記に記されていることをそのまま受け止めれば、慈悲深き神と浅慮で愚かな人間によって紡ぎだされた物語といえる。傲慢人間は神に至ろうと思い塔を建てたが神はそれを一蹴した。
  • 傲慢なニムロデ。しかし神は、洪水でも人間は知恵を得られなかったか虐殺をすることはやめたが塔を崩壊させることはした。これは何を意味するのか。塔は実際に神に近付き得た、その手前まで行ったのではないか。塔はほとんど完成していたらしい。
しかしだな

2018-07-15

もう祈る神はいない

親が狂信的とも言えるほどに熱心なクリスチャンで、私も物心が着く前から毎週教会に連れて行かれていた。

色々と制限が多かったし、意味の分からないルールも多かった。

でも私も信仰していたから、大した問題ではなかった。

何が「きっかけ」だとはっきりは言えないけれど、20年以上信仰してきた宗教がただの人間の造り上げた幻だと最近気付いた。

ある意味洗脳されていたのだと思う。

ノアの箱舟」「天地創造」「バベルの塔」そんなファンタジーを信じていた言い訳にはならないかもしれないけれど。

バカな私。

それまで毎日神さまに祈っていた。

神の存在―少なくとも聖書に書かれている神の存在―を信じなくなっても、しばらくは祈っていたけれど、いつのまにか祈らなくなった。

祈り方が分からない。

聖書の神さまが嘘なら、祈りだってイエス弟子たちに教えたようにするものではない。

祈らないことに慣れたけれど、たまにふと、

「もう頼れる神さまはいないんだ」(そもそもいなかったんだけれど)

と思って、不安なような自由なような、不思議気持ちがする。

こんな気持ちも消えつつあるけれど……。

2018-06-30

anond:20180630150652

私は現在20代後半になる男で、高校生なるくらいまで医学部を目指していた。

別の道に進んだ理由ひとつとして、自分には元記事増田のような「助けたいという志」が自分の中にまったくないと感じたからだ。翻って、それは「医師は使命感を持ってなるべきだ」という自分で言うのもなんだがピュア道徳観が強かったのだ。

父を含め親族医師の多い家で育ち、都内中高一貫男子校に進学し順当に医師になる環境は揃っていた。先に私は助けたいという志がないという理由を書いたが、その感覚小学生の頃から薄々とあったもの学問としての医学は好きで医学部に入ることはまんざらでもなかった。

しかし、高校生ときに両親が急逝したこときっかけに、私は医師の道へ進むことをやめた。

それは、医師になることがふつうという環境から解放され、先に書いた自身には人を助けたいという志がないことを見つめ直すきっかけになったからだ。

誤解のないように書くが、私が両親から医師になるように押しつけられるようなことはなかった。むしろ好きなことをさせてくれたという記憶しかない。それでも、私が志などなくても医師になろうと思う程度の空気が家の中にあったのだと思う。

そんな別の道に進んだ今の私は医師になった人に対して必ずしも志がなくても良いと思っている。

もっと言うと、志が空回りしている医師が怖い。

そして、現場疲弊しているのに、否が応でも頑張らないといけない環境が怖い。

私は医療の現状を知り自分ライフプランをきちんと大事にする元記事増田を私は応援したい。

それで崩壊するような医療は、さっさと崩壊してしまっても良いとすら思う。

たぶんそれは「白いバベルの塔」だ。

2018-03-07

延々くだらないマウンティング合戦トラバリーが伸びてるのを見ると、これがバベルの塔かという感慨。

2017-06-18

Googleってプログラミング言語同士の翻訳機って作らないの?

いつまでバベルの塔やってるの

2017-05-21

かばんちゃんの二次創作

ファミコンスペランカーと組み合わせたものニコニコで見つけたけれど、ちょっと待ってほしい。

ファミコンならナムコバベルの塔の方がふさわしいのではないか

バベルの塔主人公インディーには帽子羽根もついているし。

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