はてなキーワード: 遠足とは
当時私は小学校6年生で、英語、ピアノ、水泳、珠算と週5で習い事に通わされていた。
その多忙を極める日々の中でも学校で友人が出来、皆で動物園に行こうという事になった。
県外に5人で外出するというのは初めての経験だった。
親から門限は厳しく設定されており、5時を過ぎると鍵をかけて入れなくなってしまう。
自分用の鍵は渡されておらず門限を破れば夕飯も自動的に抜きとなっていた。
で、動物園へ行く日。口が酸っぱくなる程門限を破るなと言われたが
同行した友人達は我が家の家庭事情を知っていたので「そんなの気にするな」と口々に言った。
正直言って、頭の良い集団では無かった。授業中もお絵描きをし手紙を回し続ける。私は休み時間、図書室で借りて来た本を読んで読書に耽るタイプだったが何故かその時は「仲間」として誘われる運びとなった。
ドキドキしながら駅に着き、電車に乗る。渡されたお小遣いで食べる物を買い、色々な動物を見た。夕刻が過ぎ、その内に戻るべき駅から段々離れている事に気付いた。そして閉園の時間が迫っていた。
学校の遠足ではタイムスケジュールが定められていたが、計画性もない小学生だった我々はただただ進みたいように歩き回ってしまった。
閉園の時間。園内放送が流れ、私達はとにかく園の外に出なければと駅とは真反対のゲートへ向かう。
子供の頭と足では、駅までどうやっても遠かった。
そうして園の外に出てから駅へ向かう事を決めた。園をぐるっと取り囲む柵に沿うようにひたすら歩いた。
グループの中で最も貧乏で頭の悪い子供が私達を励ます。「何とかなるって!」
駅に着いた時点で6時なら、そこから自宅まで1時間かかる事になり、最終的に7時前後。塾の時間であればもっと遅くなる事もあったがこれは単なる遊び。
こっぴどく怒られる事は想像に難くなかったが矢張り、その通りになった。
「勘当だ」と締め出され叱られる。恐らく他の子供達は温かい食事に有り付けただろうに、自分だけが空腹のまま。父が怒れば必ず母が従う形になった。
そして遂には「お前には愛想も尽きた」と吐きつけるように言われた。
元々、父が家に帰ってくる事すら稀だった。やれ海外出張だ、やれ残業だと顔を合わせる機会は無く会ったとしても二、三小言を言われるのみ。その日の楽しかった気分は既に疲労で滅茶苦茶になっていたがそれに加えてこの言葉で身体から力が抜けていく思いだった。親の言う通りにしなければ、敷かれたレールの上を少しでも外れれば否定され貶される。助けてやろうという気持ちや心配に思う気持ちは微塵も無い。
自分には皆との楽しい思い出がある、なんて全く思えなかった。どこまで行っても何をしても叱られる。
親としての愛情など受けたつもりは無かった。自らの塾通いのお陰か、親より高い偏差値の高校に入学したが今でもあの時の事を思い出す。そしてたまにその激重感情が自分を苦しめる。私は頑張ってたじゃないか。何故何一つ褒めてくれなかったのか、と。
わかる。遠足の前とか寝れない
あたい今まで生きてきて性被害とか受けたことなくて運がいいなーってぬくぬく思ってたんだけど、
小学生のころ通ってたスイミングスクールで遠足に行った時、バス移動の時に私の隣の通路席に座った男のコーチが「このズボン可愛いねぇ」って言って右太ももにプリントされたイラストをめちゃくちゃ撫でてたんだけど、もしかしたらコレって案件だったんですかね???
Twitterで流れてきた性被害アンケートを野次馬根性的な感じでのぞいてみたら、「衣類の上から体を触られた」みたいな欄があって、突然思い出したんだけど……
あと同級生(男)になんの脈絡もなく彼のブツの自撮りを見せつけられたり、
電車で座ってたら、目の前に立つおじさんが突然社会の窓からブツを解放していたのとか……
アンケートの選択肢を見てたら色々な記憶が蘇ってきて、一周まわってちょっと感動したわ……性被害になるのかちょっと分からないですけど……
たわわは胸糞コンテンツなんだよな
未成年が公衆の面前で視姦されて恥ずかしがるのを愛でるコンテンツだぞ
みんなにいじめられてて体育履きを隠されても、辛さに耐えて一人だけ裸足で笑顔で体育して、隠した側にニヤニヤされてるとか
そういう気の毒な健気さを、不憫萌え〜って言ってるようなもんなのよ
俺は正直たわわ読むと女の子がかわいそうだなって悲しい気持ちになるけど
まあ好きな人がいるのはそうなんだろう
元気が出る人もいるのでしょう
でもあんまり大手を振って出てきたら流石に非難されることもあるだろこのコンテンツ
そもそもこの趣旨を未成年でしかもヤンマガでやるってのがちょっと意欲的すぎるでしょ
もしかして自分達のやってること、ちょっとエッチな青春コメディだと勘違いしてないか?
違う違う
利確するまでが遠足です
在露邦人だ。
2~3日前までは若い世代はほぼネットで情報を得ているから戦争反対派だと思ったがそうでもないようだ。
1)
ロシアで一番使用されているSNSでvkontakte「フコンタクテ」というものがあるが
それを利用していると基本的に戦争支持派の情報がメインであり、"非愛国者"は否定的なことばかり言われている。
2)
ロシアの教育システム的にほぼ18歳以下の生徒は小中高一貫の学校で教育を受けており
今の所50~60人以上の教え子は「ウクライナを信じるな」という言葉を口にしている。
そして子供達は「文句を言われない」→「正しい考え」という思考回路なため
小さい子供は支持派になっていることが多い。
(単に自分の国に対する否定的な考えを持つことが心理的に難しいからだと思う)
25~35の比較的若い年代のインテリは最近酒に依存し始めているように見える。
「ロシア人はウォッカを飲む」はロシア人とロシア語で会話できないやつ(日本人含む)の常套句だ。
反対派は文系学歴者が多いようだ。理系学歴者とは接点がないため彼らの考えが分からないが
最後に。
「ロシア(人)とウクライナ(人)は兄弟だ」とロシア人はよく言っており
(20歳以上の)友人を含むロシア人30人程度に「ウクライナ(人)に対して謝罪(ごめんなさい)を言えるか?」と
質問したところ、「謝罪をする必要を感じない」、「感謝されるんじゃない?」等の答えをもらった。
ロシア精神世界の「謝罪」とは、①自分の行動で誰かに被害が生じた上で、②自分に非があると認めないと
行われないと(現段階では)考えている。
例えば、遠足でクラスの誰かが公園の器具を壊しても、「教師や他の生徒は非を感じることはない」ということである。
在日ロシア人はYoutubeとかでウクライナ人に対して「ごめんなさい」とか言っている人はいないだろう。
「つらい」、「悲しいこと」とは口にするがそれは自分の気持を表現しているだけであり、
他者を思いやった上で同族の非に対する謝罪がでることはないだろう。
ともかくジャニーズが全ての担任だったので、音楽の授業で歌う曲は「夜空ノムコウ」
体育で踊る曲は「waになって踊ろう」、遠足のバスの中ではKinKi Kidsのアルバムがエンドレス。
男子を注意するときは「そんなんじゃジャニーズに入れないよ!」というのが決まり文句だった。
極め付けは漢字のテストで、テスト内容がSMAPのメンバーの名前(20×5=100点)。
「SMAPのメンバーはこの国で一番の重要人物だから名前を書けないと大人になったとき恥をかきます。」とのことだった。
ちなみに私はSMAPのメンバーの名前を書けるようになる必要性が全く理解できず、一切勉強をしないでテストを受けて0点を取った。
同和地区に生まれ育ち、多分『それなり以上の同和教育を受けた最後の世代』だと思っている私。
私は昭和の終わりかけに、関西の大都市に生まれた。自営業の父と専業主婦の母のあいだに生まれ、1歳児の頃から公立保育所に通った。
現在は幼児をもつ親でもあり、『保活』『保育園落ちた』などのワードをネットで見るにつけ、自分の育った地域や時代か現代のどちらがおかしいのかわからなくなるのだ。
まず、私の母は専業主婦だ。母方の祖父と同居だったが、その祖父が要介護だったとか、母自身が病気だとか何もなかった。1ミリも『家庭での保育に欠け』てなどいない私が、普通に公立保育所に通った。
母は私を幼稚園に入れたいと思ったそうだ。しかし、親族を含む周りの多くの人たちが、いつ保育所に預けるのか、保育所の申し込みをまだしてないのかとものすごくうるさかったらしい。『保育所が当たり前だった。同じ小学校に行く子は町内のどこかの保育所出身で、幼稚園に行く子なんていない』と言われたらしい。
母は心配しながらも私を保育所に入所させた。まず、町内に公立保育所がいくつもあった。1学年1クラス、私が通った保育所はその中でも人数が少ないところだったので、年長クラスで一緒に卒園したのは12人だった。最近の『保育所が足りない』どころか、どう考ても当時の子供の数を考えれば保育所が多すぎるくらいだった。
運動会や宿泊保育、遠足、卒園式などは合同で行われた。保育士さんはどうだったか忘れたが、市の公務員である給食調理員さんたちは、その町内の保育所のどれかにしか転勤しない。(当時給食調理員だった知人が近所にいたため、知っている)
今、雨の日でもお昼寝布団セットを自転車で運んでいる保育園パパママさんを見かけるが、私が通った保育所ではお昼寝布団の他、給食で使うスプーンや箸など、肌に触れるものや口に入るものも持参する必要はなかった。かばんに入れて持って行ったものは連絡帳以外思い出せない。
私は二人の子供を私立幼稚園に通わせた。ひとりは卒園し、ひとりは在園中。まあ、これでもかというほど指定用品を買わされ、毎日スライド式のカトラリーセットを始めあれこれ通園鞄いっぱいに持って行く。最初は自分の子供時代とのあまりの違いに驚いたが、『あ、こっちのほうが普通なんだ』と最近では思うようになった。
保育所時代はほぼ同和教育はなかったが、小学校に入ると一変した。
まず、入学時に必要なもののほぼ全てが無料支給だった。ランドセルまでタダだった。母と一緒に入学用品を近所の『会館』に取りに行ったことを覚えている。鉛筆や消しゴムまであった。筆箱は自分のものを使えたかな。それが最初の一回だけではなく、『とくしゅうひ』というものがあって、冊子が配られて必要な学用品に丸をつけて提出すると支給された。これはいつの間にかなくなった。高学年になる頃にはもうなかったかと思う。
私の実家は貧乏ではなかった。後に書くが、学用品を無料支給してもらわないと就学できないほど生活に困窮している同級生などいなかった。
ランドセルはデザインも何もかも皆同じ。ほとんどの学用品が全員同じだった。出どころが一緒だからそうなるんだろうけど、他の学校のことを知らないのでそれが普通だと思っていた。給食で使うお箸、食後に使う歯ブラシまで皆同じ。歯ブラシの色選びでじゃんけんをしたことも覚えている。
それから『子供会』というものがあった。放課後に行くところで、別に親が働いているからとか何もなく、ほとんどの同級生が在籍していた。行くか行かないかは自由だったが、小学校の下校時に集団になって歩いて行ったことを覚えている。おやつが出たり、遊んだり、土曜日は昼食も出た。学童保育のような感じだったが、違いは『(ほぼ)全額無料』で『まあまあゴリゴリの同和教育機関でもあった』こと。そこで働く人たちのことは、先生やさん付けではなく、『指導員』と呼んでいた。(例 田中指導員)
主に教えられたのは狭山事件のことで、歌まであった。私はその歌をなぜか今でも覚えている。小学校1年生のときから教えられる。それから、何の日だったかは忘れてしまったが、5月23日と10月31日が近づくと、狭山事件のことをいつもより色々聞かされた。
大人は集会もやっていた。たまに祖父について行ったことがあったが、集会の最後はシュプレヒコールがお決まりだった。後になって祖父はその集会になぜ参加していたのか母に聞くと、『お父ちゃん、その年確か町内会の役しとったからちゃうかな』そんな理由だった。
小学校の名札のところに『差別裁判をゆるさない』とかワッペンをつけて登校する期間があったりもした。『ワッペン登校』と呼ばれていたが、今考えるとすごい。小学生の制服に、別にその子の意思でもなくそういうワッペンをつけさせていたのだ。
学校の道徳の授業は、同和問題を始め、とにかく何かと差別を絡めた内容だった。在日コリアンの問題とか。私の子供が入学して教科書に名前を書いていたとき、道徳の教科書を何気なく見ると、『金の斧 銀の斧』の話が載っていたりして、自分のときとの違いにまた地味に驚いた。
小学校1年生に狭山事件のことを話してこれは差別だ!とか言われても正直よくわからなかったし、狭山がどこかもあまりよく知らなかった。『かなり昔、遠い関東で無実の人が逮捕されて、裁判が何か差別らしくて………』といった感じで記憶している。
他にも後で特殊だと気づいたことがある。天皇制の否定、国歌を教えない、卒業式の定番『仰げば尊し』はなぜそこがダメなのか忘れたが『我が師の恩』のところに文句がついていたっけ。
ある日の子供会の集会のとき、『天皇制はおかしい』という話を聞いたのをおぼろげながら覚えている。『天皇誕生日が祝日なのはおかしい』と力説されたが、子供心に『学校が休みになるんだし祝日にまで差別とか言うのか』と思った。
洗脳レベルの教育だったが、低学年頃にはなくなっていった(後述)こともあり、『差別に負けない大人になってほしい!!』だとか『(何にか忘れたが)誇りをもってほしい!!』と言われても全くピンとこなかった。
ワッペンをつけたり、子供向けの集会があったりというゴリゴリの同和教育は私が高学年になるより前くらいから一気になくなった。そのため、冒頭に『最後の世代』だと書いたのだ。
理由は、狭山事件の容疑者とされた人が仮出獄となったからだと思う。学用品がタダとかそういうのも、その頃からだんだんなくなっていった。
一世代上、私の母世代は、狭山事件が起こった頃に小学生くらいなので、大人になり、子育てをする頃までずっと続いたということになる。
母は私立高校を卒業しているが、『タダだった』らしい。無料だから私立高校を選んだわけではなく、公立高校に行く学力がなかったかららしい。高校の無償化なんてつい最近一部の地域で始まったことだが、これも『同和特権』のひとつだろうか。それよりも驚いたのが、自動車教習所の授業料も『タダだった』と言うのだ。私も運転免許をもっているが、確か教習所に入るときは30万円くらい払ったと思う。それもタダ?
それから、これは自分の家族にはいないが、市の公務員になれるルートみたいなものもあったそうだ。失礼な話だが、『この人、どうやって公務員になったんだろう?』と思うような人が、市の職員だったりした。
母も私と同じで、そういう環境で周りもそれが普通だったし、他のところのことを知らないので、疑問をもったことがなかったらしい。大人になってから、『あれは普通じゃなかったんだ』と思ったという。
江戸時代の身分制度の名残で同和問題や差別があるわけではないと、成長するにつれわかった。私が背負ったランドセルも、入学試験で特待生だったわけでもない母がタダで通った高校も、税金から…と考えたら、嫌われるようなこともしてるよなあ、知らなかったとはいえ…といつからか思うようになっていった。
その後、高校、大学と進むうち、部落差別っぽいものは時々あった。というより、特に悪気のない、同和地区に対するイメージを誰かが話しているのを聞くことがあったというくらい。
まず、『あのへんは治安が悪くて行くもんじゃない。どんなやつがいて何をされるかわからない。最寄駅で降りないほうがいい』と言っていたバイト先のおじさんとか。
確かにイメージとして、ガラ悪いとか治安が悪いとか思われがちだが、これが意外とそうでもない。麻痺してるのか慣れきってるのかとも思ったが、夜になると人通りはほぼなく、ガラの悪い人や治安を乱しそうな人もいない。夜の町は、『ここ?本当に関西の大都市?』と思うほど人通りもほぼなく静か。逆にそれが不思議だとか怖いだとかで動画サイトに載っていたりするが。
確かに治安がよくて人が住みたいイメージではないよなと長年思っていたが、最近では転入者も増えて、昔はボロボロの団地ばかりだったところに一戸建ての家が建ち並ぶようになった。相変わらず市営住宅が多く、整備されているものの見た目がほぼ同じ。スマホのマップが普及するより前は、宅配ピザの配達員さんが迷って電話をかけてくることもあるくらいだった。
そういう街はここだけではない。似たようなところをたまたま電車などから見ると、『あ、ここ…同和地区かも』とわかるようになった。
人生で、『あ、これが部落差別?』と思ったのは一度だけある。結婚のときだった。目の前でやりとりしたわけではなかったが、夫の両親は同和地区の嫁が来るのは嫌だと言っていた。私に直接言ったことはなかったが、義母から夫へのメールを見たら結構すごかった。
結局結婚したのだが、10年経っても『ほら、同和地区の人となんか結婚するから』みたいになったことはない。結婚を反対されたことを知った両親も、『まあ、そりゃ、どうぞどうぞ大歓迎ですってことはないよな』というような反応だった。従姉妹たちも同和地区出身でない人と結婚している。親である伯父と伯母は、娘の結婚相手の両親に出自を話したらしいが、それを理由に反対や差別はされなかったという。
私が昔受けた同和教育の題材にもよく結婚差別が出てきたり、同和の子は貧乏でいじめられて排除されて…みたいな内容が多かったが、思い出してみれば小学校の同級生には食べるのにも困るような生活をしている子は誰一人いなかった。それでも色々支給されたり…あれは何だったんだろう?と思う。
これもまた同和地区特有の話だと知ったのだが、とにかく近所の人達の情報を何でも知っている。私達世代はそうでもないが。今時隣の家の人のこともあまり知らないのが普通みたいな世の中だが、母より上くらいになると、『全くの他人のことを何でそこまで知ってるの?』と驚くほどだ。
私は聞いているだけのことが多いが、たまたま何となく会話にAさんという人が出てきたとする。たとえば私が『Aちゃんのお母さんが入院したんやって、Aちゃん大変そうで心配やなぁ』とか言ったとする。
すると母と伯母が、
『A?ああ、あの子な!うちの一学年下の子で旧姓増田やろ?増田のおっちゃんとこは立ち退きなる前は◯◯に住んでて、今団地入ってるやろ?おばちゃんは滋賀から来た人やったわ。Aは高校出て化粧品屋に勤めとって、学会の男の人連れてきて結婚して西宮のほう行ったけど、結局別れて娘二人連れて帰ってきてたなぁ。増田のおっちゃん怒ってたわ。あの子入院したんや、それは心配やな』
『増田のおっちゃん覚えてるわぁ、Aちゃんて姉ちゃんの一個下やったら、うちの二個先輩やろ?その子の弟がうちと同級生やねんけどな、中学の同級生のCと結婚して、夫婦で市に勤めとったから、お金持ってんで。団地出て関空とかあの辺りに家買うたらしいわ。増田のおばちゃん不倫しとったん覚えてる?近所同士でようやるわぁとかみんな言うとったなぁ』
こんな感じ。一体何の話だったかこちらが忘れそうになるが、私の友人の母親の実家事情を、同学年で仲が良かったわけでもない二人が知り尽くしている。
これは、同和地区出身者同士の結婚が多かったこともあるからかなと個人的に思っている。大人になってからは、では近所に住む誰かの会話に『私』が出てきたとすると、ここまで知られているのかとゾッとして、母に聞いたこともある。
『まあ、このへんやったらそうやろうな。でも、若い子らはそこまででもないと思うけど。うちの娘ていうことはみんな知ってるやろうし、行ってた学校ぐらいは知ってるやろな』
と、当たり前のことのように言われた。
同和地区も、私のように町並みでわかる人でなければあまり他の町と変わらないようになってきた。それに、顔を見たら同和地区出身者とわかるわけでも、戸籍を見たらわかるわけでもない。有名な同和地区が現住所や本籍であった場合はわかるかもしれないが。
解放会館も人権センターとか名前を変えた後、いつの間にかなくなった。『部落差別をなくそう!』『差別落書きを見つけたら云々』という文言が書かれた町内会のポスター掲示板もなくなった。私が少し通ったあの子供会もなくなった。
今でも、『住まないほうがいい町』とかググると私の地元が出てきて、理由に同和地区がどうのこうのと書かれているが、外から人はたくさん来ている。市営団地の入居者は全員知り合いだとか、市会議員や解放同盟のコネで団地に簡単に入れるという話も聞かなくなった。
実際、24年ほど住んだが、事件らしい事件のひとつも見たことがない。通り魔やひったくりに遭った人が近所にいようものなら3分で噂になるはずだが、これも聞いたことすらない。いや、別に『B地区とか犯罪がとかヤクザがどうの、治安悪いとか言われてるけど、全然怖くないですよ、町も綺麗で平和で、他のとことそんな変わりないですよ』とここで主張したいわけはない。
イメージしかない同和地区と、そこに生まれ育った私とでは、全く違うだろうなと思って書いたに過ぎない。
改めて、自分の生まれ育った場所を考えてみたとき、そこがたまたま特殊なところで、確かに差別されたり嫌われたりしても仕方のない面をもっていて、でも何だか『普通の生活の中で出さないほうがいい話題』のひとつであって…
何かそんなことを思って書いてみた駄文だ。
クラスメイトの名前や遠足で行った場所や当時何の習い事に行ってたかすら忘れちまったよ。
記憶力には自信があったし大人はこんなことも覚えてねーのかよってバカにしてたが、自分はそんな大人以下の存在になってたってわけさ。
というか、おじさん(おじいさん?)としては、「リュック」という言葉が堂々と使われているのがあらためて小さな驚きだなぁ、、と言ったら大袈裟かもだけど、、
僕が若い頃には「リュック」なんて言うとダサいと笑われた覚えがある。それじゃあ小学生が遠足の時に使うキャラクター商品みたいだってね。😅
まあ、「リュック」なんて元は多分ドイツ語由来の言葉だろうから、そういうのってどんどん英語風の言い方に置き換わって行ったんだよね。英語風の中でもアメリカ風の言い方にね。「リュック」はよくぞ復活を果たしたよなぁ。まあ、こっちの方が紛らわしくなくて実用的には良いことだと思うよ。
他にも、バイトやカルテやヨットやアイゼンやあれやこれや、ドイツ語由来の言葉が生き残ってることもついでに思い出しちゃった次第です。山とかスキーとか医学とかの関係が多いかな。ペーハーやインシュリンは消えかかってるけど。
遠足は楽しみになればなるほど、当日に家のドアを開けられないね。
メンタルのコンディションは人それぞれなので、誰しもこの状態になりうる。鬱っぽさが一定のラインを越えると風呂に入るのも億劫になる。
メンタルのコンディションの変化が、モチベーションを奪い、フリーズ状態にさせるのだと思う。
最近はむしろ「明日は楽しみだが、まあ別に行っても行かなくてもいいか」くらいに、落ち着かせる方向に心を持っていくようにしている。
伝えられるほどの仲ではないので詰んでいる。
社会が変わって、簡単に伝えられるようになることを望む。子持ちで育児が忙しいとかは誰にでも言えるので、精神の浮き沈みも告白できて、重みを分かち合えるようになるべきだ。
自分は待つ方としては、「今日来れない? 別にいいよー」と言って、そのまま喫茶店で用意しておいた小説を読んで、ゆっくりする休日を過ごすプランに即座に切り替えられるようにしている。相手を責めたり憂鬱になったりはしない。建前だけでなく本当に気にしないし、次回も何事もなかったように普通に誘う。
※駄文注意
妹が焼いてくれたチョコマフィンが、外サクサク中モッチモチで馬鹿みたいに美味しかったので爆食い。
その合計金額なんと千円分。
家族でひっそり食べたよ。
まずは茎わかめ
こんなに美味しい食べ物はあるのかと大興奮。
そういえば幼女時代は、お金が勿体なかったから甘いお菓子しか買ってなかったな。
地味な辛さに歪む家族の顔を見てご満悦。
そして前回ブコメの中にあった、セブンスター(ツインクルでした)も購入。
うずらの卵みたいなチョコエッグを割ったら、中からシャリザクのお菓子が出てきて楽しい♥
あとパチパチキャンディも買いました。口の中でパチパチして楽しい〜(バカの意見)
でも今年は増田に可愛らしいビール腹のおじさんの爪あとを残したり、個人的にパーソナルカラー診断に行ったりと色々楽しかったです。
ボクーッス
遠足は帰るまでが遠足ということではないですが、遠足が終わった後のその地域についての思い出自体が大事といいますか。
まぁ、なかなかそうはならない人も結構いるのが現代的といいますか。
クリスマスを祝うからといって、だからって日本の習慣的にはイースターまでは祝わないんですよね、ハロウィンは楽しむ人が増えましたが。
要は一過性にならないことが大事なんですよ、一回やったから十分でしょみたいなの。
でもまぁだからといってなんでもかんでもやるのはしんどいですからね。だからイースターまでやってたら手も金も足りなくなるのかもしれません。イースターに詳しいわけじゃないし、してほしいわけでもないんですけどね。
後片付けよいか!後片付けヨシ!