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はてなキーワード: 無常とは

2019-05-14

「苦しみから逃れたい」→「死にたい」?

生きていると苦しいことがあるのは正常です。

苦しみがないという方が異常です。(単なる嘘つきか、思考停止に陥っているだけでしょう。)

苦しみは存在しますが、苦しみの解決方法もあります

 

三苦

苦しみとは何か?

まず最初に苦しみの定義を考えてみましょう。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A6_(%E4%BB%8F%E6%95%99)

三苦とは、苦苦、壊苦(えく)、行苦の三つである

  1. 苦苦(くく) とは、「苦痛を苦とする状態」を意味する。「苦事の成るによって成立する苦」などと説明され、「寒熱飢渇によって生ずる苦」といわれるから、外的な、感覚的な苦である。このような苦が人間にとって第一段階の苦で、自然的、基礎的なものである
  2. 壊苦(えく) とは「壊滅の苦の状態である人間にとって好もしいと感ずる対象が、次々とこわされてゆく時に感ずる苦である。この第二の苦の中に、人間一般に感ずる苦は含まれる。
  3. 行苦(ぎょうく) とは「生起の苦の状態」といわれる。人間生存無常という事実の中に感ずる苦であるから生存苦、生きること自身が苦であることを示した。

したがって、苦苦も壊苦も、この行苦を根本として起ってくるといえる。

その意味で、行苦や五蘊盛苦は、人間根本的な苦を示す。

仏教は、根本的には生きていること自体が苦であるという形而上学的な考え方をもととして、人間の「自分が」という我執こそ苦の根本であると言う。

 

行苦とは、簡単に言えば「対象を求めても、それが得られないときの苦しみ」です。

「ないものねだり」ってやつですね。

「苦しみ」を三苦に分類すると、そのいずれかに当てはまります

 

苦諦

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%AB%A6

四諦(したい)とは、仏教が説く4種の基本的な真理。苦諦集諦滅諦道諦のこと。苦集滅道ともいう。

  1. 苦諦(くたい) - 迷いのこの世は一切が苦(ドゥッカ)であるという真実
  2. 集諦(じったい) - 苦の原因は煩悩妄執、求めて飽かない愛執であるという真実
  3. 滅諦(めったい) - 苦の原因の滅という真実無常の世を超え、執着を断つことが、苦しみを滅した悟りの境地であるということ。
  4. 道諦(どうたい) - 悟りに導く実践という真実悟りに至るためには八正道によるべきであるということ。

 

ゴチャゴチャ書いてますが、簡単に言うと、

  1. 苦:苦しみは存在している。
  2. 集:存在している苦しみは生じる。
  3. 滅:生じた苦しみは滅する。
  4. 道:苦しみを滅する方法がある。

というだけの話です。

 

縁起

苦しみを滅する方法には順番があります

その順番は「12のステップ」で実行可能になっています

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%9B%A0%E7%B8%81

十二因縁 (じゅうにいんねん)、あるいは、十二縁起(じゅうにえんぎ)は、仏教において、現実人生の苦悩の根源を断つことによって苦悩を滅するための12の条件を系列化したもの

仏教基本的な考えの一つである

 

十二因縁の支分は、無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死の12個であり、この12個の支分において、無明によって行が生じるという関係性を観察し、行から次第して生や老死という苦が成立すると知ることを順観という。また、無明が消滅すれば行も消滅するという観察を逆観という。

 

止観

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A2%E8%A6%B3

止観(しかん)とは、仏教瞑想の主なものである

仏教では瞑想を止と観の二つに大別する。

止(シャマタ)とは、心の動揺をとどめて本源の真理に住することである

また観(ヴィパシヤナ)とは、不動の心が智慧のはたらきとなって、事物を真理に即して正しく観察することである

このように、止は禅定に当たり、観は智慧に相当している。

止だけでなく観を重視するところに、仏教瞑想法の特徴がある。

止観は、しばしば2つの車輪に例えられ、不離の関係にある。

止観は、仏教三学である「戒定慧」の定慧に相当する。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%9E%E3%82%BF%E7%9E%91%E6%83%B3

サマタ瞑想は、こころ特定対象に結びつけて集中力を養う瞑想である

サマタ(巴: samatha)、シャマタ(梵: śamatha)、奢摩他とは、ひとつ対象に心を落ち着かせることを意味する仏教用語であり、止と漢訳される。

 

上座部仏教では業処と呼ばれる瞑想対象が40種類ある。

現在欧米で広まっているヴィパッサナー瞑想(観行)の一類である上座部仏教のマハーシの文脈における瞑想では、準備段階としてサマタ(止)の一種である慈悲の瞑想が行なわれる。

最も一般によく使われるサマタは呼吸を対照する安那般那念(別名アーナーパーナサティである

呼吸法(アーナパーナサティ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%82%A3%E8%88%AC%E9%82%A3%E5%BF%B5

安那般那念(あんなはんなねん、巴: ānāpāna-sati:アーナーパーナサティ、梵: ānāpāna-smṛti:アーナーパーナスムティ)とは、仏教瞑想一種

 

安那般那念は、狭義には文字通り、入出息(呼吸)を意識する(あるいは、呼吸を数える)ことで、意識を鎮静・集中させる止行(サマタ)の一種、ないしは導入的な一段階を意味するが、広義には、そこから身体の観察へと移行していき、四念処に相当する観行(ヴィパッサナー)の領域も含む。

 

長く息を吸っているときには「私は長く息を吸っている」とはっきり知り(pajānāti)、長く息を吐いているときには「私は長く息を吐いている」とはっきり知る。

短く息を吸っているときには「私は短く息を吸っている」とはっきり知り、短く息を吐いているときには「私は短く息を吐いている」とはっきり知る。

「私は全身の感覚を把握しながら(paisaṃvedī)息を吸おう」と訓練する(sikkhati)。

「私は全身の感覚を把握しながら息を吐こう」と訓練する。

「私は身行(=吸う息)を静めて息を吸おう」と訓練する。

「私は身行(=吐く息)を静めて息を吐こう」と訓練する。

これが呼吸による気づきであり、このように熱心に行い、自身を訓練することは大きな果報となり、大きな利益となる。

  • 呼吸の操作を様々な方法で訓練すると、心と体が連動していることが理解できます
  • 体を操作することで心を操作することができるようになります
  • 心を操作することで体を操作することができるようになります
  • 心を鎮めて雑念がなくなると呼吸を長時間停止することができるようになります

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%91%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%8A%E3%83%BC%E7%9E%91%E6%83%B3

ヴィパッサナー瞑想は、ナーマ(こころのはたらき、漢訳: 名〔みょう〕)とルーパ物質漢訳: 色〔しき〕)を観察することによって、仏教において真理とされる無常・苦・無我を洞察する瞑想である

 

仏教において瞑想漢訳「止観」)を、サマタ瞑想(止行)と、ヴィパッサナー瞑想(観行)とに分ける見方がある。

サマタ瞑想精神集中であり、高ぶった心を鎮める手段でもある。

ヴィパッサナー瞑想洞察智慧)であり、沈み込んだ心を活気づける手段でもある。

通常、ヴィパッサナー瞑想サマタ瞑想ペアで修習される。

一般仏教においては、集中力を育てるサマタ瞑想と、物事をあるがままに観察するヴィパッサナー瞑想とが双修され、この点は南伝仏教でも北伝仏教でも変わらない。

 

動いている対象を観察して理解するためには、

  1. 止める
  2. 見る

という順番で行います

例え話として、時速300キロで走っているF1カーの構造を観察する場合を考えてみましょう。

  • 車を止めないと、構造を観察するのが難しい。
  • 車を止めただけで満足してしまい、観察を怠ると構造理解できない。

 

今後の人生で、あなたが苦しみに直面したら、苦しみを観察して、その分解方法を得てください。

必ずその方法はあります

 

人間には何ができるのか?

止観によって自分自身を観察して、苦しみの原因を知り、苦しみの原因を解除すれば、苦しみから解放されます

あなたが「自分」と呼んでいるもの本質を知ることが、あなたが死なずにまだ生きていることの意味です。

それを知るまでは自殺をしないで、踏みとどまってください。

世の中には知らなくて損していることがいっぱいありますね?

人生無駄にしたら本当にもったいないですよ。

2019-04-17

anond:20190417001102

半額パンつの万引き「ああ無常」でも全国1万件が毎日のように繰り返されたらインパクトありそうw

2019-04-10

過ぎてしまった現実と、生きている人間エゴとしての葬送

どうしようもないことっていうのは、生きていれば必ず起こる。

しばらく前にいとこが亡くなった。まだ二十歳になる前で自分で命を絶った。自分が嫌になったのか自分以外の全部が嫌になったのか、それとも両方なのか、詳しい動機はきっとこの先ずっとわからないんだろう。

祖母は孫たちのなかでも彼を特に可愛がっていた。彼の家族祖母と家が近くて、一緒にいた時間が長い。祖母も両親である伯父夫婦もきっとわたし想像つかないほど落ち込んでいるだろう。


これだけでも十分に大事なんだけれども、問題が一つある。

私と両親はそのいとこの死を、つい数日前に親戚から送られてきた荷物に同封された手紙で知ったことだ。

私の両親は遠方に住んでいるが、私は祖母達の隣の県に住んでいる。死の直後に知らされたなら、父が間に合わなくともわたしは直ぐに祖母の家に向かって葬儀に出ただろう。四十九日の前に知らされたなら、予定を立てて向かった。

私といとこの仲が悪いということはなかった。いとこは口数が多い方ではなかったけど 私と会えば他愛のない話をした。いとこと最後に会った時は、私と祖母といとこで焼肉を食べた。一緒に焼肉食べた二ヶ月後にそいつ死ぬと思うか?私は全然思わなかったよ。

知らせを聞いてから、いとこに関する何年も思い出していなかったような記憶を思い出す。思い出しても一人暮らしの部屋では共有する相手もなく、ひとりでぼんやり記憶を味わうしかない。そんな思い出を共有して、上手に悲しみを昇華するためにも葬式四十九日あるんだろう。そういう儀式は生きていく人間のためにあるんだと実感する。

その別れの手順を踏めなかったせいか、ずっと心の中でなにかがフワッと浮いている。悲しみと無常感とかだろうか?わからないけど、そのせいで純粋喪失を惜しんだり悲しんだりできていない気がする。それが悔しい。

どうして知らされなかったんだろう。祖母と伯父の身近には何人も親戚がいた。みんな私に優しく、お盆正月に帰ると喜んで迎えてくれた。その全員がずっと茫然自失で連絡できなかったのか?四十九日が終わるまで?向こうの事情がわからいからなんとも言えないのだけど、私は少し怒っている。まあ怒っていることを自覚していれば、実際会った時にキレ散らかすことはないと信じている。

そして両親と話をした結果、週末に父と墓参りに行くことになった。今回の件も親戚と話し合うことにもなった。それが済んだらフワッとした何かがちゃんと着地できるだろうか。すっきりした答えが出るとは思えないけど、せめてどこかに着地点が見つかるといい。

2019-03-29

anond:20190329174109

ブーム所業無常ッスなあ。

かつての高級ブランドなど、一瞬でオバサン臭さと同じになる。

もしもお金があったなら

高学歴お金持ち女子大学生のポエムを読んでると、もしもお金があったなら私にはどんな人生があったのかな、なんて思う。

勉強は出来たけど親が教育不熱心というか、大学にやるお金はないか勉強しても無駄という価値観だったし、塾の学費とか予備校学費とか調べてみると、家の収入の1割以上かかったりしてこれはとても通えないって思ったし、結局大学は安い国立夜間にしか行けなかったし、国立でも夜間は同じような貧乏人ばかりだろうと思っていたら学力的に昼間は無理だっただけのお金持ちが7割くらいでなんだか世の中の無常を感じたし。

もしお金があったならバイトで塾代稼ぐとかせずに勉強に専念できてもっといい大学に行けてたかなとかそうしたら私の人生どんな風になってだろうとか考えてしまう。

でも、そうしたら私も3000円のアウターを着て大学に通うかつての私のような人を貧乏だと見下す人間になってたのかな?

2019-02-06

仏教無常思想無視して宗教を語る日本人

バロス

ふだんは法律科学が正しいみたいなリアリストを気取っているくせに

究極のリアル仏陀のご意向はみたくない

2019-01-14

anond:20190114193931

ブッダとその後に生まれ大乗がそうだけど

ブッダの遺骨や死んだ場所に来るほうが心が安らぐのが弱い人間です

無常価値観常人は耐えられない

2018-12-06

友達がほしいだけなのかもしれない

今日の午後5時に急に気付いたんだよね。

これまでに感じたことのない感情すぎて、しかもあまりにも突然だったから気付いてご飯食べて一時間経って世の無常と憂き節を感じてほぼふて寝に近い状態で寝込んだわけ。そんで今目が覚めた。いや嘘。11時すぎに目が覚めたんだけど電子時計の1の文字しか目に入らなくて最初1時かあと思ってて、顔だけ洗ってまた寝ようと思って顔洗ってアナログ時計見たらほんとは11時だった。なんだよ。だから顔洗ったあとちょっとツイッターして、そんでタイトル感情を思い出した。

これまでこういうことがあったらツイッターの数あるアカウントの中のしょうもない鍵垢にちょっと呟いておしまいだったんだよ。でもこの感情、それだけじゃなんかおしまいにならなくて、なんかはてな匿名ダイアリー脳裏によぎって書くかってなったんだよ。そういうとこじゃんたぶんここ。知らんけど。初カキコ…ども…ってね。やかましいわ。急に脈絡もなく変なことをし出すの悪い癖なんだよね。悪いか?言うほど悪いこともしてないな。ならいいか

のしょうもないお話始めるためにユーザー登録必要なのめんどすぎて半ギレだったわ。嘘。キレてない。穏やかかつ冷静な人物なのでね。フ…。

いやどうでもいいんだよそんなこと。本題本題。でも文章吐き出してるうちにちょっと落ち着いてきたわ。これを目的ゲロ長文文章を書いているわけ。成功じゃん。

いや本題だよ。ハイ友達、欲しくない?欲しい~(セルフコールアンドレスポンス)

友達ね、ほんとにいないわけじゃない。むしろいる。インターネットでも現実でも、少ないけど確かに仲の良い人間存在する。じゃあ友達いるじゃんって思うじゃん。そうだよ、そうなんだけどさ。なんかなあ~~~~~、ちが、違、違うんだってたぶんこの感情事実として友達はいるけどもなぜか感情になってしまったのもまた事実なんだよ。わかる?わかんなくていいけどさ。

まずこれまでの人生友達が欲しいって思ったことはあんまりない。むしろ一人の時間が好きで一人でも平気どころか一人の方が楽しいじゃん!と陰キャ様様な思考だったし人間と話すのあんま得意じゃないし。人間のことは好きだけど。てかこのクソキモ長文をつらつらと書き連ねている時点でもうこいつ完全にド陰キャじゃんウケるわってお思いかと思うんですがうわもうほんとに1時じゃん!寝たほうがいい。でも一度取った舵は止まんねえんだよな。

これまで生きてきて、多くの作品友達の大切さを教えてくれたし3才くらいか友達いっぱい作ったらハッピー!って永遠に言われ続けてるじゃん。でもそのときは「ああそうだなあ」って思いつつも思うだけで共感してるかと言われるとしてないし実感もしてなかったんだよ。なのに今日の5時に急に実感がきた。そしてちょっと泣いた。なんでだろうな。

なんで急に、って思うじゃん。自分でもそう思うしわからいから今こうやって文章を書きながら感情をまとめてる。たぶんきっかはいっぱいあって、今日、それがいっぱい重なっちゃったのと今忙しくて大変なのも合わさって情緒ちょっともじゃもじゃしちゃったんだと思う。軽めに言えばアンラッキーデー。

でもこの気付きがアンラッキーかというとそうでもない。むしろ友達が欲しいというポジティブな方向への感情。でも友達はいるんだよね。違う。概念として友達が欲しい。は?何言ってんだ。自分でも意味不明。てかマジで長文すぎてキモい。匿名ダイアリーでこんなキモ文体でこんな長文書いてる人見たことない。ここまで読んでる人間いる?暇だね。わかるよ人間が紡いだ文章をただただ目に入れたいときあるよね。

インターネット友達が次々にアカウントを消していって本当に泣くぐらい悲しかった、フォロワーを愛しているから(激重感情) 現実人間と会話して会話が上手にできなくてちょっとしかった。なにが悲しいって上手に話せない自分能力が、ノリの掴めなさが、会話は楽しくてもなんかどっか冷静な自分が。これは小学生ときからずっと悲しんでる。バーチャル世界友達ができて本当に楽しそうなバーチャルYouTuberを見て、楽しい面白い!の感情だけじゃなくてほんとは羨ましかったのかもしれない。憧れたのかもしれない。そんな、そんなさ、夜遅くまで、理由もないのにただ通話するなんて友達できたことなかったし理由もなく通話するの無理な自分いるからさ。できないことに憧れても仕方なさすぎるんだけど。いやできないわけじゃないな。頑張ればできないはできるに変えられる。したくないんだよ。あんまり理由もなく通話とか、意味のないことだと思ってるからしかも上手にできないし。でも意味のないように見えることが意味があることだったりするんかな。わからんけど。やったことないし。ほんとはしてみたいのかも。実際したところでそこまで莫大に楽しいと感じられない性格っぽいのは理解してるからこれからもできないかもだけど。

現実でさあ、ライフステージが進んでいくごとに人間関係が変わって、でも友達作るのほんとに下手だから友達だんだん少なくなっていくんだよね。これからさあ、冬がきて春がきたらさ、友達ほんとにいなくなっちゃうかもしれなくて、う、ちょっと涙でてきた。いや友達はいるよ。いるけど、頻繁に会わなくなると友達ではあっても友達がいるって実感はなくなるじゃん。実感だけがただただ消えていって、気持ち的には友達ないないになっちゃうんだよね。みんなお空の下で繋がってるとは言ってもさ。

ていうかこの難儀な性格のせいでさ、友達になりたいと感じる人間からもうすでにだいぶ少なくて、困っちゃうよね。そこから友達になれる人間となるともっと少なくて、これまでの人生ちょっと友達大勢人間人間人間人間構成されてて。インターネットでもそう。インターネットは広いか友達になりたい面白いやつはいっぱいいるんだけどインターネット友達作るのって現実の5倍くらい難しい。個人的にはね。だってリプライ送るのドキドキすんじゃん。苦手なんだよね、友達になる過程っていうのが。気付いたら友達に囲まれていたい。現実でもインターネットでも。無理だってわかるけど。

なんか、感情をまとめたところで解決するわけでもないしままならないな~って感情がきちゃうだけなんだよね。思考するときだいたいそう。思考するのが好きだからずらずらこんな感じで考察現実を並べて、最終的にはどうにもできないな~で終わる。友達がほしいだけなのかもって感情は今までで一番どうにもできない。ただむやみやたらに友達が欲しいんじゃなくてほんとに楽しいほんとに仲良いなにも気にしないでいい友達が欲しいからさ。ハードルエベレストかよ。

友達、いらないと思ってたんだけど、友達、欲しかったんだなあ、自分

あたりまえの感情に気付くのが遅すぎない?みんなすごいなあ、自分感情の真理に小学生くらいで気付けてて。まあ人の真理は人それぞれだから個人的にこれが真理のひとつだったってだけなんだけど。

ままならないな~。もう2時近いじゃん。寝るわ。おしまい

2018-11-10

滅びゆく国にするべきなのは、救済ではなく鎮痛剤を与えることである

この世は無常。驕れる者は久しからず。国の勃興は世の定め。

そうは言っても、苦しんでいる民衆を見過ごすことはできないのもまた事実である

民衆に鎮痛剤に相当するものを与えるべきであろう。

それが何かはわからないけれど。

2018-10-24

anond:20181024180820

>「確かめようがないことを信じる活動」と定義するなら仏教宗教ではない

>釈迦の教えやメソッドを各人で懐疑的に試して検討していけばよいものから

で、各人が懐疑的に試して何を持って判定するの?

効果があるかに釈迦からいかいかなんて微塵も関係ないし、僕は重きをおいていない。

釈迦超人から釈迦に近ければ効果があるはず。は宗教

更に、どちらが釈迦に近いはずだで元祖本家の争いだらけ。

それをくだらない笑ったのが一休宗純

今苦しんでるやつに対する薬は結構違う、、、、、と言いたいが、慢の感情絡みが多いのでそのあたり強いやつをいつも使うことになるな。

無常、苦、無我の観察。

それをすることが悟りなのか?するべきだと気づくことが悟りなのか?

するべきだと気づくというのは1度気づけば終わりなのか、気づく度が悟りなのか?

正統性とかそんなことはどうでもいいんだけど釈迦の教えを守ることは大事でしょう?

極端に言ってしまえば、「真の釈迦の教え」なんてものはもう無いよ。

釈迦この世にいないじゃん?

更に、今の時代に残るのは「自称釈迦の教え」で何百世代もかけ合わせたものじゃない。

僕は今苦しんでいるやつに正しい答えを出せる方を正しいとする立場なので、

ましてや釈迦は人によって様々なさじ加減で法を説いた。そんな事もうできないよね。

数読んでそのばその場に合わせたことをいう。

まあ、でもわかってきた。要は「釈迦言葉絶対で素晴らしいから、それからずれなければ立派な仏教実践してると言える」

から、僕が上げた3人はどうかと言いだしたんだ。更に日本の僧の言葉否定的なんだ。僕は科学の進展も含めて今の時代人間に解を与える人間を選んだからそりゃ君好みじゃないよね。

そういう元祖本家の争いなんて知らんわ。

anond:20181024174008

まずさっきからなんか正当性正統性が混乱してない?


釈迦というもの超人として仮定して、それにより正当性を保つのって宗教じゃないの?

あなた宗教定義がわからないけど

「確かめようがないことを信じる活動」と定義するなら仏教宗教ではない

釈迦の教えやメソッドを各人で懐疑的に試して検討していけばよいものから

では、超人が2人いたら?

何の問題があるのかわからない

その仮定仏教徒が困ると思ってるとすればそれは釈迦を崇拝対象だと誤解してるのでは。

釈迦先生から、同等の能力があると確認できる先生がもう一人現れたらその人のことも活用するだけ。

まあ釈迦の教えは完璧だという前提があるんだけど、ほんとに釈迦と同等の先生なら失伝部分について注釈を入れてもらえるし実地指導してもらえるということになる。

まあ、じゃあ君の「悟り」というもの定義してみてよ。

無常、苦、無我の観察。

これは「君の」じゃなくて仏教徒のコモンセンスだよ。

こんなことを問い詰めたり定義しろかいうのは仏教勉強する人としてはちょっとどうかしているよ。

僕の定義は一つは認知の歪みの是正だが、おそらく君の想定するのは一切煩悩に惑わされることのない世界というのでも想定してるんじゃない?

「僕の定義」も「おそらく君の~」もオレオレ宗教過ぎるよ。

瞑想をすれば、一度煩悩は収まるだろうがね。けど、日常行きている以上煩悩は発生する、まさに今このやり取りでも。

そんなのは当たり前の前提で、だから戒と実践進めていくんじゃない。

なんでそんな、第一歩目みたいなことを踏ん張りながらいってるのかわからない。

瞑想をする、思考が止まって一時的に苦が収まったすごいぞ、でもまた始まってしまうなどうしよう、

ここまでは瞑想を始めた一日目に体験できること(瞑想をしない人はその体験すら一生無いけれども)


一休宗純の「有漏路より 無漏路へ帰る一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」

有漏路と言うのは、煩悩がある世界

無漏路というのは、煩悩がない世界

あなたの度々見せるこういうのは無意味かつ有害だと思う。

瞑想邪魔になる。

仏教名言コレクションじゃないし、心が止まらないなんてことはその「名言」を引いて力説するまでもないことだし。

ゲンガク的なことは無益無駄話なのでやめた方がいいし、そういうのが多いか日本仏教から距離をとりたい。

死んでやっと悟れるなんてもうわけがからない。小池龍之介が悟った云々の話とも矛盾してるじゃない。

死ぬ前に悟れるし死んでも悟れないよ。


それで元の話に戻るけど

正統性とかそんなことはどうでもいいんだけど釈迦の教えを守ることは大事でしょう?

あなたの話もどんどん釈迦アイデアと何の関係もない俺理論になっていってるし、そういうのは単純に理論メソッド劣化しかないじゃない?

2018-10-10

ブロッキング

無能正義だと信じて愚行を続けているのか、悪党正義だと偽って私利私欲を満たそうとしているのか。

いずれにしても、人の世の無常と無力さを痛感する。

人間の作る社会ってしょーもねーな。

2018-09-13

シケたおっさんたち

10年ぐらい前、はてなダイアリーアンテナに入れてよく見ていた人たちを当時Twitterでも見つけ次第フォローしてたんだけど、

その後自分は忙しくなってはてな界隈Twitterもご無沙汰してた。

なんとなく久々にTwitterログインしてタイムラインを追っていたら、

はてなでそこそこ有名だった人も今ではなんか金がなさそうでつまらないぼやきばっかりのシケたおっさんになってる人が多くて時の流れの無常を感じた。

(女の人は結婚したり子育てしたり仕事バリバリやってそうだったりして、そこまでシケてる感じはしなかった)

で?と言われればそれまでだけど、当時、賢しらぶったりオモシロぶったりしてた人たちもこんなもんかと思った。

2018-08-30

anond:20180830181714

家族持ちでも家族から冷遇されてたらボンバーマンになって果てる

焼死の元自衛官ネット動画投稿 妻との離婚で不満切々と…「もう預金も住む場所もなくなる」「全てに負けた…」

https://www.sankei.com/affairs/news/161023/afr1610230020-n1.html

夕べには白骨

死ぬときは一人

無常

2018-08-21

Hagexさん、そういえば亡くなったんだった…

ってなった。

所詮ネット一方的に知ってるだけとは言え、

忘れかける早さに無常

2018-08-19

LGBTめんどくさい

すごい自分の複雑な性質について語って

それで受け入れろとかどうとか

正直興味がない

というか

あなたがたとえ死のうが生きようが興味がない

他人に対する興味はその程度だ

なのでそういう声は雑音に近い

メンヘラがなんか言ってる程度でしかない

LGBTじゃなくても各々個性とか悩みとかもってる

勘違いするな

最初から特別視してない、皆等しく他人から理解されていないだけ

世の無常を受け入れろ

2018-08-11

anond:20180811100035

仏陀はどうして自分そっくりの木彫りの像を作れと言ったんだろう 

金を握らせてスキンヘッドの男に念仏を唱えさせたら天国に行けるなどと何で無常世界観晩年撤回したんだろう

2018-08-09

無職としての学問

 特に文系において、大学研究を取り巻く環境が厳しいので、少し愚痴を書かせていただきたくお邪魔します。

* * *

 研究生活が実生活、ことに家庭生活に対し極度の不安定性を与えることは、今日に始まったことではない。

 例えばかの有名なマックス・ウェーバーによる1919年の講演の中では、「大学に職を奉ずるもの生活はすべて僥倖支配下にある」と語られており、「精神的に打撃を受けることなくこうした境遇に堪ええたためしは極めて少ない」とまで言われている。

 このような状況は、100年の時と洋の東西とを超えた今日日本においても、同様である。むしろ人口減少と学問に対する軽蔑——それはおそらく、ウェーバーが講演の中で強調した、学問がなんの「救い」も「啓示」ももたらさないということを、多くの人々が正しく認識たからに他ならないが——に直面している極東島国の方が、研究生活を取り巻く環境過酷であるといえるだろう。

 博士号を取ったとしても多くの人々には就職先がなく、あっても有期雇用で、しか低賃金であり、長期的な研究生活の途を描くことは全く不可能である

 日本より恵まれ研究環境を有する国、例えば博士課程から給与が出るアメリカや、高等教育がほぼ無償であるフランスの例を持ち出すことは簡単であるしかし、研究生活はその研究者が根ざしている言語文化、あるいは人的ネットワークにある程度は依存せざるをえない。また、他国研究環境は、一部だけを切り出せば外面的には羨望の的になりえるが、実際は、給与と引き換えに研究テーマ選択制限されたり、あるいは無償で得られる研究環境には限りがあったりするのである

 当然のことながら、研究者における研究成果はそれぞれのおかれた研究生活の諸条件に左右されるのであり、それは資本的な制約を大きく受ける理工学系のみならず、人文系についてもそうなのである

 ハンナ・アーレントのように、生地での生活を根こそぎ奪われ、新天地で大きな研究成果を挙げる例もないわけではない。大学官職への道を閉ざされてから活躍したカール・マルクスそもそも学歴のなかったピエールプルードンなども、偉大な思想家としてのちに崇められる存在であるしかしながら、すべての人が偉大な人、指導者のような人、あるいは預言者になることを目指して研究に励んでいるわけではない。実態はむしろ逆であり、陽が当たらない部屋で日がな一日、誰も読まないような古雑誌の1ページをどう解釈するかについて考え、その謎を解けた時に無常の喜びを感じる、そういう人が研究生活に入るのである。そのような、全くつまらないことこそ重要研究成果なのであり、むしろ大きな社会的反響を呼び起こす御宣託が科学的な研究成果とは全く呼べないようなものであることは、ウェーバーの指摘するところであり、歴史が度々証明してくれたところでもある。いずれにせよ、研究生活とは社会的名声や富と全く関係がないどころか、資本主義社会ではしばしばそれらは相反するものとなるのである

 尤も研究者も所詮人間であるからして、研究のものの「客観性」や科学位置付けとは無関係に、それぞれの求める研究生活上のあり方というのは存在する。名声や富を求めて研究に取り組む人もいるのかもしれない。しかしそれは明らかに悪手だ。羽生名人でも挽回できないぐらいの悪手だと思う。

* * *

 さて、反面、家庭生活はまさに「経済」の必要に駆られるところのものであり、十分な収入、定住可能な住居、そして可能な限り多くの家事労働自動化が進んだとはいえなお労働集約的だ)が投入されて、初めて成り立つものである

 収入がないなどもっての外であり、亡命収監失踪放浪なども、家庭生活とは相容れないものである

 歴史を顧みれば、自死発狂、子捨て、虐殺に至るまで研究に身を置いた人々の末路は様々であるが、なんとかしてそのような事態は避けたいと誰しもが願うところであろう。

 できれば平穏無事に、昭和時代理想とされたライフスタイル、すなわち夫婦円満子供と共にマイホームに住み、安定した立場で働き定年後は年金生活という人生を歩みたいところである(これは皮肉である)。

 しか今日の若き研究者は、子供はおろか結婚もままならず、マイホームマイカーも持たず、年金制度破綻を前に怯えながら年老いるのである

 もしあなた結婚したとすれば、それはパートナーの全く寛大な心によるものか、パートナー無知蒙昧で完全に誤った選択をしたかのいずれかであろう。

 さら子供がいるとすれば、当然あなた研究生活放棄するか、あるいはなんらかの安定した不労所得に拠って研究生活と家庭生活の両立を試みねばなるまい。(あるいは、あなたが非常に体制時代に順応的な研究をなしていたとすれば、すでに十分な収入に恵まれいるかもしれない。これこそウェーバーの言った「僥倖である。そういう人には心から祝福を送ろう。願わくば同じような僥倖が数多の迷える研究者たちにあらんことを。)

 多くの研究者たちにとって、結婚出産研究生活首にかけられた縄である

 女性研究者の研究生活性別役割分業的発想や家庭生活に対する支援パートナーから十分に得られないなどの理由によりすぐに縛り首になってしまうが、男性研究者の研究生活も同様に性別役割分業的発想や金銭支援パートナーから十分に得られないことですぐにギロチンにかけられてしまう。

 いずれにしろ他者にとって金にならず有用性のわからない行為としての研究は、家庭生活に直面すると挫折する公算が大きいのである

 だからといって、家庭生活を全く否定してしまうことも困難である穂積陳重来日本の身分法学者は、日本国民の位置付けを次の三つの身分のいずれかあるいは複数に属するもの定義した。すなわち、夫婦、親子、親族である

 しかし、親が死に、結婚もせず、親族との紐帯も弱いとなれば、その人は社会的にも法律的にも、全く孤立した存在となってしまう。

 その人は十分な社会保障の対象にならないことはもちろん、社会生活上の様々な面で制約や不利益を受けることとなる。

 実際上の問題として、社会的要請として家庭生活に入ることを我々は求められており、多くの人はその生活が全く不幸であり耐え難く絶望的なものだと感じていたとしてもなお、家庭生活に甘んじているのである

 当然、研究をしていなければ家庭生活が楽になるとは全く言うことができない。しかし、少なくとも研究生活が家庭生活と激しく対立することであることは自明であることのように思われる。

 あるいは「家庭」という理想像の崩壊高齢者二人世帯や単身世帯シングルマザーの増加、生涯独身者の増加などによって、家庭生活という名付け自体空虚ものになっているという批判があるかもしれない。

 しかし反面で、なお結婚出産経験する人は半数を占めており、「家庭」に代わるほど普遍化された結婚出産を前提とした私的領域生活モデルはいまだに存在しないわけだから、やはり家庭生活という呼称を用い、特に若い研究者たちにとってはそれを重視せざるを得ない現状もあるのだ。

* * *

 収入、定住、家事労働を求める家庭生活は、無収入、度々の転職と転居をもたらし、にもかかわらず時間の余裕を求める研究生活とは、完全かつ深刻に対立する。

 では、この間の解決はどのようにしてもたらされるのか。非研究であるパートナーの忍耐によってであろうか。あるいは研究生活の適度な抑制によってであろうか。

 前者はこれまでの男性研究者がしばしば採用した方法であり、女性人権がない時代であればよかったが、21世紀にもなってこの方法採用しようと思っている人がいるなら、その人は妻を見つけることができないであろう。

 後者方法は、実際には採用し得ないものであり、つまりそれは相撲レスラー炭水化物摂取を控えるとか、プログラマーが1日3時間しかモニターを見ないようにするとかいう話であって、研究生活を「適度に抑制する」などということは単に研究生活否定しかない。

 研究者はその人をして全的に研究に没頭せしめなければ、素晴らしい「霊感」を得られないものである。そうでなければ、特に人文学研究においては、それは単なるジャーナリズムに陥るであろう。

 そして、これもウェーバーと同じく声を大にして言いたいところであるが、そのような素晴らしい「霊感」、今日言葉であれば「イノベーション」などというものは、研究のみならず仕事や様々な形の労働の中でも、それに没頭し専心していなければつかむことの能わざるものであり、行政府が旗をふって労働時間の長短や職業訓練の有無をいくら弁じ扇動しようとも、生まれてこないものなのである

 家事労働ワークライフバランス長時間労働問題は、まさにこの没頭の可能性にあるのであり、特に家事労働時間を細切れにしてしまうために人をして何かに没頭させることを妨げること大であるワークライフバランスも、結局その目的とすることが明らかでないか低賃金かつやることのない中途半端余暇をもたらすだけである長時間労働改善しても、人々が自ら欲するところのものに取り組めるような労働時間の設定でなければ、それが長かろうが短かろうが、人々の不満は変わらない。いくら労働時間が短いとしても過労死は起こりうるし、長く労働していても過労死しない場合があるのは、この理由によるのである

 とにかく、家庭生活の求めるもの根本的に否定しなければ、研究生活は成り立たないのである

* * *

 では、解決方法は何か。家庭生活問題点は、それが夫婦という二者で成立するように想定されていることである。それゆえ、収入と定住を男性が支え、家事労働女性が支えるという構図が出来上がった。

 しかしこの想定は噴飯ものであり、シングルマザーは全て一人でやらざるを得ず、あるいは逆に親族から支援収入不安が軽減されたり、実家を譲り受ければ定住も可能というように、家庭生活の諸条件の実現は夫婦という関係性の外部で決まっていることが多い。

 もし家庭生活に関与してから研究生活継続するためには、家庭生活を成立するためのリソースを外部から調達することが最も望ましい。(逆にいえば、外部からリソース調達できなければ、ついにここで研究生活のお墓を立てるしかない。自分研究というアイデンティティよ、さようなら、と。)

 ただ、ここには二つの問題がある。一つは、リソース調達である大川周明のように徳川家から調達したり、大杉栄のように政治家からぶんどってくることができれば最高だし、あるいは明治時代のように女中を置いたりできれば最高だが、なかなかそういうわけにはいかない。もう一つは、その調達個人能力に帰せられることで、研究能力とは別にそれに取り組む環境規定されてしまうということである

 この二つの問題解決するためには、若い研究者同士で研究生活を支えるための生活ネットワークを構築するしかない。あるところには金がある人もいるだろう、あるところには手が余っている人もいるに違いない。

 どうせ研究生活に勤しんでいる人以外に若い研究者に対して同情を寄せてくれる人はいないのである

 アカデメイアリュケイオンがどうだったかはわからないが、古今東西大学に併設されている寮や大学街(カレッジ)では生活上でも学術上でも研究者のコミュニティ形成されていたはずだ。修道院のようなものである

 いま、若い研究者は官僚主義的な大学制度によって互いに分断され、地方に散住し、有能なもの国外へ出て行ってしまっている。もう最後タイミングである

 いま我々若い研究者が団結して助け合わなければ、この国の研究はすぐになくなる。もし研究のなくなり方が緩やかであれば、日本語で達成された学術的成果を、多少なりとも国際的に、人類のために遺す時間猶予が生まれるかもしれない。あるいは、国外から救いの手が差し伸べられるやもしれぬ。「タコツボ」を脱しなければならない。近くで助け合って生活し、なんなら雑誌なども出して(いまであればブログでいいのかもしれないが)、特に文系では消え掛かっている研究の灯火を、なんとか引き継いでいかねばならぬ。ならぬと思う。

いや、それとももう、研究生活を諦めるべきなのか。

2018-08-07

執着こそが不幸の元

不幸自慢です。なんとでもどうぞ。

結婚当初は、結婚増田みたいに、うれしい!たのしい!だいすき!の状態だった。

でも本当に一瞬で終わった。

そんなものは遅かれ早かれ消えるものから惜しむに当たらない。

消えずに何十年も続いたとしてもそんなのはたいした楽しみではない。

結婚してすぐ義父が病気で死んだ。あまりの悲しみに義母おかしくなった。大事大事な一人息子である彼は私のいる新居に帰らなくなった。ずーっと義母のいる義実家にいた。

義母の夫への執着のために起きたこと。

必ず老いて死んでいく存在に執着して

「年を取らないで」「死なないで」という望みを持っていて

必然的に望みが裏切られて混乱してる。


時間が経って、彼は平日ちょくちょく新居に帰るようになり、1年経ってようやく平日は帰るようになったけど、休みの日はほとんど義母と過ごしていた。たまには2人で過ごしたい、と懇願したが、彼には私が見えていないようだった。義母に悪いから、と2人で出掛けるのは渋る。仕方がないので3人で過ごした。

2年経ってもこの関係は終わらなかった。異常だと感じたので、仕事理由にして新幹線で2時間距離場所に逃げた。「仕事で別居」というと、みんな「理解ある旦那さんですね」と言う。うん、私が見えてないだけなんですけどね、と聞くたびに思った。私は月1で帰ることにしていたが、彼は出張のついででしか私の元には来なかった。

息子も父と母に執着している。

両親も老いていき変わっていくことを理解しない。

3年経って、ようやく、彼は電話で「寂しい」と言った。この間のことだ。もう許そう、いや離婚しよう、と揺れた3年だった。

誰かが側にいることは本当に幸せなことだ。義母も、パートナーを失くして悲しみの底だっただろう。息子である彼も同じ。だからこそ彼らは支え合っていた。私はなぜか彼の不在に耐えられなかった。いるのにいない、死んでいないのに、生きているのに、2人で過ごせないだけで駄々をこねた阿呆である

阿呆なのはその通り。

執着と無分別による混乱と悲憤のありさまを夫と義母がさんざん見せてくれているのに

「私ももっと夫に執着したかったのに」と言っている。

3年の間、彼は彼自身を守るためか、性格がキツくなった。なんでわかってくれないんだ、という想いだっただろう。私の寂しいは人の死と比するほどの理由じゃない。生きているのに、目の前にいるのに寂しいとのたまったのだから、私の方が病気だったのではないかと思う。

「のたまう」を辞書で引こう

まりにも辛くて、これは彼のことが幼稚に好きだから独占したいから起きるのだ、そうかこの気持ちを手放そう、と決意した。

素晴らしい!

正しい!

けれども実際には手放せていなくてふてくされているだけなので素晴らしくない。

今でも不満たらたら未練たらたらだから楽しい気分になれてない。

その瞬間から、もう恋はしていない。家族としての愛情はあるが、うれしいたのしいだいすき、は消えた。義父母みたいに、いつまでも恋人同士のような夫婦でいたかったが、自ら手放したので仕方がない。彼の「寂しい」は、手放したあとだったので、何にも嬉しくなかった。

義父と義母無分別がどういう惨事を招いたか目の当たりにしながら

「義父母みたいに、いつまでも恋人同士のような夫婦でいたかったが」と言ってのけるあたりに

根本的な無知無分別がある。

執着を手放している人間にこのような無分別はない。

夫婦多幸感はこうして消える。

本当に心から無常ということを理解して

何も執着するに値しないし何も当てにならないことに気付けたら

その時の幸せ恋人がいちゃいちゃしているような子供だましのものの比ではない。


まとめ

無常理解して瞑想に打ち込もう。

https://anond.hatelabo.jp/20180806192035

2018-07-19

久々に我孫子駅弥生軒唐揚げそば食いてえなあ

ついったらーのカラソバくんの人も亡くなってしまって、時の無常な流れを痛切に感じる。

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